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新約聖書

与える恵み(2013.3.3)

宣教題  : 「与える恵み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録20章32~38節
私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死を通して神の愛を体験し、その愛に応えて信仰の従順と献身に生きる者とされました(1ヨハネ3章16節)。この愛に生きる者たちが、主イエスの愛を土台として、神の教会を造り上げていくのです(エフェソ4章16節)。そこでは、本日の聖書箇所が明らかにしているように、与える恵みが支配しています。

1.恵みが継承されるために  32節
神の恵みの御言葉は、私たち一人ひとりまた教会の信仰と歩みの立脚点です。パウロは、任命されたエフェソの指導者たちと教会が造り上げられていくために、彼らを「神とその恵みの言葉」にゆだね、与え切ろうとしています。この世で最も信頼できるのは、主イエスも言われたように不変の神の御言葉なのです(マタイ24章35節)。
神の恵みの御言葉が、人を救いに導き、信仰の歩みを全うさせ、教会を造り上げていきます。そのような宣教の御業が、一代限りではなく何世代にもわたって伝えられ、そして受け継がれていくために、続く人々を神の恵みの御言葉にゆだね切り、与え切っていくさわやかさが必要なのです。

2.恵みが分かち合われるために  35節
パウロは、他人のものをむさぼることなく、自分自身の生活のためだけではなくて「共にいた人々のためにも」テント造りの仕事をしながら福音を伝えました(33~34節、18章3~4節)。パウロは、立場の弱い人々や働きたくても働けない病の中にある人々たちと共に福音の恵みを分かち合い、教会が愛の共同体として造り上げられていくために、主イエスに倣って「与える」生き方を選んだのです(35節)。
そうした彼の生き方の原点は、復活の主イエスと出会って恵みに触れ、それまでのように自分の思いに仕えるのではなく、神の御思いに仕える生き方に変えられたところにありました。パウロと共におられた十字架と復活の主イエスは、今も私たちと共におられて、恵みを分かち合う生き方をさせてくださるのです。

牧者の心(2013.2.24)

宣教題  : 「牧者の心」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章25~31節
良い羊飼いである主イエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださり(ヨハネ10章11節)、私たちを主のものとして養い導いてくださっています(詩編100編3節b)。そして、その群れを牧させるために、聖霊は人を牧者に任じて用いなさるのです(使徒言行録20章28節b)。牧者が求められることは、愛に根ざして真理を語る心を持つことです(エフェソ4章15節)。

1.愛に根ざして
エフェソの長老たちは、神によって立てられ、神に仕える牧者として召されました。長老たちだけでなく、他のエフェソ教会員もパウロも含めて神の教会に属する者はみな、神の御子の十字架の血によって贖い買い取られた一人ひとりでした。それによって彼らは、主なる神との豊かな交わりの関係に生きる者とされたのです。ここに、神の深い愛による救いと導きがあります。
従って、神の教会を牧するために召された者は、主を愛し、教会を愛し、聖徒を愛し、互いに愛し合うことに向き合い続けるのです。愛が通じないと思われる時であっても(2コリント12章15節b)、主の愛に根ざして、愛し抜くのです。牧するとは、愛し抜くことへの挑戦でもあるのです。

2.真理を 
御言葉の真理は、一人ひとりの魂を思いやる愛に根ざして語ることによって伝えられます。パウロは、その心をもって御言葉の宣教に専念しました(27節、31節)。彼は、牧者がその御言葉の宣教を継承していくために、福音信仰から外れた教えに捉われることのないよう自分自身に心を留め、聖書に集中し、語り教えていることに自らが生きているか見張るように命じ、教会の内外からの福音信仰を歪めようとする危機に際して、群れ全体に注意深く目を留め、また目を覚ましているように命じています(28節a、31節)。
牧するとは、信仰によって神のもとに立ち返った一人ひとりが御言葉に導かれ、その豊かな命に生かされ、互いに愛によって結び合わされる豊さを体現できるように働きかけることです。私たちは、互いに向き合い、互いに牧されることを願う群れとさせていただきたいものです。

神の恵みを無にしない(2013.2.10)

宣教題  : 「神の恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ4章22~30節 ガラテヤ2章21節a
ナザレの会堂にいた人々は、主イエスが語られる恵みの御言葉が気に入らないと言わんばかりに、神の恵みを無にしてしまっています。彼らは、憤慨し、主イエスを外に追い出し、ついには崖から突き落とそうとしたのです(28~29節)。なぜ、人々が、主イエスを拒否し、その救いの恵みを受け入れることができなかったのでしょうか。

1.偏見のゆえに 
人々は、主イエスをただの人としてしか捉えていません(22節b)。また、主イエスがカファルナイムでなされた奇跡をナザレでも見たいと願っています(23節)。「医者よ、自分自身を治せ」とは、主イエスが十字架に架られた時の嘲りや罵りと同じです(ルカ23章35~39節)。
こうした偏った理解また間違った思い込みは、主イエスの救いを正しく理解しようとしない偏見です。神の恵みを受け損なうことがないように!

2.ねたみと憎しみのゆえに
主イエスは、旧約の預言者エリヤとエリシャの例をあげて(25~27節)、神の救いの恵みが異邦人にまで及んだことを証ししておられます。ところが、人々は、異邦人に救いが及ぶことを受け入れることができなかったために、憤慨し、ねたみと憎しみをもって、主イエスを死に追いやろうとしました(28~29節)。
主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを受け損なうことがないように!

3.不信仰のゆえに
「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24節)と語られた主イエスは、そうした人々の不信仰に驚かれました(マルコ6章4~6節)。不信仰は、主イエスに出会うのを妨げ、神の恵みを受け入れさせず、その恵みを無にしてしまいます。
信仰は、救いを成し遂げられた主イエスを心から信頼することです。私たちは、このような信頼の心をもって、主イエスに近づくのです。

宣教に生きる(2013.2.3)

宣教題  : 「宣教に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章17~24節
初代教会から今日に至るまで、宣教は試練の中で前進してきました。そうした試練の中にあってパウロは、エフェソ教会の指導者たちをミレトスに呼び寄せ、決別説教をしています。そこで語られたエフェソ教会のモデルは、あらゆる教会のモデルです。今回は、パウロ自身の生きた証言をとおして、宣教に生きるとはどういうことかを明らかにします。

1.主にお仕えして 
パウロのエフェソにおける三年間の宣教は、エフェソの人々と共に、彼らの前での裏表のない模範的なものでした(18節)。その宣教は、教会内外から批判されたり、また賞賛されたりしましたが、彼はいかなる時も、喜びと感謝をもって主にお仕えしています。パウロは、自らが取るに足りない者であるとの自覚をもって、滅びゆく魂に対して、労を惜しまず、愛を尽くして、喜んで犠牲を払って主にお仕えしたのです(19節)。
これは、私たちの宣教に対する基本姿勢です。

2.主体的な信仰を抱いて
パウロは、公の場や施設で福音を語り、個人的な交わりの場にあっても福音を伝え教えました(20節)。そして、伝えた福音の内容は、主体的に神に対する悔い改めをなし、主イエスへの信仰を言い表わすことでした(21節)。このことが不明確であると、福音を伝えることに確信がもてないのです。
私たちは、主イエスの愛の迫りをいただいて救いの福音を伝えるのです。

3.聖霊に促がされて
パウロの前途には、苦難や迫害が待ち構えていました。そうした中にあっても彼は、宣教の前進のために、不退転の決意と、固い献身の意志をもっていました。そのような力は、聖霊に促がされるところから生じるものでした(22~23節)。
喜びをもって、走るべき宣教の業のコ-スを走り終えるという使命は、主なる神が私たちに与えてくださいます(24節)。それを成し遂げることができるのは、聖霊の促がしによるのです。

恵みの御言葉に生きる(2013.1.27)

宣教題  : 「恵みの御言葉に生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカによる福音書 4章14~22節
主イエスは、伝道を始められた時に、「いつものとおり」に会堂で礼拝をされ、自ら説教をされました。それを聴いていた人々は、「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」います。主イエスが語られる恵みの御言葉は、それを受け止めた人の生涯に驚くべき御業を起こします。

1.恵みの御言葉が開かれる
当時の会堂の礼拝においては、まず聖書が開かれ、それが朗読されていました。ここでは、主イエスが会堂司から渡された「イザヤ書」を開いて、それを朗読されたのでした。誰が、どんな言葉を語るよりも先に、聖書が開かれたのです。
私たちも重んじなければならないことは、聖書が開かれ、読まれ、そして説き明かされることです。そこで大切なことは、私たちが聖書を読む時に、御言葉の方から自らを開いてくださり、私たちがその御言葉と対話したり、また葛藤したりすることです。そして、私たちが御言葉の前に頭を垂れて従っていくことにより、御言葉が理解でき、また知恵と悟りを与えてくださるのです(詩編119編130節)。

2.恵みの御言葉に信頼し切る
朗読された御言葉は(18~19節、イザヤ61章1~2節)、主イエスご自身のことを証言しています。主イエスは、貧しい者に福音を告げ知らせ、罪と死、サタンの虜になっている者を解放されるお方です。そのようにして「ヨベルの年」の恵みが、主イエスの十字架と復活による贖いによって実現されたのです(19節、21節)。
ところで、聖書が大切なこととして伝えていることは、イザヤ書の預言が、「今日、実現した」という一事です。今日とは、主イエスが口を開いて、恵みの御言葉を語られた今日であり、主イエスが救いのためにご自身を差し出された今日です(ルカ2章11節、19章9節、23章43節)。
永遠に変わることのないイエス・キリストは、永遠の救い主です(ヘブライ13章8節)。私たちは、徹頭徹尾に主とその恵みの御言葉に信頼を寄せて生きることが求められているのです。

交わりに生きる(2013.1.20)

宣教題  : 「交わりに生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章13~16節 1ヨハネ 1章3節
神の御子の血によって贖われた者は、神のものとされ、教会の交わりに加えられます。その交わりは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であり、「わたしたちの交わり」と言われる聖徒の交わりです(1ヨハネ1章3節)。パウロのミレトスまでの旅程には、教会の交わりを証しするメッセージが語られています。

1.主との交わり
ここでのパウロは、不思議な行動をとっています。彼は、ルカたちを船でアソスに行かせ、自らは一人でアソスまでの山道を歩いて行ったのです。彼はそのことを決め、ルカたちに指示するほどに並々ならない決意をしています。そうすることによって彼は、ミレトスでエフェソの指導者たちに決別説教を語るに際して、主イエスと交わり、祈り、考え、黙想しつつ、伝道や教会や聖書についてまとめ上げていったと思われます。
聖書に登場する多くの人物が、神の前の孤独を経験し、それを通して自分を見つめ、神に近づき、神の御心を知らされ、神に仕えることに豊かにされています。こうした主イエスとの交わりは、良いことであり、また幸いなことです。パウロは、その良い方を選んだのです。私たち一人ひとりも、この良いことに身を置くことが必要です。

2.聖徒の交わり
アソスでルカたちと合流したパウロは、ミレトスまで船旅をしました。彼が、エフェソの指導者たちをミレトスに呼び寄せて、決別説教をしたのには理由がありました。それは、五旬祭にはエルサレムに到着していたいとの願いがあったからです。彼は、ユダヤ人たちが重んじる習慣を受けとめつつ、彼らをキリストの福音に導き、ユダヤ人と異邦人の間にある敵意という障害を取り除いて、両者がキリストにあって一つになることに重荷をもっていたからです。
私たちの交わりは、信仰によって与えられた共通の救い・御言葉・礼拝・目標・使命・苦難・栄光を共有する交わりです。私たちは、主との交わりを深め、相違を意識しやすい愛の乏しさを悔い改めつつ、共通のものにしっかりと目を向けていくことによって、教会の交わりを確立していくことが大切なのです。

苦しみからの出発(2012.12.30)

宣教題  : 「苦しみからの出発」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章13~23節
過ぎ行く一年が、悲しみや試練が多かった人、充実した一年で将来の見通しのついた人と様々でしょうが、主イエスの御前ではすべてを感謝をもって迎えることができるのではないでしょうか。本日の聖書箇所に見るように、クリスマスの出来事が喜びや明るさのある中で、悲しみや苦しみといった暗さが前面にでています。ヨセフ一行は、苦しみからの出発をしています。

1.自分を王とする歩み
幼子イエスに対して、エルサレムの人々及び祭司長や律法学者たちは無関心を、何よりも幼児虐殺の首謀者ヘロデ王は猜疑心を抱いていました。これは、私たちが生まれながらに持っている主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた拒絶する態度に通じるものです。さらに、私たちが、主イエス御自身とその御業と御言葉を受け入れないで、自分を王としたがる罪の姿です。お互いが、今そのことを吟味しつつ、悔い改める必要があります。
この罪の暗さこそが、神の御子イエスをその誕生の時から苦しみへ、そして十字架の苦難へと追いやったのです。ただし、神は確かな御意志と御計画をもって、主イエスを十字架の死に至るまで守られました。

2.キリストを王とする歩み
ヨセフに見る神の御言葉に対する忠実さは、マリアを妻に迎え入れ、幼子をイエスと名付けることにおいて明らかでした(1章24~25節)。そして、彼が幼子イエスを連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと(2章13~15節)、幼子イエスを連れてイスラエルの地に帰ったこと(同20~21節)、ガリラヤのナザレへ行くように告げられたことに従ったこと(同22~23節)に見るように、愚直なまでに従ったのです。
そこには、幼子イエスを王の王、主の主であると信じた者の姿があります。このようにして、神の救いの御業は進められていったのです。
このような従順を生み出すのは、「日々、わたしたちを担い、救われる神」の確かさにあります(詩編68編20~21節)。私たちは、この神に感謝し、神を讃えましょう。

クリスマスの驚異(2012.12.23)

宣教題  : 「クリスマスの驚異」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章10~12節
クリスマス、それはキリストにひれ伏して拝む礼拝を意味しており、喜びにあふれる時です。この目をみはるような喜びは、人が作り出すものではなくて、神からいただくものです。それは、どのような中から生まれてくるのでしょうか。

1.素朴さの中に
最初のクリスマスは、誠に素朴な形で起こりました。神の御子イエスは、飼い葉桶で誕生されましたが(ルカ2章7節)、素朴でという以上に粗末な姿においてでした。
神の御子は、東の方から来た占星術の学者たちに対するように、幼子のままで出会ってくださったのです。
この神の素朴さは、キリストの生涯を貫き、十字架にまで至っています。私たちは、神の救いの現れである十字架において、神との出会いをさせていただくのです。

2.単純さの中に
主の天使の知らせを聞いた羊飼いたちは、そのことを単純に信じて神の御子イエスに出会いました(ルカ2章8~16節)。学者たちは、星に導かれるという単純なあり方で、喜びにあふれて幼子イエスに出会い、このお方を真の救い主と信じて、贈り物を献げて礼拝しました。
人間が単純に神を信じ、互いに信頼し合うこと、これが人間が人間とし生きる基本です。クリスマスは、神がこの単純さの中に御子イエスを託してくださった時なのです。

3.純真さの中に
イザヤは、御子イエスの誕生の約七百年前に、救い主の誕生を預言しました(イザヤ書9章5節)。それを成し遂げられたのは、「万軍の主の熱意」であり(同6節)、私たちを罪と死と滅びから救い出そうとされた神の純真さ、愛からでした。
この神の愛に対して、学者たちもまた持てる限りの愛を献げかつ安らいでいます。そして、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、新しい生き方を始めました。それは、私たちの新しい生き方でもあり、神の純真さと人間の純真さが出会う経験をする時なのです。

導く星(2012.12.9)

宣教題  : 「導く星」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~9節

占星術の学者たちは、神が備えられた星の導きを受けて(民数記24章17節)、遠い道を旅し、ついに神の御子に出会うことができました。私たちの人生が、星という一時的に現れるものにではなく、いつも共におられる神に導かれることほど大切なことはありません。それによって、私たちの人生に新しい歩みが始まるのです。

1.神の導きは確かである
学者たちは、まだ真の神を知ることのない暗い世界に生きていました。それだけに、求めることにおいて熱心であり、真剣であり、切実であったと思われます。彼らは、特別な星の動きを自分たちの知恵や力によって判断してエルサレムまで導かれたのですが、そこには限界があって行き詰ってしまいました。彼らが御子イエスの誕生地ベツレヘムに導かれるのには、神の御言葉による導きが必要だったのです。
神の導きとその御言葉に対する信頼と服従に生きるときに、神は大いなる喜びをもって報いてくださいます。そこには、神が共におられるという確かさ、神の導きに誤りがないという確かさ、神の御言葉は偽ることがないという確かさがあるからです。私たち一人ひとり、教会、そして世界は、この神の導きを必要としているのです。

2.神の導きの中を歩み続ける
学者たちは異邦人でしたが、ひたすら神に向かう姿勢をもって、その導きに従う人たちでした。彼らには、神の御子イエスに出会う確信と喜びがありました。それに対して、エルサレムの人々は、ヘロデ王に対する恐れのゆえに、将来に不安を覚えました。祭司長や律法学者たちは、聖書知識を駆使して神の御子の誕生地を見出したものの、無関心で冷淡な態度をとりました。ヘロデ王にいたっては、ユダヤ人の王の座を奪われるのではとの不安から、憎悪の念に駆られたのです。
私たちは、神に対する無関心、冷淡、憎悪といった態度でいるのではなく、神の御子イエス・キリストの救いに与かる歩みを始めることが大切です。この神の救いと導きの中を歩み続けることは、人生の様々な不安や罪と死の恐れが取り除かれ、喜びに変えられる歩みとなるのです。これこそ、学者たちと同じ歩みなのです。

最も小さいもの(2012.12.2)

宣教題  : 「最も小さいもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : マタイによる福音書 2章1節~6節

神の御子イエスの誕生の時期と場所が大まかに報告されています(1節)。その場所は、旧約聖書に預言されていたように「ベツレヘム」であり(6節、ミカ書5章1節)、その町は小ささを象徴するものでした。ここにおいて、神は救いの御業を始められたのでした。

1.最も小さいものを大切にされる神
神の御子は、大きな都エルサレムではなく、最も小さな町ベツレヘムに誕生されたことに注目したいと思います。このことを通して、神は小ささを大切にされるお方であることを示唆しています。これは、聖書を貫く大切なテ-マです。その例としては、イスラエル民族が選ばれたこと(申命記7章6~8節)、神の御子イエスの地上における父親と母親の役を神から担わされたヨセフとマリアが貧しく小さな存在であったこと(ルカ1章48節)などに見ることができます。
主イエスは、私たちの救い主であり、私たちと共にいてくださる牧者として、神から遣わされて来られました(1章21~23節)。神は、それほどまでに、小さな私たちを愛し大切にしてくださるお方なのです。主イエスの下に赴く一人ひとりとならせていただきましょう。

2.最も小さいものを用いてくださる神
愛の神は、この世における小ささ、貧しさ、卑しさを退けられるお方ではありません。かえって、大切にして用いてくださり、御自身の御業を進められるお方です。これもまた、聖書を貫くテ-マであり、ヨセフとマリア、羊飼いたち、そして東の方から来た学者たちが証ししています。
私たちは、信仰の歩みが深まるにつれて、自らが最も小さなものであることを自覚するようになります(1コリント15章9節、エフェソ3章8節、1テモテ1章15節)。神は、そのような最も小さいもの一人ひとりを用いて、御自身の恵みの御業をなされるのです。私たちは、自己卑下したり、高慢になったりしないで、神への信仰と希望と愛を働かせていただいて、神に用いていただこうではありませんか。

大いなる慰め(2012.11.25)

宣教題  : 「大いなる慰め」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖   書  : 使徒言行録20章7節~12節
今の日本に必要なのは、偉大な慰めです。死んだ者が生き返ることは、最も幸いなことであり、大きな慰めです。そこには、あり得ないことがあり得たという慰めがあります。私たちは、この大いなる慰めに生かされているのです。

1.共有することによる慰め  7~8節
パウロたちは、フィリピから海路トロアスに来て、同労者たちと落ち合い、七日間を過ごすこととなりました(6節)。彼らは、キリストの復活を記念する「週の初めの日」にそこの教会の聖徒たちに集まってもらい、礼拝をささげました。その礼拝は、聖餐を意味する「パンを裂く」ことと、御言葉が話されるメッセ-ジとから成っていました。
聖餐式は、私たちがキリストの贖いの恵みに感謝する時であり、キリストの体にあずかるという主との交わりまた聖徒の交わりを持つ時であり、キリストの臨在に生かされ、キリストの再臨待望に生きることを確認する時です(1コリント11章23~26節)。また、メッセ-ジが語られる時には、私たちが御言葉に触れることによって、「忍耐と慰めの源である神が」希望と同じ思いとを持ち続けさせてくださるのです(ロ-マ15章4~6節)。このように私たちは、慰めの礼拝共同体に生かされているのです。

2.復活信仰に生きる慰め  9~12節
パウロは、夜明けまで説教し続けました。その間、エウティコという名の青年が、説教中眠りこけて、建物の三階から下に落ちて死んだのです。パウロは、愛と祈りをもって青年の上にかがみ込み、抱きかかえたところ、キリストの復活の命が青年を死からよみがえらせました。「騒ぐな。まだ生きている」とのパウロの力強い信仰の言葉は、その場の暗い沈んだ雰囲気を明るい喜びの雰囲気に変えました。
私たちは、このような非常事態が起こった時にこそ、死者を復活させてくださる神を信じて、冷静に祈り深く行動することが求められます。私たちは、死の現実、絶望的な現実に追いやられた時に、十字架と復活の信仰に生きることによって、慰めを受けるのです(1テサロニケ4章15~18節)。教会の使命は、復活信仰に生きる慰めを分かち合うことにあります。

主を賛美する民(2012.11.18)

宣教題  : 「主を賛美する民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : 詩篇96篇、使徒言行録16章25節

賛美とは主に向かって歌うこと(1)です。そして、フィリピでそうであったように、賛美は宣教の働きの一翼を担います(使徒16:25)。

1.なぜ賛美を歌うのか
詩編の賛美の歌には、主を賛美することを求める命令とともに、なぜ賛美を主にささげるべきか、その理由が記されています。
第一の理由は、主が他の神々が比較の対象にならないほどに偉大な方であるからです(4−6)。なんの影響力もない他の神々に対して、主は天地とその中に満ちるすべてのものの創造者であり、イスラエルを強大な力から救い出された方です。主の力と輝きを仰ぎ見ると、他の神々はなきに等しいものです。
第二の理由は、主が王として地を正しく裁かれるからです(10,13)。主以外の何ものかが世界を治めていたとしたら、地震が起こるように世界は不安定となり、拠り頼むものなどなにひとつなくなるでしょう。しかし、正しさと真実と公平をもって主が王として世界を支配されているからこそ、世界は堅く立ち、動かされることはありません。主の偉大さとその支配の確かさを味わい知り、それゆえに主を賛美しているでしょうか。

2.賛美は世界への招き
詩編96編は、イスラエルの体験を証ししているのではありません。全地を(1)、諸国の民を(7)賛美へと招き、国々の間(3)で彼らを賛美に招くように命じています。そして、イスラエル、諸国の民、全被造物が「新しい歌を主に向かって歌え」と歌い出すことを願っています。神が天地を創造されたのは、すべての造られたものが喜びつつ、いつも主を賛美するためです(11-12)。礼拝堂が賛美に満ちあふれ、国に賛美が満ちあふれ、この世界に賛美が満ちあふれ、その賛美の満ちあふれた世界に主が住まわれる、そのような日を私たちは待ち望んでいます。
パウロとシラスの賛美は二人きりの賛美であったかもしれません。しかし、そんなわずかな賛美がやがて世界を変えていきました。ですから、今ここでささげられる私たちの賛美もこの世界における神のわざの一端を担っているのではないでしょうか。

御言葉がとどまる(2012.11.11)

宣教題  : 「御言葉がとどまる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカによる福音書 4章1~13節
私たちは、御言葉に対して、どのような態度を持っていることが大切でしょうか。主イエスが、荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたときに、三つの試みに対して御言葉を引用しながら、「と書いてある」と言われて勝利されました。御言葉がとどまっていたからです(ヨハネ15章7節)。

1.信仰の戦いの中で
主イエスに対する悪魔の誘惑は、実に巧妙でした。「神の子なら」(3節、9節)と繰り返しているのは、主イエスが神の子であることを知って試しているのです。三つの誘惑の言葉は(3節、5~7節、9~11節)、悪魔が主イエスを自分に従わせようとする試みであり、第三の誘惑の場合は、旧約聖書の御言葉を断片的に引用して誘っています。
私たちは、荒れ野の中を通るように、試行錯誤し、悩み、苦しむという信仰の戦いを経験します。そうした試みが長く続くと、神への信頼を失ったり、神の子とされていることが揺らぎがちとなったりします。こうした時、主イエスが受けてくださった試みの極限は、十字架においてであったことを思い起こすのです。ここにこそ、私たちの救いの門が開かれているからです(ルカ23章32~43節)。

2.神の御言葉に従う
主イエスは、「と書いてある」との神の御言葉に立って、それに従って勝利されました(4節、8節、12節)。特に、「人はパンだけで生きるものではない」とあり、マタイによる福音書では、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4章4節)と続いています。このように、主イエスは、人はたとえパンがなくなったとしても、神とその御言葉を信じて生きることを強調しておられます。
これは、主イエスが、普段から持っておられた御言葉に対する姿勢をよく物語っています。よく読んで、その内容を知っておられたからこそ、「書いてある」と言えたのです。罪に負けるか、神に従うかといった重大事にあたって、神の御言葉が引用されたということは、主イエスはそれだけ御言葉に敬意を払っておられたのです。御言葉そのものが持っている力に信頼しておられたのです。これらは、私たちの姿勢でもあります。

窮地に生きる信仰(2012.11.4)

宣教題  : 「窮地に生きる信仰」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録 20章1~6節
パウロの三年にわたるエフェソ伝道は、大騒動の中にあっても豊かに実を結びました。その後彼は、エルサレムを経由してロ-マへと出発したのですが、その途上は困難な伝道の旅となりました。彼は、このような窮地に追い込まれながらも、その中をどのように生きたのでしょうか。

1.互いに励まし合う  使徒言行録20章1~6節
パウロは、エフェソ教会員を呼び集めて「励まし」、マケドニア州へと向かいました。そして「言葉を尽くして人々を励ましながら」、ギリシャに来て三か月を過ごしたのです。このように、彼は困難と試練の中にある教会を励まし、慰めていったのです。
続いて、パウロはユダヤ人の陰謀があったため、遠回りしてエルサレムに向かいました。これが幸いして、ベレア、テサロニケ、フィリピ各教会を問安し、愛の献金をエルサレムに届けることになったのです。そこでは、七人の代表者が同行し、さらに「わたしたち」とあるように、著者ルカが加わっています。以後ルカは、パウロがロ-マに護送されるまでの困難な中を付き添い、パウロを励ましたのです。
私たちは、苦しい窮地に追い込まれる時に、互いに励まし合う信仰の交わりが必要なのです。

2.キリストの慰めが満ち溢れる  2コリント1章3~7節
パウロは、ギリシャにおける三か月の間に、「ロ-マの信徒への手紙」と「コリントの信徒への手紙二」を書き送りました。後者の手紙において、パウロは、様々な信仰の闘いがあり課題を抱えていた教会に、教会のよって立つ在り方を語りつつ、「慰めを豊かにくださる神」を証言しています。この慰めは、苦難の中にいる人々に慰めと救いを与え、生かすものです。
私たちは、キリストの十字架の御苦難があったので、罪からの救いの慰めを受けることができました。また、私たちは、様々な心の惑いや葛藤や恐れのあるただ中で、死者を復活させてくださる神を頼りにすることにより、キリストの慰めに満ち溢れるようになるのです。

自分が変われば(2012.10.28)

宣教題    :     「自分が変われば」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 8章1~12節
今、私たちが最も必要としているものは、心の光ではないでしょうか。しかし、現実は心の暗闇におおわれています。イエスはその暗闇に光を灯そうとされて、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)と招かれるのです。

1.暗闇の中を歩んでいた事実
ある朝早く、人々が一人の女性を連行してきた目的は、「イエスを試して、訴える口実を得るため」でした。そこには、人間の暗い闇が潜んでいます。姦通という人間の哀れな本性にまつわる罪があります。そして、自分も同じ可能性を持ちながらも、この女性が犯した行為、その現象だけを厳しく咎めて裁いている人間の底知れない罪があります(3~6節)。そして、救い主をすぐ目の前にしながらも、その御言葉に背を向け、折角の救いのチャンスを放棄し、その場を立ち去っていく人間の哀れな姿があります(7~9節)。そこにも私たちの罪の暗さを見ることができます。これこそが、時代を越えて存在する人間の共通の罪、その暗さです。
自分には罪がないと言える人は、一人もいません。自分で自分を救える人もいません。イエス・キリスト御自身とその救いの御業による以外にないのです。

2.光であるキリストに従う信仰
イエスは、この女性に優しく語りかけ、それに答える彼女に決定的な御言葉を告げられました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』と(10~11節)。これは、罪の審きが貫かれ、その赦しが貫かれている十字架のイエスを仰ぐことにより可能となる宣告です。
私たちは、「世の光」であるイエスによって、罪を赦されて生かされる「命の光を持つ」のです。そして、私たちの内側から輝かしていただく「命の光」に立つのです。
各人がそのように変えられるためには、イエス・キリストへの信仰が必要です。それは、イエス・キリストの御人格と御性質を信じ受け入れ、その真実な御業にすべてを委ねていくことです。このお方に信頼し従っていくことです。