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新約聖書

教会の起源(2009.5.31)

題   : 「教会の起源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章1節~13節
五旬節の日が来て」とは、イ-スタ-から50日目にあたるペンテコステの日を言います。この日は、キリスト教会の起源として祝いの時でした。また、キリストの救いがあまねく拡大していくという、豊かな霊の収穫の時の始まりでした。

1.神の霊によって  1~4節
「一同が一つになって集まっていると」、突然聖霊が降りました。聖霊は、風が激しく吹くように、神に背を向けて生きていた者に新しい神の命を与え、次から次へと新しい命を生み出していきます。聖霊は、炎のように、私たちの罪や汚れを焼き尽くし、キリストのお姿を私たちの内に焼き付け、私たちをキリストのものとして燃え続けさせてくださいます。そして、聖霊は、舌に象徴されるように、私たちが福音の言葉を語れるようにしてくださいます。
聖霊は、「突然・・・天から・・・一人一人の上にとどまった」のであり、その結果「一同は聖霊に満たされ」たのです。このようにして、教会は、聖霊によって始められたのであり、今も変わらず聖霊が働いておられるのです。

2.神の言葉によって  5~13節
ペンテコステの出来事は、宣教する教会が始まった時でした。聖霊に満たされた人々は、「゛霊゛が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のでした。人々が驚いたことは、各地から来ていた人々の生まれ故郷の国語で、「神の偉大な業」が語られていたことです。この時、「天下のあらゆる国から」の人々によって福音が語られています。しかも、文化・国語・地方性にマッチした形で「めいめいが生まれた故郷の言葉」によって語られています。このように、聖霊が一人一人に降る時、神は私たちをご自身の器として用いてくださるのです。
ところで、聖霊が降ったその時から、教会は宣教の群れとなりました。聖霊の満たしとその支配の中にあったからです。私たちは、失敗や挫折があっても、閉塞感を覚えることがあっても、時が良くても悪くても、宣教する教会を導かれる聖霊の働きに、心と思いを向けていく必要があるのです。

恵みを無にしない(2009.5.24)

題   : 「恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  8章1節~21節
主イエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われ(2節)、いつも憐れみを注ぎ続けられました。そこから溢れ出た今回のパンの奇跡は、先回のパンの奇跡(6章30~44節)と同様に、主イエスの恵みの御業でした。私たちは、今日も変わらない主イエスの恵みを無にすることはできません。

1.満ち溢れる恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、多くの共通するものがあります。中でも、「残った」パン屑を籠に集めたことは(8節)、神の恵みを無駄しないことを教えています。 ところで、主イエスは、偽善と世俗主義の悪影響が及んで、神の恵みが変質させられることを嘆き悲しまれました。弟子たちが、信仰をもって神の恵みを受け止めることができなくなったからです(11~21節)。
さて、私たちは、神の満ち溢れる恵みを変質させ、信仰によって受け止めることができず、それを無にしていないかと問われます。キリストの救いの恵みは満ち溢れており(2コリント9章18節)、その喜び、慰め、栄光、感謝、希望も満ち溢れています。主イエスに心柔らかくしていただき、信仰の目、信仰の耳を開いていただきましょう。

2.拡大されていく恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、相違点もあります。注目すべきことは、先回は弟子たち方が心配して主イエスに相談しましたが(6章35~36節)、今回は主イエスの方から話しかけておられます(8章1~2節)。
前者は、主イエスが弟子たちの信仰をテストされたことに重きをおき、後者は、弟子たちの異邦人に対する冷淡な態度に対して主イエスが憐れみの御業をされたことに重きをおいています。
私たちは、常に主イエスの御業に満ち溢れ、それが拡大されていくことが求められています。ですから私たちは、今ある全てを主イエスの御手に委ねて、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(1コリント15章58節)と、神の恵みを拡大させていく使命を果たしていくのです。

受け継がれる祈り(2009.5.17)

題   : 「受け継がれる祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  1章12節~26節
復活された主イエスは、40日後に昇天されました(9節)。その時から使徒たちは、10日の間、神の約束に従ってエルサレムで過ごしました(4節)。その期間、「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。

1.信じ抜く祈り
使徒たちは、主イエスが昇天された後、どうすべきかと協議していたのではありませんし、今後の長期計画を練るために集まったのでもありません。ただ、彼らは、エルサレムの「泊まっていた家の上の部屋」で、約束の聖霊が与えられることを信じ(ヘブライ11章6節)、祈り待ち望みました。しかも、「熱心に祈っていた」と、祈りに打ち込んでいたのです。10日間祈りは、彼らにとって信仰の試される期間でした。
キリスト教会の歴史は、信仰による待望の祈りを体験した人たちによって進められてきました。それは、私たちの教会にとっても例外ではありません。祈る時間がないほど忙しいスケジュ-ルになって、優先順位を間違えないようにしたいものです。祈りに忙しい教会であらせていただきましょう。

2.一致して心注ぎだす祈り
ここには、使徒たちだけではなく、主イエスに従ってきた人たちが集まり、「心合わせて」同じ心で、祈りに打ち込んでいます。ここでの彼らは、主イエスの救いの御業が何を意味するのかを問い直し、自らを吟味し、悔い改め、罪を言い表し、互いに赦しあう時となりました。真の一致は、主イエスの十字架のもとで、真実な悔い砕かれた心を注ぎだすところから生まれてくるのです(ヤコブ5章16節)。
さて、12使徒の補充のために選ばれたのは、他の使徒と行動を共にした「主の復活の証人」でした(21~22節)。そのために人々は、祈って、「すべての心をご存じてある」主に判断を委ねています(23~24節)。
祈りは、教会が進んでいく上で、人ができる最善の備えです。こうした祈りこそが、いつの時代にも、いかなる状況下にあっても、受け継がれていくのです。

開かれる世界(2009.5.3)

題   : 「開かれる世界」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  7章31節~37節
神の福音に与かった人は、それを分かち合うことを願います。この福音は、今日にいたるまで、「この方のなさったことはすべてすばらしい」(37節)と証しされ、伝道されてきました。この福音の世界は、これからも開かれ続けていきます。

1.自分の魂が開かれる
連れて来られた「耳が聞こえず舌の回らない人」は、コミュニケ-ションが遮断され、視界のみの世界に生きていた人でした。主イエスは、この人の痛みにご自身の体をくっつけて触れられ、それが主イエスご自身の深い憐れみによる御業であることを明らかにされました。そして、「エッファタ」と言われて、この人の人格全体を解き放たれたのです(33~35節)。
私たちの間のコミュニケ-ションが、不足し、断絶している原因はどこにあるのでしょうか。私たちが、神の語りかけに魂の耳を開いていない、神に語りかける魂の口がきけないでいることにあります。しかし、憐れみの神は、私たちが神と心を通わせることができるように、さらに私たちお互いが心を通わせることができるように、イエス・キリストによって救いの道を開いてくだったのです。

2.隣人の魂が開かれる
かつては、主イエスに退去を求めたゲラサ人が(マルコ5章17節)、ここでは、耳の聞こえないで舌のもつれていた人を主イエスのもとに連れてきました。かつては、自分たちの豚のほうを大切に思っていましたが、今や隣人の救いを願っています。汚れた霊にとりつかれていた人が、主イエスによって解き放たれた救いを「デカポリス地方に言い広め」ていたからです(同19~20節)。一人の人の真実な証の持つ力は、どんな人の魂も開き、変えてしまうのです。
主なる神は、私たちを主の弟子として、必要な舌と耳を備えてくださいます(イザヤ50章4~6節)。舌は、すべて疲れて重荷を負う人に与える主の言葉です。そのために、主なる神は、神に聴いて悟ろうとする私たちの耳を全開してくださいます。 主の弟子は、周囲にいる隣人の魂のために、開かれた心、開かれた耳をもって、開かれた福音の言葉を語り続ける者なのです。

信仰の余裕(2009.4.26)

題   : 「信仰の余裕」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ  7章24節~30節
ここに登場する母親は、わが子を愛するゆえに、その娘のあまりにも重い病のいやしを主イエスに願い求めています。
それに対して主イエスは、冷淡とも思える言葉を語り、態度を取られました。しかし、母親は主イエスに対する信仰を失いませんでした。その余裕は、いったいどこからきているのでしょうか。

1.キリストの愛を知るゆえに
母親が、主イエスに願い続けたのは(26節)、主イエスが沈黙されたからであり、無視するような態度を取られたからです(マタイ15章23節)。挙句の果て拒絶されました(27節)。
しかし、母親は主イエスの語られたことに腹を立てることなく、拒絶の言葉と受け取ることもありませんでした。それどころか、満腹した子供たちの食べこぼしを小犬も食べますと、主イエスの豊かな愛と恵みに与かることを願っています(28節)。ですから、「主よ」と呼びかけることができたのです。
私たちが祈り願うことの答えが得られないとき、なお信じ、祈り続けることができのは、神の御言葉をどう聴くかにかかっています。いかなるときも、主の愛に信頼することです。そこに、信仰のゆとりが生れます。

2.キリストを信じ抜くゆえに
母親は、主イエスの「足もとにひれ伏し」懇願しています(25節)。彼女は、ひれ伏したまま主の御言葉を聴き、見上げながら、「主よ、お言葉どおりです」と謙虚に語っています(28節、口語訳聖書)。主の御言葉を聴き取ることができ、主の恵みを見ることができるのは、魂がひれ伏し、ひざまずいている時です。
ところで、主イエスの語られた通りに信じた母親は、あれほど執拗に懇願した人とは思えないほどに、あっさりと家に帰っています(29~30節)。それは、見ないで信じる信仰だったからです。
私たちは、罪人であり、弱く小さな者でしかありません。主イエスは、そんな私たちを愛し抜き、救いを成し遂げてくださいました。私たちは、主イエスの前にひれ伏し、信じ抜くだけです。そこから、信仰の余裕が生れるのです。

教会が若かった時(2009.4.19)

題   : 「教会が若かった時」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  1章1節~11節
あらゆる時代のキリスト者と教会を目覚めさせ、鼓舞してきたのが「使徒言行録」です。そこに証されていることは、教会の前進が聖霊の御業によるということです。そこには、聖霊によって変えられた人々がおり、聖霊に満たされた人々の力強い証があります。こうした教会の若さの秘訣は、いったいどこにあるのでしょうか。

1.キリストの証人が用いられる
聖霊は、キリストに贖われた人々とキリストの体である教会を通して、今も働きを継続しておられます。それは、地理的にも時間的にも、何ものにも拘束されずに、世界的な拡がりをもって進められています。
そのためには、私たち一人ひとりが「わたしの(キリスト)証人となる」必要があるのです。証人は、最も説得力を持つ事実を証言します。それは、キリストの十字架と復活の出来事の証人であり、その十字架と復活が自分の生涯にどのような変革をもたらしたかの証人です。そのために、しばしば不利で危険な立場に立たされることがあったり、キリストのゆえに殉教することもあるのです。
キリストの証人は、最も身近な人々から、「地の果てに至るまで」の拡がりの中で用いられていくのです。

2.聖霊が臨まれる
キリストの証人になれるのは、その人に能力があるから、訓練を受けたから、熱心であるからではありません。その秘訣は、「聖霊が降る」ことによって「力を受ける」からです。それは、いつでも、どこでも、どんな状態であっても、「イエスは主である」(1コリント12章3節)と証させてくださる力です。また、キリストの栄光のみを現わすことを第一とする力です(ヨハネ16章14節)。
私たちは、聖霊が臨まれるために、「私ではありません。キリストです」との信仰の転換をさせていただく必要があります。その転換が、一時的ではなく継続されていく時に、聖霊によって力が与えられていることを自覚することができるのです。
教会が若いとは、聖霊が臨み続けているキリストの証人によって、キリストとその救いの事実が証言され続けて前進している教会です。

石はすでに(2009.4.12)

題   : 「石はすでに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 16章1節~8節
聖書の時代から今日までの多くの人々は、「聖書は信じられない出来事である」と受け止めてきました(11節、13節、14節)。
さて、主イエスが葬られた墓に最初に行ったのは、三人の女性たちでした。彼女たちは、「石は既にわきへ転がしてあった」との事実と、「あの方は復活されて、ここにはおられない」との御使いの知らせに恐れています。

1.大きな「石」が取り除かれた出来事
キリストの復活は、大きな石が転がしてあった、ということに象徴される出来事でした。大きな石は、誰の上にものしかかっており、どんな手立てをもってしても、また誰も取り除くことのできないものです。それは、人間の死という現実と、それをもたらした原因である罪の支配の中にいることを言っています。
主イエスは、このような私たちの現実から解き放つために、私たちをまるごと受け入れ、十字架に死んで私たちの罪を赦して罪の無いものとしてくださり、復活されて私たちの最後の敵である死に勝利してくださいました。この救いは、一時のご利益に与るものではなくて、死を越えた永遠までも保障するものです。いかにも神らしい実力をもってなされた雄大な救いです。

2.神が「既に」なされた出来事
このように、主イエスの十字架と復活の御業は、何ら人の手を借りることなく、神の側で「既に」成し遂げてくださったことでした。私たちは、この事実を信じて仰ぎ続けるのみです。
ところで、復活された主イエスに出会うことが、わざわざ「ペトロに」と言われています。彼は、十字架を前にした主イエスを否認したことを悔い改め、信仰の回復をいただきました。その恵みを覚え、新たに生きる道と使命を与えられたことに、誰よりも感謝しているのです。
今日まで教会の全ての業がなされ続けてきたのは、キリストの復活の事実によります。何よりも、私たちが、主イエスに対する信仰と希望と愛をいただいて歩み続けていることこそ、キリストが生きておられることの歴然たる証拠なのです。

むりやりの恵み(2009.4.5)

題   : 「むりやりの恵み」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 15章21節~41節
主の十字架は、神の必然の出来事でした(マルコ8章31節)。主イエスは、この十字架の道を黙々と進んで行かれました。その十字架の周りには、一緒に十字架に架けられた人たちをはじめ、多くの人々が向かい合っています。
私たちは、今、どのように十字架に向かい合っているでしょうか。

1.十字架の主に直面している  39節
主イエスは、十字架にかかって、私たちの罪を担ってくださいました(1ペトロ2章22~24節)。そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれました(34節)。この叫びは、私たちが受けなければならない罪ゆえの審きを、その審きを受ける必要のない主イエスが身代わりになって審かれてくださったことを表しています。
その十字架の前に、主イエスを見下す人々(29~32節)、背を向ける人々がいました(23~24節)。しかし、百人隊長は、「イエスの方を向いて、そばに立っていた」のです。そして彼は、十字架の主の前に真正面に立って、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。私たちは、主イエスを十字架に追いやったことがどんなに深い罪であるかを知って、十字架の主に真正面に向き合う者でありたいものです。

2.十字架の恵みに直面している  21節
主イエスは、十字架を担いで刑場までの道をたどられました。途中、その十字架を「無理に担がせ」られたのがキレネ人シモンでした。彼にとっては、これは苦痛の時でしたが、十字架の主イエスを最後まで見守り、その叫びと祈りを見聞きしました。むりやりに担がされた十字架は、時間の経過とともに喜びに変わり、家族にまで救いが及ぶ恵みとなったのです(ロ-マ16章⒔節)。
私たちは、シモンと同じように、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マルコ8章34節)との招きに「日々」(ルカ9章23節)に応答していくなら、主イエスの恵みの大きさ、その救いの重さを見せていただき、ダイナミックな信仰の歩みとなります。主イエスは、責任をもって、十字架を貪る者の歩みを全うさせてくださいます。

キリストがすべて(2009.3.29)

題   : 「キリストがすべて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師

聖書  : フィリピ 4章21節~23節 復活されたキリストは、世の終わりまで常に私たちと共にいて下さり(マタイ28章20節)、私たちと親密な交わりを持ってくださいます。 このように、キリストが私たちのすべてとなってくださるので、聖なる者の交わりは豊かなものなり、神の祝福に生きるようになるのです。

1.聖なる者の交わりに生きる  21~22節 この手紙の結びは、パウロ及び彼と一緒に神に仕える者たち、そして聖なる者とされた者たちから、フィリピの聖なる者たちに送られた挨拶となっています。聖なる者とは、「イエス・キリストは私の主です」と告白した者のことです。彼らは、贖い主であるキリストに結ばれ、キリストの復活の命に与っている者たちです(ヨハネ15章5節)。 聖なる者たちの間には、キリストにある愛と信頼とによって親しい交わりがありました(1章5節、同7節、2章1節、3章10節、4章14節)。違いをもった人たちが、共通のものを見つめ、それを共有することを確認しつつ交わっています。このように、キリストがすべてとなっている者たちの交わりは、おごりも、嫉妬も、気負いも、気落ちもありません。

2.神の祝福に生きる  23節 パウロの手紙の最後は、必ず「主イエス・キリストの恵み」で締めくくられています。私たちの信仰の出発も、信仰の過程も、その終着もキリストの恵みによって導かれます。そして、神は、私たちを恵みの器として用いてくださいます。 パウロは、この神の恵みが「あなたがたの霊と共にあるように」と祈っています。これは、一つの御霊によって一つとされているキリストの教会の上に、そこに結ばれている一人ひとりの上に霊的祝福があるようにとの祈りです。 礼拝は、牧師の祝祷である祝福の言葉で終わります。それは、祝福を祈るというよりも、祝福を告げるのです。その週に死を迎えることがあっても、祝福のうちに死ぬのです。厳しい試練が訪れても、祝福のうちにある確信をもって戦うことができるのです。神が御顔を背けられることはないからです(民数記6章24~26節)。

きよめへの招き(2009.3.22)

題   : 「きよめへの招き」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 7章1節~23節
私たちは、キリストのご支配をいただいているなら、真に人間味ある者とされ、きよく生きる者とされます。
さて、主イエスは、人を汚すものは何かを語りつつ、人がきよく生きるとはどういうことかを問いかけておられます。

1.偽善者でない  1~13節
ファリサイ派の人々と律法学者たちは、昔からの言い伝えを固く守ることによって、きよい生き方をしていると自認していました。それに対して主イエスは、そうした言い伝えが聖書以上に権威を持ってしまって、ついには聖書が語る本来の意味合いを見失ってしまっていると指摘されました。そうなってしまった原因が、口先では神を敬いつつ、その心は神から遠く離れて、「神の言葉を無にしている」ところにありました。
神ご自身と神の御言葉に対して、仮面をつけて芝居を演じる役者のような偽善的態度でないことが、きよく生きることの本質です。私たちは、聖書の御言葉を重んじて尊び、その力に依り頼んで生きることが大切です。そのためにも、神の御言葉に打たれるという恵みにあずかり続けたいものです。

2.心がきよい  14~23節
主イエスは、群衆にも、弟子にも、きよく生きる実質を問いかけられました(15節、20節)。それは、次のように単純明快です。内臓に取り入れる食べ物は、心の中には入らないので人を汚すことはありません。しかし、人間の心から出てくる悪い思いが、人を汚すのです。私たちの心の中から出てくる12の罪の目録は(21~22節)、互いに身に覚えのあることであり、御言葉の光に照らされることによって、自分自身の本来の姿を見極めさせてくれます。
このように、私たちの内には、罪の性質が住みついており、それが人を汚すのです。この汚れをきよめることのできるのは、イエス・キリストの十字架による以外にありません。私たちが、イエス・キリストに完全にご支配いただいているなら、私たちの内から「霊の結ぶ実」が溢れ出てくるのです(ガラテヤ5章22~23節)。

豊かな信仰生活(2009.3.15)

題   : 「豊かな信仰生活」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章10節~20節
キリストにある者は、主からの豊かに満ち溢れた恵みと祝福をいただきつつ生涯を歩んでいきます。その秘訣は、「わたしを強めてくださる方のお陰で」(13節)、「キリスト・イエスによって」と、キリストご自身によるのです。

1.強めてくださる神  13節
フィリピ教会は、パウロの福音宣教のために愛の贈り物をしています。パウロは、感謝をもってそれを受け取ることによって、フィリピの教会とキリストの愛を分かち合っています。この主にある大きなパウロの喜びは、フィリピの信徒たちの信仰と希望と愛の結実であり、「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえ」でした(10節、15~18節)。
パウロ自身は、いかなる境遇に置かれても、それらに対処する秘訣を習い覚えて知り、授かっていました(11~12節)。キリストご自身が彼を支配されて「強めてくださる」ので、キリストにあって出来たのです(13節)。
私たちは、自らの「内なる人」を神によって強めていただいていないと、外に表れるもので一喜一憂しやすくなります(エフェソ3章16節)。私たちの信仰生涯と教会の歩みには、「わたしを強めてくださる」キリストの力が必要なのです。

2.必要を満たしてくださる神  19節
私たちを強めてくださる神は、また私たちに「必要なものをすべて満たして」くださるお方です。
創造主であられ神は、無尽蔵の富を出し惜しみなさいません。死んで復活されたキリストは、豊かな命を注いでいてくださいます。ただし、神が私たちに必要とされるものを知って上で、一人ひとりに届けてくださるのです。神がお与えにならないのは、必要でないからです。
私たちが喜んで神の業を担わせていただくときに、神はその人の必要を満たしてくださいます。神が心に留めておられることがらに、私たちも心に留めて献げていくときに、神は祝福されます。
「わたしの神」が強めてくださり、満たしてくださるとの信仰の確信に立って、「わたしたちの父である神」を讃える教会とさせていただきましょう(20節)。

主の導きを仰いで(2009.3.8)

題   : 「主の導きを仰いで」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 6章45節~56節
主イエスは、弟子たちの信仰を問いつつ、信仰の訓練をしてこられました。とりわけガリラヤ湖畔での出来事を通して、主イエスは、彼らの近くにおられることを明らかにされ(詩編73編28節)、彼らの信仰の歩みを導かれました。

1.主の導きの深さ  45~48節
主イエスは、弟子たちを群衆から引き離すために「強いて」舟に乗せ、ご自身は陸地で徹夜の祈りをされました。
それはご自身が父なる神の御旨を知りそれに生きることが出来るように、それとともに弟子たちが神の御旨を知ってそれに従えるようにとの祈りでした。そうした中、主イエスは、逆風のために漕ぎ悩んでいた弟子たちをご覧になられて、歩いて彼らに近づき、そばを通り過ぎようとされたのです。
弟子たちは、大きな試みを受けています。主イエスに強いられて漕ぎ出した結果が逆風に遭っているということ、以前の経験とは違って(4章35~41節)主イエスが一緒に乗舟しておられないこと、主イエスが舟に近づかれたにもかかわらず、そこを通り過ぎようとされたことが理解できませんでした。
しかし、主イエスは、いかなる時も私たちの近くにいて助けてくださるお方であることを疑ってはなりません(詩編46編1節)。また、愛をもって見守ってくださるお方であることも忘れてはなりません。

2.主の導きの確かさ  49~56節
弟子たちは、湖上を歩かれる主イエスを見て、幽霊と錯覚して叫びおびえています。人は、不安な状況に追いやられたり、心身の疲れを覚えたりすると、共におられる主を認めることができなくなったり、見失うことがあります。そうした時、主イエスは、「安心しなさい(勇気を出しなさい)。わたしだ。恐れることはない」と慰め、励ましてくださいます。私たちは、救いよりも救い主を、導きよりも導き主に対する信仰の目が絶えず開かれていたいものです。
私たちの中に、主イエスの導きを必要としない者は、一人もいません。教会も、主の導きを必要としています。主イエスは、「今日」生きておられ、私たちの「今日」に深い、確かな導きを与えてくださいます。一人ひとりは、「今日」主の導きに従えるように祈りましょう。

信仰者の楽しみ(2009.3.1)

題   : 「信仰者の楽しみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 4章1節~9節
キリスト者は、「主によって」「主において」とあるように、主にある者です(1節、2節、4節、7節)。それは、キリストに身を置く者であり、キリストとの交わりの中に生涯を歩む者です。その生活は、キリストとの交わりを楽しむことにより、信仰と品性が造られていくのです。

1.主にある信仰  1~3節
フィリピの教会は、愛の祈りと労苦また献げものをもってパウロの伝道に惜しみなく協力しました。パウロは、そんなフィリピ教会と聖徒たちを愛し、慕い、喜び、自分の伝道生涯の冠だと言っています。そして、主にあって、主の再臨と栄化の恵みに与かる望みの信仰に堅く立っているように勧めています(1節)。
しかし、この教会には、福音のために共に戦ってきた婦人たちの間に不調和がありました。パウロは、彼女たちに主にあって同じ思いを抱き続け、教会内が互いに協力し合い、支え助け合うように懇願しています(2節)。
不調和が生じたら、互いはみなキリストの体に連なる一人ひとりであるとの自覚、互いに福音宣教の協力者であるとの自覚、互いは「命の書に名が記されている」との自覚をもって、「主にある信仰」に徹することが大切です。

2.主にある品性  4~9節
主にある信仰によって結ばれる聖霊の実が、主にある品性となっていきます。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と、主にある者は、いつでも、どこでも、どんなときでも喜びが溢れてきます(4節)。そして、その喜び溢れているなら、共におられる主の「広い心」でもって、赦し合い、愛し合うことができるようになります(5節)。
さらに、主にある喜びがあるところには、「神の平和」が信仰者の心と考えを支配します。それを妨げる思い煩いから解き放たれるためには、主なる神への全き信頼をもって、感謝をもって具体的に祈りと願いをささげることです(6~7節、ヨハネ11章41節参照)。このように、御言葉に生きる者と共におられる「平和の神」が、私たち信仰者を楽しませてくださるのです(8~9節)。

分かち合う喜び(2009.2.22)

題   : 「分かち合う喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 6章30節~44節
主の弟子たちは、当初「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」(52節)状態でしたが、神の国の福音に与って後は、驚くべき喜びの出来事となったのです。それは、四福音書が共通して証言するほどに、忘れ難い出来事でした。

1.先行する主の憐れみを原点として
主イエスが、弟子たちに人里離れた寂しい所へ退くように勧められたのは、伝道旅行から帰ったばかりの彼らに休息が必要と判断されたためでした。
そこは、主イエスご自身が祈りまた憩われた場所であり、同じように弟子たちにも祈りと憩いを与え、彼らの刷新の場にしようとされたのです(30~32節)。ここに、主イエスの行き届いたご配慮があります。
ちょうどその時、主イエスは、飼い主のいない羊のような群衆のために、時の過ぎるのも忘れるほどに彼らの魂を導き養おうとされました(33~34節)。しかも、彼らの肉体のことまでも配慮されています(36~37節)。このように主イエスは、人々に対する深い同情のゆえに憐れみを注がれるのです。
私たちは、主イエスが深く憐れまれて顧みていてくださることを覚え、この原点に立ち帰り、また立ち続ける一人ひとり(教会)でありたいものです。

2.主の憐れみの業を担うことによって
主イエスは、無頓着な態度をとる弟子たちに対し、ご自身の憐れみの業の中に引きずり込もうとされました(35~40節)。五つのパンと二匹の魚を取られた主は、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」、次いでパンと魚を群集に分配されました(41~44節)。
男性だけで五千人という人々を満腹させ、なおかつ多くの残りが集められたとの奇跡は、人間の知恵で説明できませんが、それを信じることができます。
主イエスは、この憐れみの業を弟子たちに担わさせられました(37、41節)。このことを通して、弟子たちは、自分の力ではできないという無力さを知らされるとともに、主が恵みの器として自分たちを用いてくださるという信仰の学課を学びました。
私たちは、命のパンであるキリストを受け入れています(ヨハネ6章35節)。このお方を分かち合う喜びに与らせていただきましょう(同27節)。

共に手を携えて(2009.2.15)

題   : 「共に手を携えて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 6章1節~13節
私たちの究極の居場所は、私たちの造り主にして、私たちを愛してやまない神のもとにしかありません。私たちは、一人ひとりが神と共に歩み、神を中心にして互いに生かされ、そして遣わされて生きるのです。

1.主イエスと共に
主イエスは、郷里ナザレで神の国の福音を宣べ伝えられましたが、多くの人々は耳を傾けようとしませんでした(1~3節)。それに対して、主イエスは、せっかくの恵みの機会を彼らが逸していることを嘆いておられます。
そして、信仰が期待されているところに、不信仰しか見出せなかったことを驚いておられます(4~6節a)。人が主イエスに対する信仰がないと、主が働かれないのではなく、働けないのです。
それでも主イエスは、伝道を進めていかれます。そして、そのために12人を呼び寄せ、伝道の使命を託し、権威と力を与えて遣わされました(6節b~7節)。
主イエスは、これを通して神に対する信頼を確かにすること、人を信頼すること、結果は神に委ねることを教えられました(8~11節)。神に立ち返る悔い改めの伝道がなされる時に、主イエスご自身が共に働かれることを経験させていただけるのです〈12~13節、16章20節)。

2.同労者と共に
主イエスが、「二人ずつ組にして遣わすことにされた」(7節)のは、なぜでしょうか。互いが、協力し、助け合い、励まし合い、慰め合い、祈り合いながら伝道するためです。そして、主から訓練を受けつつ学び進めていくためです。
後に、無学な普通の人であったペトロとヨハネは、大胆な態度で伝道をしています(使徒言行録4章⒔節)。そこには、福音を語るペトロがいます。そして、彼と一緒になって協力し、支え、労苦を共にしているヨハネがいます。それだけではありません。キリストに救われて喜んでいる無言の証人がいます(同⒕節)。彼らは、ただ「イエスと一緒にいた」者たちでした。
伝道は一人でできるというのは傲慢です。主に遣わされて、教会の仲間と共に歩み、労するところから生まれます。そこに祝福があるのです。