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ホセア

主のもとへ立ち返れ(2014.6.15)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: ホセア14章2~10節 ルカ15章22~24節

父親と子どもとの関係は、結構難しい。その関係が崩れてしまったとき、その回復には非常に時間がかかる。ルカによる福音書15章に登場する弟息子とその父 との関係もそうだった。父の財産を生前に受け取り、自分の村から都会へ出た息子は、父を裏切ったという思いを持ちながら生きていただろう。父は自分に対し て憤っていると考えたに違いない。息子は落ちぶれて、間違いに気付いたが、父のもとにすぐに帰ろうとはしなかった。父は自分など受け入れてくれない、と 思っていたからだ。この息子と同じような状況にあったのが、ホセアの預言のことばを聞いたイスラエルである。そして、彼らにとっての父とは、イスラエルの 神であった。

1.もう憤ってはいない(ホセア14章5~9節)
神はイスラエルになんと語るのだろうか。「わたしの怒りは彼らを離れさった」(5節)。神がもう憤ってはいない。裏切り、背いたイスラエルを神はいや す。憤りではなく、喜んで愛し、関わる。神の癒しは、「露のようにわたしはイスラエルに臨」(6節)む。真夏の夜に降りる露によって、雨など一滴も降らな い地にも命を保持されるように、主はイスラエルの命を回復し、その美を回復する。そこは麗しい楽園となる(6~8節)。命が回復されたイスラエルが神に求 める時、神は彼らに答え、彼らを見守る(9節)。イスラエルは確かに裏切ったが、彼らへの神の憤りは終わっている。

2. 生きるために帰る(14章2~4節)
息子が父のところに帰るように、イスラエルは自分の神である主のもとへ帰れ、と預言者は招いている(2節)。もうゆるされているから、他の神のもとでは なく、自分が帰るべき神のもとに帰るのだ。元気になったから帰るのではない。つまずき、倒れているそのままで帰るのだ(2節)。彼らが神のもとに帰ったな ら、神の癒しがそこで現実となる。ゆるされ、よいものが与えられ(3節)、新しい生活、神のあわれみに満ちた生活がそこで始まる(4節)。
放蕩息子は、勇気を出して父の家に帰った。父は憤ってはいなかった。むしろ、走り寄り、最大の祝いの場を準備した(ルカ15章22~24節)。イエスが 十字架に掛かられたゆえに、父である神はもう憤ってはいない。むしろ、最大の祝宴を準備して待っていて待って折られる。父である神のもとに帰る父親にも、 子どもにも、神は新しい生涯、新しい関係を備えておられる。

心を激しく動かす方(2014.5.18)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア11章1~11節  ヨハネ11章35節

ラザロの死に直面した時、イエスはどのように泣かれたのだろうか(ヨハネ11:35)。単に涙が流れたのではなかっただろう。イエスがそうであるように、 聖書が証ししている神は、遠くにいて、冷静に物事を見つめているだけの方ではない。心を激しく動かす情熱的な方である。

1.神が心を激しく動かされる理由(11:1~7)
神が心を激しく動かされる理由がホセア書に書かれている。神は父、イスラエル(エフライム)はその子であった(1)。出エジプトというその誕生から神は 関わりを初め、与えられた地に住み、そこで神の栄光を示す使命を与えられた。愛することで自らのすべてを与え、呼び出すことで世界のすべての民のなかから 選び出された。ところが、エフライムは神を裏切り、他の神々を慕う(2)。それでも神は、彼らに歩くことを教え、癒し、救った(3)。選びと愛のゆえに、 絆は切れない(4)。しかし、エフライムは諸国を王とし、自己破壊の道を歩み続ける。そのかたくなな心のゆえに。この長い歴史があるからこそ、神は、わが 子エフライムに心を激しく動かされる。

2.ほとばしる情熱的なことば(11:8~11)
神はその心を情熱的なことばをもって表される(8)。「見捨てることなどできない、引き渡すことなどできない」。憐れみに胸を焼かれる神はそう叫ぶ。人 はあきらめる。しかし神は、あきらめはしない。人は罰を与える。しかし、神は裏切るエフライムに罰を与えず、それを滅ぼさない(9)。人はどこかに捨て置 くだろう。しかし、神はエフライムを集め、帰るべき地に連れ帰る(10−11)。情熱的なことばは、自らが呼び出し、愛しているエフライムにすべてを神が 献げられている証拠である。
エフライムがそのままでいていいはずがない。自らの感情をあらわにされる神の情熱に押し出される。このことばを語ったホセアも、ラザロの死を見て泣いた イエスも、神の情熱の現れであった。人がその使命を果たすことができるようにと、すべてのすべてをかける情熱の神の現れである。そして、私たちに与えられ た使命は、神と同じ情熱で世界に対する神の愛を表すことではないだろうか。

神を知る者の愛(2014.3.30)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア5章6節~6章6節 1ヨハネ4章20節

旧約聖書に登場する北王国(エフライム)と南王国(ユダ)は本来、一つの王国であった。ところが、分裂し、神から与えられた使命を果たすことができなくなった。

1.兄弟国の間の争い(5:8-15)
分裂から200年後、二国の間で争いが生じた。アッシリアという強国に対抗するか、属国となるか、という路線の違いから生まれたこの争いは、北王国から 南王国への攻撃で始まったが、アッシリアの助けを得た南王国による北王国への侵攻と進んで行った(5:8)。北王国は廃虚と化し、南王国は主からの相続地 を奪い取ろうとした。主は両者に対して激しい審判をもたらす(5:12, 14)。互いに攻撃しあい、主を求めなかったからである(5:13)。主はイスラエルから去ることを決意された(5:14)。

2.深みのない祈り(6:1-5)
このことを聞いた時、人々は祈った(6:1-3)美しい悔い改めの祈りである。しかし、人々にとっての「主のもとに帰ろう」「主を知ろう」はホセアが 語っているのと同じ意味なのだろうか(12:7や2:22)。そうではない。自分たちの都合が悪くなり、「わたしを尋ね求めよ」(5:15)と言われたか ら、いつもの祈りをより丁寧に行ったにすぎない。主は、祈りに深みのないことを見抜き、「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」(6:4) と切り返し、裁きを宣告する(6:5)。

3.神を知る者の愛(6:6)
普段から献げている献げ物をより増やすことなど主は求めておられない。普段より美しい祈りをすることを主は求めておられない。ホセアが語っている意味 で、「主を知り、愛すること」である(6:6)。危機において主が開かれる道をベストと信じ、自分の計画に固執しないこと。さらに、本来一つであるべき 人々との関係を時間をかけて整えること。北王国と南王国の関係改善に取り組むことなしには、すべては不十分である。
神を愛する愛は、隣人を愛する愛という形で必ず現れる(1ヨハネ4:20)。配偶者、親や子、隣近所、同僚、クラスメートとの関わりの中に神への表され る。美しい祈りのことばでもなく、より熱心な教会生活でもない。ひとつであるべき夫婦が、家族が、職場が、学校が、私たちを通してひとつになっていく時、 神への愛が表され、私たちの使命が果たされていく。

神を知る者の歩み(2014.1.12)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書:ホセア4章1~3節 申命記5章7節

新しい年を迎えるにあたり、幸運が来るように、と願う心情を私たちは持っている。

1.蒔いた種を刈り取る(4:3)
しかし、幸運ではなく、問題が襲いかかることがある。その時、「運が悪かった」とか「他の人が悪い」と考えがちである。預言者ホセアの時代、飢饉が訪れ た時、人々は同じように考え、神を責め、他の人を裁いた。しかし、ホセアは、イスラエルの人々の行動(4:1−2)に続いて、「それゆえ」(4:3)と述 べることによって、イスラエルが直面している問題の原因はその民自身にあると指摘した。自分の蒔いた種を刈り取るべき世界に私たちは生きている。そのこと に気づかせようとしている。

2.十戒:賜物としてのガイドライン(4:2)
それでは、問題が襲いかかった時、すべてが自分の責任なのだろうか。ホセアは、「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫・・・流血」が原因だと訴えた。これら は、十戒(申命記5:16−21)で禁じられている歩みである。ただし、十戒は人々に負わせられた戒律ではない。この世界で、うるわしく、調和をもって生 きていくためのガイドラインである。問題を自分から生み出さすことなく、この世界の歩むために、神は十戒をプレゼントとして与えられた。

3.神の土地に住む(4:1)
なぜ、十戒にはそんな力があるのだろうか。十戒を与えてくださった神がこの世界の主人、所有者であるからだ。その神の土地(世界)を借りて生きているの が人間である。所有者が与えてくれたガイドラインに従って生きるなら、当然、その土地でうるわしく、調和をもって生きることができる。「誠実、慈しみ、神 を知ること」が私たちをよい借地人にする。主だけを自分の主人とする歩みが幸福の秘訣である(申命記5:7)。
だからこそ、問題が降りかかってきたとき、ほんとうの主人を主人としているだろうか、と問いかける必要がある。そして、世界の所有者が与えてくれったガ イドラインに則って生きようと歩みを変えることである。その時、問題を生み出してきた「それゆえ」が、幸福を生み出す「それゆえ」に変わる。

祝福の本当の源泉(2013.10.20)

宣教題  : 「祝福の本当の源泉」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書2章4~25節
「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章)に登場するのは、父から離れていって身を持ち崩した息子であった。ホセア書には「放蕩夫人」が登場する。イスラエルが、他の神々という愛人たちを恋い慕ったからである。

1.衣食住の祝福の源泉
紀元前8世紀のイスラエルではバアル崇拝が広がっていた。衣食住の必要は嵐と雨をもたらす肥沃の神バアルが備えると信じていたからである(7)。しかし、祝福を与えてくれるバアルを探し求めても、見つけ出すことはできない(9)。衣食住の祝福の源泉は、バアルではなくイスラエルの神である主だからだ(10)。主が祝福を惜しみなく与えられたからこそ、放蕩夫人は放蕩に身を持ち崩すことができた。しかし、彼女は知らなかった。

2.神を知る祝福の源泉
イスラエルは主を忘れ(15)、愛人バアルを求めた。しかし、彼らは主を知るようになる(22)。主がそのために働かれる。彼らがバアルの所へ行く道をふさぎ(8)、その衣食住を奪い取り(5、11)、世界にその恥をさらさせ(12)、季節の祭りの楽しみを奪い取り(13)、バアルの贈り物だと誤解していた楽園を荒らす(14)。主は彼らが蒔いた種を刈り取らせる。しかし、荒野へと彼らを導き、そこで懇ろに語り、祝福と苦悩の中の希望を与えるのも主である(16-17)。主に信頼する以外に道がない荒野で出エジプトの神を思い起こした彼らは、主の下に立ち返り(18)、主を知るようになる(22)。神を知る祝福の源泉も主である。

3.世界を治める祝福の源泉
イスラエルが祝福の本当の源泉を知る時、天と地は結び合わされ、天から与えられる祝福を、地は豊かに実らせる(23-24)。彼らがその使命を果たし、地を正しく治め、あらゆる被造物がお互いに呼応しあうからである。このようにして、彼らが地上で主のみこころを行い、その結果、被造物が生かされ、戦いが止められるために、彼らと契約を結ばれるのも主である(20-22)。放蕩夫人が主の下に立ち返り、その使命を果たすためのあらゆる必要は主が備えてくださる。祝福の源泉である方を覚えよう。

それでも主は見捨てない(2013.9.29)

宣教題  : 「それでも主は見捨てない」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ホセア書1章1節~2章3節
必ず裏切ると分かっている人と結婚することができるだろうか。紀元前8世紀、繁栄に沸く北王国イスラエルに住むホセアに、主は「淫行の女をめとれ」(1:2)と命じた。妻から生まれる子どもたちを自分の子として受け入れるようにも命じている。それを実際に行ったホセアは、なんと愚かだろうか。どれほどの痛みを経験しただろうか。ホセアの愚かさと痛みは、イスラエルの神でありつづける主の愚かさと痛みである。イスラエルは、古代から幾度となく血が流されてきたイズレエルの地で、また流血を繰り返している(4)。主を捨て、武器や偶像を頼っている(2、5)。契約によって「淫行の民をめとっている」のは他でもない、イスラエルの神である主だ。

1.だから、主は責任を問われる
ホセアは、結婚という契約のゆえに、自分を裏切った妻にその責任を問える。主も、自分を裏切ったイスラエルの責任を問う。だから、一人目の子、イズレエルの名にちなみ、流血の罰をイスラエルに下す(4)。二人目の子、ロ・ルハマの名にちなみ、イスラエルにあわれみをかけることはせず、その罰をゆるさない(6)。三人目の子、ロ・アンミの名にちなみ、イスラエルはもはや主の民ではなくなり、主はイスラエルの神ではなくなる(9)。自分たちを生み出した主との関わりが切れ、イスラエルはすべてを失う。イスラエルの王家はその支配を終える(4)。すべてが止まる。

2.それでも、主は見捨てない
これほどひどいイスラエルなのに、それでも、主は見捨てない。すべてが止まったのは回復のためである。その後、イズレエルが栄光の日となり、イスラエルが主の民となり、その上に憐れみが注がれる(2:2-3)。それは、アブラハムとの契約のゆえ(創世記22:17)ダビデとの契約のゆえである(2サムエル7:16)。
ホセアとよく似た名前のイエスも、「淫行の女」、取税人、罪人、娼婦の所へ行かれた。そして、その出会いを通して、彼らは「アブラハムの子」(ルカ19:9)へと回復された。主は見捨てない。だから、裏切り者にも希望がある。