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ヨナ

神のあわれみを知る(2016.6.19)

宣教題  「神のあわれみを知る」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ4章1~11節、マタイ20章15節

自分以外のだれかを、それも自分に敵対するようなだれかにあわれみを示される神をあなたはどう思うか。

1. ヨナの怒り(1~4節)
神がニネベを滅ぼすことを思い直したのを知って、ヨナは不愉快に思い、怒った。当初、ニネベに行こうとはせずタルシシュへ逃げたのは、ニネベに行って語ったならばきっと神は思い直すと知っていたからだ。さらに、神が思い直したら、偽りを預言した者として、自分が恥を被ることも知っていた。思ったとおりになったので、ヨナは死ぬ方がましだ、とつぶやいた。

2. 惜しむヨナ(5~9節)
不機嫌なヨナは、熱さの中、ニネベがどうなるのか、見届けようとしていた。小屋を建て、日差しを避けた。主はとうごまの木を準備し、それはすぐに成長して、陰をつくり、ヨナを暑さから守った。不機嫌だったヨナが喜んだのもつかの間、翌日、神は虫を備えて、この木を枯れさせた。頭上から照りつける太陽と焼けつく東風のために、ヨナは苦しみ、再度、不機嫌になり、「死ぬ方がましです」(8節)と言いきり、「怒りのあまり死にたい」(9節)とさえ語るようになった。とうごまの木を惜しんだヨナは、それが奪われた時、不機嫌になり、怒った。

3. 惜しむ神(10~11節)
とうごまの木の件で怒っているヨナに主は、「お前はとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)と語った。自分が育てたわけでもないし、成長するのに時間がかかるわけでもないものが奪われて、怒っている、と諭した。そして、ヨナに主のニネベに対する思いを想像するように求めた(11節)。大いなる都、十二万以上の人、無数の家畜がいるこの地が滅びたとしたら、この町を育ててきた主はどれほど不機嫌になるだろうか。神はニネベを惜しんでいる。だから、すぐに怒らず、わざわいをくださず、むしろそれを思い直した。
私たちは、自分に敵対する者に対して神が気前よく振る舞う時、それをねたむ(マタイ20章15節)。自分の都合のいいように神を用いたいからである。しかし、神があわれんだのは、ニネベだけではない。理解しようとしないヨナさえもあわれみ、とうごまの木を備えられた。私たちの敵をあわれむ方だからこそ、私たちをあわれんでくださるのだ。

思い直される神(2016.5.22)

宣教題  「思い直される神」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ書3章1~10節 ルカ18章14節b

キリスト教の確かさは、その神の確かさに依存する。
1. 変わらない神と思い直すヨナ
主はヨナをニネベに送ろうとした。ところが、ヨナはそれを拒絶し、逆方向のタルシシュへと逃げようとした。しかし、主はヨナを捕らえた上で、魚を用いて海へほうり込まれたヨナを救い出した。そして、ヨナを再度、陸地へと送られた(1〜2章)。主は、前回同様、ヨナをニネベに送る。思い直したヨナは、今回は主の命令どおりニネベへ行き、語るべきことばを一日だけ語った(4節)。神はご自身の計画を変えない一方で、ヨナは思い直してニネベで務めを果たした。

2. 思い直すニネベと思い直す神
ヨナのことばは大きな影響をニネベに与えた。あらゆる階層の人々が、警告を与えた神のことばを信じ、来たるべき災厄を覚えて悲しんだ。その知らせは王にまで届き、王も悲しんだ(6節)。そして、家畜を含めたすべての民に、断食して悲しみ、神へと祈願の声をあげ、あらゆる悪と暴力から離れるように訴えた(8節)。ニネベは悪から離れ、立ち返った。滅ぼすことを決めた神であっても、万が一つの可能性でも、自らの決定を思い直すかもしれない、とニネベの民は信じ、自らの過ちを認め、へりくだった(9節)。すると、神は立ち返った彼らの姿を見て、思い直し(悔い改め)、災いを下すのをやめた(10節)。

3. 変わらない神
神は一度決めたことでもそれを変えられる。そんな神は確かな方だろうか。気まぐれな方では、と疑う。そうではない。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18章14節)という原則に従って、神は思い直す。神が善い方であるという可能性に賭けている人々がご自身に立ち返るのを見、ご自身に叫ぶ声を聞いて、必要ならば思い直される。たとえそれが長く神に敵対していた人であってもである。人に最善をもたらすために、神は思い直す。「へりくだる者」に対して神は思い直す。善い方であるという点において、神は変わらない方、確かな方である。

主を賛美するのはだれか(2016.2.28)

宣教題  「主を賛美するのはだれか」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ2章1~11節 ローマ15章9節a

1.ヨナの祈りと賛美
ヤッファへ、船へ、船底へ下って入ったヨナは、ついに海へと下っていった。そのまま海の藻くずとなるのかと思った時、主は魚を備えてヨナを救われた(1節)。ヨナはこれこそ自分の叫びへの主の答えであると思った(3節)。なぜなら、海の中、地の底まで下ったために、神に追放されたと思ったヨナは(4~7節a)、主を覚えて祈ったところ、主はその祈りに対して、聖なる神殿で聞き、答えられたからだ(7b~8節)。それゆえ、ヨナは感謝の声をあげ、いけにえをささげ、誓いを果たすと語る(9~10節)。主に頼る素晴らしい祈り、救いの主にふさわしい賛美である。

2. ヨナにふさわしくない賛美
けれども、ヨナの祈りと賛美は実に歯が浮くようなものだ。彼は追放されたのではなく、逃げた者である。聖なる神殿を見たい、と語りつつ、主から逃げようとした。主が聞かれたのは船乗りたちの祈りであり、いけにえをささげ、誓ったのも彼らだった。主への忠誠を捨てたのはヨナであり、主をおそれて賛美をささげたのは、偽りの神々に従っていた者たちだった。ヨナの賛美はどこかちぐはぐな印象を与える。ここまでのヨナの姿がこの賛美と調和していないからである。

3.主のあわれみ
ヨナは、異邦人の船乗りたちが歌うべき賛美を歌っていた。そして、愚かにも、自分の本当の姿のみならず、主をおそれるようになった異邦人たちの姿にも気づかなかった。しかし、船乗りたちのように、主のあわれみに気がついた異邦人たちは主を賛美するようになる(ローマ15章9節a)。主はそのことを願い、ヨナの気づかない所であらゆる民にあわれみを施し続けられた。
異邦人の祈りにさえ答えられる主は、いつくしみ(忠誠)に富んだ方であり、ご自身のあわれみに気がついたものを救出される方である。さらに、ヨナのように心かたくなで、悟らない者にさえ、そのあわれみのゆえにチャンスを与えられる(11節)。心が頑固な者にさえ忍耐強く関わり続けられる神こそが、私たちの唯一の希望である。

本物の礼拝者(2016.1.10)

本物の礼拝者          宣教 鎌野 直人協力牧師
聖 書  ヨナ1章1~16節 フィリピ3章3節

1.主のことばから逃げる
ヨナはヤロブアム二世の時代(紀元前8世紀)、イスラエルの拡張を預言した。そして、そのことばのとおり、北王国は繁栄した(2列王14章25節)。ニネベを都とするアッシリア帝国が弱体化していたからである。主は、そのヨナに、立ち、ニネベへ行き、そこで呼びかけよ、と命じた(2節)。ヨナは立ち上がったが、ニネベとは逆方向のヤッファに下り、さらに西のタルシシュ行きの船に乗り込んだ(3節)。主とそのことばから逃れようとした。

2.主のわざへの二通りの応答
ところが、ヨナが逃げたところにも主はおられた。風を海に放たれ、大嵐が起こった(4節)。異邦人の船乗りたちは、おそれ、自分の神に叫び、積み荷を海に投げ捨てはじめた。ところが、ヨナは船底へと下り、寝ころび、夢の世界へと降っていった(5節)。船長は、立ち、自分の神に叫べ、と命ずるが、ヨナは聞こうとはしない。主のわざであると気がついているのに、平然としていた。一方で、船乗りたちは「神があるいは」(6節、口語訳)と神のあわれみに期待して、叫んでいる。本物の礼拝者はいったい、どちらだろうか。

3.主をおそれる
神の怒りの原因はだれか。人々はくじを引いて、御旨を求めた。くじは見事にヨナに当たる。「海と陸とを創造された天の神、主」(9節)をおそれる、と語る彼にはわかっていた。自分を海に投げ捨てれば、主は怒りをとどめ、海は凪ぐ(12節)。ヨナは冷静に語るが、人々はヨナが犠牲にならずにすむようにと努力する。それも限界。自分たちを滅ぼさないで、と叫びつつ、彼らはヨナを海に投げ捨てる(15節)。その瞬間、主は海を静める。船乗りたちは、あわれみの主をおそれ、礼拝をする(16節)。
主をおそれ、そのことばを守ったのは異邦人たちであった。主のあわれみに期待したのは彼らであった。選民であることに固執したヨナは偽物であることが暴露された。本物の礼拝者は、主のわざに気づき、主のあわれみにすがり、主をおそれる。あなたは、肉を頼みとするヨナか、それとも、キリスト・イエスを誇りとする船乗りたちか(フィリピ3章3節)。