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新約聖書

闇から光に(2014.9.28)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ヨハネ20章1~10節 エフェソ5章8節

人間は、生活や社会を明るくしようとして、様々な努力をしてきました。しかし、そのことが人の心の闇まで追いはらうことはできませんでした。人々の心は、暗さがますます深まっています。こうした闇を抱える私たちに、キリストは光となって照らし続けていてくださいます。

1.神ぬきの人生の闇から光に ヨハネ6章16~21節
ガリラヤ湖を舟で渡ろうとしていた弟子たちは、途中で強い風に見舞われ、舟が沈みそうになりました。舟にキリストをお乗せしないで漕ぎ出したことと、周りが「既に暗くなっていた」(17節)という様子が分かります。
このことは、私たちが経験する神抜きの暗闇の人生を歩む姿を表しています。しかし、そのようなとき、キリストに心と人生に乗り込んでいただいて光の中を歩むことが大切なのです。

2.罪ある人生の闇から光に ヨハネ13章21~30節
イスカリオテのユダの裏切りの場面です。彼が最後の晩餐の席から外へ出たとき、それは「夜であった」(30節)とあります。人が裏切る心は、夜のような闇の状態であって、決して晴れやか心ではありません。
私たちは、神を裏切るという罪の暗闇の中を歩むことから、光の中を歩み出す必要があります。そのために、神が独り子イエス・キリストを十字架にお架けくださって救いの道を開いてくださったのです。

3.未来なき人生の闇から光に ヨハネ20章1~10節
マグダラのマリアがキリストが死んで葬られた墓にやって来たのは、「まだ暗いうちに」(1節)でした。これは、彼女の心が「死んだらおしまいだ」との絶望感におおわれ、その心が暗かったことを象徴しています。
キリストの復活がなかったら、私たちの未来に対する保証も、手がかりもないことになります。しかし、感謝すべきことは、キリストは事実復活されたのです。十字架に死んで復活されたキリストを信じて結び合わされ、「光の子として」歩み出しましょう(エフェソ5章8節)。

福音から生まれるもの(2014.9.22)

宣教題 「福音から生まれるもの」           宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 ヨシュア2章1~24節 ローマ1章5節

よい知らせは人を動かし、人を変える。聖書が語る福音は、神がなされた素晴らしいわざの知らせである。そして、このよい知らせから生まれるものがある。

1. 神の素晴らしいわざ
荒野を放浪していたイスラエルの民は、約束の地に入ろうとしていた。新しい地に進む前に、ヨシュアは二人の斥候をヨルダン川の向こうにあるエリコに送った。最初に攻めるであろう町と周辺の様子を探るためであった。斥候たちはエリコに侵入するが、捕らえられそうになる。しかし、遊女ラハブの機転により追っ手から守られる(1~7)。その後、ラハブは、彼らに自分たちが聞いたこと、そしてそれに対する人々とラハブ自身の反応を話す(8~11)。ラハブは、神が葦の海でエジプトの王ファラオを打ち破ったことと、その神の働きをイスラエルの民がヨルダン川の向こう側で行ってきたことを知っていた(10)。イスラエルの民がエリコに到着する以前に、神とイスラエルのうわさはエリコに届いていたのだ。彼女は福音をもうすでに聞いていた。

2. 福音から生まれるもの
神の素晴らしいわざの知らせを聞いたエリコの人々はどう反応したのだろうか。彼らは恐怖におびえており(9)、イスラエルに立ち向かおうとする意志さえももっていなかった。世界を支配しているのは、イスラエルの神である主であることに気がついたからである(11)。本当の神を神とする思いが、ある者たちのうちに生まれた。だから、ラハブ自身は、二人の斥候に助けを求めたのだ(12~13)。福音を聞いても、それを拒絶するエリコの王のような者たちもいる。しかし、主を神とする者たちも誕生している。福音は神に信頼する神の民を生み出す。二人の斥候はラハブにどうすべきかの指示を与えたあと(17~21)、彼女の知恵に助けられて、無事にエリコを脱出し、ヨシュアのもとに戻る(22~24)。そして、イスラエルの民は神の素晴らしいわざが、自分たちを通して続いて行われることへの自信を深めていった。

十字架と復活によって神の民が誕生した。そして、神の素晴らしいわざの知らせである福音は、世界中に響いている。福音に反発する者たちの中にさえも、まことの王である主を恐れ、神の民に加わり、主に従う者はおこされている(ローマ1:5)。このように、福音は新しい神の民を生み出す神の力である。この力にもっと自信をもって、神の素晴らしいわざの知らせを語ろうではないか。

なおも望みを抱いて(2014.9.15)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ルカ7章11~17節

主なる神は、私たちの人生のすべての日々を知っておられ(詩編139編16節)、死の世界にも踏み込んでこられるお方です(同8節)。本日の箇所は、無名の母親の一人息子の葬儀が執り行われている場面です。そこには、人の死という悲しみを乗り越えていく力と希望が、主イエスにはあることを明らかにしています。

1.憐れみ、顧みてくださる主
夫を亡くし、今また息子が死んだことによって、母親は失望と悲しみと寂しさに打ちひしがれていました。「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13節)、深い同情を寄せられて、その痛みをご自分のものとされています。それは、主イエスが彼女のところに訪れてくださり、「心にかけ」顧みていてくださることなのです(16節)。
主イエスは今も変わらず、罪と汚れにみち、死の不安と恐れの中にある一人一人を訪れてくださり、より近く一緒に歩んでくださり、顧み、深い同情を寄せてくださっています。この憐れみの主イエスの招きがあるゆえに、私たちはより神に近づき、神と共に歩むことができるようになるのです。

2.泣くな、起きよと宣言される主
主イエスは、母親に「もう泣かなくともよい」(13節)と言われ、息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と言われました。このように、すでに失った希望、口に出したくないと思いながら押し殺してしまった感情、失ってしまった目標の中に生きる者に御言葉をかけてくださるのです。ここに、主イエスがとどけてくださる救いがあります。
キリスト信仰は、主イエスの復活から始まりました。と言うのも、主イエスの十字架の死に際して、主の弟子たちは悲しみと失望の中にありました。しかし、復活されたことを知るや、「それでは一体あの十字架は何であったのか」とその意味を探り始め、その結果十字架と復活の信仰に堅く立ったのでした。復活の主イエスの恵みのご支配は、死よりも強いのです。
復活の主イエスは、今も変わらずに「もう泣かなくともよい」「起きなさい」と語りかけておられます。棺の傍らに立つ者も、この望みの福音を語るのです。

私たちが熱望するもの(2012.9.12)

宣教題  : 「私たちが熱望するもの」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 19章21~22節

ここに、パウロの宣教の途上における幻が語られています。それは後日、パウロが、「・・・何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので・・・」(ロ-マ15章23節)と同じことを伝えていますが、エフェソ伝道以前から彼の内にあった熱望でした。

1.福音の拡がりを熱望する
パウロは聖霊に導かれて、これまでエルサレムから始まり、ユダヤ、サマリア、小アジア、マケドニア、アカイア、そしてエフェソ伝道と進めてきました。その後に、「ロ-マも見なくてはならない」と、ロ-マそしてイスパニアへの伝道を神の御心と計画していたのです(ロ-マ15章24節)。その前に彼は、遠回りするように、マケドニアとアカイアの各州を通り、エルサレムに行くことを考えていました。
このような熱情は、どこから生まれてきたのでしょうか。それは、神が私たちを救おうとされた熱情からであり、その神の愛の熱情に打たれ、救いの恵みを信じ、従ったところから生じました。福音の拡がりを熱望する私たちは、福音のたすきを途切れることなく受け渡していくことが必要です。

2.福音の交わりを熱望する
パウロが、遠回りしてエルサレムに向かい、テモテとエラストをマケドニア州に先に送りだしたのには理由がありました。彼が、福音の拡がりに対する感謝をエルサレム教会に報告するときに、経済的に困難を覚えていた同教会に、異邦人教会からの献金を届けるためでした。彼がこうした行動をとったのは、ユダヤ人教会と異邦人教会が、キリストに在って一致するという福音の交わりを熱望したからでした。彼は、目前の急務を先行させつつ、福音に仕える歩みを踏みしめて行ったのす(ロ-マ15章25~29節)。
以上のように、パウロを熱望させた根底には、「・・・わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピ1章20節)との信仰がありました。これは、私たちの切望でもあります。

福音の継承と拡大(2014.9.8)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 使徒言行録28章23~31節

使徒言行録から教えられることは、主の弟子たちが万全の態勢、万全の準備が整ってから、伝道に着手したのではありませんでした。むしろ、彼らは聖霊に強いられて、伝道の場に引き出され、そこで苦闘し、悩み、祈ることを通して、訓練され、鍛えられ、吟味させられ、成長していったのです。それは、神戸中央教会の歴史も同様です。
福音宣教は、エルサレムからローマ、そして地の果てに至るまで続いています。

1.どのように福音を継承するのか  23~27節
ローマでのパウロは囚われの身でしたが、そこに訪れるユダヤ人たちに、神の恵みを具体的に実現してくださったイエス・キリストの福音を熱意と迫力をもって語たりました(23節)。聖霊によって、霊の目が開かれて、イエスこそ救い主であると信じ受け入れた者がいました。しかし、その福音に対して、聞こうともせず、心で理解しようともせず、神に立ち返って悔い改めようとしない者もいました(24~27節、イザヤ6章9~10節)。
イエス・キリストの救いは、信じ受け入れた時から始まり、人間の一生にかかわり、生活の全領域すべてにかかわることがらです。私たちは、今も変わらない普遍的で人を造り変えるキリストの福音を継承しているのです。

2.どのように福音が拡大されるのか  29~31節
パウロのローマでの日々は、独立のあるところに自由があり、自由のあるところに絶えざる創造的な働きがあったことを証ししています(30~31節)。囚われの身である彼にとっては、訪問客が大きな喜びであり、自由に伝道できたことも大きな喜びでした。もちろん、彼を通して語り続けられた福音は、神の恵みの世界へ導いてくださる主イエス・キリストとその救いでした。
さて、「使徒言行録」は、ここで終わっていますが、続く29章以降は、今日までの教会の歴史の中で書き続けられてきました。そして、福音が全世界に拡がっていきました。私たちの神戸中央教会もアンティオキア教会の姿勢に溢れて宣教を進めていくことにより、書き続けてきましたし、これからも書き続けていくのです。今、どんな書き方がなされているか、いかなることを書くかということが問われているのです。

恵みに生きる(2014.8.31)

宣教 宮崎 浩 師
聖 書 エフェソ1章1~14節
パウロはローマの獄の中でこの手紙を書いています。「獄中書簡」とも呼ばれています。そして、この手紙の箇所は「恵み」について教えています。「恵み」とは、常に信仰と結びついていて、信仰は「恵み」による感謝から来るものです。

1.神の豊かな恵み   4~7節
私たちの信仰にとって大事なことは「恵み」とは何かという認識です。信仰と言いながらキリスト教の信仰とは違うものに変質したり、簡単に信仰から離れていく人が多いのは私たちキリスト者の「恵み」の理解に問題があるのです。「恵み」はギリシヤ語でカリスマと呼ばれ、「賜物・贈りもの」という意味があります。人間が努力したり、働いて得ることのできるものではなく、三位一体の神による一方的なものであり、「恩寵」と呼ばれるものです。そして、その輝かしい恵み、豊かな恵みは、①選び(4節)②罪の赦し(7節)③神の子である身分(5節)です。主イエス・キリストを信じ、従う時に「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に」(ローマの信徒への手紙10章12節)与えられる賜物・贈りものなのです。

2.神の恵みに生きる 8~14節
イエス・キリストを信じる者には豊かな恵みが与えられています。神に選ばれていることのこの上もない喜び、イエス・キリストの十字架で流された血により私たちの罪が完全に赦されていることで恐れからの解放感、心の平安を得ることができたこと、また私たちが神の国に入ることができる相続者であることで将来への希望をもつことができたことです。そして、その恵みは誰も奪うことのできないもの、その保証として神は聖霊による証印を押されたのです(13節)。それらの恵みのなかで私たちが生きるとき、個人の信仰生活、教会生活、家庭生活が輝かしいものとされます。その生活は神が導き、神が共に働き、万事が益となるからです。(ローマの信徒への手紙8章28節)そして、神の栄光がほめたたえられるのです。どうぞ私たちに聖霊が与えられ、心の目が開かれ神を見、神の豊かな恵みが明らかにされ、神との愛の交わりを常に持ちつつ生きることができますように。

信仰の一歩を(2014.8.24)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ19章38~42節 、ローマ10章9節

ここに登場する「アリマタヤ出身のヨセフ」と「ニコデモ」は、ユダヤの社会において指導的な立場の人たちでした。二人に共通することは、これまで「イエス の弟子」であることを公然明白にしてこなかったことでした。そんな彼らが、主イエスが十字架に死なれて葬られることに立ちあった際に、大きく変えられたの でした。

1.人を恐れないで
「ユダヤ人を恐れて」とあるように、人は他人の顔や評判に恐れやすいものです(箴言29章25節)。こうした恐れは、単に弱いからという以上に、その心 の向きがゆがんでいるところから生じるものです(ヨハネ12章42~43節)。そこには、神からの誉れをいただこうと追い求めるよりは、人からの誉れを愛し追い求める心があるのです。それは、神を信頼していないことでもあるのです。
こうした人が恐れる姿は、神の御言葉に背いて、神からその身を隠した人類の最初の人アダムとエバにも見られるものでした(創世記3章10節)。慈しみ深 い神は、そのような人に対して、「あなたは何をしたのか」と問われないで、「あなたはどこにいるのか」と御自身との交わりの回復へと招いておられます(同 9節)。

2.大胆にキリストを信じよう
主イエスは、何と慈しみと慰めに満ちておられるお方でしょうか。弟子たちを最後まで愛し抜いて(ヨハネ13章1節)、彼らを守られました(同18章19節以下)。
ひそかな主の弟子であったヨセフとニコデモは、主イエスが十字架に死んで葬られるに際して公然と主の弟子であることを言い表わしました。彼らは、主イエ スの教えや数々の奇跡によってではなく、十字架の死を通して主イエスに引き寄せられ、用いられることになったのです。
宗教心は信じる態度を大事にしますが、信仰心は信じる対象を大事にします。聖書は、主イエスを信じ、信頼する信仰心をはっきりと持ち、それを公に言い表 すように促がしています(ローマ10章9節)。そうすることによって、人々に影響力を持ち、神の祝福を及ぼすことができるようになるのです。

主のことばに従う勇気(2014.8.17)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書: ヨシュア1章1~18節   ヨハネ16章33節

偉大なリーダーの死を迎えた時、どのような組織も危機を迎える。出エジプトを導いてきたモーセの死を迎えたイスラエルもそうであった(1~2)。モーセが 民とともにいたからこそ、主は民とともにおられ、荒野放浪の40年は導かれてきたからだ。しかし、モーセが死んだ今、約束の地を征服するという主の約束は 継続されるのだろうか。モーセの後継者として指名されたヨシュアはその働きを全うできるのだろうか。

1.イスラエルは前に進む
主はヨシュアに、モーセが死んだ今だからこそ、ヨルダン川を渡り、約束の地へ進むように命じた(2)。その際に、ヨシュアには、約束の地は、神が与えて くださるものなのか、それともイスラエルが自分たちで占領するものなのか、という問いが投げ掛けられた。まず、その地は、主がイスラエルに与えようとして いる土地であり(2)、もう与えた、と主が約束されている土地である(3)。しかし、何もしなくても与えられるものではない。「あなたたちの足の裏が踏む 所を・・・与える」(3)とあるように、その土地を自分たちの足で踏む、つまり戦うことが求められている。与えられているという確信に立ちつつ、準備し、 行動するとき、主の約束は継続され、実現していく(10-11)。

2.主のことばに従う勇気
ヨシュアは明らかにモーセとは違う。しかし、主は、モーセに約束されたように(出エジプト33:14)ヨシュアにも「あなたと共にいる」(ヨシュア 1:5)と語る。主がヨシュアとともにいるからこそ、主は民とともにいる。モーセの時と何一つ変わらない。ヨシュアはその使命を果たすことができる。この ときに、ヨシュアに求められていることは、モーセを通して主が命じられ律法を日々味わい、それを実行する勇気である(7?9)。モーセのような偉大な指導 者にならなくても、主のことばを味わい、それに生きるヨシュアとイスラエルの民を通して、神は世界に働き続けられる。モーセの時代になされたことと同じこ とを、ヨシュアの時代にも主はなさろうとしている(12~18)。

 教会はキリストのからだである。イスラエルの民と同じように、主が約束し、与えてくださっていることが、私たちのわざを通してこの世界で実現していく。 それは、すでに十字架と復活において勝利を取られたキリストが、私たちと共におられるからである。だからこそ、みことばを口ずさみ、整えられ、それに生き る勇気をもって、困難が多くあるこの時代に主に従っていこう。

生きた御言葉信仰(2014.8.10)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 7章1~10節

ユダヤ人の長老たちは、「百人隊長」のよい行いを見て尊敬しました(4~5節)。しかし主イエスは、彼の信仰を見られて高く評価されました(9節)。このように主イエスを感心させ驚かせた信仰こそが、生きた御言葉信仰です。

1.御言葉に対する信頼を伴なう信仰
百人隊長は、病気で死にかかっている部下を助けに来てくださるように主イエスに懇願しておきながら、その後で来てくださることを遠慮する発言をしていま す(1~6節)。この矛盾するような発言をしたのは、憐れみ深い主イエスに対する彼の信頼から生じたものと思われます。
続いて、百人隊長が「ひと言おっしゃってください」と主イエスに語ったのは、主が語られる御言葉の権威に対する心からの畏れと尊敬を持っていたからであり、御言葉の力を信じ切った主への信頼があったからです(7~8節)。
御言葉信仰とは、どんな時にも、どんなことにも、どんな人にも、御言葉は必ず答えを持っているということを信じる信仰です。御言葉の重みを知ることが、御言葉に対する信頼につながるのです。

2.御言葉に対する服従を伴なう信仰
百人隊長は、御言葉をいただき、そして助けていただければそれでよいという以上の信仰を言い表わしています。すなわち、助けていただいた以上は、次に主 イエスが何を命じられても、その御言葉に従おうとしました。主イエスは、彼の信仰に感心し驚かれ、「これほどの信仰」と言われたのです(9節)。そして、 「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8章13節)と励まされたのです。このように、主イエスが喜ばれる信仰は、御言葉に対して服従 する信仰です。
御言葉信仰は、主イエスが評価してくださる信仰であるからこそ大切なものなのです。それを単なるお題目に終わらせてはなりません。実質の伴なった、生き た御言葉信仰を持たせていただきましょう。「ひと言おっしゃってください。そして」の後に、私たちは何と応答するのでしょうか。

真実で動かされないもの(2014.8.3)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録 28章11~16節

パウロは、「ローマでも証しをしなければならない」(23章11節)との御言葉を主イエスからいただいてから、災難また災難を乗り越えて、ついにローマに 到着しました。そこで彼は、「神に感謝し、勇気づけられた」(15節)のでした。ここには、復活の主によって、真実で動かされないものをいただいている者 たちの証しがあります。

1.復活の主の力を共に知る信仰
難破したパウロ一行は、マルタ島に上陸して三か月を過ごした後、シチリア島のシラクサ、続いてイタリア半島のレギオン、そしてプテオリに入港しました。 そこでは、パウロたちは『兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した』のでした(14節)。この時、聖日礼拝を含む日々を主にある信仰の交わりを深 め合い、祈りと御言葉を共にしたことでしょう。また、パウロたちがローマ近くまで来ていると聞いたローマ在住の信徒たちは、彼らを心から歓迎をしたのでし た。ルカは、その時のパウロを「神に感謝し、勇気づけられた」と語っています。
この感謝と勇気は、復活の主の御言葉から、また復活の主が共におられるとの信仰からくるのであり、聖霊の力によるものでした。周囲が揺れ動く中で、私たちも、真実で動かされることのない復活の主の力を共に知る信仰を抱き続けたいものです。

2.復活の主に共に仕える気概
ルカは、パウロたちがローマに到着したこと、そこで囚人でありながらも伝道する自由を与えられた不思議な摂理を淡々と語っています(14、16節)。そ う語られている背後には、パウロたちの意に反するようなことが起こっていたにもかかわらず、その意に反した事柄の中で復活の主が何をなされておられるのか を汲みとって、復活の主に仕え、宣教の業に勤しむ彼らの気概がありました。
私たちは、その信仰生涯で経験する病や事故、また人々の反対や批判といった困難と思われることも最善に用いなさる復活の主に共に仕える気概をもたせていただき、その自覚に生きることができるよう祈り求めていきたいものです。

傷つくまで愛する愛(2014.7.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ19章17~30節

全ての人に「傷つくまで愛する愛」を注ぎ与え尽くしてくださったのが、イエス・キリストです。それを具体的に現してくださったのが、主イエスがお架かりくださった十字架においてでした。このことを信じることによって、私たちに神の救いがもたらされたのです。

1.愛のあまりに黙された  17~24節
主イエスは、人々の裏切り、離反、嘲笑、ののしりの中にあっても、それらの人々に対して愛を貫かれました(ヨハネ13章1節)。そのために、口を開くことなく黙し続けられました(イザヤ53章7節)。
主イエスがそのようにされたのは、彼らの無知蒙昧さ、愚かさの罪からの救いのためだったのです。そのことが分かると、主イエスが十字架にお架かりくださったのが「私の罪のため」であったことが、はっきりするのです。

2.愛のあまりにとりなされた  25~27節
一方、十字架上の主イエスは、その周りにいる人々に対して、とりなしのわざをなさいました。母マリアと弟子を引き合わせることによって新しい神の家族の 交わりを作られました。そのように忠実に主イエスに従う人たちだけにではなく、悔い改める人のため、悔い改めずにいる人のためにもとりなさいました(ルカ 23章32~43節)。
私たちも、今も変わらずに、主イエスが愛の限りを尽くしてとりなしていてくださる「十字架のそばに」身を置こうではありませんか。

3.愛のあまりに身代わりの死を遂げられた  28~30節
主イエスが十字架の上で「成し遂げられた」ことは、私たちの罪と死の責めを身代わりに受けとめ、救いを完成してくださったことでした。
この時、主イエスは身代わりとなって、罪の審きを体で味わい「渇く」と言われました。それは、神からも人からも捨てられるという苦痛の叫びです。このよ うに主イエスが代わって十字架に死んでくださったからこそ、私たちの魂の渇きが癒されるのです。私たちはこの招きに応答して、ただ信じるのみです(ヨハネ 6章35節)。

何を土台に(2014.7.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章46~49節

私たちの歩みまた教会の歩みは、家を建て上げていくようなものです。そこには洪水のような思いがけない苦難や試練が押し寄せてきます。それに耐えられるのは土台しだいです。その土台に関心をもち、揺るがない確かな土台に立つことが大切です。

1.主の御言葉に立つ
私たちは、恒産なければ恒心なしと言われるような目に見えるものを土台とした人生を構築しようとします。しかし、揺るぐことのない確かな土台は、主イエ スが語られた御言葉が神の御言葉であると間違いなく聞きとって、それに生きることなのです。同じように主の御言葉を聞いても、それとは異なった生き方を し、時に間違った生き方をしてしまうことがあるからです(46~47節)。それが、岩の上に土台を置いて家を建てているか、土台なしで地面に家を建ててい るかの相異なのです。
私たちは、「御言葉が与えられた」との信仰に立って歩むという良い伝統をいただいています。しかし、それが神の名を利用し、実は自分の考えや意思を貫こうとするように土台が傾いていたり、土台が無いような状態となったりしていないか、と問いかけることは必要です。

2.主の御言葉を深める
私たちは、思いがけない洪水が押し寄せるような不幸と思える出来事に遭遇します。たとえ平穏無事であっても、罪と死の洪水は全ての人に訪れます。しか し、ここで主イエスが語っておられることは、私たちは、叫んでも泣いても崩れることのない土台である主の御言葉の上に立っているのです。
従って、家を建てるに際して、土台に労力や資材をつぎ込んで元手をかける必要があるように、「地面を深く掘り下げ」る必要があるのです(48節)。すなわち、主の御言葉に立ち続けるには、熱心さと真剣さ、時には犠牲をも必要とするのです。
主の御言葉を聞いて、その御言葉に立って深めていく時に、その御言葉の真実が分かるのです。その御言葉に生きてみて初めて、その強靭な力を味わい知るのです。

喜びに満ちあふれて生きる秘訣(2014.7.13)

宣教:池口留都 伝道師
聖書:1ヨハネ1章5~10節

ヨハネの手紙一が書かれた目的(3、4節)でもある、クリスチャンが喜びに満ちあふれて生きる秘訣は、2つの交わりに生きることです。それは、御父と御子イエス・キリストとの交わりと、互いの交わりです。この2つは切り離せません。

1.御父と御子イエス・キリストとの交わりに生きる
(1)ありのままの自分を受け入れる難しさ
「神は光である」(5節)とあるように、光である神様の前ではすべてが明らかにされます。一方私たちは闇の中にいます。闇の中で自分探しをしますが、現実の自分を受け入れるのは難しいことです。特に、神様の光は、それまで知らなかった、罪深い自分の現実の姿も明らかにします。それを認めて受け入れること に、難しさを感じます。こんな自分は受け入れられないのではないか恐れるからです。
(2)ありのままの自分を受け入れてくださる方
そんな私たちの本当の姿をすべて知った上で、私たちを受け入れてくださる方こそ、イエス様です。イエス様は私たちをそのままで受け止めてくださり、私た ちを闇から光へ招き入れるために十字架にかかってくださいました。もし私たちが、光によって照らし出されるありのままの姿、罪を「その通りです」と認める なら、神様は赦して下さいます(9節)。イエス様の血が私たちを覆い、清め続けてくださるからです(7節)。私たちの恐れは取り除かれ、自由に神様との交 わりを持ち、その中に憩うことができます。そこに、喜びが満ちあふれます。

2.教会の交わりに生きる
愛と赦しを受け取った私たちは、他の人と関わる勇気と、一緒に歩む交わりを与えられます。それが教会の交わりです(3節)。神様との交わりは私たちを教 会の交わりに導き、また、教会の交わりを通して、私たちは成長させていただき、さらに神様との交わりを深めさせていただきます。2つの交わりに生かしてい ただきましょう。

元気を出しなさい(2014.7.6)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 使徒言行録27章13~38節

パウロのローマ行きという神の御計画は変わらず、度重なる困難を経て実現されていきました(13~20節)。彼は、暴風で荒れ狂う海に漂流する船の中で、神の必然を信じつつ、同船者に「元気を出しなさい」と語り続けたのでした(22節、25節)。

1.愛の励ましをもって  21~26節
暴風が激しく吹きすさぶので、「ついに助かる望みは全く消え去ろうとしていた」(20節)時、同船者たちはパウロの救いの言葉を聴くことができたのでした。彼は、絶望と無力のどん底にある彼らに、「元気を出しなさい」と励ましたのです。
パウロは、なぜこのように並はずれの寛容と愛をもって人々を励まし、助けようとしたのでしょうか。彼がローマに行って福音を語ることは、神からの必然的 使命だったからです。神は、航海中の全ての人を彼に任せておられたからです。神が彼に告げられたことは、必ずそのとおりになるとの御言葉信仰に立っていた からです。彼は、死をも乗り越えさせる復活信仰に立って、最後まで諦めなかったからです(24~26節)。このように、いかなることが起こったとしても、 それを神の恵みへの応答のチャンスとしようという捉え方で歩む生き方が求められます。

2.愛の連帯感をもって 27~38節
漂流中の船か浅瀬に乗り上げようとした時、船員たちは乗船員を助けようとしないで逃げ出そうとしたのをパウロは阻止しました(27~32節)。そして、 すでに全員が助かると語っていたパウロは(22~26節)、疑心暗鬼になっている乗船員に、信仰の確信に立って元気づけたのです。それは人々の心を奮い立 たせました(33~34節)。
さらに、復活の主イエスが共におられ、人々に元気を与えてくださることを分かち合うために、パンを裂いて共に食しました。自分たちだけ助かろうとした船員 を排除することなく、愛の共同体として受け入れ合ったのです(35~37節)。そこにいた全ての人が、同じ苦難を経験した者として、愛の連帯感の中に導か れたのです。
このように、神の御業は、日々に御言葉を聴き従いつつ歩む信仰者を通して展開されていくのです(23章11節、27章23~24節)。

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。