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新約聖書

試練の効用(2017.9.17)

宣教題 「試練の効用」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章1~4節
 
 キリストの復活の証人であり(1コリント15章7節)、ペンテコステ後のエルサレム教会の指導者の一人として奉仕した(使徒言行録15章13節)ヤコブは、迫害下にあった各地の教会の人々に手紙を送りました(1節)。この手紙には、キリスト信仰に生きる人々に心の在り方また生活や行いについて具体的に語られています。
Ⅰ.試練は一様ではない  2節
 迫害を受けるという困難にあった人々に、まず「試練」について筆を執っています。信仰を持てば、試練がなくなるというのではありません。聖書が教える信仰は、その信仰の結果として、「いろいろな試練に出会う」という経験をするのです。
 試練には、健康面で弱さを覚えたり、経済的に困難を覚えたり、人間関係で難儀することもあり、信仰の迫害にも会います。若いときの試みがあり、老年特有の戦いもあります。だれの目にも明らかな困難があるかと思えば、人知れず悩むこともあります。困難が重なることもあったりと、一様でない試練です。
Ⅱ.試練を喜びとする  2~4節
 人の生まれながらの性質からすれば、試練を喜ぶことはできません。ところが、その試練を「この上ない喜びと思いなさい」というのです。
 試練を通されることによって、信仰が本物に近づけられます。そのように「信仰が試される」者となる喜びです。その試練を通して「忍耐が生じ」、その忍耐という品性が与えられるゆえに、試練が喜びとなります。そして、あらゆることにおいて、神の御心を正しく捉え、それに全力を注いで歩む「完全で申し分」のない者とされていくという喜びが生まれます。
 試練、信仰の試し、忍耐、完全な者にされるのは、深められていく恵みです。

目を覚ましていなさい(2017.9.3)

宣教題 「目を覚ましていなさい」   宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章35~48節

教会の完成は、「人の子は思いがけない時に来る」(40節、46節)というその時です。ですから教会は、その時を意識しつつ、再臨される主キリストを待望しつつ、「目を覚まして」備えている歩みをするのです。

1.喜びに輝いて  35~40節
「神の国」の恵みに与り続けながら歩む信仰者は、やがて再臨される主によって完成されるのです。その再臨される主は、突然やって来られるので、それがいつであっても良いように備えている必要があります(36節、38~39節)。
まず、「腰の帯を締め」とあるように、主が喜んでくださるような日々の生活を送ることです。「ともし火をともしていなさい」とあるように、不必要なものを取り除いていただいて聖霊の火によって輝いていることです(35節、ローマ12章11節)。そのように「目を覚ましているのを見られる」者たちに対して、再臨の主が「給仕して」くださるように最高の祝福を与えてくださるのです(37節)。

2.忠実な心配りをもって  41~48節
真実な主は、信仰者が「忠実な賢い管理人」として歩むことによって、信仰が枯れてしまわないようにと願っておられます。それは、主の前に態度を変えないで、主を第一にして生きる忠実さと、思慮深くて細やかなことに気づく心をもった賢さをもつということです(42~43節)。もし、主の御心と御思いを知っていながら、自分が主となって自分の思うとおりに生きていこうとする「不忠実」さがあるなら、悔い改めたいものです(45~47節)。
主は忠実な者を信任され、多くのものを任されます(44節、48節)。ですから、再臨の主の前に立つ時まで、主に忠実であり続けることです(黙示録2章10節de)。

あなたは大切な人です(2017.8.27)

宣教題 「あなたは大切な人です」   宣教 尹 善鎬 師
聖 書 マタイ3章13~17節

神はイエスに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節)と言われた。これはイエスに対する神からの最高の愛の言葉です。それは神にとってイエスが最も大切な独り子であり、かけがえのない存在だからです。

1.神は私たちに神の子となる資格をお与えになった(ヨハネ1章12節)
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1章12節)。イエスを信じる者は、神にとってイエスと同じく、大切な者、かけがえのない者とされます。なぜなら「ローマ8章15~17節」によると、私たちは「キリストと共同の相続人」だからです。私たちは、神にとって、キリストほど大切な人です。

2.神は独り子をお与えになったほどに、私たちを愛された(ヨハネ3章16節)
父なる神は、独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。その愛はどんな愛でしょうか。死に渡されるほどの愛です。与えるほどの愛です。貸すのではありません。お与えになったのです。そのイエスは、独り子です。最も大切な方をおあたえになったというならば、私たちにはそれほどの値打ちがあるからです。100円を支払って買った物には100円の値打ちがあります。神の独り子の命という値打ちが支払われて贖われた私たちには、神の独り子ほどの値打ちのある者なのではないでしょうか。
私たちにはこれほどの値打ちがあるのです。しかもその値打ちは、私たちが何か素晴らしい事をしたから、つけられた値打ちではありません。父なる神は、私たちの存在そのものを愛しておられます。あなたは神にとって最も大切な人であることに気づいておられるのでしょうか。

小さな群れよ、恐れるな(2017.8.20)

宣教題  「小さな群れよ、恐れるな」   宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ12章32~34節
 
 「恐れるな」(ルカ12章4節、7節、32節)と繰り返し語られています。恐れるとは、逃げること、また大きくそれるという意味合いがあり、人間の弱さが最も正直に現れる場面です。では私たちは、なぜ恐れなくてよいのでしょうか。

1.神の恵みに生きる  32節
 「小さな群れ」には、福音のために選ばれて召された主の弟子たちが加わっていました。その神の恵みのご支配は、主イエスご自身だけにとどまることなく、主の弟子たちの間にも、続く教会にも継承され拡大していくために、父なる神が喜んで与えてくださったのです。そして、今日まで世界のあちらこちらに展開されているのです。
 私たちは、「小さな群れ」であると謙虚に自覚することから始める必要があります。そう自覚することは、決して恥ずかしいことでも、不安なことでもなく、主イエスの赦しによって立つ勇気を与えてくれます。小さな群れは、私たちの父なる神の恵みによって、大きな力となっていくからです。

2.恵みの神を覚えながら生きる  33~34節
 主イエスは、持ち物や富についての正しく賢い使い方として、「尽きることのない富を天に積みなさい」と勧められています。そうすることによって、富が神の賜物であり、それを備え与えてくださった「あなたの神、主を思い起こし」(申命記8章17~18節)、その主への感謝として「施し」をするからです。
人の心が一番関心を寄せているものが、その人の宝となっているものです。私たちは、主イエスと共に、「あなたがたの父」である神の御業に参加させていただくための元手を授けてくださった恵みの神を思い起こし、また覚えながら生きることが大切なのです。

権威ある新しい教え(2017.8.13)

宣教題  「権威ある新しい教え」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章21~28節
 
安息日の会堂に来られたイエス様が、そこで語られた権威ある新しい教えについて見ていきましょう。

1.権威ある者として
 当時は、礼拝の順序や役割が決まっておらず、多くは、律法学者が教えていました。そんな中、人々はイエス様の教えに非常に驚きます。何故なら、律法学者の権威は、人間的権威者の教えを引用して作られた権威であり、イエス様の権威は、人格に本来備わっていたものだったからです。つまり、言葉が人となられたのがイエス様です。権威ある者として語られたその証拠は、神の子、救い主であるという事実に基づいていたからなのです。

2.汚れた霊を追い出す
 イエス様は、言葉によってだけではなく、御業によってもご自身の権威を明らかに示されました。汚れた霊は、イエス様がだれであるかを、そして何をしに来られたのかを知っていました。ですから、彼らは「かまわないでくれ。」と叫んだのです。しかし、イエス様は汚れた霊の本来の目的をご存知であられたので、「黙れ。この人から出ていけ」と、言葉によって汚れた霊を叱られ、御業によって追い出されたのです。ここに御言葉と御業によるイエス様の神としての権威が表されているのです。
私たちがこのところから学ぶべきことは、この世の権威を恐れる必要はないということと、汚れた霊の業を見分けて、それを退けるということです。そのためには、イエス様の御言葉と御業の権威に対する、不動の信仰が、教会にとっても、私たち一人一人にとっても必要なのです。

シャローム(2018.8.6)

宣教題  「シャローム」          宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  エフェソ2章11~22節
 
 イエス・キリストとの出会いには、別離はありません。キリストが私たち一人ひとりにもたらしてくださるのが「平安」で、人と人との間にもたらしてくださるのが「平和」であって「シャローム」と呼ばれています。「実に、キリストはわたしたちの平和」なのです(14節a)。あなたは、このシャロームの世界に生きていますか。

1.以前は遠く離れていたが  11~13節
 ここに、人がキリストに出会う前の姿が描かれています。神の救いから「遠く離れて」、内に腐敗したものを持ち合わせ、キリストを知らず、天に国籍を持たず、救いの約束にも縁遠く、永遠の希望がなく、神を知らない者でした。まさに、キリスト抜きの人生(マタイ14章22~33節参照)、罪の赦しを得ていない歩み(マタイ9章1~8節)、死に勝利していない人生でした(ヨハネ20章19~23節)。
 キリストの最大の遺産である「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14章27節)と招かれるキリストの救いから、どれほど遠く離れていることでしょうか。

2.今やキリストによって  13~22節
 ユダヤ人と異邦人には、「敵意という隔ての壁」(14節)がありました。この敵意は、人の心の中にある罪の性質です。しかし、今や「キリストにおいて、キリストの血によって」(13節)、「こうしてキリストは」(15節)「十字架によって」(16節)、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊」されました(14節b)。
 このように、十字架上においてキリストの血が流されることによって神の義が貫かれ、その結果、キリストの平和(平安)がもたらされたのです。キリストは、神と私たち一人ひとりを神に近づけてキリストの平安で満たし、人と人との間をキリストの平和で織りなしてくださるのです(17~22節)。

わたしについて来なさい(2017.7.30)

宣教題  「わたしについて来なさい」    宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章16~20節
 
 イエス様が、湖畔で網を打っていたシモンとアンデレを御覧になられたが、これは、ふと見かけた、というのではなく、じっと見つめておられたという意味です。

1.イエス様の招きによって
  神は、シモンやアンデレと同様に、神のご計画に基づいて私たちにも御言葉を与え、招いてくださいました。この神の招きによって私たちはキリスト者とされ、イエス・キリストを信じる者として主と共に歩んでいます。 そして、イエス様の「わたしについて来なさい。」という召しによって、最初の弟子が誕生したのです。

2.イエス様の召しに対する3つの疑問
 ここに三つの問いが生じます。なぜイエス様はこの四人に声をかけられたのか?なぜ弟子を求められたのか?なぜ彼ら四人は全てを捨てて、即座にイエス様に従うことができたのか? それは、彼らに弟子としての資質があったからではなく、神が愛し、選ばれ、すべての人がイエス様の弟子になるためです。そして、彼らが神の召しをしっかりと受け止めることができたからです。

3.召しによる信仰から献身へ
 神の招きを受け、信仰が与えられ、キリスト者となります。この招きが信仰の原点です。そして召しは献身者を生みます。この献身する者の群れが神の民です。
献身とは、神の召しによって生まれる者であり、他者と比べることはできません。ただ、私たちに求められているのは、神の召しに忠実であるということです。

シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、主の召しに対して即座に従いました。これは、すべての人が主の召しに対して応答する時の模範です。私たちもイエス様の救いの御業に仕え、神の栄光のために仕える者として、神の召しに即座に応える献身者とならせていただきましょう。

心配無用(2017.7.23)

宣教題  「心配無用」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ12章22~31節

人間には、愛をもって配慮するといった必要な心配がありますが、心が乱れて「思い悩む」(22、25、26、29節)とある不必要な心配もあります。人間の必要のすべてをご存じの父なる神は、そのことに心を配って、備えていてくださいます。

1.必要のすべてに心を配られる神  22~30節
人は、命のために何を食べようか、体のために何を着ようかと、自分たちの生命や生活について心を配ることは大切です。誰よりも父なる神ご自身が、これらが必要であることを認め、心を配っておられます(30節)。すべての必要の供給者であられる神は、自然界の動植物を造られ保たれ育て養っていてくださるのですから、当然、神ご自身にかたどって造られた人間をお忘れになることなく、同じようにしていてくださいます(22~28節)。
私たちは、この父なる神を信頼して、このお方に集中した人生を歩んでいくことが大切なのです。

2.最も必要とする救いを与えてくださる神  28~30節
だがむしろ父なる神は、すべての人にとって最も必要である「神の国を求め」、そこに入れていただき、神の恵みのご支配の中に生きることが必要であることを訴えておられます(31節)。このことを見失って、さまざまなことに思い悩んでいる者たちの信仰はどこにあるのかと、問いかけておられます(28節)。
ところで、神の国の大敵は、罪の力、悪の力、さまざまな人間の存在をおびやかす力、そして死の力です。一人ひとりを心配される父なる神は、そのような力から救い出すために、救いの道を備えられたのでした。神の国の中心には、イエス・キリストが罪と悪と汚れと死を受け取って十字架で身代わりの死を遂げてくださり、それらに勝利して復活された救いがあります。今や、思い悩むことなく、心配することなく、神の国に入れていただき、神の国に対する信仰の領域を広げていただく時です。

福音を信じ、福音を守る(2017.7.15)

宣教題  「福音を信じ、福音を守る」     宣教 小岩裕一師
聖 書  ガラテヤ3章1~5節

1.「だれがあなたがたを惑わしたのか」
「物分かりの悪い」(1節、3節)と、パウロは半ば呆れ驚いています。それは、偽教師たちに惑わされたのです。律法を守ることが救いの条件としているユダヤ律法主義者たちです。なんとペトロさえも、福音に立たずにその偽善に引きずりこまれてしまいました。それをパウロは厳しく叱責しました(2章11~14節)。ガラテヤの信者だけではなく、現代のキリスト信者も、いつのまにか、惑わされる危険があるのです。
律法主義の問題は、①神ではなく、人ばかり見えてしまうことです。(1章6~10節)。②キリストが教えキリストの救いを示す聖霊の証ではなく、異なる霊現象に惑わされることです。(4章8~11節)。③ただ、キリストの十字架を信じることが物足りなく感じ、自分の善行を付け加えることです(3章2節)。使徒たちが伝え、新約聖書に記され、わたしたちに伝えられた古い福音に堅く立つべきです。

2.「一つだけ確かめたい」
「一つだけ」に答えてほしいとのパウロの詰問です。「“霊”を受けたのは」(キリストの救いに与ったこと)は、「律法を行ったからですか」、「福音を聞いて信じたからですか」と、二者択一を迫っています。
ガラテヤの教会も、キリスト教の歴史においても、現代のキリスト教会も、いろいろな信仰的な問題を抱えています。原因追求や解決案の提示も必要でしょう。しかし、パウロは、ただ、この一つだけ、問うています。この一つだけには、妥協、曖昧さはないのです。
「福音を聞いて信じる」とは、「十字架につけられたキリスト」を、ただ信じて、義とされたことです。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(6章14節)。「福音を信じ、福音を守る」ことに、パウロは命をかけていました。

神の国は近づいた(2017.7.9)

宣教題  「神の国は近づいた」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章14~15節

サタンの誘惑に勝利されたイエス様は、良い知らせをわたしたちに教えることを始められましたが、その教えの中心点とは何であったかを見ていきましょう。

1. 時は満ちた
第一は、「時は満ち」という知らせです。旧約聖書において預言者たちが、救い主が来て神の支配される国が実現すると預言して来たのですが、イエス様がこの地上に来られたことによって、今やその時は満ち、神の救いの計画が成就されたということなのです。つまり、神の国の支配はイエスというお方の上に実現したのです。

2. 神の国は近づいた
第二は、「神の国は近づいた」という知らせです。神の国と聞いて、皆様はどのような所を想像されますか。きれいな花が咲き、悩みや悲しみもない所だと思われますか。確かにそれも真理かもしれませんが、神の国とは、さらに神の恵みに満ちあふれた、「神の支配される所」という意味です。宣教は、世に対して福音を宣言するものです。そしてその主題は、「神の国」でした。イエス・キリストというお方によって、福音が宣べ伝えられ、神の国、神の恵みの支配が始まったのです。

3. 悔い改めて福音を信じなさい
最後に、「悔い改めて福音を信じなさい」という知らせです。この御言葉を実行すること、つまり、方向転換して、イエス様の十字架の死がわたしの罪のためであったと信じ受け入れる時、神の国に生きる者とされるのです。
イエス様は、今もわたしたち一人ひとりに聖書を通して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と言っておられるのです。そして、わたしに従いなさい。と招いておられるのです。

恵みと真実に囲まれて(2017.7.2)

宣教題  「恵みと真実に囲まれて」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章23~28節
神の恵みと真実が、個々人と教会の信仰の歩みの土台となって深く根ざしていくならば、信仰が保たれ、真の結実をもたらしていきます。この手紙の結びに当たる箇所には、その神の真実と主イエス・キリストの恵みが語られています(24節、28節)。

1. 神の真実に立った祈り  23~24節
主イエスの再臨に備えての祈りの中心は、信徒が「平和の神御自身」によって「全く聖なる者」とされることです。それは、主イエスの十字架によって、罪が赦され、きよめ続けられ、神のものとされることによって、神と人との間に平和がもたらされ、人と人との間に平和がもたらされ、神の平安が与えられていることです(23節a)。そして、主イエスの再臨の時まで、全存在が守られ続け、栄光の姿に変えられるのです(23節b)。
真実な神は、このように約束されたことを必ず成し遂げてくださいます(24節)。平和の神御自身は、信仰者にとって、絶対に信頼できる真実な神なのです。

2.主の恵みに信頼を置いた求め  25~28節
神の真実と恵みに信頼を置くパウロは、三つのことを依頼し、また求めています。主の恵みに立ち続けられるようにとの祈りを要請しています(25節)。主の恵みによって、キリストの体なる教会の交わりが保たれるように願っています(26節)。主の再臨待望信仰に生きることから脱線しないように(2テサロニケ2書2節)、主の恵みによって、キリストの体として一つに結ばれているように強く命じています(27節)。
この手紙は、主の恵みで始まり(1章1節)主の恵みで終わっています(5章28節)。
私たちは、主の恵みによって救われ、生かされ、主の再臨の日まで保たれているのですから、主の恵みに信頼を置くのみです(詩編23編6節)。

本当に豊かですか(2017.6.25)

宣教題  「本当に豊かですか」      宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ12章13~21節、2コリント8章9節

あなたが生き甲斐としていることは何ですか、との問いを受けたとき、何と答えるでしょうか。生き甲斐とは、何らかの意味で、自分は生きているという実感、充実感を得ることです。

Ⅰ.どこに生き甲斐を見い出すか  13~20節
主イエスは、遺産の分配の調停役になっていただくことを求め訴えてきたことを通して、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と語られ、欲が貪る欲となってしまうことに対して注意を促されました。「人の命は財産によってどうすることもできない」からです(13~15節)。
続く「愚かな金持ち」のたとえを通して、「私の」「私は」と自分のことしか眼中にない者の生き甲斐は、最も大切なものを失っていることを教えられました。そこには、神を無視した神抜きの人生観が表れています(17~19節)。そして、この世のことだけで生きることは、不安で恐れに支配される人生だと言われました(20節)。

Ⅱ.神を生き甲斐にしてみては  21節
そこで大切なことは、「自分のために富を積んで」生きるのではなく、全てのものを備えて与えてくださる神に心を向け、神を信んじて依り頼むことによって「神の前に豊かに」なることを生き甲斐とするのです。
そのように神の前に豊かになるために、その道を開いてくださったのが主イエスです。人となられた神である主イエスが、神としての威厳と力と特権を捨てて十字架の死にいたるまで「貧しくなられた」ことによって、私たちの中に深く踏み込んでくださいました。この主イエスに対する信仰によって神の豊かな命にあずかることが、神を真に生き甲斐とした歩みをつくっていくのです(2コリント8章9節)。

父への感謝(2017.6.18)

宣教題  「父への感謝」         宣教 今田好一牧師
聖 書  マタイ5章45節、7章7~11節

「父の日」は、家族が父親に日頃の感謝を表す日であると共に、わたしたちの造り主なる「父なる神」への感謝をもう一度覚えましょう。

1. 父なる神は生みの親
神に似せて造られたわたしたちは、神との交わりの中で幸せに過ごせるはずでした。ところがそうでないのはわたしたちのうちに罪があるからです。しかし神は、何とかしてその罪を赦そうとされたのです。

2. 父なる神は育ての親
イエス様は、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ・・・。」(マタイ5:45)と言われました。神は求める者すべての人に平等に恵みを注がれ、わたしたちの必要のすべてを与えてくださいます。しかし、それだけでは、わたしたちは幸せな人生を送ることはできないのです。

3.父なる神は救いの親
多くの人が神から離れた生活をしています。それが「罪」です。この罪からわたしたちを救うために、神は御子イエスを救い主としてこの地上に送り、十字架による罪の贖いを成し遂げ、わたしたちへの救いの道を開かれたのです。このお方を信じる信仰によってわたしたちの罪は赦され救われるのです。そして、もう罪に定められることはないのです。
今日「父の日」を迎え、父親への日頃の感謝を表すと共に、天におられる「父なる神」への感謝を表す時とさせていただきましょう。

誘惑を受けられたイエス(2017.6.11)

宣教題  「誘惑を受けられたイエス」     宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章12~13節
イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、何故サタンの誘惑を受けられたのでしょうか。

1.誘惑を受けられたイエス
私たちが神から離れて生きているなら、サタンの存在を意識させられることは、ないかもしれないが、ひとたび神に従おうとする時、サタンはそれを阻止してきます。神に従うほどにサタンの力も強くなります。だから、人となられたイエス様が、人としての極限状況を潜り抜ける必要があったということなのです。

2.誘惑を退けられたイエス
マルコにとって誘惑の内容よりも重要だったのは、イエス様がサタンの誘惑に勝利されたということでした。イエス様の十字架への歩みはサタンの誘惑との戦いでした。その誘惑の最高潮が、主が十字架につけられたとき、「神の子なら、自分を救ってみろ。」(マタイ27章40節b)との誘惑でした。しかし、イエス様は、その誘惑をも退けられ、父なる神の意志と霊の導きに忠実に従われた僕としての姿が示されています。

3.誘惑を受けられたのは私のため
イエス様が荒れ野におられた40日間、「野獣と一緒におられが、天使たちが仕えていた」とあるが、野獣はこの世の力の象徴であり、サタンは人がこの世で最も欲するものをもって誘惑してきます。しかしイエス様には天使たちが仕え守っていました。
このようにイエス様ご自身が誘惑を受けて苦しまれ、勝利されたからこそ、誘惑に弱く負けやすい私たちを助け、私たちに勝利を得させてくださることができるのです。
今日、私たちに代わってサタンの誘惑を受けられ、勝利されたイエス様を、もう一度、私たちの主として魂の中にお迎えさせていただきましょう。

聖霊による生活(2017.6.4)

宣教題  「聖霊による生活」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  1テサロニケ5章12~22節

聖霊は、今も変らずに教会の歩みの中で個々人の生活を確立しようと働いておられます(使徒言行録2章3~4節)。私たちは、その聖霊の火を消さないで(1テサロニケ5章19節)、燃え立たせていただく生活を歩んでいくのです。

1.教会の交わりを愛で輝かせるために  12~15節
再臨待望に生きる教会は、指導者と信徒また信徒と信徒の関係が健全で、それによって各々の信仰が確立していきます。教会の指導者は、心を注いで信徒と共に労苦し、霊的指導と養いと戒めをもって導きます。その指導者は、その働きの尊さのゆえに尊敬を受けるのです。そして、互いに平和に過ごすのです(12~13節)。また、指導者と信徒また信徒と信徒相互においては、戒め、励まし、助け合い、すべての人に寛容であり、すべての人に対していつも善を行うように努めるのです(14~15節)。
このような教会の交わりは、聖霊が結ばせてくださる愛によって造られていくのです(ガラテヤ5章22節)。

2.聖なる者の信仰が造り上げられていくために  16~22節
いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することは、神のご意思であり願いです。それは、キリストに結ばれていることにより、聖霊が実現してくださいます(16~18節)。さらに、すべてを吟味して良いものを守ること、あらゆる悪いものから遠ざかって善を追求することの基準となるのは、聖書の御言葉です(21~22節)。ですから、神から授かった御言葉を軽んじてはいけないのです(20節)。
聖霊は、この御言葉の真理を認めさせ、理解させ、それを信じて従って生きることをさせてくださいます(1コリント2章13~14節、12章3節)。ですから、この御言葉を軽んじるならば、聖霊の火は消えてしまいます。
教会の愛の交わりの中で聖なる者の信仰を造り上げてくださるのは、聖霊なのです。