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新約聖書

歓喜する力(2018.5.6)

宣教題  「歓喜する力」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章1~12節、コロサイ3章16節

 神の創造の業に忠実に存在している自然界の草木は、世界に歓喜をもたらします。同じように、神を賛美し、人々に祝福を語るために造られた人の舌は、周囲に歓喜をもたらします。それに対して、信仰上の問いかけがなされています。

1.言葉が制御されているか 
 ここには、言葉を使うことの責任の大きさを述べており、その言葉を発する「舌は小さな器官」であるにもかかわらず、次のような問題を生じさせ、時に悲劇をもたらします。小さな舌の大きな失敗(1~4)、小さな舌の大きな表現(5節)、小さな舌の大きな影響(5~6節)、小さな舌の大きな悪(7~8節)、小さな舌の大きな欺き(9~12節)と指摘されています。お互いの舌はコントロールされているでしょうか。
 とりわけ、神の御言葉の証人として立てられた教師に対しては、その責任の重いことを教えています(1~5節)。ですから、教師はいつも御言葉に従って生きることを通して、主の御業がなされる働きに加わっていくのです(イザヤ書50章4節参照)。

2.キリストの御言葉が宿っているか
 信仰者が言葉で失敗しないために、どのような備えをしたらよいのでしょうか。ヤコブは、俄然、内側の「内心」に光を当てています(13節以降)。言葉は、結局心の表れであり、心に「毒」があると、それが言葉に表れてきます(8節)。ですから、主イエスによって心から毒を取り除き、心を造り変えていただく必要があるのです。
 主イエスが信仰によって私たちの心に生きていてくださり、主の御言葉がいつも心に宿っているならば、互いに祝福を語り合い、主への賛美に溢れる信仰の歩みとなります(コロサイ3章16節)。ここに、小さな舌がもたらす大きな祝福があります。

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(11.5MB)

イエス様はわたしの羊飼い(2018.4.29)

宣教題  「イエス様はわたしの羊飼い」  宣 教  今田好一牧師
聖 書  ヨハネ10章1~15節

 イエス様はここで、羊飼いと羊との関係をたとえて、ご自身が人々を導くまことの羊飼いであり、羊を守る囲いの門であることを示そうとされたのです。

1.イエス様は良い羊飼い
 イエス様は、ご自身が「良い羊飼いである」と羊飼いと羊のたとえを用いて語られました(1~5節)。しかしその話が分からないファリサイ派の人々に、ご自身が「羊の門」であると、更にたとえを用いて話されました(7~10節)。このたとえはどういう意味なのでしょうか。第一に、イエス様こそが正しい救いの門であることを、第二に、永遠の命を与えるお方であることを示しています。そして更に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)と、イエス様が羊であるわたしたちのために命を捨てられることを預言されました。このたとえ通り、イエス様はわたしたちの罪の身代わりに十字架にかかり死なれたのです。

2.わたしたちは羊
 人間は、羊のように一人では生きていけない、目標も分からず、迷いやすい弱い存在です。だから、そんなわたしたちを養い、守ってくれる羊飼いが必要なのです。 聖書は、わたしたちに「良い羊飼い」が誰であるかを教えています。それがイエス・キリストです。イエス様は、神について、永遠について完全に教えてくださるお方、わたしたちを罪から救い、死に勝利させてくださるお方、わたしたちを正しく導くことのできるお方です。何故ならイエス様は、わたしたちを愛し、わたしたちの罪を赦すために十字架にかかってご自身の命を献げられた「良い羊飼い」だからです。そして、三日目によみがえり、わたしたちに永遠の命を与えてくださるお方なのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11MB)

安息の中に憩う(2018.4.22)

宣教題  「安息の中に憩う」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章1~6節

 主イエスが、安息日の食事の席に行かれたときでした(1節)。そこには、水腫を患っている人、イエスの様子をうかがっている人々がおり、緊張した食事であったと思われます。そのような中で、主イエスは、安息の中に憩えるように導かれました。

1.安息に招かれる主イエス 
 ルカによる福音書には、主イエスが安息日にいやす御業をなされ、それが人々の反感をかうという出来事が語られています(6章6~11節、13章10~17節、14章1~6節)。それらは、時間の経過とともに、着実に主イエスが勝利されていくお姿が分かります。この場面では、人々が一言も語ることができなかったという状態でした。
安息日の主であるイエスは、安息日が「元気を回復するため」にあることを明らかにされたのでした(出エジプト23章12節)。安息に招かれる主イエスが、私たちを新たに立ち上がらせてくださるのです(マタイ11章28節)。

2.いやし安息を与える主イエス 
 主イエスは、ご自分の前に水腫を患ったまま放置されていることに心を痛められ、いやされました(4節)。人が病んでいる姿は、今も変らず、神との関係が正しくない状態であったり、男女の関係や社会における人間関係の倫理が失われていたりする状態となって表れます。その状態をそのまま放置しておけない主イエスは、ご自身の救いの恵みをもっていやし、安息を与えられます。
 一人ひとりがそのいやしに与るためには、自らの無力を認めて、主イエスに対する信仰を持つことです。そして、主イエスが心に手を置いていやされる恵みの御業に委ね、与えてくださる安息にあずかることです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(10MB)

力ある信仰(2018.4.15)

宣教題  「力ある信仰」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章14~26節

 主イエスの救いに与るのは、どのような善行も必要ではなく、ただ信仰によります
(エフェソ2章8~9節)。その救いに与ったのには目的があり(同10節)、信仰者の生活に変化が起こります。それをヤコブは、力ある信仰として表れると言っています。

1.信仰が生きている  14~19節
 親しみをこめて「わたしの兄弟たち」と語りかけるヤコブは、祝福された信仰者の歩みについて述べています。行いの伴った信仰こそ、生きたものであり、役に立つということです(14、17、20、26節)。それは、信仰と行いが、ひとりの人格の中で一緒になってバランスがとれていることです。
 私たちの行いが、口だけをもってのものではなく(15~16節)、聖霊によって一人ひとりの心に注がれている神の愛をもってなされるときに、その信仰は本物といえるのです(1コリント13章3節)。

2.神を信頼して生きる  20~26節
 信仰によって義と認められた者の歩みは、神を信頼して生きる行いが伴ってきます。それは、アブラハムのように(21~23節、創世記22章参照)、またラハブのように(25節、ヨシュア記2章参照)、確かな神の助けと最善の導きがあるとの信仰のともなった行いです。信仰は行いの原動力であり、行いによって信仰が表され、さらに行いによって信仰がまっとうされるのです(22節)。
 私たちの信仰が、今までより以上に生活の中で行いとなって溢れていくことにより、主イエスご自身とその恵みをさらに豊かに知ることができるという経験をさせていただけるのです。

聖書朗読(1.1MB)

メッセージ(9.8MB)

主の御心はどこにあるのか(2018.4.8)

宣教題  「主の御心はどこにあるのか」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章1~6節  レビ19章18節b

イエス様が会堂に入って礼拝を守られました。しかし、この日、会堂に集まった人々のまなざしは天に向けられていませんでした。

1.神を愛し、人を愛する
 安息日の礼拝に片手の萎えた人が来た時、イエス様はこの人を癒されました。それは人々に律法を守ることで、神の御前にその正しさを主張する信仰が根本的に間違っていることを示すためでした。そして、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を全うするために律法は機能しているのだということを示されたのです。

2.沈黙という拒否の末に
 人々はイエス様の問いに「黙っていた」のです。彼らは、イエス様が言われるようには変わりたくなかったのです。しかし、イエス様が求めておられるのは「変わる」ことです。それは、今のわたしたちにも『あなたは変わらなければならない。』と言われているのです。この時、人々はイエス様の招きを拒否し、黙ってしまいました。その結果、彼らは、イエス様を殺すというところに至ったのです。

3.イエス様の招きに応える
 イエス様が、神を愛し、人を愛し、人に仕えることを明確に示されたのが十字架です。イエス様は今も「わたしに従って来なさい」とわたしたちを招いておられます。この招きにわたしたちが応えた時、神に向かって、隣人に向かって踏み出して行くことができるのです。そこに神の国への道が開かれるのです。
 自分のことしか愛せないようなわたしたちですが、イエス様の招きに応えて、神と隣人とを愛する者へと踏み出させていただきましょう。そこに主の御心があるのです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(7.7MB)

進み行かれる主(2018.4.1)

宣教題  「進み行かれる主」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章31~35節

私たちは、主イエスが死の闇から復活され、命の輝きをもたらしてくださったことを感謝するとともに、全存在をもって主イエスに向かって生きることが大切です。

1.神の時を進まれる主イエス  31~33節
主イエスご自身の歩みを決定したのは、ヘロデに代表されるこの世の悪の力によるのではなく、父なる神のご計画によるものでした。この時、エルサレムへの旅路を十字架に向かって進んで行かれました。その先には、主イエスが「三日目にすべてを終え」て復活されることにより、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と決意しておられます。
主イエスは、十字架を前にして父なる神の御心だけを求めて歩み進まれ(ルカ22章42節)、復活されてご自身の御働きを進められました(マタイ28章16~20節)。

2.愛の完成へと進まれる主イエス  34~35節
主イエスは、神の御言葉を受け入れようとしない者たちを、何度もご自身の救いの中に招き入れようとされてきました。ご自身の愛を冷ややかに拒む者に対して、苦悶し、嘆いておられます(34節)。しかし主イエスは、そうした中にあっても父なる神のご計画の中を進んで行かれました。ひたすら十字架と復活に向かうことにより、愛の完成を目指して進んで行かれたのです。
このことを知る教会は、今や「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美しつつ、主の再臨の時に向かって進んでいます(35節)。ですから私たちは、一人でも多くの人々が心の底から同じように賛美できる時が来るよう、伝道に励みたいものです。

聖書朗読(0.6MB)

 

メッセージ(6.9MB)

救いの門は開かれている(2018.3.25)

宣教題  「救いの門は開かれている」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章22~30節 2コリント6章2節c

 聖書は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と明言しています。その救いの門は今も開かれています。そのために、主イエスは、十字架にお架かりくださり、復活された場所であるエルサレムに向かって進んていかれたのです(22節)。

1.今や、恵みの時だから 
 主イエスは、「不義を行う者」が悔い改めないままでいるならば、救いの恵みの戸が閉じられる時がくることを語られました(23~28節)。そこで、神が与えてくださる救いを拒み続けないで、「狭い戸口から入るように努めなさい」と、この救いを自分自身のこととして取り組むようにと招かれているのです(24節)。
 忘れないでいたいものです。主イエスは、今も私たち一人ひとりの心の戸をたたき、声をかけていてくださいます。ですから、一人ひとりが自らの心の戸を開いて、主イエスを受け入れることが必要なのです(ヨハネの黙示録3章20節)。

2.今こそ、救いの日だから 
 ところで、救いの入口そのものが狭いのではありません(29~30節)。それを狭くしているのは、主イエスの救いを拒み続ける頑固な心、自分は間違っていないとする傲慢な心のままでいる人の側にあります。人は誰もそのような罪の荷を自分で背負いきれないために、主イエスがその荷を十字架上で身代わりとなって担い切ってくださったのです。その主イエスに対する信仰をいだいて歩みだす者には、救いの入口は狭くなく、堂々と大手を振って入っていくことができるのです(ルカ23章39~43節)。
 私たち一人ひとりが、主イエスにすがる素直さをもって応答していくなら、主イエスの救いの御業は恵みとして現実に起こることなのです。

キリスト者の完全(2018.3.18)

宣教題  「キリスト者の完全」        宣教 大頭眞一師
聖 書  フィリピ3章1~14節

「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)は、真剣なキリスト者たちを悩ませてきました。愛において完全でありたいと願いながらも、「得た」と言い切れないためらいは、だれにもあるからです。パウロはそんなためらいから自由です。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・ひたすら走ること」(フィリピ3:13~14)がなすべきただ一つのことだと言うのです。「キリスト者の完全」は、私たちが神さまと人とに向かう姿勢の完全です。この完全は「今ここで」可能です。
そんな私たちが聖さにおいて成長していくために、いくつかたいせつなことがあります。

(1)信仰体験は多様ですから、他の人の体験と自分の体験を比べることはできません。それぞれに十分な恵みが与えられています。

(2)昨日の完全は、今日の完全ではないかもしれません。私たちの成長とともにさらなる前傾姿勢が可能になっていくからです。

(3) 私たちは力を尽くしてもなお、過ちや罪から逃れることができません。しかしその度ごとに、悔い改めて赦され、神と人との回復していただくなら、キリスト者の完全は保たれていきます。

 教会は、愛の学校であり温泉病院です。罪による病や傷は、みことばの温泉と仲間との交わりというリハビリによって癒されていきます。じっくりと、深いところで。そしてそれぞれが置かれた場所でていねいに生きるのです。

人の子は安息日の主(2018.3.11)

宣教題  「人の子は安息日の主」        宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章23~28節
イエス様とファリサイ派の人々との間で起きた安息日を巡っての論争から、わたしたちがどのように歩めば良いのかを見ていきましょう。

1.安息日
 当時、安息日には234項目のしてはならないことがありました。それによって、二度とバビロン捕囚のような目に遭わないようにしっかり律法を守り、神の民として歩むことを心に刻んだのです。彼らは、まさに命がけで律法を守ろうとしました。しかし、ここには、『真面目な罪人』というものがあります。

2.安息日の主
 安息日に麦の穂を摘んで食べたイエスの弟子たちの行動をファリサイ派の人々は咎めました。それに対してイエス様は3つのことを語られました。

(1)「ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(26節b)。
(2)「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)。
(3)「人の子は安息日の主でもある」(28節)。主イエス・キリストの到来と十字架と復活の出来事こそが、新しくされた安息日の意味なのです。
 そして、わたしたちが神との平安の中に生きること、それがわたしたちに与えられた真の安息であり、この安息を与える為にイエス様は来られたのです。
 わたしたちは今、イエス様によって与えられている安息を心に刻み、イエス様の十字架の贖いによって与えられた新しい命を受け、真の安息を与えられた者として、ここから新しい歩み、天の御国への歩みへと踏み出して行きましょう。

私たちの雄々しさ(2018.3.5)

宣教題  「私たちの雄々しさ」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ2章1~13節

 ヤコブの手紙は、教会の大切なあり方を繰り返し語っています。信仰者の雄々しさは、何か華やかな活動をすることにまさって、極めて身近な信仰のあり方にあるということです。

1.栄光に満ちた主を信じるゆえに  1~4節
 ヤコブは、十字架に死んで復活され、今も生きておられる「栄光に満ちた」主イエスを信じ、礼拝をささげることの重みを忘れないでほしいと懇願しています。そういう信仰を持っているのですから、富や能力や男女の違いなどによって「人を分け隔てしてはなりません」と語るのです。
 こうした人を分け隔てることは、歴史の中においてのみならず、今も変らずに教会が直面することです。そのことは、「誤った考えに基づいて判断を下したことに」よることを知って、絶えず栄光に満ちた主イエスに光をあてていただいていることが大切です。

2.神の御国を受け継ぐために  5~13節
 神は、分け隔てなく信仰に富む者としていてくださり、神の御国を受け継ぐことのできる者にしてくだいます。そして、主が見ておられるように見、主が考えておられるように考え、主が取り扱われるように取り扱う者に造り変えてくださいます。
主イエスが、「憐れみは裁きに打ち勝つ」ことによって救いを全うしてくださいました。ですから信仰者は、決めつけて人を分け隔てするという罪を犯すことなく、隣人を自分のように愛するのです。このようにすることによって、信仰者の群れは雄々しく進んでいくのです。

永遠に渇かない水(2018.2.25)

宣教題  「永遠に渇かない水」        宣教 今田好一牧師
聖 書  ヨハネ4章7~15節
今日の御言葉から、神の救いが、すべての人に分け隔てなく及んでいることを見ていきたいと思います。

1.イエス様との出会い
 サマリアのシカルという町の井戸のそばで休まれたイエス様は、人目を避けて昼に水をくみに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と語りかけます。彼女は、この言葉に驚きます。何故なら、当時ユダヤ人はサマリア人を見下していたからです。しかし彼女は、それによって、この男性に少しずつ関心を持ち始めたのです。

2.永遠に渇かない水
 イエス様は彼女に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。すると女は「その水をください」と求めます。そして、イエス様に五人の夫について言い当てられた時、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って、イエス様に心を開いたのです。

3.出会いは人生を変える
 自分の過去を言い当てられた女は、宗教的な話をイエス様にします。しかしイエス様は、「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われました。それは、キリスト教ではなく、キリストご自身を信じるように言われたのです。彼女は、今話しているこの人が、キリストと呼ばれるメシアだと知ったのです。そして、この方こそが「永遠に渇かない水」の与え主だと信じ受け入れた時、彼女の人生は大きく変えられたのです。
 わたしたちも、イエス様が与えてくださる永遠に渇かない水を、直接イエス様ご自身に祈りを通して求めていきたいと思います。

新しい革袋として(2018.2.11)

宣教題  「新しい革袋として」        宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章18~22節

ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は断食していましたが、イエス様と弟子たちが断食していないことで、彼らの間に断食問題を巡る論争が生じたのです。

1.古いぶどう酒と古い革袋
古いぶどう酒とは、ファリサイ派の人々が厳格に律法を守って救われようとする信仰の在り方で、古い革袋とは、その考えに基づく信仰生活です。イエス様は婚礼の客と花婿のたとえをもって、そうではないと言われました。それはイエス様ご自身を花婿にたとえることで、わたしが真の救い主だと言われたのです。

2.新しいぶどう酒と新しい革袋
 新しいぶどう酒とは、救い主が来られた祝いの酒であり、主の十字架による罪の赦しを示します。それを入れる新しい革袋とは、救われた者の喜びと感謝を示しています。わたしたちには、新しいぶどう酒を注がれた、新しい革袋としての新しい信仰の歩を整えていくことが求められているのです。

3.新しい革袋として
 キリスト者とされた者の生活とは、第一に、礼拝が喜びの日となり、第二に、毎日祈るようになり、第三に、神と人に仕える者とされることです。この礼拝と祈りと奉仕という点においてわたしたちは新しい革袋へとされ続けるのです。
 わたしたちも、新しいぶどう酒を注がれた者として、主に向かって喜びと感謝と賛美をもって主をほめたたえ、新しい革袋としての信仰の歩みをしていきましょう。

成長させる神(2018.2.4)

宣教題  「成長させる神」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章18~21節
 主イエスは、人々からの拒絶に遭いながらも「神の国」のことを宣ベ伝えられ、その御業を進められました。その結果、神の恵みのご支配は、人々の不信仰を越えて発展していきました。

1.拡大していく  18~19節
 小さなからし種を庭に「蒔く」ことにより、芽を出し、やがては大きな木となり、その枝には空の鳥が宿るほどになります。そういう命をからし種は持っています。
 このからし種のように、神の恵みの支配が及ぶ「神の国」は、福音の種が蒔かれることにより、それが拡げられ、全世界を覆うようになりました。最初は「小さな群れ」でしたが(ルカ12章32節)、神は人を造り変え、社会をも変革させて、著しい成長を与えられました。この「神の国」が拡がっていく御業に、私たちも参画させていただいているのです。

2.造り変えていく  20~21節
 わずかなパン種を粉に「混ぜると」、パン種が活発に働いて膨らんでいきます。そのように膨らませていく実態は目に見えません。
 「神の国」においては、主イエスの救いに与った者たちを神の恵みのご支配のうちに生かし、豊かに成熟させていかれます。愛を動機として生きる人格が形成され、信仰による価値観を確立させ、試練をも踏み越えさせ、死の世界をも打ち破って進ませまるほどに造り変えられます。この「神の国」の最もよく目に見える実として「教会」が生み出され、建て上げられました。私たちの教会は、「神の国のために共に働く」僕とさせていただいているのです(コロサイ4章11節)。

御言葉に生きる(2018.1.28)

宣教題  「御言葉に生きる」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ1章19~25節

 神は、私たちを初々しい信仰者とするために召し出してくださいました(17~18節)。その神の御業がさらに進んでいくために、私たちが御言葉に生きることを求められています。

1.御言葉に聞く必要がある  19~21節
 御言葉を「聞くのに早く」とは、素直に、従順に、へりくだって聞くということです。「話すのに早く」とは、聞いた御言葉を思慮深く受け止め、正しく理解し、語ろうとする相手にふさわしく話すことです。そして、御言葉が自分の考えていることと合わないとか、自分の本当の姿が明らかにされているので受け入れられないということで、神に対して怒りを覚えることに「遅いようにしなさい」と勧められています。
その怒りから生まれる言動は、神の御心に適うものではありません。ですから、御言葉を受け入れなくさせる汚れや悪を素直に捨て去り、魂を救うことができる御言葉が語りかけることを聞き続けることが必要です(詩編119編130節)。

2.御言葉を行うことである  22~25節
 御言葉に聞くことから始めたならば、「御言葉を行う」ことがそれに結びついていきます。すなわち、御言葉に人格を傾けて注意深く聞くならば、それに従って行動が起こり新しい生き方が生まれてきます。ですから、御言葉に真実に向き合わず、御言葉に聞くことを忘れて、自分を欺かないことです。どこまでも、御言葉を「一心に見つめ」て生きるのです。

 一人ひとりが、御言葉の前に謙遜でありたいものです。そして、一人ひとりにふさわしく、御言葉を行う幸いに生きるものとならせていただきましょう。

罪人を招くために(2018.1.21)

宣教題  「罪人を招くために」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章13~17節

イエスは、再び湖のほとり出て行き群衆を教えられ、通りがかりの道でレビが収税所に座っているのを見かけて声をかけました。それは何のためだったのでしょうか。

1.わたしに従いなさい
レビは、イエス様からの召しを受けた時、すぐに従います。ここで重要なのは、レビがすぐに従ったということです。彼は徴税人であり、当時は罪人の代表者的存在として、決して救われることはないと思われていました。しかし、そのレビをイエス様が弟子として召されたのです。彼には、何も誇りとするものがなかったのです。

2.罪人の最たる者から主の弟子に
罪人から主の弟子になった人物の代表的存在にパウロがいます。彼はテモテに、「わたしは、その罪人の中で最たる者」と言っています。そんな彼が復活のキリストと出会い回心し、主の弟子となります。 パウロも神の御前に誇るべきものなど何一つ無く、ただ主の十字架によって救われた。その恵みと神の愛に生きた人物でした。

3.罪人を招くために来られた主イエス
主の弟子とされたレビはイエス様を食事に招きます。それを見たファリサイ派の律法学者は、イエス様を非難しました。そこでイエス様は、「わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである」と言われました。彼らは、自分の正しさに固執するあまり、罪人をも赦して招く大きな神の憐みを認めることができなかったのです。
わたしたちも、ただイエス様に招かれた罪人に過ぎません。レビやパウロのように、わたしのような者さえ招かれたことを心から感謝し、イエス様の愛と憐みと恵みを受けた者として歩ませていただきましょう。