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新約聖書

神の現実を見て生きる(2019.7.7)

宣教題 「神の現実を見て生きる」     宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ1章15~23節

 パウロは、神をたたえる賛美(1章1~14節)と神への祈りをささげています。(同15~23節)。その神への祈りは、神の現実を見て生きるためには、何であれば、どうあればよいのかを明らかにしています。

1.神を深く知らされ続ける  15~17節、20~23節
 パウロは、エフェソの人々の信仰と愛に対して「絶えず感謝しています」(15~16節)。そして、とりなしの祈りが展開されています(17~19節)。その最初の祈りが、「神を深く知ることができるように」との祈りです(17節)。
 神は、キリストを十字架に死なせ、復活させ、昇天させて神の右の座に着座させ、すべてのものを支配下に置かれました(20~21節)。そして、教会においてこの「神を深く知る」ことができるようにしてくださり、その恵みを受け取らせてくださったのです(22~23節)。
 神を体験的に知り続ける中から、神の現実を見ることができるのです。

2.神が心の目を開き続けてくださる  18~19節
 続いて、神が「心の目を開いてくださるように」と祈っています(18節)。ところが、現実は人が見聞きしていることにとらわれて、神を信じることに意味も価値も見い出さず、神の御旨を尋ねることなしに生きていることがあります。
信仰とは、この世の現実だけしか見ないことを止めて、神の現実を見て生きることなのです。ですから、神の招きによる希望、信仰者が受け継ぐべきものの豊かさ、わたしたちに対する神の力の絶大さという救いの現実を見ることができるように「心の目を開いてくださるように」祈るのです(18~19節)。

私たちは、神が祈りに答えてくださるとの信仰を抱いて生きるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11.1MB)

地の果てに至るまで(2019.6.23)

宣教題 「地の果てに至るまで」      宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 使徒言行録1章6~11節

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」私たちは、信仰を持つと同時に、宣教する事が神の命令であると言われ、努力してきたのではないでしょうか。

1.聖霊が降るとき
 しかし、イエスは宣教に行く前に、する事があると言われます。それは、聖霊が降るのを待ち、聖霊によって力を受けることです。宣教には、困難が待ち受けています。それは、異教との闘いであり、文化との闘いであります。海外宣教は更に多くの困難があります。気候や病気、食べ物、言葉の壁、経済的な事、クリスチャンの仲間、命の危険、人手不足等々、上げればキリがありません。その様な中で、失敗し挫折し、自分を見失ってしまう事があります。
 聖霊が降るとき、自分が罪人であることがはっきり分り、イエスが救い主であることが分かり、自分が救われていることが分かります。それは、自分が何者であるかが分かる事です。宣教(doing)をする前に、自分が何者(being)であるかが分かっていなければ、困難にあったとき、踏みとどまる事ができません。

2.わたしの証人となる
 地の果てには、頼りになるものがあまりありません。支えになってくれる家族、友人、頼れる医者、慣れ親しんだ食事、本や漫画、教師。それらは遥か遠くにあります。遠くにありますが、それらの支えがなければ、証人としてその地に立ち続ける事はできません。使徒たちが地の果てに宣教に出て行ったとき、エルサレムでそれを支援する使徒もいました。宣教は、出て行く人と残って支える人のチームです。どちらも主の証人であり、聖霊による力でする事が必要です。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.3MB)

そこに救いがある(2019.6.16)

宣教題 「そこに救いがある」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章35~43節

 主イエスは盲人に、「何をしてほしいのか」と問いかけられることにより、彼の願いを知られ、また主イエスご自身の願いを明らかにされました。そのことを通して、神の救いへと招かれたのです。

1.あなたの願い  
 人は誰もが、その人なりの願いを持っています。そして、そうした人間の願いがこの社会を作り出していると思っています。
 さて、この盲人は、主イエスに対してただ一つのはっきりした切実な願いをしています。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶ盲人に対して、人々は「叱りつけて黙らせようと」しましたが、なお叫び続けています
 神は、いかなることに対しても「わたしを呼びなさい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編50編15節)と私たちを招いておられます。

2.神の願い  
 主イエスは、叫び呼び求める者に「何をしてほしいのか」と尋ねられました。そして、主イエスは、ご自身に対する彼の信仰に対して御業をなされました(41~42節)。そうしてくださるのは、神が愛のお方だからです。そのようにして、人間の願いと神の願いが一つになって、新しい人生が始まりました(43節)。

 このように、かつて盲人に成されたことは、今この私たち一人ひとりに成されます。神の願いは、自分の本当の姿が見えない、主イエスが見えない、また十字架上の主イエスの御言葉と叫びが聞こえないでいる者が、主イエスを仰ぎ見る目をもって、主イエスに従っていく人生へと歩みだすことです。そこに生きる意味があり、慰めと喜びがあり、使命が与えられる新たな人生があります。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(8.4MB)

同じ救いの経験を(2019.6.9)

宣教題 「同じ救いの経験を」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ1章11~14節

 神をほめ讃える大合唱からは(3節)、父と子と聖霊の三位の神とその救いの御業を讃えるコーラスが聞こえてきます(6節、12節、14節)。本箇所は、聖霊の恵みの御業として讃えています。

1.救いの確信を  13~14節
 ペンテコステの時に降った聖霊は(使徒言行録1章8節)、今も働いておられ、私たちの救いに関わっておられます。救いをもたらす福音を聞いて、それを信じる時に、聖霊は神の子とされたとの確信の「証印」を押してくださいます。また、聖霊は御国を受け継ぐ者とされたとの「保証」をしてくださり、贖われて神のものとされているとの確信を与えてくださいます。
 今もなお聖霊が注がれているならば、キリストの御業を「見聞き」でき(使徒言行録2章33節)、神に従う者に、聖霊の恵みの確かさを明らかにしてくださいます(使徒言行録5章32節)。

2.わたしたちから、あなたがたへ  11~14節
 この救いの経験は、福音を宣べ伝えた「わたしたち」から(11~12節)、福音を伝えられた「あなたがた」へと共通の共有した体験となって(13節)、「神の栄光をたたえる」ことにおいて一つになるのです(14節)。それは、「わたしたち」と「あなたがた」との間には、キリストを信じる信仰体験において区別がないということです。

 今日まで、この聖霊による宣教の御業が展開されてきたことにより、今の「わたしたち」があります(14節)。それが教会で一つに結ばれ、神の国を継ぐ者とされている聖霊の恵みです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(11.3MB)

一つにまとめられる(2019.6.2)

宣教題 「一つにまとめられる」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ1章7~10節

 パウロは、「神の御心による」救いのご計画を語っています(3~14節)。まず神の御心は、キリストにあって神に選ばれた者たちを神と子とされることでした(3~6節)。続けて、神の御心は、どのように展開していくのでしょうか。

1.キリストにあって贖われる  7~9節
 キリストの受肉、十字架、復活の出来事は、私たちの救いのためでした。すなわち、神の豊かな恵みが溢れ出て、神の御子が人となって世に来られ、十字架で死なれ、そこから復活されたのは、私たちを贖い、罪を赦すためでした(7節)。
 神は、その罪を神の背後に永遠に投げ捨て(ミカ7章19節、イザヤ38章17節)、
驚くべきことに、その罪を永遠に消し去り、神が永久に思い出さないで、忘れたと言われました(イザヤ43章25節)。それもこれも、キリストの血によってであり、その力は神に敵対する勢力を破壊させてあまりあります。私たちは、この事実を、一人ひとりになされたことと信じているのです。

2.キリストにあって一つにされる  10節
 続いて、この救いの事実のゆえに、キリストによって「あらゆるものが」また「天にあるものも地にあるものも」神に繋がれて一つに結ばれるという「神の御心」を明らかにされました。つまり、神と一人ひとりがキリストにあって一つに結ばれ、天の御国と地上の世界がキリストにあって一つにされることになったのです。それはまた、教会において、互いに受け入れ合い、赦し合い、キリストにあって一致を作り出す新しい交わりを生み出したのです。
 教会は、「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈り、キリストこそが、私の、教会の、世界の希望であることを世に証しし続けていくのです。

メッセージ(10MB)

福音のためなら(2019.5.26)

宣教題 「福音のためなら」       宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 1コリント9章19~23節

1. 自由とは
 自由とは何でしょうか。イスラエルの民は、エジプトの奴隷であったとき、れんがを造ることを命じられ、ノルマを与えられ、厳しい労働を強いられました。断る権利がないのが奴隷です。神に導かれて解放された民は、安息日を与えられます。安息日は、労働をしなくて良い日です。労働を止められる事が、奴隷から解放されて、自由となった証拠でした。神が与えた自由は、しない事でした。

2. 不自由になる自由
 神は何にも支配されない、真に自由な方です。神はその自由を使って、ご自身を制約されています。神は不義も不正も、見捨てる事も決してしません。神は神として相応しくないことをしない事によって、神の本質を現わされます。ノアの洪水の後、二度と洪水によって滅ぼすことはしないと定め、ご自身を制限されました(創世記9章)。イエスは、荒野での誘惑において、石をパンに変える事を、しない事によってキリストである事を現わされました。パウロも神に倣って自らを制約し、自らすすんで「すべての人の奴隷になりました。」(19節)

3. 自発的な不自由
 私達は、神を愛し隣人を愛するように言われています。しかし、憎むことをやめられない相手、止めたいのに抜け出せない習慣が誰にでもあります。神は、従おうとする者に相応しくない事を、しない事に自由を使うように求めています。しかし、そんな事は出来ないと思う事があるのではないでしょうか。その、神に信頼しなすことをまず止め、祈ろうではありませんか。神は私達のどんな祈りでも、だれの祈りでも、神として聞かずにはいられない方なのですから。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(10.8MB)

祝福の道(2019.5.19)

宣教題 「祝福の道」       宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章24~34節

 アブラハムに与えられた祝福は(創世記12章2~3節)、神の救いの歴史の中で脈々と受け継がれ、遂にイエス・キリストによって成し遂げられました。この祝福が与えられたところには、それまでのままで終わらないで、必ず変化がもたらされています。

1.主イエスが開いてくださった道  31~34節
 永遠の命は、主イエスを信じる者が無代価でいただくものです。そのための道は、神が主イエスの十字架と復活を通して開いてくださいました。そのことは、これまで繰り返し語られてきたものの、主の弟子たちは「理解できなかった」のです(34節)。
 主イエスは、私たちの罪の赦しの贖いのために十字架の道を歩まれました(ルカ5章20節、ヨハネ14章6節)。それによって、私たちの罪は赦され続けているのです。このことが心と生活に刻み込まれることにより、信仰が強められるのです。

2.主イエスが全うさせてくださる道  24~30節
 さらに、日々自分の十字架を背負って、主イエスに従っていく十字架があります(ルカ9章23節)。主イエスは、そのことを金持ちの議員についての問答の中で明らかにされたのです。そして、真に主イエスに従うときに、この世での祝福と後の世では永遠の命の祝福を受けることを明らかにされました。十字架に死んで復活された主イエスが「神にはできる」と言われる御言葉に信頼することによって、納得のいく力が湧いてくるのです。
 主イエスと同様に、自分の十字架を背負う道こそが、神の御心です。その道を進んでいく者に、主イエスは助けを与え、その道を全うさせてくださるのです。

聖書朗読(0.7MB)

メッセージ(10.7MB)

霊的な祝福(2019.5.12)

宣教題 「霊的な祝福」       宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 エフェソ1章1~6節

 神は、「天のあらゆる霊的な祝福」のフルコースを用意して、それをキリストにおいて完全に与えていてくださり、聖なる者を祝福していてくださいます。キリストにおいて「霊的な祝福」が与えられているとは、どういうことなのでしょうか。

1.神をほめたたえるものとされる  3節
 エフェソの信徒への手紙が語りかけるキリスト者の信仰のあり方と生き方は、今日の私たち一人ひとりと教会で分かち合い、確信させていただくことです。
 パウロは、キリストを信じる者が、初めに何をするかを教えています。神をほめたたえることです(3節a)。それは、義務ではなく、最大の特権であり、喜びです。
 なぜ、私たちが何よりもまず神をほめたたえるのでしょうか。神は、「天のあらゆる霊的な祝福で満たして」いてくださるからです(3節b)。

2.神の選びをいただいている  4~6節
 神の霊的な祝福に満たされることができたのは、「キリストにおいて」神に選ばれたという以外に理由はありません。しかも、天地創造の前に選んでいてくださったのです(1コリント1章27~28節、ガラテヤ1章15節参照)。それは、神の前に立つ時、罪が赦され「聖なる者、汚れのない者」されるためであり、「神の子」にされるためでした。ただ、神の愛ゆえに選ばれたのです。

 このように、究極的には、神が私たちの救いに責任を負っておられのですから、私たちは神に自らを委ねる信仰に生きるのです。そして、神がキリストによって与えてくださった恵みをたたえるのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.5MB)

永遠の命に生きる道(2019.5.5)

宣教題 「永遠の命に生きる道」    宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ルカ18章18~23節

ここに、金持ちの議員と主イエスとの出会いが語られています。そこでは、突っ込んだ話し合いがなされたのですが、結果この人は「悲しみながら立ち去った」のでした。ここから、「永遠の命を受け継」いで永遠の命に生きるとは、どういう信仰の歩みなのかを教えられます。

1.何をすれば 
 金持ちの議員は、神の掟を守っているということに満足し、この世の冨に依存していました。そんな彼が、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができる」のかと主イエスに尋ねました。
彼は、永遠の命を受け継いで、神の国に入ることができるとの確信がなかったのです(18章17節)。そのために、不安がありました。さらに、正しい生活を生きているという自負を抱いていましたが、死に打ち勝つ確信を持つことができなかったのです。

2.何であれば 
 金持ちの議員が「何をすれば」と尋ねたことに対して、主イエスは、永遠の命を受け継いでいないのは、何かが足りないからであると切り込まれました(22節)。それに対して彼は、主イエスのところに来たにもかかわらず、主イエスに背を向けてしまったのです(23節)。

 この話しに先立って、主イエスと出会った子供がいます(15~17節)。そこには、神の恵みの力に全てを明け渡している者の姿があります。ここでは、永遠の命に生きる道は、「何をしたら」ではなく、「何であれば」よいのかを明らかにされたのです。永遠の命を受け継ぐには、ただ主イエスを受け入れるのみです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(11.2MB)

イエスは知っておられる(2019.4.28)

宣教題 「イエスは知っておられる」  宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 ヨハネ6章1~15節

私たちは、生きている限り試練や艱難が来ます。そのとき、どうすれば良いのでしょうか。弟子達は今回の試練を通して学びました。

1.弟子はできないと思った
 男五千人を食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(5節)。とイエスは言われました。フィリポとアンデレはそれぞれ、お金が足りない事、子供が持っていた食べ物では到底足りないことを理由に、できないと答えました。

2.主イエスにはできる
 弟子達が無理難題だと思っていたことも、それを言ったイエスは、御自分では何をしようとしているか知っておられました(6節)そして、アンデレが何の役にも立たないと言った、少年が持っていた大麦のパン五つと魚二匹を神に感謝して、人々に欲しい分だけ分け与えられました(11節)

3.イエスのところに持って行く
 私たちは、試練や艱難が来たとき、その問題の大きさに目を奪われ、自分の能力や今持っているものでは、出来ないと諦めてしまいます。しかし、私達には出来ないと思え、足りないと思えるときでも、イエスはどうしたら良いかを知っておられます。そして、私たちがそれをイエスのところに持って行くのを待っておられます。イエスは捧げられたものを幾倍にも増やして、分け与えた結果、パンはあり余りました(12~13節)。弟子達はこの試練を通して、イエスに持っていく事、イエスの言われた事に従うとどうなるかを学び、成長しました。

 イエスは今日も、私たちがイエスのところに持って行くことを待っておられます。今、イエスのところに持って行く事はなんでしょうか。

(聖書朗読 1MB)

(メッセージ 9.7MB)

主が私の愛を完成してくださる(2019.4.21)

宣教題 「主が私の愛を完成してくださる」 宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ21章15~19節 1ペトロ1章8節

 私たちは、復活されたキリストにお出会いしたペトロ同様に、本気でキリストの愛の中に生きているか、本気でキリストを愛しているかと問われています(15~17節)。ペトロは、この出会いを通して、新しい歩みを始めました。

1.愛を呼び起こされるキリスト 
 ペトロは、キリストとの一番最初の出合いから(ヨハネ1章41~42節)、事あるごとにキリストの愛の招きに応答することを求められました(同13章36~38節)。ところが、キリストの十字架を前にして三度否んだのです(同18章25~27節)。その敗北感に悲しむペトロは、やり直すすべを知りませんでした。
 復活されたキリストは、そんなペトロに「わたしを愛しているか」と三度も呼びかけ、愛を呼び起されました。そして、ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じてす」と応答して信仰の一歩を踏み出しました。彼は、この愛の根拠を自分におくのではなく、全くキリストにおいています。

2.愛の証人として招かれるキリスト 
 あわせてキリストは、「わたしの小羊を飼いなさい」と、愛する人々に心を砕いて労し、その愛の証しを立てるように三度招かれました。それは、ペトロが自分の思いのままにではなく、キリストを愛するゆえに、その御心に生きることを喜び従うことでした(18~19節)。こうして、彼の生き方は変革したのです。

 このキリストの愛の関わりは、ペトロだけが独占するものではありません。復活されたキリストに愛され、キリストを愛する私たちに対しても同じように関わられます(1ペトロ1章8~9節)。キリストが、愛を完成させてくださるのです。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11.3MB)

成し遂げられた(2019.4.14)

宣教題 「成し遂げられた」        宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ19章28~30節

 主イエスは、十字架上で祈り、とりなし、叫ばれました。このお方の十字架の死を取り囲む周囲の出来事に目をやるのではなく、このお方の死そのものに現された救いの恵みを見ましょう。主イエスは、何を「成し遂げられた」のでしょうか。

1.人の罪の一切を受け取られた 
 主イエスは、肉体的な痛みに苦悶する叫びとしてでなく、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」、「渇く」と言われたのです。それによって、「聖書の言葉が実現し」(詩編69編22節)、人が神に捨てられるという魂の渇きを味わうことがないように、主イエスが身代わりとなって受け取ってくださったのです。それは、主イエスが酸いぶどう酒を受けられたことに表されているように、人の罪を飲み干そうとされる救い主の死だったのです
 このようにして、主イエスは、罪人の魂の渇きを受け取られたのです。

2.ご自身の命を自ら捨てられた 
 主イエスは、父なる神の御心である十字架の死を成し遂げてくださったのであり、それによって神の栄光を現されました(ヨハネ17章4節)。このようにして、十字架の死にいたるまで愛を貫き通されたのです(同13章1節)。
 そこで主イエスは、「頭を垂れる」ことにより、十字架において枕する所を得られました(マタイ8章20節)。そして、「息を引き取られた」と、主イエスご自身が命を捨てて、ささげ尽くしてくださったのです(ヨハネ10章18節)。

 主イエスの十字架において、神の救いは「成し遂げられた」のです。もはやそれを覆すものは何もありません。主イエスに結ばれた者として歩み続けるのみです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(13MB)

愛の働き(2019.4.7)

宣教題 「愛の働き」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヤコブ5章19~20節

 この手紙の締めくくりの御言葉は、信仰の確信に触れるような勧めと約束で閉じられています。そこには、真理から迷い出た者を連れ戻そうとする、ほとばしり出るような主の愛と兄弟愛が満ちています。

1.連れ戻そうとされる主の愛 
 ヤコブは、「わたしの兄弟たち」と、心よりの愛を募らせて呼びかけています。一度主イエスを信じて従う道を歩みだしたにもかかわらず、そこから迷い出た者がいたからです。主イエスは、そのような者に対してひときわ愛に燃えて、回復へと招かれます(マタイ18章10~14節、ヨハネ6章39節)。
 私たちは、主イエスとその真理の御言葉から迷い出る可能性があります。しかし、私たちは、迷い出た者を連れ戻してくださる主イエスの愛の招きにお応えすることによって、信仰の再発見をさせていただけるのです。

2.連れ戻す兄弟愛 
 迷い出た者を連れ戻すために、「だれかが」役に立つことができるのです。一人ひとりには、それをさせていただける可能性があります。
 それは実に、大きな愛の働きです。まず、「罪人の魂を死から救い出」すこと、すなわち人を永遠の死、永遠の滅びから救い出すことになるからです。また、「多くの罪を覆う」ことになるからです。もし人を連れ戻さなかったら、その人が多くの罪に堕ち込んでいくことになり、それによって周囲に罪が広がっていきます。

 大きなことをしようとする必要はありません。人が迷い出ていると気づいたら、主の愛の迫りをいただく中から祈り、愛の働きをさせていただくのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(13.8MB)

持って行き場がある(2019.3.31)

宣教題 「持って行き場がある」      宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヤコブ5章13~18節

 神に祈りをささげることは、人間に与えられている言葉を最高に用いることです。
ここでは、信仰者と教会は、この祈りを十分に用いているか、この祈りが充実しているか、個人的にだけでなく、共に祈ることを大切にしているかと問いかけています。

1.祈りを聞いてくださる神 
 聖書は、あらゆる時に神に祈ることを大前提にしています。とともに、特別な時の祈りについても語っています。悩み苦しむ時、自分の罪や過ちに泣く時、心身の病によって弱わった時、喜びと感謝の賛美をささげる時に祈ります(13~15節)。
 しかもその祈りが、すぐに応えられる祈り、時間をおいて聞かれる祈り、応えられないと思えても聞かれている祈り(使徒言行録12章1~19節)、そして祈る者がよこしまな思いや不義を持ったままでいるために、聞かれないままの祈りと様々です。ともあれ、私たちは、祈りを聞いてくださる神の前に持ち出すことができるのです。

2.心から神を信頼する私たち 
 祈りには、自分自身が祈る祈りがあり(13節)、祈ってくれる人と一緒に神の方を向いて、神の前に立って心を合わせる祈りがあり(14節)、主イエスに赦されているお互いが、罪を告白し合い、互いのために祈り合う祈りがあります(15~16節)。
 それらの祈りは、「主の名によって」祈ることであり(14節)、「信仰に基づく祈り」であり(15節)、神が祈りを聞いてくださることを信じる「正しい人の祈り」です(16節)。そして、私たちの祈りが、弱さと力の限界を知って神に祈ったエリヤと同じように(列王記上18章~19章)、ただ神とその力を信じ信頼して祈るのです(17~18節)。神に自分のそのままを持って行く祈りに、勝利があるのです(16節)。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(17MB)

神の恵みの豊かさ(2019.3.24)

宣教題 「神の恵みの豊かさ」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ18章15~17節

私たち一人ひとりは、漫然とした日々の歩みを繰り返すのではなく、神の恵みの中に生きる旅路を歩むことが必要です。憐れみ深い神は、そのように「神の国」に入って生きるように招いておられます。

1.無力な者を受け入れてくださる神の恵み  16節
主イエスの言動を見聞きし、それに触れていたと思われる乳飲み子の親たちは、自分の子供も同じように主イエスの祝福に与らせたいと願い出て来ました。その様子を見ていた弟子たちは、それを妨げようとしました。それに対して、主イエスは乳飲み子を呼び寄せて、「神の国はこのような者たちのものである」と抱き上げ、手を置いて祝福されました(マルコ10章16節)。
「神の国」は、心の貧しい、無力な、神に信頼して生きる者を招き入れてくださる豊かな恵みの世界です(マタイ5章3節)。

2.神の恵みを受け入れる信仰  17節
主イエスは、「子供のように」純粋で素直な心を持つように勧められます。まず、主イエスの憐れみにすがって「へりくだる者」です(マタイ18章1~3節、ルカ18章13~14節)。そして、神の救いの恵みを信頼して受け入れることです(17節)。ここから出発して、神と共に歩み続けるのです。

すべての人が神の恵みを受け入れることのできる場は、主イエスの十字架においてです(ルカ23章34節)。この主イエスのもとに来るのに、人は何ら取り繕う必要はありません。私たち一人ひとりは、この神の恵みの救いを受け入れて、天の御国への旅を全うさせていただきましょう。
聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(19.7MB)