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テトス

新しい歩み(2013.12.22)

宣教題  : 「新しい歩み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトス 3章4〜7節

クリスマスは、私たちが生みだしたのではなく、神の慈しみと人間に対する神の愛の現れとしての神の御業です(4節)。
そして、クリスマスは、聖霊による新しい命の奇跡的な誕生でした(マタイ1章18節、20節、ルカ1章35節)。聖霊による新しい奇跡的な御業は、私たちに新しい歩みを造り出してくださいます(5節)。

1.新しく生まれる
人は、過去の罪の支配から解き放たれ、現在の自分自身が新しくされ、将来において死を超えた新しい命に生きることを求めています。そのような私たちに、「聖霊によって新しく生まれる」救いの道が開かれています(5節、ヨハネ3章3節、5節)。それは、神の慈しみと憐れみと愛を源として、イエス・キリストの十字架と復活に現わされた神の救いの恵みを信じる信仰によって得られるものなのです。ここには、人を滅びの力、悪しき力、死の力のなすがままにさせない神の強い御意志が込められています。
クリスマスは、新しく生まれることを喜びをもって確認し、確信し、信仰による決断を強めていただく時なのです。

2.新たに造りかえられていく 
このように、新しく生まれた者は、聖霊によって「新たに造りかえ」られていくのです(5節)。それは、聖霊によって繰り返し新たに造りかえられていくことです。それは、私たちが主によって死を超えた永遠の命を受け継ぐまで続けられることです(6~7節)。
聖霊は、私たちにそのことを繰り返し呼び覚ましてくださいます。その時に、私たちは、神に祈りつつ、神からの語りかけを聴いて対話をし、神と格闘しつつ、神を信頼する中から、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1章38節)と、神に自らを委ねることを繰り返すのです。
私たちは、繰り返し繰り返し新たに造りかえられていくことによって、日々クリスマスの御業に与っていくのです。

大いなる救い(2013.12.1)

宣教題  : 「大いなる救い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトスへの手紙 2章11~15節
教会では、待降節のことをアドベントと呼んでいます。アドベントには、神の独り子イエスの降誕の出来事を表す場合と、主イエスの再臨を表す場合とがあります。このことを、ここでは「現れ」と表現しています(11節、13節)。
私たちは、主イエスの初臨と再臨の間に生きる者として、日々に信仰の応答をしつつ生きることが求められています。

1.すべての人への神の恵み 11節
神の救いは、「すべての人に」等しく差し出されたのであり、それを受け取ることに一人の例外もありません。それは、人の世に存在する様々な相違をもたらすものとは違って、すべての人に届けられた神の恵みです。
世界で最初のクリスマスの喜びの知らせは、主の天使によって羊飼いたちにもたらされました(ルカ2章8~11節)。そこでは、「民全体に」「今日」「あなたがたのために」と告げられています。このメッセージは、今の私たち一人一人に対しても同様に告げられている神の恵みです。この神の恵みは、自分には必要ない、自分には関係ないと退けるならば、それは神の愛を拒絶することなのです。

2.完全な永遠の救い 12~14節
「救い」という言葉が、二度繰り返されています(11節、13節)。ここでいう救いとは、神と人との歪みや破れが回復される神の救いを語っています。すなわち、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、私たちを罪と汚れから「贖い出し」(14節)、聖別された神のものとしての歩みにしてくださるのです(12節)。そして、私たちが、主イエスが再臨される時にあずかる完全な永遠の救いを首を長くして待ち望みつつ、日々に「良い行いに熱心な民」(14節)にしていただくのです。
私たちの日常は、主イエスの再臨に備える日々であることが大切です。主イエスによって、永遠の滅びから永遠の救いに与っていることを感謝して、良い行いに熱心で、ささげる生き方をさせていただきましょう(マルコ14章6節)。

聖霊による洗い(2007.1.28)

題 : 「聖霊による洗い」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : テトスへの手紙  3章 1節~ 7節
  この世は、無分別、不従順、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎みあっています。しかし、これらのことはわたしたちがクリスチャンとしていただく前に持っていたものに他なりません。
 そのために、これらの結果から生まれる罪のために悩み苦しんでいました。しかし、御子イエス・キリストの十字架と復活という、神の最高最善のご愛があらわされたことによって、信じる者が救われ、この大きな悩み苦しみから解放されるという、すばらしい恵みに与らせていただいたのです。

1.新生の洗い
 神はわたしたちを新しく造りかえるために、イエス・キリストを十字架にかけて下さいました。そのところで惜しげもなく流された血潮によって、わたしたちの罪が洗われたのです。
 また「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリ12:3)とあるように、この十字架の血潮による救いも聖霊の洗いであるということができます。

2.心の内側の洗い
 神は、わたしたちを罪からの救いの洗いをなしてくださったのみならず、洗いの聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださったというのです。なんという喜び、何という祝福でしょう。わたしたちの魂の内側までもきよめてくださるのです。
 父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神を信じる者のうちに実現される聖潔(きよめ)と言う魂の洗いをわたしたちは実体験させていただいているでしょうか。
すでに完成された、神の憐れみによる救いを信じ受け止めましょう。

3.洗いの結果
 聖霊の洗いを受けた者は、永遠の命の保証をいただくことができるのです。なぜなら、自分の行いや、善行によってではなく、ただキリストの十字架と、聖霊の洗いによって義とされたからです。したがって、死に直面する時も恐れを持つことなく、喜びと平安をもって、天国を望むことができるのです。