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新約聖書

憐れみに生きる(2014.3.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章27~38節

私たちは、父なる神の憐れみによって、人の痛みを自分の痛みとするという「憐れみ深い者」とされて生きていくように召されています(36節)。そのような私たちに、主イエスは、敵を愛して祝福を祈り、人を裁かないで赦しに生きるように求めておられます。

1.生きることは、愛すること  27~34節
先に、主イエスが幸いと不幸について語られたように(20~26節)、信仰を持って生きるとき、当然、信仰を持たないで生きることとは違った生き方にな ります。その際に、私たちは、信仰を持たないで生きている人たちを見返すかのような心になってしまいがちです。「しかし」主イエスは、それをお赦しになり ませんでした。主イエスは、信仰に生きることができない人々の不幸をはっきりと指摘しつつ、そうであるからこそ、人を愛し、親切にし、祝福を祈るように命 じられたのです(27~28節)。
主イエスは、日々の生活において、神のものとされた者の本来の生き方を生き抜くように問いかけておられます(29~34節)。私たちは、自分の力を過信 して、このように生きることはできません。主イエスに対する信仰に立ってこそ、愛する生き方をさせていただくのです。

2.愛することは、愛されていること  35~38節
愛することができないところには、裁きがあり、赦しがなく、与えたら取り戻そうとしたり、自分の量りでしか物事が量れなかったりします(37~38 節)。私たちは、このように主イエスが語られたことと自らの現実の前に、その罪の姿に立ちすくみます。そして、「あなたがたは敵を愛しなさい」(35節) と言われることに逆らっている自分自身を認めざるをえません。
「しかし」、主イエスは、そのような私たちを憐れみ、十字架の贖いの死を成しとげてくださり愛を現してくださったのです。私たちは、主イエスの愛に心か ら屈服し、降伏するしかありません。この主イエスと信仰によって一つにされるとき、「いと高き方の子」としていただき、憐れみ深い者とされるのです (35~36節)。

人知を越えた神の導き(2014.3.2)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録23章12~35節 イザヤ書55章11節

私たちは、主イエスとその御言葉に信頼し続けることにより、神の導きの中を歩ませていただくのです。ここでは、パウロ殺害の陰謀と露見とカイサリアへの護送という出来事の中に、人知を越えたとしか言いようのない神の導きを証言しています。

1.神の導きの不思議さ
ユダヤ人によるパウロの暗殺計画が実行されようとしました(12~15節)。これがそのまま放っておかれたなら、パウロによるローマでの伝道ができなく なるという危機を迎えたのです。「しかし」、そのことを聞きこんだパウロの甥によって、その情報がパウロに伝えられ、そのことがローマの千人隊長にも知ら されることとなったのです。千人隊長には、ローマの市民権を有するパウロの権利を守り保護する義務がありました(17~22節)。すかさず、千人隊長は、 万全の策を講じてパウロをローマ総督のもとに護送するようにしたのでした(23~35節)。こうした中にも、パウロは切迫した情況の中で、冷静な信仰的総 合判断をしたのでした。
神の救いの歴史を導いておられる神が、ご自身の計画を実現するために、パウロの甥や千人隊長を用いられたことに、不思議さを覚えます。神の時に、神の方法で、神の人を用いられるのです。私たち一人一人も、そうした神の人なのです。

2.神の導きの確かさ
こうした神の導きの背後には、先にパウロに語られた復活の主イエスの御言葉が゜働いていました(11節)。その導きは、復活された主イエスが共におられるという確かさであり、導きの時は確かであり、導きそのものに誤りはないという確かさです。
このことは、イザヤ書に語られている神の約束の御言葉にあるように(55章11節)、神は、苦難の中にあっては特別の支えをもって、試練の中にあっては希望を与えて導き、その使命を果たさせてくださるのです。
私たちの中に、神の導きを必要としない人は、一人もありません。また、教会も世界の全体も、神の導きを必要としています。神は、人知を越えた不思議な導きを、御言葉に立った確かな導きを与えてくださいます。皆が、それに従えますように。

確かな絆(2014.2.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ15章1~10節

人は、生活や社会の矛盾と苦しみに耐えながら、自分の居場所、心の絆、活躍の機会を探し求めています。それは、確かな愛、確かな繋がり、確かなことをやり 遂げたいと求める人の姿です。主イエスは、「人がわたしにつながって」いるならば、それによって主イエスの豊かな命に生きる者となると語られました(5 節)。

1.主イエスの御言葉にとどまることによって  7節
二人の弟子が、悲しみと失望の中をエルサレムからエマオに向かって歩いていました。復活された主イエスは、彼らに近づいてこられて、聖書全体から福音を 語りつつ一緒に歩かれたのです。夕方になって、二人は主イエスに「一緒にお泊まりください」と呼びとめます。そこでの食事の最中、彼らは目が開けて、とど まってくださった方が主イエスであると初めて気づいたのでした(ルカ24章13~31節)。
ところで、私たちが、弟子たちのように主イエスにとどまってくださいと願う以上に、主イエスが私たちにとどまり、御言葉にとどまり続けるように招いてお られます(5節、7節)。主イエスは、私たちとの命の繋がりを永遠まで持ち続けてくださるお方です。ですから、私たちは、主イエスの御言葉に信頼すること です。

2.主イエスの愛にとどまることによって 9節
主イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちに向き合ってくださいます。この愛の出会いが最も明らかにされたのは、主イエスの十字架と復活においてでした。この出来事によって、私たちは、抱えている罪と死とから解き放っていただくことができるのです。
そして、私たちは、主イエスとその愛にとどまり続けるときに、神を愛する、人を愛する、教会を愛する愛の実を結ばせていただけるのです。私たちの内にそうする力はないのです。
また、私たちは、主イエスとその御言葉と愛にとどまり続けることによって、互いの間にも確かな絆を築くことができるようになります。天の御国を目指して、主イエスに繋がる信仰の一歩を踏み出させていただきましょう。

祝福の言葉に満ちて(2014.2.16)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ6章20~26節

聖書がいう「幸いである」とは、一瞬のつかの間の幸いではなくて、いつまでも続いている幸いであり、祝福されている状態を表しています。それは、主イエスの口から出た祝福の言葉によって明らかにされています。

1.新しい祝福の言葉を明示する
ここで語られていることは、弟子たちが望んでいたこととは大きく違っていました。それは、この世の価値観とかけ離れており、人間が思い描く在り方とは大 きな隔たりがあります。うずくまるように神だけに全信頼を置いている「貧しい人々は」、神の恵みの支配の中に生かされるのです。神を慕って、愛に「飢えて いる人々は」、神によってのみ満たしていただくのです。自らの真相に「泣いている人々は」、神の救いに与る喜びを知るのです(20~23節)。
このように主イエスが明らかにされた新しい祝福の言葉によって、私たちは、物質的・表面的な尺度による生き方から解放されて、不変的・永遠的な尺度によ る生き方に変えられていくのです。それは、主イエスに結ばれていることによって、死と終わりを直視しながら知る幸いです(ヨハネの黙示録14章13節)。

2.確かな祝福の言葉を告知する
主イエスの祝福の言葉は確かなものです。それは、もともと私たちの内にあるものではなく、語り主であるイエスにあるものです。私たちの内には、喜ぶもの、満足しうるものを持ち合わせていないのです。そして、私たちの口が祝福をもたらす力を持っていないのです。
ところで、私たちは、主イエスの祝福の言葉の取り次ぎ役です。従って、主イエスに仕え、教会に仕え、人に仕える者は、主の祝福の言葉を取り次ぐために仕えているのです。
そのように、確かな祝福の言葉が私たちに告げられているのですから、拒むことなく、受け入れる者となりましょう。また、確かな祝福の言葉が告げられ続けているのですから、いかなる時にあっても、その祝福の中を歩み続けましょう。

勇気ある日々(2014.2.2)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : 使徒言行録23章6~11節

キリストは、十字架の受難を前にして、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい」(ヨハネ16章33節)と語られ、また宣教の前進を命じられるなかから、パ ウロに「勇気を出せ」と語っておられます(使徒言行録23章11節)。キリストは、今日の私たちにもキリストを信頼し続けて生きる勇気を必要としておられ ます。

1.苦難の中にあって
キリストは、私たちに「世で苦難」を経験することを避けるようにとは言われませんでした(ヨハネ16章33節)。その苦難には、試練があり、嘆きもあり、闘いもあるでしょう。それによって、キリストのものとされた信仰者が、整えられ、造り上げられるのです。
同様に、教会も苦難を経験することによって前進してきました。パウロは、キリストを証しすることが最も難しいと思われたユダヤの最高法院の議員たちに対 して、キリストが救い主であることを証しするチャンスを与えられました。しかも、彼は不思議な方法で、危機一髪のところで助け出されました(使徒言行録 23章6~10節)。伝道の画期的な展開は、迫害などの危機の中で推進されていくのです。

2.主の勝利に与る
私たちは、世にある苦難にあっても、キリストの十字架と復活によって明らかにされた究極的な勝利に与っています(ヨハネ16章33節)。それは、私たち の罪と死という最大の敵に対する勝利です。従って、勇気を出すとは、このキリストの勝利に信仰によって与ることなのです。
さて、パウロは、願っていた通りに最高法院においてキリストを証しできたことにより元気づけられました。にもかかわらず、その夜、勝利の主がパウロのそ ばに立たれて、エルサレムでと同じように、ローマでもキリストを力強く証しすることが必ずできると語られたのです。伝道の画期的な展開は、キリストの臨在 の確かさの中で推進されていくのです。私たちは、ただキリストに信頼し(マタイ14章27節)、勇気ある日々を歩ませていただくのです。

 

わたしの平安(2014.1.26)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ14章27~31節

キリストは、十字架にお架かりになられる直前に、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と語られました。それは、今の私たちとってどういう意味があるのでしょうか。

1.キリストの遺産、それは平安
人の内側に平安があるとき、外側に平和となって表れてきます。しかし、人の内に恐れや怒りや妬み憎しみといったものがあると、争いや破壊といったものが 生まれてきます。平和であるように、平安があるようにとあいさつを交わし合う間柄においてすら、対立や抗争が続いている有り様です。個人的な関係も国家間 などの関係も根っこにおいては同じなのです。
キリストは、そんな私たちに、この世が与えるものとは違う、いやこの世は与えることができ得ない、キリストのみが与え得ることのできる遺産として「平 安」を残していくと言われたのです。十字架にお架かりくださり、三日目に復活されたキリストが、今も生きておられて、私たちに平安を与えられるのです。

2.平安、それはキリストの平安
キリストは、平安についての説明や希望を述べられたのではありません。十字架の死を目前にした極限状態の中にあって、なお持ち続けることができたキリス トの平安です。それは、ご自分の生き方が父なる神の御心にかなっているとの確信があられたゆえに(31節)、世の力である悪魔の力の支配下にはおられな かったゆえに(30節)、いかなる時にも信頼できる父なる神を知っておられたゆえに(28節c)、十字架の死はキリストにとって「父のもとに行く」ことに ほかならないことを知っておられたゆえに(28節b)、持っておられた平安です。
私たちは、キリストがお持ちであった平安を持っていません。キリストが「わたしの平和」と言われるものをいただく以外にないのです。十字架に死んで復活 されたキリストをまるごと信じ受け入れることによって、キリストの平安をそっくりそのまま「わたしの平安」とすることができるのです。

豊かに実を結ぶ(2014.1.19)

宣教:仁科 共子姉
聖書:ヨハネ15章1~12節

イエスさまは、ご自分をぶどうの木に、父なる神さまを農夫にたとえて、父なる神さまやイエスさまと私たちの関係、私たちの使命について教えておられます。

1.枝としてつながっていること
私たちは、木であるイエスさまに枝としてつながっている存在です。
つながっている関係は、本当に近い関係です。新改訳聖書は、「とどまりなさい」と訳しています。それは、一体となっている本当に親密な関係です。枝とし てしっかりイエスさまにつながり、その命によって生かされているとき、実が結ばれていくのです。それは、枝の努力によるものではありません。

2.実を結ぶ
実はその木によって生るものですが、実を結ぶことは、枝の果たすべき役割です。実を結ぶためには、木につながっていればよいのです。そうすれば、豊かに実を結ぶことができます。
枝だけでは実を結ぶことができないように、イエスさまから離れていては、私たちは何もできません(5節)。枝のようにイエスさまという木につながって生きていくとき、実を豊かに結ぶ生活を送ることができるのです。

3.父なる神さまが栄光をお受けになる
農夫が手入れし、世話をしたぶどうの木が豊かに実を結ぶとき、農夫の功績が讃えられます。そのように、イエスさまの枝である私たちに豊かな実が結ばれるとき、父なる神さまが栄光をお受けになるのです。
私たちが、枝として実を結ぶことが最終目標ではありません。豊かに結ばれた実によって、それを世話した農夫である父なる神さまの素晴らしさが現され、あがめられることです。
イエスさまにしっかりとつながり、豊かに実を結ばせていただいて、神さまが栄光をお受けになるような枝として日々歩ませていただきましょう。

家族を越えて(2014.1.5)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:マルコ3章31~35節 創世記26章23~25節

祝福の源である家族となるためには、イエス・キリストを家族の主としてお迎えすることが大切です。ここでは、主イエスとその家族との間に溝が生まれていることが語られていますが、何が真に祝福された家族であるかを問いかけているのです。

1.家族には限界がある
主イエスの母と兄弟たち家族は、「外に立」っています(31節、32節)。それに対して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(34節)とある 「ここに」とは、「イエスの周りに座っている」人々です(32節、34節)。「座っている」とは、そうすることで主イエスの御言葉に耳を傾けていたのです (ルカ10章42節参照)。ここに、主イエスは、深くて高い新しい家族の交わりがつくられているのを見ておられました(34~35節)。
このようにして、主イエスは、人がつくりだしている家族は究極的なものではないことを明らかにされたのでした。そうすることによって、家族には限界があることを教えておられるのです。

2.神の家族となる
それでは、私たちは、限界ある家族を越えてどこに向かっていけばよいのでしょうか。そこで主イエスは、神の御心を行う家族となることを勧めておられます (34~35節)。神の御心とは、家族の限界を知りつつ、神のあわれみ、神の赦しをいただいて、神のものとされていくことです。具体的には、親の立場、子 の立場、祖父母の立場、嫁や姑の立場で、家族を絶対化しないことです。また、家族に破れがあったとしても、主イエスとの絆で結ばれることの大切さを示し続 けることです。
そのことを証しした聖書人物の一人が、アブラハムの子イサクでした(創世記26章23~25節)。イサクは、アブラハムに示された神の祝福の約束を再確 認して、まず祭壇を築いて礼拝し、次に天幕を張って家族の生活を整え、そして井戸を掘って生活の糧を得たのです。この順序は、神の祝福を受け継いでいくた めに大切な信仰の応答です。神の御心を行う神の家族は、今も変わらずに私たちに求められています。

家族に祝福を(2014.1.1)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録16章31節

今年、私たちの教会は、「祝福の源である家族」を標語に進んでいくように導かれています。私たちは、世界の礎である家族に祝福がもたらされるために、何を大切にしなければならないのでしょうか。

1.家族の大切さ
天地創造、世界の起源、創造の冠として人間を造られたことなど、壮大なスケールから始まる創世記が、その本論に入るとアブラハム家の物語に絞られ、その後の家族が全世界に祝福を及ぼす源となっていったことを語っています(創世記18章19節)。
また、主イエスは、家族を重く見ておられました。その十字架上で、母であるマリアのために配慮された事実にも(ヨハネ19章26~27節)、それを知るこ とができます。そして、パウロは、家族を顧みることの大切さを語っています(1テモテ5章8節)。聖書は意外なまでに家族を大切にしています。
私たちは、家族を大切にして、具体的にどのように家庭を作っているか、また作ろうとしているかが問われています。

2.家族が主の救いに与る大切さ
神の祝福の源である家族であるためには、主の救いに与り、天の喜びに息づく家族に変えられることが大切です。
人類は、その祖であるアダムとエバが神に背いたことによって、神の祝福を失いました。今もなお家族や家庭に見られる混乱や乱れのルーツは、ここにありま す。神の救いの御計画は、神と人との関係の回復だけではなく、それを起点とした人と人との回復、家族の救いを意図しておられます。
フィリピにあった牢の看守一家が、主イエスを信じ、全員洗礼を受けて、喜び溢れる家族になりました(使徒言行録16章16~34節)。彼らは、主イエスに人生の土台を置いて、主に信頼する歩みを始めたのです。
一人の人の救いの祝福は、その家族に及んでいく始まりとなります。私たちの一人一人と家族の「主」が、イエス・キリストなるように祈り願いましょう。

祝福の時と場(2013.12.29)

宣教題  : 「祝福の時と場」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 1テモテ 1章12〜17節

パウロは、自らの信仰の歩みを振り返りつつ、主イエスの恵みに対して深い感謝をしています(12節a)。それは、主の憐れみによって、自分が造り変えられ、造り変えられ続けている祝福の時と場を感謝しているのです。祝福の時と場とは、私たちにとってどのようなことなのでしょうか。

1.憐れみに与った時と場
主イエスは、罪人を救うために、世にまで来てくださいました(15節a)。パウロは、キリスト教撲滅運動の中心人物で、キリスト教会を潰し回った罪人でした(13節a)。しかし、主はそんなパウロを「憐れみ」、ご自身の救いに与らせてくださいました。
神は、パウロが「信じていないときに知らずに行った」ということも、罪は罪として死によって罰せられます。しかし、そうした知らないで行ったことも、主イエスの十字架による贖いによって赦しを与えていてくださるのです(ルカ23章34節)。それこそが、確かな十字架経験です。何という主の憐れみでしょう。
私たちは、この主の憐れみに与った時と場を忘れないようにすることが大切です。

2.憐れみを深く知る時と場
パウロに対する主イエスの恵みは変わることなく、それに信仰と愛が加わって強い確信に至っています(14節)。しかも、彼は、忠実な主の仕え人として主の働きに加わるものとされました(12節b)。そうした中にあっても、彼は、「わたしは、罪人の中で最たる者」との深まりゆく罪意識がありました。彼は、そんな自分を主が「憐れみ」続けていてくださることを深く知る経験をしていったのです。そして、彼は、主の憐れみと忍耐のゆえに、永遠の命に与る者とされる見本であることを告白し続けています(16節)。
私たちは、その信仰の歩みや姿勢また奉仕において、徹底して主の憐れみの見本であることを知って、いつも感謝したいものです。私たちは、主の憐れみなくして生きられないゆえに、主を讃えるのです(17節)。

新しい歩み(2013.12.22)

宣教題  : 「新しい歩み」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトス 3章4〜7節

クリスマスは、私たちが生みだしたのではなく、神の慈しみと人間に対する神の愛の現れとしての神の御業です(4節)。
そして、クリスマスは、聖霊による新しい命の奇跡的な誕生でした(マタイ1章18節、20節、ルカ1章35節)。聖霊による新しい奇跡的な御業は、私たちに新しい歩みを造り出してくださいます(5節)。

1.新しく生まれる
人は、過去の罪の支配から解き放たれ、現在の自分自身が新しくされ、将来において死を超えた新しい命に生きることを求めています。そのような私たちに、「聖霊によって新しく生まれる」救いの道が開かれています(5節、ヨハネ3章3節、5節)。それは、神の慈しみと憐れみと愛を源として、イエス・キリストの十字架と復活に現わされた神の救いの恵みを信じる信仰によって得られるものなのです。ここには、人を滅びの力、悪しき力、死の力のなすがままにさせない神の強い御意志が込められています。
クリスマスは、新しく生まれることを喜びをもって確認し、確信し、信仰による決断を強めていただく時なのです。

2.新たに造りかえられていく 
このように、新しく生まれた者は、聖霊によって「新たに造りかえ」られていくのです(5節)。それは、聖霊によって繰り返し新たに造りかえられていくことです。それは、私たちが主によって死を超えた永遠の命を受け継ぐまで続けられることです(6~7節)。
聖霊は、私たちにそのことを繰り返し呼び覚ましてくださいます。その時に、私たちは、神に祈りつつ、神からの語りかけを聴いて対話をし、神と格闘しつつ、神を信頼する中から、「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1章38節)と、神に自らを委ねることを繰り返すのです。
私たちは、繰り返し繰り返し新たに造りかえられていくことによって、日々クリスマスの御業に与っていくのです。

ちいさなちいさなクリスマス(2013.12.15)

宣教題  :「ちいさなちいさなクリスマス」    宣教:鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカ 2章10〜12節

「大山鳴動して鼠一匹」。日本のクリスマスはこのことわざに近いかも知れない。

1.クリスマスに起こった小さな出来事
クリスマスに関する出来事の中でも、主のみ使いの登場や博士たちの宝といったきらびやかなことばかりに目がとまる。けれども、クリスマスの中心は一人の男の子の誕生である。母親に授乳されなければ生きていけない一人の男の子の誕生である。大きな喜びだ、と言われた羊飼いたちが見出したのは、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(2:12)にすぎない。どこにでも起こりそうな、小さな事しか起こらなかった。大きな喜び、といわれても現実感がない。だから、それに見向きをしようともしない。

2.小さな事が大きくなる
イエスは「からし種のたとえ」(13:18−19)を語っている。小さな種が、植えられ、育てられた時、鳥が枝に巣を作ることができるくらいの木に成長した、という話である。クリスマスの出来事はからし種のように小さいけれども、やがて、驚くほど大きな何かを生み出す。「民全体のためのすばらしい喜び」(2:10)を生み出す。クリスマスにこの種は植えられ、礼拝に集っているあなたのうちにもこの種は植えられている。

3.期待して待つ
もちろん、小さな種が大きな木になるまでには時間がかかる。イエスの生涯もそうである。クリスマスから30年ほど過ぎたときに、十字架と復活によってイエスの生涯はクライマックスを迎えた。そこで生み出されたのは、弟子たちの小さな群に過ぎなかった。しかし、そんな小さな変化がやがてうねりのような大きな変化となった。そして、神のご支配が世界中へと広がっていった。
イエスは私たちのうちにわざを始めて下さっている。それはあまりにも当たり前で、どこにでもあるようで、気づかないほどの小さな変化かもしれない。すぐに実現する、派手な出来事ばかりを追い求めているならば、そんなイエスのわざを見過ごしてしまう。しかし、小さな変化に気づき、私たちのうちでそれが大きくなるのを待つことが、クリスマスのほんとうの意義を知る者の生き方である。小さな種が大きな木になるのを期待して待つような信仰に生きる者たちに対して、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」のみことばは、真実となる。

時を生かし用いよ(2013.12.8)

宣教題  :「時を生かし用いよ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テモテへの手紙二 4章1~5節

私たちは、将来において、主イエスが「出現」される再臨を待ち望んでいます(1節)。この再臨待望信仰に生きる私たちに主が命じられていることは、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」です(2節)。私たちは、主の再臨に備えつつ、今の時を生かして用いることが大切なのです(エペソ5章16節)。

1.時を生かして  1~2節
「折」とは、ただ漠然と続いていく時というのではなくて、内容のある、人の人生において欠くことのできない危機的な時ということです。それは、神の救いがもたらされる恵みの時です。その時を買い占めるように自分のものとするかしないかによって、人の人生が決まってきます。
私たちは、再臨の主イエスを思いつつ、今の自分の在り方や生き方を捉え直して、進むべき道を確認し、また改める決断をしたいものです。それは、受胎告知を受けた主の母マリアが、神の御言葉どおりに神の御計画が自分の身に成るように、大胆に決断したことに通じるものです(ルカ1章38節)。彼女は、神の時を生かしたのです。

2.時を用いる  2~5節
主イエスの出現に思いを集中することから生まれてくるものは、「御言葉を宣べ伝えなさい」と命じられることに忠実であることです。御言葉とは、聖書に証言されている福音であり、その中味はイエス・キリストのことです。
御言葉を宣べ伝えるとは、御言葉によって養われて生かされている自分自身を(2テモテ3章16節)、そのまま他者に提供し差し出すときに、自分の内に生きている御言葉の力が他者にも伝わるということです。その時、御言葉は大きな実を結ぶのです。ただ、私たちは、「忍耐強く」寛容な心で、他者に向かうことが大切です。
あらゆる時を用いて、私たちが御言葉を宣べ伝えることを可能にしてくださるのは、神ご自身です(ルカ1章37節)。

大いなる救い(2013.12.1)

宣教題  : 「大いなる救い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : テトスへの手紙 2章11~15節
教会では、待降節のことをアドベントと呼んでいます。アドベントには、神の独り子イエスの降誕の出来事を表す場合と、主イエスの再臨を表す場合とがあります。このことを、ここでは「現れ」と表現しています(11節、13節)。
私たちは、主イエスの初臨と再臨の間に生きる者として、日々に信仰の応答をしつつ生きることが求められています。

1.すべての人への神の恵み 11節
神の救いは、「すべての人に」等しく差し出されたのであり、それを受け取ることに一人の例外もありません。それは、人の世に存在する様々な相違をもたらすものとは違って、すべての人に届けられた神の恵みです。
世界で最初のクリスマスの喜びの知らせは、主の天使によって羊飼いたちにもたらされました(ルカ2章8~11節)。そこでは、「民全体に」「今日」「あなたがたのために」と告げられています。このメッセージは、今の私たち一人一人に対しても同様に告げられている神の恵みです。この神の恵みは、自分には必要ない、自分には関係ないと退けるならば、それは神の愛を拒絶することなのです。

2.完全な永遠の救い 12~14節
「救い」という言葉が、二度繰り返されています(11節、13節)。ここでいう救いとは、神と人との歪みや破れが回復される神の救いを語っています。すなわち、主イエスが十字架に死んで復活してくださったことによって、私たちを罪と汚れから「贖い出し」(14節)、聖別された神のものとしての歩みにしてくださるのです(12節)。そして、私たちが、主イエスが再臨される時にあずかる完全な永遠の救いを首を長くして待ち望みつつ、日々に「良い行いに熱心な民」(14節)にしていただくのです。
私たちの日常は、主イエスの再臨に備える日々であることが大切です。主イエスによって、永遠の滅びから永遠の救いに与っていることを感謝して、良い行いに熱心で、ささげる生き方をさせていただきましょう(マルコ14章6節)。

確かな道しるべ(2013.11.24)

宣教題  : 「確かな道しるべ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ 14章1~6節

私たちは、喜びや楽しみ、また憂いや悲しみや不安を経験します。しかし、主イエスは、如何なる時であっても、私たちの人生の「確かな道しるべ」となってくださる神であり、自らが「道」となってくださいました。

1.見失っている確かな道 
主イエスが、「心を騒がせるな」と弟子たちに語られたのは、死に直面しておられた時のことでした。それを予感していた弟子たちは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(13章36節、14章5節)と不安な気持ちを述べています。
このように、心が騒ぎ不安になるのは、主の弟子たちだけではなく、私たちも同様です。その一番の原因は、揺るがない、確かな道を見失っているからです。この確かな道は、最初から私たちが持っているものではなく、人の知恵や努力で知ることができるものでもありません。ただ、神から知らされ、主イエスご自身が「道」となってくださったことによって得ることができるのです(6節)。

2.備えられている確かな道
私たちが最も不安を抱くのは、死に対してではないでしょうか。それは、私たちを八方塞がりにさせます。その行き詰まりを打ち破って、永遠に「住む所」を備えてくださっているのが、主イエスです。主イエスは、その所を「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)と言われているように、主の弟子たちだけではなく、私たちのためにも、すでに備えられているのです。
そして、主イエスは、そこに導かれるための道を備え、ご自身がその道そのものとなられたのです(3節、6節)。それは、主イエスが十字架に踏みつけられて死んでくださり、その死から復活されたことによって開かれた永遠の救いの道です。私たちがしなければならないことは、このイエスを信じ受け入れ(1節)、主イエスとその愛にとどまり続けることです(15章5節、9節)。