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新約聖書

ほんとうに良くなりたいのか(2012.10.21)

宣教題  : 「ほんとうに良くなりたいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 5章1~9節a

エルサレムの町中が祭りで祝っていたときに、ベトザタの池の周囲は失望と悲しみの渦巻く中にありました。そこにイエスが来られて、38年間も病気で苦しむ一人の人を見られ、彼の実情を知られ、「良くなりたいか」との真剣な問いかけをもって対話をされ、彼の新たな出発のときとされたのです。

1.人生は悲哀なり
この人は、病気で苦しみ続けているゆえに、失望と空しさと不安といらだちの日々を過ごしていました。自分の力でどうにもならない人生の悲哀を体験していました。さらに、彼は、イエスの「良くなりたいか」との問いかけに、人々が助けてくれないと人のせいにして自己憐憫に陥り、一緒に苦しんでくれる人がいないと諦めて無力感を味わっている始末です(7節)。
こうしたことは、極めて今日的です。人は、様々な形でこのような経験をするものですが、人であれば誰しもが共通して味わう悲哀があります。それは、罪と死の恐れの奴隷となっている惨めさです。人は、こうした惨めさから解き放たれないかとあえぎつつ、あげくはそれを他者に責任転嫁し、人は誰でも同じだと諦めてしまっているといった状況です。

2.されど歓喜とならん
人生の悲哀が、すべての結果ではありません。イエスにあっては結果ではなく始まりであり、そこからイエスが御業を始めてくださるのです。そして新たな歩みを造り出してくださるのです(8~9節)。
聖書は、人が自力で解決できない罪と死の現実を容赦なく真正面から取り上げています。そして、イエスの前に謙虚に自分の罪を告白するように迫るのは、イエスが十字架でその罪の身代わりの死を遂げ、その死の壁を打ち破って復活されたことにより、罪と死に対する勝利をされたからです。
イエスは、今も「あなた」の前に立たれ、ほんとうに良くなりたいのか、との招きに決断することを求めておられます。ここに、悲哀から歓喜へと転換点があるのです。

想定外の愛(2012.10.7)

宣教題  : 「想定外の愛」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 3章1~16節

世界がこうなればいいのに、と思うことがあるでしょう。「物事が正しく行われればいいのに」、「ものだけがすべてではないのに」、「他の人と親しくなれればいいのに」、「人は、世界はもっと美しいはずなのに」。いつの時代も、どこに住む人も、そう願っています。けれども、現実はそうではありません。

1.想定外の条件
ユダヤ人の指導者であったニコデモという教師もそう願っていました。「神の国を見れば、永遠のいのちを得ることができれば、そんな違った世界を見る事ができる」と求めていました。そこで、当時はやりの教師であるイエスの所に尋ねに行きました。ところが、イエスは「新たに生まれなければ」(3)とか「水と霊によって生まれなければ」(5)というニコデモにとっては想定外の条件を突きつけてきます。今まで考えたこともなければ、理解もできない条件でした。
「すばらしい世界が来るように」と願う私たちに聖書が突きつける条件は、私たちにとっては想定外のものばかりです。いや、条件の意味さえも理解できません。自分が今置かれている枠組みがそれをとどめているのです。

2.想定外の愛
しかし、天地を造られた神が私たちのためにこの想定外の条件を満たして下さいました。神がその独り子イエスを与えてくださることによって、それも十字架につけることによってです。私たちのために大切な独り子を与える神の愛は想定外です。神を知ろうともしないし、見ようともせず、むしろ嫌っている世界のために、神は最後まで約束を守ると語られているからです。むごたらしい十字架があなたを、そして世界を癒して、すばらしいものを回復すると約束されているからです。
こんな想定外の愛を受け入れることができるでしょうか。自分の枠にこだわり続ける限り、受け入れることはできません。そのようなは神のすばらしい世界を経験することなく人生の終わりを迎えるでしょう。しかし、イエスを信じる時、この神の賜物を喜んで受け取る時、新しい世界があなたから始まるのです。

渇くことのない水とは(2012.10.4)

宣教題  : 「渇くことのない水とは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 4章7~19節
肉体の渇きや心の渇きのいやしは、繰り返しなされます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とは、繰り返すことがないものです。これは、イエス・キリストとの関わりを通して受け取らせていただくのです。

1.キリストに出会う
キリストは、サマリアの女が水を汲みに来た際に声をかけられ、一杯の水を所望されました。「水を飲ませてください」と、水を受け取ることから始まる出会いを求められています。そこでキリストは、水を飲む器を共有することを何の妨げとも思われないで、彼女との人格と人格の交わりを求められたのです。このことをきっかけとして、キリストは、渇くことのない「永遠の命」を与えることに全力を注がれました。
キリストは、私たちにもご自身の方から出会いを求められるお方です。

2.キリストの救いに招かれている
サマリアの女は、肉体は生きていても、その魂は罪と過ちのために死んでいる状態でした。彼女が、そのままの状態を続けるとしたら、永遠の死を味わうことになります。
しかし、キリストの目には、彼女はかけがえのない存在であり、「わたしが与える水」は永遠の滅びから永遠の栄光に招き入れる救いであることを明らかにされました。
それは、キリストが十字架の身代わりの死をもって罪を全く赦し、復活されて死に勝利された救いで、人が再び神の愛のふところに帰れる道をつけてくださったのです。
これこそ、神が私たちのために打つべき手を打ち尽くしてくださった愛の御業です。

3.キリストを信じ受け入れる
キリストを信じ受け入れるとは、ちょうど人が自分で水を飲むことが必要であるように、一人ひとりが極めて個人的にすることなのです。このように、愛の神のところに身を委ねる素直さが、私たちに真の幸いをもたらすのです。
キリストを信じ受け入れて歩み出す人生は、日々に望みに満ちた新しさがあり、困難にもめげず前進する力があり、死への勝利の保証を与えられた強さがあります。キリストは、私たちに永遠の命の泉となってくださり、わき出る豊さに導いてくださいます。

新しい命の道(2012.9.30)

宣教題  : 「新しい命の道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録19章23~40節

「この道」とは、「新しい道」とも言われており、アルテミス神殿を中心とした偶像礼拝という古い生き方に対して、主イエスによる生き方が「新しい命の道」であることを証言しています。

1.救いの道です。
「この道のことで」とあるので、人にはこの道に踏み出した時、この道に生きることを始めた時があります。この道こそは、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と自らを現されたイエス・キリストご自身です。このお方は、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(同6節)と招かれ、そのために「場所を用意しに行く」(同2節)と言われました。しかも、「戻って来て」くださって永遠の住いに導いてくださり、その歩みを支えてくださるとは、驚くべきことです(同3節)。この将来が確立しているならば、いかなる困難も乗り越えられるのです。
感謝したいことは、私たちがこの道に歩み出すことができるように、主イエスご自身が道を踏み外した私たちの身代わりとなって十字架に踏みつけられ、「新しい生きた道」を開いてくださったことです(ヘブライ10章20節)。

2.勝利の道です。
パウロが、「この道」と言われる福音をエフェソで約三年間伝道した結果、小アジア全体とその周辺に拡がっていきました。そのことが、同じ地域に行き渡っていたアルテミス神殿を中心とした偶像礼拝との対決を起こし、その利害関係者の反発と群衆による大騒動を起こさせたのです(使徒言行録19章24~34節)。パウロは、彼に及ぶ危険を察知した弟子たちや町の高官によって難を逃れるとともに、冷静に対応した町の書記官によって守られたのでした(同35~40節)。
以上のような出来事の中に、歴史を支配しておられる神と復活の主イエスと聖霊が共にいてくださって、騒動は治まったのでした。新しい命の道は静かに勝利したのです。
こうした中にあって、「コリントの信徒への手紙一」が執筆されことは(15章32節、16章8~10節参照)、主の臨在によるゆとりの勝利と言えましょう。勝利の主に栄えあれ!

人間になる(2012.9.23)

宣教題  : 「人間になる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカ 3章23~38節、ヘブライ 2章17節

ルカが記した主イエスの系図は、イエスから始まって人類の最初の人アダムにまでさかのぼっています。系図は、人と人とのつながり、関係を確認するものとして用いられましたが、この系図では、主イエスが真の人間になられたことを証言し、さらに私たちが主イエスにあって本来の人間とされることを明らかにしています。

1.人となられた主イエス
神が人となられたのが、主イエスです。このお方は、その誕生からして私たち人間と同じお姿で、その後同じように育ちなさいました。ユダヤの社会においては、三十歳というのは、神の召しをいただいて、その務めを始めるのに適当な年齢と考えられていました。主イエスは、この年齢になって「宣教を始められた」のでした(23節)。
そして、「イエスはヨセフの子と思われていた」とあることからして、幼い時から父親ヨセフの訓育を受けられ、大工の子としての仕事を教えられなさいました。また父親と一緒に家族を守り養うという任務を誠実に果たされ、人々の生活を知り、その絆を体験しつつ、父なる神の使命を果たしていく準備をされたのでした。
このようにして、憐れみ深い主イエスは、すべての点で私たちと同じようになってくださいました(ヘブライ2章17節)。

2.新創造される一人ひとり
この系図は、アダムまでさかのぼることにより、主イエスがユダヤ民族だけではなく、全人類との絆で結ばれていることを明らかにしています。そして、ここに登場する人物は、何を語り、何を成したかは記されておらず、また有名無名の別なく人の名が織りなされています。これは、私たちが、神から忘れられることなく、主イエスに結びつくものとして招かれていることを表わしています。
私たちは、一人の例外もなく、罪の深い淵に落ち込んでしまっていました。しかし、真の人間になられた主イエスが、その罪を十字架によって贖ってくださったことにより、私たちは新創造された「人間になる」ことができるのです(ヘブライ2章17節)。
私たちは、この主イエスに結びつけられることによって「神に至る」のです(37節)。

捕囚の地で生きる民(2012.9.16)

題   : 「捕囚の地で生きる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖書  : エレミヤ書29章1~7節、テモテへの手紙一2章1~4節
キリスト者は、神が愛し、イエスが王であり、聖霊が働いているこの世に遣わされつつも(ヨハネ17:18)、そこに属するものではありません(17:16)。この世の真ん中で、この世と異なった歩みをします。

1.置かれている地の人々のために祈る
まず、キリスト者は、置かれている地のすべての人のために祈るよう招かれています(1テモテ2:1)。この地を統治している人々のためにも祈るべきです。彼らが正しく治めることによって、信仰に立った生き方を継続できるからです(2:2)。しかし、「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」(2:4)主の摂理が実現へと進むために祈っているのだ、ということも忘れてはいけません。キリスト者の祈りは、いつも宣教的です。

2.置かれている地で長期的に生きる
けれども、難しい人々に囲まれた地に置かれることもあります。エレミヤの時代、バビロンへと捕らえられた人々は、自らの国を滅ぼした敵の間で住むよう求められました(エレミヤ29:1-3)。去りたい、しかし、逃げることはできない、そんな彼らに対してエレミヤは、万軍の主がそこに送られたことを告げます(29:4)。だからこそ、一時的な腰掛けではなく、長期的に住み、根ざし、増えろ、と勧めています(29:5-6)。そこが主の祝福の地だからです。

3.置かれている地の平安のために働く
しかし、求めていくのは自分たちのしあわせだけではありません。自分が置かれている町の平安を求めていくこと、敵であった人々の上に神の祝福があるように祈り、働くことも捕囚の地に住む民の使命です(29:7)。バビロンの民さえも愛しておられる主は、ご自身の民を通して主の平安がこの世界に広がることを願っておられるのですから。
神が今の場所(それが捕囚の地でも)に私たちを置かれています。その地の影響を受けてしまうのではなく、むしろ神の平安という影響を与えていきましょう。そのことを通して主の宣教のわざは進みます。

使命への出発(2012.8.26)

宣教題  : 「使命への出発」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 3章15~22節

主イエスは、12歳の時と(2章42節)30歳の時に(3章21~22節)転機を迎えられました。主イエスが洗礼を受けられたのは、罪の赦しのしるしとしてではなく、救い主としての公生涯に入られる準備の期間を終えられて、使命の道につかれる就任式のような意味がありました。

1.聖霊による出発
洗礼者ヨハネは、誰に対しても罪の悔い改めを迫るメッセ-ジを語りました(19~20節)。民衆は、彼こそが待望するメシアであると考えたほどです(15節)。しかし、彼は、真のメシアである主イエスに仕えて、この方こそ自分よりも力ある優れた方であると紹介しました。主イエスは、神の救いの御業に与からせてくださる聖霊を注いでくださるのです(16~18節)。
さて、主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、神と人との深い絆がつくられるように「祈っておられ」ました(21節)。その祈りが神に聞かれると、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のでした(22節a)。ここでの聖霊の働きは、イエスの救い主としての使命の出発に際してなされたことでした。聖霊が明らかにしておられる主イエスとその救いこそが、私たちの財産です。

2.御言葉による出発
この時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神の御声が聞こえたのです(22節b)。それは、神が選ばれ、喜びとされ、支持され、御目に適った僕であるとの御言葉の成就でもあったのです(イザヤ42章1節)。そこには、声をあららげることなく、ひたすら祈り、黙々と歩まれる僕としての御姿が証しされています(同42章2~4節)。主イエスは、父なる神から託された使命に歩み出された時から、十字架の死に至るまで一貫して、この僕として歩みを全うされました。
私たちは、神から遣わされ、託された使命に生きる者として召されています。そのためには、どこまでも主イエスとその御言葉に学び、倣い、従うという信仰の歩みが求められているのです。

御言葉の力(2012.8.19)

宣教題  : 「御言葉の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 19章11~20節

主の御言葉の力は、いかに強いものであり、拡大されていくかが明らかにされています(20節)。それは、「このようにして」とあるように、神がパウロを通してなされた目覚ましい驚くべき奇跡を通して、人々の神に対する具体的な信仰が呼び起こされたことによりました。

1.神を畏れかしこむ  17節
ここに見る奇跡は(11~12節)、主イエスが地上におられた時にも同様に見られたものです(マルコ5章25~34節)。エフェソは迷信が盛んで、アルテミス神殿においては祭儀がなされ、小アジア全体からの多くの巡礼者がはびこっていました。こうした所では、キリストの福音を目に見える形で見せる伝道の仕方がなされたのです。
そして、イエスを信じていないユダヤ人の祈祷師たちが、試しに同じような奇跡を行なおうとしましたが大失敗し、逃げ出してしまうという有様でした(13~16節)。
そのことを知った人々は、神を畏れかしこむようになりました(17節)。それは、人間の全存在が根底から揺さぶられ、神を崇める者に造り変えてしまう畏れです。そして、神に対して感謝と喜びと希望を抱いて礼拝をささげる自由な者に造り変えてしまう畏れです。

2.キリスト信仰を告白する  18~19節
ここには、信仰に入った人々が、罪を具体的に告白し、キリストの救いに与かる真の悔い改めの実を結んでいる姿があります。それは、主イエスの十字架と復活に対する、彼らのキリスト信仰を告白したものでした。
私たちが、この点において不徹底になっていると、信仰に進歩が見られませんし、喜んで主に仕える力ある奉仕をささげることが難しくなります。
私たちが、キリスト信仰を告白することは、生涯にわたって神と関わることであり、生活の全領域に関わることです。これこそが、キリスト者であることのライフスタイルなのです。「このようにして」、私たちは、御言葉の力を日常生活で体験させていただくのです。

神に遣わされる民(2012.8.12)

宣教題  : 「神に遣わされる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 6章1~13節  マルコ 3章14~15節

キリスト教会を「使徒的教会」と呼ぶことがあります。イエスが十二人の使徒を遣わされたように、教会もキリストによって遣わされているからです(マルコ3:14−15)。

1.謙遜な民
イザヤはその幻の中で、エルサレムの神殿をその足台としている主を見ました(イザヤ6:1)。この方は、「主の栄光は、すべての地を覆う」(6:3)とあるように、全世界をその活動の舞台としています。この聖なる方を見た時、自分がこれまで叱責してきた汚れた民と何ら変わらないことに気がつきます(6:5)。それは、彼が王である主を見たからです。神を見ることなしに遣わされることはありません。しかし、神を見るとは自分の本当の姿を見ます。だから、謙遜にそれを認めることこそ大切です。

2.罪赦された民
イザヤの罪を主は赦されます(6:6)。しかし、主が直接に赦しを宣告するのではなく、主が遣わしたセラフィムによってそのことが宣告されます。私たちが遣わされるために、他の人をまず私たちのために主が遣わして下さいます。そして、主が遣わされた者を通してなされる主のわざを経験させてくださるのです。神の恵みを受けずして、神の恵みの宣教者として遣わされることはできません。

3.神を中心とする民
イザヤは神の声を聞きます(6:8)。「わたしがここにおります」は「どうぞ用いてください」、招きに対するイザヤの自発的応答を表しています。主は強いてことをなさいません。しかし、遣わされる者にご自身のメッセージを語るように命じます(6:9-10)。遣わす方がなせと命じることに服従するのが遣わされた者の働きです。遣わされる者は、もはや自分が世界の中心ではありません。遣わす主こそがその人の中心なのです。
イザヤも使徒たちも、圧倒的な神のわざを体験し、神のわざのために遣わされていきました。私たちはもうすでに遣わされるべきところに遣わされています。しかし、「私をどうぞ用いてください」と主の前に出ているでしょうか。自発的に主の前に出てはじめて、主のわざに参加する神に遣わされた民としてその使命に生きることができます。

信仰の気づき(2012.8.5)

宣教題  : 「信仰の気づき」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  3章1節~14節

洗礼者ヨハネは、救い主イエスがおいでになる道備えをするために、人々が福音を受け入れるための「悔い改め」を迫った預言者でした。彼の役目は、そのことを人々に気づかせ、与えることにあったのです。「罪の赦しを得させるために悔い改め」るのが(3節)、なぜ私たちに必要なのでしょうか。

1.全ての人に神のさばきがあるため
イスラエルの民は、自分たちはアブラハムの子孫で神の選びの民であるという自負に安住していました。しかし、ヨハネはそれを再度評価し直さなければならないと指摘したのです(ルカ3章7~8節)。それは、旧約聖書の中で「かたくなな民」と語られている姿であり(出エジプト33章3節)、彼らが同じ状態にあることを気づかせようとしたのでした。ヨハネは、そのようなイスラエルの民に神のさばきが近づきつつあることを知って、悔い改めを迫ったのでした(ルカ3章9節)。
私たちは、同じように悔い改めることの迫りをいただいています。この時、私たちは自らの罪を認めてその自覚を持ち、罪とその結果を悲しみ、罪を捨てて、神に立ち帰ることが必要なのです(2コリント7章10節)。

2.全ての人の生きざまが変革されるため
ヨハネは、荒れ野で神の御言葉を聴き、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(ルカ3章2~3節)。それは、荒れ野に主の道が整えられ、その道筋をまっすぐにし平らにする働きでした(同4~5節)。荒れ野と呼ぶ世界に含まれるのは、当時の皇帝・総督・領主たち・大祭司(同1~2節)、また群衆・徴税人・兵士(同10~14節)であり、今日の私たち一人ひとりのことであることに気づくことが必要です。
私たちは、イエス・キリストを通して現わされた神の救いを、自分の救いとして受け入れ、仰ぎ見る心の柔らかさが求められています(同6節)。そのような中から「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(同8節)者とされていくのです。それは自己中心的な生き方でなく、人を愛する生き方であり(同10~11節)、正しさを貫く生き方です(12~14節)。この私にさえ及んでいる救いの恵みに気づく者とされましょう。

福音を宣べ伝える民(2012.7.29)

宣教題  : 「福音を宣べ伝える民」   宣教:   鎌野 直人協力牧師
聖    書  : イザヤ 52章7節~10節  マルコ 1章15節

すべてが順調に行っている時に福音は必要ないかもしれません。しかし、最悪としか思えない現実の直面している時、良い知らせは必要です。

1.神は王になった
歴史の中でも最悪の状況に陥っていたイスラエルが聞いたのは、「シオンよ、あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)という知らせでした。すべてを分裂と争いへと仕向ける存在が支配していた世界に、主が王として即位されました。勝利をとられた主を中心に据えて、世界が再編成されるのです。そして主はシオンへと帰還されます(52:8)。
主によって救いと平和が、イスラエルを奴隷から解放し、ひずみ、破れ、とげとげしくなったあらゆる関係の修復がもたらされました(52:7)。ご自身が特別に選んだ民に対して果たすべき責任であったわざを主が実行されたからです(52:9)。そして、イスラエルに主がなされたわざとそのインパクトをすべての民は目の当たりにします(52:10)。

2.福音を宣べ伝える
「神は王となった」という福音を宣べ伝える召命を私たちはいただいています。福音とは、徹頭徹尾、神のわざについての良い知らせです。イスラエルの神である主が世界の王となったのも、目で見ず、耳で聞くことができなかった民が福音を知ることができようになったのも、すべて神がなされたからです。さらに、私たちだけが福音の宣教者ではありません。様々な方法を用いて、神ご自身がこの福音を宣べ伝えておられます。主の恵みのわざのゆえに新たに造り変えられた者として、どのような状況の中にあっても喜びの賛美の声を世界中にあげることこそわたしたちがもっと励むべきことではないでしょうか(52:9)。
イエスご自身、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とこの福音を宣べ伝えました。イエスのわざを通して、神は王となり、シオンに帰り、世界は再編成されたのです。ですから、わたしたちがおかれている現実が最悪であったとしても、「神は王」です。そのことを確信しつつ、どのような中でも、喜びの讃美の声をあげましょう。神のすばらしいわざの知らせを世界は心待ちにしているのですから。

キリスト者を生かす(2012.7.22)

宣教題  : 「キリスト者を生かす」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  19章1節~10節

私たちにとって大切なことは、聖書に証言されているイエス・キリストを信じ、このお方と結びつき、信頼して従っていくことです。これは、信仰告白に対する私たちの在り方も同じです。そのために、聖霊は今も、信じる私(たち)の内に働き、また私(たち)を通して働いておられます。

1.私(たち)の内に働かれる
パウロは、アポロからヨハネの洗礼について教えを受けていたエフェソの弟子たちに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と問いかけました。彼らは、聖霊のことが分からず、イエス・キリストを救い主また主と信じていませんでした。そこでパウロは、彼らに最善の道を明確に示しました。その結果、「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」という御業が瞬間的に起こったのです(2~6節)。
聖霊は、見ることも触れることもできない、まるで風のように働かれます(ヨハネ3章5~8節)。聖霊は、私たちの心の目を開いて、私たちの真相を認識させてくださり、イエス・キリストの永遠の救いを明らかにしてくださり、信仰へと導かれます(エフェソ1章17~19節)。また、聖霊は、私たちの全存在・全生活をキリスト御自身とその愛で支配されます(エフェソ3章14~19節)。そして、聖霊は、神の言葉を大胆に語らせ、しかも他国の言葉で話すことを自由にさせてくだるのです(使徒言行録19章6節)。

2.私(たち)を通して働かれる
聖霊は、ペンテコステの時の12人の使徒たちに対すると同じように、エフェソにおいても聖霊に満たされた12人を用いて、小アジアへの宣教を進められました(7節)。
パウロが会堂で熱心に神の国について論じ説得したときに、心を頑なにして不信仰を表わし非難をする者たちが起こりました。しかし、それをも転じて福となして、他の場所での働きを進めることになりました。そうした二年の働きの結果、小アジア全域に福音が伝えられていったのです(8~10節)。
聖霊が、私(たち)の内に働かれ、それによって私(たち)を通して働かれるには、私(たち)が心砕かれ、イエス・キリストの恵みの御支配に委ねていくことが大切なのです。

成長をめざして(2012.7.8)

宣教題  : 「成長をめざして」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章39節~52節

ユダヤの社会においては、過越祭に際して信仰の継承を家庭で行い(出エジプト12章26節以下)、エルサレム神殿に集まって礼拝をささげました(ルカ2章41~42節)。キリスト教会においても、幼子や少年たちの身体的・精神的・霊的成長を願っての取り組みが求められています。

1.全人格的に成長する
12歳になられた少年イエスは、身体的に、精神的に、霊的に成長されていきました(40節、52節)。また、神の愛と恵みに包まれ、対人関係において関わりをもてる社会的な成長もしていかれました。そして、「イエスは・・・両親に仕えてお暮しになった」のでした(51節)。
同様に私たちは、身体的・精神的・霊的存在として全人格的に成長していくことが必要です。とりわけ、聖書を通して、見えない神を信じ、死後の世界があることを信じ、自らの罪を知ってイエス・キリストの救いを信じることが大切なのです。
そして、幼い時から家庭で学び舎で、愛をもって周りの人々に仕えていくのです。そこで、愛と謙遜を学びつつ成長していくのです。

2.主の家で成長する
エルサレムに留まられたイエスは、学者たちとの問答をされていました。人々は、イエスの賢明な受け応えに驚いています。一方両親は血眼になって捜し、イエスを見つけてその姿に驚き、憤りにも似た言葉を語りました(43~48節)。それに対してイエスは、自分は神の独り子であり、父なる神から救い主としての仕事を委ねられているのですから「自分の父の家にいるのは」当然のことであると語られました(49節)。
同様に私たちは、父なる神の家である教会において、神の御言葉を聴き、それに応答することによって、神の仕事にいそしむ生活をつくっていくのです。今も変わらずに、イエスが私たちの「真ん中に座り」、その中心におられ、私たちと御言葉の問答をしてくださっています(46節)。私たちは、そのことに驚きを覚えつつ、繰り返し目を開いていただくなら、一人ひとりが新たにされ続け、成長していくのです。

キリストを知る(2012.7.1)

宣教題  : 「キリストを知る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章24節~28節

プリスキラとアキラとがアポロに対して成したことは、「神の御心」を実行する実例となりました(21節)。それを通して、アポロがキリストを知るという信仰の経験へと導かれて行ったのです。

1.キリストの素晴らしさを知る  24~26節
エフェソにやって来たアポロは、「主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが」、それはバプテスマのヨハネが語っていたガリラヤのイエスのことであり、エルサレムで十字架に架かられ、三日目に復活され、昇天されたイエスのことではなかったのです。従って、彼は、聖霊降臨やそれによってもたらされた教会誕生のことも知らなかったのでした。
アポロのメッセ-ジを聴いたプリスキラとアキラは、その内容がエフェソの教会を根底から崩壊させてしまう危険を感じて、個人的に彼を招き、キリストの素晴らしさとその救いを語り説明したのでした。それを謙虚な態度で聴いて受け入れたアポロは、アカイア州に渡った時、「メシアはイエスであると公然と立証し」(28節)たのでした。
私たちがキリストの素晴らしさを知る時、それが愛の連鎖反応となっていくのです。

2.キリストの体なる教会を知る  27~28節
プリスキラとアキラ及びエフェソの教会は、アカイア州に渡ることを望んだアポロを励まし、アカイア州の教会が彼を歓迎してくれるように手紙を書き、神の御業が進められるようにと「神の御心」を見極めつつ行動しました。そして、アポロもまた、「神の御心」に従って、熱心かつ徹底して福音を立証したのでした。
以後、アポロはコリント教会で活躍し、高い評価を受けましたが、それが分裂をもたらす危険もはらんでいました(1コリント1章12節、3章4~6節)。そのアポロをコリントの教会が招きたいと願った時に、彼がそれに答えることは「神の御心」でないと拒否しました(1コリント16章12節)。そうした背景もあって、パウロがアポロに対して愛の配慮をしています(テトス3章13節)。
私たちは、キリストの体なる教会に生きることを体験的に知ることが大切なのです。

持ち運ばれる人生(2012.6.24)

宣教題  : 「持ち運ばれる人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章12節~23節

神の御言葉が宣教されていくとき、ある者はそれを受け入れ、ある者はそれを拒みました。神の御言葉は、さえぎるものがある中を前進していったのです。そのために用いられたパウロは、聖霊に持ち運ばれていく経験をしたのでした。

1.神の御計画に目が開かれることによって  12~17節
ユダヤ教の指導者たちは、パウロが福音を宣証できないようにするために、その行為はロ-マ法に反するとコリントの地方総督に訴え出ました(12~13節)。しかし、彼らの陰謀は失敗しました。その理由として、復活の主イエスの御言葉の約束があったからであり(9~10節)、さらに、ロ-マ法を通して、神の見えない御支配が実現されていったからでした(14~16節)。これ以後約12年間は、福音がロ-マ帝国内に浸透していくという、神の見えない支配と導きを見ることになったのです。
その結果パウロは、復活の主イエスの約束は真実であることに感謝し、福音を語り続ける情熱と勇気が与えられ、見えない神の摂理と支配に感動したことでしょう。
私たちは、聖霊によって心の目を開いていただき、神の偉大な御計画を知るようにされたいものです(エフェソ1章17~19節)。

2.神の御心に従うことによって  18~23節
パウロの一年六か月にわたるコリント伝道は、並々ならない決意をもってなされたことでした。彼は、そこをシラスとテモテに託し、続いてエフェソに赴いて福音を宣証しますが、そこもプリスキラとアキラに託して、カイサリア、エルサレム、そしてアンティオキア教会を訪ねたのです(18~22節)。パウロは、それらの教会に第二回伝道旅行の報告をし、感謝を述べ、託された献金を届けたのでした(11章29節他)。続いて彼は、第三回伝道旅行に出かけ、先に生み出された諸教会を力づけたのでした(23節)。こうしてパウロは、「神の御心」に従うことによって、聖霊に持ち運ばれていくように先へ先へと前進して行ったのです。
私たちは、主イエスに対する信仰と従順と献身へと踏み込むことによって、神の御心を知り、主に持ち運ばれる歩みの素晴らしさを知らされるのです。