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新約聖書

恵みに応答して(2010.1.3)

宣教題  : 「恵みに応答して」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 第二コリント 5章11節~21節
私たちを生かす原動力は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(14節)というキリストの愛であり、神の恵みです。私たちは、それに対してどう応答するのでしょうか。

1.キリストにあって生きる  17節
私たちがキリストの愛の強い迫りを体験するのは、自らが罪人であるとの強い自覚を覚えた際に、贖い主イエス・キリストの十字架の救いを鮮やかに示された時です。
それは、神に義人と認められる恵みです(21節)。
この恵みは、だれでも、いつでも、キリストにあって、キリストに結ばれて新しく創造された者として生きることです。それは、キリストによらない自己中心の古い生き方ではなく、キリスト中心の新しい生き方をすることであり、この世のものの見方や価値観でキリストを見るのではなく、聖書が明らかにしている見方や価値観でキリストを見ることです(16~17節)。
私たちがキリストの十字架で新しく創造されるならば、「見よ、すべてが新しくなったのである」(口語訳聖書)との歓喜が溢れ出るのです。

2.キリストのために生きる  14節
駆り立てるキリストの愛は、私たちを縛って動けなくするのではなく、新たな方向へ向かわせ前進させます。すなわち、自分自身のために生きる生き方はキリストと共に十字架で死んだのですから、私たちは復活してくださったキリストのために生きるようになるのです(14~15節)。
さらに私たちは、キリストの十字架の贖いによって神との和解の恵みを体験したのですから、キリストの和解の務めに生きるのです。それは、「キリストに代わってお願いします」とのメッセ-ジを携えて遣わされる全権大使です(18~20節)。
私たちがキリストの愛に駆り立てられ、救いの恵みの喜びと感激に満たされ、困難な中でも使命に応えていくならば、それは徒労で終わることがありません。一人ひとり、神の召しに応答していきましょう。

御言葉に生きる(2010.1.1)

宣教題  : 「御言葉に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録20章32節
私たちにとって必要不可欠なものは、霊的洞察力です。これは、私たちが祈りと聖書の御言葉に聴くことに時間を費やし、それを自分のものにしていく中から備わっていきます。私たちは「聖霊に励まされ」つつ、「御言葉に生きる」ことを大切にしたいものです。

1.御言葉には力がある  32節b
神の御言葉は、神の御心・御計画・御業が証言されていて、生きており、力を発揮します。しかも御言葉は、永遠に不滅で不変の力があります(マタイ24章35節、1ペトロ1章25節)。この御言葉が発動されることによって、全てのものが造られ(創世記1章、ヨハネ1章3節)、保たれているのです(ヘブライ1章3節)。
さらに、イエス・キリスト御自身を証言する御言葉は(ヨハネ5章39節)、私たちを救う力があります。御言葉は、私たちの魂を救い(ヤコブ1章21節)、建て上げ、神の国と永遠の命を受け継がせる力があります(使徒言行録32節b)。
聖書の言葉は「神の言葉」であること、それはただの言葉ではなくて「御言葉」なのであることを覚えて、御言葉に対する敬意を持たせていただきましょう。

2.御言葉に委ねる  32節a
パウロは、御言葉の力に対する信仰があったので、自分自身と自らの信仰生活や奉仕を御言葉に委ねることを知っていました。「恵みの言葉」である御言葉が、彼に恵みをもたらし、恵みをもって導くことを経験していました(1コリント15章10節)。
ですから彼は、神の教会が内外からの危機的状況に置かれる中で(29~30節)、教会と聖徒たちとの別れに際しても、彼らを御言葉に委ねることができたのです。彼は、御言葉に対して絶対的な信頼を置いていたからです。
私たちは、絶えず静まって御言葉に聴き、キリストに出会い、キリストに触れ続けていくことが大切です。そうすることによって、神と御言葉に自らも他者も委ねていくことができるのです。

新たな旅立ち(2009.12.27)

題   : 「新たな旅立ち」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章12節~15節
聖書の中には、多くの旅立ちの記事が記されています。それには、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」学者たちの旅立ち、幼子イエスを抱いたマリアとそれを助けるヨセフの密かな旅立ちがあります。
キリストに出会った者は、神の導きによる新たな信仰の旅立ちを始めるのです。

1.神の導きの確かさ
最初のクリスマスは、喜びや明るさだけではなく、悲しみや暗さもありました。暗さは、キリストを拒絶する姿に現れています。とりわけ、猜疑心の強かったヘロデ王は、幼児虐殺という残忍なことを行いました(16節)。このヘロデに見る罪の性質は、私たちの内にもあります。それは、私たちが自分自身を王として、真の王であるイエス・キリストを拒絶する時に現われてきます。この罪が、イエス・キリストを十字架に追いやったのです。
そのような中にあって、神は御言葉をもってヨセフを導かれました(1章23節、2章15節、23節)。ここに、神の導きの確かさがあります。私たちは、信仰者としての人生の歩みと教会の歩みに、神の強い導きがあることを確認し、そのことを感謝をもって証ししていきたいものです。

2.神の導きへの従順
この神の導きに対して、ヨセフは神に全面的な信頼を置いています。それが、御言葉に対する信仰の従順となって現れています(1章24~25節、2章14~15節、21~23節)。とりわけ、「夜のうちに」とあるのは、ヨセフの敏速に従っている様子がうかがわれます。先が見えない中で、今示されている御言葉に愚直なまでに従うヨセフの姿は、今日の私たちが忘れかけているものではないでしょうか。
絶えず御言葉を尋ね求め、開かれた御言葉の導きに従順に生きることが、信仰者の旅路の在り方です。私たちは、キリストを拒絶して閉め出してしまうのではなく、今この時この所からキリストを自分の全存在と生涯の王座に迎え入れて、新たな信仰の旅立ちをさせていただきましょう。

ひれ伏し拝むクリスマス(2009.12.20)

題   : 「ひれ伏し拝むクリスマス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章1節~11節
クリスマスは、全ての人が神に立ち帰る時であり、また決起の時です。東の方から来た占星術の学者たちは、「拝みに来たのです。・・・ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて・・・贈り物として献げた」(2節、11節)とあるように、この二つの問いかけに応答した人たちです。ここに、彼らの信仰姿勢が明らかになっています。

1.キリストこそ私の神です
クリスマスは、私たち一人ひとりに対して、神が最高の贈り物である救い主イエスを与えてくださった時です(ヨハネ3章16節)。それによって神は、わたしたちを永遠の滅びから、永遠の救いに与からせてくださったのです。
ところで、人はイエス・キリストに対して、次のような三つの態度をとってきました。一つは、ヘロデ王のように、キリストに反感を抱き、抹殺しようとする冷淡な態度です。また、祭司長や律法学者のように、知識は持っていても、キリストに無関心な態度です。これらは、恐れと不安しか残りません。そして、学者たちのように、長い道程を導かれて求道し、御言葉を聴いて信じ、大きな喜びにあふれるという態度があります。これは、キリストこそ神と信じる信仰姿勢です。

2.キリストこそ私の宝です
学者たちは、幼子イエスにひれ伏し拝んで礼拝を献げています。その具体的な礼拝行為が、「宝の箱を開けて」、イエスこそ自分たちの最高の宝であることを言い表したことです。「黄金」を献げたのは、イエスこそはこの世のすべての人を治める王であることを、「乳香」を献げたのは、イエスが神と人間を結ぶ祭司であることを、「没薬」を献げたのは、イエスが十字架の死によって贖いを成し遂げる救い主であることを意味しました。
聖書に見る最初のクリスマスは、誰一人としてプレゼントを受け取っていません。むしろ、イエスに仕え、イエスのために献げる生き方を決断しています。そうすることは、神からの本物のプレゼントであるイエス・キリストを心と生活のすべての領域にいただくことになるのです。何と素晴らしいことでしょうか。

キリストに倣って(2009.12.13)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 1章18節~25節
クリスマスのメッセ-ジは、神が人を信頼された出来事を語っています。その結果、人が神を信頼し、人と人が信頼する関係に変えられていきます。このような信頼は、神の御旨に従うことによって生まれるのです。

1.キリストの従順
神が人となられたクリスマスは、私たちに希望を与えています。神は、先の「イエス・キリストの系図」に見た人間の罪の現実にもかかわらず、罪からの救い主イエスをお遣わしになったからです(21節)。そのためにキリストは、父なる神の御旨に従って、自ら十字架に架かって血を流し、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。それによって、「神は我々と共におられる」という恵みに生きる道が開かれたのです(23節)。
このキリストが私たちの内に来てくださるなら、私たちの生活は一変します。また、キリストが私たちの内に来てくださると、キリストのために何でもするようになります。そして、キリストと共にいるなら、私たちは神のことがよく分かり、それが喜びとなります。

2.ヨセフの従順
ヨセフは、婚約者マリアの妊娠を知って、不信と疑惑で悩み苦しみ、彼女に対する愛に傷ついていたことでしょう。しかし彼は、このことを公然と問題にして訴えることをせず、ひそかに縁を切ることによって、世の人の非難を自分が負う決心をしたのです。彼は、そうした犠牲をもいとわない愛を持つ「正しい人」でした(19節)。
こうした決心の背後には、ヨセフに神の働きかけがありました(20節)。彼は自分の正しい決心を越えて、また自分の不安や恐れに動かされないで、神が語られる御旨に従ったのです(24~25節)。それは、彼が不動の境地を極めたというのではなく、ただ聖霊に動かされて神を信頼したからです。
神を信頼して、神の御旨に従うことが、キリストに倣うことなのです。そうすることによって、キリストの御心に近づく者とされるのです。

恵みの確かさ(2009.12.6)

題   : 「恵みの確かさ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 1章1節~17節
私たちは、イエス・キリストに現わされた神の恵みに出会い、その恵みに生かされている者です。たとえ、私たちが打ちのめされそうな中を通されても、その恵みの確かさは変わりません。「イエス・キリストの系図」と言われるこの箇所に、その根拠を見い出すことができます。

1.真実な神ゆえに
イエス・キリストは、アブラハムに約束された祝福を成就させるために、またダビデに約束された真の王となるために来臨されました。そして、そこに明らかにされている系図には、時や場所を越えて、神の福音が秘められています。神の民が高められていく時代、また衰退していく時代、そして暗黒の中で救い主を待望する時代と特徴づけています。そのような様々な歴史を変遷しながら、神は約束を忘れることなく、ついにキリストにおいて全ての人々に救いがもたらされたことを明らかにしておられるのです。神の真実が、この系図を通して言い表されているのです。
神は、御自身を裏切ることのない真実な方です(2テモテ2章13節)。この神の真実が、私たちに慰めと希望を与えるのです。

2.愛の神ゆえに
この系図の中に、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻の4人の女性が記されています。彼女たちは、不義の罪を犯した人や神の祝福を受けられないと思われていた異邦人でした。また「ウリヤの妻」と語られたのは、ダビデの罪が明らかにされるためでした。男女間の節操だけではなく、神に対する節操はどうか、とも問われています。このようにして、一人ひとりが神の御前に罪人であることを明らかにされたのです。
そこで、全く罪も汚れもないイエス・キリストが、この罪人を救うために、罪人の一員として系図に入れられる必要があったのです。私たちは、神の御前に罪を悔い改め、その罪の大きさに勝る十字架の赦しの愛を受け入れるならば、神の家族の家系図に記された一員とされるのです(ヨハネ1章12~13節)。この神の恵みの確かさに支えられて導かれる者は幸いです。

恵みを待つ(2009.11.29)

題   : 「恵みを待つ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 11章2節~15節
バプテスマのヨハネが、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。・・・」(3節)と問いかけたことに対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)と答えられました。幸いとして下さる神の恵みは、すでに主イエスによって与えられていますが、さらにその恵みを日々に待ち望む者には新たにされていきます。

1.恵みの主を待つ
バプテスマのヨハネは、主イエスの道を備えることを生涯の使命とした人物でした。しかし彼は、ここでは牢獄に捕えられ、まもなく最後を迎えようとしています。バプテスマのヨハネの弟子たちは、この現実を受け入れることができず、主イエスに疑問を投げかけたのです。主イエスは、そんな彼らがつまずかないように勧められたと考えられます。
ところで、バプテスマのヨハネ自身は、悔い改めることを語り(3章2節)、主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ3章29~30節)と証ししてきました。そして主イエスは、神の恵みの世界に罪の支配が挑んでくることを明らかにしつつ、ご自身の十字架の勝利を見ておられます(12~13節)。私たちは、十字架と復活に現わされた主の恵みを仰ぎ見続けることが大切です。

2.恵みの力を待つ
つまずいたのは、与えられた使命が失敗に終わった
のではないかとの疑問を抱いていた、バプテスマのヨハネ自身ではなかったかと思われます。彼は、試練の中にあって、自分が信じてきたことと、経験していることとのギャップに悩んでいたのです。彼が、そのことを主イエスに問いかけたことが幸いでした。それに対して主イエスは、神の恵み、神の救いの力は、もうすでに働いているので、「飼い葉桶に降誕され、十字架に架かるわたしにつまずかない人は幸いである」と語られたのです。
私たちは、様々な試練の中において、主イエスの救いの恵みの力がいつも働いていることを知ることが大切です。そこでこそ、試練に耐える力、愛する力を体験し、その中を生きていくことができるのです(2コリント12章9節)。

永遠の命に生きる(2009.11.22)

題   : 「永遠の命に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章17節~31節
私たちの地上の生涯は、永遠という観点から見れば、一時のことです。この時に、私たちは、「永遠の命を受け継ぐ」こと、すなわち永遠の命を受け取って、それに生きることが何よりも大切です。

1.キリストに愛されているから  17~27節
「ある人」とは、富も地位もある青年でしたが、自分の中に何か足りないものがあることを自覚していました。彼は、誠実に、熱心に、真剣に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねています。それに対して、主イエスは、彼が神の御言葉である戒めに完全に生きていないことを指摘され、人の努力や信心や善い行いで永遠の命を受け継ぐことができないことを教えようとされました。
私たちが「神の国に入る」との救いに与かるには、人の努力では不可能であり、全能の神による以外にありません(23~27節)。ですから、「何をすればよいのでしょうか」と問うのではなくて、何であればよいのでしょうか、と問いかけることが大切なのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで」と、鈍い私たちを愛し抜いておられます。この主イエスの愛の招きに応答して、その愛の懐に陥る者であることが大切なのです。

2.キリストを愛するから  28~31節
私たちが、キリストに愛されていることを体験的に知るなら、その愛に応えたいと自発的に願うようになり、永遠の命に生きる者の新しい生き方が生まれてきます。  主イエスは、「わたしのためまた福音のために・・・捨てた者はだれでも・・・百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られました。このように、永遠の命に生きる者には、今この時に神が備えてくださる祝福があり、さらに永遠につながる祝福があるのです。
私たちは、今も注がれているキリストのまなざしを覚えながら(21節、27節)、これほどまでにキリストに愛されていることを知って、キリストを愛する者にならせていただきましょう。

神は人を用いられる(2009.11.15)

題   : 「神は人を用いられる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 6章1節~7節
教会は、救われた主の弟子が多く加えられていく中で、内にトラブルが生じました。その時教会が、どのような解決の道を与えられ、その結果どう展開していったかが証言されています。そのために、神は教会に人を立てられ、用いなさったのです。

1.御言葉に仕えるために  1~6節
教会に生じたトラブルは、愛の交わりの中で救済の手が差し伸べられていたことに対して、意思の疎通の欠如から「苦情」の声が起こったことでした。これは、教会の存亡にかかわる重大な問題でした。もし、使徒たちが性急に苦情問題だけを解決しようとして、そのことに忙殺されていたら、教会の第一の使命である「神の言葉をないがしろ」にするという危険性があったのです。このようにサタンは、使徒たちを最も大切なことから逸脱させようと巧妙に働きかけてくるのです。
使徒たちは、サタンの計略を見破り、適切な解決策を講じました。彼らが「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ために、愛の業の奉仕をする者を選んだのです。以来神は、キリストが仕えるために来てくださったように(マルコ10章45節)、御言葉に仕える者を求めてこられました。神は、仕える者に信仰と聖霊を満たし、謙虚に神と人に仕える知恵を与え、どこにおいても良い証しを立てさせてくださいます。

2.御言葉が広がるために  7節
「こうして、神の言葉はますます広まり」、主の御業は進展していきました。主の弟子たちは弟子としての役割をもって主に仕え、使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に打ち込むという、教会の本来の在り方が確立されたからです。使徒たちにとって一番伝道しにくい「エルサレム」において、しかも反対勢力の旗頭とも言うべき「祭司も大勢」信仰に導かれたことは、驚くべきことでした。
キリスト教会の今日の課題は、経済問題ではありません。人材問題です。聖霊によって造り変えられ、キリストにのみ仕える人が求められ、用いられるのです。「罪のみを憎み、神のほか何も畏れない者が百人いるなら、世界を動かすことができる」のです。信仰の厚い者にさせていただきましょう。

柔らかな心(2009.11.1)

題   : 「柔らかな心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章13節~16節
ここには、主イエスが、上から高圧的に力を及ぼすのではなく、同じレベルに立って、ご自分も同じ経験をしつつ引っ張っていかれているお姿があります。このように、主イエスは、柔和で、柔らかな心をお持ちでした。

1.広い心  13~14節
人々は、主イエスの祝福を子どもたちに受けさせたいと願って連れてきました。それに対して、偏狭な考えを持っていた弟子たちは、人々を叱りました。主イエスは、そのような弟子たちを見て憤られ、子どもたちを受け入れ、彼らを抱き上げて祝福されました。祝福しようとされる主イエスが、その祝福がさえぎられた時に、思わず憤られたのです。このように、主イエスの見方と、弟子たちの見方は違っていました。
「神の国はこのような者たちのものである」とは、小さな者、価値がないと見なされている者、また弱さ、無力、未熟さを持ち合わせている者が招かれ、受け入れられるということです。ここに、主イエスが柔らかな心、すなわち広い心を持っておられたお姿を見ます。私たちは、主イエスの祝福をさえぎって、子どもを含む多くの人を退けていないかと問いかけられています。広い心は、キリストからのものです。

2.貧しい心  15節
「子供のように」とは、子どもっぽいとか、子どものようにわがままでもよいという意味ではありません。「神の国を受け入れる人々」です。それは、「心の貧しい人々」であり(マタイ5章3節)、神のみに頼って生きる人です。すなわち、神抜きで生きていける、自分で自分の罪や死の問題を解決できると思いあがっているのではなくて、これらのことはイエス・キリストの十字架と復活の救いに頼るしかない、そこに身を置くしかないという貧しい心を持っていることです。
私たちは、子どもたちを絶えず主イエスのもとに連れてきて、祝福に与からせたいものです。そのためには、私たち自身が、主イエスの祝福の中に身を置き、謙って、ひざまずくことが大切です。この柔らかな心をもって、子どもたちのところに、家族のところに、共に生きる者のところに遣わされて行くのです。

ただキリストのみ(2009.10.25)

題   : 「ただキリストのみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 5章 27節~42節
危機の時は、私たちを根源的なものに目を開かせ、そこに立ち返らせてくれます。使徒たちは、繰り返し福音を語ることを妨害され、迫害されました。彼らは、そうした状況下で、いかなる時にも「ただキリストのみ」という信仰の原点に立ち返ったのでした(29節、41節)。

1.キリストに従う
ペトロは、ここでもキリストの十字架と復活の救いを力強く証ししています。さらに、「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」と大胆に語りました(30~32節)。先にも福音を語ることを禁じられましたが、ペトロたちは神に従い続けました(4章18~20節)。今回も、その姿勢は変わっていません(29節)。それは、時の良し悪しや、命の安否を度外視してのものでした。
聖書は、時が良くても悪くても御言葉を語り続けることを命じています(エフェソ5章16節、2テモテ4章1~2節)。私たちは、神に従うことにより聖霊に満たしていただき、力強いキリストの証人として用いていただきたいものです。

2.キリストのために苦しむ
神は、使徒たちを危機から逃れさせるために、時に応じて様々の手段を用いられました。今回は、鞭打ちの刑と再度の伝道を禁止することを言い伝えられて釈放されましたが、それでも福音を語り伝えたのです(38~42節)。
キリストの復活の力を知っている者は、キリストの苦しみにあずかりつつ、絶えず御言葉を宣べ伝えるのです。そこでこそ、キリストと共に、キリストのために苦しみ、そして栄光をキリストと共にするのです(ロ-マ8章14~17節)。これが、キリストに信仰によって結び合わされた者の特権です。
キリストは命をかけて私たちを愛してくださり、救いに招き入れてくださいました。そして、キリストとの交わりに生きる者としてくださいました。このキリストのために苦しむことを喜びとしたいものです。

真理を求めて(2009.10.18)

題   : 「真理を求めて」   宣教:   二宮 一朗  牧師
聖書  : ヨハネ 8章 31節~32節
わたしは小学生の時に熊野教会学校に導かれ、中学生になって神戸中央教会に導かれました。すぐに教会に来なくなりましたが、2年生の秋に三宮で開かれた特別伝道集会で神の愛に感動し、主イエスを信じ救われました。
その時、中学生ながら感じたことは、「真理を知った!」という静かな確信でした。主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)「…真理はあなたたちを自由にする」(8:31)。

1.人は、真理を求めて
人は、確かに、真理を求めています。裁判で真実を追求するように、人は生きる意味を求め、人世と永遠について真理を求めてきました。真理とは、虚偽・錯誤の対語で、本当の事、隠されていない事、人間を自由にさせる実在、真実な方を表わします。しかし、残念ながら、オーム真理教が示すように、多くの偽物や不確かなものが、世に溢れています。何故このようになったのでしょうか。

2.神は、真理を啓示された
神は、世の初めに天地宇宙を創造され、人を創造されました。そして、大自然の中に御自身を表わされ、人には霊を与え、永遠を思う思いを与えられました。ですから、世界中の人が自然界に触れ、神の存在を感じ、宗教が生まれています。その心は尊いものです。しかし、神や人世についての真理は自然観察と人の知恵だけでは明白にはわからず、様々な観念や宗教が生まれました。
そういう中で、神が人類を愛して御自身を明確に表わされたのが、聖書であり、イエス・キリストです。聖書は語ります、「(聖書の)み言葉の全体は真理です」(詩篇119:160口語訳)。
主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)。

3.真理はあなたに語る
真理である聖書とイエス・キリストは、明白に語ります。神の愛と計画、人の罪、主イエス・キリストの十字架による罪の赦し、イエス・キリストを信じるなら永遠の命を得、神との交わりが始まり、永遠の御国に行けることを。
しかも、イエス・キリストは御自分を信じて従う者に約束しておられます、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

真理とは何か(2009.10.18)

題   : 「真理とは何か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 18章 37節~38節
「真理とは何か」とは、人類始まって以来、あらゆる分野で問いかけられてきたことです。多くの人たちは、その答えを得られないでいますが、聖書は答えを明らかにしています。
『わたしは・・・真理であり・・・』と、キリストご自身が真理そのものなのです。真理には、以下の二つの要素が必要です。

1.普遍であること
真理は、絶対かつ普遍なるものです。真理であるならば、誰にでも、どこにおいても、いつの時代でも、適用され当てはまるものです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世にきた」と言われるキリストこそが、私たちの普遍的な問題である罪と死に対して、唯一解答をお持ちのお方なのです。
私たちの罪が償われるために、キリストは十字架で贖いを成し遂げてくださいました。この事実を「私のため」であったと信ずる時に、全ての罪は赦され、救われるのです。私たちが死の支配から解放されるために、キリストが復活されました。この事実を「私のため」と信ずる時に、死に勝利することができるのです。ここに、私たちの揺るがない望みがあります。

2.不変であること
真理であるとは、不変かつ永遠なるものです。それは、「わたしは・・・真理であり・・・」と言われるキリストに見い出すことができます。まず、キリストの御言葉は不変です(マタイ24章35節)。これまでキリストが語られたことは、一つもたがわず成就してきました。このキリストが私たちを救うと言われたことは、永遠に変わらないことなのです。さらに、キリストは永遠から永遠まで存在されるお方です(ヘブライ13章8節)。ですから、キリストは、誰でも、いつでも救うことができるのです。そして、キリストの愛は不変で、完全です(1ヨハネ4章10節、18節)。このキリストの愛は、私たちの態度や状態によって変わることはありません。
信仰とは、あてにならない自分に頼るのではなく、どんな時でも真理であられるキリストを信頼して生きることなのです。

私たちの交わりは本物か(2009.10.11)

題   : 「私たちの交わりは本物か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 5章12節~16節
教会は、いかなる時にも「心を一つにして」集まり(12節)、聖徒の交わりを培ってきました。その交わりは、同じ三位一体の神を信じ、同じ救いに与かり、共通の礼拝・御言葉・使命・栄光・倫理を共有しています。この点において、わたしたちの交わりは本物となっているでしょうか。

1.主に贖われた者の交わり
教会が、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」(13節)と証言されているように、そこには、キリスト者でなければ決して入っていくことのできない明確な性質がありました。それは、キリストの十字架の血によって贖われた者たちの持つ(1ヨハネ4章10節)、とてもこのままでは仲間にはなれないという潔さ、輝き、一致があったというのです。
誰でもがそのままで加われるとしたら、それは真の教会の交わりではないのです。

2.周囲から尊敬される交わり
民衆は、その交わりが自分たちとは違うと思うほどであったので、その交わりに加われなかったのです。同時に、「民衆は彼らを称賛していた」のです(13節)。
たとい私たちが、内部では固い結束を保っており、大きな活動をしたとしても、周囲の人々から尊敬されない、称賛されないとしたら、その交わりを反省してみなければならないでしょう。神よりも人を見る日本において、この点は特に大きな意味を持っています。

3.救われる男女が加えられる交わり
続いて、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(14節)とあります。一人もそのままでは交わりに加われなかったのですが、罪を悔い改め、キリストを信じた人々は、結果的にはその交わりに加わるようになったのです。ここに、教会の交わりが本物であった証しがあります。
私たちの交わりは、皆が同じ方向に向かっている交わりです。それは、同じ神に向かって献げる礼拝と、同じ使命に生きる福音伝道に生きる交わりです。

教会、聖なるもの(2009.9.27)

題   : 「教会、聖なるもの」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 4章32節~5章11節
教会は、いかなる状況下に置かれても、福音宣教とそこに生み出される交わりに生きてきました(2章42節)。その教会の聖なる交わりは、どのようにつくられていくのでしょうか。

1.キリストを証しするための交わり  4章32~37節
「すべてを共有していた」(32節)とは、教会がこだわることの一つでした。具体的には、自発的に持ち物を共有するということでした(34~37節)。教会がそのように導かれたのには要因があります。一つには、「信じた人々の群れは心も思いも一つ」にされて、聖霊に導かれる一致があったからです。もう一つには、信じた者は、キリストの救いによって主なる神のものとされたので、一切のものを神の管理者として正しく用いるように任されていたからです。
こうした聖霊による信仰の一致と愛の配慮は、教会が聖なるものとされている姿を表わしています。しかし教会は、そうした交わりだけを目的とするのではなくて、必然的に宣教の原動力となる交わりなのです(33節)。キリストを証しする宣教に至らない「聖なるもの」はないのです。

2.聖なるものにする交わり  5章1~11節
教会は、こうした宣教の交わりが豊かになっていくと、サタンの挑戦を受けることがあり、手術するように痛みを乗り越えていく経験をするものです。
アナニヤとサフィア夫妻は、共謀して偽りと欺きの罪を犯しました(1~2節)。教会は、愛と赦しの恵みの中に生きつつ、その罪を排除するために断固とした処置をとりました(1ペトロ4章17節)。これほどの裁きを招いた重い罪とは何なのでしょうか。サタンに心を奪われて、聖霊を欺いた罪でした(3節)。また、神を欺いた罪でした(4節)。そして、キリストの体なる教会を欺いた罪でした。その結果、教会のこと、宣教のこと、他者のことが顧みられなくなったのです。
私たちは、どれだけ教会を「聖なるもの」と自覚して信仰生活をしているでしょうか。「聖なるもの」抜きの宣教はないのです(11節)。