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新約聖書

福音にあずかる(2008.6.1)

題   : 「福音にあずかる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章1節~11節
私たちが、いかなる状況下にあっても、またどのような時にも歓喜の生活を送ることは難しいものです。私たちの人生全般に喜びが満ち溢れているためには、イエス・キリストに結び合わされて、福音にあずかり、また福音にあずかり続けることが大切です。

1.福音にあずかっていることの感謝  3~8節
「福音にあずかっている」とは、イエス・キリストの十字架と復活によって現された神の救いの福音を聴いて、それを信じ救われたところから始まります。この福音の惠みを共有する私たちは、聖霊との交わり(2章1節)とキリストの苦しみにあずかりつつ(3章10節)、福音のために重荷を持って福音を伝えていくことにより、福音に生きる喜びを分かち合っていくのです。
フィリピ教会は、その誕生の最初の日から(使徒言行録16章11~40節)、この手紙が記された時まで、パウロの宣教の働きを共有してきました(フィリピ4章14~15)。パウロは、そのことをキリストの愛の心をもって受けとめ、感謝しています。
福音にあずかった者として、福音のために自らとその人生、そして時や財などを共有し、福音が広められていく喜びを経験したいものです。

2.福音にあずかり続けることへの祈り  6節、9~11節
私たちは、福音にあずかり続け、やがて「キリストの日」と言われる主の再臨の日に、主の御前に立つことのできるよう願っています。そのためには、それを成し遂げ全うさせてくださるイエス・キリストご自身に信頼し、任せていくことが大切です。
そして、私たちが、神を愛し、他者を愛し、キリストの体なる教会を愛する愛に富ませていただき、鋭い感覚を与えていただくことが大切です。それによって、何が神のみこころに適う重要なことであるかを判断させていただきつつ信仰生活を歩んでいくのです。
以上のことに、私たちの祈りの焦点が置かれていることが重要です。そうした中から、私たちはキリストの体なる教会に身を委ねるものとして、福音にあずかり続けていく喜びを経験したいものです。

驚きの波紋(2008.5.25)

題   : 「驚きの波紋」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章21節~28節
主の弟子たちは、生涯忘れることのできない主イエスとの出会いをして後すぐに、会堂における礼拝を体験しました。
そこにおいて人々は、ひっくり返るほどに心を動かされる驚きと(22節)、聖なるものに触れたときに経験する畏れが伴う驚きをしています(27節) 。

1.キリストの権威あるみことばへの驚き  21~22節
礼拝に集った人々は、主イエスの教えに非常に驚きました。それはまた、将来の教会の指導者となった弟子たちにとって、忘れることのできない礼拝となりました。キリストと共にある礼拝は、心動かす礼拝となるからです。
また、その驚きは、主イエスが語られたみことばに権威があったことによります。それは、語り方に権威があったからというより、神の恵みの支配が及んでいるという語られた内容そのものに権威がありました(1章15節)。
今日の私たちの礼拝が、主と共にある礼拝として、みことばに権威がある礼拝であり、心動かされる驚きを伴った礼拝であるかを問い続けたいものです。

2.キリストの権威あるみわざへの驚き  23~28節
この礼拝の中に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。この汚れた霊は、神の恵みの支配に逆らい続ける力であり、人の魂と心と体を不健全で不自由なものにしようと、主イエスの権威あるみわざがなされること拒みます。しかし、主イエスは、この男から汚れた霊を追い出して、彼を解き放たれました。
今日私たちは、恐れる力、悪習慣の力、怒りの力、赦せない力、嫉妬する力、不安の力といった私たちを不自由にしているものに支配されています。主イエスは、そんな私たちに、権威あるみことばとみわざをもって、神の惠みのみわざを成し続けておられます。その畏れ驚くべきキリストのみわざの極致は、汚れた霊の力を打ち破られた十字架であり、復活の力にあります(16章15~17節)。
マルコによる福音書は、宣教文書です。この後、迫害の中を通された教会は、この驚きの波紋の拡がりの中に前進していきました。そして、今日の私たちにまで至っているのです。

聖霊の働き(2008.5.4)

題   : 「聖霊の働き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章22節~36節
使徒言行録」で語られていることは、「聖霊言行録」と呼ぶほうがふさわしい内容です。私たちがキリストの証人となり、教会の働きが生き生きと前進していくために、聖霊はどのように働かれるのでしょうか。

1.聖霊は降られるお方である  1章8節
永遠から永遠までおられる聖霊は、五旬節の日になって、人々の上に特別に臨まれました。主イエスが十字架で死なれ、その死から復活され、昇天されて神の右の座にお着きになった結果として、聖霊が注がれました。
聖霊が私たちに働かれるときに、私たちはキリストについて目が開かれます。そして、私たちを力強いキリストの証人にしてくださいます。また聖霊は、私たち自身の本当の姿を気づかせてくださいます。さらに、私たちの慰め主として、絶えず共にいてくださいます。

2.聖霊は見聞きできるお方である  2章33節
聖霊が見聞きできるとは、私たちが真に聖霊に満たされるならば、私たちを通して聖霊が働いておられることを他の人が認めることができるということです。
一人の人が造り変えられて、主の惠みを持ち運んで他の人を生かすことができるのは、聖霊によらなければできません。人が集まり組織を作っても、聖霊によって神のいのちが注がれなければ、生き生きとして神の栄光を現す教会とはなりえません。
私たちの家族が、友人が、同僚が、聖霊を見聞きできるキリスト者また教会とさせていただきたいものです。

3.聖霊は従う者に与えられる  5章32節
神は、ご自分に従う者に聖霊を与えてくださいます。そのためには、神に従おうと願うことです。人は神に従えないというよりも、従いたいと思っていないところに問題があります。さらに、条件をつけないで、一切において神に従うことを告白し、自分を主なる神に明け渡すことです。そして、具体的に神に従うことです。
私たち一人ひとり、このような意味でペンテコステを経験しているか吟味しましょう。

心が躍る経験(2008.5.4)

題   : 「心が躍る経験」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章14節~20節
情報時代に生きる私たちは、実に多くのことを知っています。しかし大切なことは、どれだけのことを知っているかよりも、何を知っているかです。
私たちは、キリストのすばらしさを知るという、心が躍る経験をしたいものです。

1.心が躍るキリストの福音  14~15節
旧約聖書の預言者たちを通して神が約束されていた「神の福音」が、イエス・キリストの到来によってもたらされました。それは「神の国」と言われる神の恵みのご支配が近づいたことを意味しています。今や私たちは、その神の国に入り込むだけなのです。そのためには、これまでの生き方を変えて、イエス・キリストの方に向きを変えて信じることが大切です。
このように、私たちが悔い改めて福音を信じるなら、新しい人生が始まります。しかし、この福音への招きは、キリスト者の全生涯が絶えず十字架と復活の主の方を向いているかを吟味させてくれるものです。私たちには、日ごとの悔い改めを通して、心躍る福音経験であるよう求められています。

2.心が躍るキリストの召し  16~20節
イエス・キリストは、神の福音を人々に届けるのに、祭司や学者たちでなく、ガリラヤ湖畔の漁師たちを弟子として用いられました。主イエスは、漁師たちを見極めるかのように深い愛のまなざしを注がれ、ご自身の方から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召しておられます。彼らは、このキリストの召しを最優先して、神の国に導かれていない人々を見いだし、そこに導くための働き人になりました。
主の弟子たちは、欠点もあり、失敗もあり、失言もあったりしましたが、主イエスの後について行く中で、整えられ、造られていきました。キリストの召しには、このような力があるのです。
教会は、弟子たちと同じように、キリストの召しを聴く場所です。そして、キリストの後について従っていく新しい出発をする場所です。この心躍るキリストの召しを、心ふるえる思いで受けとめていきましょう。

神による人生(2008.4.27)

題   : 「神による人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章9節~13節
イエス・キリストの公生涯の始まりは、山頂の歓喜の経験から谷底の試みの経験に至るものでした。そのキリストと結び合わされた者の歩みは、歓喜のときであれ、試みのときであれ、いつも「神による人生」となっていくのです。

1.山頂の歓喜の経験において  9~11節
主イエスは罪のないお方であり、本来ならば授けるべき立場であるにもかかわらず、ヨハネからバプテスマを受けられました。その理由は、主イエスが罪人と一緒になられて、その中にご自分の身を置くためでした。このように私たちと一体となってくださったところに、私たち自身の拠り所を見いだすことができるのです(ガラテヤ3章26~27節)。
この時主イエスは、ご自分に聖霊が注がれ、父なる神のみ声を聞かれました。主イエスこそ、父なる神の愛の交わりの中にあって、罪人の救いのみわざを成し遂げることを明らかにしておられるのです。キリストと結び合わされた私たちは、神に愛されて、神に対して生きる者とされていることを聖霊によって確認し続けていくことが大切です。
「神による人生」は、このような歓喜の経験から出発するのです。

2.谷底の試みの経験において  12~13節
続いて主イエスは、聖霊によって荒れ野に追いやられ、サタンの試みを受けられました。そんな中にも、神のみ子に仕えるみ使いによる確かな支えと助けがありました。マルコは、そのことを強調しています。
さて、私たちの信仰の歩みの中で、死の陰の谷のような試みや押しつぶされそうな重荷と戦わなければならないことがあります。そのような時にも、キリストに結び合わされているゆえに、私たちは支え助けられるのです。そこに、敵前の前の信仰者のゆとりがあります(詩編23編4~5節)。
自分の行き先が分からなくなるとき、孤独に思われるとき、無駄な労苦の日々と思えるとき、自信を失うとき、病むときに、キリストに結び合わされた「神による人生」が開かれていることを確認し続けたいものです。

まず福音を(2008.4.13)

題   : 「まず福音を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章1節~8節
暗く悲しいニュ-スが多い世界にあって、私たちはイエス・キリストの福音を聴き、受け取り、生かされ、伝えることが大切です。
マルコは、主イエスの目撃証人であったペトロの通訳者として用いられ、福音に生きることを切々と書き進めています。その福音は、どのようにもたらされるのでしょうか。

1.イエス・キリストによって  1~7節
神の子イエス・キリストの福音は、神の救いのご計画の最初からありました。そのことを実現させるために、先駆者ヨハネは『罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた』のでした。そして、イエス・キリストを指し示したのです。
私たちが悔い改めるとは、神に背を向けているところから、神に向きを変えて、神に立ち返ることです。そして、私たちがイエス・キリストを受け入れて、私たちの生活と行動のすべてをキリストに支配していただくのです。

2.聖霊によって  8節
イエス・キリストの救いは、イエスが地上におられたときだけで終りません。聖霊によって受け継がれていくのであり、今も続いています。
誰でも、聖霊によらなければ、罪について分かりませんし、悔い改めることもできません。そして、イエスを主と告白することもできず、罪が赦されたという信仰を持つこともできません。さらに、主イエス・キリストに全く任せきる歩みができません。そのような福音に生きることができるように、主イエス・キリストは『聖霊で洗礼をお授け』くださるのです。

マルコは、信仰の歩みの途上において、挫折し、失敗し、燃え尽きました(マルコ14章51~52節)。しかし、最後の最後に「マルコによる福音書」を書き、これが世界に広がり、今日まで祝福の源になってきました。彼は、聖霊の助けと導きにより、立ち返り、神に用いられたのでした。

教会は、私たち一人ひとりがイエス・キリストの福音に堅く立ち、聖霊によってキリストの惠みに浴することによって成り立つのです。

力に溢れて(2008.4.6)

題   : 「力に溢れて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章10~14節  2コリント 12章9~10節
私たちが、『わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたいのです』と言い表すことができるのは、『わたしの惠みはあなたに十分である』と宣言してくださるキリストによって出来るのです。私たちは、満ち足りた中でも渇き求めて生きるのです。

1.キリストの「愛の力」に満ちている
ここで言われている満足は、悟りとか精神修養の類ではなく、また特別な信仰者が身につけているというものでもありません。全てのキリスト者に与えられています。それは、『わたしを強めてくださる方』が私たちの全てをご支配してくださるとき、すなわちダイナマイトのように力ある『キリストの力がわたしたちの内に宿る』ことによって可能となるのです。
このキリストの力は、愛の力です。私たちが、この愛の力によって満ち足りていないと、他の人や環境に責任転嫁をしたり、トラブル・メ-カ-となったりしかねません。キリストの愛の力によって、真に実力あるキリスト者また教会とさせていただきましょう。

2.キリストの「惠みの力」で十分である
私たちがキリストの惠みの力で十分であれば、どんな境遇にあっても満足することができます。その惠みの力は、『弱さの中でこそ十分に発揮される』のです。
だれもが持っている弱さは、罪と死に自分で打ち勝つことが出来ないということです。その罪を担われたキリストの十字架と、罪の結果である死に完全に勝利されたキリストの復活において、キリストの惠みの力が最大に発揮されました。

私たちがこの惠みにあずかり続けるなら、自分の人生を肯定して受け入れることができます。また、生きる力が湧いてきます。
そして、ゆるす力、愛する力、祈る力、伝道する力、献げる力、奉仕する力が生まれてきます。『わたしを強めてくださる方』に主役になっていただき、私たちが脇役に徹していくことが、一切の力に溢れる歩みの秘訣です。

主を見て喜んだ(2008.3.23)

題   : 「主を見て喜んだ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : ヨハネによる福音書 20章19節~23節
イエス様が墓に葬られて三日目の朝、マグダラのマリアはイエス様がよみがえられて空っぽになったお墓を見て、ペトロともう一人の弟子に伝えました。彼らもお墓を見て、不思議に思いながら家に帰って行きました。しかし、マグダラのマリアは墓に留まっていました。このようなマリアにイエスはご自身を現して下さったのです。

1.心にかかる鍵
マリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えました。しかし弟子たちは人を恐れて、家の鍵をかけて中に隠れていました。しかし、そんな家の中に復活のイエス様が入ってこられたのです。そして「あなた方に平和があるように(シャローム)」と言われました。
ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様を見捨てて逃げ出した弟子たちに、なんと優しく語りかけられたことでしょう。わたしたちがどんな困難や問題の中にあっても、心を固く閉ざしていても、心に来てくださるお方です。

2.主を見て喜んだ
イエス様は、弟子たちに手とわき腹を見せられました。そこには釘穴があり、わき腹には槍で突き刺された大きな傷がありました。紛れも無くイエス様です。
弟子たちは、この時初めて喜んだのです。この「喜んだ」には歓喜した、大喜びをしたという意味があります。わたしたちもどのような状態にあっても、死に勝利された復活のイエス様が共に居てくださるなら、神からの平和が与えられるのです。

3.使命に生かされる
主を見て喜んだ弟子たちに、もう一度「平和があるように」と語られました。そして続いて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
イエス様は弟子たちに最高に崇高な使命を与えられたのです。弟子たちにはこの使命を果たす力はありません。ましてわたしたちにはそのような力はありません。
しかし、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちがその使命を達成するために必要なことをしてくださったのです。

不信仰で無力なわたしたちを用いるために、聖霊が今日も与えられています。復活のイエス様を喜び、愛し、愛する人々に福音を伝えさせて頂きましょう。

キリストに倣って(2008.2.24)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:  鎌野 善三 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 2章1節~11節
キリスト教の中心は、キリストご自身です。クリスチャンは、常にキリストご自身を意識し、このお方の生き方に倣って歩む必要があります。パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、そのような歩みがどういうものかを次のように解き明かします。

1.同じ思いとなる
私たちは、そんなに熱心なクリスチャンでないかもしれません。けれど「幾らかでも、キリストによる励まし」があるのなら、「同じ思い」となるように努めましょう。主が私たちのために命を捨ててくださったことを思うとき、私たちも他の人々のために、幾らかでも犠牲を払う生き方ができるのです。フィリピ教会にも意見の対立があったと思われますが(4:2参照)、どの教会もそんな問題を抱えています。しかし、主イエスに倣うなら必ず一致でき、みんなの「喜びが満たされる」のです。

2.へりくだる
一致の妨げとなるのは、利己心と虚栄心です。逆に一致をもたらすのは「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることです。自分ができないことを他の人がやってくれていると考えるとき、教会は生きた「キリストのからだ」となります。へりくだるとは、「自分は何もできない」と言うのではなく、積極的に「他人のことにも注意を払う」ことです。もし何かをして「ありがた迷惑だ」と言われたときに、「ごめんなさい」と言えることこそ、本当のへりくだりです。

3.神に従う
主ご自身がへりくだりの最高の模範を示して下さいました。神の身分でありながら、自分を無にして、人間と同じ者になられました。さらに主は、父なる神の御心に従って、十字架の死に至るまで従順であられたのです。神の子であるお方さえ従われたのですから、私たちも当然そうすべきです。聖書を通して、悔い改めるべきことを示されたなら、奉仕の姿が問われたなら、献身の招きがあったなら、従順にその声に聞き従いましょう。従う者に、神は豊かな報いを用意しておられます。

キリストのことを思う機会が多ければ多いほど、私たちはこのお方に似たものとされます。本来私たちは、神の姿に似せて創造されたのですから。

生きることはキリスト(2008.2.24)

題   : 「生きることはキリスト」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  1章12節~26節
パウロ先生は、自分が獄中にとらわれている時にも、神様によって愛され、神の愛のふところに捕われている実感をもっているために、いつも周囲の人たちを愛の心をもって励ますことができたのです。

1.福音の前進
パウロは、自分が捕われて牢獄にいることも前向きに捕らえています。それは彼が捕われの身でありながら、看守や牢獄の中にいる犯罪者たちにもイエス・キリストについて語り続けたために、福音が兵隊たちの間にも知られ、救われる者が起こされるほどでした。
わたしたちは小さな困難も愚痴やひがみの原因にすることが多い者です。しかし、困難も福音の前進に役立つように求めるべきです。

2.愛の動機
わたしたちが福音を伝えるのはどこに動機があるでしょう。パウロの時代も現代も同じような動機があります。
ある人たちは、伝道をすることさえ自分の利益のために、つまり自分が人からほめられたいためにしています。
このような人々は、伝道や主のための奉仕でさえ自分の見栄のためにしています。このような人は、ほめられると奉仕をしますが、人に認められなかったらしなかったり、不満をおぼえたりします。

3.生きるとはキリスト
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とパウロは言います。わたしたちの生きている意味はどこにあるでしょう。
わたしたちは、神のご愛のゆえに、キリストの十字架によって罪ゆるされ、復活によって新しい命に生かされ、神に導かれ、神と共に歩むお互いです。
つまりわたしたちは、キリストから離れては一瞬たりとも生きることはできないはずです。キリストを信じるということは、キリストと共に生きるということです。
本気でキリストと共に生きましょう。

目標を目指して(2008.2.3)

題   : 「目標を目指して」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピ  3章12節~21節
本日は、教会総会の礼拝でもありますので、1月6日の新年礼拝で語った同じ箇所の、今年の標語の箇所から導かれています。さて、わたしたちは新年を迎えて一ヶ月を送り、どれほどの前進が出来たでしょう。一年間を振り返るときに神様の前にも、自分自身にも喜び、感謝のできる目標に向かって近づけるものでありましょう。

1.キリストに捕らえられているわたしたち
パウロは、熟練し、聖徒として練り上げられ、不純物を取り除けられ、キリストの形に造り上げられたかと思える大聖徒が「既に完全な者となっているわけでもありません」と言っています。
しかし、パウロは「捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と言います。
わたしたちもキリストに捕らえられたお互いです。捕らえられたものらしい生き方をしたいものです。

2.完全な者にされているわたしたち
キリストに捕らえられているということは、キリストの完全な救いに与かった者です。そのような特権に与ったわたしたちは、毎日、ひたすら走ることが大切です。
完全な救いすなわち、完全な神の子どもにされたわたしたちです。そのわたしたちがさらに神様からの賞が与えられると言うのです。あのパウロの言う「義の冠」(2テモテ4:8)であり「命の冠」(ヤコブ1:12)、「栄冠(栄光の冠)」(1ペテロ5:4)です。

3.本国の備えられたわたしたち
先の賞をいただいたわたしたちは、主イエス・キリストのおられる御国に入れて頂ける特権が与えられていますが、そこは、新しい命をいただいて神の子とされた者たちの本国なのです。
しかも、イエス・キリストはそこから再臨されます。わたしたちが御国に移される前に再臨があれば、また感謝なことに約束の御国に移していただけるのです。
この地上においてこうした、このような輝く目標の与えられた恵を覚えて教会の前進、成長を願い、愛と平和に輝く神戸中央教会として頂きましょう。

信仰の前進(2008.1.6)

題   : 「信仰の前進」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : フィリピの信徒への手紙 3章12節~16節
今日は、教会の標語である「信仰の前進」から語らせていただきます。パウロは、わたしたちから見れば完成された信仰者で、だれも近づくことの出来ないほど偉大な聖徒だと思われます。
しかしパウロは「わたしは、既に完全な者になっているわけでもありません。」と告白しています。ここに信仰の成長の秘訣があります。つまり、「自分は既に完成された者である。」というところには成長は望めないのです。
パウロはここで、完成を目指すクリスチャンを競技場でゴールを目指して走るスポーツ選手にたとえています。

1.後ろのものを忘れて走る
かつての経験、かつては熱心であったことはあまり重要ではありません。神様は今あなたがどのような信仰生活を送っているかに興味をもたれます。
かつての栄光にしがみついていては前に進みません。かつての罪や弱さを引きずっていては走れません。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ12:1)。

2.目標を目指して走る
マラソンのような長距離走でも、短距離走でも選手の目標はゴールです。ここでパウロの示すゴールは、キリストの復活の力と喜びに与ることです。さらに賞を得るために走るのです。ここでいう賞とはパウロの言う「義の栄冠」(2テモテ4:8)です。
ひたすら目標を目指しましょう。先日ベラカで学んだロトの妻のように、後ろを振り返ることなく走るのです。

3.完全な者として走る
完全な者になっているわけではありませんと言いながら、ここでは「完全な者は」と言っておられます。
わたしたちは完全な救い、すなわち、イエスキリストの完全なあがないの十字架と復活という救いに与った者です。そうであれば、完全な救いに与った者らしく信仰生活を走り抜きましょうと言うのです。

聖霊による洗い(2007.1.28)

題 : 「聖霊による洗い」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書 : テトスへの手紙  3章 1節~ 7節
  この世は、無分別、不従順、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎みあっています。しかし、これらのことはわたしたちがクリスチャンとしていただく前に持っていたものに他なりません。
 そのために、これらの結果から生まれる罪のために悩み苦しんでいました。しかし、御子イエス・キリストの十字架と復活という、神の最高最善のご愛があらわされたことによって、信じる者が救われ、この大きな悩み苦しみから解放されるという、すばらしい恵みに与らせていただいたのです。

1.新生の洗い
 神はわたしたちを新しく造りかえるために、イエス・キリストを十字架にかけて下さいました。そのところで惜しげもなく流された血潮によって、わたしたちの罪が洗われたのです。
 また「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリ12:3)とあるように、この十字架の血潮による救いも聖霊の洗いであるということができます。

2.心の内側の洗い
 神は、わたしたちを罪からの救いの洗いをなしてくださったのみならず、洗いの聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださったというのです。なんという喜び、何という祝福でしょう。わたしたちの魂の内側までもきよめてくださるのです。
 父なる神、子なるキリスト、そして聖霊なる神を信じる者のうちに実現される聖潔(きよめ)と言う魂の洗いをわたしたちは実体験させていただいているでしょうか。
すでに完成された、神の憐れみによる救いを信じ受け止めましょう。

3.洗いの結果
 聖霊の洗いを受けた者は、永遠の命の保証をいただくことができるのです。なぜなら、自分の行いや、善行によってではなく、ただキリストの十字架と、聖霊の洗いによって義とされたからです。したがって、死に直面する時も恐れを持つことなく、喜びと平安をもって、天国を望むことができるのです。

キリストがあがめられますように(2007.1.14)

題  :「キリストがあがめられますように」  
宣教 :仁科 共子師
聖書 :ルカによる福音書 5章1節~11節
  MSIの中国での働きのため、私のMSIでの働きのためお祈りいただきご支援いただいておりますことを感謝いたします。どのような働きも聖徒たちの祈りと献げものによって支えられ,また神様がその全てを用いておられることを覚え感謝いたします。

1.全てのことはキリストのため
パウロは彼の身におこる全てのことは神様の御手の中にあり,福音が前進するためであるという理解をしていました。ここに神様に対する信仰の目で全ての出来事をうけとめる姿勢があります。監禁されていることすらもキリストのためであり,このことが用いられているのを体験していました。
私も日々の生活と働きのなかで“ 神様がいつも共に働いておられる ”ということをたびたび教えられました。

2.キリストを告げ知らせている
福音を伝えるとはキリストを告げ知らせることです。それは言葉を通してだけではなく,クリスチャンを通して伝えられて行きます。

3.わたしの身によってキリストがあがめられるように
キリストのものとされたクリスチャンによってキリストが証しされ、あがめられていきます。わたしと共におられ,わたしのうちに生きておられるキリストがわたしの身によってあがめられますように。福音にふさわしい生活を送らせていただけますように。

沖に漕ぎ出せ(2007.1.7)

題 : 「沖に漕ぎ出せ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書: ルカによる福音書 5章1節~11節
  元旦礼拝にお会いできなかった方もおられますので、改めて「明けましておめでとうございます。本年も神様がみなさまを祝福くださいますようにお祈りします」
 ルカによる福音書5章4節には、今年の神戸中央教会の目標と重なり合う部分が多くあります。この記事によれば、後に驚くほどの大漁を見たのです。しかしここで、わたしはイエスの奇跡の中にわたしたちに与えられる大きな教訓を見ます。

1.教え始められた
 この時イエスはシモン・ペトロの船に乗り込まれました。わたしたちの領域にイエスはおられますか?あなたの家庭に、あなたの職場に、あなたの心の中にイエスは乗り込んでおられますか?わたしたちは主のお働きに与るためには、主のみ教えを聞く必要があります。主のみ言葉を聞かないで事を始めても何も得ることはできません。

2.沖へ漕ぎ出せ
 イエスのみ教えを聞いたら次にイエスのご命令に耳を傾けましょう。イエスは「沖へ漕ぎ出せ」と言われます、今年、あなたは今の浅瀬で満足していてはいけません。沖へ漕ぎ出すのです。もっと信仰生活に本気になるのです。
 今まで自分勝手に網を降ろしていませんでしたか?沖へ出て、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスが言われる通りに従って行動をすると、主の不思議な奇跡を見せていただくことができます。

3.人間をとる漁師
 思いがけない大量を見せられた時、シモン・ペトロは自分の弱さに気付くと共に、罪深さにも気付きました。それでイエスの前にひれ伏したのです。
 あなたは、何かに成功した時、思い通りになった時自分の力を誇りますか、それともイエスのみ業のすばらしさを認め自分のちっぽけさを認めますか?
 自分の弱さと足りなさ、汚れを認める時、イエスは十字架の血潮でゆるし、永遠の命を与え、さらに神に喜ばれる清い心を与えてくださるのです。
 そしてわたしたちは、滅びに向かっている人々に福音を述べ伝え、イエスのもとに人々をお連れする者にしていただくのです。