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新約聖書

新しい自己確立を(2021.8.29)

聖 書

しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。(ヨハネ3章21節)

礼拝音源(37.7MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 2コリント5章17節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編100編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ3章16~21節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「新しい自己確立を」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 303 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

神が「愛された」ことは、御子イエスを十字架の死をもって罪を贖うために「お与えになった」事実に着目するときに分かります(16節)。私たちは、この主イエスを通して自分自身を見せていただき、信仰の真の自己確立をさせていただきたいものです。

1.滅びないで   16節
「滅びる」とは、失われた存在といった意味があります(ルカ15章4節、8節、24節、19章10節)。神は、滅びの道を進んでいた私たちを御自分の手元から失いたくないために、愛の限りを尽くされました。そして、「御子を信じる者」に主イエスにある命に抱かれて生きるようにしてくださったのです。
このことが分かれば、神の愛の懐から離れた生き方はできませんし、罪と誘惑の中に留まりたくなくなるのです。神の愛の現れである御子イエスを受け入れない頑なさはないでしょうか。その恵みを忘れてしまっていることはないでしょうか。

2.裁かれることなく  17から21節
「裁く」とは、ふるい分ける、区別するといった意味があります。神は、御子イエスを受け入れようとしない者を捨てることなく、逆に受け入れてくださり、御子を与えてくださったのです。ただ、イスカリオテのユダのように、「光よりも闇を愛し」、どこまでも御子を信じ受け入れないことが「裁きになっている」のです。厳粛な事実です。
御子イエスを信じ任せて安んじるならば、将来を先取りして生きる者になります。
そして、誠実に御言葉の真理を生き方の物差しとして生きることができるように、神が導き歩ませてくださいます(21節)。そこには、神の愛が染み透っています。

やり直しのきく人生(2021.8.22)

聖 書

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)

礼拝音源(31.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マルコ1章15節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編98編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ3章9~16節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「やり直しのきく人生」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 303 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

神は、私たちを愛しておられます。その神の愛によって「永遠の命」に与ることを疑ったり、否定したりしているところがないでしょうか。私たちを新しく生まれ変わらせ、やり直す人生へと変えてくださるのは、イエス・キリストです。

1.キリストの十字架を仰ぎ続ける  10~14節
主イエスは、「新たに生まれなければならない」(3節、5節、7節)と「地上のこと」を語られ(12節)、「人の子も上げられなければならない」(14節)と「天上のこと」を語られました(12節)。主イエスは、そのことを具体的に分からせるために「民数記21章4~9節」を引用して説き明かされました。
人が自らの罪を解決できないまま、その罪責を訴えられるままに苦しみ、死の恐れの虜のままにいるところから解き放たれるのは、主イエスの十字架と復活の事実にあることを知って、ただ主イエスを信じ仰ぎ見続けることです。

2.キリストの命にあずかり続ける  15~16節
このように、主イエスによって現された神の愛を受け止めて歩んでいくためには、信仰が必要です。信仰とは、主イエスご自身を「信じる」(ヨハネ1章12節)ことであり、食するように「受け入れる」(同6章51節)ことであり、ぶどうの木とその枝のように「つながって」(同15章5節、7節、9節)いることです。それは、一時的なことでなく、継続し続けていることが大切です。
それによって「永遠の命を得」続け、「神の国」に入れられて永遠の限りない命を与えられ続け、神と共に生きるのです。全ての救いの主導権は、神ご自身です。

 

約束に基づく福音(2021.8.15)

聖 書

しかし、聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めました。約束がイエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられるためです。(ガラテヤ3章22節)

礼拝音源(30.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ12章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編96編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ3章15~22節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「約束に基づく福音」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 449 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主は、祝福のうちに人が恵みと平和をいただいて歩むことを願っておられます(民数記6章24~26節)。パウロは、その「祝福の基」となって歩んだアブラハムを根拠にして(創世記12章2節)、キリストの福音を明らかにし この手紙は、イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる、とのメッセージが繰り返し語られています。この神の救いの約束は、変更されることなく、変化させられることもありません。

1.神の恵みの約束  15~18節
人間社会の「契約(遺言)」と同じように、神とアブラハムとの「約束」は無効になることなく、モーセの律法によって破棄されることもありません(15~17節)。神の約束を無条件に信じることによって神に受け入れられ、それを受け継ぐという約束は不変で永遠です(創世記15章5~6節、17章7~8節)。それは、神からの「恵み」によります(18節)。
この神の恵みの約束は、「一人の人」イエス・キリストにおいてすべての人への確かな恵みの約束となりました(15節)。すなわち、イエス・キリストとその救いを信じる信仰によって、神の国の恵みを受け継いでいくのです。

2.神の真実な約束  19~22節
では、神の戒めである「律法とは何なのでしょうか」(19節)。律法は、「約束を受けた子孫」のキリストが来られるときまで有効とし、人々の神に対する違反を明らかにし
(22節a)、天使たちやモーセを通して人々に与えられました(使徒言行録7章38節)。
律法は、人を救うことも、人の命を支えることもできませんし、福音への渇きを抱かせるものです(21節)。神の救いの福音は、十字架と復活の御業を通して明らかにされた「イエス・キリストの真実によって、信じる人々に与えられる」のです(22節b)。ですから、真実なキリストに信仰によって結び合わされ、神の御心の中を生きていくのです。

大いなる喜び・再臨の希望(2021.8.8)

聖 書

主は、私たちのために死んでくださいました。それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるためです。(1テサロニケ5章10節

礼拝音源(26.73MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ13章12節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編95編
会衆祈祷 一  同
聖  書 1テサロニケ5章1~24節
使徒信条 93-4  1A 一  同
講師紹介
牧会祈祷
川原﨑晃主管牧師
宣  教 「大いなる喜び・再臨の希望」 福本行宏 師
祈  祷
賛  美 474 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨(第一礼拝、第二礼拝)

1.その日、その時は主の他に誰も知らない。 1~11節
主イエスの再臨は、(1)盗人のように来る。(2)人々が「平和だ、何事も無く、平穏無だ」と嘯いている時に、突如として起きる。(3)妊婦に産みの苦しみが臨むように。
私たちの人生に、世界には、予期せぬ出来事が突如として起きることがある。主の再臨される時も、予期せぬ時に起きると聖書は宣告している。

【その結果】
(1)神を蔑ろにして生きて来た人たちには、逃れることが出来ない破滅が襲ってくる。
ノアの大洪水、ソドムゴモラ、栄華を極めた諸々の国々、町々など、世界各地に起きている災害、その殆どが何の予告も無く突如として起きている。主の再臨はそれ以上の出来事、不信仰者で破滅から逃れることが出来る者は皆無である。
彼らは自分の頭上に燃える炭火を積み重ねている。キリストの十字架による罪の赦しも、復活による永遠の命も、主の再臨も、世界の滅びも皆、神の言葉である聖書の宣告であるから、神の御前にひれ伏して悔い改めることが肝心である。決して政治学・教育学・社会学・倫理学・心理学・諸々の思想などによるのではない。

(2)どんな時にも主を信じて生きて来た人は、キリストの十字架による贖いの故に、誰一人として破滅に陥る者はいない。
その為に常に『目を覚まして身を慎んでいなさい』と聖書は勧めている。キリストの十字架の愛と赦しを思い起こす。キリストガ死とサタンとその王国を打ち負かして復活したことを思い起こす。神の国の相続人とされたこと、その保証として御霊の内住を㥅かったことを思い出す。神の御座で執り成しておられるキリストの熱愛を思い起こす。主の再臨を待ち望む希望が与えられていることを思い起こす。

2.キリスト信徒の務め。 12~24節
(1) 愛の労苦を共にしている指導者を重んじて支える。
(2) 互いに尊敬と平和を堅持する。
(3) 怠惰な者を諭す。祈り・みことば・礼拝・献金・奉仕などを怠っている者を愛と寛容を持って諭す。
(4) 思考で悩んでいる者を温かく節度を持って慰める。
(5) 悪を持って悪に報いず、善を持って悪に打ち勝つ。
(6) 常に喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する。これは神が私たちに臨んでいることで、みこころに叶うことですから、不可能な事では無い。
(7) 御霊を悲しませたり、働きをけしてはなりません。
(8) みことばを重んじ、しっかり蓄えなさい。
(9) 世俗的な事柄に執着しては為りません。

キリストの再臨の時、聖さと平和を保てるように。真実な神がそれを保証してくださっていることを忘れないように。

宣教要旨(第三礼拝)

ステファノは、最初のペンテコステの日に居合わせた120人のひとりでした。彼の生涯を象徴する言葉が「聖霊に満たされ」(6章3節、5節、10節、7章55節)です。聖霊に満たされた彼は、絶えず見ていたものがあり、それが勝利の秘訣でした。

1.天を見つめていた  55節

キリストの福音に敵対する者たちの罪を指摘したステファノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしてきました。その時彼は、まず「天を見つめ」ていたのです。私たちが日々見つめているものが、その人を表し、その人を決めます。
私たちは、ここ一番、また日々に何を見つめているでしょうか。

2.神の栄光と着座されたキリストを見ていた  55節

そうした中で、ステファノは、冷静かつ落ち着いて復活され生きておられるキリストを見ていました。聖霊に満たされていると、人の憎悪や怒りの中にあっても、臨在されるキリストが見えるのです。見なくてもよいものは見えなくなり、見なければならないキリストがいつも見えるのです。

3.見たものを証しし、執り成している  56節、59~60節

生ける臨在のキリストを見ている者は、人が聞こうが聞くまいが、認めようが認めまいが、そのことを訴え、勧め、証しするのです。ステファノは、そうせずにはいられなかったのです。これこそ、聖霊の力が可能にする働きであり、クリスチャンの使命です。
私たちは、さらに神と深く交わり、キリストの愛と力を知って、聖霊に満たされ続けていることが大切なのです(エフェソ5章18節)。

 

祝福の基となって(2021.8.1)

聖 書

それで、信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです。(ガラテヤ3章9節)

礼拝音源(26.73MB)
※機器のトラブルで、最後の賛美の音声が途切れております。申し訳ございません。

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ4章23節ab 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編91編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ3章6~14節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「祝福の基となって」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
8月誕生者祝福 1ペトロ5章10節
賛  美 441 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主は、祝福のうちに人が恵みと平和をいただいて歩むことを願っておられます(民数記6章24~26節)。パウロは、その「祝福の基」となって歩んだアブラハムを根拠にして(創世記12章2節)、キリストの福音を明らかにしました。

1.祝福の約束にあずからせる  6~9節

キリストを信じる信仰によって義とされるという福音は、すでにアブラハムにおいて実証されていました(6節、創世記15章6節)。そして、そののち神の契約の民となる割礼を受けたのです(創世記17章9節以下)。真のアアブラハムの子孫は、割礼と律法に生きる者ではなく、「信仰によって生きる」のです(7節)。

しかもアブラハムは、選民イスラエルの父として信仰による祝福を受けたように、「すべての異邦人」もアブラハムと共に、信仰によって祝福されるのです(8~9節)。信仰による人は、霊的な祝福にあずかるのです(マタイ3章8~9節参照)。

2.呪いを祝福に変えられた  10~14節

律法は祝福に反するものではありません(ローマ7章12節、14節)。したがって、律法によって完全に生きるのであれば、神の祝福の中を生きることになります。ところが、人は誰であっても律法の行うことによって神に十分受け入れられる生き方はできず、呪いを受けるものとなったのです(10~12節)。

しかし、そのような呪いを祝福へと変えてくださったのは、私たちに代わって呪いを受けてくださったキリストの十字架によってでした(13~14節)。「正しい者は信仰によって生きる」のです(11節)。それゆえに、神への感謝の応答の日々を生きるのです。

新しく生まれる(2021.7.25)

聖 書

イエスは答えて言われた。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3章3節)

礼拝音源(42.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ11章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編90編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ2章23節~3章8節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「新しく生まれる」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 475 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちは、「新しく生まれる」ということに向き合わなければなりません。そして、主イエスが「あなたがたは新たに生まれなければならない」と問いかけられたことに対して(3章3節、5節、7節)、誰もが応答しなければならないのです。

1.上からの力で生まれる
人の心の中をよく知っておられた主イエスは、ユダヤ人たちを信用されませんでした(2章23~25節)。それは、主イエスのなされた御業を見て「先生」と呼んだニコデモに対しても同じでした(3章1~2節)。

しかし、主イエスは、そのようなニコデモと愛と真実をもって対話され、信頼できる者にしようとされたのでした。そのために、神は、人の信心や努力によってではなく、主イエスの十字架と復活を通して「新たに生まれ」るようにされたのです。それはまさに、神の上からの新たな御業でした。人はそれを受け取るだけなのです。

2. 恵みの中を生きる
確かなことは、誰でも「新たに生まれなければ」、神の国を見ることも、神の国に入ることもできません(3節、5節)。すなわち、神の恵みのご支配が見えないし、その恵みの中に入れられて生きることもできません。それを確証させていただけるのは、「水と霊」によるバプテスマによってであり(5節)、聖霊は働き続けて新しい生き方を造ってくださるのです(6~8節)。

信仰とは、信じ生きることです。聖霊は、主イエスによって、私たちにそのような恵みの中を生きるようにしてくださるのです。

 

神に生きる(2021.7.18)

聖 書

私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。(ガラテヤ2章20節c)

礼拝音源(29.1MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 詩編100編1~2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編67編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ2章19節~3章5節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「神に生きる」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 514 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

日本イエス・キリスト教団
信仰告白

わたしたちは信じて、告白します。

旧新約聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた、誤りのない神のことばであり、キリストをあかしし、福音の真理を示すもので、教会の拠(よ)って立つただ一つの聖典です。聖書は、わたしたちに、神と救いについての完全な知識を与えるものであり、信仰と生活の基準です。

主イエス・キリストによって啓示され、聖書にあかしされた唯一の神は、父と子と聖霊の三位一体の神であり、その本質において同一です。

イエス・キリストは、神のひとり子であり、わたしたちを罪から救うために人となり、身代わりとなって十字架にかかり、ただ一度、ご自身を完全な犠牲(いけにえ)として神にささげ、あがないを成就されました。その復活は、永遠のいのちの保証です。天に昇られた主は、キリストの日に至るまで、わたしたちのためにとりなしておられます。

わたしたちは、神の恵みにより、ただキリストを信じる信仰によって義とされ、罪をゆるされ、神と和解し、新たに生まれて神の子とされます。わたしたちは、キリストの血によってすべての罪からきよめられ、神のものとされ、聖霊のバプテスマを受け、その内住による全き支配によって、主のかたちに変えられていきます。種は再び来られ、わたしたちを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて、永遠のみ国をつぐ者とされます。

教会は、キリストのからだであって、神に召された生徒の集まりです。教会は、公同の礼拝を守り、主の命にこたえて、福音を正しく宣べ伝え、聖礼典を行ない、聖徒をととのえ、主に仕えつつ愛のわざを励み、主が再び来られるのを待ち望みます。

わたしたちは、このように信じ、余世の聖徒と共に、使徒信条を告白します。

宣教要旨

私たちは、「何であるか」との問いを受け続けています(教団創立70周年記念誌P25参照)。何よりも「神に生きる」信仰は、律法ではなく、信仰によって生きることです(2章19~20節)。どのような信仰に生きることなのでしょうか。

  1. 十字架を仰ぎ見続ける  3章1節

ガラテヤの諸教会の信徒たちは、キリストの十字架を信じることによって救われました。ところが、信仰生活を行いによって整えようとしたために、十字架から目を離すような愚かな歩みを始めたのです。

このような律法主義的な心理は、自分を慢心したり、逆に足らなさばかりにとらわれたりするといった誘惑となって表れてきます。私たちは、公然と描き出された十字架の恵みに立ち続けるところに(2章20節c)、喜びと自由の恵みがあるのです(エフェソ2章8~10節)。そこから、十字架の恵みが、感謝となってほとばしり出るのです。

2. 聖霊の恵みにあずかり続ける  3章2~5節

パウロは、ガラテヤの諸教会の信徒たちが経験した聖霊の大いなる恵みを思い起こさせています。罪が赦され、義と認められ、キリストと共に十字架につけられ、キリストが内にいきてくださるのは、聖霊を受けたからでした(2節)。その時、福音を聞いて信じたのであり、信仰をもって聞いたのでした。そこから、聖霊によって歩み続け(3節)、力ある業をなされる聖霊の恵みにあずかる生活をしていくのでした(3節)。ところが、その「神の恵みを無駄」にしてしまっていたのです(2章21節、3章4節)。

「神に生きる」ことは、神のために生きるという広がりをもたらします。

 

 

敬虔であること(2021.7.11)

聖 書

イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネ2章22節)

礼拝音源(28.8MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 イザヤ書43章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編66編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ2章13~22節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「敬虔であること」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 515 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリスト信仰は、いかに生きるか、いかに死を迎えるかが密接にかかわっています。ところがこの聖書箇所には、死の後に生が続いており、義とされた者が聖化の恵みに導かれる筋道が語られています。

イスラエル民族にとって過越際は、神の救いを記念して感謝する重要な祭りでした。ここにおいて主イエスは、礼拝の民がつくられていくことの大切さを語ることにより、そこに敬虔の気風とも言うべきものが備えられるように勧めておられます。

1.神を畏れ敬う礼拝  13~17節

神殿の一番外側には、神へのささげものを必要とする人たちのために両替人がいました。しかし、両替人は暴利をむさぼって不正をしていたために、主イエスは「私の父の家を商売の家」としていると憤られたのです。敬虔な礼拝の場であるはずの神殿は、外側は立派な宗教行為がされていましたが、内側は形式化し形骸化していたのです。
敬虔とは、神に対する心の態度であり、神を敬い、畏れることです。主イエスの十字架の隣にいた男は、不敬虔から敬虔への見事な転換を経験しました(ルカ23章40節)。
敬虔が教会の気風になるためには、一人ひとりの敬虔さが深められ、基本を大切にした教会の礼拝がつくられていくことが大切なのです(1テモテ4章7節参照)。

2.信仰の目が開かれる礼拝  18~22節

ここに登場するユダヤ人たちは、主イエスが語られることの意味が分かっていませんでした。彼らは、信仰的、霊的な目が開かれていなかったからです。主イエスは、「ご自分の体てある神殿」のことを言われて、十字架に架かられて三日目に復活されることを語られたのです。
礼拝の中心であるキリストに結びついた一人ひとりがキリストの体です(1コリント6章19~20節)。このキリストへの信仰に目が開かれた礼拝者が求められているのです。

聖化の恵みに(2021.7.4)

聖 書

私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。(ガラテヤ2章19節b~20節b)

礼拝音源(27.1MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 詩編46編11節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編62編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ2章17~21節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聖化の恵みに」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
7月誕生者祝福 エフェソ2章8節、10節
賛  美 521 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリスト信仰は、いかに生きるか、いかに死を迎えるかが密接にかかわっています。ところがこの聖書箇所には、死の後に生が続いており、義とされた者が聖化の恵みに導かれる筋道が語られています。

1.キリストと共に十字架につけられた  19節
「人が義とされる」ことは、律法を無視することでもなく、また再び律法の奴隷となることでもなく、福音の自由の恵みに生きることへと導かれます(17~18節)。律法によれば、私(たち)は罪人です。キリストは、その罪のさばきを十字架で代わって負ってくださったことにより、私(たち)は「律法に死にました」(19節a)。
私(たち)は、この「キリストと共に十字架につけられ」一つとされたことによって、十字架に死んでくださったキリストの支配下に入り、復活されたキリストに生きていただくのです(19節b)。ここから、キリストによる自由と喜びに生きることを知るのです。

2.キリストが私の内に生きておられる  20節
私(たち)は、キリストと共に十字架につけられたことによって、自分がなくなるのではありません。生まれながらの古い自己中心的な自我性が十字架につけられてキリストと共に死んだことにより、キリストと一つに結び合わされ「キリストが私の内に生きておられる」という新しい私(たち)が生きるのです。それは、キリストが私(たち)を支配していてくださることです(19節b~20節b)。
具体的には、いつでも、神の愛とキリストの真実によって生かされているという自覚をもって、それに全く信頼して生きることです(20節c)。

 

 

喜びの中にキリストを(2021.6.20)

聖 書

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。(ヨハネ2章11節)

礼拝音源(25.4MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 詩編124編8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編51編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ2章1~12節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「喜びの中にキリストを」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 288 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

苦しむ人と共にいて下さる主イエスは、喜ぶ人とも共にいてくださいます。「カナでの婚礼」において、「水がぶとう酒」に変えられることによって、主イエスこそ救い主であることが明らかにされました。喜びの中に主イエスがおられるのです。

1.確かな喜びに
婚礼には、花婿と花嫁の中に、イエスの母と兄弟とイエスご自身と5人の弟子たちも招かれていました。そこには、召し使いと世話役がいます。主イエスは、婚礼の真っただ中におられ、共に祝い、喜んでおられます。ところが、祝いのぶどう酒かなくなるや、マリアは召し使いたちに命じます。彼らは、主イエスが命じられるままに水がめに水をいっぱいに入れると、水がぶどう酒に変わり、そこが喜びの宴となりました。
主イエスを迎え入れるならば、それがいかなる状況下にあっても、揺るがない確かな喜びに満ちるのです。

2.終わりのない喜びに
主イエスは、「私の時はまだ来ていません」(4節)と言われました。その時とは、主イエスが、栄光を受けられた時(ヨハネ12章23節)、すなわち十字架にお架かりくださった時のことです(同12章27節)。水がぶどう酒に変えられるという「最初のしるし」が、それを象徴しています。
それに対してマリアは、主イエスを信頼し、希望を捨てていませんでした(5節)。召し使いたちは、時を逃さずに主イエスの言葉に従いました(7節)。そのようにして、私たちは、心と人生と永遠を変えることができる「イエスを信じる」のです(11節)。

 

 

キリストに見出されて(2021.6.13)

聖 書

イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。それよりも、もっと大きなことをあなたは見るであろう。」(ヨハネ1章50節)

礼拝音源(25.6MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 詩編29編2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編42編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章43~51節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストに見出されて」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 482 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

イエスと出会って、イエスに仕える弟子とされた5人の人たちの様子が語られています(1章35~51節)。まずイエスが彼らに目を留められています。それに応答するようにして、彼らはイエスを見たのです。

1.イエスが目を留められた
フィリポやナタナエルがイエスを発見したのではなく、先だってイエスが彼らに目を留められています(43節、47節、48節、50節)。イエスは、彼らの過去を見てではなく、彼らの将来を見ておられたのです。
それは、先のペトロに対しても同様でした。イエスの十字架を前にしては不肖の弟子でしたが、その時すでにペンテコステの日に復活の主を力強く証しするペトロが見えておられたのです(ルカ22章61節)。
イエスが同じ目で私たち一人ひとりを見ておられることは、大きな励ましです。

2.イエスを見た
ナタナエルは、フィリポの証言に関心を抱きつつも、当初は偏見にとらわれていました。彼は、フィリポから「来て、見なさい」とイエスとの人格的な出会いへと導かれます(45~46節)。その時イエスは、誠実なナタナエルを見ておられました(47~49節)。さらにイエスは、「もっと大きなことをあなたは見る」と十字架と復活によって現される救いの御業を見せなさいました(50~51節)。
それは、「あなたがたは見る」とあるように、ナタナエルもペトロも私たちも、信仰の目をもってイエスを見つつ歩むことです(1ペトロ1章8~9節、ヘブライ12章2節)。

 

 

福音の真理に歩む(2021.6.6)

聖 書

彼らが福音の真理に従ってまっすぐ歩いていないのを見て、私は皆の前でケファに言いました。(ガラテヤ2章14節a)

礼拝音源(25.5MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ガラテヤ3章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編33編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ガラテヤ2章11~14節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「福音の真理に歩む」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 イザヤ書63章9節
賛  美 543 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

ユダヤ人であれギリシア人であれ誰であっても、同じ一つの福音の真理にとどまり続けることは(2章5節)、福音の真理に生きることであり、歩み続けることです(14節)。

1.偽ることなく  11~13節
ペトロとパウロは、先のエルサレム教会においては、福音の真理を確認し合いました。ところが、アンティオキア教会では、パウロがペトロを「面と向かって」非難しています(11節)。ペトロは、当初は異邦人キリスト者たちと愛餐と聖餐の交わりを持っていました。ところが、エルサレム教会からユダヤ人キリスト者が訪れるや、彼は神を畏れるのではなく人を恐れて、徐々にその交わりをしなくなったのです(12節)。そのような偽りは、他のユダヤ人キリスト者たちやバルナバまで巻き込むことになりました(13節)。
このように、福音の真理を信じることと裏腹の行動をとることが、神の恵みを無駄にしてしまい(2章21節)、教会の中に壁を作ってしまうのです。

2.福音の真理に向かって  14節
ここでパウロは、ペトロたちが「福音の真理に従って(向かって)まっすぐに歩いていない」と指摘しています。そのように私たちも、福音の真理を捉えていると思っても、生活や習慣のすべてが一瞬にして変えられていないというのが現実です。とりわけ、お互いのこれまでの生活習慣の相違に捉われて、福音の真理を見失わせることがあります(1コリント1章22節、24節参照)。
私たちは、自らの生活や習慣を点検しつつ、福音の真理に従って、またその方向に向かって歩みを進めるキリスト者であり教会でることが大切なのです。

 

 

何を求めているのか(2021.5.30)

聖 書

イエスは振り返り、二人が従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。
(ヨハネ1章38節a)

礼拝音源(26.8MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ローマ5章5節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編46編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章35~42節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「何を求めているのか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 451 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

洗礼者ヨハネが、アンデレと使徒ヨハネに、主イエスを「見よ、神の小羊だ」と紹介したところ、彼らは「イエスに従った」のでした。それを見られた主イエスは、「何を求めているのか」と尋ねられました。これは、今の私たちへの問いかけでもあります。

1.最高の出会いを  35~38節a

私たちの出会いには多くのものがありますが、神との出会いこそが最高の出会いです。その道筋を備えてくださったのが、救い主イエス・キリストです。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(29節、36節)と紹介されていますが、主イエスこそが、唯一私たちを罪から解き放ち、罪の力に勝利させてくださる救い主です。
二人は、洗礼者ヨハネに命じられてではなく、主イエスを自発的に求め「イエスに従った」のです(37節)。あなたと主イエスとの個人的な最高の出会いが、ここにあります。あなたは、この出会いにどのように踏み出していますか。

2.一生かけた信仰の歩みを  38節b~42節

続けて、二人は「来なさい。そうすれば分かる」との招きに応えて、「イエスのもとに泊まった」のです(39節)。彼らにとっては、祝福の晩となりました。主イエスと交わってその人格に触れ、主イエスが「先生」から「メシア」である救い主となったからです。
主イエスに従うことが、この方と信仰によって結びつき、その後の生涯が主の弟子となっていきました。シモン・ペトロも例外ではありませんでした(40~42節)。
信仰生活の途上において弱さを覚えることがあっても、主イエスは執り成し続けていてくださいます。主イエスが、一生かけた信仰の歩みを導いてくださいます。

 

聖霊によって(2021.5.23)

聖 書

「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である。」(ヨハネ1章33節c)

礼拝音源(25.3MB)

ペンテコステ感謝礼拝順序

前  奏
招  詞 使徒言行録1章8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編84編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ1章29~34節
使徒言行録1章3~8節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聖霊によって」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
5月誕生者祝福 「イザヤ書41章10節」
賛  美 343 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

洗礼者ヨハネは、イエス・キリストとの関わりにおいて、聖霊がどのような方であり、どのような働きをされるのかを明らかにしています。

  1. イエスを証しする聖霊

ヨハネは、罪の赦しに至る悔い改めを象徴する「水で洗礼を授け」ながら、イエスがおいでになる準備をしていました(30~31節)。彼は、イエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました(29節)。そう言い表したのは、自分の考えや意見に基づくものではなく、「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と神が語られたことに根拠がありました(33節)。イエスこそが、聖霊によって洗礼を授ける方であり、十字架と復活のイエスに浸すように一つとしてくださり、罪の赦しときよめをもたらしてくださる「神の子」なのです(34節)。

キリストを証しするのは、聖霊ご自身です(ヨハネ15章26節)。ですから、聖霊の働きによってイエスを主と告白し、聖霊に全く明け渡すことによってきよくされるのです。

2.イエスの証人とする聖霊

使徒たちはイエスの約束に従って、聖霊が降るのを祈り待ち望みました(使徒言行録1章12~14節)。そして、聖霊が一人一人の上にとどまり、一同が聖霊に満たされました(同2章1~4節)。この「聖霊によって洗礼を受ける」とは(同1章5節)、聖霊によってイエスと一つにされて力を受け、イエスの証人とされることでもあるのです(同1章8節)。

聖霊によって、私たち一人一人と教会の霊性と信仰に風通しをよくしていただいていることが大切です。そのためには、聖霊を待ち望み、慕い求め続けることが必要です。

キリストは今、どこにおられるのか (2021.5.16)

聖 書

神は、この力ある業をキリストの内に働かせ、キリストを死者の中から復活させ、天上においてご自分の右の座に着かせ、(エフェソ1章20節)

礼拝音源(22.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨエル書3章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編126編
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ1章20~23節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストは今、どこにおられるのか」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 390 一  同
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主の愛の御手に触れられた者は、その愛に信仰の手を伸ばして応答し、隣人にも交わりの手を差し出す誠実な心と歩みがつくられていきます。このことを「手」との言葉を題目にしつつ、御言葉から聴いていきます。

キリストは今、昇天され神の右に着座されています(20節、使徒言行録1章11節)。このキリストによって私たちの信仰は確かにされ、力を増していくのです。

1.キリスト、すべての頭として  1章21~23節

神は、信じる者に力強く働く神の力をキリストの内に働かせて、十字架の死から復活させ、昇天させて神の右に着座させ、神とキリストが一つであることを明らかにされました(19~20節)。それによって、キリストはすべてのものを将来にいたるまで支配され、その上に立つ頭となられました(21~22節)。ただ、今の現実の全てが、キリストの支配に服しているのではありません。

なお、キリストは教会の頭として満ち満ちておられ(22~23節)、教会においてキリストのすべての恵みを受け取ることができます。それゆえに、私たちは「イエス・キリストは主である」との信仰告白へと導かれるのです(フィリピ2章6~11節)。

2. キリスト、私たちの内に  3章16~19節

キリストは今、主のものとされた者の「心の内に住んで」くださり、住み続けてくださり、一つになって生きていてくださいます(17節a)。そのために、神はご自分の力をもって「内なる人」を強くしてくださり(16節)、キリストの愛に満たされた歩みをさせてくださいます(17~19節)。

ところで私たちは、現実に弱さを覚えて恐れを抱き、祈れなくなることがあります。しかし、キリストは恐れなさらないお方です。私たちは、このキリストを信頼し、内に住み続けていただいて全てを支配していただくことが大切なのです。