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新約聖書

罪の赦しの福音(2013.7.14)

宣教題  : 「罪の赦しの福音」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章17~26節
主イエスのご来臨の目的は、「神の国の福音を告げ知らせ」ることでした(4章43節)。ここでは、主イエスが中風の人をいやされたことを通して、福音とは何かを明らかにされています。福音とは、「人よ、あなたの罪は赦された」とあるように、罪の赦しであることを宣言されたのです。

1.福音は「求めるもの」に与えられる
中風の人と彼を運んできた男たちは、主イエスに切なる求めをしています。彼らは、様々な障害を乗り越える勇気と熱心さとを持ち合わせていました。さらに、彼らが、主イエスが与えてくださるものを受け入れ、主イエスのもとに飛び込んでいくほどの信頼を抱いています。「イエスはその信仰を見て」おられたのです。
そうした中にあって、群衆や家の主人は、この突然の予期しない出来事によって自分たちの願いが中断されても、また犠牲を強いられても、中風の人に協力しています。
私たちは、福音を求めるものであり、それに与かろうとする人たちのために協力するものでありたいと願います。

2.福音は「キリストによって」与えられる
神の祝福の根本は、人が罪を赦されることを通して神と和解し、神との交わりに入れられることです。
ところで、聖書が言う罪は、神を欺き、神を悲しませることです。この罪を自覚するならば、主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」との宣言を受け入れることができるのです。主イエスは、罪の赦しを十字架で完成するので、それを受け取ってほしいと願っておられるのです。
福音は、私たちを前向きにさせます。主イエスの十字架によって罪の赦しが完成されていると信ずるからです。身が震える思いで、過去に決別し、喜びをもって立ち上がらせていただきましょう。

自由と愛(2013.7.7)

宣教題  : 「自由と愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章17~26節 1コリント9章23節
パウロは、いかなる時にもキリストを中心に置いて、ぶれない生き方をしました。そのパウロが、福音にあずかって真に自由な者とされ、かつ福音に共にあずかるためには、その自由が制約されてもキリストの愛に生きることを選んだのです。

1.福音にあずかる
パウロ一行はエルサレムに到着したとき、教会の人々の歓迎を受け、教会代表のヤコブや長老たちに挨拶をしました。そして、パウロを通して福音が異邦人に届けられたことの報告をするなかで、同行してきた異邦人教会の代表者を紹介し、献金がささげられた経緯や趣旨を語りつつそれを手渡したと思われます(17~19節)。この時パウロは、それらは「神が」なされた神の業であることを謙虚に証ししています。ここに、福音によって自由とされた者の生き方があります。
キリストの十字架と復活によって、私たちは永遠の滅びから永遠の救いにあずかることができたのです。この福音にあずかった者は、罪と死に支配されない自由な生き方をするようになるのです。

2.福音に共にあずかる
エルサレム教会の人々は報告を聞いて「神を賛美」しました。続いて彼らは、教会内にパウロを誤解して受け取っているユダヤ人信徒がいることを伝えつつ、その誤解を解くための対応策と(23~24節)、かつてのエルサレム教会会議で決定したことを守るべきことを提案しました(25節)。パウロは、異議を唱えることなく、間違えば命を奪われかねない危険な提案を受け入れたのです(26節)。彼をしてそうさせたのは、自由を制約されても、敵対する同胞を愛する愛からでした。愛のゆえに同化したのです。
パウロは、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と証ししています(1コリント9章19~20節、23節)。私たちは、福音に共にあずかるために、祈りを、奉仕を、献金をもって神にささげる生き方をするのです。

キリストの願い(2013.6.30)

宣教題  : 「キリストの願い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章12~16節
この聖書箇所には、二つの願いが明らかにされています。人の願いと(12節)キリストの願い(13節)です。「御心ならば」、「よろしい(わたしの心だ)」は、その意志や願いを表わしています。人の願いが、キリストの願いと一つになる時に、神の御業がなされます(2コリント5章20節)。

1.人の願い
「全身重い皮膚病にかかった人」は、主イエスの御前にひれ伏しています。この謙る姿勢は、真実かつ真に勇気ある姿です。しかも主イエスがなされることを期待しつつ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、自分の願いを切実に祈り願っています。彼の願いは、主イエスに委ねつつも、筋の通った嘆願の祈りだったのです。
私たちは、祈り願っても現実が変わらない時、いつしか嘆願の祈りをしなくなるということがあります。そうした時にこそ、主の恵みのご支配があることを信じて、主の御心を伺いつつ、真実に祈り願う歩みであり続けたいものです。

2.キリストの願い
主イエスは、この人の願いをそのまま受け入れてくださいました。彼に触れることにより一体となられ、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。主イエスは、彼を憐れみ(マルコ1章41節)、彼の痛みを御自分の身に背負って、癒してくださったのです(イザヤ53章4節)。このようにして、彼は、神に受け入れられて神のものとされることにより神との関係が回復され、自立した生活を送ることによって社会での生きる道が開かれました。これがキリストの願いでした。
キリストが全ての人のために願っておられることは、主イエスの十字架と復活によって罪赦されて神との和解をいただき、神のために生きるとともに、他者のために生きる自立した者となることです。そこからは、人間相互の関係の回復も生まれてきます。

もう一つの命(2013.6.16)

宣教題  : 「もう一つの命」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ヨハネ10章10~11節
聖書が明らかにしている「命」には、二つの異なった言葉が用いられています。一つは、肉体上の自然的な命で、この地上の一時的な命を意味するものです。もう一つは、肉体を超えた本質的な命、永遠の命を表わすものです。後者こそが、私たちが与かる必要のある「もう一つの命」です。

1.溢れる命を 10節
主イエスが来臨されたのには、目的がありました。羊のように無力で弱い私たちが、もう一つの命を受け、しかも豊かに受けるためでした。
豊かな命は、溢れる命です。溢れる命からは、喜びが満ち溢れ(1ヨハネ1章4節)、主への感謝が満ち溢れ(2コリント4章15節)、主の慰めが満ち溢れ(2コリント1章5節)、主の愛から引き離すものからの勝利に満ち溢れ(ローマ8章37節)、主の業に満ち溢れるのです(1コリント15章58節)。
私たちが受ける溢れる命は、他者を生かしつつ、周囲を祝福します。そして、地上の終わりの向こう側に向けての備えをしつつ、人生の終わりを迎えるのです。

2.命はキリストに 11節
このような約束の御言葉を語られた主イエスが、本当に命なるお方なのでしょうか。
主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを明らかにしておられます。主イエスは、何の罪も犯しておられないお方なのに、私たち一人一人の罪を背負い、十字架に架かられて死なれました。同じように十字架に架けられた犯罪人の一人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(ルカ23章41節)と言っていますが、その当然の座が、罪の赦しと永遠の命に与かる恵みの座となったのです。
十字架の死から復活された主イエスは、今も変わらずに永遠の命を与え続けていてくださいます。命のキリストに信頼して歩み出し、また歩み続けましょう。

神はわたしたちの味方(2013.6.16)

宣教題  : 「神はわたしたちの味方」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章7~16節 ローマ8章31節b
もともと神と敵対していた私たちを、神は惜しみなく愛し、イエス・キリストの十字架の死を通して和解の道を開いてくださいました(ローマ5章10節)。それゆえに、神が私たちの味方となっていてくださるのです。神が私たちの側に立っていてくださることの実例を、本日の使徒言行録の箇所に見ることができます。

1.厳かな使命に立つ中に
ここに見るパウロは、死を覚悟して使命に生きる強い姿勢があります(13節)。
パウロは、異邦人教会からエルサレム教会に感謝の献金を届けるとともに、両教会の信仰の一致が見られることを祈り願って、エルサレムに向かったのでした。パウロは、ルカたちと共に、ティルスからプトレマイス、さらにカイサリアと航海を続けました。カイサリアのフィリボの家で泊まっていた彼らの所に、あのアガポが訪れ(11章27~28節)、エルサレムでパウロが苦難を受けることを予告しました。それを聞いたルカたちは、しきりにパウロのエルサレム行きを反対したのです。
それに対してパウロは、動揺しながらも、祈り、確信し、覚悟した信仰を貫きました。その根底には、神は私たちの側に立っていてくださるとの信仰があったからです。

2.豊かな愛の交わりの中に
教会は、使命に立って進む厳かな部分と、愛の共同体としての豊かな交わりに生きる部分の両輪があり、それをしっかりと持ってこそ健全な歩みが展開されます。
パウロ一行は、プトレマイスで兄弟たちと(7節)、カイサリアのフィリボの家の者たちと(8節)、互いの交わりを深めています(ヘブライ13章1節参照)。さらに、カイサリアの弟子たちと一緒にエルサレムへ行く途中、ムナソンの家に泊まっています。そこでは、くつろぎ、やすらぎの時を過ごしたことでしょう。死という危機を分かち合う覚悟を持った彼らには、驚きとともに慰められます。このような愛に満ちた交わりを通して、神は私たちの側に立っていてくださるという恵みを体験させていただけるのです。

楽園を創造される主(2013.6.9)

宣教題  : 「楽園を創造される主」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ41章17~20節 エフェソ3章6節
講壇横に生けられている生け花は私たちに創造の神のすばらしさを思い起こさせる。しかし、種類の異なるこれだけの花が実際に群生している場所はない。イザヤ41:19には主が備える楽園(森林植物園)の姿が描かれているおり、そこには杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブ、糸杉、樅、つげが同時に群生している。そんな場所は実際には存在しない。なぜ、主はこのような楽園を創造されるのか。

1.気がついている必要を満たす主(41:17-18)
人が生きるのに水は必須である。苦しむ人、貧しい人はそれを自分たちで見出そうとするが、決して、見出すことができない。そんな私たちの必要を主はご存じであり、それを満たされる。弱者をあわれむ王として、当然のわざである。その際、主が下さるのは、コップ一杯の水ではない。荒野に大河と泉を起こし、そこに湖を生み出す。渇いている人が気がついている必要を満たし、さらには溢れるほどに主は与えて下さる。

2.使命が果たせるように整える主(41:19-20)
イスラエルの聖なる神は、人々の気がついている必要を満たせばそれで十分だ、と考えてはいない。溢れるばかりの水をもって、荒野に楽園を創造する。この楽園は、主が新しく創造する神の民を指し、三つの特徴を持つ。
(1)一つになりえないはずの人々が共に集められている。
(2)聖なる霊が臨在される神殿として組み立てられ、諸国の民に主の御手のわざのすばらしさを証しする神の家族となる。(エフェソ3:6)。
(3)その結果、主の偉大な力とそのわざに気づき、閉ざされていた目が開かれ(41:20)、主に与えられた使命を知り、それを果たしていく。
今、感じている必要を主が満たしてくれればいい、という小さなフラワーアレンジメントに留まっている限り、主の偉大なご計画になかなか気がつくことはできない。楽園を創造する主のわざに目を開かれ、この世界で私たちに与えられた使命へと進ませていただこう。

皆キリストの弟子(2013.6.2)

宣教題  : 「皆キリストの弟子」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章1~11節
キリストの弟子になることは、ペトロにとって大きな転機でした。私たちも、どのようにしてキリストの弟子になることができるのか、その道を探ってみます。

1.主イエスとの個人的な出会いによって  1~4節
群衆は、「神の言葉を聞こうとして」ゲネサレト湖畔まで押し寄せて来ました。主イエスは、群衆から離れて舟に乗りこんで教えておられます。それを一番近くで聞いていたのがペトロでした。彼がこのことを自ら選んだのではなくて、主イエスの方から彼を訪れてくださったのでした。
主イエスは、不漁のために途方にくれ、疲れ、空しい思い中にあるペトロと関わりをもたれました。このように主イエスは、私たちと個人的な出会いを求められるのです。

2.主イエスの前にひれ伏すことによって  5~8節
ペトロは、愚かで無駄と思われる主イエスの提案を受け入れ、「しかし、お言葉ですから」と、主イエスの御言葉に賭けています。それによって、ペトロは大漁を経験しましたが、主イエスの足もとにひれ伏さざるを得ない信仰の経験をしたのです。主イエスの聖さと力を知らされるとともに、自らの汚れと惨めさを知ったからです。
私たちは、主イエスの前にひれ伏し、主とその御業を受け入れなかったり、制限したりしている罪の赦しと聖別をいただくことが必要なのです。

3.主イエスと一緒に人を生かすことによって  9~11節
「わたしから離れてください」と語るペトロに対して、主イエスは「恐れることはない。今から後、人間をとる漁師になるのだ」と招かれました。これは、主イエスが私たちを、自分の幸福のためだけに生きるのではなくて、人を生かすために生きるように召しておられるということです。
私たちは皆キリストの弟子として招かれています。真摯に主イエスに従う一人一人となりましょう。

わたしは門である(2013.5.26)

宣教題  : 「わたしは門である」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ10章7~9節
私たちの人生は、大小さまざまな決断の連続を繰り返しています。とりわけ、人生の大切なことがらに関しては、後で後悔しなくてもよいように、その決断を助けてくれるものを求めます。
主イエスは、そのような私たちに、重い問いかけをされました。

1.狭い門から入れ  マタイ7章13~14節
人生には、滅びに通じる門と命に通じる門があるというのです。多くの人が殺到する人生の広い門は、その先が行き詰まりで、滅びです。一方の狭い門は、罪赦されて天国に招き入れられるという永遠の命の保証がありますが、それを見い出そうとする人が少ないのです。
その狭さは、私たちの側に何かの資格、行状、品性などにおいて条件を満たしていることを要求されるものではありません。そのようなことが問われるのであれば、初めから諦めるしかないのです。ただ、ある一つの門をくぐるという点においてだけの狭さがあるというのです。

2.イエス・キリストこそが門である  ヨハネ10章7~9節
羊飼いである主イエスは、羊である私たちと出会うために来られたのであり、そのために羊飼いはただ一つの門を通られました(ヨハネ10章2節)。それは、私たちの罪の赦しのために十字架の死を遂げられたという門です。
私たちは、どんなに努力し信心しても、新たに生まれ変わって、天国の一員となることは到底不可能なことです。「わたしこそが門である」と言われる主イエスが、十字架と復活によって神の救いに与からせてくださる救いの門を開いてくださったのです。この救いの門は、誰にでも開かれています(ヨハネ3章3節、5節)。それが狭いというのは、ただ罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるという点においてなのです。さらに、この救いの門は、一人一人が入らせていただくということで狭いのです。

聖霊の導きに従って(2013.5.19)

宣教題  : 「聖霊の導きに従って」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章1~6節  ガラテヤ5章25節
イースターから50日目にペンテコステがあり、一つ所に集まって祈る人々の上に約束の聖霊が下り、一人一人が聖霊に満たされました(使徒言行録2章1~4節)。その結果、彼らは力強い主の復活の証人となり、人々が主を信じるようになり、キリスト教会の誕生となったのです。その聖霊は、今も私たちを導いておられます。

1.聖霊の導きに従う確かさ  1節~5節b
ここには、パウロや主の弟子たちが、聖霊に導かれて歩む様子が描かれています。聖霊に促がされてエルサレムに向うパウロは(使徒言行録20章22~24節)、ミレトスから長い距離の船旅をしてティルスに到着しました。そこに住んでいた主の弟子たちは、聖霊に動かされて、パウロに迫害が待ち受けていると思われるエルサレム行きを繰り返し反対しました。しかし、結果は、聖霊がパウロを導いておられることを重んじて、その導きに従ったのでした。
私たちにとっても、自分の決意や意志に集中して歩むのではなく、聖霊に導かれて歩むことが確かな生活です(ガラテヤ5章25節)。その聖霊の導きを喜びとし、それに従って行くならば、神の永遠の約束の地につながる道となるからです。

2.聖霊の導きに従う秘訣  5節c~6節
主の弟子たちが、パウロへの聖霊の導きを、どうして自分たちの導きと受け取ることができたのでしょうか。それは、共にひざまずいて祈ったからで、お互いに主の臨在の前におのれを捨てて、謙り、聖霊の確かな導きに従ったからでした。
この背景には、父なる神の御心に従ってエルサレムに向われ(ルカ9章51節)、ゲツセマネでひざまずいて祈られた主イエス(同22章41節)と同じ信仰で生きたパウロの姿があります。
聖霊の導きに従う秘訣は、ひざまずいて神を礼拝し、祈るところにあります。そこに、キリスト教会の一致と、赦しと、和解と、平和があるのです。

一人一人を愛される主(2013.5.5)

宣教題  : 「一人一人を愛される主」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ 4章38~44節
主イエスは、何よりも一人一人を愛して、懇ろに届いてくださるお方です。その主の愛の御業は、カファルナウムにおける安息日の礼拝において(31~37節)、その日が暮れで安息日が終わる場面において(38~41節)、そして翌朝の宣教へと続いています(42~44節)。

1.日常的な事柄に関わってくださるために  38~41節
先には、大勢が集まっていた会堂での礼拝において汚れた霊に取りつかれた一人の人のいやしがなされ、ここではシモン・ペトロの家で彼の姑のいやしがなされました。人々は、会堂では言えなかったのですが、主イエスが家に来てくださったので話すことができたのでした。続いて、主イエスのもとに連れて来られた「一人一人に手を置いていやされた」のでした。
主イエスは、今も変わらず、誰に対しても一人一人に、しかも日常的な様々な出来事の一つ一つに、愛をもって関わってくださいます。これは、私たちにとって大きな慰めです。

2.必ず神の国に招き入れるために  42~44節
翌朝、主イエスは人里離れた寂しい荒野へ出て行かれて、父なる神とお会いし、その御心を求められました。そうしておられる主イエスを群衆は捜し回り、続けて多くの人々の病をいやしていただくことを求めました。父なる神の御心は、病を癒すことが最終目的ではなく、人々を神の国に招き入れ、そこで生きる喜びを宣べ伝えることでした。これは、必ず成し遂げられなければならないことだったのです。
神の国に招き入れられるとは、聖霊による罪の赦しが与えられ、聖霊によって神との平和の関係が回復され、聖霊による喜びが与えられる恵みに生きることです(ローマ14章17節)。このために、主イエスは十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。神の国の福音に生きる一人一人とさせていただきましょう。

触れる愛(2013.4.28)

宣教題  : 「触れる愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ 9章1~7節
ここに登場する「生まれつき目の見えない人」は、主イエスによって目が見えるようになりました。この男性は、主イエスの手の感触をどのような思いで味わったことでしょうか。触れることがないと愛は始まりません。主イエスが触れてくださる愛は、私たちに新しい人生を開いてくださるのです+。

1.人生の不幸と思えるただ中に
当時人々は、この男性が不幸なのは誰のせいなのかと問題にしたようです。また弟子たちは、この不幸は誰の罪によるのかと主イエスに問いただしています。この時、彼はその不幸、その惨めさを数えて、どのように生きていけばよいのかと自問したことでしょう。
因果応報という教えがありますが、それがどんなに人を苦しめ、人を不安に陥れていることでしょうか。そのような人に、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と言い切ることができるのは、主イエスのみです。私たちは、因果応報という考えが断固断ち切られたところで、生きることができるのです。

2.神の業が現れるため
この男性の目が見えないのは、誰のせいでもなく「神の業がこの人に現れるため」でした。主イエスは、彼に対する深い愛をもって、不思議な方法で目が見えるようにされました。
主イエスは、肉体の目が見えなくても見えても、一人一人の一番つらいところに愛をもって触れてくださるお方です。ですから、私たちはこの男性のように、主イエスが言われるとおりに信頼し切って踏み込んでいくことが大切なのです(7節)。そして、「主よ、信じます」と主イエスの前にひざまずくことです(35~39節)。
十字架に死んで復活され今も生きておられる主イエスは、神の業が私たちに現れる人生を開いていてくださるのです。

召され、信頼し、従う(2013.4.21)

宣教題   : 「召され、信頼し、従う」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ローマ 1章1~7節
御子に関する神の福音は、神の王国が世界に到来し、復活されたイエスがその王であると宣言している。この福音の宣教は何を私たちの上に起こすのか。

1.召命(1:7)
御子に関する福音は、イエスの復活の事実を告げているだけではない。「神の王国が到来し、イエスがその王となった。今、この王国に加わろう」と人々を神の王国へと招待する。これは、神ならぬものが支配し、罪と死の力が人々を苦しめている世界で、イエスこそ本当の王だと勇気をもって宣言する困難な選択を求める。同時に、御子をささげ、ご自身のすべてをささげるほどに私たちを愛しておられる神の招きでもある。

2.従順(1:5)
福音の招きを受けても、それを拒絶することもできる。この招きを受け入れる時、神の王国の民となり、王であるイエスの僕(1:1)となる。王であり、主人である方の声をしっかりと聞くのが僕である。そして、聞いたことばに従う。聞き、従うことを通して、福音の招きに応じた者は、イエスが王であることと神の王国の到来をその生き方を通して示す。

3.信頼(1:5)
王の声に従うのは、従わない者に与えられる罰を恐れているからではない。神が聖書の約束を忠実に守って下さったゆえに、忠実に従っていく。私たちの忠実さは、アブラハムが「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(4:18)た姿を模範とする。そして、アラム軍に囲まれたエリシャのように(列王下6:15−17)、王であるイエスに信頼し続ける。
神の福音によって召して下さる神の恵みへの応答は、信頼から生み出される従順である。そして、パウロが福音宣教へと召されたように(1:1)、召され、信頼し、従う私たちにも福音を告げ、神の招きを届ける使命が与えられている。

仰天する喜び(2013.4.7)

宣教題  : 「仰天する喜び」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ4章31~37節
ガリラヤ湖畔の西北の町「カファルナウム」は、主イエスがこよなく愛され、そこを宣教活動の根拠地とされた町でした。「ルカによる福音書4~5章」には、「権威」と「力」という二つの言葉が相重なるように出てきますが、本個所においても主イエスの権威ある御言葉が、人々を圧倒させ、仰天する喜びを与えています(32節、36節)。

1.キリストの権威
主イエスの権威ある御言葉は、恵みをもって人々を支配し、救い、生かすものでしたので、人は自発的に従っていきました。それに抵抗したのが、「汚れた霊」でした。主イエスは、権威ある御言葉をもって汚れた霊が働くことができないようにされたのです(33~35節)。
私たちは、神の恵みから遠ざかって、闇の力に束縛され、罪と汚れの虜になって、自分中心の強情で頑固な「汚れた霊」に取りつかれていた者でした。主イエスは、そのような私たちの罪を赦し(ルカ5章20~24節)、汚れをきよめ(1ヨハネ1章7節)、神の恵みのご支配に生きる者としてくださいました。主イエスは、権威ある御言葉と御業をもって、それを成し遂げられたのです。

2.人々の驚き
主イエスは、先のナザレでの宣教の後に(16~30節)、カファルナウムでの宣教をされました。ナザレでは、主イエスの口からでる恵み深い御言葉を耳にした人々が「驚いて」いますが、その後で主イエスに反発しています(22~29節)。カファルナウムでは、主イエスが語られた権威ある御言葉に「人々は皆驚き、互いに言った」と、主イエスの救いの御業と御言葉を驚きをもって受けとめています。その結果、豊かな結実がありました(35~37節)。
私たちは、主イエスの権威ある御言葉と救いの御業の前に、ひれ伏し、砕かれ、全き信頼を置くことが必要です。この信仰の経験は、救いの恵みに与かったときだけではなく、私たちの信仰生涯に繰り返される経験となり、仰天するほどの喜びとなるのです。

御子の福音(2013.4.14)

宣教題  : 「御子の福音」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ローマ 1章1~7節
福音は「神は愛である」とまとめることができる。そして、御子を通して表された神の愛(3)が福音である。

1.約束の実現(2-3)
イスラエルの王ダビデに対して、主は、彼の王国と王座は永遠に絶えることはないと約束された(サムエル下7:12-16)。一時期、途絶えてしまっていたが、神はイエスを「ダビデの子孫から生まれ」させ、神の王国を再興し、ダビデへの約束を守られた。「肉によれば」(3)の「肉」はユダヤ人を指している。だから、イエスが王としての来臨は、ユダヤ人の父祖アブラハムへの神の約束の成就をも指している。さらに、世界の最初の人アダムがもたらした罪と死という問題に対する解決の実現でもある。このようにして、御子を通して、神が旧約聖書で既に約束されていたことが実現した(2)。このようにして、神は約束を必ず守るというご自身の愛を、御子を通してこの世界に示された。

2.新しい時代の始まり(4)
イエスがまことの王であることは、「死者の中からの復活によって」(4)究極的には明らかにされる。復活のゆえに、十字架を呪いのしるしと考えるとらえ方を変えざるを得ない。神の力によってあらゆる力に勝利し、死せるイエスのからだに聖霊がいのちを与えることによって実現した復活は、罪と死に死んでいた人間が神の霊によって新しいいのちに生きることのできる、新しい時代の到来を表している。このようにして神は新しい時代をもたらすというご自身の愛を御子の復活を通してこの世界に示された。
アラムとの戦いにおいて、エリシャの召使いは敵の多くの軍隊しか目に入らなかったが、エリシャは自分たちを取り囲む神の軍勢を同時に見た(列王下6:15-17)。ともすればろくでもない知らせに溢れる世界しか見ていない私たちはあの召使いのようだ。しかし、御子の福音は、御子を通して神の愛を私たちに見せてくれている。だからこそ、御子の福音という視点から、ろくでもない、しかしすばらしいこの世界を生きたい。

人生は空しいものではない(2013.3.31)

宣教題  : 「人生は空しいものではない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ21章1~14節
復活された主イエスは、シモン・ペトロをはじめ七人の弟子たちに御自身を現わされました。それは、彼らがティベリアス湖で漁をしていた時のことでした。彼らはそこで、どのような新しい展開をいただいたのでしょうか。

1.主イエスが御自身を現わされる
ペトロをはじめとする弟子たちが漁に行ったとき、彼らは主イエスとお出会いする以前の自分たちの仕事に仕方なく戻って行ったのでした。それは、主イエスとの関わりを失った後戻りの生き方であったと言えます。この時の彼らの心の状態は、十字架を前にしての主イエスを否んで裏切った心苦しい心境であり、もはや主イエスから忘れられていると思う空しさと失意と虚脱感を抱いたものでした。
主イエスは、このような心の状態でいる弟子たちに「御自身を現わされた」(1節、14節)のです。夜の間、彼らを見守っておられる主イエスのお姿をほうふつとさせます(3~4節)。夜が明けると、主イエスは「子たちよ」と呼びかけられて彼らとの交わりを回復させ、愛に満ちた指示をされました(5~6節)。そして、愛の配慮ある新たな交わりを造られました(9~13節)。
今も復活の主イエスは、空しい状況に明け暮れし、失意の中にあり、目標を失いかけている者に、「子たちよ」と呼びかけ、御自身との新しい交わりの中に招いていてくださいます。

2.復活の主を告白し続ける
弟子たちは、主イエスが生きておられることを告白しています(7節、12節)。これは、「我らの主、イエス・キリストを信ず」(使徒信条)と告白し続ける教会のひな型です。私たちの礼拝と信仰生活の中心には、復活された主イエスが生きておられ、いつも共にいてくださるとの信仰があるのです。
ここから、私たちの空しい生活は終わりを告げ、意味ある生きがいある人生が始まるのです。
そして、主イエスとの命の交わりに生きる喜びが生まれるのです。死んで復活され、永遠に恵みをもって支配される主イエスを目当てとして生きることが、私たちの希望です。