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新約聖書

祈りの力(2010.4.25)

宣教題  : 「祈りの力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 11章20節~25節
主イエスが呪われたいちじくの木は、翌日の朝には根元から枯れていました。その光景に驚嘆する弟子たちに、主イエスは信仰に裏打ちされた祈りの力について教えられたのです(20~21節)。

1.疑わないで信じる祈り  22~24節
主イエスが「少しも疑わず」にと語られたのは、弟子たちが風に吹かれて揺れ動く海の波のような状態であったからです。つまり、一方では神の御言葉に基づいて信じ祈っても、片方では神の言われるとおりにはいかないと疑う心があったのです。それは、「生き方全体に安定を欠く人」の姿を表しています(ヤコブ1章6~8節)。
主イエスは、そんな弟子たちに「神を信じなさい」、すなわち神への祈りを信じなさいと命じられました。それは、山をも動かすことのできる祈り、すなわち不可能を可能とされる神への信仰の祈りであり、それによって人が経験する困難・試練などが除き去られると言われたのです。私たちにとっての最大最高の山は、全ての人に共通する罪と死です。これらは、主イエスの十字架と復活による救いによって、すでに取り除かれているのです。今私たちには、「既に取り除かれたと信じる」信仰の祈りが求められるのです。
2.赦しの恵みに立ち続ける祈り  25節
主イエスは、祈る者が備えておくべき大切なこととして、正しい対人関係をつくり、また保つことを勧められました。それは、神との関係が正しくつくられていてこそ可能となります。これを妨げるのは、「あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」との神の赦しの恵みを疑わせる罪だけです。
私たちが神を疑い、主イエスの救いを疑い、祈りを疑う不信仰の罪を持ったままで祈っても、神は自動的にその祈りを聞いてくださるお方ではありません。主イエスの十字架の赦しの恵みに堅く立ち続けて祈ることが大切です。
信じて祈る祈りにこそ力があります。私たちは、祈りにおいて取り扱っていただくことにより、豊かな実を結ばせていただけるのです。

今も生きておられる主(2010.4.11)

宣教題   : 「今も生きておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 16章19節~20節
主イエスが死から復活され、命あふれる恵みをもたらしてくださったことを心から祝い、讃えるのが聖日礼拝です。この時私たちは、全存在をもって、今も生きておられる主に向かうことが大切です。
今も生きておられる主は、どのように私たちと関わってくださるのでしょうか。

1.私たちと共にいてくださる
主イエスは復活された後、「天に上げられ、神の右の座につかれ」ました。これは、私たちが日常経験する悲しみの別離とは違って、主イエスはいつでも、どこでも私たちと共にいてくださることを意味しています(マタイ28章20節)。
このイエスを主と告白することは、罪と死に支配されて生きるのではなく、神の恵みの支配の中に生きることなのです。主イエスが「どういうお方か」を知ることは大切ですが、「今どこにおられるか」を知ることはさらに重要なことです。行き詰まりを覚えている真っただ中に、死を迎えるその場に共におられる主イエスは、私たちの苦痛や死と一つになってくださり、それに勝利してくださいます。そして、一時だけ共にいてくださるのではなくて、常時共にいてくださるお方です。

2.私たちと共に働いてくださる
続いて、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教」しました。主イエスの救いの御業、そして「イエスは主
である」ことを宣ベ伝えたのです。そのとき、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」のです。それは、確かな地盤の上に「安定した錨」を下ろすように(ヘブライ6章19節)、主イエスが共に働いていてくださるという確かな信仰をもって神の御言葉を語ることなのです。
私たちは、神の御言葉を担って生きています。ところが、その御言葉を宣べ伝えることに自信を無くし、また臆しやすいものです。しかし、私たちは、いかなる時も信仰をもって聖書の御言葉を伝えていく時に、主イエスが一緒に働いてくださることを経験するのです。

復活からの道(2010.4.4)

宣教題   : 「復活からの道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章9節~18節
キリストの復活という喜びの知らせが(6節)、「ここにはおられない」という言葉だけが残った人々には恐れを生じさせました(8節)。そこで、キリストは弟子たちをはじめとする多くの人々に、ご自身を現わされました。それによって、キリストの復活が確かであることを明らかにされたのです。

1.信じなかった人たちによって証明された  9~14節
キリストは、マグダラのマリアを通して「イエスと一緒にいた人々」に、二人の弟子を通してエルサレムに留まっている「残りの人たちに」、「復活されたイエスを見た人々」を通して11弟子たちに復活の事実を知らせましたが、誰も「信じなかった」のです。このように、キリストの復活を容易に信じなかったことが、キリストの復活が彼らの思いこみでもなく、だまされたからでもなく、逆に確かな事実であることを証ししています。
こうした人々がキリストを信じなかったのは、信じようとしない心のかたくなさが原因でした。ですから、真実な証人の証言を通して、キリストの復活の事実を信じる信仰が求められるのです。
2.信じた人たちによって証言された  15~19節
キリストは、不信仰でかたくなな弟子たちに恵みを注がれ、「滅びの宣言」ではなく、キリストを信じることによって「救われる」ことを語られました。そして、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と招かれました。
キリストは、必死になって、ご自身の救いの中に人間を引き戻そうとされるお方です。そのために、信じた主の弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じて、彼らを用いて神の救いを進めてこられました。その時、キリストの名によって種々の不思議な御業がなされるとともに、何よりも救いと祝福と慰めの「新しい言葉」を語ることによってなされてきたのです。
キリストを信じた者の人生は、恐れで終わることなく、キリストによって神を讃え、神の救いの言葉を語る者に変えられるのです。

十字架への道(2010.3.28)

宣教題  : 「十字架への道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章32節~42節
エルサレムの町の東側にあたるオリ-ブ山の中腹にあった「ゲツセマネ」でのことです。そこで主イエスは、迫り来る受難を間近に控えて、その心の思いを父なる神に向かって訴えるように祈られました。さらに弟子たちに向かっても、その思いをはっきりと告げられました。

1.キリストの苦しみが現われている
ゲツセマネの祈りは、主イエスの壮絶な苦しみ、苦闘、苦悶の様を伝えています。主の苦しみは十字架上だけではなかったのです。そこに現わされた主の恐れと悲しみは、神を否む罪と死に対して抱かれたものでした(33~34節)。
それに対して主イエスは、神の御心に適う道を求められ、全ての人の罪に対して注がれる神の怒りを一身に引き受ける祈りをささげられたのです(35~36節)。
しかし弟子たちは、眠りこけてしまいました(37節)。肉体の疲れによって眠っただけではなく、魂も眠ってしまって神の御心に無頓着になっていたのです。主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)と語られたように、キリストの苦しみを覚えつつ、魂が目覚めていたいものです。

2.キリストの従順が現われている
ゲツセマネの祈りに見る主イエスのお姿は、徹底して人となられた神、どこまでも私たち人間の側に立ち続けておられる救い主を伝えています。主イエスは、「御心に適う」道を選ばれて、全てを明け渡されました。主は死に至るまで父なる神に従われたことを通して、従順を学ばれたのです(ヘブライ5章7~8節)。ですから私たちも、神への従順を学び続けていくことが大切なのです。
さて、ゲツセマネの祈りを終えられた主イエスは、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう」(41~42節)と言われました。人間の罪がどれほど絶望的であっても、死の闇がどんなに深く覆っていても、行き詰まりの中に八方塞がりでうめいていても、主イエスは立ちあがって歩み出してくださいます。今私たちは立ち上がって、信仰の従順の一歩を踏み出させていただきましょう。

喜びの拡大を(2010.3.21)

宣教題  : 「喜びの拡大を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 8章1節~8節
キリストの十字架と復活の福音は、迫害の中にあっても前進し続け、勝利をもたらしました。その結果、人々に大きな恵みが注がれ、「人々から非常に好意を持たれて」いました(4章33節)。
さらに、散らされた主の弟子が福音宣教を拡大していったことにより、人々に救いの喜びが拡がって行ったのです(8章8節)。

1.試練を通して拡がっていく  1~4節
ステファノの殉教の死は、人々に大きな悲しみをもたらしました。また、教会は大迫害を受け、使徒以外の主の弟子たちは散らされるという試練を経験しました。
しかし、神は生きておられ、試練を試練のままで終わらせなさいませんでした。それを逆手にとるかのようにして、散らされて行った主の弟子たちによって福音宣教が拡げられて行きました。また、この出来事を通して、サウロが救われる伏線となりました。神が働かれると、どんなに荒れ狂った迫害者も、神によって新たに用いられるようになるのです。
このように、福音がもたらす神の創造的な御業は、いかなる状況下であっても、それを価値あるものとされるのです。

2.恵みの器を用いて拡がっていく  4~8節
宣教の領域は拡がって行きます。散らされて行った主の弟子たちは、ギリシャ語を使う人たちで、ギリシャ語を使う地域へと遣わされて行きました。彼らは、使徒ではなくて、言わば信徒でした。その中の一人に教会に仕えるフィリポがいました。このように、教会に対して起きた迫害は、むしろ信徒の働きに拍車をかける結果となったのです。
主の弟子は、関わることのできる領域や地域や関係筋といった恵みの場に遣わされて行きます。そこにおいて、キリストの救いに与かっている者は、生きておられるキリストを見ることはできませんが、キリストを愛するという喜びに生きるようになるのです(1ペトロ1章8~9節)。このようにして、集められては散らされて行く恵みの器は、福音に与かっている大きな喜びを拡大していくのです。

ひとり子をたもう神の愛(2010.3.14)

宣教題  : 「ひとり子をたもう神の愛」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : ヨハネ 3章16節~21節
私たちはこの世に生まれてから、いつも愛を求めて生きています。赤ちゃんの時はお父さんお母さんの愛、大人になると家族や仕事などです。このように私たちはいつも誰かに愛を求めて生きているのです。

1.神はこの世を愛して下さった。
神様はこの世を愛して下さいました。しかし、この世は神様を無視し、罪によって失われた世界と言えます。神様に背いて、罪に満ちた私たちを、神様は限りなく愛して下さっているのです。その愛は、無私で無償の愛、人種的偏見や人間的差別もありません。神様は、私たちが罪人であろうとも愛して下さっているのです。神様の愛は、どのように表されたのでしょうか?

2.神はそのひとり子を賜ったほどに愛して下さった。
キリストの十字架によって、神様の愛が具体的に表されました。人間は罪を持ったままでは絶対に御国に行くことは出来ません。でも神様は、全ての人が救われて御国に行くことが出来るように、キリストをこの世に送られたのです。
神様はどうして、これほどまでにキリストの十字架と言う大きな愛の犠牲を払って下さったのでしょうか?

3.神は滅びから永遠の命に移すほどに愛して下さった。
キリストは、私たちが永遠の滅びから救われて永遠の命を得る為に、私たちの罪の罰の代わりに十字架で受けて死んで下さったのです。
永遠の命とは、肉体の死だけではありません。誘惑に打ち勝つ命であり、試練や困難の中にいても私たちが生き続けることが出来る命なのです。
献身する前、私は試練に遭いました。私を支えてくれたのは、私の祈りを聞かれていた神様だけでした。それまでの私は、人に言えない罪もありました。それにも関わらず私を愛し続けて下さっている神様は、信じ求める者に勝利を与えて導いて下さるお方なのです。日々、神様の愛を求めて、キリストによる救いの勝利を得ましょう。

真実であれ(2010.3.7)

宣教題   : 「真実であれ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 11章12節~19節
受難の道を歩まれるキリストは、エルサレム入城の翌日に理解しがたい行動をとられました。それは、実のないいちじくの木を呪い、荒々しく神殿をきよめられた出来事です。そこには、キリストご自身の失望と怒りが現わされているのですが、その根底にはキリストの真実が秘められていました。

1.真実を見抜かれるキリスト
キリストは、葉だけを茂らせて実のならないいちじくの木を枯らせてしまわれました。それは、神の民が過越祭という神への熱心な礼拝をささげているにもかかわらず、神の民としてふさわしい実を結んでいないことを教えようとされた行動であり、そこに潜む偽善を明らかにされたのです。続いてキリストは、神殿におけるささげ物の売買や両替がなされていることの中に、「それを強盗の巣にしてしまった」と偽善の罪が横行していることをあばかれました。キリストは、そのような偽善がご自身を十字架につけてしまうことを見抜いておられたのです。
さて、キリストが十字架において命を投げ出してくださった事実には、偽りのない愛が現わされています(ロ-マ12章9節、1ヨハネ3章16節)。このキリストの真実な愛が私たちを真実な者に変えるのです。
2.真実を求められるキリスト
真実を見抜かれるキリストは、私たちに真実を求められます。
まず「わたしの家」とは、今日の教会です。そこはキリストと交わり、神を礼拝する「祈りの家」です。このことを忘れてしまうと、私たちは自分の考えや感情を満足させるために神を引き合いに出して利用するようになってしまいます。このことに関しては、絶えず信仰の目覚めをいただいていることが大切です。
また私たちは、キリストの十字架の贖いによって「聖霊が宿ってくださる神殿」とされました(1コリント6章19~20節)。ですから私たちは、日々にキリストの愛と真実に支配されて、神のものとして生きることが求められているのです。そのようにして、真実な信仰の歩みが造られていくのです。

キリストを見る(2010.2.28)

宣教題  : 「キリストを見る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 7章54節~60節

キリストの福音に敵対する人々の罪を指摘したステファノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしています。そのような時でもステファノは、死からよみがえって、いつも生きておられるキリストを仰ぎ見て生きていました(55~56節)。

1.キリストによって勝利者とされる
「天を見つめ」ているとは、いかなる時も主なる神を信じ仰いでいるということです。その結果、ステファノは父なる神の右に立っておられる復活のキリストを見たのでした。聖霊に満たされるならば、人の憎悪や問題の中にあっても、見なければならないキリストが見えてくるのです。
その時ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、キリストを信頼して祈っています。彼は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)と叫ばれ、十字架上で救いを成し遂げて勝利されたキリストを見ていたのです。十字架のキリストを見る時、私たちの罪は赦されて滅びることはありません。復活されたキリストを見る時、死が私たちの終わりとなることはありません。キリストによる罪と死に対する勝利者とならせていただけるのです。

2.キリストに似る証人とされる
さらにステファノは、自分が見たものについて人々にも呼びかけ、証しをしています(56節)。それに
対して、人々は聞く耳をもたず、それを否定しようとしました(57~58節)。
そんな中でステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)と執り成しの祈りをささげました。これは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と相通じる祈りです。赦すということには、実に大きな力がいります(コロサイ3章13節)。今も生きておられるキリストを見つづける者は、キリストの十字架によって赦していただいたゆえに、赦すことにおいてキリストのようにならせていただけるのです。

柔和を身に帯びて(2010.2.21)

宣教題  : 「柔和を身に帯びて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  11章1節~11節
主イエスは、十字架を目指してエルサレムに入城されました。人々は主イエスのそんな決意も知らないで、「ホサナ(どうかお救い下さい)」と、王を迎えるように歓呼しています。
この出来事について旧約聖書の預言者は、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリヤ9章9節)と、柔和を身に帯びた平和の王の入城であったと語っています。

1.卑しめられた受難のキリスト
主イエスは、人々が期待するような地上に新しい権力を打ち立てる戦いの王ではなく、わざわざ「子ろば」に乗って、柔和で平和をもたらす救い主としてのお姿を表わしておられます。
ところで「柔和」という言葉には、高ぶらないで謙った、卑しめられたという意味が含まれています。主イエスが最も卑しめられたのは、受難のしもべとして十字架にお架かりくださった時でした。そこには、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(1ペトロ2章22~24節)と、愛のゆえに黙しておられるお姿があります。この主イエスの柔和が、私たちを罪と死と滅びから救い、生かす力となったのです。

2.こころ砕かれた謙遜なキリスト者
人々は、主イエスを王として迎え入れたのですが、キリストについての理解が欠けていたために、数日後には主イエスを裏切り、「十字架に架けろ」と叫んで豹変してしまいました。彼らは、自分が持っていた先入観でキリストを理解し、自分が納得できる範囲でキリストを受け入れたのですが、そうでない場合は切り捨てようとしたのです。ここに人間の罪の姿があります。
私たちは、自分の主張やわがままにしがみつかないで、聖書が証言しているキリストご自身をそのまま受け入れ、心砕かれて従っていきたいものです。柔和なキリストが私たちの全てを支配してくださるとき、私たちは謙遜で柔和な者に造られていくのです。

教会に生きる(2010.2.7)

宣教題  : 「教会に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  20章17節~35節
キリストとの出会いがその人のキリスト観に、教会との出会いがその人の教会観に影響を与えます。さて、神が御自身の血をもって贖い「御自分のものとなさった神の教会」とは、どのような群れであり、また私たちはそこでどのように生きていくのでしょうか。

1.キリストを宣証する群れ  18~27節
パウロは、謙遜と愛と忍耐をもって、ひたすらキリストに仕えました。そのためには、どの人にも分け隔てなく、ありとあらゆる方法を用いて神の恵みの福音の全てを証しし宣べ伝えました。そして、その任務を果たすことで十分であると語っています。このように、パウロが謙遜かつ大胆になれたのは(19節、24節)、全ては神の憐みであり恵みであると自覚していたからです。(1テモテ1章12~17節)。
私たちが教会に生きるのは、このようにキリストを証しし宣べ伝えるためです。

2.聖霊によって牧される群れ  28~31節
教会は、キリストの血によって贖われ、神のものとされた人によって構成されています。ですから「神の教会」は、神のものなのです。聖霊は、教会を神のものとさせないようにする働きかけから守り、また牧する監督者を任命されます。そうするのは、群れの一人ひとりが神への礼拝と奉仕がささげられるようにするためなのです。
私たちが教会に生きるのは、聖霊によって牧される群れが建て上げられ、一人ひとりが整えられていくためです。

3.神の御言葉に立つ群れ  32~35節
神の御言葉は、信仰者を造り上げる力があり、教会の基礎を固めていきます(9章31節)。また、永遠の命の恵みを受け継ぐまで導く力があります。ですから信仰者は、神の御言葉を信頼して、自分も他者も御言葉に委ねるのです。パウロは、「受けるよりは与える方が幸いである」との神の御言葉に委ねる生き方を証ししています。 私たちが教会に生きるのは、神の御言葉に立って生きることの幸いを知り、学び、体得するためです。

御霊によって歩く人々(2010.1.31)

宣教題  : 「御霊によって歩く人々」   宣教:   横田 武幸  師
聖    書  : ガラテヤ 5章16節~26節

信仰生活においてしばしば「目から鱗」の体験をすることがあります。今朝のテキストもわたしにとって、心の目が開かれる御言葉です。「喜びの音信、福音」です。御霊によって歩く時、肉の欲の支配から解放されます。また御霊によって歩くものには、「御霊の実を結ぶ」ことができます。

御霊の実とは何でしょうか。信者の人格の中に起きる人格の変化です。それは一瞬に起きるものもありますが、徐々ではありますが確実な変化が起きるものであります。
それは人間の修養、努力、研鑽と言うものとは、全然別な出来事です。神の聖霊による人格の変化です。キリストの似姿への変化です。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

「御霊によって歩きなさい」とは何を意味するのでしょうか。
この言葉は、(1)継続、習慣、生活化を意味する現在命令形です。
(2)聖霊によってとは、聖霊に満たされ続けて、聖霊にコントロールされて、聖霊が心と体の「主、王」なのです。「恵みと愛で支配するお方様」に丸一日、丸々一週間主権を明け渡す生活です。
(3)まず初めの一歩が始まれば、次の一歩、もう次の一歩と歩みを続けます。確実に御霊の実を結びます。「初めには、芽が出ます。次に穂が出ます。そして穂の中に「実」が結ばれるのです。
逆の順序を考えていませんか。歩きかけた幼児は、躓きますし、倒れます。しかし立ち上がって歩きます。一回倒れたってあなたの生涯は終わったのではありません。いつの間にか走るものとなり、飛んだり、跳ねたりするようになります。

実を結ぶには、聖霊によって歩むことですが、もっと具体的な表現をすれば、
(1)「御言を聞いて悟る人」は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。
(2)祈りを通して、主に繋がり、主の生命の内住活動を体験します。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」のです。
(3)ペトロは御顔を仰ぎつつ波の上を歩き、一歩一歩確実に進んでいきました。それは、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

御霊の導きに従う者(2010.1.31)

宣教題  : 「御霊の導きに従う者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ガラテヤ 5章16節~26節
私たちが救われ、救いに与かり続け、救いの完成に至るまで、神は恵みをもって導いておられます。この神の恵みを信仰をもって受け取り続ける者は、「(御)霊の導きに従って歩み・・・生き・・・前進」(16節、25節)するのです。御霊の導きに従うとは、どのような状態をいうのでしょうか。

1.御霊の実を結んでいる  16~23節
キリスト者には、二通りの生き方があります。まず、自分中心に歩む者の「肉」の働きは、その結果が明らかとなります。すなわち、堕落した本能をむき出しにして、神にも、人にも、社会にも敵対する罪となって現れます(19~21節)。肉は、このような罪を私たちの内に取りこんでしまうのです。
しかし御霊は、行いとか働きではなく品性の実を結ばせてくださいます。御霊の賜物は、各々その人に相応しく与えられますが、御霊の実は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つ全てを一人の人に結ばせるのです。このように御霊は、常に内から外へと働いて、「御霊の導きに従って歩」む者を造り変え続けてくださるのです。

2.キリストのものである  24~25節
クリスチャンは、「キリスト・イエスのものとなった人たち」です。確かにキリストの十字架が、私たちをキリストのものとしてくださり、御霊の実を結ぶものとしてくださいました。しかし、自らがそうでない現実に気づく時、再び十字架を見上げるのです。その時十字架が、私たちの罪の身代りのためだけでなく、私たち自らがキリストと共に十字架につけられ(2章19~20節)、その「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけて」しまっていることを知るのです。
私たちは、この十字架の恵みを絶えず受け取り直して、御霊の導き従っていくなら、肉の働きは影をひそめていくのです。
キリストのものであり続けるためには、神第一の礼拝生活と信仰生活と教会生活を送ることが大切なのです。

何をしてほしいのか(2010.1.24)

宣教題  : 「何をしてほしいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章46節~52節
主イエスが、「エリコの町に着いた。・・・エリコを出て行こうとされたとき」でした(ルカ18章35節~19章1節を参照)。道端で物乞いをしていた盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と繰り返し叫んだのです。私たちは、このように叫び求める方を知っているでしょうか。

1.キリストの憐みを求める  46~51節
バルティマイが「ダビデの子イエス」と呼びかけているのは、イエスこそ主であることを知っていたからです。彼は、イエスの憐みにすがることを妨害するものがあってもめげないで、また疑い迷わないで執拗に叫び続けました(詩編50編15節)。
この叫びを無視なさらない主イエスは、「安心しなさい。立ちなさい」とバルティマイを呼びよせられました。憐みの主に信頼していたバルティマイは、踊り上がるほど喜び、安心してイエスのところに来たのです。
そこで主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられると、「見えるようになることです」と即座に答えるバルティマイでした。彼の目は見えるようになり、新しい歩みへと導かれて行きます。イエス・キリストは、人が抱えている悩みなどに答えてくださることを通して、最も大事な人の心と魂の目を開いてくださるお方です。

2.キリストの憐みを信じる  51~52節
主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねてくださったのは、愛以外の何の理由もありませんでした。この主の愛と憐みに対する信仰のあるところに、救いの御業がなされるのです。
バルティマイは、肉眼が見えるようになったことだけで終わらないで、「なお道を進まれるイエスに従」いました。それは、受難の道を進まれる後に従うことであり、十字架上のイエスを仰ぎ見ることだったのです。
私たちは十字架上での神の叫びを聴いて、それが自分のためであったと信じる時に(15章34節)、心と魂の目が開かれます。そしてイエス・キリストに従って行く時に、主の使命に生きる歩みがつくられていきます。

聖霊に満たされて(2010.1.17)

宣教題  : 「聖霊に満たされて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 6章8節~15節
主の弟子たちの中から選ばれた7人は、細やかな愛の奉仕を忠実に励む人たちでした。なかでもステファノは、キリストを証しすることと力ある業を行うことにも忠実でした。彼がそのように歩んだ秘訣は、「聖霊に満ちている」(3節、5節、10節)主の弟子だったからです。

1.健全な主の弟子である  8~10節
ステファノは、「恵みに満ち」ていました(8節)。彼は、救いの完成へと導く神の恵みを無駄にしたくないために、恵みによって主の業に励んだのです(1コリント15章10節)。また、「力に満ち」ていました(8節)。その力は、人をキリストとその救いに導くものでした(1章8節)。さらに、神を畏れ敬う「知恵に満ち」てキリストを証しし、弁明しました(3節、10節)。そして、主なる神に対する全き「信仰に満ちて」いました(5節)。聖霊に満たされるとき、主なる神を讃え、新しい言葉がつくられ、キリストの香りを放つ健全な主の弟子とされるのです(ヱフェソ5章18~20節)。
聖霊に満たされることは、信仰者が自由に選べる贅沢品ではありません。だれにとっても絶対に必要なものなのです。

2.輝いている主の弟子である  11~12節
素直に福音を受け入れられない人々は、ステファノに対して反対や妨害をしました。彼らの怒りは高まって、民衆がそれに加わるように動員され、偽証までさせています(11~14節)。ここに、自分の立場を守るためには手段をも選ばない人間の罪の姿が現れています。しかし、そのような中でもステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた」のでした(15節)。これは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」との信仰に生きる者の輝きです(ガラテヤ2章19~20節)。
キリストの救いの恵みが届けられるために、神は人を用いられます。しかも、環境や状況や条件に支配されることなく、聖霊に満たされた輝く器を用いられるのです。

逆こそ真(2010.1.10)

宣教題  : 「逆こそ真」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章32節~45節
主イエスがご自身の受難と復活を予告された際に、ヤコブとヨハネは栄誉と報いを求めました。それに対して主イエスは、「仕える者になり・・・すべての人の僕」になることが、真に偉大な道であることを明らかにされました。仕えるとは、どういう在り方なのでしょうか。

1.キリストの愛に触れ続ける
私たちは、スキンシップや心の触れ合いによってお互いの感性が豊かにされます。聖書には、主イエスが人に触れられることによって御業をなされたり、人が主イエスに触れることによって癒されたりしている場面が多くあります。
ところで、主イエスが来臨された最大の目的は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」でした(45節)。それは、罪と死の虜になっている者を解き放つために、主イエス自らが十字架で血を流して身代金となってくださったのです。
私たちは、自分の決断によって、僕となって神と人に仕えることはできません。いつもキリストの十字架の愛に触れ続け、復活の命に触れ続けることによってのみ可能なことなのです。

2.キリストの謙遜に倣い続ける
主イエスは、「仕えられるためではなく仕えるために」来られました(45節)。私たちは、このキリストの謙遜に倣い続けることによって、僕となって神と人に仕えることができます。これこそが、「偉く」また大きくなることなのです。
この勧めは、ヤコブやヨハネなどの特別な人に対してだけなされたものではありません。「あなたがたの間で」(43節)と、今日の教会に対して勧められているのです。教会は、仕える人と仕えられる人と区分けしてしまう所ではありません。キリストが仕えていてくださることを知る者は、人からの些細なことにも仕えられる恵みに気づき、神と人とに仕える者とされるのです。
私たちは、互いに仕え合う喜びに生きてこそ、互いが大きくなり、真に偉くなるのです。