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新約聖書

晩年に神の祝福を(2018.9.9)

宣教題  「晩年に神の祝福を」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  フィレモン8~25節

 パウロにも「年老いて」と思う時が来ました(9節)。この手紙とパウロが死の直前に書いた「テモテへの手紙二」から、晩年のパウロの信仰と心情を学んでみましょう。そこには、キリストに結ばれた者への神の祝福があります(20節)。

1.キリストによって安息を与えられて
 パウロには、このとき置かれていた状況がもたらした孤独感がありました。それは、監禁中にあったために、狭い世界に閉じ込められた思いです。また、晩年の寂しさや悲しみがありました(2テモテ4章9節、10節、14節)。
 そのパウロが、「キリストによって、わたしの心を元気づけてください」と願っています。私たちは、パウロと同じように、神の御前にひとり立つものとされています。その時に、キリストによって(ヨハネ15章5節、2コリント5章17節)、安息をいただいていることが大切なのです(マタイ11章28節)。

2.キリストによって力づけられて
 パウロは、最後まで伝道のスピリットに満たされていました。『監禁中にもうけたわたしの子オネシモ』が与えられています(10節)。また、パウロは配慮と気遣いの人でした。彼は、生まれ変わったオネシモを「役立つ者」(10節)、「愛する兄弟」(16節)、「わたしの心である」(12節)と推薦し、信頼するフィレモンがオネシモを受け入れてくれるように期待しています(17節)。このような魂への配慮ができるのは、キリストによって力づけられていたからです。
大切なことは、誰もが「年老いて」という言葉の後に、どういう言葉が続く生き方をするかということです。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(10.3MB)

感謝の心を拡大する(2018.9.2)

宣教題  「感謝の心を拡大する」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  フィレモン1~7節

 フィレモンへの手紙は、理想の教会をのぞく小窓と言われるほどに、信仰から出る愛に溢れていました(1~3節、5節)。パウロは、教会に対して、神に感謝をささげています(4節)。そして、その感謝は、彼の心を拡大していきました。

1.生き生きとした信仰の交わりゆえに  5~6節
 「主イエスに対するあなたの信仰」が、全人格的に自分のものとして抱いている信仰であるゆえに感謝しています(5節)。その信仰は、日々主イエスにつながって、主の御言葉に信頼しているからです(ヨハネ15章5節)。
 そのような「信仰の交わり」が分かち合われるとき、次のような感謝が生まれます(6節)。信仰を分かち与えられた人は、それが神の恵みによることを知って、その人の心を高めます。信仰を分かち与えた人は、神の恵みによってさせていただいたことを知って、その人の心を謙遜にします。

2.豊かな愛の感化ゆえに  5節、7節
 次に、制限やえりごのみなしに、「聖なる者たち一同に対するあなたの愛」となって、外に向かって働いていることに感謝しています(5節)。
 さらに、感謝していることは、フィレモンの愛のゆえに、パウロ自身が「大きな喜びと慰め」を受けたこと、また聖なる者たちの心が「元気づけられた」(マタイ11章28節参照)ことに感謝しています。このような愛の感化による感謝が、人の心を広めていくのです。
 私たち一人ひとりと教会は、信仰の交わりと人々に対する愛が溢れることによって、感謝の心を拡大する器とならせていただきましょう。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8MB)

限りなく豊かな恵み(2018.8.26)

宣教題  「限りなく豊かな恵み」        宣 教  小平徳行師
聖 書  エフェソ2章1~10節

神は私たち人間に「限りなく豊かな恵み」を与えて下さいます。この恵みによって人間は救われ、人生は全く変えられます。真の希望はここにあります。

1.罪人を救う恵み(1~3節)
 神の恵みは、受ける価しない罪人に与えられます。人間は皆、生まれながらにして自分の過ちと罪のために霊的に死んでいます。神から離れ、悪魔、肉欲の奴隷となっており、その結果、神の怒りを受け、永遠に滅びるべき者なのです。それにもかかわらず神は罪深い私たち人間を救う道を備えて下さいました。

2.キリストにおける恵み(4~9節)
このような罪深い人間を神はご自身のひとり子、イエス・キリストを通して救って下さいます。それは神の豊かな憐れみとこの上ない愛のゆえです。神はキリストの十字架により人間の罪を赦し、神との関係を回復させ、霊的な命を与え、「キリストと共に生かし」、そして「共に復活させ」、信じる者に新しい命、死に勝利した復活の命を与えられます。さらに、キリストと「共に天の王座に着かせ」、天の立場を先取りさせて下さるのです。この救いは私たちの善行によるのではなく、キリストによる神の恵みを信じて受け取ることによって得られます。

3.神に造られた者として生きる恵み(10節)
キリストを信じるとき、人間は新しく造られた者とされます。それは「善い業を行って歩む」ためです。神は私たちひとりひとりに人生の目的を与え、善い業を備えて下さっています。この限りなく豊かな恵みを、信仰によって受け取らせていただき、真に生きがいある人生を送りませんか。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11.8MB)

聖霊の導きの中で(2018.8.19)

宣教題  「聖霊の導きの中で」        宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章20~30節  1コリント12章3節

イエス様は、食事ができなくても救いの御業をされました。これがイエス様の愛の姿であり、この愛の究極に主イエスの十字架があるのです。

1.聖霊なる神の導きの中で  20~23節前半
聖霊なる神の促しは、神に仕え、献身の思いを明確にしますが、自分の考えだけで事を起せば、イエス様の御業に反対する二グループのように結果や人の評価ばかりが気になります。わたしたちはその違いをよくわきまえ、わたしたちも聖霊なる神の導きの中で、熱心な福音のための奉仕をさせていただきましょう。

2.愛に生きる方の力ある言葉  23節後半~27節
主イエスは、ご自身において働かれる聖霊の御業を非難した律法学者たちに、二つの譬えをもって反論されました。ここに全く愛のない律法的な理屈と愛に満ち溢れた力ある言葉の違いを見ることができます。私たちは、この愛に生きる方の力ある言葉をしっかりと握って歩んで行くことが求められているのです。

3.聖霊を冒涜することの罪  28~30節
 主イエスの十字架の贖いを信じる信仰により、すべての罪は赦されます。その信仰を聖霊なる神が与えてくださるのです。しかし律法学者たちは、イエスの力ある御業の原動力を悪霊のせいにし、聖霊を冒涜します。ですから「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(29節)と言われたのです。
 わたしたちは聖霊の導きの中で信仰が与えられ、罪赦され救われました。それは、神に愛を注がれた者として神と人に仕えるためです。聖霊こそが、私たちを神に向かわせる働きをしておられる方なのです。

聖書朗読(1MB)

礼拝メッセージ(6.9MB)

信仰の知恵をもって生きる(2018.8.12)

宣教題  「信仰の知恵をもって生きる」   宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ16章1~13節

神が人に与えてくださる知恵は、窮地に立たされた時に働きます。ここに登場する管理人のやり方は、とても褒められたものではありませんが、懸命に知恵を働かせた人のたとえ話です。信仰の知恵を働かせることの必要を教えています。

1.危機に対応していますか 
 主人は、不正な管理人を抜け目のない知恵ある人だと褒めています。管理人は、生きるか死ぬかの土壇場であると危機感を持っていたために、この世の知恵を最大限に用いて対応しようとしたのです。
 主イエスはこのたとえ話を通して、「光の子」である信仰者が苦難や誘惑といった危機に直面した時に、信仰の知恵をもって対応するように語られたのです(8節)。共にいてくださる主イエスによって支えられ、信仰の知恵をもって乗り越えていくのです。

2.信仰が首尾一貫していますか 
 このたとえ話は、この世の子らと光の子らとを対比しつつ、信仰者が生活の場で、徹底して光の子として生きているかと問いかけています。光の子として歩んでいると言いつつ、どこか妥協したり、曖昧にしたり、中途半端な歩みとなっていないかと語るのです(8節)。
 信仰者は、神によって「永遠の住まいに迎え入れて」くださるのですから(9節)、任されている富を生かし、首尾一貫して光の子として生きるのです(13節)。この世で起こってくる「小さな事」に忠実な者は、神が任される「本当に価値ある」すなわち「大きな事」にも忠実な者とされるのです(10~11節)。

平和を実現する人(2018.8.5)

宣教題  「平和を実現する人」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章17~18節

 平和は、人が常に限りなく求める神との密接な関係にある生活状態です。キリスト者は、それを生活の目標としつつ、それに生きるのです(18節)。

1.神の義がともなって 
 ヤコブは、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)との主イエスの御言葉に触れ、それが彼の心にありました。ただ、主イエス同様に(ルカ12章51~53節)、平和を実現するピースメーカーは、またトラブルメーカーでもあります。それは、苦悩する中で信仰を保ち、いかなる状況下でも信仰生活が建て上げられていくために必要なことです。
 私たちの家庭に、私たちの生きている場に神の義を実現していかなければ、本当の平和は実現しません。事なかれ主義に陥ることなく、神の義なくして、平和はないことの証しに生きる者とされましょう。

2.平和の心をもって 
 「平和を実現する人々は」、「平和のうちに」とあるように、聖霊に照らされて「上からの知恵」をいただいて神の前に謙虚にされ、平和の心をいただいていることが大切です(17節)。そのためには、十字架を前にして持っておらキリストの平和をいただいていることが必要です(ヨハネ14章27節)。
 平和を実現する人は、義の実を結ばせる種を忍耐をもって蒔き続けるのです。そうすると、主なる神が、愛をもって刈り取ってくださいます。ですから、理解を得られない関わりの場においても、平和な心で、祈りと愛をもって、主に助けていただきながら歩み続けていきましょう。

聖書朗読(0.2MB)

メッセージ(10MB)

恐れないでただ信じなさい(2018.7.29)

宣教題  「恐れないでただ信じなさい」      宣 教  正木牧人師
聖 書  マルコ5章21~43節

「恐れることはない。ただ信じなさい。」とイエス・キリストはこの会堂長に言われました。「ただ信じなさい」とはどんなことでしょうか。
会堂長ヤイロは多くの人々の集う礼拝センターのお世話をする仕事で、人々の尊敬と信頼を得ていた方でした。 12歳の娘が死にそうになっていて、イエス様のもとに来て、「来て、娘に手を置いてください!」と助けを求めたのでした。
人生には私たちの手に負えない苦難や悩みがあります。ヤイロはイエス様のもとに来ました。詩編50:15で神様は「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」と私たちに語ります。苦しい時こそ信じて神様に祈るときです。
その願いを聞き入れて押し迫る群衆と共にヤイロの家へと向かったイエス様が突然立ち止まり、「わたしの服に触れたのは誰か」と見まわし、遂にある女性が進み出て「私です」と言いひれ伏しました。12年間の病苦から解放されたいと、すがる思いで後ろからイエス様の衣に触れ、病が癒されたというのです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った、元気に暮らしなさい」と言われました。安心を与える権威あるイエス様の言葉です。
そこに、ヤイロの娘は死にました、と通報が入ります。絶望です、恐怖です。そのときイエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。
何を信じるのでしょうか。イエス様を信じるのです。諦めず、希望を失わず、「イエス様は私を助けてくださる」と信じるのです。イエス様は少数の人を連れて娘の前に立ち「起きなさい!」と言われると娘はよみがえりました。人にはできないことをイエス様はなされます。あなたはイエス様を信じますか?

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(17MB)

あなたはどこにいるのか(2018.7.22)

宣教題  「あなたはどこにいるのか」    宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ15章11~32節

 人類の祖アダムとエバは、神の御言葉に背いて罪を犯して後、神を避けて生きるようになりました。その彼らに「どこにいるのか」と尋ねられたのです(創世記3章8~9節)。憐れみの神によるこの問いかけは、今も続いています。

1.主のもとで生きているか  11~24節
 父親と弟息子の関係を表す譬え話は、父なる神とその神のもとを離れて生きる人間の様子を描いています。神を無視する者は、自分のことについては何も問いかけない生き方をします。そうした中にあって、「我に返って」生きようとする者は、自分で自分に語りかけることによって自分の間違いに気づかされ(17節)、その罪の悔い改めへと導かれるのです(18~19節)>
そのように立ち帰る者を、憐れみの神は喜んでご自身の子として迎え入れてくださいます(20~23節)。そこには、新しい生き方への出発が待っています(24節)。絶えることのない主の臨在と、豊かな主の供給があります。

2.主との交わりに生きているか  25~32節
 父親と兄息子の関係を表す譬え話は、父なる神と信仰者の交わりが生きたものであるかを問いかけています。神と人に対して冷淡で傲慢になっていないかということです(28~30節)。
神は、その命のない信仰を気づかせ、神の憐れみの心を知ることができるように招かれます(31節)。そして、死から命に移された者が加えられる「喜び」を共にすることの幸いを経験するように勧められます(32節)。憐れみの神による主イエスの救いの恵みは、安価なものではありません。

聖書朗読(約1.4MB)

メッセージ(約11MB)

主に選ばれた者(2018.7.15)

宣教題  「主に選ばれた者」          宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章13~19節

 主イエスが12使徒を選ばれた時の出来事の中に、キリスト者とはどのような者なのか、教会とはどういうものなのかが表されています。

1.救いの確かさの根拠
 主イエスは、祈るために山に登られ、その中で12使徒を選ばれました。彼らの以前の職業や経歴は様々であり、単なる寄せ集め集団のように思えます。しかしこれが神の選びです。このことは、わたしたちが選ばれたのも同じであり、その選びの理由はわたしたちの側にはありません。神が選ばれたのだから、神の選びには間違いが無いのです。これが、私たちの救いの確かさの根拠なのです。

2.新しく造り変えられた者
 主イエスが多くの弟子たちの中から12使徒を選ばれたのには、旧約以来の神の救いの計画であり、ヤコブの息子から12部族が生まれたように12人を選ぶことによって、新しい神の民、新しいイスラエルを造ろうとされたのです。主イエスから新しい使命と目的を与えられた者として造り変えられたのです。

3.主イエスの選びの目的
 主イエスが12使徒を選ばれた目的は、全てのキリスト者が選ばれた目的を示しています。それは、主イエスの救いの御業に仕え、その御業を受け継ぎ、継続するためです。つまり、神の国の福音を伝え、神の国の到来を告げることです。そのことを教えるために主イエスは、12人の使徒を側に置かれたのです。
 わたしたちのすべてをご存じである主イエスと共に歩み、このお方ご自身を宣べ伝えましょう。わたしたちも主に選ばれた者なのだから。

聖書朗読(0.4MB)

礼拝メッセージ(9.5MB)

主イエスの喜び(2018.7.8)

宣教題  「主イエスの喜び」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ15章1~10節

 譬え話を用いて語られる主イエスは、人々と一緒に喜びを分かち合おうとしておられます(6節、9節)。そこには、失われたひとりの魂を一所懸命に捜し回り、見いだされた主イエスの愛と喜びが溢れています。

1.深く悲しまれる主イエスの愛 
 主イエスは、「徴税人や罪人」たちに、熱い関心をお持ちでした。それは、見失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し回る羊飼い、また銀貨一枚を無くした女性が全身で捜している姿に譬えられています。
 さて、ひとりの人が失われることは、主イエスの深い悲しみでした。それは、利用価値があるからとか将来価値があるからではなく、かけがえのない大切な存在価値があるからです。ひとりの人が失われることに対する主イエスの深い悲しみの理由は、主イエスの愛から出ています。

2.喜びに溢れる主イエスの愛 
 羊を見つけた羊飼いと銀貨を見つけた女性の譬えに、主イエスの救いを見ます。それは、悔い改めたひとりの人が、十字架の主イエスのもとで赦され、見いだされ、神のものとされることで明らかにされました。この回復の喜びの理由もまた、主イエスの愛にほかなりません。
 さて、この福音の喜びは、主イエスの喜びです(7節、10節)。主イエスによって見いだされ、主のものとされたひとり一人は、主イエスの喜びを生むほどに大切な存在なのです。一喜一憂する心に振り回されないで、主イエスの喜びを知ることによって、ひとり一人の喜びが確かなものになるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(9MB)

成熟した日々(2018.7.1)

宣教題  「成熟した日々」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ4章1~10節

 キリスト信仰者は、神の命をいただいて成長していきます。そのために、御言葉から目を離さないで、成熟した日々を歩み続けていくことが大切です。

1.罪に向かう心から  1~6節
 信仰者が心に留めておかなければならない敵があります。一つは、神を認めない、受け入れない、従おうとしない「世」です(4節)。二つは、神と信仰者に反対して働き、信仰者を陥れようとする「悪魔」です(7節)。三つは、まだ解決していない「罪」を持ち合わせていることです(8節)。罪は、信仰者が神に敵することであり(4節)、心の中にもつ罪があり(3節)、行いに表れる罪があります(1~2節)。
神は、この罪に向かう心がある者に対して、その内に聖霊を住まわせ、深く愛し、豊かな恵みに富ませて導いてくださいます(5~6節)。

2.神に向かう心に  7~10節
 神は、信仰者を愛し抜いて、神に向かうように招いておられます。その招きに応答して、神に従うことです。そうすれば、神は勝利させてくださいます(7節)。神に近づくことです。そうすれば、神は近づいてくださり、主イエスの十字架の血によって心を清くし続けてくださいます(8節)。そして、信仰者自らが深く省み(9節)、主の前にへりくだらせていただくのです。そうすれば、主は高めてくださいます(10節)。信仰者の成長は、下に向かっての成熟です。
 信仰者は、行き詰り、試み、挫折などを経験するものです。その時、神と向き合うことによって、新たに人とも向き合うことができるようにされるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(7.9MB)

主の弟子になる(2018.6.24)

宣教題  「主の弟子になる」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章25~35節

主イエスの大いなる救いの祝宴に招かれた者は、主の弟子として生きるようになります。それは、信仰者一人ひとりに対する主の恵みの招きです。

1.主の弟子になる道  25~27節、33節
信仰者は、「わたしの弟子ではありません」との主からの挑戦に応答する必要があります。それによって、家族よりも主を優先し聖別させていただくことにより、真に家族の絆は祝福を受けるのです(26節)。永遠の救いに招き入れてくださった主と一緒に十字架を負わせていただくことにより、他者の痛みを理解し、それを一緒に負わせていただくのです(27節)。神以外のものが心の王座を占領しているならば、それに別れを告げて神第一に生きるのです(33節)。
このような主の弟子の道を歩んでいるでしょうか。

2.主の弟子とされる祈り  28~32節
主の弟子の道を歩むには、「腰をすえて」主の前に静かに考えて祈ることが大切です(28節、31節)。主が「わたしの弟子ではありません」と言われるものがないかどうかを、神との祈りの交わりの中で明らかにしていただくためです。
腰を据えて静かに考えて祈る中に、主の恵みと祝福が及んでいくのです。

3.主の弟子の使命  34~35節
主の弟子として生かされ、主に従って、主の御心を実現させていただくために、主は私たちを使ってくださいます。すなわち、人々や社会の腐れを止め、味つけしていく塩のような存在としてくださるのです。
私たちの関心が、塩気のある主の弟子また群れでありますように!

メッセージ(11.9MB)

天の父への祈り(2018.6.17)

宣教題  「天の父への祈り」         宣 教  今田好一牧師
聖 書  マタイ6章9~15節
 今日は、父の日礼拝です。日頃のお父さんへの感謝と共に、わたしたちを造られた天の父なる神に、心からの感謝を献げる日とさせていただきましょう。

1.天におられる父
聖書が示す神は、罪ある人間とは遥かにかけ離れた聖なるお方です。もしそれだけなら、わたしたちは神との交わりを持つことはできません。しかし、神はそんなことは望まれませんでした。だからこそ、主イエス・キリストをこの地上に遣わされたのです。

2.憐れみ深い父
 主イエスは、この「主の祈り」(マタイ6:9~15)から、神を「わたしたちの父」と呼びかけるように教えておられます。それは、主イエスが聖なる神を「わたしの父」と呼び、親しい交わりを持たれたように、罪あるわたしたちでも、神との親しい関係を持つことができるからです。何故なら、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」(マタイ6:8)だからです。

3.わたしたちの父
 天の神を父と認める者たちが「わたしたちの父」と呼びかけることができるのです。しかしそれは、罪も汚れもない主イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりに十字架に死んでくださったからに他ならないのです。
 主イエスを十字架に架けるほどにわたしたちを愛してくださった天の父なる神が、最もわたしたちに望んでおられることは、主イエスの十字架の贖いが、わたしの罪のためであった。そして主イエスがわたしの救い主だと信じることです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.6MB)

祝福への招き(2018.6.10)

宣教題  「祝福への招き」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章12~24節

 「あなたは幸いだ」(14節)「なんと幸いなことでしょう」(15節)とは、幸いがいつまでも続いている状態を言っています。ここで譬えられている「宴会」は、その幸いな祝福への神の招きです。

1.祝福への招きの原点を忘れるな  12~14節
 ここでの「宴会」の譬えは、神は「お返しをする」人ではなく、「お返しのできない」人を招くようにと言っています。つまり、その招きは、神の恵みによる一方的なものであり、何ら人の功績などを求められないということです。ですから、主イエスによる救いの恵みは、お返しもできない罪深い者に、無代価で与えられるのです。そして、主なる神の報いを期待する生き方をするのです。
私たち一人ひとりは、この神の祝福への招きの原点を忘れることなく、神の恵みに立ち続けているようにしたいものです。

2.祝福への招きを拒むな  15~24節
 神は、「盛大な宴会」と言われる救いの祝福に人を招き入れるために、様々な形で呼びかけて来られましたが、遂に神の僕である主イエスをお送りくださいました(16~17節)。ところが、その招きに対して様々な理由をつけて拒む人たちが次々に起こったのです(18~20節)。そこで、主イエスは、罪と汚れのゆえにどんなに卑しくて貧しい者をも招き入れてくださることを明らかにされたのです(21~24節)。
 私たち一人ひとりは、神の救いの招きを拒むことなく、それを後回しにすることなく、拒んだままの生活を送ることなく、「神の国で食事をする」すなわち、主イエスの十字架と復活に表された愛の中に留まり続ける生き方をするのです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8.7MB)

上からの知恵(2018.6.3)

宣教題  「上からの知恵」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章13~18節

 聖書がいう「知恵」は、人の心を支配し、その人の考え方や生き方の判断を司り、かつ感化を与えるものです。ここに、その「知恵」の出所が二つあり、それがどのように「行い」や「生き方」となっていくかを語っています。

1.豊かな知恵である  14~18節
 人の心が「ねたみ深く利己的である」と、自分を誇って、真理であるキリストに逆らい、自分を欺くものとなります(14)。そのような知恵は、神から出たものではなく、自己中心的なものであり、混乱やあらゆる悪い行いを生じさせます(15~16)。
 しかし、人の心が、御言葉と聖霊の光に照らされることによって、神から与えられる「上から出た知恵」のご支配をいただくようになります。すなわち、主イエスの血によってきよめられ、神と人との関係が平和となり、温和で、優しく、従順で、憐れみに満ち、良い実を結ばせていただくのです(17~18)。ここに、豊かな知恵があります。

2.美しい生き方となる  13節
 人が、上から出た知恵を持っているかどうかは、その人の生き方によって明らかになります。それは、日常的に、神に対して、教会に対して、他の人に対して、ごく普通の人間関係の中で表れてきます。
 「知恵にふさわしい柔和な行い」は、神に信頼を置いて、神の御意志を行おうとするものです(マタイ11章28~30節参照)。そして、それを「立派(美しい)な生き方によって」示していくのです(マルコ14章3~9節参照)。主イエスの十字架の贖い抜きに、美しい生き方はありません。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.9MB)