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新約聖書

あなたの罪は赦される(2018.1.14)

宣教題  「あなたの罪は赦される」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

イエス様が中風の人を癒された出来事から、わたしたちには何が最も大切なのかを見ていきましょう。

1.子よ、あなたの罪は赦される
 イエス様が町に入られると、そこに中風の人が運ばれてきました。するとイエス様は、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。罪を赦すことのできるのは神だけです。イエス様は神としての罪の赦しを宣言されたのです。それは、神の国は既に来ているのだから、神の子として、新しい命に生きなさい、ということを人々に告げようとされたのです。

2.イエスとは誰か
 イエス様の言葉に律法学者たちは心の中で神を汚す言葉だと論じます。しかしイエス様は続いて、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。それによってイエス様は、自分には罪を赦す権威があり、自分が誰であるかを示されたのです。そして神の国が既に来ており、神に近くあることの幸いに生きる者となるように告げようとされたのです。

3.その人たちの信仰を見て
 イエス様は、中風の人の信仰ではなく、彼を運んできた人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。確かに癒される人の信仰は大切ですが、その人の良き業によって罪が赦されるのではなく、イエス様の憐れみ、イエス様の執り成しによるのです。
 わたしたちにとって最も大切なのは、隣人への愛とイエス様への信頼です。そこに神の御業が現わされていくのです。そのことを求めて共に祈りましょう。

愛が分かった(2017.1.7)

宣教題 「愛が分かった」         宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 1ヨハネ3章11~18節

 パウロは、キリストこそが命そのものであると告白しています(フィリピ1章21節)。そのキリストをどのように知ることができるのでしょうか(14節、16節)。

1.死から命へと移してくださる主  11~15節
 キリスト者の生活は、「互いに愛し合うこと」を大切にしています(11節)。ところが、カインが弟を殺した姿に見るように(12節)、殺人は憎む心から生まれるものです(13節、15節)。今日の世界が「カインのように」なっているのではないか。また、私たちの心が憎しみに駆られ、心のうちに密かな殺人を犯すことになっていないか。そして、教会が本当に「互いに愛し合う」群れになっているか、と問われます。
 ところで、「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを」事実として知らされ、信仰をもって受け止めています(14節、ヨハネ5章24節)。キリストによって死から永遠の命に移されるならば、愛に生きる者に変えられるのです。

2.命を捨てる者へと変えてくださる主  16~18節
 そのために、キリストは十字架にお架かりくださって命を捨ててくださいました。その事実のゆえに「愛を知りました」と告白しています。ヨハネは、家族愛をはじめ多くの愛を経験していましたが、キリストの十字架のもとに身を置いたことによって初めて神の愛が「分かった」のであり、地上の使命を終えるまで続いた経験でした。
 私たちを兄弟を愛する者に、命を捨てる者に変えてくださるのは、キリストご自身です。そこからは、兄弟に対して誠実な同情を寄せる愛が生まれてきます(17~18節)。何よりも、他者の救いと必要のために命を注ぎ出す者とされます(フィリピ1章22~26節)。これこそが、キリストの十字架の愛に生かされている者の生き方です。

生きることはキリスト(2018.1.1)

宣教題 「生きることはキリスト」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 フィリピ1章20~21節

 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益です」との告白は(21節)、パウロのひたむきな心構えが伝わってきます。それは、私たちの生活の試金石でもあります。

1.私たちの生涯の中心は  21節
 パウロは、「わたしにとって、生きるとは」キリストに仕えることですとも、キリストのようになるとも言っていません。キリストが、彼の信仰と生活と奉仕の動機であり、目標であり、生涯であったからです。それは、彼がキリストにすべてをお任せし、明け渡して、キリストがその生涯の主となっていてくださった証しです。そこで彼は、古い自我性に死んでキリストに生きていただいている、肉体の死をも永遠の命に生きるものとされているゆえに、「死ぬことは利益なのです」と喝破しています。
このようにキリストを中心にして生きることが、私たちの共通のそして共有すべき人生観また死生観です。

2.私たちの切なる願いは  20節
 このような信仰者としての在り方また生き方は、パウロがどんなに厳しい環境にあっても福音を前進させる動力となり、内に燃える切願となったのです。それは、どういう場合にも、キリストによって贖われて聖霊の宮とされている自分の身によって、キリストが誰の目にもハッキリと見えるほどに拡大されるようになることです。しかも、キリストが、特別なときだけでなく普段の生活の中で、大胆に証しされるようになることです。
 これこそが、私たち一人ひとりの、そして教会の切なる願いです。

恵みによって、今の私に(2017.12.31)

宣教題 「恵みによって、今の私に」     宣教 今田好一牧師
聖 書 1コリント15章3~10節

 復活の主が人々の前に現れたリストの最後に、パウロは自分を挙げて、神の恵みを感謝しています。

1.今のわたしに導いた惠み
 パウロは自分を「月足らずで生れたようなわたし」と表現し、更に神の教会を迫害した張本人として描きます。しかし神は、そんなパウロに主の十字架による全き赦しを与え、復活の主イエスを宣べ伝える者として用いられます。神は、パウロが弱い時に強くし、迫害に遭った時に助け、心挫ける時に新しい力を与えて下さいました。

2.恵みによる多くの働き
 パウロは、自分の働きが誰にも負けなかったと告白をします。それは神の恵みが溢れているから、共にいて下さった神の恵みによって多くの働きができたと語ります。神の恵みを深く感じたパウロは、その恵みを決して受けっ放しにはしませんでした。

3.内側で働く神の恵み
 パウロは、神の恵みを感じ、一生懸命働く者になった自分が偉いのではなく、素晴らしいのは私の内で働かれる神の恵みなのだと語ります。すべてが神の恵みであり、その恵みの与え主だけが褒め称えられるべきなのです。神の愛が欲しくて奉仕するのではなく、神への感謝が自然の表れとしてなされる奉仕のみが貴いのです。
 今年、与えられた恵みに感謝し、来る年のためにも、主は更に優る恵みを私たち一人ひとりに備えておられることを信じて歩みましょう。そして、今のわたしがあるのは主の十字架のゆえであることを心に覚えましょう。

神の愛の冒険(2017.12.24)

宣教題 「神の愛の冒険」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ3章16~21節

 クリスマス、それは神が愛ゆえに冒険をされて、私たち一人ひとりの所に来てくださった出来事です(16節)。

1.キリストが十字架に向かう冒険の道  16節a
 神の愛の対象は、まぎれもなく「世」です。それは、愛の神を受け入れない浮き世の世界であり、そこに生きる人の心と生活の罪ある有りさまです。神は、その「世」を無条件の絶対的な愛を持って愛していてくださるのです。
 さらに驚くべきことに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と神の愛の深さが現されました。愛するに価しない者に対して、キリストを十字架に架けるという、最高の価値ある御業を成してくださったのです。神の愛が集中したのは、キリストが十字架に向かうという冒険の道においてでした。

2.一人ひとりが信仰に生きる冒険の人生  16節b
 神の愛の冒険に対して、私たち一人ひとりもまた人生の冒険へと招かれています。その冒険とは、自分の殻に閉じこもって生きることから、神の愛を受け入れ、神に対する信仰に生きることです。それは、愛の神から失われた滅びのなかを生きるのではなく、キリストの復活にあずかって、神との永遠の交わりに生きることです。それゆえに、キリストが救いを成し遂げてくださった十字架を仰ぎ見るのです。神は私たち一人ひとりに、光を選ぶのか、闇を選ぶのかを問いかけておられます(17~21節)。
 「ヨハネによる福音書3章16節」は、私たち一人ひとりが生涯を通じて、日々に心の中に呼び起こして自らに語りかける御言葉です。それは、ただ信仰によってのみキリストに寄りすがり、健やかな愛の心に立ち直り続けることです。

主の天使が命じたとおり(2017.12.17)

宣教題 「主の天使が命じたとおり」    宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ1章18~25節
 神は、御子イエス・キリストを、神の愛の贈り物として与えてくださいました。

1.マリアの信仰による確信
 マリアは、その信仰によって神の贈り物として、イエスをわが身に受け入れました。しかし、神の贈り物は、マリアただ一人に贈られたものではなく、すべての人を罪から救うために贈られたのです。わたしたちに必要なのは、神の贈り物なる救い主イエス・キリストを心の中に受け入れ、それを喜びとすることなのです。

2.ヨセフの正しさゆえの悩み
 ヨセフは、全く身に覚えのないマリアの妊娠を知り、怒り、悩み、苦しみます。しかし、天使からの「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(22節)との言葉で苦しみは半減し、後はその神の言葉を信じることで、ヨセフの苦しみは消えました。ヨセフは、マリアの胎の子を神からの贈り物であると信じ、これを受け取ったのです。

3.主の天使が命じたとおり
 マリアとヨセフは、実に対照的な方法で神の贈り物であるイエスを受け取りました。マリアは天使の言葉で悩みつつも、「わたしは主のはしためです」(ルカ1章38節)と、それが神の恵みであるとの信仰の確信に立ち、そこに光が与えられ、ヨセフは天使の言葉で悩める心に光が与えられました。わたしたちも神の言葉を聞いて悩みの中にありつつも信仰の確信を得る時と悩みの中に光を得る時があります。そのどちらにしても、わたしたちが神の贈り物であるイエス様を受け取るための方法なのです。
 神は、わたしたちにもイエス様を与え、イエス様によって、いつもわたしたちのそばにいてくださるのです。神を信じ、御言葉に聞き従う歩みを始めましょう。

あなたを待っておられる主(2017.12.10)

宣教題 「あなたを待っておられる主」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネの黙示録3章14~22節

 私たちは、すでに来てくださった救い主イエスの救いを受け入れました。そして、再び来られる王なるイエスを待望しています。今は、私たちを待っておられる主イエスに対して、新たな思いで信仰の応答をさせていただく時です。

1.真実な愛の主であるから 
 ラオディキア教会に語りかけられた主は、いつも変らずに、約束されたことを必ず成し遂げられる真実を貫き通して(14節、2テモテ2章13節)、愛を現し続けておられます(19節)。この真実な愛の主が、クリスマスの主イエスであり、十字架の救いの道を歩んでくださったのです。
 今も語りかけ招かれる主イエスは、私たちが信仰の戸を開けることによって、交わりが待てることを待っておられます(20節)。

2.真実な愛の主に誠実な応答を 
 主イエスの真実な愛を知ったにもかかわらず、ラオディキア教会がそれに応答しない「なまぬるい」状態でした(15~16節)。彼らは、自分たちの本当の姿が「分かっていな」かったのです(17節)。それに対して、真実な悔い改めと、試みによるテスト済みの信仰をもってキリストを着るものとなり、霊の目を開いていただくよう勧めています(18~19節)。
 主イエスは、十字架に架かられた赦しの御手をもって、私たちの信仰の戸をたたき続けておられます。そして、それを拒むことのないように今なお招き続けておられます。私たちの全存在と全生涯の中に真実な愛の主を招き入れ、誠実な信仰の歩みを続ける勝利者とならせていただきましょう(20~22節)。

背負ってくださる主(2017.11.26)

宣教題 「背負ってくださる主」       宣教  今田好一牧師
聖 書 イザヤ書46章1~4節 / マタイ11章28節

わたしたちにとって、老後のことはとても切実な問題です。でも、もし十分な備えができなくても神を信じる者にはすばらしい保証があります。それは神の約束です。

1.人それぞれが背負っているもの
 わたしたちには誰も代わることのできない、自分で負うしかない重荷があります。そして負いきれずに押しつぶされそうになることがあります。だからこそ、優しく寄り添ってくれる存在が必要なのです。それが、主イエス・キリストなのです。

2.人に背負われている神々
 バビロン捕囚となっていたイスラエルの民は、傷ついた心の中で、バビロンの神々が動物や人に背負われている勇壮で華々しい祭りを見ていました。しかしペルシアによるバビロニア帝国の崩壊の危機に際して、バビロンの守護神であるベルとネボは守護どころか、それを負う人々の重荷となり、ペルシアに仕えることになるのです。

3.人を背負ってくださる主
 主なる神は、イスラエルの民に、「あなたたちは生まれた時から負われ・・・老いる日まで白髪になるまで・・・わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3~4)と言われました。それはわたしたちの過去、現在、未来にかけてのすべてであり、わたしたちの歩みの最初から終わりまで神の守りの中にあるということなのです。

 全世界の多くの人々が老後の生活に不安を覚えている現代において、神の約束はいよいよ大きな力となります。そして、わたしたちが歳を重ねていく中で、主に背負われていることを素直に認め、「わたしは・・・背負って行こう」と言ってくださる主に人生をお委ねしましょう。きっと平安で満たされることでしょう。

解放される道(2017.11.19)

宣教題 「解放される道」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ13章10~17節

 ここに、ただ主イエスの憐れみにすがっている女性がいます。彼女は、十八年の間体がかがんだまま伸ばすことができない病気でしたが、主イエスによってそこから解放されたのでした(10~13節)。

1.主イエスは安息日の意味を回復された 
 会堂長は、主イエスが安息日に癒しの業をなされたことを非難しました(14節)。本来安息日は、神が世界の王であることを覚え、すべてのものが休み、すべての人
が神の前に公平とされ、神の約束を覚える日でした。ところが当時、そのことが歪曲
されていたため、主イエスは元に戻して神の愛を知る日とされたのです。主イエス
は、この時解放のメッセージを語られていたと思われます(ルカ4章16~20節)。
主イエスは「捕らわれている人に解放を」告げ知らせ(ルカ4章18節)、解放の御
業をなされるお方です。

2.主イエスは解放の御業をなされた 
 主イエスは、病気から解放された女性が大事な「アブラハムの娘」であるので、「サタンに縛られていた」ところから本来の姿に解放されたのでした(16節)。パウロも同様のことを証ししています(2コリント12章7~10節)。
 主イエスは、「罪と死との法則から」解放されることから始まって(ローマ8章1~2節)、人がもっている深い劣等感などの弱さから解放される道を開いてくださるお方です。ですから、私たちは主イエスを信頼し、主イエスに支えられて、真っ直ぐに立ち続けるのです。この主イエスに出会い、その憐れみに与るのが、私たちの安息日であるこの礼拝の時なのです。

子どもを祝福されるイエス様(2017.11.12)

宣教題 「子どもを祝福されるイエス様」   宣教 今田好一牧師
聖 書 マタイ19章13~15節

 子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されているイエス様の姿は、わたしたちの心を温かくしてくれる。しかし弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱った。

1.子どもたちを退ける
 当時のイスラエル社会では、律法を守ることが何よりも大切である。子どもたちは、律法を理解できず、守ることもできないため、完全な人間として受け入れられずにいた。だから弟子たちは、子どもを連れて来た人々を叱った。しかし、イエス様は子どもたちを前にして、「天の国はこのような者たちのものである」と言われた。

2.条件付きの世界と無条件の世界
 当時、多くの人々が律法を厳守し、「もし~ならば」という条件付きの世界を生きていた。わたしたちはもはや律法を厳守することはしないが、それに共通する姿勢でいることが多いのではないだろうか。しかし、イエス様が言われた「天の国」とは、無条件の世界を指しているのであり、その世界に生きることで、わたしたちは生きる力を得、再び立ち上がっていく力を得ることができるのである。

3.子どもたちを祝福される
 子どもたちにとって何よりも重要なのは、無条件で自分を受け入れてくれる存在であり、そこに信頼が育まれてこそ、子どもたちが活き活きと成長していけるのである。イエス様は子どもたちを、あるがままに受けとめ、祝福されたのである。
 イエス様が親たちに連れて来られた子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたように、わたしたちをその腕で抱き上げ、祝福しておられるのである。そして、『あなたが存在し、生きていてくれることが、何よりの価値である』と言われているのである。

思い違いをしないように(2017.11.5)

宣教題 「思い違いをしないように」    宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章12~18節

 主イエスを信じた者たちが「試練」の中に置かれることにより、それが「誘惑」となってしまうことがあります。その誘惑に対して「思い違いをしてはいけません」し(16節)、神がどのようなお方かを見通し、見極めることが大切です。

1.神のさばきを見通すように  13~16節
 信仰者として歩んでいこうとすると、誘惑に遭うという経験をします。神が罪の誘惑をされるのではありません。ただし神は、信仰者が誘惑に遭うことを許してはおられます。ですから、誘惑を甘く見るといった思い違いをしてはなりません。
 というのも、誘惑へと誘う「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生」むからです。その死とは、神を離れた状態の霊的な死です。罪の結果である死をしっかり見通すとともに、神は義なるお方ですから、罪を正しくさばかれることを忘れてはなりません。罪と死に対して、人間の側からの解決はないからです。

2.神の賜物と御心を見極めるように  17~18節
 さばきの神を知ることで終わるならば、絶望に陥ります。しかし、そのような思い違いをしてはいけません。神の賜物は、それを贈る動機において不純でなく、良いものであり完全です。この創造者である神は真実であられ不変のお方です(17節)。その神の賜物中の賜物は、主イエスです。

 神は「御心のままに」、主イエスとその福音によって私たちを新たに生まれさせ、神の子としてくださり、神のものとしてくださいました。そのことが、神が造られた被造物の「初穂となさる」ためであったとは驚くべきことです(18節)。
私たちは、この神の賜物と御心をしっかりと見極めた信仰の歩みをするのです。

主の十字架と共に歩む(2017.10.29)

宣教題 「主の十字架と共に歩む」      宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ1章40~45節

 イエス様の愛の御業によって、重い皮膚病を患っている人がいやされたという記事から、わたしたちがどうあるべきかを見ていきたいと思います。

1.イエス様の御心ならば
 当時、重い皮膚病を患った人が置かれていた状況は悲惨で、自ら「汚れている者」と叫び、町の外でしか住めませんでした。その人イエス様の所に来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ます。それは彼が、この方なら自分の病をいやしてくださると確信したからです。ただ彼は、自分のような者をイエス様が憐れんでくださるかどうかが不安でした。

2.だれにも、何も話さないように
 そんな心配をよそに、イエス様は彼をいやされました。そして「だれにも、何も話さないように」と命じられました。しかし彼は、町に入り多くの人々に告げ、広めます。人々は、イエス様の告げられた悔い改めの福音ではなく、いやしの力を求めたのです。その結果、イエス様は町に入ることができなくなりました。

3.イエス様の犠牲によって
 彼は、自分の身に起きたいやしと清めの出来事を言い広めましたが、それはイエス様の十字架による犠牲抜きの証しだったのです。しかしわたしたちは、十字架抜きの救いも、十字架抜きのいやしも知りません。私たちが救われるのも、いやされるのも、ただイエス様の十字架による犠牲のみです。
 私たちも、この思い皮膚病よりも恐ろしい罪から救われたことを感謝し、多くの人々に証しし、主の十字架と主に歩む者とならせて戴きましょう。

知恵を求めて(2017.10.8)

宣教題 「知恵を求めて」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヤコブ1章5~11節

 いろいろな試練に会うとき、信仰が試されることで忍耐を生じさせ、霊的に成長した者として造り上げられていきます(2~4節)。そのような試練に際して必要なのが、神からの賜物としての知恵です。それを切に祈り求めることが必要です。

1.神はどのようにして与えてくださるのか  5節
 神からの知恵は、信仰によって「だれにでも」与えられるもので、誰一人例外がありません。しかも神の賜物として「惜しみなく」、「とがめだてしないで」すなわち過去を挙げ連ねて、見下すようなことをなさらずにお与えになります。
 それに対して、信仰者は、神からの「知恵の欠けている」という自覚を持つことが必要です。パウロは、試練のただ中にあって死の宣告を受けた思いでいたことに対して、「人間の知恵によって」対処することなく「神の恵みの下に行動」してきたと証ししています(2コリント1章8~12節)。
私たちも信仰の試練に遭ったときに、神の賜物である知恵を願い求めるのです。

2.神にどのような信仰姿勢で願うのか  6~11節
 信仰者は、へりくだって「いささかも疑わず、信仰をもって」願い求めることが大切です。そこには、神への信頼と不信が同居していることはありません(6~8節)。
神に対する深い信頼があるならば、神からの知恵が与えられるのです。
 キリストは、全ての人のために十字架に死んで救いの道を開いてくださったゆえに、いかなる人も価値ある者として受け入れてくださったのです。従って、貧しい者はキリストにあって高くされ、富んでいる者はキリストによって低くされることを勝ち誇るほどの喜びとされるのです(9~10節)。
 ですから私たちは、謙虚にへりくだった信仰をもって、神に信頼して神からの知恵を受け取るのみです。

真の平和の確立を(2017.10.1)

宣教題 「真の平和の確立を」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章49~59節

 これまで主イエスは、目を覚ましていなさいと語ってこられました。続けて、真の平和が確立されていくために、漫然として今の時を過ごすことがないように勧められています。

1.主の十字架のもとで  49~53節
 主イエスがご来臨された目的の一つが、「地上に火を投ずるため」でした。その火は、聖霊の火です(49節)。聖霊なる神は、主イエスの苦難のバプテスマである十字架による救いを明らかにされ、主イエスを信じさせてくださるお方です(50節)。
 この主イエスの前に頭を垂れて謙虚になるときに、真の平和が私たちの魂と心と体の全存在に臨むのです(マタイ9章2節、ヨハネ14章27節、20章19~21節)。
 ところが、主イエスが来られたのは「分裂」をもたらすためでもありました(51 ~53節)。しかしその分裂は、イエスを主と受け入れるか、拒絶するかによってもたらされるものです。私たちは、分裂に対しても心の備えをし、そうした状況にあっても真の平和が確立されていくことを祈り求めていくのです。

2.主が再び来られるまでに  54~59節
 主イエスは、二つの譬えをもって語られました。一つは、今の時を見分けることができないために、主イエスを信じる信仰の応答をしない人々に呼びかけています(54~56節)。二つは、その時が分かっていながら、ずるずると判断も決断もしないで最後まで主イエスを拒むことへの警告です(57~59節)。
 私たちは、聖餐の制定をされた主イエスを想起しつつ(1コリント11章23~26節)、確かな永遠の弁護者イエスとその贖いの十字架をいつも拠り所とし、主が再び来られる終わりの時を覚えて、聖霊の促しによる決断と導きをいただいて歩み続けるのです。そこに、真の平和がもたらす交わりが生まれるのです。

主イエスの癒しと救い(2017.9.24)

宣教題 「主イエスの癒しと救い」        宣教  今田好一牧師
聖 書 マルコ1章29~34節

わたしたちは、神の守りの中で歩んでいます。しかし、わたしたちは弱く小さな者です。ですから、イエス様に助けを求めなければならないのです。

1.主イエスのいやしと救い
イエス様はシモンの家に行きしゅうとめの病気をいやされます。このことは、今日教会に集ったわたしたちとわたしたちの家族にもイエス様の救いがなされるということを意味しています。『家族伝道は難しい』と言われていますが、それは、神の愛を言葉で伝えようとするからです。愛は、その人を愛することによってしか伝わらないのです。愛は、一緒に生活する中で伝えていくものです。今日わたしたちがイエス様の愛をしっかりと受け止めて、わたしたちも家族を愛し、家族に仕え、心を交わすことのできる者とならせていただきましょう。

2.主イエスの愛に応えて
安息日にはいやすことが禁じられていたため人々は日が沈み、安息日が終ってからイエス様の所に来ました。イエス様のいやしは今もわたしたちのうちに続けられています。イエス様はわたしたちに聖霊を与えてくださり、わたしたちの中にある神の御心に適わないあらゆる熱を冷まし、何が神の御心に適うことなのか、何のためにわたしたちが生かされているのかということをきちんと受け止めることができる者にしてくださるのです。
わたしたち一人ひとりが、主に愛され、罪赦された者として、その愛に応える者とならせていただき、ただ主を崇め、主に仕え、主に頼り、いやし主なるお方、救い主イエス・キリストと共に歩ませていただきましょう。