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申命記

神を知る者の歩み(2014.1.12)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書:ホセア4章1~3節 申命記5章7節

新しい年を迎えるにあたり、幸運が来るように、と願う心情を私たちは持っている。

1.蒔いた種を刈り取る(4:3)
しかし、幸運ではなく、問題が襲いかかることがある。その時、「運が悪かった」とか「他の人が悪い」と考えがちである。預言者ホセアの時代、飢饉が訪れ た時、人々は同じように考え、神を責め、他の人を裁いた。しかし、ホセアは、イスラエルの人々の行動(4:1−2)に続いて、「それゆえ」(4:3)と述 べることによって、イスラエルが直面している問題の原因はその民自身にあると指摘した。自分の蒔いた種を刈り取るべき世界に私たちは生きている。そのこと に気づかせようとしている。

2.十戒:賜物としてのガイドライン(4:2)
それでは、問題が襲いかかった時、すべてが自分の責任なのだろうか。ホセアは、「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫・・・流血」が原因だと訴えた。これら は、十戒(申命記5:16−21)で禁じられている歩みである。ただし、十戒は人々に負わせられた戒律ではない。この世界で、うるわしく、調和をもって生 きていくためのガイドラインである。問題を自分から生み出さすことなく、この世界の歩むために、神は十戒をプレゼントとして与えられた。

3.神の土地に住む(4:1)
なぜ、十戒にはそんな力があるのだろうか。十戒を与えてくださった神がこの世界の主人、所有者であるからだ。その神の土地(世界)を借りて生きているの が人間である。所有者が与えてくれたガイドラインに従って生きるなら、当然、その土地でうるわしく、調和をもって生きることができる。「誠実、慈しみ、神 を知ること」が私たちをよい借地人にする。主だけを自分の主人とする歩みが幸福の秘訣である(申命記5:7)。
だからこそ、問題が降りかかってきたとき、ほんとうの主人を主人としているだろうか、と問いかける必要がある。そして、世界の所有者が与えてくれったガ イドラインに則って生きようと歩みを変えることである。その時、問題を生み出してきた「それゆえ」が、幸福を生み出す「それゆえ」に変わる。

神の御手によって(2012.9.9)

宣教題  : 「神の御手によって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 申命記34章1~8節

モ-セの死は突然やってきました。彼の使命は、イスラエルの民の先頭に立って40年間荒れ野を旅し、約束の地カナンに民を導き入れることでした。ただし、モ-セ自身は、カナンを目の前にして、ピスガの山頂で天に召されたのでした。そこには、絶えることのない「神の御手」がありました(33章27節)。

1.神の御手にある生死  5節
モ-セは、死は神の命によるものであることを理解し(詩編90編3節)、自らの死も神の命によるものであることを受け止めていました。
私たちは、生きているのではなく、神によって生かされているのです。全ての人の生命は、神の御手の中にあるのです。従って、私たち一人ひとりの生死は、神の御手の中にあるのであり、神の御心に従うものなのです。

2.神の御手に導かれる使命  7節
驚くべきことに、モ-セは120歳になっても目がかすまず、活力も衰えていませんでした。そんな彼の死は、老衰などによるものではなく、使命が終わったからでした。
私たちには、それぞれの使命があります。それには、生かされているという使命と果たすべき使命があります。私たちが、その使命に真実かつ忠実であるならば、人々はそれを通して幸いを受けていきますし、その結果神が崇められるのです。一人ひとりの使命が終わったとき、それがその人の死なのです。

3.神の御手による御国への出発  6節
「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とあります。これは、モ-セの死が彼のすべての終わりではなかったことを証ししています。彼は、神の御手によって、地上の生活から御国の生活に移されたのです。
私たちは、死によって地上の生活を終え、肉体は朽ちますが、その霊魂は永遠に生きる者とされているのです。主イエスの十字架による贖いと復活を信じ、罪から救われて永遠の命を与えられた者は、肉体の死は迎えますが、主の再臨の時に復活の体に化せられるのです(フィリピ3章20~21節)。それは、神の御手による御国への葬送です。

神の民の魅力(2012.2.26)

宣教題  : 「神の民の魅力」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖   書  : 申命記 4章5節~8節 マタイ 5章16節

人の前ではなく、神の前を歩むことを私たちは重んじています。しかし、人々に見られ、比較されてはじめて、神の民の魅力は明らかになります。ですから、人々の前でどのように生きるかも神の民はいつも問われています。

1.見られる存在として生きる
イスラエルに律法が与えられたのは、約束の地の「真ん中で」(申命記4:5、新改訳)それを行うためでした。さらに、律法に従うイスラエルを通して「諸国の民・・・知恵と良識が示され」(4:6)ます。このように、イスラエルは諸国民に見られる存在として生きる使命が与えられていました。隠されたともしびではなく、光を輝かすランプです(マタイ5:16)。「見せる」のではありません。人々の行き来の激しい場所で、淡々と律法に従って歩む姿が自然と人々の「目にとまる」のです。そして、目にとまって初めて、人々は「すべての掟を聞く」(申命記4:6)ようになるのです。この順序が逆になってはいないでしょうか。

2.比較される存在として生きる
見られ、そしてイスラエルの生き方を示した掟が聞かれたならば、諸国の民は比較を始めます。その生き方が「知恵と良識」(4:6)に満ちているか、主への祈りに信頼した生活であるかが比べられます。最終的には、イスラエルと他の国々ではなく、イスラエルに掟を与えた主が他の神々と比較されます(4:7~8)。聖書に描かれている神の姿、聖書が求めている人、教会、社会の姿は、どこに出しても恥ずかしくないものです。けれども、この聖書に生きるよう招かれている神の民はどうでしょうか。
魅力ある民とは「大いなる国民」(4:7~8)です。しかし、神の民の偉大さは、御言葉を私たちに与えられた主の偉大さであることを覚え、この方を指し示す民としての歩みへと進ませていただきましょう。