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新約聖書

しあわせはここに(2008.10.19)

題   : 「しあわせはここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 5章1節~9節
聖書は全体を通して、人が神の前に真っ直ぐに歩むならば、その人生がどんな局面に遭遇したとしても、一切が神への感謝となり、神を讃えるさいわいな人生となることを明らかにしています。

1.自分のみじめさに気づかされる
「ベトザタ」と呼ばれた池の周囲にいた人々は、一様に人生の挫折を味わい、失望と空しさ、不安といらだちの中に置かれていました。38年間病気に苦しむ人も例外ではありませんでした。
彼には、自分の力ではどうすることもできないために、何とかならないか、とのあえぐ姿があります。「良くなりたいか」との主イエスの語りかけにも、助けてくれる人がいない、また一緒に苦しんでくれる人もいないと諦め、無力感を感じています(6~7節)。
今日のわたしたちも、心身の弱さだけでなく、自分の愚かさを悔いたり、取り返しのつかない失敗をしたりといったみじめさを経験します。それらは、誰しもが経験するのではありません。しかし、全ての人が共通して味わうのが、罪と死に対して神の救いにあずかっていない、というみじめさです。
何とかならないかとあえぎつつも、それを他の人に責任転嫁したり、誰もが同じだと諦めてしまう無力感を抱いたりする自分の姿に気づいていますか。

2.キリストの救いの力を経験する
「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『良くなりたいか』と言われた」(6節)と、自分のみじめさを味わう人に愛のまなざし、愛の理解、愛の語りかけをしておられます。
その究極の現われが、私たちが罪と死の虜となっているところから解き放たれるために、主イエス・キリストが十字架で身代わりの死を遂げてくださり、死の壁を打ち破って復活された救いにあります。
今や私たちは、「起き上がりなさい・・・歩きなさい」(8節)との主イエスの招きに信頼して、このお方の救いの力によって立ち上がらせていただき、新たな歩みを始める必要があります。本気になって、「良くなりたいのか」との愛の招きに応ずる決断をしたいものです。

慰めによって(2008.10.12)

題   : 「慰めによって」   宣教:   仁科 共子姉
聖書  : 2コリント 1章3節~11節
イエス・キリストによって新しくされたクリスチャンの人生にも苦難は無くなることはありません。それは,私達が苦難の中にあって神の恵みを体験し,それによって苦難の中にある人々を慰める者となるためです。

1.神の豊かな慰め
慰めを受けるのは苦しみの時です。クリスチャンにとっての苦難はイエス・キリストの苦しみを知る時であり、神の慰めを受ける時です。
私達はイエス・キリストの苦しみが私達の救いと慰めとなったことを覚え、その救いの恵みによって慰められ力づけられて生きる者とされているのです。神の慰めは豊かに私達に与えられます。
「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる・・・」(4節)

2.神に信頼する者に与えられる慰め
パウロは死を覚悟したほどの大きな苦難の中で自分を頼りにするのではなく、神を頼りにしたと言っています。(9節)
苦難の中にある人を慰めることができるのは、その人と同じ思いになって苦難の中を共に歩む人です。
イエス・キリストは人としてこの世に来てくださり、人として苦しみを受けてくださいました。それゆえに私達の苦しみを理解して下さることができるのです。
私達がイエス・キリストにあって生きる生活の中で苦しみを受ける時、ただ神にのみ信頼するならば、神は豊かな慰めを以って私達を慰めてくださいます。そして私達は苦難の中にある人々に神の慰めをもたらす者とされるのです。

どんな時にも私達を愛してくださる全能の神に信頼しましょう。そして、神からいただく慰めによってあらゆる苦難の中にある人を慰めることができる者とならせていただきましょう。

救いの達成を(2008.10.5)

題   : 「救いの達成を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章12節~18節
人は、一つのことをやり遂げたいとの願いを持っています。そして、私たちは、救いを全うしてくださる真実な主に在って、「自分の救いを達成する」ことを努めたいと願います。

1.信仰による従順によって  12~13節
私たちは、キリストの十字架の死と葬り、復活と昇天と着座という救いのみわざに対する信仰によって、救われたのであり、救われ続けているのであり、救いの完成にあずかるのです。「ただ信じなさい」とは、キリストの救いにすがる以外に自分ではどうすることもできないという、自力に絶望した告白です。
その救いを達成するためには、信仰による従順が求められます。信仰と従順は、切り離すことができません。そして、主に従いたいとの謙虚な恐れとおののきをもって、救いにあずかり続けることを願うのです。
なお、その願いを起こさせ、救いを成し遂げてくださるのは、私たちの内に働きかけていてくださる神ご自身です。

2.従順な生活を通して  14~18節
この救いを達成するために、「よこしまな曲がった時代の中で」どのように生活し、実を結んでいくのでしょうか。
「神のなさることは本当に正しいのか」、「神は余りにも多くのことを求められる」などと、不平や理屈、つぶやきや疑いを持ったりすることが、私たちを不従順にさせます。主に従う生活は、神の前でも、人の前でも非難されない純真な品性と人格が備えられた生活を歩むことです。
そして、魂に命を与え、養ってくれる「命の言葉をしっかり保」って自分のものにし、みことば通りに生きることによって、キリストを輝かす歩みをすることです。
パウロは、キリストの再臨の日を見据えて、人々の救いの完成のために労苦と犠牲をささげることに勝ち誇る喜びを覚えていました。私たちが、信仰による従順な生活をすることは闘いです。しかし、そこには勝利があります。この勝利こそが、キリスト者の「喜び」なのです

豊かになる秘訣(2008.9.28)

題   : 「豊かになる秘訣」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章21節~25節
私たちが出会う人々は良い魂であり、また伝道する地域は良い地であると受け止めていくなら、そこに蒔かれる神の言葉は豊かに実を結んでいきます。そのような信仰と期待に支えられて、まず私たち自らが神の言葉を聞くことに深められていく必要があります。

1.聞く耳をもって聞く  21~23節
本来「ともし火」は、升の下や寝台の下に置かれるのではなくて、燭台の上に置かれることによって輝きます。
「ともし火を持って来る」とは、「わたしは光として世に来た」(ヨハネ12章46節)と言われたイエス・キリストご自身のことです。その主イエスが私たちの所に来てくださり、なされた御わざを御ことばによって解き明かしてくださったことによって、神とはどのようなお方か、救いとは何かを教えられ、私たちが神の恵みによって生かされ、また永遠のいのちに生きることが明らかになったのです。
ですから、私たちは、語られた御ことばを聞く耳をもって聞き続け、信仰によって理解することが大切です。そうすることにより、暗い世の中に光り輝く者として用いていただくのです。

2.注意深く聞く  24~25節
どういう聞き方をしているかとともに、「何を聞いているか」に注意する必要があります。そこで、主イエスは「秤」のたとえをもって語られたのです。
秤は、語られたことを注意深く聞く程度に応じて、与えられる恵みも異なるという意味で語られています。信仰をもって注意深く聞く者は、いただいている神の恵みを「更に与えられ」ます。逆に、不信仰な姿勢で、不注意に聞いたり、偏見や批判をもって聞いたりするなら、与えられている神の恵みを失うばかりか、神の御ことばを正しく聞く機会まで失うことになります。
神の御ことばを注意深く聞くことによって、神が与えてくださる恵みは豊かに溢れます。ですから、新鮮な思いで聞こうとする意欲を、教えていただこうとする謙虚さを、大切なことをとらえる注意力を失わないようにしたいものです。

真実な結実(2008.9.21)

題   : 「真実な結実」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章1節~20節
私たちは、農耕の世界だけではなく、様々な分野において「種を蒔く」ということをします。その中でも、「神の言葉」の種を蒔くことが、私たちに託されている大切なことです。そして、豊かな結実を期待しますが、そのために必要なことは何でしょうか。

1.開かれた耳をもつ
たとえ話で語られていることは、種の良し悪し、蒔き方の良し悪しは問題とされていません。問題は、土壌にあると語っています。神の言葉の種を蒔く人は、主イエスご自身であり、主の弟子たちであり、私たちです。問われていることは、神の言葉を聞く人の姿勢です(3節、9節)。
神の言葉を聞くことに集中しないで、聞く心を閉ざしてしまうと、御言葉はサタンに奪われてしまいます(15節)。
神の言葉を喜んで受け入れても、それが気まぐれであった場合、困難や迫害に遭うとつまずきます(16~17節)。
神の言葉を受け入れても、この世の思い煩いや富の誘惑や様々な欲望に支配されると、知らないうちに御言葉が塞がれてしまいます(18~19節)。
神の言葉を聞いて受け入れ、絶えず御言葉を優先させていくなら、その人の内に豊かな結実を見ることができます(20節)。
神の言葉を聞こうとする開かれた耳をもつときに、神は御言葉どおりの御わざをなされるのです。

2.結実の切なる願いをもつ
神の言葉を聞いて受け入れる人は、全面的に受け身というのではありません。試練にも耐えて、実を結ぶ人であることが求められます。すなわち、始めから自分は良い地だと思って漫然としているのではなく、神の恵みによって励まされつつ、結実のために労することです。そして、良い地になっても、三十倍、六十倍、百倍とあるように、百倍の実りとなることを目指すのです。
いかなる時も、コツコツと御言葉の種蒔きがなされ、その御言葉を受け入れるに際しては誠実な努力がなされることが必要です。そうするなら、豊かな実を結ばせてくださる神の働きが見えてくるのです。

キリストの心(2008.9.7)

題   : 「キリストの心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章 1節~11節
「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(5節、文語訳聖書)と、キリストと共に、キリストのために生きる者は、キリストの心を大切にするように勧めています。その心は、「へりくだって」とあるように(3節、8節)、謙遜な心です。これこそ、私たちが受け継いでいく信仰のいのちです。

1.キリストの謙遜が私たちの救い
キリストの心の中心は、キリストの愛です。キリストの愛の中心は、キリストの謙遜です。真の神であられるキリストが、人となられて罪以外の全てのことを経験してくださり、その地位も立場も無にして仕えてくださいました(6~7節)。その極みが、十字架の死に至るまで従順であられたことです(8節)。
主イエスは、十字架という唯一の目的のために従順であることを学びつつ、従い通されました。これによって、私たちの救いの源となられたのです(ヘブライ5章8~9節)。
父なる神によって最も高く挙げられたキリストこそ、主と告白され、全ての被造物によって礼拝を受けられ、讃えられるべきお方です(9~11節)。

2.キリストの救いが私たちの謙遜
このキリストの謙遜こそが、パウロがフィリピ教会に対して切願した一致の土台でした。さらにパウロは、一人ひとりの信徒がキリストの愛と慰めと恵みによって霊性を整えられ、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志しが一つになるようにと切願しています(1~2節)。
そのために大切なことは、キリストの救いのゆえに、自分優先ではなくて、キリスト優先を貫くことです(3~4節)。そこでは、他者が生かされ、教会が生かされ、神の栄光が現されるために、自分の主張を撤回し、自分の利益を捨てることが求められます。キリストと同じように、謙遜になって従順を学び続けることによって、真に他の祝福の源となることができるのです。
謙遜であられるキリストが、私たちの内に力強く働かれ、そのキリストに生きていただくという信仰に生きる教会となりましょう。

引きつける魅力(2008.8.17)

題   : 「引きつける魅力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 3章7節~19節
主イエスの魅力は、いかなる時にも毅然としておられ、定められた時と自らの進退をわきまえておられたところから溢れる品性にあり、それが人を引きつけました。
主イエスは、しばしば寂しい所に退いて、弟子たちとの親密な交わりを持ち、ご自身のお心を明らかにされました。

1.人を生かす御わざをなされた  7~12節
ガリラヤ人だけでなく、彼らを軽蔑していた人々や異邦人たちを含むおびただしい群衆が主イエスに従ってきました。それによって、主イエスは押しつぶされるほどの迫りを受けられました。これは、主イエスご自身の愛と恵みと力に満ちた引きつける魅力があったからです(ヨハネ12章32節参照)。
病気に悩む人とは、罪という病と死の力に悩み続ける人間の姿を表しています。また、真の神を失って汚れた霊のとりこになっている人とは、イエスが神の子であるという事実は知っていても、イエスを信じ、愛し、従うことをしない人間の姿が表されています。主イエスは、こうした一人ひとりを大切にし、愛し抜き、生かそうとしておられます。そこに、主イエスの引きつける魅力があるのです。
ここに、主イエス・キリストをかしらとする教会の本来の姿があります。

2.人を生かす器を備えられた  13~19節
主イエスは、一人ひとりの必要に応じつつ導くことが、どれだけ骨の折れるわざであるかを知っておられました。そのためには、どうしても主イエスの御わざにたずさわる器が必要でした。そこで、12人を選び、使徒として任命し、遣わしなさったのです。
そのために、主イエスは器造りをされます。引き寄せられる主イエスのそばに集まってきた12人は、主イエスのご意志による選択でした。それは、人間の合理的説明を超えた不思議な選択です。まず、ご自身のみそばに置いて交わりをされ、それから福音宣教のために遣わされました。
私たちの任命書は、主イエスの十字架の血潮で記されています(ヨハネ15章16節)。主に選ばれ、信仰に生きることは、遣わされて生きることなのです。

憩いの日(2008.8.10)

題   : 「憩いの日」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章23節~3章6節
主イエスの復活を覚えて礼拝をささげる「主の日」こそ(ヨハネの黙示録1章10節)、私たちの安息の日であり、また憩いの日です。
主イエスは、「安息日の主」となられたお方です(2章28節)。

1.主と共に憩う日  2章23~28節
人間の本来の安息は、神が創造のわざを終えられた時の安息の中に身を置いて(創世記2章2節)、神を神として仰ぎ、神と共に憩うところにあります。そこでこそ、神を賛美し、神のみことばに聴従することを喜ぶことができるのです。
そのために、安息日をどのように過ごすかとの掟が定められました。ファリサイ派の人々は、主イエスがその掟に抵触すると非難したのです。それに対して、主イエスは、「安息日は、人のために定められた」のであり、ご自分こそ「安息日の主でもある」と宣言されました。
人間が人間らしく生きるために定められた安息日こそ、神の懐で憩うために備えられたものです。その真の回復は、救い主イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられたのです。

2.隣人と共に憩う日  3章1~6節
ファリサイ派の人々は、安息日に会堂で礼拝を守られた主イエスに対しても訴える罠をしかけてきました。彼らの心を鋭く見抜かれた主イエスは、その卑劣さとかたくなな心に対して怒りを表されました。そして、主イエスは、手の萎えた人を癒すことにより、善を行われ、命を救うことをされたのです。
安息日は、「命を救う」という神の祝福を受ける日です。その祝福が自分だけのものではなく、その祝福に与っていない人が同じ祝福に共に与れることを願い求める日です。今、私たちの礼拝を神がご覧になられたら、どう判断されるでしょうか。隣人の魂の救いに動かされているか、それともその魂を殺そうとしているか、どちらでしょう。
聖日は、「主の日」として聖別され、祝福され、安息をもたらす憩いの日です。この日を支配しておられるのは、主イエス・キリストです。

生きざまは死にざま(2008.8.3)

題   : 「生きざまは死にざま」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章20節~30節
キリスト者の死生観の中心には、いつもキリストがおられます。
パウロが、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と告白したように、その生は復活のキリストによって支配され、死もまた復活のキリストの恵みによって支配されているのです。

1.生きる意義
「生きるとはキリスト」とは、生きること即キリストということです。このように告白するキリスト者は、喜びの時であれ、また苦しみの時であれ、絶えずキリストの人格とみこころに完全にとらえられているのです。
ですから、イエス・キリストの十字架の死によって贖い買い取られて神のものとされた者は、パウロと同じように「この身によって」キリストが拡大されていくことを願うのです(20節)。
そして、パウロとフィリピの信徒が一つにされて、福音の信仰のために共に戦ったように、「キリストのために苦しむ」という恵みに生きるのです(27~30節)。互いが、このように生きることを通して、「実り多い働き」をさせていただきたいものです(22節、24~26節)。

2.死ぬ価値
一般に、死はマイナスであり、人を虚無にし、一切が終わりで受け入れられないものと考えられています。キリスト者でさえ、「死ぬことは利益なのです」とか「はるかに望ましい」(21節、23節)とは受け入れられないと言う人もいます。
しかし、人間の最後の敵とも言える「死」が価値あるものと告白できるのは、キリストの十字架と復活の事実のゆえに、肉体的束縛と永遠の死から解き放たれてキリストと共に永遠に生きる望みがあるからです。「あなたは死と墓を見つめるな、復活されたキリストを仰げ」との勧めに耳を傾けたいものです。
キリスト者の生き方は、限りある肉体だけの人生に関わって生きるのではありません。永遠の命を与えられていることを覚えて、生きている時も死ぬ時も、永遠の命に生きることを具体的に現させていただくのです。

新しい喜び(2008.7.20)

題   : 「新しい喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章18節~22節
日本イエス・キリスト教団の信仰告白文の特徴は、私たちが新しく造り変えられることについて詳しく語られていることです。それは、イエス・キリストによって成し遂げられた大いなる救いであり、そこには新しい喜びで満ちています。

1.全存在の中に
誰でも「新しく造り変えられたい」と思っても、古い自分との葛藤があって、願い通りにはいきません。そこで、新しく造り変えられることをあきらめたりします。しかし、このままの生き方でよいのかという問いかけが絶えずつきまといます。
また、ファリサイ派の人々のように、断食をするという掟を守ったり、善行したりすることによって、古い自分を繕おうとします。しかし、それでは、新しい布切れを古い服に継ぎ当てて裂けさせたり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れて張り裂けさせたりしてしまうようなものです。
新しい布切れと新しいぶどう酒は、イエス・キリストご自身です。このお方と結び合わされ、そのご支配の中に生きるためには、このお方を私たちの全存在に受け入れることが大切です。その時、新しく造り変えられた喜びが溢れてくるのです。

2.日々の生活の中に
聖書の時代は、悲しみの経験をしたり、罪を悲しんだりする時に断食をしました。ところが、花婿であるキリストが共におられたので、断食をする悲しみの時はありませんでした。この後主の弟子たちは、主イエスが十字架で死を遂げられるという悲しみを経験しましたが、その死からよみがえられた時に喜びは回復されました。以来、主イエスがいつも私たちと共にいてくださる日々は、喜びの連続です。
新しいぶどう酒にふさわしい、弾力ある新しい革袋であるキリスト者生活が求められます。そのためにはまず、私たちと共にいてくださる主イエスとの交わりを大切にすることです。不断の意識的な交わりを通して、私たちの人格と生活が変貌され続けていくからです。
「主のかたちに変えられていきます」との信仰告白を受け継ぎ、それに生きる一人ひとりであり、教会であらせていだたきましょう。

あなたが召されている(2008.7.13)

題   : 「あなたが召されている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章13節~17節
主イエスが、最も大切にされ、情熱を傾けられたことは、「わたしが来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである」(17節)と呼びよせ召しておられることに尽きます。

1.召された罪人とは誰なのか
当時の徴税人は罪人と同じように数えられていました(15節)。彼らは、神に選ばれたユダヤ人でありながら、神のことばに背いて生きているという理由で、社会から疎外され、交わりを持つことを敬遠されていたのです。律法学者たちは、そういう罪人を退けて、自らは正しい者とした人々でした(16節)。
ところが主イエスは、全く違った視線で徴税人を見ておられます。そして、「わたしに従いなさい」と召しておられます(14節)。主イエスは、自分を正しい者として他者と区別して自己満足している偽善者ではなく、神の前に出ることもできないこころ貧しい者と自覚している罪人を大切にし、情熱を傾けて招いておられるのです。この召しは、主イエスの十字架に直結しています。
自分らしさを求め、自分らしく生きたいと願っても、自分の視点で見ていては解決はありません。主イエスの召しに応えて、主イエスが見られる視点で自らが罪人であることを分からせていただき、十字架による救いにあずかることが大切です。

2.召された罪人はどのように生きるのか
すでに主イエスの召しに応じた人々のように(1章16~20節)、徴税人レビも「立ち上がってイエスに従った」と、召しに応答しています(14節)。彼は、これまでの取り立てる生き方から、分かち合う生き方に変えられ、主イエスに招き入れられたことの喜びを経験しました。そして、レビ自身そのことを忘れることなく、自らも罪人を招く者と変えられ、「イエスのために」生きる者とされたのです(ルカ5章27~29節)。
私たちが神のものとされ、聖別され続けるという恵みは、それを受けたときと同じ「イエスに従った」という信仰と服従を持ち続けることによって持続されます。キリストに召されているという恵みを失わないようにしたいものです。

キリストのすばらしさ(2008.7.6)

題   : 「キリストのすばらしさ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 1章12節~20節
イエス・キリストの救いをいただき、いつも感謝をもって喜び満ちていたことを証しするのが「フィリピの信徒への手紙」です。
ここでパウロは、自分の身によってキリストのすばらしさが現され、さらに拡大されることを絶えず願っています(20節)。それは、どのようにして成されたのでしょうか。

1.生きざまを通して  12~18節
まずパウロは、監禁という自分の身に起こった生きざまを通して、キリストのすばらしさが拡大されていったことを語っています。それが、福音が新しい展開に切り開かれていくという、福音の前進に役立ったというのです。
すなわち、監禁されるという苦しみを通してでしか伝えることのできない人々に、福音が届けられたのでした(4章22節)。その結果、他のキリスト者の信仰に確信を与え、信仰を深め、彼らを福音の証し人としました(12~14節)。
ところが、純粋な愛の動機で福音を語るだけでなく、自分を誇示するという自分中心の動機で福音を語る者もいました。
それでもパウロは、一貫して、キリストが告げ知らされていることのみを喜びとしました。キリストのすばらしさが現されることのみを喜んだからです(15~18節)。そこに行き詰まりはなく、前進あるのみです。

2.祈りと聖霊の十分な供給によって  19節
以上のような一連の試みは、パウロに霊的成熟をもたらし、キリストに似たものにされていく救いの道となりました。彼は、監禁されている中で、つぶやかず、いらだたずに、常に喜び、絶えず祈り、事ごとに感謝するという聖別にあずかることを体験的に知ることとなったのです。
そのように確信させてくださったのは、聖徒の祈りと聖霊の十分なまでの供給によるのでした。それはちょうど、聖霊が指揮者のようになって、聖徒たちが祈りを合わせて一つとなっていく時に、どんな行き詰まりや困難の中にあっても、キリストのすばらしさは拡大し、福音は前進していったのです(マタイ18章18~19節)。
私たちは、自分が何者であるかを現すのではなく、いかなる時も、キリストのすばらしさを現させていただきたいものです。

突き進む愛(2008.6.29)

題   : 「突き進む愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章1節~12節
主イエスは、いつものように御言葉を語り伝えておられました(2節)。そうした中で主イエスがなされた御わざは、人々が普段の自分を忘れるほどに神を崇め賛美せずにはおれない驚くべきものでした(12節)。
さて、そこには、突進するというにふさわしい人の愛と神の愛がありました。

1.キリストのもとに突進する人の愛  1節~5節前
主イエスが帰ってこられたことを聞きつけた人々は、みことばを熱心に、熱中して、集中して聴いていました。その中に、我を忘れた愛の行動をとった四人の男がいました。中風の人を主イエスのもとに連れてくるために、屋根を破って吊り下ろしたのです。そこには、吊り下ろされる者と吊り下ろす人たちとが一体となって、主イエスのもとに飛び込んで行ったのです。
それに対して、主イエスは、愛によって働く信仰を見られました。吊り下ろされる人の願いを知られ、この人の願いを自分の重荷として背負っている四人の男の信仰を見ておられたのです。
今日の私たちにも、一人を四人でといった、何とかしてキリストのもとにお連れするという一体感と一致が必要です。

2.十字架に突進された神の愛  5節後~12節
さて、主イエスは、「よく来た」とか「立派な信仰だ」と言っておられません。病のいやしよりも、誰もが背負い込んでいる罪の赦しを宣言されました。私たちは、罪が指摘されてうなだれるしかない時に、一緒に反論してくれる人ではない、言い訳をしてくれる人でもない、援護射撃をしてくれる人でもない、罪人と一つになってくださるお方、罪を担い切って赦してくださるお方が必要なのです。
イエス・キリストは、そのことのために全てを注がれたのでした。十字架へ突進するように飛び込んでくださったのです。ここに、神の愛が現れています。だからこそ私たちは、罪の赦しという救いに突き進む以外に、神の前に生きる道はないのです。
今、私たちも、横になっていた罪の床を払い、立って歩みだし、また歩み続ける「驚き」を経験し続けたいものです。

主のあわれみ(2008.6.15)

題   : 「主のあわれみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章40節~45節
聖書が語る「憐れみ」は、主なる神の言動の根幹をなしているご性質で、はらわたが痛むほどに心動く同情であり、激しい愛そのものです。「イエスが深く憐れんで」くださったことにより、何がもたらされたでしょうか。

1.主イエスの謙(へりくだ)りのみわざがもたらされた
「重い皮膚病」は、潜伏している病で、それを覆い隠そうとするものでした。肉体をむしばむだけでなく、社会から隔離され、いやしめられていました(レビ13章45~46節)。その病を宣言するのも、また清められたと宣言するのも祭司でした。
この病を患う人が、主イエスの憐れみにすがって、近づきました。それに対して主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」、ご自身の心として清めるみわざをなされ、回復させ、本来おるべきところにお返しになられたのです。
人間は自分自身の真相を覆い隠そうとする罪深さがあります。そんな罪人に触れて罪そのものになってくださった主イエスこそ、十字架の血潮によって、その罪を赦し、きよめてくださるお方です。このようにして、憐れみの主が謙ってくださったのです。

2.私たちに謙(へりくだ)る祈りがもたらされる
重い皮膚病を患っていた人には、最初から明確な信仰の姿勢がありました。謙ってひざまずき、「御心ならば」と祈り願うのでした。それに対して、主イエスは「よろしい」と、彼の真実な信仰の姿勢を見られて、きよめるわざをなされました。
このような謙る信仰の姿勢は、世々の信仰者たちが貫いてきたことです(1テモテ1章12~17節参照)。
果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どれ位真剣に受け止めているでしょうか。また、自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれだけ神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であると自覚しているでしょうか。信仰とは、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。主イエスの十字架でこそ、神の憐れみに触れさせていただくことができるのです。私たちは、どこまでも憐れみの主の後に従って行くことが大切です。

喜びの連続(2008.6.8)

題   : 「喜びの連続」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章29節~39節

主イエスは、シモンの姑をいやされ、人々に対しても数々のみわざをなされ、さらに宣教を展開していかれました。シモン・ペトロは、そうした一連の出来事を喜びをもって語り、人々も喜びをもって聴いてきました。
私たちは、自らが体験する様々の出来事を主イエスとの生きた関わりの中で捉え直すとき、喜びが連続して溢れてきます。

1.家族と共に主に仕える喜び  29~31節
シモンの姑は、彼らの家に来られた主イエスによってその病がいやされました。彼女は、それ以来喜びに溢れて、主イエスに仕えるようになりました。この出来事は、シモン・ペトロにとっても終生忘れることのできないこととなり、彼の妻も喜びをもって主に仕えるようになりました(第1コリント9章5節参照)。
何もかも捨てて主イエスに従うことは、後には勝れる祝福と永遠の命を受ける恵みとなるのです(マルコ10章28~31節)。
主イエスは、ご自身に従う人のみか、その家族の一人ひとりにも心をかけ、思いを向け、一緒に主に仕える喜びへと導いてくださいます。

2.主からの使命に忠実である喜び  32~39節
主イエスは、病める人々を深くあわれんでいやし、神の恵みを現されて、愛のゆえに人々の必要に応えられました。ところが、主イエスは祈られる中で、父なる神のみこころは、福音の宣教によってもたらされる神の救いであることを確認されました。そこで、病をいやすこと以上に、時にはそれを捨て去るようにして、福音の宣教を最優先しておられます。
ペトロは、主イエスがカファルナウムで祈られたこの祈りを覚えつつ、その同じ祈りに自らも置くようにして従う喜びを経験しました。そして、ペトロはこの後、ガリラヤからロ-マにまで至る福音宣教の使命を主イエスと共に進めていきました。
今日の私たちが最も優先すべきことは、神の恵みが生き生きとなされる魂のいやしと救いのみわざが起こされることを祈ることです。そして、その恵みにあずかった私たちが、福音宣教の使命に忠実に生きることを喜びとすることです。