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新約聖書

成長させる神(2018.2.4)

宣教題  「成長させる神」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章18~21節
 主イエスは、人々からの拒絶に遭いながらも「神の国」のことを宣ベ伝えられ、その御業を進められました。その結果、神の恵みのご支配は、人々の不信仰を越えて発展していきました。

1.拡大していく  18~19節
 小さなからし種を庭に「蒔く」ことにより、芽を出し、やがては大きな木となり、その枝には空の鳥が宿るほどになります。そういう命をからし種は持っています。
 このからし種のように、神の恵みの支配が及ぶ「神の国」は、福音の種が蒔かれることにより、それが拡げられ、全世界を覆うようになりました。最初は「小さな群れ」でしたが(ルカ12章32節)、神は人を造り変え、社会をも変革させて、著しい成長を与えられました。この「神の国」が拡がっていく御業に、私たちも参画させていただいているのです。

2.造り変えていく  20~21節
 わずかなパン種を粉に「混ぜると」、パン種が活発に働いて膨らんでいきます。そのように膨らませていく実態は目に見えません。
 「神の国」においては、主イエスの救いに与った者たちを神の恵みのご支配のうちに生かし、豊かに成熟させていかれます。愛を動機として生きる人格が形成され、信仰による価値観を確立させ、試練をも踏み越えさせ、死の世界をも打ち破って進ませまるほどに造り変えられます。この「神の国」の最もよく目に見える実として「教会」が生み出され、建て上げられました。私たちの教会は、「神の国のために共に働く」僕とさせていただいているのです(コロサイ4章11節)。

御言葉に生きる(2018.1.28)

宣教題  「御言葉に生きる」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ1章19~25節

 神は、私たちを初々しい信仰者とするために召し出してくださいました(17~18節)。その神の御業がさらに進んでいくために、私たちが御言葉に生きることを求められています。

1.御言葉に聞く必要がある  19~21節
 御言葉を「聞くのに早く」とは、素直に、従順に、へりくだって聞くということです。「話すのに早く」とは、聞いた御言葉を思慮深く受け止め、正しく理解し、語ろうとする相手にふさわしく話すことです。そして、御言葉が自分の考えていることと合わないとか、自分の本当の姿が明らかにされているので受け入れられないということで、神に対して怒りを覚えることに「遅いようにしなさい」と勧められています。
その怒りから生まれる言動は、神の御心に適うものではありません。ですから、御言葉を受け入れなくさせる汚れや悪を素直に捨て去り、魂を救うことができる御言葉が語りかけることを聞き続けることが必要です(詩編119編130節)。

2.御言葉を行うことである  22~25節
 御言葉に聞くことから始めたならば、「御言葉を行う」ことがそれに結びついていきます。すなわち、御言葉に人格を傾けて注意深く聞くならば、それに従って行動が起こり新しい生き方が生まれてきます。ですから、御言葉に真実に向き合わず、御言葉に聞くことを忘れて、自分を欺かないことです。どこまでも、御言葉を「一心に見つめ」て生きるのです。

 一人ひとりが、御言葉の前に謙遜でありたいものです。そして、一人ひとりにふさわしく、御言葉を行う幸いに生きるものとならせていただきましょう。

罪人を招くために(2018.1.21)

宣教題  「罪人を招くために」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章13~17節

イエスは、再び湖のほとり出て行き群衆を教えられ、通りがかりの道でレビが収税所に座っているのを見かけて声をかけました。それは何のためだったのでしょうか。

1.わたしに従いなさい
レビは、イエス様からの召しを受けた時、すぐに従います。ここで重要なのは、レビがすぐに従ったということです。彼は徴税人であり、当時は罪人の代表者的存在として、決して救われることはないと思われていました。しかし、そのレビをイエス様が弟子として召されたのです。彼には、何も誇りとするものがなかったのです。

2.罪人の最たる者から主の弟子に
罪人から主の弟子になった人物の代表的存在にパウロがいます。彼はテモテに、「わたしは、その罪人の中で最たる者」と言っています。そんな彼が復活のキリストと出会い回心し、主の弟子となります。 パウロも神の御前に誇るべきものなど何一つ無く、ただ主の十字架によって救われた。その恵みと神の愛に生きた人物でした。

3.罪人を招くために来られた主イエス
主の弟子とされたレビはイエス様を食事に招きます。それを見たファリサイ派の律法学者は、イエス様を非難しました。そこでイエス様は、「わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである」と言われました。彼らは、自分の正しさに固執するあまり、罪人をも赦して招く大きな神の憐みを認めることができなかったのです。
わたしたちも、ただイエス様に招かれた罪人に過ぎません。レビやパウロのように、わたしのような者さえ招かれたことを心から感謝し、イエス様の愛と憐みと恵みを受けた者として歩ませていただきましょう。

あなたの罪は赦される(2018.1.14)

宣教題  「あなたの罪は赦される」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

イエス様が中風の人を癒された出来事から、わたしたちには何が最も大切なのかを見ていきましょう。

1.子よ、あなたの罪は赦される
 イエス様が町に入られると、そこに中風の人が運ばれてきました。するとイエス様は、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。罪を赦すことのできるのは神だけです。イエス様は神としての罪の赦しを宣言されたのです。それは、神の国は既に来ているのだから、神の子として、新しい命に生きなさい、ということを人々に告げようとされたのです。

2.イエスとは誰か
 イエス様の言葉に律法学者たちは心の中で神を汚す言葉だと論じます。しかしイエス様は続いて、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。それによってイエス様は、自分には罪を赦す権威があり、自分が誰であるかを示されたのです。そして神の国が既に来ており、神に近くあることの幸いに生きる者となるように告げようとされたのです。

3.その人たちの信仰を見て
 イエス様は、中風の人の信仰ではなく、彼を運んできた人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。確かに癒される人の信仰は大切ですが、その人の良き業によって罪が赦されるのではなく、イエス様の憐れみ、イエス様の執り成しによるのです。
 わたしたちにとって最も大切なのは、隣人への愛とイエス様への信頼です。そこに神の御業が現わされていくのです。そのことを求めて共に祈りましょう。

愛が分かった(2017.1.7)

宣教題 「愛が分かった」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 1ヨハネ3章11~18節

 パウロは、キリストこそが命そのものであると告白しています(フィリピ1章21節)。そのキリストをどのように知ることができるのでしょうか(14節、16節)。

1.死から命へと移してくださる主  11~15節
 キリスト者の生活は、「互いに愛し合うこと」を大切にしています(11節)。ところが、カインが弟を殺した姿に見るように(12節)、殺人は憎む心から生まれるものです(13節、15節)。今日の世界が「カインのように」なっているのではないか。また、私たちの心が憎しみに駆られ、心のうちに密かな殺人を犯すことになっていないか。そして、教会が本当に「互いに愛し合う」群れになっているか、と問われます。
 ところで、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを」事実として知らされ、信仰をもって受け止めています(14節、ヨハネ5章24節)。キリストによって死から永遠の命に移されるならば、愛に生きる者に変えられるのです。

2.命を捨てる者へと変えてくださる主  16~18節
 そのために、キリストは十字架にお架かりくださって命を捨ててくださいました。その事実のゆえに「愛を知りました」と告白しています。ヨハネは、家族愛をはじめ多くの愛を経験していましたが、キリストの十字架のもとに身を置いたことによって初めて神の愛が「分かった」のであり、地上の使命を終えるまで続いた経験でした。
 私たちを兄弟を愛する者に、命を捨てる者に変えてくださるのは、キリストご自身です。そこからは、兄弟に対して誠実な同情を寄せる愛が生まれてきます(17~18節)。何よりも、他者の救いと必要のために命を注ぎ出す者とされます(フィリピ1章22~26節)。これこそが、キリストの十字架の愛に生かされている者の生き方です。

生きることはキリスト(2018.1.1)

宣教題 「生きることはキリスト」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 フィリピ1章20~21節

 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益です」との告白は(21節)、パウロのひたむきな心構えが伝わってきます。それは、私たちの生活の試金石でもあります。

1.私たちの生涯の中心は  21節
 パウロは、「わたしにとって、生きるとは」キリストに仕えることですとも、キリストのようになるとも言っていません。キリストが、彼の信仰と生活と奉仕の動機であり、目標であり、生涯であったからです。それは、彼がキリストにすべてをお任せし、明け渡して、キリストがその生涯の主となっていてくださった証しです。そこで彼は、古い自我性に死んでキリストに生きていただいている、肉体の死をも永遠の命に生きるものとされているゆえに、「死ぬことは利益なのです」と喝破しています。
このようにキリストを中心にして生きることが、私たちの共通のそして共有すべき人生観また死生観です。

2.私たちの切なる願いは  20節
 このような信仰者としての在り方また生き方は、パウロがどんなに厳しい環境にあっても福音を前進させる動力となり、内に燃える切願となったのです。それは、どういう場合にも、キリストによって贖われて聖霊の宮とされている自分の身によって、キリストが誰の目にもハッキリと見えるほどに拡大されるようになることです。しかも、キリストが、特別なときだけでなく普段の生活の中で、大胆に証しされるようになることです。
 これこそが、私たち一人ひとりの、そして教会の切なる願いです。

恵みによって、今の私に(2017.12.31)

宣教題 「恵みによって、今の私に」     宣教 今田好一牧師
聖 書 1コリント15章3~10節

 復活の主が人々の前に現れたリストの最後に、パウロは自分を挙げて、神の恵みを感謝しています。

1.今のわたしに導いた惠み
 パウロは自分を「月足らずで生れたようなわたし」と表現し、更に神の教会を迫害した張本人として描きます。しかし神は、そんなパウロに主の十字架による全き赦しを与え、復活の主イエスを宣べ伝える者として用いられます。神は、パウロが弱い時に強くし、迫害に遭った時に助け、心挫ける時に新しい力を与えて下さいました。

2.恵みによる多くの働き
 パウロは、自分の働きが誰にも負けなかったと告白をします。それは神の恵みが溢れているから、共にいて下さった神の恵みによって多くの働きができたと語ります。神の恵みを深く感じたパウロは、その恵みを決して受けっ放しにはしませんでした。

3.内側で働く神の恵み
 パウロは、神の恵みを感じ、一生懸命働く者になった自分が偉いのではなく、素晴らしいのは私の内で働かれる神の恵みなのだと語ります。すべてが神の恵みであり、その恵みの与え主だけが褒め称えられるべきなのです。神の愛が欲しくて奉仕するのではなく、神への感謝が自然の表れとしてなされる奉仕のみが貴いのです。
 今年、与えられた恵みに感謝し、来る年のためにも、主は更に優る恵みを私たち一人ひとりに備えておられることを信じて歩みましょう。そして、今のわたしがあるのは主の十字架のゆえであることを心に覚えましょう。

神の愛の冒険(2017.12.24)

宣教題 「神の愛の冒険」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ3章16~21節

 クリスマス、それは神が愛ゆえに冒険をされて、私たち一人ひとりの所に来てくださった出来事です(16節)。

1.キリストが十字架に向かう冒険の道  16節a
 神の愛の対象は、まぎれもなく「世」です。それは、愛の神を受け入れない浮き世の世界であり、そこに生きる人の心と生活の罪ある有りさまです。神は、その「世」を無条件の絶対的な愛を持って愛していてくださるのです。
 さらに驚くべきことに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と神の愛の深さが現されました。愛するに価しない者に対して、キリストを十字架に架けるという、最高の価値ある御業を成してくださったのです。神の愛が集中したのは、キリストが十字架に向かうという冒険の道においてでした。

2.一人ひとりが信仰に生きる冒険の人生  16節b
 神の愛の冒険に対して、私たち一人ひとりもまた人生の冒険へと招かれています。その冒険とは、自分の殻に閉じこもって生きることから、神の愛を受け入れ、神に対する信仰に生きることです。それは、愛の神から失われた滅びのなかを生きるのではなく、キリストの復活にあずかって、神との永遠の交わりに生きることです。それゆえに、キリストが救いを成し遂げてくださった十字架を仰ぎ見るのです。神は私たち一人ひとりに、光を選ぶのか、闇を選ぶのかを問いかけておられます(17~21節)。
 「ヨハネによる福音書3章16節」は、私たち一人ひとりが生涯を通じて、日々に心の中に呼び起こして自らに語りかける御言葉です。それは、ただ信仰によってのみキリストに寄りすがり、健やかな愛の心に立ち直り続けることです。

主の天使が命じたとおり(2017.12.17)

宣教題 「主の天使が命じたとおり」    宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ1章18~25節
 神は、御子イエス・キリストを、神の愛の贈り物として与えてくださいました。

1.マリアの信仰による確信
 マリアは、その信仰によって神の贈り物として、イエスをわが身に受け入れました。しかし、神の贈り物は、マリアただ一人に贈られたものではなく、すべての人を罪から救うために贈られたのです。わたしたちに必要なのは、神の贈り物なる救い主イエス・キリストを心の中に受け入れ、それを喜びとすることなのです。

2.ヨセフの正しさゆえの悩み
 ヨセフは、全く身に覚えのないマリアの妊娠を知り、怒り、悩み、苦しみます。しかし、天使からの「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(22節)との言葉で苦しみは半減し、後はその神の言葉を信じることで、ヨセフの苦しみは消えました。ヨセフは、マリアの胎の子を神からの贈り物であると信じ、これを受け取ったのです。

3.主の天使が命じたとおり
 マリアとヨセフは、実に対照的な方法で神の贈り物であるイエスを受け取りました。マリアは天使の言葉で悩みつつも、「わたしは主のはしためです」(ルカ1章38節)と、それが神の恵みであるとの信仰の確信に立ち、そこに光が与えられ、ヨセフは天使の言葉で悩める心に光が与えられました。わたしたちも神の言葉を聞いて悩みの中にありつつも信仰の確信を得る時と悩みの中に光を得る時があります。そのどちらにしても、わたしたちが神の贈り物であるイエス様を受け取るための方法なのです。
 神は、わたしたちにもイエス様を与え、イエス様によって、いつもわたしたちのそばにいてくださるのです。神を信じ、御言葉に聞き従う歩みを始めましょう。

あなたを待っておられる主(2017.12.10)

宣教題 「あなたを待っておられる主」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネの黙示録3章14~22節

 私たちは、すでに来てくださった救い主イエスの救いを受け入れました。そして、再び来られる王なるイエスを待望しています。今は、私たちを待っておられる主イエスに対して、新たな思いで信仰の応答をさせていただく時です。

1.真実な愛の主であるから 
 ラオディキア教会に語りかけられた主は、いつも変らずに、約束されたことを必ず成し遂げられる真実を貫き通して(14節、2テモテ2章13節)、愛を現し続けておられます(19節)。この真実な愛の主が、クリスマスの主イエスであり、十字架の救いの道を歩んでくださったのです。
 今も語りかけ招かれる主イエスは、私たちが信仰の戸を開けることによって、交わりが待てることを待っておられます(20節)。

2.真実な愛の主に誠実な応答を 
 主イエスの真実な愛を知ったにもかかわらず、ラオディキア教会がそれに応答しない「なまぬるい」状態でした(15~16節)。彼らは、自分たちの本当の姿が「分かっていな」かったのです(17節)。それに対して、真実な悔い改めと、試みによるテスト済みの信仰をもってキリストを着るものとなり、霊の目を開いていただくよう勧めています(18~19節)。
 主イエスは、十字架に架かられた赦しの御手をもって、私たちの信仰の戸をたたき続けておられます。そして、それを拒むことのないように今なお招き続けておられます。私たちの全存在と全生涯の中に真実な愛の主を招き入れ、誠実な信仰の歩みを続ける勝利者とならせていただきましょう(20~22節)。

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

解放される道(2017.11.19)

宣教題 「解放される道」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ13章10~17節

 ここに、ただ主イエスの憐れみにすがっている女性がいます。彼女は、十八年の間体がかがんだまま伸ばすことができない病気でしたが、主イエスによってそこから解放されたのでした(10~13節)。

1.主イエスは安息日の意味を回復された 
 会堂長は、主イエスが安息日に癒しの業をなされたことを非難しました(14節)。本来安息日は、神が世界の王であることを覚え、すべてのものが休み、すべての人
が神の前に公平とされ、神の約束を覚える日でした。ところが当時、そのことが歪曲
されていたため、主イエスは元に戻して神の愛を知る日とされたのです。主イエス
は、この時解放のメッセージを語られていたと思われます(ルカ4章16~20節)。
主イエスは「捕らわれている人に解放を」告げ知らせ(ルカ4章18節)、解放の御
業をなされるお方です。

2.主イエスは解放の御業をなされた 
 主イエスは、病気から解放された女性が大事な「アブラハムの娘」であるので、「サタンに縛られていた」ところから本来の姿に解放されたのでした(16節)。パウロも同様のことを証ししています(2コリント12章7~10節)。
 主イエスは、「罪と死との法則から」解放されることから始まって(ローマ8章1~2節)、人がもっている深い劣等感などの弱さから解放される道を開いてくださるお方です。ですから、私たちは主イエスを信頼し、主イエスに支えられて、真っ直ぐに立ち続けるのです。この主イエスに出会い、その憐れみに与るのが、私たちの安息日であるこの礼拝の時なのです。

子どもを祝福されるイエス様(2017.11.12)

宣教題 「子どもを祝福されるイエス様」   宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ19章13~15節

 子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されているイエス様の姿は、わたしたちの心を温かくしてくれる。しかし弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱った。

1.子どもたちを退ける
 当時のイスラエル社会では、律法を守ることが何よりも大切である。子どもたちは、律法を理解できず、守ることもできないため、完全な人間として受け入れられずにいた。だから弟子たちは、子どもを連れて来た人々を叱った。しかし、イエス様は子どもたちを前にして、「天の国はこのような者たちのものである」と言われた。

2.条件付きの世界と無条件の世界
 当時、多くの人々が律法を厳守し、「もし~ならば」という条件付きの世界を生きていた。わたしたちはもはや律法を厳守することはしないが、それに共通する姿勢でいることが多いのではないだろうか。しかし、イエス様が言われた「天の国」とは、無条件の世界を指しているのであり、その世界に生きることで、わたしたちは生きる力を得、再び立ち上がっていく力を得ることができるのである。

3.子どもたちを祝福される
 子どもたちにとって何よりも重要なのは、無条件で自分を受け入れてくれる存在であり、そこに信頼が育まれてこそ、子どもたちが活き活きと成長していけるのである。イエス様は子どもたちを、あるがままに受けとめ、祝福されたのである。
 イエス様が親たちに連れて来られた子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたように、わたしたちをその腕で抱き上げ、祝福しておられるのである。そして、『あなたが存在し、生きていてくれることが、何よりの価値である』と言われているのである。

思い違いをしないように(2017.11.5)

宣教題 「思い違いをしないように」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章12~18節

 主イエスを信じた者たちが「試練」の中に置かれることにより、それが「誘惑」となってしまうことがあります。その誘惑に対して「思い違いをしてはいけません」し(16節)、神がどのようなお方かを見通し、見極めることが大切です。

1.神のさばきを見通すように  13~16節
 信仰者として歩んでいこうとすると、誘惑に遭うという経験をします。神が罪の誘惑をされるのではありません。ただし神は、信仰者が誘惑に遭うことを許してはおられます。ですから、誘惑を甘く見るといった思い違いをしてはなりません。
 というのも、誘惑へと誘う「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生」むからです。その死とは、神を離れた状態の霊的な死です。罪の結果である死をしっかり見通すとともに、神は義なるお方ですから、罪を正しくさばかれることを忘れてはなりません。罪と死に対して、人間の側からの解決はないからです。

2.神の賜物と御心を見極めるように  17~18節
 さばきの神を知ることで終わるならば、絶望に陥ります。しかし、そのような思い違いをしてはいけません。神の賜物は、それを贈る動機において不純でなく、良いものであり完全です。この創造者である神は真実であられ不変のお方です(17節)。その神の賜物中の賜物は、主イエスです。

 神は「御心のままに」、主イエスとその福音によって私たちを新たに生まれさせ、神の子としてくださり、神のものとしてくださいました。そのことが、神が造られた被造物の「初穂となさる」ためであったとは驚くべきことです(18節)。
私たちは、この神の賜物と御心をしっかりと見極めた信仰の歩みをするのです。

主の十字架と共に歩む(2017.10.29)

宣教題 「主の十字架と共に歩む」      宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ1章40~45節

 イエス様の愛の御業によって、重い皮膚病を患っている人がいやされたという記事から、わたしたちがどうあるべきかを見ていきたいと思います。

1.イエス様の御心ならば
 当時、重い皮膚病を患った人が置かれていた状況は悲惨で、自ら「汚れている者」と叫び、町の外でしか住めませんでした。その人イエス様の所に来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ます。それは彼が、この方なら自分の病をいやしてくださると確信したからです。ただ彼は、自分のような者をイエス様が憐れんでくださるかどうかが不安でした。

2.だれにも、何も話さないように
 そんな心配をよそに、イエス様は彼をいやされました。そして「だれにも、何も話さないように」と命じられました。しかし彼は、町に入り多くの人々に告げ、広めます。人々は、イエス様の告げられた悔い改めの福音ではなく、いやしの力を求めたのです。その結果、イエス様は町に入ることができなくなりました。

3.イエス様の犠牲によって
 彼は、自分の身に起きたいやしと清めの出来事を言い広めましたが、それはイエス様の十字架による犠牲抜きの証しだったのです。しかしわたしたちは、十字架抜きの救いも、十字架抜きのいやしも知りません。私たちが救われるのも、いやされるのも、ただイエス様の十字架による犠牲のみです。
 私たちも、この思い皮膚病よりも恐ろしい罪から救われたことを感謝し、多くの人々に証しし、主の十字架と主に歩む者とならせて戴きましょう。