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新約聖書

選ばれた人生を選ぶ(2013.11.17)

宣教題  : 「選ばれた人生を選ぶ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師

聖    書  : ルカ 6章12~19節
私たちは、主イエスの12弟子と同じように(13節)、主の弟子として選ばれ、生かされているのです(ヨハネ15章16節)。そのような選びの中に招かれているのですから、私たち自らが、それに応答して選び取っていく歩みをすることが必要です。

1.主イエスの祈りのうちに選ばれたのである 12~16節
主イエスは、ご自身の弟子たちを選ぶに際して、夜を徹して祈られました(12節)。主は、徹夜の祈りをすることを決心して祈られたのではなく、ひたすら祈りに打ち込んでおられたら夜が明けていたのでした。それほどに深い祈りをされたのです。ところで、主が、他に夜を徹して祈られた場面として、ゲツセマネの祈りがあります(ルカ22章39~46節)。この祈りが決定的で大切な祈りであったように、ご自身の弟子を選ばれる時も、祈らずにはおれない決定的で大切な時だったのです。
主イエスは、選ばれた弟子たちを「使徒と名付けられ」、主の十字架と復活の証人としての使命を委ねられました。同様に私たちは、主の十字架と復活の証人として選ばれているという歩みをするのです。たとえそれが試練の場であっても、そこに踏みとどまるならば祝福があるのです。

2.主イエスと一緒に歩むことを選ぶのである 17~19節
主イエスが山に登って行かれたのは、山から下りて来られるためでした。山の下は、主の教えを聞くことや主の救いの御業に与ることを願う大勢の人がいました。主は、弟子たちと一緒に山から下りてこられて、「平らな所にお立ちになった」のです。このように、主の弟子として選ばれるということは、主と一緒にこの世に遣わされるという歩みをすることを選ぶことなのです。
私たちの信仰の歩みは、悩み、苦悩、試練、戦いを避けてとおれません。その信仰の営みから逃げないで、主イエスと一緒に遣わされていくことを選ぶならば、人を生かし、教会を生かすという祝福をもたらすのです。

心をあわせ、声をそろえて(2013.11.3)

宣教題  :「心をあわせ、声をそろえて」   宣教:  鎌野 直人 協力牧師
聖     書  : ローマ 15章1~13節
ローマ14-15章のテーマは、「心を合わせて声をそろえることの大切さ」である。これは、強い者が、強くない者の弱さを担い(15:1−2)、互いが相手を受け入れることによって(15:7)実現する。しかし、現実はそう簡単ではない。そのために、どのように進んで行けばいいのだろうか 。

1.イエスのように生きる 
パウロは、イエスのように生きるように招いている。他人の泥を自らかぶり、大損をされたイエスの姿に倣う生き方である(15:3[詩編69:9])。短期的な損得勘定で考えるとそんな歩みはできないが、死人の中からの復活を通してイエスに正しい裁きを神が下されたことを覚えるとどうだろうか。神のこの業をおぼえる時、私たちは忍耐と慰めを学び、希望を持ち続けることができる(15:4)。

2.イエスのおかげで生かされている
アブラハムの子孫を通じて異邦人を祝福するという神の約束(15:8−9、創世記12:1−3)は、ダビデの子孫であるメシアを通して実現した(15:12[イザヤ11:10])。
イエスの十字架を通して、全世界の民が神の民に加えられたからだ。このようにして、異邦人は受け入れられ、神の計画は完遂し、神の真実は明らかにされた。つまり、私たちはお互いを受け入れ合うこと(15:7)、全世界の民が一つとされて、ともに神をあがめるようになるために(15:9−11)、神はこの世界に働き続けられ、その計画を完成された。このようにして、イエスのおかげで私たちは神の民とされたことを覚える必要がある。
心をあわせ、声をそろえた礼拝での讃美を通して、私たちが一つの歌をもってひとりの神をほめたたえる一つの民であることを世界に示すことができる。さらに、あらゆることにおいて、聖霊に力をいただき、祈りつつ、具体的に心をあわせ、声をそろえて行動していこう。すばらしい音楽に人々が魅力を感じるように、「心をあわせ、声をそろえる」教会に人々は魅力を感じる。

戻るべき所(2013.10.27)

宣教題  : 「戻るべき所」   宣教:   長田 栄一 牧師
聖    書  : 1ペトロ2章21~25節
あなたがたは…戻って来た」と記されています(25節)。おるべき所から外れて、おるべき所でない場所にいるとき、そこには不安があります。落ち着かなさがあります。おるべき所に戻ったとき、「帰ってきた。ここが自分のいるべき場所だ」と、心に安息が回復します。本来の自分自身の姿に帰ることができます。

1.迷える羊
「あなたがたは羊のようにさまよっていました」(25節)。聖書には、人間の現実の姿を「迷える羊」として描いている所が幾つかあります(イザヤ53章6節他)。おるべき所から彷徨い出て、帰るべき場所、その道も分からなくなった存在として描かれています。

2.戻るべき所
私たちが戻るべき所はどこでしょうか。それは、単なる場所ではなく、人格ある神、創造者にして私たちの人生を正しい祝福の道へと導いてくださるお方。「魂の牧者であり、監督者である方」こそ、私たちが戻るべき所です(25節)。このお方は、私たちがご自身のもとへと戻って来るのを待ち続けておられます。

3.戻るための道
戻るための方法、その道筋はどこにあるのでしょうか。「十字架」「そのお受けになった傷によって」(24節)とあります。この個所は、苦難を耐え忍ぶことについて教える個所です。キリストは私たちに模範を示されました。その生涯は罪なき生涯。ののしられてもののしり返さず、神様に自らをお任せになっておられました。しかし、その苦難は何のためだったでしょうか。私たちのためでした!その十字架は、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださ」ったもの。「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるため」。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。ここに、私たちが戻るべき所へと帰って行くための道があります。

良心に従って(2013.10.13)

宣教題  : 「良心に従って」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録22章22節~23章5節
神が私たちに与えていてくださる「良心」は、大切な賜物です。しかし、人が良心的に生きると言いつつも、全てが良い心であるとは言えないようです(マルコ7章20~23節)。だからこそ、パウロのように、「わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前に生きてきました」(23章1節)と言える人は、何と幸いなことでしょうか。

1.新しく造り変えられた良心
聖書では、信仰と良心の関わりの深さと大切さを明らかにしています。そこには、「正しい良心」を持つように勧められていますが(1テモテ1章19節a)、健全な状態にない良心についても語られています。それは、良心が鋭い感覚を失ってしまい、罪を罪と感じなくなってしまったり(同4章2節)、良心を意識的に捨ててしまったりすることです(同1章19節b)。ですから、神の御業や御言葉に対して素直に応答する「正しい良心」をもたせていただくことが大切なのです。
パウロは、教会を迫害することが罪であることを復活の主イエスから知らされた時、聖霊によって良心の導くところに従って回心しました(22章6~11節)。主イエスの語りかけに対して、良心が忠実となり、新しく造り変えられることか大切です。

2.神の前を生きる良心
ここでの迫害に対しては、パウロが持っていたローマの市民権が用いられ、救出されました。彼に与えられた異邦人伝道の使命が果たせなくなってはいけなかったからです(22章22~29節)。彼は、翌日の大祭司アナニアの前で、堂々と落ち着いて、気迫あふれた発言をしています(23章1~5節)。このように、パウロは、神の前に、神に向かって、神から与えられた使命に従って生きていこうとしたのです(24章16節)。
私たちが、その良心を死んだ業から清められて、神を礼拝し、神に仕える者となるために、主イエスが十字架で血を流して永遠の救いを全うしてくださったことを覚え続けたいものです(ヘブライ9章14節)。

真の安息(2013.10.6)

宣教題  : 「真の安息」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ6章1節~11節
私たちは、旧約時代の土曜安息日ではなくて、主イエスが復活された「週の初めの日」(使徒言行録20章7節)とも呼ばれている「主の日(聖日)礼拝」を大切にしています。この日に、真の安息への道を開かれた主イエスの御心を知って、自らの信仰と生活を導いていただくのです。

1.神の恵みを喜ぶ
主なる神は、6日間で全てを創造され完成されたことに満足されて、7日目に安息され祝福されました(創世記2章1~3節)。従って、「安息日」は、造られた人間にとって神と共に安息することが当然の恵みなのです。私たちは、神が全てを良いものに造ってくださったことに、喜びと感謝をささげるのです。
さらに、出エジプトという神の救いの恵みに与かった神の民が、「安息日」の祝福に生きることを命じられています(出エジプト20章2節、8~11節)。私たちは、神の民がエジプトを脱出して約束の地へと導かれたように、主イエスの十字架と復活によって罪と汚れに満ちたこの世から脱出して、約束に御国へと導き入れられることを大いに喜ぶのです。

2.神の恵みを分かち合う
主イエスは、安息日に弟子たちの飢えを満たして生かし(1~5節)、また生活の糧を得るのに必要な右手が萎えている人をいやして生かされました(6~11節)。
安息日は、神とその恵みを忘れないことと、人々へのあわれみを忘れないことのためにあります。すなわち、安息日に神の救いの約束が変わらないことを思い起こし、永遠の救いの神を忘れないことです(出エジプト31章16節)。また、一人一人が神に分け隔てなく招かれていることを忘れないことです(申命記5章14節)。
私たちは、礼拝において深い安息を経験するのですが、それを自分だけのもので終わらせることなく、隣人のためにも与えられていることを覚えて、お互いの喜びとさせていただきましょう。

キリストは何をなされたか(2013.9.22)

宣教題  : 「キリストは何をなされたか」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ11章25~27節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との主イエスの御約束を信じて生きる人には、過去も現在も将来も開かれた人生となります。そのために、主イエスは、どのようなお方であり、何を語られ、何をなされたのでしょうか。

1.明るい将来を開かれた
マルタとマリアは、主イエスがいてくださりさえすれば、兄弟のラザロは死ななかったのにとの思いを抱いていました(21、32節)。死の厳しさ、虚しさ、悲しみを味わっていたのです。主イエスは、彼女たちの悲しみを受け止めて涙を流され(35節)、ラザロを墓からよみがえらされたのです(43~44節)。
マルタとマリアと兄弟ラザロは、私たちの代表です。同じように、私たちは、十字架に死んで復活された主イエスによって、肉体の死を越えて生きる者となるように招かれています。それだけではなく、主イエスは、死の不安におののき、本来の人間らしさを失った者に復活の命を与えて生かし、新しくされた人生を歩ませてくださいます。私たちには、主イエスと切り離されないで生きて死ぬという明るい将来が開かれているのです。

2.明るい過去に変えられた
私たちに明るい将来が開かれるためには、明るい過去に変えられる必要があります。私たちの数々の罪は、神の目から隠れてはいません。その神の前に素直な心になって、罪の赦しを求めるならば、主イエスの十字架の血によって罪のない者としてくださるのです。
このようにして、暗い過去が明るい過去に変えられ、明るい将来へと希望がつながるのです。私たちの希望の根拠は、十字架に死んで復活された主イエスにあるのです。
「信じる」とは、思い込むことでも、理性を殺すことでもありません。「わたしを信じる者」とあるように、私たちは、主イエスを自分の永遠の救い主として受け入れ、このお方によって尽きることのない復活の命を与えられているということを信じ、信じたとおりに生き、その結果を体験するように招かれているのです。

無関心の正反対にあるもの(2013.8.25)

宣教題  : 「無関心の正反対にあるもの」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 1ヨハネ4章7~12節
なにごとにも無関心であった高校生が新しい世界に出会い、成長するドラマに人気が集まっている。事実、この主人公同様、無関心に満ちた世界に私たちは生きている。

1.神が愛である世界
ところが、聖書を読むとき、それとは全く対照的な世界に出会う。「神は愛」(4:8)という世界である。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」という有名なことばの通り、無関心な神ではなく、愛である神が生きて働いておられる世界である。この方は、人と世界を愛するその愛のゆえに、御子イエスをこの世界に送り、その十字架を通して、「神は愛」ということばが確かであることを示される神(4:9)である。

2.神への愛に目覚める
「神は愛」である世界という世界に私たちが生きている、と言われても実感できないだろう。私たちのまわりを見回しても、「神は愛」なんて現実的ではない。問題だけが目につくからだ。しかし、聖書に触れているとき、教会に集っているとき、突然、神の愛に気づくことがある。誰かに背中を押されて、海に飛び込んだように、神の愛に気づく。そして、神の愛に目覚めた私たちは神に対する無関心を棄てて、神を愛するようになる。

3.隣人への愛に目覚める
神の愛に気づき、神への愛に目覚めたとき、周りの人々や世界に無関心であった私たちが、隣人とこの世界への愛に目覚める(4:11)。そして、「神は愛」に対して全く無関心であった私たちを通して、「神は愛」の世界が広がっていく。
私たちは「神は愛」の世界にすこし気づいているのかもしれない。ひょっとしたらそれに目覚めているかもしれない。神への愛や隣人への愛に目覚めているのかもしれない。しかし、「神は愛」の世界に誰かから気づかされているだけにとどまっていてはいけない。御子を送られた神に自分から飛び込む時、つまり「信じる」時、私たちは「神は愛」の世界に生きる本当の住人、クリスチャンになっている。

新しいライフスタイル(2013.8.18)

宣教題   : 「新しいライフスタイル」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ 5章33~39節
主イエスは、人自身とその生き方を新しくされ、また変革してくださるお方です。それは、レビをご自身の弟子とされたことにより、いつまでも以前の生き方ではなくて、新しいライフスタイルへと変えられたことにも表れています(5章27~30節)。

1.新しい喜びに生きる
主イエスの弟子になったレビの人生には、悲しみではなくて喜びが生まれました。それは、婚礼の客にとって、断食が表わす悲しみではなくて、結婚を祝う喜びが生まれるのと同じです(33~34節)。
続いて主イエスは。そのような新しい喜びに生きることを三つのたとえで話されました。主イエスは、人に部分的な生活改善を求めるのではなくて、根底から全く変えてしまわれます(36節)。そして、人が持っていた古い生き方を捨てて、主イエスが明らかにされた喜びの生き方へと導かれます(37~38節)。さらに、古い生き方にとどまり続けないように勧められます(39節)。
私たちは、古い生き方ではなくて、悔い改めて新しくされた生き方をすることによって、新しい喜びの歩みが造られていくのです。

2.キリストと共に生きる
新しい喜びに生きることは、どこから来るのでしょうか。「花婿が一緒にいる」ところからです(34節)。すなわち、花婿である主イエスが一緒にいてくださり、人と共に生きてくださることによってです。そのために、主イエスは、「奪い取られる」とあるように十字架にお架かりくださり(35節)、そして死から復活してくださったことによって、私たちと共に生きる道を開いてくださったのです。
ここから生まれる喜びは、主イエスが与えてくださるものです。主イエスは、それを首尾一貫した素朴な喜びとして保ち続けてくださいます。私たちは、新しい生き方を造ってくださる主イエスに全てを任せていくだけでよいのです。

真実な証人(2013.8.11)

宣教題  : 「真実な証人」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章37節~22章5節 1ペトロ3章15節
真実な証人は、キリストの救いと今も共に働かれるキリストを生き生きと証言します。それが「キリストを主とあがめ」ることなのです(1ペトロ3章15節)。さて、絶対絶命の窮地に追い込まれた時のパウロの「ひと言」が、状況を一変してしまいました。

1.聖霊によって  21章37~40節
「ひと言お話ししてもよいでしょうか」とのパウロの申し出によって、千人隊長との問答が始まりました。千人隊長は、正直に語るパウロの安全を確保しつつ、民衆に対してパウロが弁明する許可を与えました。ヘブライ語で弁明するパウロには、気迫があったのでしょう。民衆は、すっかり静かになりました。
こうした正直な証言は、驚くべき力を持っています。全ては、聖霊によったからです(使徒言行録1章8節)。それは、ステファノが殉教した時と同じように(同7章54~60節)、聖霊に満たされているならば、人の憎悪の中にあっても、復活の主が見え、その救いに与かった者としての生き方がなされるのです。聖霊は、証言すべきことも教えてくださるからです(ルカ12章11~12節)。

2.揺るがない希望を抱くゆえに  22章1~5節
パウロがヘブライ語で弁明したことは、多くのユダヤ人に対して最適の言葉でした。彼は、ユダヤ人で名門の家に生まれ、律法の厳格な教育を受け、「熱心に神に仕えて」いたことを強調しています。さらに、キリスト者と教会の迫害者であったことを正直に証言しました。このようにして、彼は、律法に熱心で、どんなに名門に生まれても、人は救われないことを証ししたのです。彼は、恥はわがもの、栄光は主のものという信仰に徹していたのです。
ところで、キリストの大いなる救いに与かるという信仰は、私たちの希望であり、「いつでも弁明できるように備えて」いる必要があります(1ペトロ3章15~16節)。このような弁明こそが、人の目と心を開くのです。

危機に際して(2013.8.4)

宣教題  : 「危機に際して」   宣教:   川原﨑 晃 牧師 聖    書  : 使徒言行録21章27~36節 2コリント1章9節 主なる神が用意されている危機は、危険(ピンチ)と好機(チャンス)が織り成される時です。主は決して、ピンチをお与えになるだけではなく、その裏側には必ずチャンスを用意されています。主と共に歩む者が経験する危機は、何を明らかにするでしょうか。 1.主は御計画を遂行される パウロは、死を迎えてもおかしくなかったという経験を何度かしています。この度もその一つに数えられます。アジア州のエフェソから来たユダヤ人は、パウロが死罪に値する重大な宗教的罪を犯していると訴え、全群衆を扇動してパウロを捕らえて境内から引きずり出したのです(27~30節)。そして、民衆がパウロを殺そうとしていた時、エルサレムを支配していたローマの千人隊長はパウロの身柄を確保させ、兵営でエルサレムが混乱状態に陥った真相をつかむために連行させたのでした(31~34節)。こうしてパウロは、危機一髪のところで窮地から助けられたのです。その背後には、パウロを通して主が福音宣教を進められる御計画があったのです。 私たちの信仰生活には、窮地に追い込まれて万事休すと思えることがあります。そうした中において主の助けがあるのは、主の御業が進められるという御計画があるからです。 2.復活の主の助けがある  ここに見るパウロの受難は、26章まで続きます。その有り様はエルサレムにおける主イエスの御受難と並行しています(36節、ルカ23章18節)。パウロは、アジア州のエフェソにおいても自分の命の危険を感じる苦難の中を通され(19章)、それは生ける望みを失うほどで、死の宣告を受けた思いをもったことでした。そのように、彼は一方で万事休すではないかとの恐れと、他方で死から復活された主イエスが共にいて助けてくださるという神への信頼が交錯する中で、神に望みを置いたのです(2コリント1章8~10節)。 全てを御支配しておられる私たちの主は、私たちが危機感を抱く時であっても、それを喜祈感に変わらせてくださるのです(1テサロニケ5章16~18節)。

あなたをたずねる客(2013.7.28)

宣教題  : 「あなたをたずねる客」   宣教:   池口 留都 伝道師
聖   書  : ルカ19章1~10節

1.ことのはじまり:イエス様を見ようとしたザアカイ
ザアカイは、徴税人の頭でした。当時の社会では、神様に逆らう「罪深い男」です。そんなザアカイが、イエス様がどんな方か見ようと求めて行動した。これがことのはじまりです。

2.転機:ザアカイをたずねられたイエス様
すると、驚くべきことが起こりました。イエス様は、人々には見捨てられたザアカイに顔を向け、目を留めて呼び、たずねられたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えましたが、これを見た群衆はつぶやきました。
自分が正しい人間だとうぬぼれて、自分の正しさを主張する人と、自分は罪人だと自覚して、神の憐れみを求める人。神様が受け入れられるのは、憐れみを求めて近づく罪人です(ルカ18:9~14)。群衆は前者、ザアカイは後者でした。
ザアカイは、ありのままの自分をたずね、受け入れてくださったイエス様の愛に心溶かされ、悔い改めました。イエス様がたずねてくださった。これがザアカイの転機です。彼は新しいスタートを切りました。

3.さらに先立っていたはじまり:神様とアブラハムとの契約
ザアカイに対するイエス様の愛は、さらに先立っていました。神様がこの世界を造られた時から、ザアカイは選ばれ、愛されていました。神様は、罪と悩みと苦しみ、孤独の中にさまよう人類をあわれみ、救い出すため、ご自分を人類に結びつけられたのです(創世記12:1-3、15)。失われた人をご自分のもとに立ち返らせ、命と喜びと希望を与えるためです。その頂点が、イエス・キリストの十字架です。
『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』これは、ザアカイに起こった出来事であり、今日、私たちにも起こる出来事です。今日、イエス様をお迎えしましょう。そして、イエス様を見続けましょう。

キリストに従う祝福(2013.7.21)

宣教題  : 「キリストに従う祝福」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章27~32節
私たちの教団と諸教会は、主なる神がキリストに従う弟子たちと同行してくださった中を歩んできました(出エジプト33章14節)。これこそが、これからも変わらない私たちの立ち位置です。レビと同じように、キリストに従い続けることは、祝福された歩みが造られていきます。

1.キリストが招かれる  27節
主イエスは、慈しみの心をもって徴税人のレビをごらんになられました。当時、徴税人は、ユダヤ人からは神に呪われた罪人と同じように見なされていました。主イエスは、レビが収税所にいるその場で「わたしに従いなさい」と、そのままを受け入れて招かれたのです。
主イエスは、レビに対するのと同じように、私たちを招いていてくださいます。

2.キリストの招きに応える  28節~29節a
「わたしに従いなさい」と、説明も条件もついていません。レビには、少なくとも罪人を招くために来てくださった主イエスに対する強い信頼がありました。そこで、座り続けていた収税所の席から立ち上がって、「イエスに従った」のです。
また、何もかも捨てたレビが、大盤振る舞いをしています。これは、献げることについて示唆を与えています。何もかも捨てて主イエスに従うことは、自分が持っている財・才能・時間・賜物・生涯などを「イエスのために」用いさせていただくことなのです。

3.キリストを紹介する  29節b~32節
こうして、レビは、自分の持っているものを最大限に用いて、主イエスの紹介に努めました。彼は、主イエスと同じ心で、自分と共に生きる人々を見直し、主イエスに招いていただいたように、彼らを招いたのです。
福音は、一番身近な所から伝わっていきます。そのためには、私たちが「イエスのために」生きるように変えられていることが大切です。

罪の赦しの福音(2013.7.14)

宣教題  : 「罪の赦しの福音」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章17~26節
主イエスのご来臨の目的は、「神の国の福音を告げ知らせ」ることでした(4章43節)。ここでは、主イエスが中風の人をいやされたことを通して、福音とは何かを明らかにされています。福音とは、「人よ、あなたの罪は赦された」とあるように、罪の赦しであることを宣言されたのです。

1.福音は「求めるもの」に与えられる
中風の人と彼を運んできた男たちは、主イエスに切なる求めをしています。彼らは、様々な障害を乗り越える勇気と熱心さとを持ち合わせていました。さらに、彼らが、主イエスが与えてくださるものを受け入れ、主イエスのもとに飛び込んでいくほどの信頼を抱いています。「イエスはその信仰を見て」おられたのです。
そうした中にあって、群衆や家の主人は、この突然の予期しない出来事によって自分たちの願いが中断されても、また犠牲を強いられても、中風の人に協力しています。
私たちは、福音を求めるものであり、それに与かろうとする人たちのために協力するものでありたいと願います。

2.福音は「キリストによって」与えられる
神の祝福の根本は、人が罪を赦されることを通して神と和解し、神との交わりに入れられることです。
ところで、聖書が言う罪は、神を欺き、神を悲しませることです。この罪を自覚するならば、主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」との宣言を受け入れることができるのです。主イエスは、罪の赦しを十字架で完成するので、それを受け取ってほしいと願っておられるのです。
福音は、私たちを前向きにさせます。主イエスの十字架によって罪の赦しが完成されていると信ずるからです。身が震える思いで、過去に決別し、喜びをもって立ち上がらせていただきましょう。

自由と愛(2013.7.7)

宣教題  : 「自由と愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 使徒言行録21章17~26節 1コリント9章23節
パウロは、いかなる時にもキリストを中心に置いて、ぶれない生き方をしました。そのパウロが、福音にあずかって真に自由な者とされ、かつ福音に共にあずかるためには、その自由が制約されてもキリストの愛に生きることを選んだのです。

1.福音にあずかる
パウロ一行はエルサレムに到着したとき、教会の人々の歓迎を受け、教会代表のヤコブや長老たちに挨拶をしました。そして、パウロを通して福音が異邦人に届けられたことの報告をするなかで、同行してきた異邦人教会の代表者を紹介し、献金がささげられた経緯や趣旨を語りつつそれを手渡したと思われます(17~19節)。この時パウロは、それらは「神が」なされた神の業であることを謙虚に証ししています。ここに、福音によって自由とされた者の生き方があります。
キリストの十字架と復活によって、私たちは永遠の滅びから永遠の救いにあずかることができたのです。この福音にあずかった者は、罪と死に支配されない自由な生き方をするようになるのです。

2.福音に共にあずかる
エルサレム教会の人々は報告を聞いて「神を賛美」しました。続いて彼らは、教会内にパウロを誤解して受け取っているユダヤ人信徒がいることを伝えつつ、その誤解を解くための対応策と(23~24節)、かつてのエルサレム教会会議で決定したことを守るべきことを提案しました(25節)。パウロは、異議を唱えることなく、間違えば命を奪われかねない危険な提案を受け入れたのです(26節)。彼をしてそうさせたのは、自由を制約されても、敵対する同胞を愛する愛からでした。愛のゆえに同化したのです。
パウロは、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と証ししています(1コリント9章19~20節、23節)。私たちは、福音に共にあずかるために、祈りを、奉仕を、献金をもって神にささげる生き方をするのです。

キリストの願い(2013.6.30)

宣教題  : 「キリストの願い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章12~16節
この聖書箇所には、二つの願いが明らかにされています。人の願いと(12節)キリストの願い(13節)です。「御心ならば」、「よろしい(わたしの心だ)」は、その意志や願いを表わしています。人の願いが、キリストの願いと一つになる時に、神の御業がなされます(2コリント5章20節)。

1.人の願い
「全身重い皮膚病にかかった人」は、主イエスの御前にひれ伏しています。この謙る姿勢は、真実かつ真に勇気ある姿です。しかも主イエスがなされることを期待しつつ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、自分の願いを切実に祈り願っています。彼の願いは、主イエスに委ねつつも、筋の通った嘆願の祈りだったのです。
私たちは、祈り願っても現実が変わらない時、いつしか嘆願の祈りをしなくなるということがあります。そうした時にこそ、主の恵みのご支配があることを信じて、主の御心を伺いつつ、真実に祈り願う歩みであり続けたいものです。

2.キリストの願い
主イエスは、この人の願いをそのまま受け入れてくださいました。彼に触れることにより一体となられ、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。主イエスは、彼を憐れみ(マルコ1章41節)、彼の痛みを御自分の身に背負って、癒してくださったのです(イザヤ53章4節)。このようにして、彼は、神に受け入れられて神のものとされることにより神との関係が回復され、自立した生活を送ることによって社会での生きる道が開かれました。これがキリストの願いでした。
キリストが全ての人のために願っておられることは、主イエスの十字架と復活によって罪赦されて神との和解をいただき、神のために生きるとともに、他者のために生きる自立した者となることです。そこからは、人間相互の関係の回復も生まれてきます。