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黙示録

黙示録とデジタル世代(2021.3.14)

聖書

見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を荒れ地に川を置く。(イザヤ43章19節)

礼拝音源(27.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編51編19節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編29編
会衆祈祷 一  同
聖  書 黙示録11章7~13節
イザヤ43章19節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 579 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「黙示録とデジタル世代」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 463 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.ヨハネの黙示録と掛けてデジタル世代と解きます
言葉には、使う人の地域性、考え方、価値観等が表れます。生まれた時からインターネットが普及していた世代は、デジタルネイティブやZ世代と呼ばれています。便利だけど不景気の中に育った、最新の世代です。私達は世代が異なると文化の違いから、理解できず、戸惑い、批判する事が多くなります。
信仰継承から、現代用語を使ったメッセージをしてきましたが、その用語を使っていると思っていた方から、意味を知らないと言われた事がありました。予想外に世代が短く分かれていることに驚きました。新しい言葉が次々と出て来る様に、新世代も次々と現れ、お互いの理解と伝えることが難しくなっています。
黙示録は難解だと言われ続け、以前は11章9節を見て、世界中の人が同時に見るということを理解されず、あり得ない事だと言われていました。

2.その心は
理解が難しいかもしれませんが、聞けばきっと解かるでしょう。
黙示録は研究が進み、良書も増えているようです。信仰を持って神の言葉に耳を傾けるとき、聖霊によって教えられます。デジタル世代や異なる世代の人は、生きて目の前にいます。聞く耳さえあれば、解らない事は聞く事ができます。そして、解りあえたとき、共に信仰に生きる事ができるのではないでしょうか。
私たちには不可能と思えることを、神は新しい事として実現します(イザヤ43:19)。神の言葉にも、人の言葉にも、耳を傾ける事が大切です。

あなたを待っておられる主(2017.12.10)

宣教題 「あなたを待っておられる主」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネの黙示録3章14~22節

 私たちは、すでに来てくださった救い主イエスの救いを受け入れました。そして、再び来られる王なるイエスを待望しています。今は、私たちを待っておられる主イエスに対して、新たな思いで信仰の応答をさせていただく時です。

1.真実な愛の主であるから 
 ラオディキア教会に語りかけられた主は、いつも変らずに、約束されたことを必ず成し遂げられる真実を貫き通して(14節、2テモテ2章13節)、愛を現し続けておられます(19節)。この真実な愛の主が、クリスマスの主イエスであり、十字架の救いの道を歩んでくださったのです。
 今も語りかけ招かれる主イエスは、私たちが信仰の戸を開けることによって、交わりが待てることを待っておられます(20節)。

2.真実な愛の主に誠実な応答を 
 主イエスの真実な愛を知ったにもかかわらず、ラオディキア教会がそれに応答しない「なまぬるい」状態でした(15~16節)。彼らは、自分たちの本当の姿が「分かっていな」かったのです(17節)。それに対して、真実な悔い改めと、試みによるテスト済みの信仰をもってキリストを着るものとなり、霊の目を開いていただくよう勧めています(18~19節)。
 主イエスは、十字架に架かられた赦しの御手をもって、私たちの信仰の戸をたたき続けておられます。そして、それを拒むことのないように今なお招き続けておられます。私たちの全存在と全生涯の中に真実な愛の主を招き入れ、誠実な信仰の歩みを続ける勝利者とならせていただきましょう(20~22節)。

あなたを待っておられる主(2016.11.27)

宣教題  「あなたを待っておられる主」       宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ2章6~7節 黙示録3章20節

天地に満ちるほどの大いなる神さまが、幼子イエスさまとして、この地上に最も低く降って来てくださいました。このように私たちに人間と同じようになられたという事実は、私たち人間を救うためであり、これがクリスマスの出来事でした。

1.なぜ、救い主を締め出してしまうのか
当時の世界の片隅で起こったイエスさまの誕生は、人類の歴史の中になされたことでした(ルカ2章1~3節)。その経緯の中で見過ごしにできないのが、「飼い葉桶」にお生まれになったという、この上なく貧しく低い場所に誕生されたことです。それに対して、人々は宿泊場所を拒否して、イエスさまを締め出してしまったのです(ルカ2章7節)。
これは、人間の心の状態を探りあてています。汚れた心であったり(マルコ7章20~23節)、イエスさまに対して無関心であったり、イエスさまより自分のことが大切であったりという心が支配していると、イエスさまを締め出してしまうのです。今、あなたの心は、どんな状態でしょうか。

2.なぜ、救い主は待っておられるのか
飼い葉桶にまで降り、十字架の死にまで低く降ってくださったイエスさまは、そんな心の状態にある一人ひとりの心の戸をノックしておられます(黙示録3章20節a)。
イエスさまは、一人ひとりがその招きの声を聞いて、閉じた心の戸を全開して「救い主」としてお迎えすることを待っておられます。そのようにお迎えするならば、イエスさまはその人の人生の「主」となられ、新たな交わりをもって生きるように導いてくださるのです(同3章20節b)。
あなたの心と人生に救い主イエスさまを迎え入れてこそ、はじめて本当のクリスマスを迎えることになるのです。

いよいよ聖なる者と(2009.2.8)

題   : 「いよいよ聖なる者と」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネの黙示録 22章8節~11節
世界の動きが人々の不安をかき立てていますが、私たちはその延長線上に、キリストの再臨があることを知っています。そして聖書は、その時に備えて、目を覚ましているようにと勧めています。
ヨハネの黙示録においては、「聖なる者は、なお聖なる者とならせよ」と励ましに満ちた御言葉を語っています。

1.聖なる者とされている
「聖なる者」とは、「イエス・キリストは主である」と告白する聖徒のことであり(1コリント1章2節)、聖なる神に召され、神のものとされているキリスト者の総称です(同9節)。
「なお聖なる者」とありますが、幾つかの意味合いがあります。まず、聖なる者であることにとどまり続けなさい、ということです。「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15章4節)と言われたイエス・キリストから離れないことです。さらに、聖なる者とされた者は、その時から聖くされることに向かって前進を始めることです。
そして、「汚れた者は、なお汚れるままにしておけ」とあるように、この世はますます罪に傾き、聖なる者はいよいよ聖なる者とされるなら、その隔たりは大きくなっていくことを知ることです。

2.聖なる者であり続ける
「聖なる者とならせよ」とは、聖なる神のものとして、聖なる者とされ続けているようにということです。まず、聖なる者は、この世の汚れから離れることです(1テサロニケ4章3~4節)。そして、イエス・キリストの十字架の血によって、内も外も聖くされ続けていることです(1ヨハネ1章7節~2章1節)。
さらに、聖なる者は、聖なる者として生き続ける生活をすることです。その生活は、自分だけでなく、家庭にも、教会にも、社会にもその影響を与えていきます。その意味で、一人の生き方の力は軽視できません。一人の真実な生き方は必ず周りに影響を与え、周りを変えていくのです。
主の再臨を待望する者として、聖なる者であり続け、生き続ける者とさせていただきましょう。神ご自身が可能としてくださいます(1テサロニケ5章23~24節)。