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新約聖書

憐れみに生きる(2016.7.3)

宣教題  「憐れみに生きる」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章25~37節

この譬え話に登場する祭司やレビ人は、旅の途中で傷ついた人を見つけながら避けて通りました。他方サマリア人は、傷ついた人の隣人になって、その重荷を負い愛のわざをしています。私たちが、憐れみに生きるとは、どういうことなのでしょうか。

1.憐みの心に生きる
律法の専門家は、主イエスと問答しています(25~29節)。彼は、永遠の命を継ぐのは、神への愛と隣人への愛に生きることであると知っていました。続いて主イエスがそれを実行するように言われたことに対して、彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」と自分を正当化するように問い返しています。
それに答えるように主イエスが語られた譬え話は、誰が自分にとって隣人かではなくて、助けを必要としているその人にとって誰が隣人なのかを問われているのです(30~35節)。「その人を助けた人です」と答えた律法の専門家に、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました(36~37節)。今日まで、このような隣人を憐れむ心をもったグッド・サマリタン運動が展開されてきました。

2.主の憐れみによって生かされる
私たちには、祭司やレビ人を非難できない現実があります。人の痛みを察する想像力の貧しさ、愛の思いの貧しさを知っているからです。
しかし、私たちは、神を愛する前提として、神に無条件で愛されていることを知っています。主イエスの中に神の愛が明らかにされていることを見聞きしています(10章23~24節)。この譬え話に登場する憐れみに生きるサマリア人こそ、主イエスご自身を表していると言えます。
主イエスの十字架における無限の愛によって、私たちは救われたのです。ですから私たちは、主イエスの憐れみに生かされて、限りある仕方で憐れみに生きる者にされるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と聴き続けるのが教会です。

自分が変われば(2016.6.26)

宣教題  「自分が変われば」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ2章1~11節、2コリント5章17節

私たちが生活していく上でいちばん難しいことは、人と人との関係と言われます。それを難しくしている原因が、自分を取りまく人や状況にあると思ってしまっていることにあります。私たちは、自分自身を変えることが至難のわざであることを知って、主イエスによって変えられることから始めてみてはどうでしょうか。

1.人生の喜びをもたらされる主
婚礼の席において水がぶどう酒に変えられた奇跡は、主イエスの「最初のしるし」でした。これは、万物を創造されて支配される神にとって、たやすいことでした。それは、泥水から美味しいフルーツの実を結ぶように、神が日常茶飯事に絶え間なく続けておられる奇跡です。
主イエスは、苦しみや失望の時の救い主であるとともに、婚礼のような幸福に満ちた時の救い主でもあられます。私たちは、そのようないかなる時であっても、主イエスを救い主としてお迎えすることにより、人生に喜びをもたらしてくださるように招かれているのです。

2.人の心と生涯を新しくされる主
婚礼の席における主イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われましたが、後に「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(12章27節)と言われました。この「わたしの時」とは、主イエスが十字架で身代わりの死を遂げくださる時のことでした。それによって主イエスは、人の心と生涯を変えて「新しく創造」してくださったのです。そのためには、一人ひとりが「キリストと結ばれ」、主イエスの中に植え替えられ、根付くことです(2コリント5章17節)。
奇跡と言えば、人の心と生涯が新しくされて変えられることほどに大きな奇跡はありません。そのために、主イエスが十字架にかかられて後に復活されたのです。主イエスに新しく創造され、その奇跡にあずからせていただきましょう。

神のあわれみを知る(2016.6.19)

宣教題  「神のあわれみを知る」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨナ4章1~11節、マタイ20章15節

自分以外のだれかを、それも自分に敵対するようなだれかにあわれみを示される神をあなたはどう思うか。

1. ヨナの怒り(1~4節)
神がニネベを滅ぼすことを思い直したのを知って、ヨナは不愉快に思い、怒った。当初、ニネベに行こうとはせずタルシシュへ逃げたのは、ニネベに行って語ったならばきっと神は思い直すと知っていたからだ。さらに、神が思い直したら、偽りを預言した者として、自分が恥を被ることも知っていた。思ったとおりになったので、ヨナは死ぬ方がましだ、とつぶやいた。

2. 惜しむヨナ(5~9節)
不機嫌なヨナは、熱さの中、ニネベがどうなるのか、見届けようとしていた。小屋を建て、日差しを避けた。主はとうごまの木を準備し、それはすぐに成長して、陰をつくり、ヨナを暑さから守った。不機嫌だったヨナが喜んだのもつかの間、翌日、神は虫を備えて、この木を枯れさせた。頭上から照りつける太陽と焼けつく東風のために、ヨナは苦しみ、再度、不機嫌になり、「死ぬ方がましです」(8節)と言いきり、「怒りのあまり死にたい」(9節)とさえ語るようになった。とうごまの木を惜しんだヨナは、それが奪われた時、不機嫌になり、怒った。

3. 惜しむ神(10~11節)
とうごまの木の件で怒っているヨナに主は、「お前はとうごまの木さえ惜しんでいる」(10節)と語った。自分が育てたわけでもないし、成長するのに時間がかかるわけでもないものが奪われて、怒っている、と諭した。そして、ヨナに主のニネベに対する思いを想像するように求めた(11節)。大いなる都、十二万以上の人、無数の家畜がいるこの地が滅びたとしたら、この町を育ててきた主はどれほど不機嫌になるだろうか。神はニネベを惜しんでいる。だから、すぐに怒らず、わざわいをくださず、むしろそれを思い直した。
私たちは、自分に敵対する者に対して神が気前よく振る舞う時、それをねたむ(マタイ20章15節)。自分の都合のいいように神を用いたいからである。しかし、神があわれんだのは、ニネベだけではない。理解しようとしないヨナさえもあわれみ、とうごまの木を備えられた。私たちの敵をあわれむ方だからこそ、私たちをあわれんでくださるのだ。

神の心配(2016.6.12)

宣教題  「神の心配」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章6~7節

信仰者の歩みは、さまざまな試練に悩む中にあっても、主イエスによって「生き生きとした希望」が与えられています(1章3~6節)。そして、いかなる時にも「神の力強い御手の下で」、神が「心にかけて」心配してくださる中を歩み続けるのです。

1.自分を低くしなさい  6節
神は「謙遜な者には恵みをお与えになる」(5章5節)との確かな約束を与えていてくださいます。この約束の根拠の上に「自分を低くしなさい」、すなわち低くされなさいと勧めておられます。そして、低くされる仕方として「なにもかも神にお任せしなさい」と言われています(7節)。
そのように、信仰者が低くされる場は「神の力強い御手の下で」、との信仰の確信に生きることができます。そして、この神の力により、信仰によって守られているゆえに(1章5節)、「かの日には高めていただけ」るとの期待があるのです。この確信と期待をしっかり受けとめることを通して、信仰者の内に「低くされる」との真の謙遜が生まれてくるのです。

2.お任せしなさい  7節
私たちは、こうした確かな約束をいただく中にあって、さまざまな試練の中に身を置くときの思い煩い、また教会の交わりの中での思い煩いがあることを認めざるを得ません。しかし、そこにおいて、神が心配し、配慮して、「心にかけていてくださる」という確かな支えがあるのです。
ですから、さまざまの思い煩いの事柄を自分で背負わないで神に背負っていただき、神の御力の上に丸投げするように委ねることを勧めています。ここに、「低くされる」との真の謙遜があるのです。このように、私たちは、遠慮することなく、また無理に自分の思いを殺すことなく、さまざまな思い煩いを自分だけのものにせず、神の領域に属することとして、神の配慮の内に任せ切ることです。

喜びの転換(2016.6.5)

宣教題  「喜びの転換」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章17~24節

喜びは、人が生きていくうえでの原動力となります。また何を喜びとしているかによって、その生き方が決まってきます。ですから信仰者は、主イエスがお持ちであった「聖霊による喜び」が私たちの喜びとなるという喜びの転換が必要です。そうすることによって、神に喜ばれる者となるのです。

1.天に結ばれた喜び  17~20節
主イエスに遣わされた72人は、主の御業をなす権威を授けられ、主の御名によって使命を成し遂げることができたことを喜びました(17節)。そのとき主イエスは、背後で祈りつつ、彼らを思いやる御心を持って、彼らの労苦を見守っておられたのです(18~19節)。
しかし、主イエスは、そのように主の御業がなされたことの結果としての喜びだけで終わるのではなく、状況や条件や立場によって左右されることのない天に結ばれていることを喜ぶように勧められました(20節)。この天に結ばれた喜びは、逆境や失敗や試練の中にあってもなお失われることなく、望みをもって歩ませる力となります。この喜びに生きるとき、真に神の期待に応えることができるのです。

2.聖霊による喜び  21~24節
続いて主イエスは、「天地の主である父」に祈られました。その祈りには、父なる神が讃えられることを喜び、父なる神の御心が成ることを喜び、父なる神との深い信頼を喜んでおられることが表れています。それが、「聖霊によって喜びにあふれて」というご経験でした(21~22節)。その喜びは、主イエスとその恵みのすばらしさを見聞きしていた弟子たちの喜びの経験でもあったのです(23~24節)。
それは、私たちの喜びでもあります。私たちは、主を賛美できることを喜ぶ以上に、主が賛美されることを喜ぶのです。さらに、主を信頼して、主の御心がなることを喜ぶのです(ローマ14章17~18節)。

野の花を見よ(2016.5.29)

宣教題  「野の花を見よ」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ6章25~34節

造り主なる神は、悠久なる大自然、大宇宙を造られ、それを支えておられます。そればかりか、「野の花」とりわけ小さな花のひとひらに至るまで、まことに緻密で用意周到に造られました。この「野の花」を注意して見ることにより、愛の神を知り、自らの生き方を問い直したいものです。

1.造り主を信頼する
造花には命がなく、生花には命があります。命を創造することは、人間の科学の世界には許されていないのです。真似はできても、命を創造することは、造り主の独壇場です(29節)。野の花が花を咲かせて精一杯生かされているように、人は神から与えられた命を精一杯生きるのです(30節)。ここに、生きる喜びがあります。
よく考えてみるならば(28節)、野の花が造り主によって育てられ、運ばれるままに生きるように、人は造り主に信頼して生きるのです。ですから、自分のことだけでなく他人のことまで心配したり、今日だけのことでなく将来のことまで思い悩んだりしないで(31~32節)、神を第一として神に信頼して歩むのです(33~34節)。

2.備えてくださる主を信頼する
花は人生の無常さも教えています(30節、1ペトロ1章24節)。確かに、人にはいつ何が起こるか分からないという世のはかない現実があり、また人生の終わりの時が必ず来ます。さらに、神に造られた被造物は、様々な弱さがあることにも気づきます。その弱さを最も覚えるのが、罪の解決を得ていない状態にある時であり、自らの死を覚える時です。
しかし、そこでこそ神の愛に触れ、主イエスの救いに出会う時なのです。主イエスの十字架の愛を信じる者の罪を消し去って罪を責め立てることなく、復活の主イエスを信頼している者が死の恐怖で追い立てられることはありません。ですから、備えられた神の恵みの中を生き、神の前にまっすぐに生きることです(33節)。

聖霊による心のきよめ(2016.5.15)

宣教題  「聖霊による心のきよめ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  使徒言行録15章6~11節

ペンテコステに聖霊の降臨を経験し、力強い前進を見た初代教会は、ほどなくして様々な課題に直面することになりました。それは、聖霊の働きが一方的なものではなく、人の側の在り方と無関係でないことを明らかにしているのです。神が聖霊を与えて人々の心をきよめてくださるのも、信仰によるのです(8~9節)。

1.心がきよくされる必要
異邦人も割礼を受けるべきだと主張したユダヤ人たちは(5節)、きよめられる必要のあるクリスチャンの姿を表していると言えます。それは、彼らの心にあったもので、差別意識あるいは優越感(8~9節)、律法主義あるいは無慈悲さ(10節)、神を試みる思い(10節)が問題なのです。
これらは、クリスチャンの心にもあり得るもので、きよめられる必要があります。そのままであったら、自分自身が自由でないし、人を苦しめることにもなるし、教会を混乱させることにもなって、神の栄光を現すことができないのです。聖書は、人の心がきよくされることの幸いを強調しています。

2.心がきよくされる道
クリスチャンは、主イエス・キリストによる救いの恵みを信仰によって受け取った者です(11節、エフェソ2章8~9節)。その心がきよめられ続けるのも同じです(1ヨハネ1章7節)。それを可能にしてくださるのが、聖霊なのです。クリスチャンは、自分の姿に気づかせられて、そこからきよめられることを祈り求め、扱われ、悔い改め、示さけるままに従うのです(使徒言行録5章32節)。
私たちは、「人の心をお見通しになる神」であるからこそ(9節)、きよめられる必要のある性質、とりわけ「かたくなな心」(マルコ3章5節)を聖霊によってきよめていただき、聖霊に満たされて歩むことが求められています。
あなたの「ペンテコステ」は!

互いの謙遜(2016.5.8)

宣教題  「互いの謙遜」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ5章1~5節

キリストの謙遜が私たちの救いとなり、キリストの救いが私たちを謙遜にします。
ペトロ、長老たち、若い人たちを含む信仰者が、「皆互いに謙遜を身に着け」続けているにはどういう霊的備えが必要なのでしょうか。

1.謙遜に人を導くように  1~4節
キリストの十字架の血によって贖われて神のものとされた一人ひとりが、結ばれて「神の羊の群れ」となっているのが教会です。ペトロと共に長老である者たちは、「キリストの受難の証人」であって終末の栄光にあずかる望みに生きていました(1節)。その彼らが、神の羊の群れとしてふさわしく形造り、養い育てるように命じられています(2節a)。また、神の召しに応えて、喜びをもって自発的に群を身守るように命じられています(2節b、ヨハネ21章15~17節参照)。そして、恥ずべき利益を求めることなく、熱く心が燃えていることが求められています(2節c)。
このように、キリストの僕として(ヨハネ13章12~17節参照)、謙遜に人を導くことによって輝いてくるのです(3~4節)。

2.謙遜に人に導かれるように  5節
続けて、「同じように、若い人たちも、長老に従いなさい」と勧めています。若い人たちは、同じように謙遜を身に着けて、キリストとその御言葉に対して、取り次がれる勧めに対して聴き従うことが大切です。人は服従の勧めに対して、最も不服従になりがちです。ですから、繰り返し、謙遜を身に着け続けることを体験的に学び続ける必要があるのです。
このように、導く人も導かれる人もキリストの謙遜によって神の羊とされたのですから、お互いが謙遜を身に着け続けさせていただいていることが大切です。謙遜に人を導く装い、謙遜に人に導かれる装いを身に着けさせていただくことにより、神の羊の群れは生きるのです。

共に重荷を負い合いつつ(2016.5.1)

宣教題  「共に重荷を負い合いつつ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章1~16節

私たちが負う重荷には、個々人別に負うものと、共通して負うものとがあります。キリスト者の全てが負うのは宣教の重荷であり、それを通して学び続け、内に安息を経験していくのです(マタイ11章28~30節)。神の民の共同体である教会は、この共通の重荷を負って遣わされていくのです(1~3節)。

1.委ねられた福音を共有する
キリストの平和に生きる者は、人々がその平和に与かれるように働きかけます(5~6節、ヨハネ14章27節)。それは、キリストによって神の恵みのご支配がすでに来ているのですから、そのチャレンジにお応えして、キリストの十字架と復活の御業を信じるように勧めます(9節)。ですから、心を頑なにし悔い改めないで、神の国の福音を拒み続けることのないように注意を促しています(10~16節)。
このように委ねられている共通の福音に対して、一人ひとりが応答していくならば、その福音のとおりの人生が始まり、福音を生き続けることになるのです。ここに、キリストによる最大の奇跡があるのです。

2.キリストに信頼する
キリスト者は、キリストに信頼しつつ生きることを証しする生活をするのですが、委ねられた福音を共有することにおいても同様です。すなわち、この福音を証しするに際しては、様々な試練によって不安や恐れを抱くことがあり、また生活事情や心遣いをすることによって振り回されやすいために、キリストに信頼して助けていただく必要があるのです(3へ4節、7~8節)。
キリストは、ご自身を信頼する者たちを「小羊」として遣わされます(3節)。小羊のようになられたキリストによる罪の贖いのゆえに、頑なな心を打ち砕いて、真の謙遜と愛に生きる小羊の心に変えて用いてくださるのです(1ペトロ1章18~19節、2章23~25節)。大いに、この宣教の重荷を負い合いつつ、語り伝えたいものです。

新しいボス(2016.4.24)

宣教題  「新しいボス」              宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  1テサロニケ1章9~10節

クリスチャンとなるとは、きれいではなく、ずるい世界の真ん中で、きれいでずるくない世界を造り出す人となることである。そのためには、新しいボスの下に付かなければならない。
悪いボスの典型例が、旧約聖書に登場するエジプトの王ファラオである。ファラオという主人のゆえにイスラエルは不幸となり、命を失い、滅びそうになっていた。イスラエルの民の運命をボスであるファラオが握っていたからである。
イスラエルの民をひどいボスから解放するために立ち上がられたのが、世界のすべてを造り、天に住まいながらも、地上におけるあらゆる出来事に深くかかわり続けておられる「生けるまことの神」(9節)であった。十の災いと葦の海を分けることを通して、ファラオを打ち破り、イスラエルを解放した。ただし、イスラエルはファラオのやり方に慣れきってしまっていたために、「生けるまことの神に仕える」(9節)という歩みを簡単に選び取ることはできなかった。
あなたの人生のボスはなんだろうか。あなたのボスは、あなたを通してきれいなもの、ずるくないものを生み出しているだろうか。人を支配しているボスのほとんどが、ファラオのようにあなたを苦しめ、あなたを失望させる。「生けるまことの神」以外のすべてのボスは、あなたをあなたが一番なりたくない人の姿へとあなたを変えていく。すべてのボスが、罪と死という人を苦しめるボスの下に仕えているからである。
生けるまことの神は、2000年前にイエス・キリストを送られて、罪と死に対して十字架で戦われた。力をもって戦われたのではない。あらゆる悪と憎しみと腐敗と破壊を十字架でご自身の身にすべて負われ、もっともきれいではなく、もっともずるいもののすべてを受け入れることによって戦われた。その結果、罪と死の力はその牙を完全に抜かれ。イエスを通して、「生けるまことの神」は完全に勝利され、あらゆるボスに仕えて苦しんでいる人々に奴隷解放令を出してくださった。そして、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるように」(9節)に招いていてくださっている。
新しいボスを選ぶことができる。きれいで、ずるくない世界を造り出すあなたになる道がある。イエスによって勝利された「生けるまことの神」に向かって、「あなたがわたしの人生のボスになってください」と祈り求めることからすべてははじまる。

この小さな者たちの一人にしたのは(2016.4.17)

宣教題  「この小さな者たちの一人にしたのは」     宣教 岩上 祝仁師
聖 書  マタイ25章31~46節
トルストイはこのたとえ話をもとに「愛のあるところに神はいる」という小説を書いた。靴屋のマルティンとして有名な動画である。愛の業の大切さを教えている。
マタイは主イエスのたとえ話を主の最後の説教として書いて、重要さを現した。

1. このたとえの中心は単に行ったか行わなかったかではなく、心から出て来る行動に主イエスは注目しておられる。
このたとえには、どちらも・・・・してくれた。・・・・してくれなかったという表現で、私たちの行動が問われている。しかし、良くたとえを読んでみると、行った者も、行わなかった者もどちらも「いつ、わたしは しましたか?(しませんでしたか?)」と語っている。それは無意識の行動、もう少し言い換えると私たちの普段のあり方そのものが問われている。私たちの心と性質が主の前に問われている。「木のよしあしはその実によって知られる。」今朝、まず私たちが罪を悔い改め、主イエスにつながることによって、良き実を結ぶ者とされていることを確認しよう。

2. 主イエスは、この言葉で私たちの生き方そのものを変えようとされた。
私たちは小さい者と相手を認識した時点で、その人を見下し、自分を高めてしまう傲慢の誘惑に陥っている。そして、小さい者のために何かが出来ることで、自己満足してしまう。さらに小さい者から見返りがない時には不平不満が出て来ることにもなる。そんな私たちに対して、主イエスは、最も小さい者のひとりにしたのはわたしにしたのですと語られる。主イエスの愛に応答して、愛の業に励む様にと変えられるからこそ出来るようになる。自分のためでもなく、相手のためでもなく、主イエスのために愛に生きる様にとの主の招きである。
最後に、この神の愛に生きるためには、自らのもっている人間的な愛では到底間に合わない。自らの汚れた愛を主イエスの十字架によってきよめて頂き、聖霊によって私たちの心に注がれ、満たされる神の愛がこれを可能にする。そして、真実に愛を求め、愛に生きる者に主は永遠の御国を継がせて下さるお方である。

主の真実のゆえに(2016.4.10)

宣教題  「主の真実のゆえに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1ペトロ4章12~19節

「真実であられる創造主」は、創造されたもの全てを治め、保っておられます。何よりも創造の冠である人間の救いのために、十字架と復活の御業を通して永遠の救いに与らせてくださいました。私たちは、このように真実の限りを尽くしておられる主を見失うことなく、今の現実や苦しみと向き合うことが必要です。

1.苦しみを受ける中で
いろいろな試練の中には、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」があります(12節)。このように語られる背後には迫害と殉教の歴史がありますが、今日の私たちとは直接関係のないこととして読み過ごすことはできません。
ここに、「キリストの苦しみにあずかる」(13節)、「キリストの名のために非難される」(14節)、「キリスト者として苦しみを受ける」(16節)、そして「神の御心によって苦しみを受ける」(19節)とあります。いかなる時にも、このように生きることが、キリスト者の生活なのです。この苦しみを受けることが間違っているのでもなければ(12節)、決して恥じることでもありません(16節)。キリストに倣うこととして、幸いなことなのです(マタイ5章10~12節)。真実な主のために担う苦しみは、敗北ではないのです。

2.信仰に生きることを学ぶ
恵みにより神のものとされることによって、今の苦しみは喜びとなり、将来の歓喜の先取りとなります(13節)。聖霊によって励まされ、助けられているからです(14節)。それゆえに、神をあがめ、神に栄光を帰するのです(16節)。そして、真実であられる創造主に自分の魂をゆだね、信頼するのです(19節)。
私たちは、苦しみや試練を経験する様々な状況の中で、神の真実を疑ったり、そうしたことに耐えられるだろうかと思ったりします。しかし、人は、信念で苦しみや試練に耐えることができるのではありません。真実なキリストが戦っていてくださるのですから、このキリストにゆだねて歩み続けるだけなのです。

真実なキリストに向かって(2016.4.3)

宣教題  「真実なキリストに向かって」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章57~62節

ここで語られている三つの対話は、一貫した「従う」という主題を持っています。
それは、バプテスマの恵みに与った者が、終生変わらないでキリストに従う信仰に生きるようになるためです。ものを考える時にも、事を行う時にも、「これがキリストに従う生き方か」という問いを持ち続けるようになることです。

1.真実を貫かれたキリスト
キリストは、十字架と復活の時が近づくのを覚えられ、エルサレムへの道に向かわれました。そこには、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」(ルカ9章51節、口語訳)と、キリストは父なる神に全面的に明け渡してその御心に委ねられ、贖罪者としての使命を成し遂げようとされる決意が表れています。この平静さをもたれた輝きは、十字架上の最後の祈りに結集しています(同23章46節)。そして、「必ず」と言われたキリストの十字架と復活の御業に集中しています(同9章22節)。
ここに、キリストの真実な愛を見ます。キリストは、約束されたことは「必ず」成し遂げられることにおいて、御自身を否むことはなさらないという真実を貫かれました(2テモテ2章13節)。私たちは、この恵みをしっかり受け取るのです。

2.真実な心をもって従う
キリストを受け入れ、キリストに結ばれて歩む者は皆、キリストに学び、キリストに倣う、キリストの弟子です。そこで、キリストは、御自身に従うときに犠牲を払うことができるか、と問いかけておられます(57~58節)。また、従うのは今です、と命じておられます(59~60節)。そして、条件をつけないで福音に生きることを勧めておられます(61~62節)。これらは、真実の限りを尽くされたキリストに対して、真実な心で従うことの大切さを語られたのです。この福音書の著者ルカが、そのように生きた証人です(2テモテ4章11節)。
キリストは、「わたしに従いなさい」と私たちを召し出していてくださいます。キリストの真実な御心の分かるキリストの弟子としていただきましょう。

大いなる逆転(2016.3.27)

宣教題  「大いなる逆転」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1コリント15章50~58節

キリストの十字架と復活の出来事は、過去の歴史ではなく最新のニュースであり、今も生きて働いている福音です。従って、死者の復活は揺るぐことのない希望です。
そこでパウロは、復活されたキリストによってもたらされる勝利の叫びを上げています(57節)。さらに、生き方が変えられたことを明らかにしています。

  1. 死に勝利して生きる 50~56節
    ここには、死の力の前に無力を知らされるばかりの私たちに、決して死がすべての終わりではないことを告げています。地上の有り様は過ぎ去り、朽ちていきます。しかし、終わりの日すなわちキリストが再臨されるときには、「この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」との神の御業がなされるからです(52~53節)。このことを信仰の目でしっかりと見るようにと告げています(51節)。
    そして、死に対する勝利が宣言されています(54節b~56節)。死は罪の結果であり、その罪に対するさばきが死です。しかし、キリストの十字架と復活によって、罪と死は完全に滅ぼされ、「死は勝利にのみ込まれた」のです。この世の命に望みをおかず、復活信仰に生きるところに勝利があります。

2. 主の業に溢れて生きる  57~58節
さて、復活信仰に生きる者は、死に勝利させてくださった神に感謝する生涯へと変えられます(57節)。そして、「主の業」に常に励む歩みに繋がっていきます。それは、いかなる時も、いかなる状況にあっても、キリストの十字架と復活によって成し遂げられた福音をこの世に証しすることに溢れる生き方です。信仰によってキリストに結ばれている者には、その主の業がどれほどの苦労であったとしても、決して「無駄」にはならないのです。
キリストの復活のゆえに、私たちの信仰も宣教も「無駄」にはなりません(15章14節)。また、そのキリストの恵みに徹して生きる者は、神の恵みを「無駄」にはしません(15章10節)。復活信仰がもたらす大逆転に生きる群で在り続けたいものです。

十字架が生み出す祝福(2016.3.20)

宣教題  「十字架が生み出す祝福」         宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ガラテヤ3章6~14節

十字架を麗しいと思う。しかし、二千年前、十字架は忌まわしい、呪われたものであった。呪いの十字架が麗しいものへと変わったのだ。それには理由がある。
天地を創造された神は、人を通してご自身の祝福を世界に満たそうと願われた。人はそれを拒絶した。しかし、神はそこからの回復の道を計画された。アブラハムとその子孫イスラエルを祝福し、彼らを通して世界のすべての民を祝福しようとされたのだ(8節)。そのために、イスラエルが神とともに歩み、世の光として生きることができるように律法を与えた。ところが現実はどうだろうか。神の祝福は世界の民には及ばなかった。むしろ、祝福の民であるイスラエルは呪いの下にあって苦しんでいた。「呪い」という大きな重荷が壁となって祝福を止めていた。そうであるのに、人々はいまだに「呪い」しか生み出さないものを慕い求めていた。

二千年前の受難日、神はこの「呪い」そのものを用いられた。ご自身の独り子であるキリストを十字架につけられたのだ。キリストは呪いそのものとなられ、イスラエルの上にある呪いと世界中の呪いをひとり、その身に負われた(13節)。キリストが重荷を負われ、取り去られたので、神の祝福がイスラエルから世界へと流れるのをとどめる壁が取りのけられた。その結果、神の霊が神の民の上に留まり、神の祝福が異邦人へと広がっていった(14節)。

本当に祝福は広がっているだろうか。私の目の前には、呪いが満ちているばかりではないだろうか。どうしたら、アブラハムの祝福が私にまでの及ぶのだろうか。アブラハムと同じ信仰に生きることによってである(7節, 9節)。神がなされたこと、そしてこれからなされることへの信頼、「呪いの十字架」によってあらゆる呪いの重荷が取り去れたと信じる信仰によってである。今までの方法を繰り返し用いても、律法がそうであったように、呪いをもたらすだけである。神がなされたこと、そしてこれからなされることに信頼する。信仰とは、無理やり「信じます」で生まれるものではない。祈り求める者に神が与えてくださるものだ。そして、アブラハムの信仰が与えられたとき、呪いの十字架は、祝福を生み出す麗しい十字架となる。