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新約聖書

神の必然としてのリバイバル(2011.10.2)

宣教題  : 「神の必然としてのリバイバル」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章11節~15節
主の恵みが満ち満ちて、それが溢れ出でて周囲を変革していくのが「リバイバル」と言われています。その「リバイバル」の本質は、主イエス・キリストが崇められ、主イエス・キリストが拡大されていくことです。それは、日常的なことであり、その備えがいつもなされていることが求められます。

1.「主が」心を開かれる  14節
主がヨ-ロッパ伝道に導いておられると確信したパウロ、シラス、テモテ、ルカたちは、当時小ロ-マと言われた「フィリピ」に到着しました。彼らは、そこの祈り場に集まっていた婦人たちに福音を語りました。その中に居合わせたリディアは、「神をあがめる」敬虔な婦人で、主がその彼女の霊の目を開かれたので、語られることを集中して聴き、回心へと導かれました。
真のリバイバルは、このような「敬虔の気風」を生み出し、それが教会の気風となり、教会を決定づけます。そのためには、一人ひとりが不敬虔から敬虔への人生に変えられ(ルカ23章40節)、それが深められることが必要です。何よりも、毎週繰り返される礼拝において、私たちは信仰の基本に立ち返り、敬虔であることを慕い求め、敬虔の鍛錬をされていくことが大切なのです(1テモテ4章7節)。

2.「主に」忠実である  15節
リディアとその家族は、共に洗礼を受けました。そして彼女は、自宅にパウロ一行が泊まるように愛をもって招待しています。こうして、この家族が中心となって、「喜び」を最大の特徴とするフィリピ教会が誕生しました。それ以来、彼女の家を拠点としてフィリピ伝道がなされ(16章40節)、「献身的な気風」に満ちた教会となりました(フィリピ4章15~16節)。
こうした気風は、「主を信じる者」すなわち「主に忠実な者」たちが、一つになって集まる所に生まれます。「世界聖餐日礼拝」は、こうしたことを重んじて生まれました。私たち一人ひとりは、主イエスを信じる信仰をもって、主に忠実に、また主に真実に生きるならば、途絶えることのないリバイバルが生まれるのです。

わたしたちを生かす信仰(2011.9.25)

宣教題  : 「わたしたちを生かす信仰」   宣教:   中川 利行 師
聖    書  : マルコによる福音書 16章1節~8節
キリスト教信仰の中心は、イエス・キリストを神の御子、罪よりの贖い主、そしてこの方をわたしの個人的な救い主と信じる信仰です。そして福音とは、イエス・キリストの御生涯、彼が受けられた十字架による苦難、その死よりの復活を言います。

1.「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
マルコ16章1~8節は、主のご復活の記事です。この時の三人の婦人たちは、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」という天使の声を聞いた時でさえ、持参した香料のことをすっかり忘れてしまうほどに、疑いの心、落胆しきった気持ち、絶望感を抱いたままでした。婦人たちは、ここに至るまで主イエスから何度も十字架の死と復活の予告を聞いてきたにもかかわらず、結局死んだらお終いだとの疑いの心に捕らわれていたのです。続いて婦人たちは、復活された主にガリラヤでお目にかかれると聞いても、震え上がり、正気を失って墓から逃げ去りました。戦慄を覚えたからです。
しかし、主イエスの復活は事実起こりました。主が復活された三つの証拠があります。(1)三人の婦人の証人=彼女たちは目撃者でした。(2)大きな証拠品=封印された大きな石が転がされていました。(3)天からの証し=天使が「あの方はよみがえられた」との伝言がありました。

2.復活されたイエス・キリストをいつも思う。
キリストの使徒となったパウロは若き伝道者テモテに、「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです」(2テモテ2章8節)と語っています。
主イエスは今日も復活されて生きておられます。私たちが信仰生活を続けていく上で特に記憶しなければならない事は、「死者の中から復活された」イエス・キリストの事を思うことです。パウロは「イエス・キリストをいつも思い起こす。これがわたしの福音である」と生き生きと表現しています。
私たちを生かす信仰は、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを信じる信仰以外にありません。私たちは、この信仰に立つ者となりましょう。

主を愛するゆえに(2011.9.18)

宣教題  : 「主を愛するゆえに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章1節~8節、1ペトロ1章8~9節
私たちは、主イエスの愛に応答したマグダラのマリアの歩みから、さらに主イエスの愛に応答することを証言し続けたペトロのメッセ-ジから、主イエスを愛するとはどういうことかを教えられます。

1.主イエスに仕えることを喜ぶ
マグダラのマリアは、以前は「七つの悪霊」にとりつかれていた悲惨な生き方をしていました。そういうところから主イエスによって救われただけに、彼女の主イエスへの感謝は誰にも負けないくらいに深かったと思われます。ですから彼女は、主イエスが十字架にお架かりになった際もそこに立っていましたし(マルコ15章40~41節)、主イエスが葬られた後も墓から去りがたかったのです(同47節)。そして、彼女は世界で最初に復活の主イエスにお会いする光栄を与えられたのです(同16章9節)。
このように、人として惨めさを知り抜いたひとりの女性が、主イエスに愛され、その罪を赦され、悪霊から解き放たれた結果、ひたすら主イエスを愛し、仕えることを喜びとする歩みをするようになったのです(ルカ8章1~3節)。私たちが、主イエスを愛して喜び仕えていくなら、主イエスの深い愛が見えてくるのです。

2.キリストの証人であることを喜ぶ
これまでのキリスト教会の歴史において、多くの婦人たちが、黙々と忍耐深く、礼拝をささげ、祈りをささげ、教会の働きを担ってきました。何よりも、「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」マグダラのマリアのように、彼女たちは十字架と復活の証人となりました(マルコ16章10節)。
ところで、ペトロもこの喜びの知らせを聞いて、復活された主イエスに会い、主イエスを愛し、信じ、喜びに満ち溢れました。同じように、魂の救いを受けている者は、主イエスを肉眼では見てはいなくても主イエスを愛してやまず、信じ、言葉では言い尽くせない喜びに溢れる者とされるのです(1ペトロ1章8~9節)。ですから私たちは、マグダラのマリアやペトロのように、主イエスに愛され、主イエスの愛に生き、主イエスを愛する者とされていることを喜びをもって証しするのです。

確信はどこから(2011.9.4)

宣教題  : 「確信はどこから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 16章6節~10節
パウロ一行がアジア伝道からヨ-ロッパ伝道へという新たな展開をするにあたって、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」と語っています。それは、情況を総合的に判断して、このように決断したということです。この決断は、どういうところから生まれたのでしょうか。

1.聖霊の導きに従うことを通して
パウロは、第一回目の伝道の時に開拓された教会を問安し、小アジアの中心エフェソに赴く計画を持っていましたが、「聖霊から禁じられ」、続いて「イエスの霊がそれを許さなかった」と二度にわたって阻まれました(6~7節)。
主なる神の御心は別のところにあることを示そうとされたのです。この時パウロ一行は、主なる神が最善のところに導かれると信じつつも、不安と戦いつつ、迷い、悩み、戸惑ったことでしょう。
パウロが、自分の計画や考えを持ちつつ、それを捨ててまでも聖霊の導きに従うことができたのは、「私ではありません。キリストです」との信仰経験と訓練を絶えず持っていたからでした(ガラテヤ2章19~20節)。主なる神からの確信は、聖霊の導きに従うことを通して与えられるのです。

2.魂の叫びを聴くことを通して
聖霊の導きによってトロアスに着いたパウロは、一人のマケドニア人の嘆願を通して、ヨ-ロッパ伝道の幻を見たのです(8~9節)。この三度目の主なる神の導きに、「わたしたちは」とあるパウロ、シラス、テモテ、そしてルカが従ったのでした(10節)。
主イエスが一人の魂の叫びを大切にされたように、パウロは一人の魂の叫びを聴き逃しませんでした。魂の救いの叫びは、途絶えることなく続いています。主なる神は、今日までその叫びを聴いた人を用いてご自身の救いの御業を進めてこられました。私たちは、一人の人の魂の叫びを聴き取って、その人のところに遣わされていく群れであり続けたいと切願します。

先立つ主イエス(2011.8.28)

宣教題  : 「先立つ主イエス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  16章1節~8節
復活された主イエスについて「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7節)と告げられていることは、主イエスが予告されたことであり(14章28節)、自ら十字架に向かって決然として先立ち行かれたお姿でもありました(10章32節)。先立たれる主イエスは、どういうお方なのなのでしょうか。

1.復活の命を与える主
主の弟子たちとペトロがガリラヤに戻ることは、彼らにとってはもう一度やり直そうとの願いがあったからかもしれません。ただ確かなことは、死んだらお終いだとの暗い思いに捕らわれていたということです。死に勝利して復活された主イエスは、そうした彼らに永遠の命を与えて生きるものとするために、ガリラヤに先立って行かれたのです。
私たちが信仰を与えられるようになるには、各々その道筋をたどります。ただ共通していることは、復活の主イエスが先回りして出会ってくださり、復活の命に生きる者にしてくださるということです。それは、今までとは違う解き放たれた自由と喜びと平安に生きることです。

2.再起動される主
主の弟子たちだけでなく、マグダラのマリアを始めとする女性たちは、ガリラヤに向かって先立たれる主イエスの後ろ姿を見ながらついて行きました。主の弟子たちにとっては、それはふりだしに戻っていくことでもありました。かつて主イエスは、そのご生涯をガリラヤ伝道から始められ、弟子たちは「イエスの後について行った」からです(1章14~20節)。先立たれる主イエスは、彼らを使命の原点に立たせ、再起動させようとされたのです。
十字架に死んで復活され、今も生きておられる主イエスは、私たちを絶えず初心に立ち返えらせて、与えられている使命に振い起させてくださいます。私たちは、死と恐れが支配しているように見える中にも、「ここは、復活され、先立たれる主イエスが支配しておられる」との信仰に立ち続けたいものです。

死と向かい合う(2011.8.14)

宣教題  : 「死と向かい合う」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  15章42節~47節
私たちが告白する使徒信条には、主イエスの十字架の死の事実を「十字架につけられ、死にて葬られ」と詳しく言い表しています。本日の聖書箇所には、主イエスの埋葬と、その死と向かい合う人間の姿が描かれています。

1.墓に向かう人生
主イエスの死が確かめられてから、その体はアリマタヤのヨセフによって、王と同じような待遇でもって丁重に葬られました。主イエスは犯罪者のように呪われた死を死なれましたが、死の直後から栄光を受け始められたのです(イザヤ53章9節)。このようにして、主イエスは本当に死なれたのであり、葬られたのです。
主イエスは、私たち人間が死ぬのと同じように死なれ、同じように葬られました。その意味で、私たちと主イエスとは、「死にて葬られ」ということにおいて一つとなることができます。ただし私たちは、主イエスが復活してくださったゆえに、今や墓に向かう人生から墓を突き破る人生に変えられているのです(16章)。

2.主イエスに向かう人生
アリマタヤのヨセフは、神の国を待望しつつも、公然と信仰を言い表わすことができなかったようです(ヨハネ19章38節)。しかし、彼は、この時一切の恐れを捨て、地位も名誉も失う覚悟で、主イエスの埋葬の役を買って出たのです。彼をしてこのような言動に至らせた理由は、主イエスの十字架の死の事実があったからでした。アリマタヤのヨセフ同様に、主イエスの十字架を仰ぐ者は、信仰の妨げとなるものを打ち砕くのです。
「この人も・・・」と言われていますが、アリマタヤのヨセフだけでなく、先の百人隊長も(39節)、最後の最後まで主イエスを見失わなかった婦人たちも(47節)、主イエスに向かう人生を歩んだのです。そして、神の恵みの支配に生きる「私たちも」主に向かって歩み続けるのです。

人知を超えて(2011.8.7)

宣教題  : 「人知を超えて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  16章1節~5節
私たちは、主の弟子であり、また主から遣わされて生きる使徒でもあります。絶えずこの自覚をもっていたパウロは、先の伝道旅行において殺されそうになったリストラにある教会を問安するために遣わされて行ったのです。その結果「こうして、教会は・・・」と人知を超えて前進して行きました。

1.同労者が見い出されたから  1~3節
パウロを通して福音の前進がなされていくには、シラスに加えて多くの人材が立てられ、福音が継承されていく必要がありました。そこで選ばれたのが、「テモテという弟子」でした。テモテは、信仰者家庭で育った純粋な信仰を持っていましたし(2テモテ1章5節)、「兄弟の間で評判のよい人」とその信仰と人柄が高く評価されていたからです(フィリピ2章20~22節)。ここでパウロは、テモテがユダヤ人の間でも福音を語るにふさわしい者とされるために、愛のゆえに割礼を授けています。それは伝道のためであって、決して救いのための条件ではありませんでした。
主なる神は、私たちが遣わされていく先々で、福音のための同労者を備えておられます。そこには、人知を超えた神の働きがあるのです。

2.福音の本質を見失わなかったから  4~5節
パウロたちは、先のエルサレム教会会議で明確にされた「イエス・キリストの救いの恵みに与かるには、ただ信仰によるのみです」との福音の本質をもって諸教会を励まし、力づけ、導いていきました。
「こうして、教会は」、まず内的な信仰が強められることが優先され、その結果教会の外的成長がなされていきました。この優先順位が、初代教会から今日まで守られてきたところに、健全な成長を見てきました(2章47節、6章7節、9章31節、16章5節)。
このように福音は、人知を超えて前進して行くのです。私たちは、福音の本質を見失わない霊性を持ち続けることが大切です。

キリストの孤独(2011.7.31)

宣教題  : 「キリストの孤独」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 15章33節~41節
主イエスが、十字架上で父なる神に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたことは、聖書中の最大の「なぜ」です。私たちは、この叫びを真剣に尋ねる必要があります。

1.キリストは孤独を経験された
父なる神は、主イエスに十字架上で容赦のない審きをされました。それは、主イエスが人間の罪そのものとなられて、身代わりに神から捨てられてくださったことを表しています。本来、罪を犯されなかった主イエスは、死ぬ必要がないどころか、父なる神に審かれることなどあり得なかったのです。
この時、一瞬とは言っても、主イエスは父なる神との交わりを断たれて孤独になられたのでした。しかし、「永遠の(聖)霊によって、御自分をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は・・・」(ヘブライ9章14 節)とあるように、聖霊は主イエスの贖いの御業を全うできるように支え続けられたのです。そこには、孤立された主イエスのお姿はありません。それゆえに、主イエスは、ご自分からその霊を父なる神に委託され、贖いの御業を完了したと勝利の宣言をされたのです(37節、ルカ23章46節、ヨハネ19章30節)。

2.信仰者は孤立することがない
私たちは、示されている罪がありながら、それを認めなかったり、悔い改めなかったりして、神との交わりから断たれて孤立していました。しかし、神は、主イエスの十字架によって、断たれた隔てを取り除き、交わりの道を回復してくださったのです(38節)。私たちが、百人隊長のように「イエスの方を向いて」信仰告白に導かれるならば(39節)、孤立することなく、神との交わりの中を生き続けることができるのです。
私たちは、主イエスの復活の勝利に立ちつつ、本来神から捨てられて当然であったにもかかわらず、捨てられずにしてくださった主イエスの十字架の贖いを忘れないで、それを重く受け止めていく信仰者となりましょう。

すべてが益に(2011.7.17)

宣教題  : 「すべてが益に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  15章36節~41節
神に愛されてキリストの救いに与かった者は、神を愛する者となり、神の御計画に従って召されていることを自覚するようになります。神はそのような者と共に働いて一切を益としてくださいます(ロ-マ8章28節)。教会はそのような中を歩んできましたが、そこに何を見い出してきたでしょうか。

1.神を再発見する
パウロが第二回伝道旅行を提案したのは、生まれたばかりの異邦人教会を問安しようという愛からでした。それに際して、第一回伝道旅行の途中で働きを離脱していったマルコをこの伝道旅行に同伴させるかどうかで、パウロとバルナバとの間に激しい意見のやり取りと対立があり、分裂する結果となってしまいました。
そこで、パウロとバルナバは、互いに意見の違いを抱えたまま一緒に伝道するよりも、神の導きの中をそれぞれの確信に従って伝道することを選びました。彼らは、こうした出来事を通して、神が二つの伝道チ-ムによる伝道の拡大へと導かれることを見い出すこととなったのです。

2.主の恵みを体験する
パウロの厳しさとバルナバの温かさによって、マルコは造り変えられていったと思われます。一方パウロは、忠実な兄弟であったシラス、すなわちシルワノ(1ペトロ5章12節)を選び、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」のでした。人々が、主の恵みに委ねたというところに、伝道の力の秘密があります。
主に委ねるとは、何もしないでただ待っているということではありません。主の前に自分の無力さを認め、謙虚にひざまずき、御言葉の約束を信じて、前に向かっていくことです。私たちが、受け継いでいる臨在信仰に生きるのも同様です。私たちは、主の恵みに委ねることを繰り返し体験していく信仰の達人でありたいものです。

危機はチャンス(2011.7.3)

宣教題  : 「危機はチャンス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  15章22節~35節
初代教会が、大きな転換期を迎えていました。それは、だれであってもイエス・キリストの恵みにより信仰によって救われるという福音の真理が明らかにされることにより、教会の分裂の危機を免れたことです。そのために、聖霊が教会会議を用いて働かれました(28節)。

1.聖霊の導きに従う
「割礼を受けなければ救われない」という教えが、アンティオキア教会に持ち込まれた結果、意見の対立と論争が生じました。エルサレム教会は、この信仰の危機を打開するために、パウロとバルナバの異邦人伝道の報告に基づいて会議を開き、議論を重ねた後に、ペトロが異邦人に対する神の恵みの御業と自らの信仰経験を証ししました。それによって、キリストの福音は、世界的かつ普遍的な救いであることが証言されたのです。議長であったヤコブは、人はだれでもキリストの恵みにより、信仰によって救われることを明らかにし、ユダヤ人への愛の配慮を付加して、会議を収束させました(15章1~21節)。
このように福音の真理が貫かれ、分裂の危機が避けられたのは、聖霊の導きに教会全体が従ったからでした。

2.聖霊の御旨に同意する
エルサレム教会は、アンティオキア教会にパウロたちを派遣することを決定し、決議事項を手紙と口頭で伝えることを決定しました。さらに、最終的に「聖霊とわたしたちは・・・決めました」と、聖霊の御旨に教会全体が同意していることを明らかにしたのです(22~29節)。
聖霊の御旨に添うた決定の内容は、アンティオキア教会の一人ひとりを慰め、励ますものでした(30~34節)。このようにして聖霊は、クリスチャン一人ひとりの心の中に信仰の確信を与え、教会全体の一致と成長をもたらされたのです。
聖霊とわたしたちにとって、危機はチャンスとなるのです。

愚かと見える道(2011.6.26)

宣教題  : 「愚かと見える道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  15章16節~32節

聖書は、「愚かさ」ということについて多くを語っています。とりわけ、神の救いが、イエス・キリストの十字架という一見愚かに見える方法で現わされました。そして、そのキリストためには、私たちが喜んで愚かになる道を歩むことを証ししています。

1.救いをもたらす道
ロ-マ兵に引き渡された主イエスは、「ユダヤ人の王」と見立てられての侮辱を受けられました(16~20節)。また、ゴルゴタで十字架につけられてくださった時には、そこを取り囲む人々からののしられました(29~32節)。それの侮辱の言葉は、主イエスが「他人は救ったのに、自分は救えない」ということと、「今すぐ十字架から降りる」のを見たら信じるということでした。
私たちは、彼らの言い分とは逆のところに真理を見い出しています。主イエスは、自分を救わなかったからこそ、人を救うことができたのです。十字架から降りられなかったからこそ、救い主なのです。この愚かに見える救いにこそ、「神の力、神の知恵」(1コリント1章21~25節)が明らかにされています。私たちは、神の恵みによって、この救いを受け入れるのです。

2.祝福をもたらす道
シモンは、主イエスの十字架を「無理に担がせ」られました(21節)。彼は十字架を担ぎながら、眼中から兵士や群衆も消えて、十字架上の主イエスのみが見え、救いの御言葉のみが聞こえるようになったのです。無理やりの恵みを通して、彼は主イエスに近づけられたのです。無理やりに十字架を担がせた人の手は、実は神の恵みの御手でもあったのです(ロ-マ16章13節)。
こうした経験は、私たちも日々に与えられているものです。主の十字架を無理やりにと思える形で担っていくことが、自分自身と周囲に大きな祝福をもたらします。今日も十字架の主イエスを仰ぎ、主の十字架を担って、従う者となりましょう。

神の物語を知る民(2011.6.19)

宣教題  : 「神の物語を知る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカによる福音書  24章44節~49節
教会の沿革を読む時、その教会がどのような教会であるかを知ることができる。それでは、キリスト教会を表す沿革、その物語はなんだろうか。

1.神の物語
復活されたイエスは弟子たちに「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」(24:44)を説明され、旧約聖書にはメシアの苦難と復活だけではなく、悔い改めがあらゆる国民に宣教されることが書かれていると語られた(24:46−47)。ここに神の物語の一端が記されている。
では聖書に証しされている神の物語とはどのようなものだろうか。この物語は、神による天地創造からはじまり、物質的にも知的にも社会的にもすべてのものをゆがめた堕落へと続く。しかし、神は自らが造られた世界を見捨てず、祝福するためにアブラハムの子孫を選び、彼らが世界に輝く光となるように、贖い、導かれた。残念ながらイスラエルはその任に間に合わなかった。
しかし、イエスの宣教を通して神の支配の到来が告げられ、その死と復活を通して堕落がもたらしたあらゆる問題に決定的打撃が加えられた。そして、イスラエルの祝福は異邦人へと広げられた。神の物語を知る神の民は宣教のわざを続け、イエスの再臨とそれに伴う世界の新創造を待ち望む。この物語こそ、教会が何であるかを表している。

2.神の物語を知る民
神の物語を知る民は、今の時代はすべての国民にイエスの十字架と復活と罪のゆるしを宣証する時、「恵みの時、救いの日」(第二コリント6:2)であることを知っている。遅々として歩みであったとしても、教会は新創造というゴールに向かって進んでいる。
さらに、神の物語は神が聖霊によって導かれるものである。われらが実現するものではない。だから、神が導かれる神の物語のゴールへ向けて、聖霊の風に帆を張って、その一端を担わせていただこう。

聖霊の助け(2011.6.12)

宣教題  : 「聖霊の助け」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 14章21節~28節  ローマ 8章26節
聖霊によって送り出されたパウロたちは(13章4節)、7教会を生み出すまでに伝道を展開してきました。しかし、そこには、困難や妨害といった苦難がともなっていました。聖霊は、「多くの苦しみ」と「神の国に入る」という二つの対照的な事柄を一つにしていくのです(14章22節)。

1.多くの苦しみを通して
パウロたちは、何もかも計画してその通りに伝道してきたというよりも、聖霊に満たされ、聖霊のくすしき導きに従って伝道を進めてきました。
その際パウロが経験した「多くの苦しみ」は、彼が気丈夫であったから乗り越えられたのではなく、いつも弱さを自覚しつつ苦闘していたのです(2コリント11章30節)。「弱いわたしたちを」と多くの点で弱さがあることを知っていたパウロは、とりわけ苦しみの中でどのように祈ってよいのか分からないという弱さを知っていました(ロ-マ8章26節)。
私たちが、苦悩や不安や不信といった苦難に揺さぶられたり、罪や誘惑や弱さによって失敗し挫折する経験をしたりするときに、その弱さを自らが受け入れることができるように、聖霊は助けてくださるのです。

2.神の国に入るのである
パウロたちが、アンティオキアの母教会で感謝の報告をした際に、それを自分たちが成し遂げたとは一言も言っていません。神の国に入れられるという御業は、全て神がなされるのです(27節)。ですから、全ての栄光は神にあるのです。
しかし、そのように告白させてくださるのは、聖霊の助けによるのです。聖霊が私たちと一緒に弱さを負ってくださり、聖霊が私たちと向かい合って弱さを運んでくださるからです。聖霊は、私たちに代わってとりなしてくださるからです(ロ-マ8章26節)。
このようなペンテコステの恵みの御業は、今もなし続けられているのです。

キリストの忍耐(2011.6.5)

宣教題  : 「キリストの忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ15章1節~15節  2テサロニケ3章5節
主イエスが十字架につけられてくださったのは、裁判において裁かれてくださったことによりました。それを受けとめてくださったところに、「キリストの忍耐」が表れています。

1.限りなく寛容であられた
主イエスは、神を冒涜したとの理由で死刑の判決をくだした最高法院のユダヤ人によって(14章53~65節)、主イエスには罪がないと知りつつも「十字架につけろ」との群衆の叫びに負けてしまったピラトによって(15章1~15節)、そして呪いの言葉をもって主イエスを裁いたペトロによって(14章71節)、十字架の死に定められたのでした。
この一連の出来事を、ペトロは「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(2ペトロ3章15節)と語り、パウロは「キリスト・イエスがまずわたしたちに限りない忍耐をお示しになり」(1テモテ1章16節)と証ししています。キリストの寛容と忍耐には、ただ驚くばかりです。
バラバではなくキリストが、「わたし」ではなくキリストが代わって十字架にお架かりくださったことを受け入れることのできる人は幸いです。

2.いかなる時も動揺されなかった
主イエスが、群衆の侮辱の声だけが聞こえる中を動揺することなく、十字架の道を耐え忍び通されたのは、父なる神の救いのご計画に堅く立っておられたからです(10章32~34節)。そのことを明らかにされた出来事が、「主の晩餐」においてでした(14章22~26節)。
私たちは、このようなキリストの忍耐が内に造られていくことを願います。そのためには、私たちが、様々に揺れ動く出来事に出合う時に、弱い私たちの心を導いてくださる主イエスを仰ぎ、心を主に明け渡すことです。そして、聖霊によって神の愛を注いでいただき、キリストの忍耐に与からせていただくのです(2テサロニケ3章5節)。

恵みの言葉を(2011.5.29)

宣教題  : 「恵みの言葉を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 14章1節~7節
主イエスが宣教を開始されたとき、人々はその口から出る「恵み深い言葉」に感嘆しました(ルカ4章22節)。私たちが、この恵みの言葉を本気で受けとめるならば、驚くべき恵みの御業が展開されていくのです(3節)。

1.主が証しされる。
イコニオンにおけるパウロとバルナバの伝道によって、多くのユダヤ人及びギリシャ人たち異邦人が、イエス・キリストを信じる信仰に導き入れられました(1節)。それとは反対に、福音を聞いても信じないユダヤ人もいました(2節)。同じ福音を聞いても、心を柔らかくして聴くか、心を頑なにして聞くかで二分されるのです。
そのような状況のもとで、パウロたちは、聖徒たちが造り上げられていくために、長くとどまって恵みの言葉を語り続けました。それは、「主は彼らの手を通して・・・その恵みの言葉を証しされた」からです(3節)。
主イエスは、今も変わらずに、神の器を通して恵みの言葉を証ししておられます。この恵みの言葉は、人を赦して生かし、慰め、励まし、力を与え、望みに溢れさせてくださるのです。

2.信頼し委ねる。
ところが、不信者たちによって町は分裂状態になり、悪意が殺意に変っていきました(4~5節)。パウロ一行は難を避けますが、行く先々で福音を語って行きました(6節)。そのためにパウロは、教会を整えて(14章23節、16章2節)、それを恵みの言葉に委ねつつ、福音のために前進していったのです(20章32節)。
主に委ねることは、必要な信仰の在り方であり、試みられる信仰の学課でもあります。その試みは、自分の手に握っておきたいとの誘惑となって現れます。私たちが主とその恵みの言葉を信頼してこそ、真に主に委ねることができるのです。