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新約聖書

最大の価値(2009.9.20)

題   : 「最大の価値」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章42節~50節
主イエスは、「神の国の福音」が拡げられるために(マルコ1章15節)、集中して力を注がれ、御言葉を語られ、弟子たちを訓育されました。ここでは、神の国に入り、神の国に生きることが最大の価値あることであり、それを失うことは最大の損失であることを明らかにされたのです。

1.神の国に入る  42~48節
神の国は、一人ひとりか重んじられるところです。そこで主イエスは、「小さな一人をつまずかせ」神の国に入れなくすることは、大きな罪であると指摘されたのです(42節)。また主イエスは、その人自身が「神の国に入る」こと、また永遠の「命にあずかる」ことをつまずかせるものを持っているならば、それを思い切って捨てるように戒められました(43~48節)。
主イエスは、私たちが滅びの支配にいたところから恵みの支配に入れられるために、十字架に架かることにより、私たちに代わって捨てられ、滅びを経験して下さいました(マルコ15章34節)。私たちは、主イエスの恵みを受け入れることをつまずかせているものを捨てて悔い改め、福音を信じるのみです。

2.神の国に生きる  49~50節
神の国に入れられ、神の国に生きる者は、「地の塩」としてこの世の防腐剤のように、この世に浸透して塩味つけるように感化を与えていきます。人は神によって備えられた「火」すなわち試練を通されることによって、地の塩として感化を発揮していきます(49節)。
また、「自分自身の内に塩を持」つとは、神の恵みとその御言葉に支配されて、「塩で味付けられた快い言葉で語り」(コロサイ4章6節)、その結果「互いに平和に過ごす」ようになるのです(50節)。主イエスが導かれる道は平安な道です。大切なことは、私たちの内にある自我がキリストと共に十字架につけられ、キリストと共によみがえって新しい人として生きることです。
神の国に生きる者は、この価値ある生き方を身につけているのです。

冒険する心(2009.9.13)

題   : 「冒険する心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 25章7~10節  ヘブライ 11章8~16節
私たちは、その信仰の旅路において新しいものに触れ、新しくされることに踏み込んでいくことを神から期待されています。こうした冒険をしたのが、信仰の父と言われたアブラハムです。信仰の冒険は、どこから生まれてくるのでしょうか。

1.全能の神への信頼から
アブラハムは、神からの未見の呼び声と挑戦を受けました(ヘブライ11章8節)。彼は、その召しに「信仰によって」従っていきます。それは、次から次へと放棄していく生活、一つ一つの執念を断ち切っていく生活でした。
私たちは、こうした信仰の危機に直面すると、疲れたり、弱ったり、確信が揺らいだり、信仰の活力を失ったりします。そうした時こそ、私たちは、全能の神に信頼し、「信仰によって」冒険する心を回復していただく必要があるのです。
礼拝は、自らの損得勘定や人生設計をカッコに入れて、神の御前に立つときです。そして、神に信頼しているゆえに、神の御言葉に従うときです。そこから、神の招きに踏み出し、信仰の力に溢れさせていただき、信仰の冒険へと駆り立てていただくのです。

2.永遠の栄光への望みから
信仰の冒険は、病に倒れて再起は難しく、死を待つばかりというときでも、なお新しくされることに踏み込んでいくことです。それは、アブラハムたちのように、「喜びの声をあげ」、神が準備してくださっている「天の故郷を熱望」することです(ヘブライ11章13節、16節)。
アブラハムが死を迎えたときの記述には、明るい信仰的な響きと揺るぎない望みがあります(創世記25章8節)。それは、神が計画し定められた信仰の歩みを走り抜き、永遠の栄光への新しい出発があることを言い表しています。
神は、自ら人となって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちは、この神の冒険に対して、信仰をもって応答し、神の都を目指して歩む信仰の冒険者なのです。

愛の広さ(2009.9.6)

題   : 「愛の広さ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章38節~41節
主イエスは、ガリラヤを通過してエルサレムへの道を歩み続けながら、弟子たちに必要な訓育をされました。この箇所では、キリストの愛に根ざした広い愛は、どうすれば培かわれていくかを語っています。

1.キリストの側に立っているなら  38~40節
ヨハネは、主イエスの名を使って業をしている者が「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、と報告しています。このヨハネの熱狂的な姿勢には、誤った仲間意識、偏狭で独善的な分派心があり、主の御業を妨げるものでした。
それに対して主イエスは、たとえ仲間でなくても、主イエスの名を慕い、その名を使って業をしているのであれば、「わたしたちの味方である」と穏やかに語られました。主イエスは、キリストによって、キリストのためになされているかどうかを問われるだけで、そのような広い愛の心が大切であることを教えられたのです。
私たちは、キリストに結び合わされた者としてキリストの側に立ち、キリストの愛をもって互いに受け入れ合う愛の広さと、互いに謙遜をもって仕え合うたくましさが必要なのです。

2.キリストの心をもっているなら  41節
主イエスは、無きに等しいと思われている小さな者に対しても、愛を注がれました。そのキリストの名のために成される愛の業は、たとえ小さなことであっても祝福されました。
主イエスが、最も大きな広い愛を注がれたのは十字架においてでした。この愛に生かされているにもかかわらず、私たちの愛は小さなものになりがちです。私たちが、キリストにある広い愛を培っていただくのは、「すべての聖なる者たちと共に」教会に生きることによってです(エフェソ3章17~19節)。愛は、教会の互いの間で培われ、それが教会の外にも拡がっていくのです。
私たちは、教会を愛し(詩編26編8節)、温かい愛の拡がりをつくり出していく聖徒の群とさせていただきましょう。

愛の絆(2009.10.4)

題   : 「愛の絆」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章1節~12節
結婚や離婚をどう考えまた対処するかは、私たちにとって絶えず試みられる課題です。結婚は、新しい愛の誕生であり、男女が互いに引きつけ合うということ以上に、互いが結び合わされる愛の絆を持つことです。

1.神の創造の秩序に立つ  6~9節
ファリサイ派の人々は、旧約聖書を用いながら離縁について主イエスを試みました(2~4節、申命記24章1節)。主イエスは、彼らの自分勝手で、聖書に従おうとしない心の頑なさを指摘されました(5節)。
続いて主イエスは、神の創造の秩序について語っておられます。まず、創造主である神が、人を男と女とに造られたので、そこに互いの尊厳があるということです(6節)。従って、一方的に離縁をすることを否定されました。さらに、神が男と女を結び合わされて、二人で一人として生きる新しい関係を造られました。それは、親子の関係よりも優先されるものです(7~9節)。
このように、神の御前における結婚に表される愛の絆は、神がつながれたものであり、決して離してはならないのです。

2.キリストの贖罪愛に立つ  5節
主イエスが、純粋かつ妥協をゆるさない断固とした口調で語られたのには、理由がありました。私たちは、結婚、離婚、再婚に際して、人間の罪の姿が表れやすく、利己的になりやすいからです。そして、神が祝福の基にしようとしておられる家庭に混乱をもたらしやすいからです。「あなたがたの心が頑固なので」とは、今日の私たちにも語られているのです。
私たちの頑なな心が砕かれるのは、キリストの十字架による贖罪の恵み以外にありません。ですから、キリストの十字架が、夫婦の間のみならず互いの間に、いつも立て続けられている必要があります。私たちは、そこで御言葉を聴き続けるのです。
結婚愛に代表される愛の絆は、キリストの十字架の血潮の恵みによって培われていくのです(ヨハネ13章1~30節)。

祈りのひな型(2009.8.30)

題   : 「祈りのひな型」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 4章23節~31節
教会の祈祷会が持っている意味は、決して小さいものではありません。祈祷会の原型と言われているこの聖書箇所には、「仲間のところ・・・心を一つにし・・・一同が集まっていた」(23節、24節、31節)とあり、教会の祈りの本来の在り方が明らかにされています。

1.共通の認識  23節~24節a
ペトロとヨハネは、仲間のところへ行って、信仰による勝利の報告をしました。彼らは、それを聞いて相談をしたのでもなく、議論をしたのでもなく、祈りだしたのです。このとき、仲間のみんなが集まり、自分の重荷として祈ったのでした。彼らは、互いに相違があっても、聖霊による一致を持って、神に向かって、真剣かつ熱心に祈りました。
こうした共通の認識をもった祈祷会が、教会を生かしていくのです。

2.共通の信仰  24節b~28節
彼らは、全ての主権をお持ちのお方に、「主よ」と呼びかけています。主は、迫害さえもご自分の支配の中に治めて、勝利をもたらすお方です。彼らは、そのことを信仰によって知っていたので、神の御言葉によって照らされ、御言葉を手がかりとして祈ったのです。
共通の理解は、共通の信仰を生みだします。祈祷会は、この信仰によって、大胆に祈る時なのです。

3.共通の使命  29~31節
彼らは、迫害や困難の中にあっても、大胆に神の御言葉を語り伝えさせてくださいと祈っています。そのためには、必要に応じて奇跡の御業がなされるように祈り求めています。彼らは、祈り終えると、大胆に神の言葉を語りだしました。それは、彼らに特別の力があったからでなく、ただ「聖霊に満たされて」のことでした。
私たちは、教会の祈祷会を重んじて、主の御業の原動力とさせていただきたいものです。そこで、祈りの力を体験するのです。

真に偉大な者(2009.8.23)

題   : 「真に偉大な者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章30節~37節
主イエスは、弟子たちを訓練しつつ、エルサレムに向かわれます。そこにおける弟子たちは、主イエスから受難と復活の予告を聞きますが、理解できないままで、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のです(34節)。
そこで、主イエスは、真に偉大な者はどういう心を持っているかを明らかにされました。

1.仕えていく心  35節
「だれがいちばん偉いか」と論ずることは、弟子たちにとって愚かなことであり、恥じることでもありました。この問いかけは、この後繰り返しなされています(マルコ10章35~45節、ルカ22章24~30節)。
それに対して、主イエスは、「仕える者」になるようにと明確に答えられました。それは、主イエスご自身が歩まれた道であり(マルコ10章45節)、それによって人が神に立ち返る道を開いていただき、神に生きるようにされたのです。
「だれがいちばん偉いか」と繰り返す狭い心は、今も私たちを支配しやすい罪の遺産です。キリストの救いの原点に立ち続けて、神の前に喜んで仕えていく者とさせていただきましょう。

2.受け入れていく心  37節
主イエスは、仕えていくことは、受け入れていくことだと強調されています。主イエスは、当時は無価値なものの代表のように思われていた「子供」をとりあげて、「ひとりの重さ」を教えられました(36~37節)。主イエスは、無価値とみなされている者をも招かれ、悔いし砕けた心でもってご自身に近づく者のために、徹底して自らを低くして受け入れられました。
私たちは、そのように神に受け入れられているのです。ですから、喜んで主イエスを受け入れ、かけがえのない一人一人を受け入れるのです。そうした中から、私たちは、何と多くの人から受け入れられ、生かされているかも気づかされるのです。
仕えていくとは、人を受け入れ、その心を主なる神に向け、その人が主イエスと出会い、主イエスを信じ、信頼し、従っていけるようにすることなのです。

この人による以外に救いはない(2009.8.9)

題   : 「この人による以外に救いはない」
宣教:  川原﨑 晃  牧師
聖  書   : 使徒言行録 4章5節~22節
生まれながら足の不自由な男は、有りのままの自分を主イエスに委ねて、いやされ、救いに導かれました。このことを通してペトロは、「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られない」ことを証言したのです(12節)。

1.主の激しい御愛が注がれている
この救いの出来事は、ペトロが民衆をキリストの救いと信仰への招きをする機会となりました(4章4節)。逆に、この事実を受け入れようとしない指導者たちは、ペトロたちを逮捕して留置し、議会で尋問しました(1~6節)。その尋問内容は、「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」ということでした。ペトロは、「イエス・キリストの名による」救いの御業であると、単刀直入に答えています(7~11節)。
ここで強調されている「わたしたちが救われるべき」とは、救われるために主イエスの激しいまでの御愛が無制限に注がれているということです。主イエスのこの御愛が、十字架にまで行き着き、死を征服し、復活をもたらして下さったのです。
私たちは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と信じて、主イエスに身を委ねるだけなのです。

2.主の激しい御愛に押し出される
この主の御愛を体験した者たちは、その御愛に迫られ、押し出されています。主の御愛は、「無学な普通の人」を用いて「大胆」にします。それらの人は、いつも主と共にいて、主イエスに救いの全てがあることを確信しています(13節)。
ここに、大胆に福音を語るペトロがおり、彼の傍らに立って祈り支え協力するヨハネがいます。そして、彼らの「そばに立っている」無言の証人がいます(14節)。この人こそ、主イエスによっていやされ救われた人でした。周囲の人々は、「この出来事について神を賛美していた」のです(21節)。
教会は、「ほかのだれによっても、救いは得られません」との福音を語り、それを祈り支え、その福音に生きる人によってつくられていくのです。

信仰の生まれるところ(2009.8.2)

題   : 「信仰の生まれるところ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章14節~29節
ここには、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外の弟子たちの不信仰と、一人の父親の揺れ動く信仰が語られています。これらのことを通して、信仰が生まれるところには、必ず新たな信仰の気づきがあることを教えられます。

1.偉大な信仰の気づき
父親は、幼い時から「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」に取り付かれた息子を癒していただきたい一心でいました。主イエスは、弟子たちの不信仰のゆえに成しえなかったことを忍耐して担い、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)と言われました。このように、人に求められることは、全能の主を信頼する素直さと、いかなることでも主イエスのもとに持って行くことです。
父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と嘆願しました。それに対して、主イエスは、問題は父親自身にあることを指摘されたのです(23節)。この時父親は、「信仰のないわたしに」(24節)に気づいたのです。私たちも、様々な課題や問題に直面して、問題はこの自分にあると気づき、自分の信仰に思いを向けることです。これは偉大な気づきです。

2.時々刻々の信仰の気づき
この日、父親と息子は主イエスによって新しく立ち上がることが出来ました(25~27節)。
ところで、弟子たちは、悪質な霊を追い出せなかった理由が分かりませんでした(28節)。と言うのも、以前に主イエスから権威をいただいて遣わされた時には、悪霊を追い出すことが出来たからです(6章12~13節)。
信仰と祈りは(29節、マタイ17章20節)、時々刻々の継続と謙遜をもって主イエスの助けと導きを求めないと、無力になります。それは、祈りという敬虔な行為に力があるというのではなく、祈りは全能の神に信頼し、神の力に全く依存することなのです。この気づきがあるところに、信仰が生まれるのです。主イエスが、今日、どのように働いてくださるのか、期待したいものです。

人格から人格に(2009.7.26)

題   : 「人格から人格に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 3章1節~10節
主なる神は、ペトロのように弱い器を取り上げて、ご自身の栄光と福音の前進のために用いられます。ペトロは、キリストを「持っている」という明確な経験をしていましたので、聖霊によってキリストを「あげよう」と提供しました。これが、「人格から人格に」なされるキリストの救いの御業です。

1.自覚的なキリスト経験
施しを乞う男と二人の使徒との間には、関心を向けられることを必要とする男の視線と、その男の存在に関心を向け、その痛みに関わろうとする使徒たちの視線とが交差しています(3~5節)。それに続いてペトロは、キリストを信じる者は新たに自立する道を歩ませていただき、神を当てにする生き方に変えられることを語り導いています(6~8)。
キリストを「持っている」とは(ヘブライ4章14節)、キリストこそが私の救い主であり、私の主であることを自覚し、私の全てを支配しておられるのは内住のキリストであることを自覚していることを言います。そして、生きることがキリストであることを体験的に知っていることなのです。

2.自覚的な聖霊経験
使徒たちは、男にとって最も必要とされ、根本的な解決を与えるキリストの救いを「あげよう」と提供しました。彼らに、聖霊によって神の愛が注がれていたからです。キリストの救いとは、キリストに対する真実な悔い改めと主体的な信仰によって、男がキリストに結びつけられることでした(16節、19節)。この御業は、全て聖霊によることでした。
男は、このキリストの御業のゆえに歓喜し、神を賛美し、神に栄光を帰しています。そして、キリストの証人となったのです(8~9節)。
私たちは、主イエスからいただいて持っているものを他者に与えることができます。「わたしたちを見なさい」との聖霊の一致をもって、自覚的なキリスト経験、自覚的な聖霊経験をしていくのです。

仰ぎ見る日々(2009.7.19)

題   : 「仰ぎ見る日々」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章2節~13節
信仰とは、主なる神を仰ぎ見ることです。人は、罪を犯した時、また苦難の中に置かれた時など、目を伏せ、自分の周囲にしか目が向かなくなり、現実を見て失望したりします。また、他者を見てうらやみ、自分を見て一層惨めになったりします。
主イエスの変貌の出来事は、主を仰ぎ見る者にどういう意味があるのでしょうか。

1.永遠の救いの保証
主イエスが「高い山」に登られたのは、「祈るため」でした。そして、祈っておられるうちに、そのお姿が変えられたのでした(ルカ9章28~29節)。そこにおいて、主イエスがモ-セとエリヤと語っておられたことは、ご自身が「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」であり(同31節)、主の栄光が最も現された十字架と復活の出来事についてでした(9~13節)。
主イエスの十字架と復活なくして、私たちの救いとその完成はありません。主イエスの変貌の出来事は、十字架と復活による永遠の救いの保証を意味しており、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント3章18節)いく栄化の先駆けとなったのです。私たちは、栄光の主イエスを仰ぐのみです。

2.輝く生涯の動力
主イエスの変貌の出来事は、信仰者の地上の生涯を姿変わりさせる力を与え続けてきました(ロ-マ12章2節)。その恵みは、礼拝を中心とした信仰生活を輝きあるものにし続けてきました。
私たちのうちに、このような姿変わりさせられることを嫌っているところがないでしょうか。そうならないために、私たちは、主イエスが語られている御言葉に聴き従い続けることが大切です(7節)。また、いかなる時も、私たちと共におられる主イエスを仰ぎ見ることが大切です(8節)。そうするならば、主イエスといつも共にいる自分の姿が見えてきます。そして、人を見る目も変ってきますし、自分の周囲を見る目も変ってくるのです。
主を仰ぎ見る日々の連続が、主を仰ぎ見る生涯となるのです。

主を畏れる心(2009.7.12)

題   : 「主を畏れる心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章37節~47節
教会は、主を畏れつつ前進して来ました(9章31節)。
主を畏れる心が、恐れることを失った鈍感さから解き放ち、恐怖に対しては勝利させてくれます。そして、主を畏れる心は、生き生きとした信仰生活を生み出していきます(43節)。

1.真の回心へと導く  37~41節
神に対する恐怖の恐れは、神から離れようとしたり、神抜きで生きていこうと願ったりするようになります(創世記3章10節)。その結果、罪の責任転嫁が起こり、神への信頼、神の御心を知ろうとすることがなくなります。
しかし、神を畏れる心は、他に責任転嫁することなく、被害者意識を持つことなく、愛の神に近づかせます。ペトロを通して福音が語られたとき、人々は誠実に応答しました。「大いに心を打たれ」て罪の自覚が生まれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と切実な求道心が生まれました(37節)。そして、福音を受け入れて回心し、主イエスに対する悔い改めと信仰による洗礼の恵みに与かったのです(38~41節)。
このように、主なる神への畏れの心は、私たちを救いの喜びに変えるのです(ルカ23章40~43節)。

2.生きた信仰生活へと導く  42~47節
神に対する恐怖の恐れは、信仰生活を息苦しくし、愛、喜び、感謝、平安といった信仰生活の活力を奪います。
しかし、神を畏れる心は、主への賛美、感謝、喜びを本物にします。そして、私たちを主に引き寄せ、信仰生活の中心である礼拝生活と教会生活を生き生きとしたものにします(詩編111編)。それは、福音に聴き従うことによって(42節a)、福音を共有する交わりによって(42節b、44~45節、46節b)、神への全き信頼を通して(42c、46節a)培われます。
神は、このような信仰生活を歩む聖徒の群を信頼されて、神の宣教を進められます(47節)。私たちが主を畏れる心であり続けることによって、生きた信仰生活が展開されていくのです。

「アーメン」の生涯(2009.7.5)

題   : 「『アーメン』の生涯」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 8章27節~9章1節
主イエスは、ご自分が何者であるかを弟子たちに問いかけ、十字架と復活の事実を公然と語られています。私たちは、主イエスが弟子たちや群衆に求められたように、真実なキリストに対する信仰をもって、「ア-メン」の生涯を全うしたいものです。

1.「ア-メン」とキリストを告白する  27~32節a
主イエスが、「わたしを何者と言うか」と問いかけられたことに対して、人々は預言者の一人と言いました。それに対して、弟子を代表してペトロは、「あなたは、メシア」、油注がれた救い主と明確な告白をしました(29節)。そして、主イエスは、ご自身の十字架と復活による真剣な救いの御業に対して、弟子たちに真剣な信仰告白を求められたのです(31~32節a)。
主イエスは、私たちの家庭で、職場で、学び舎で、また病に伏せる中で、様々な人生の戦いの場で、「あなたは、わたしを何者だと言うか」と問いかけておられます。そのような中で、私たちがキリストを告白していくとき、福音は力を発揮し、罪と死から解放されている恵みを経験していくのです。

2.「ア-メン」とキリストに生きる  32節b~9章1節
主イエスは、ご自身をいさめたペトロを叱られました。「サタン、引き下がれ」とは、十字架を避けさせようと背後で働くサタンの誘惑を言われたのです(33節)。
さて、十字架の道を歩まれた主イエスは、弟子たちだけではなく全ての人に対して、「わたしに従いなさい」と語っておられます。そのためには、自分にしがみつかないで「自分を捨て」、「自分の十字架を背負って」自分に死に、キリストに生きていただくのです。そして、キリストのため、福音のために、自分の全てを主イエスに任せていくなら、神の命に与かり続けるのです(34~37節)。
私たちは、自分を中心に据えれば据えるほど、自分のことしか見えなくなり、隣人を愛するゆとりもなくなり、いよいよ不安になります。主イエスに従ってこそ、主イエスが見えてくるのです。今この時、主イエスと御言葉を恥じることなく、「ア-メン」とキリストを告白し、キリストに生きる者とさせていただきましょう。

終末に生きる(2009.6.28)

題   : 「終末に生きる」   宣教:   足立 幹夫  牧師
聖書  : ぺトロの手紙一 4章7節~11節
万物の終わりとは、主の再臨とその後に行われる審判のことです。ところが、紛争の続出、自然界に起きている異変、それに人心の退廃した今の世相を見ますと、その時は近づいていると思わされます。この終わりの時に生きるキリスト者は、どのような備えが必要なのでしょうか。

1.思慮深く、身を慎んで祈る  7節
主の再臨が近いと聞くと、宣教が第一と考えますが、祈りが先になっています。どんなことを祈るのでしょうか。思慮深く慎んで祈るとは、キリスト者が異端や悪霊の教えに惑わされたり、動揺されたりしないで、聖書信仰に固く立って、主の再臨。

2.愛し合い、もてなし合う  8~9節
心を込めてとは、気の合う人にだけでなく、偏らず隔てず、いつまでも関わり合って生きることです。そして、愛は多くの罪を覆うのです。だから、人の失敗や汚点は、吹聴したくなるものですが、お互いにカバ-し合うのです。ペトロは、7度を70倍するように言われた主の御言葉を心にとめていたのです。
主は、私たちの罪を十字架の血で覆い包んでくださいました。この主の愛によって救われた者が、罪を覆い合うのは当然のことなのです。もてなし合いも、この心でするのです。主はそれを喜ばれ、再臨のとき豊かに報いてくださいます。

3.神の恵みの善い管理者となる  10~11節
キリスト者が管理して活用する天与の賜物には、才能、時間、財宝があります。主は、折角の賜物を自分のためにだけ使おうとした金持ちを、愚かな者と言われました。しかし、私たちは、善い管理者となり、賜物を活用することによって、主から褒められる者になりましょう。その賜物を用いる動機と目的は、個々人か賞賛されるためではなく、それを授与された主が崇められるためです。
私たちは、目覚めて祈る教会、うるわしい交わりの教会、皆が積極的に奉仕している教会となって、主の再臨の日まで、祈り合い励まし合って前進していきましょう。

霊的であるとは(2009.6.4)

題   : 「霊的であるとは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章14節~36節
聖霊に満たされた人々によって、神の福音が伝えられていきました。中でもペトロは、他の11人の使徒たちと共に、大胆に語りだしています。そのメッセ-ジは、聖霊によって開かれたもので、真に霊的であるとはどういうことかを教えています。

1.御言葉が開かれる
ペトロは、聖霊が注がれた「すべて人に」よって、神の御言葉が語られ、また神のビジョンが明らかにされると語っています。それは、旧約聖書の預言の成就であったと指摘しています(17~21節、ヨエル3章1~5節)。さらに、詩編を引用することにより(25~28節、34~35節)、ペトロが語ることはすべて聖書に基づくものであることを明らかにしました。
聖霊は、主イエスが語られたことを思い起こさせ(ヨハネ14章26節)、真理に導かれるお方です(同16章13節)。霊的であるとは、聖霊的であるということであり、御言葉が開かれることです(詩編119編130節)。そして、御言葉にともなう聖霊の導きを喜び、従い、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

2.イエス・キリストが見えている
続いてペトロは、「このイエス」の十字架と復活と昇天のゆえに(23節、24節、32節、36節)、聖霊が注がれたことを明らかにしています(33節)。このように、聖霊の注ぎと満たしは、主イエスの救いの事実に拠っています。私たちは、聖霊によって、キリストご自身に目が開かれるのです(1コリント12章3節)。そして、キリストの臨在の恵みに与かりつつ、キリストの証人とならせていただくのです(25~28節)。
私たちは、キリストの十字架と復活に固く結ばれているなら、何ものによっても支配されることはありません。そして、キリストを愛し、信じ、喜びに満ち溢れるのです(1ペトロ1章8~9節)。私たちは、イエス・キリストを主と仰ぎ見ることのできる霊的な存在です。そうした者の集まりである教会は、キリストを主とする霊的な生きものなのです。

開かれよ、心の目(2009.6.7)

題   : 「開かれよ、心の目」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ  8章22節~26節
この聖書記事は、預言の成就として(イザヤ29章18節)、マルコのみが記しています。主イエスは、肉体上の目が開かれるという以上に、神が見えない、自分自身の本当の姿が見えないでいる私たちの霊的な目が開かれることを望んでおられます。

1.漸次的な開眼
主イエスは、連れて来られた盲人の手を取って、村の外に連れ出して癒しの業をされました。それは、主イエスと盲人が一対一となる、より深い人格と人格の出会いの経験でした。
主イエスは、盲人の両目に唾をつけて、二度に分けて両手をその上に置かれました。一度だけ触れることによって完全な業をされなかったのは、理由がありました。主イエスが、盲人の信仰の鈍さにご自身の力を表す速度を合わせられたからです。
その実例が、ペトロの告白と信仰に見うけられます(29~33節)。告白していても信仰が伴っていない時は、主イエスは漸次的に働かれるのです。
主イエスは、信仰の鈍さゆえに開眼していない私たちに、「何か見えるか」と問いかけつつ、導いておられるのです。

2.完全な開眼
盲人は、主イエスによって目が開かれていく過程で、「人が見えます」と、その喜びを表しています(24節)。その人とは、主イエスご自身であり、次第に周囲にいた人も見えてきたのでした(25節)。
主イエスは、ご自身の力を表すことによって肉体の目を開かれました。しかし、主イエスが私たちの霊的な目を開くためには、自らの十字架の死という自己犠牲以外の方法ではなさいませんでした。
今も主イエスが語りかけてくださることを聴きつつ、十字架と復活の救いの御業と、主イエスの臨在と導きを「はっきり見える」者とさせていただきましょう。そうするならば、課題や問題ばかりを見てしまう目ではなく、大いなる主イエスを仰ぎ見る目をもって歩み続ける者とされるのです。