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新約聖書

心燃やされて(2017/5/27)

宣教題  「心燃やされて」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ24章13~35節

イエスさまが復活されたことは、これまでも、今も、これからも変ることのないグッド・ニュースです。しかし、二人の弟子にとっては、信じられないことでした。
彼らの[目は遮られて」(16節)心沈んでしまっていましたが、イエスさまによって彼らの「目が開」(31節)かれ、心燃やされるようになったのです(32節)。

1.遮られた目  13~27節
二人の弟子は、目が遮られていたので、近づいて来た人がイエスさまであることが分かりませんでした。イエスさまは十字架において死んでしまわれたままであると思い、失望していたからです。イエスさまの十字架が、人の罪と死を滅ぼして永遠の救いに与らせてくださるものであったことに無知であったからです。死人の復活はないという偏見にとらわれていたからです。
そのような二人に「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始め」(15節)てくださり、語りかけてくださり、聖書を説き明かしてくださったのです(25~27節)。
あなたの人生行路において、イエスさまはいつから道連れになっておられますか。

2.開かれた目  28~33節
イエスさまは、二人の弟子たちと一つのかたまりのようになって、一緒に歩き続けられました。途中二人の弟子たちに「無理に引き止め」られたイエスさまは、宿泊するために家に入られ、一緒に食事をして交わりを持たれました(28~30節)。そうしたことを通して、彼らの目が開かれ、イエスさまが復活されて生きておられることが分かったのです(31節)。そして彼らは、イエスさまが聖書を説き明かしてくださったとき、自分たちの心が燃えていたことに気づいたのでした(32節)。
あなたも目が開かれ、復活されたイエスさまと出会い、心燃やされる生活を始めてみませんか。そのためには、御言葉に立つ信仰をもって歩み出す必要があるのです。

あなたはわたしの愛する子(2017.5.21)

宣教題  「あなたはわたしの愛する子」   宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章7~11節

もし、皆様が「あなたは何者ですか」と質問されたら何と答えられますか?

1.洗礼を受けた者
どんな時でも私たちの信仰を支え、キリスト者であることの確信を失わせない根拠は、『洗礼を受けた者』だという事実です。洗礼は、復活の主イエスのご命令です。この洗礼によって私たちはキリストと共に死に、共に生き、復活の命に与かる者とされたのです。イエス様の十字架への道は、神の御子が洗礼を受けるという大きな矛盾から始まったのです。ここに神の救いの御業があるのです。

2.三位一体の神の御業
イエス様が洗礼を受けられた時、「天が裂けて」(10節)とあります。これは、天と地とを完全に隔てていた罪という幕が裂けたということで、イエス様の救いの御業が、まさに三位一体の神の御業であることを、イエス様の洗礼の時に起きた出来事は示しています。イエス様がこの洗礼から歩み出す営みは、まさにこの罪という幕を裂き、神の国を来たらす業であることが示されたのです。

3.わたしの愛する子
父なる神が、「あなたはわたしの愛する子」と言われたのは、イエス様の十字架への道を良しとされたことを表しています。もちろんこの言葉は、イエス様に向けて告げられた言葉です。しかし、洗礼を受け、聖霊によって神に「父よ」と呼ぶことを許された私たちに対して、神が「あなたはわたしの愛する子」と呼んでくださっているのです。
無きに等しい私たちが、洗礼によってイエス様と一つにされ、神の子とされ、救われたのです。この恵みに感謝しつつ、神をほめたたえましょう。

主の日を待望して(2017.5.14)

宣教題  「主の日を待望して」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章1~11節

「とわに悔ゆる日」(旧讃510番)とは、キリストのご再臨すなわち「主の日は来る」という時です。これは確かなことであり、その時はいつなのかは不確かです(1~3節)。そこで、この「主の日」への備えをするという恵みに生きることが大切です。

1.信仰が覚醒されているように  4~8節
滅びが襲う夜と暗闇のところには、信仰的に眠りと酔いが支配しています。そこには、神の御言葉に聴くことを軽視したり、聴こえなくなってしまうほどに鈍感になった状態とがあります。
しかし、キリストに結ばれている「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」。「光の子、昼の子」とされている者たちは、「目を覚まして、身を慎んで」慎み深い生活をすることによって、信仰が覚醒されていくのです(6節)。それは、油断せずに主の日の備えを怠らない生活で、より積極的に信仰と希望と愛に生きることに熱心な生き方です(8節)。

2.いつも主と共に生きるように  9~11節
人が眠るのには、三種類あります。先に述べた信仰的な眠りがあります(5章6節)。
さらに、「イエスを信じて眠りについた」すなわち「キリストに結ばれて死んだ」という肉体の死を迎えますが、それは一時の眠りであり、「いつまでも主と共にいることになります」(4章14節、16~17節)。そして、「目覚めていても眠っていても」とある肉体の眠りの中にあっても、いつも十字架に死んで復活されたキリストと共に歩み続けるのです(5章10節)。
キリストが共におられるとの臨在信仰の延長線上に、主の日のすなわちキリストの再臨の栄光が輝いています。このことをもって互いに励まし合うことによって、互いの信仰は向上していくのです(11節)。

主の道を整える者(2017.5.7)

宣教題  「主の道を整える者」         宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章2~8節

神によって遣わされた「主の道を整える者」の姿がここに現されています。

1.旧約の預言の成就として
神の救いの御業がなされる時、その前に主の使い、使者が送られてくる、そう旧約に預言されており、その預言の成就として、洗礼者ヨハネが現れたのだとマルコは告げています。そして洗礼者ヨハネの姿は、預言者エリヤの再来という位置づけの中で、エリヤの姿(列王記下1:8)と同じ格好でここに登場しています。

2.悔い改めの洗礼
洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え、その印としての洗礼を施したのです。悔い改めとは、方向を変えるという意味で、神から離れ、的外れの生き方をしていた人間が、神の方に顔を向けて方向を変えて生きるようになることです。私たちが本当に悔い改めた時、神の愛を知り、その愛に生かされて、隣人を愛する者に変えられるのです。

3.主の道を整える者として
ヨハネの洗礼は水の洗礼です。それは彼自身が悔い改めの教えを宣べ伝え人々を神に方向転換させる役目であることを自覚し、それが完成ではなく、彼はあくまでもその方の道を整える者であることをわきまえていたのです。
聖霊で洗礼をお授けになるお方、真の救い主が来られた時に神の救いの御業は完成されたのです。ヨハネのように、私たちも主をほめたたえる姿を示し、私たちの教会も主の道を整える者の群れとして用いさせて戴きましょう。

驚くばかりの恵み(2017.4.30)

宣教題  「驚くばかりの恵み」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ23章32~43節

キリストの地上のご生涯の最後に出会った人物が、十字架上の死刑囚でした。その一人は、滅びの道に直行するところを、天国に引き上げられたのです。これは、驚くべき恵みでした。

1.キリストの恵みによって
十字架上でのキリストの赦しは(34節)、一方的な恵みによる救いです。罪の赦しは、罪に対する刑罰が免除されるだけでなく、失われていた神との交わりの回復をいただくことです。
それは、人の功績によらず、何の良い行いによるのでもなく、時間をかけてあずかるものでもありません。ただ一方的な十字架上であらわされたキリストの恵みによる、即刻にして完全な救いなのです。

2.キリストの恵みに応答して
一人の犯罪人は、このキリストの恵みに対して、信仰の応答をすることにより救われました。彼は、神が審き主であることを知って恐れています(40節)。自分たちが審かれることは「当然」であると厳粛に受け止めています(41節a)。キリストは罪のないお方であると認めています(41節b)。そして、キリストにその心を向けて、「わたしを思い出してください」との願いを謙遜かつ大胆にしています(42節)。

3.キリストの恵みによる変貌を
この一人の犯罪人は、体は十字架につけられたままでしたが、キリストと共にある恵みの確信をいただき、心に大きな変化が与えられました。罪が赦され、その人格が造り変えられ、新しい生き方をしています。その変貌ぶりは、永遠につながるものでした(43節)。
この幸いな同行者キリストの永久保証の祝福にあずかるのは、キリストの恵みに信仰の応答をする「今日のあなた」なのです。

キリストを中心として(2017.4.16)

宣教題  「キリストを中心として」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  2テモテ2章8~13節
イースターは、「イエスは生きておられる」(ルカ24章23節)と告白し、主の主であられるキリストに賛美と感謝の礼拝をささげる時です。このお方の福音にあずかることは、すべてのものの中心であられる「イエス・キリストのことを思い起こす」(8節)、すなわち一人ひとりの存在にキリストが刻み込まれることなのです。

1.最高の喜びにあずかる  9~10節
パウロは、福音のために苦しみを受け、獄中での生活を余儀なくされましたが、「神の言葉はつながれていません」でした(9節)。いかなる状況下でも福音が語られ、神の言葉は生きて働いたからです。
そのようにパウロを動かしたのは、彼自身が福音に生かされている喜びがあったからであり、キリストに招かれている人々が救われ、共に永遠の栄光にあずかることのできる喜びがあったからです。ですから、あらゆることに耐え忍ぶことができたのです(10節)。ここに、キリストを中心において生きる者の喜びがあるのです。

2.キリストと共に生きる  11~13節
この箇所は、初代教会の讃美歌であり、信仰告白でもありました。今日まで、多くのキリスト者の心に刻み込まれてきました。
キリストの復活信仰に生きることは、自分の願い、考え、思い、計画といった自分自身がキリストと共に十字架につけられ、キリストの願い、考え、思い、計画と共に生きるということです(11節)。そのように生きるならば、不誠実に生きることはできなくなります。ただ、心ならずも不誠実になったとしても、ご自身に対して真実であり続けられるキリストは、真実の限りを尽くしてくださいます(12~13節)。
キリストを中心において生きることは、真実なキリストを信頼して共に生きることです。そこから、恵みと力と希望がわいてくるのです。

主は死にて葬られ(2017.4.9)

宣教題  「主は死にて葬られ」           宣教 今田好一牧師
聖 書  ルカ23章50~56節
当時、十字架で処刑された人をきちんと墓に葬ることはありませんでした。

1.神に用いられたアリマタヤのヨセフ
アリマタヤのヨセフは金持ちで、議員で、隠していたがイエスの弟子でした。彼はピラトの所へ行き、イエスの体の引取り方を願い出ます。彼はイエス様の十字架を見て、弟子であることをもう隠すことはできませんでした。そして、自分のための墓をイエス様に献げたのです。イエス様が死なれた後で、彼にできることはこれだけでした。しかし、死んでからではもう遅い、生きている内に多くのものを献げれば良かったのにと思われますが、決して遅くはありません。神はこの墓を用いて、イエス様の栄光の復活の場とされました。

2.陰府にまで降られた主イエス
主が埋葬されるのを、イエス様と一緒にガリラヤから来た婦人たちが見届け、家に帰り、香料と香油を準備しました。それは、安息日が明けたらもう一度丁寧に主を埋葬するためでした。彼女達にできることは、ただそれだけでした。しかしこの時、イエス様はどうされていたのでしょうか。使徒信条においては、「陰府にくだり」と告白しています。この言葉は、イエス様が十字架において、言い難い憂いと苦痛と恐れを肉体のみならず魂において引き受け、忍ばれたことを語り示しています。それによって、私達の罪、古き自分が主の十字架と共に葬られたのです。そして、罪の奴隷状態から解放されるという救いが実現したのです。
このお方を私の神、私の救い主と信じ受け入れ、共に歩ませて戴きましょう。

信仰による再出発(2017.4.2)

今日の宣教要旨
宣教題  「信仰による再出発」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  創世記22章1~14節 ヘブライ11章17節
アブラハムを祝福される神は(創世記12章2節)、全能の神(17章1節)であり、永遠の神(21章33節)であられます。ところが、それを覆すかのように、彼に信仰の試練を与えられました(ヘブライ11章17節)。彼にとっては、神が約束されたことと(17章19節)矛盾する要求をされたことが理解できなかったでしょう。

1.説明はできないが
アブラハムは、約束の子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられたことに対して、自らも納得できない、人にも説明して語る言葉を持たないままで「その場所」に来たのでした。これは、神を信じているのになぜ、神は約束されたのになぜ、といった信仰の土台が揺さぶられるようなことでした。
神の前に試され、扱われ、訓練されつつ前進できるのは、「信仰によって」です。人には説明出来ないことであっても神は何もかも分かっておられます。神はある必要からこのようにされるのです。神は必ず備えてくださるのです。神は後で、試練の中にある者にも他の人にも説明してくださるのです(ヨハネ13章7節参照)。

2.二人は一緒に
「二人一緒に歩いて行った」(22章6節、8節)とは、何と幸いな父と子でしょうか。試練の中で、二人が一緒でないことがあるからであり、一緒であっても前進しないことがあるからです。しかし、二人のうちどちらかが欠けても成り立たない中を歩き続けることができたのは、父の信仰に子が従い、子の信頼に父が励まされていたからです。神は、そのような二人を守り続け、導き、備えられたのです(11~14節)。
私たちは、信仰者としての様々な関わりの中で、アブラハムとイサクであることを知る必要があります。このような神の試みの中あって、なお神を信頼し、神に従うことを通して、神は祝福され、勝利を与えてくださるのです(22章16~18節)。

受け入れる愛(2017.3.26)

宣教題  「受け入れる愛」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルか19章1~10節
ザアカイは、キリストとの出会いを通して、彼の過去がいやされ、赦され、新しくされたゆえに、彼は生かされ、周囲を生かす幸いな者とされました。キリストとの出会いのあるところ、その人の人生に同じことが演じられています。

1.キリストに受け入れられる
ザアカイは権力と富を所有し、才能にも恵まれていましたが、人との人格的な友情関係を持てない孤立した生き方をしていました(1~3節)。さらに、神の祝福にあずかる「アブラハムの子」として選ばれていたにもかかわらず、清い生き方ができないでいました。このような生き方が、本来あるべき状態にない「失われたもの」、愛の神から離れて、神との交わりを拒んでいる者の姿です。
切なる渇きをもってキリストに近づくザアカイに対して、キリストは最大の関心を持って彼の名を呼び、彼との交わりを持とうと愛の限りを尽くして受け入れておられます(4~5節)。このキリストの愛の招きは、誰に対しても変りません。

2.キリストを受け入れる
ザアカイは、そのままで受け入れてくださっているキリストを喜んで迎え入れ、登っていた木から急いで降りて来ました(6節)。それは私たちが、恐れ、罪や汚れ、不信仰といった木に登っていたところから降りて来る姿を表しています。そして、キリストの愛に触れることにより、罪に目覚め、罪を告白し、償いの実を結んでいます(8節)。そこから、キリストとの生きた交わりの生活が始まったのです(9節)。
キリストは、「失われたものを捜して救うために」私たち一人ひとりのところに来てくださっています(10節)。救いにあずかるのに、長い年月をかけることはありません。「今日」です。善行や償いをすることが、救いの条件ではありません。救いの結果湧き出てくるものです。

起きよ、光を放て(2017.3.19)

宣教題  「起きよ、光を放て」          宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ60章1~7節、19~22節 マタイ5章14節a

「あなたがたは、世の光です」。だから、「起きよ。光を放て」。聖書はそう招いている。世界や教会や自分が暗やみに包まれていても、いやそうだからこそ、「起きよ。光を放て」。

1. 主の栄光が輝いているから
私たちの光はどこから来るのだろうか。そして、捕囚からの回復にあってもいまだ苦しみもだえているシオンの光はどこから来るのだろうか。主の栄光がもうすでにあなたの上を照らしている(1~2節)。だから、主の光を映す鏡として、あなたは光を放つことができるのだ(19~20節)。事実、十字架で死なれたキリストが復活されたのだから、復活の光はもうすでに輝いている。

2. そうすればあなたの使命を果たせるから
シオンが主の光で輝く時、主に求められていた使命(2章1~5節)が実現する。失われていた者たちが戻り(4節)、これまで見向きもしなかった者が訪れ(3節)、豊かさと平和がもたらされ(5b~7節, 10~11節, 1節, 16節a, 17節, 18節)、シオン自身が喜びに満たされる(5節, 14~15節)。主のもとに人を導く使命が果すことができるようになったから喜ぶのだ。そして、主がそのあわれみによってこのことを実現してくださる。

3. 主を知り、強くされ、美しくされる
主の光に照らされて輝くとき、シオンも変えられる。救い主である主をさらに知り(16節)、主に従うゆえに強くされていく(21~22節)。そして、輝きに満ちた美しさが与えられ、その美しさがシオンを包む(7節, 9節, 13節, 19節, 21節)。主のあわれみが満ちるところこそ美しく輝くからだ(10節)。
だから、世の光よ、起きよ、光を放て。2000年前、時は来た。主はなしてくださった(22節)。十字架と復活の大きな恵みに押し出されて、あわれみの御手のうちに、復活のいのちによって歩み続けようではないか。

聖なる生活(2017.3.12)

宣教題  「聖なる生活」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ4章1~12節
ご自身の独り子を十字架に架けるほどに私たちを愛し抜かれた神は、私たちを「聖なる者」(1節)とし、「聖なる生活」(7節)に生きるように招かれます。それは、満ち溢れた豊かな生活となっていきます(1節C、10節b)。

1.神に喜ばれる生活に満ち溢れる  1~8節
パウロは、テサロニケの信徒たちに、「神に喜ばれる」生活をこれまでも歩んできたし、今も歩んでいるし、「その歩みを今後もさらに続けて」満ち溢れてほしいと勧めています(1節)。
その歩みは、神の御心と深く関係していて、罪から分離されて神のものとなるという積極的な生き方となっていきます(3節)。具体的には、純潔であり、性的な汚れから聖別されていることです(4~7節)。そのような聖なる生活を歩めるように、神は聖霊を与えて支えてくださるのです(8節)。私たちは、切なる渇きと、誠実な求めと、砕かれた心をいただいていることが大切です(詩編51編12~14節、19節参照)。

2.互いに愛し合う生活に満ち溢れている  9~12節
パウロは、テサロニケの信徒たちが「互いに愛し合う」という「兄弟愛」の実践を神から教えられていることを高く評価しています。そして、そのことに「なおいっそう励」み、満ち溢れるように勧めています(9~10節)。愛することにおいての弱さを覚えたとしても、十字架の主イエスを信じ仰ぎ、兄弟に対する愛を豊かにしていただくことです(1ヨハネ3 章16節参照)。
そのように互いに愛し合うことに満ち溢れてくることと、他の人への豊かな配慮に満ちた落ち着いた生活となることとはつながっています(11~12節)。兄弟愛に満ち溢れた落ち着いた生活を造り上げられていくことが、主の再臨を待望する者たちがなし得る最善の備えです。

主は心を見られる(2017.3.5)

宣教題  「主は心を見られる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章37~44節
人は、目に見える外側のことがらに気遣いをし、内側とりわけ心の状態に対する気遣いをすることにはおろそかになりがちです。主イエスは、ファリサイ派の人たちだけでなく、全ての信仰者の心が清められ続けることを求められるお方です。

1.あなたの心は汚れていませんか
主イエスは、ファリサイ派の人たちとの交わりを持たれながら、「あなたたちは不幸だ」と三度も語られました(42~44節)。彼らは、「外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちて」いたからです(39節)。十分の一の献げ物をするが、人に対する誠実な態度と、神への真実な信頼の心があるかと問いかけておられます(42節)。虚栄と自己中心の心でないかと問いかけておられます(43節)。気づかないで罪を犯している心の状態を問いかけておられます(44節)。
主イエスは、不幸な姿を告げることによって人を退けられるのでなく、汚れた心の状態であることを気づかせるために促しておられるのです。全ての動機は、主と人への愛からですか、それとも自分自身の欲からですか。

2.清めてくださる主を仰ぎ続けていますか
神は、人の体(外側)をお造りになられました。また人の心(内側)をもお造りになられましたので、汚れている人の内側を造り変え、他者に施しをすることに対しても喜んでさせていただけるように清くしてくださるお方です(40~41節)。人は、それによって成長していくのです。
私たちは、主イエスによって造り変えられ、心を清くし続けていただく必要があります。主イエスが十字架で流された血潮は、私たちの罪を清め続ける力があります(1ヨハネ1章7節)。ですから、私たちは主イエスの十字架を仰ぎ続け、十字架の血潮に信頼し続けるのです。

父の愛あふれて(2017.2.26)

宣教題  「父の愛あふれて」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ15章11~24節
この「放蕩息子のたとえ」は、今日の私たちと関わりのない話が語られているのではなく、私たちの人生そのものが描き出されている物語です。正確に言うならば、「失われた息子のたとえ」なのです。

1.人は自由を求める  11節~16節
弟息子は、自由を求めて旅立っています。ところが、その自由を放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、動物以下の生活を強いられました。
人は、自由を誤らせると、罪の誘惑に陥って本来の自由に生きることを失わせます。善悪を区別する力を失わせます。愛情を弱らせ、良心と理性にしたがって生きることを失わせます。ここに、父なる神を離れて生きる人の失われた姿があるのです。

2.人は本心に立ち返る必要がある  17節~20節a
そこで、弟息子は「我に返って」本心に立ち返り、「天」すなわち父なる神に対する罪と、「お父さん」すなわち共に生きる人に対する罪を告白しています。そして、すがる思いをもって「父親のもとに行った」のです。
ここに、父なる神のもとに立ち返る人の姿が表されています。そのまま、ありのまま、立ち上がって父なる神のもとに立ち返る決断をすることが必要なのです。

3.人は神の愛によって回復される  20節b~24節
そのように立ち返った弟息子に対して父親は、「見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。愛は見分ける力があり、走る力があり、無条件に受け入れる力があるからです。父親は、弟息子のそのままを覆い、息子であるしるしの指輪をはめさせ、新しい出発のための履物を履かせ、子牛を屠って迎え入れました。
ここに、独り子イエスを十字架にかけてくださった神の愛が表されています。愛の神は、自分の存在の価値と意味を見いだして、新たに生きる者を喜ばれるのです。

聖なるもの(2017.2.19)

教題  「聖なるもの」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  2テモテ2章14~26節
人は、確かな方に愛され、その方に結びついていたい、確かなことを成し遂げたいと切望しています。その確かな方が主イエス・キリストであることを知るならば、その主のお役に立ちたいと願い、「聖なるもの」とされ続けることを求めるのです。

1.貴いことに用いられることは当然である
主は、私たちが「貴いことに用いられる器」(21節)となり、「主の僕」(24 節)となって、神に用いられることを願っておられます。その主の器は、神の愛と恵みと聖霊に満たされ、それを保ち続け、それを他者と分かち合うために持ち運ばれる者です。
そのことを経験している主の器は、「恥じることのない」熟練した働き手となって、「真理の言葉を正しく伝え」分かち与えることができるようにされるのです(15節)。すなわち、教えることと、その人の生活が聖別されて分離していないということです。語ったように、教えたように生きているかとは絶えざる問いかけです。

2.「聖なるもの」となることを求めることは当然である
続く聖書箇所には、20にものぼる罪のリストが述べられていますが(3章1~9節)、自己愛や高慢や腐敗しているクリスチャンの心の状態が語られています。そうした罪の状態がきよめられて「聖なるもの」となることを求めることは、当然なことなのです。
まず、卑しいものから離れ去り、また避けることを決断し(16~19節)、「正義と信仰と愛と平和を追い求め」続けることが大切です(22~26節)。主ご自身は、そのような者をきよめ続けてくださって、主に役立つ者として用いてくださいます。それは、自分のためというよりは、主の働きのために、どうしても必要なことなのです。
主は、有能な器ではなく、主のために有用な器を用いてくださるのです。

あなたは私に何をしてほしいのか(2017.2.19)

宣教題 「あなたは私に何をしてほしいのか」 宣教 スティーブ・ブレディ師
聖 書  ルカ18章 35~43節
答えがはっきりしている質問を投げかける人がいる。主イエスが盲人の物乞いに、何が必要なのかと尋ねたとき、主イエスの投げかけられた質問はそのようなものであったのだろうか。同じように、主イエスは、われらの必要についての質問をわれらに投げかけられたのだろうか。

1.あなたは主イエスに何をしてほしいのか
何もしてほしくないのか。何かしてほしいのか。すべてをしてほしいのか。

2.どれだけ本気にそうしてほしいのか
バルティマイは、本当にそうして欲しいと切願していたし、自分の必要が何であるか、明確に分かっていた。われらもそうあるべきだ。

3.それらが与えられたとき、あなたは何をするのか
与えられたとき、バルティマイは主イエスに従った。あなたはその意志があるか。あなたはそうするか。