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アモス

主の日を望みつつ(2013.5.12)

宣教題   : 「主の日を望みつつ」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖書  : アモス 9章5~15節
聖書におけるビジョンは、「こうなればいいな」という空想ではない。目の前にある現実とは違うが、やがて来ると確信し、実際に確かに到来するなにかを指している。

1.全世界を支配し、導かれる主(9:5-7)
大地を自由に動かすことが主にはできる(5)。大空は主が据えたものであり、海の水も自由に動かし、雨を降らせることもできる(6)。更にはイスラエルのみならず諸国民の移動も主が導いている(7)。アモスは、イスラエルの神である主がすべての造られたものを支配し、ご計画に則って導かれているというビジョンを持っている。

2.民を整える主(9:7-10)
イスラエルは主に選ばれた民である(8)。しかし、彼らの姿は奴隷であった他国民と変わらないし、出エジプトも諸国の大移動と変わらない(7)。「罪に染まった王国」であるならば、イスラエルだろうとなかろうと主は公平にさばき、ふるいにかけて、仕分ける(9-10)。アモスは、選ばれた者を主は整えるというビジョンを持っている。

3.使命を全うする主の日を備えられる主(9:11-15)
イスラエルが選ばれたのは、主から与えられた使命を果たすためである。そして、ついには使命を全うすることができる者となる「主の日」が到来する。主はダビデの子である王を送り、その支配を国内外に確立させる(11-12)。国を豊かな農産物が溢れるところへと再建する(13-15)。イスラエルに対して自らを「あなたの神」(15)と呼ぶ方がそのようにする。イスラエルが豊かになるだけのためではなく、世界へその祝福を溢れ流れさせるためである。アモスは、選ばれた民が主から与えられた使命を全うできるようにされる日が来るというビジョンを持っている。
昇天されたイエスは、天の王座、ダビデの位に着き、その支配を確立された。預言者のビジョンが実現したペンテコステの日が到来した。アモスのビジョンは今、ここに来ている。だからこそ、このビジョンを確信して、歩もうではないか。

主の言葉を聞く(2013.3.10)

宣教題  : 「主の言葉を聞く」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : アモス書7章7~17節
民の真ん中におられる主は、そこで何をされるのだろうか。

1.主は測られる(7:7-9)
ヤロブアム二世が王である時代(紀元前8世紀)、北王国イスラエルに遣わされた預言者アモスの見た幻の一つに、城壁が正しく組まれているかを確認する「下げ振り」を持っておられる主の姿があった(7-8)。ご自身の民の「真ん中に下げ振りを下ろす」(8)とは、イスラエルで起こっていることを主は見逃さず、彼らの状況を測っていることを示す。そして、主はそれに応じて行動をされる(9)。聖書の証しする神は、私たちから遠く離れていて、何も知らないでいる方ではない。私たちの「真ん中」にいて、そこで起こっていることを見逃されない。

2.主は語られる(7:10-17)
南王国ユダのテコアにいた、預言者という職とはなんら関わりもないアモスを主は呼び、彼を北王国の「真ん中」に送られた(14-15)。そして、アモスを通して語られる。ところが、ヤロブアムが立てた祭司アマツヤは、主が語られているとは思わなかった。むしろ、「アモスがこう言っています」(11)と預言者の戯れ言だと考え、もはやイスラエルの真ん中で語るな、とアモスに預言を禁じた(13)。アマツヤが望んでいた神は、何が起こっても沈黙される神、いつものように平穏無事だ、と語る神である。しかし、「わたしの民」とイスラエルを呼ばれる主は、彼らの「真ん中」で預言者を通して語られる。

時に主は扉を叩き、私たちが扉を開けるのを待たれる。時に主はみことばをもって突然に私たちの真ん中で語られる。私たちを「わたしの民」と覚えて下さる私たちの王であるからだ。あらゆる時に、あらゆる場所で、主のことばからチェレンジを受け、主のことばに励まされ、主のことばと格闘していきたい。主は、みことばを通していつも私たちの「真ん中」におられる。

あなたの神に会う備え(2013.2.17)

宣教題  : 「あなたの神に会う備え」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 4章1~13節
「神に帰る」ことを聖書は「悔い改め」と呼んでいる。それは単に謝罪することではなく、行動を変えることだけでもない。神が世界を見られるようにこの世界を見るようになることも「神に帰る」ことには含まれている。

1.信仰は生活のあらゆる側面に関わっている
紀元前八世紀後半に北王国イスラエルへアモスは預言者として遣わされた。辛辣に預言者が民と社会を批判しているから、人々は信仰をなくしているのではないかと考えるだろう。
しかし、実際は、聖所へと人々は行き、数多くのささげものがささげていた(4-5)。そのような行動が罪を犯している、とアモスは批判している。聖所へささげものをしている王宮の関係者のライフスタイルが問題であったからだ。彼らの贅沢な生活は貧しい人の犠牲の上に成り立っていた(4-1)。礼拝に出席する、献金をする、十分に信仰的だと誤解してはならない。信仰はわたしたちのライフスタイルのすべてに行き渡る。

2.神は災いを通して語りかける
主はイスラエルに対して様々な災厄を下してきた(6-11)。それは、ある一面、罪に対する厳しい罰、下されたのろいだろう。しかし、くり返し、「お前たちはわたしに帰らなかったと主は言われる」とある。災いは、「神に帰る」ために与えられた神の語りかけ、警告のことばである。

3.神は宇宙大のスケールの方である
アモスは4:13で、創造者であり、地の支配者、歴史の統治者である主の姿をあげ、賛美と信仰告白をしている。彼の告白する神は、生活の細かい所をチェックするような方ではない。むしろ、スケールの大きな方、私たちひとりびとりを思いつつも、大胆に世界を導かれる方である。信仰理解、神のわざの理解とともに、神ご自身がどういう方であるかの理解においても「神に帰る」ことが求められている。
神が世界を見られるようにすべてを見るという意味で「神に帰る」とき、私たちの神と会うことにむけて私たちは備えられる(12)。「悔い改め」ことこそ、最大の備えである。

主の愛のわざを覚えて(2013.1.13)

宣教題  : 「主の愛のわざを覚えて」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : アモス書 2章6~16節
言者を通して語られる神はうっとうしいほどに熱い神である。紀元前八世紀、繁栄する北王国イスラエルで預言者として生きたアモスは、獅子の雄叫びのような主の声を多くの国々に向かって語った(1章2節~2章16節)。

1.主は熱い神:愛ゆえの「熱さ」
主はご自身の民の現状を知っている。不正が蔓延し、人と人との関係がひずんでいる状況を見聞きしたそれゆえに主は痛み、その現実を告発する(2章6~8節)。それは主が民とその歴史に深く関わっておられるからだ。出エジプト、荒野の放浪、約束の地の征服のすべてを実現させたのはこの神である(2章9~10節)。そして、アモスら預言者を送り、主の声を聞かせ、ナジル人を送り、主の聖なることを示しておられる(2章11節)。主はこれほど熱い、愛のわざをされたのは、イスラエルの父祖であるアブラハムと契約を結ばれたからだ。しかし、イスラエルは神の声を聞こうとはせず、主の聖なることを見ようとはしない(2章12節)。熱い神の愛のわざを拒否している。だから、主は預言者を通してほえたける。アモリ人に対してそうであったように大勇士としてイスラエルに攻撃を加えると言われる(2章13~16節)。その愛ゆえに思い切った行動を取られる。

2.主の熱さは悔い改めと使命のため
さばきの預言は、罪に対する神の憎しみの現れではない。民を切り捨てる神のあきらめのよさでもない。ヨナのことばがニネベの民を立ち返らせたように(ヨナ3章)、イスラエルが熱い神の雄叫びを聞き、自分の姿に気がつき、悔い改めることを願う主の愛の現れである。愛ゆえの熱いさばきである。さらに、民が主の名を聖なるものとする(アモス2章7節)という、アブラハムに与えられた使命をイスラエルが諸国民の間で果たすことができるように導くためにもこの預言は語られている。
預言のことばそのものが、熱い神の愛のわざである。それは甘ったるくなく、厳しい。しかし、教会がその使命を果たすものとなるようにと整えることばである。