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新約聖書

信仰を告白するということ(2020.10.18)

聖書

こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2章 10~11節)

礼拝音源(30.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ16章13節a 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 119編9~16節
会衆祈祷 一  同
聖  書 フィリピ2章1~11節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 358 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「信仰を告白するということ」 金井由嗣師
祈  祷
賛  美 411 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

「イエス(・キリスト)は主です」と声を合わせて言い表す告白(ホモロギア)は、初代教会におけるもっとも重要な信仰の表明でした(ローマ10章9節、1コリント12章3節参照)。この告白にはどのような意味があったのでしょうか。

1.イエス・キリストは唯一の主です

新約聖書の時代、ローマ帝国は武力で平和と繁栄をもたらした皇帝を「主」(「キュリオス・カエサル」)と呼んで礼拝することを全ての市民と公職者に求めていました。しかしキリスト者は、力による平和ではなくキリストがもたらす真の平和を追い求め、皇帝礼拝を拒否しました。それは文字通り命をかけた告白でした。

2.全被造物が加わる告白です

神様の救いのご計画は、終わりの日に霊的存在も含めた「すべての」被造物が「イエス・キリストは主である」と告白することを目指して今も進んでいます。私たちキリスト者はその初穂として、先に救われ、信仰を告白します。個人の信仰告白が共同体(教会)の共通の告白、さらに被造物全体の告白へと広がっていくのです。

3.「しもべ」となってくださったお方を「主」と告白します

イエス様は力で征服するのではなく、「僕の身分」になり、「十字架の死に至るまで」神様の御心に従われました。そのイエス様を、父なる神が「主」として高く引き上げてくださったのです。イエス様を「主」と告白するキリスト者は、自らも「しもべ」として生きるように召されています。まず教会の交わりの中で、次に遣わされて生きる場所で、隣人に仕えつつ真の「主」を告白し、証して生きるのです。

 

キリストは生きておられる(2020.10.11)

聖書

「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ24章6節)

礼拝音源(25.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ16章24節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 84編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ24章1~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 11 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストは生きておられる」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 513 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスが墓の中に「おられない。復活なさった」ということは(6節)、主イエスはどこにでもおられ、今ここに生きておられるということです。主イエスが復活されたという事実に対して、私たちはどういうあり方であればよいのでしょうか。

1. 思い出しなさい
最初に墓に行った婦人たちは、主イエスのご遺体がないことに途方に暮れていたとき、主の使いから「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」と聞かされ(6節)、それを弟子たちにも伝えました。思い出すことは、主イエスが十字架に架けられ、復活されるという出来事でした(7節、ルカ9章22節)。
私たちは、御言葉が解き明かされる時に、聖餐に与る時に(1コリント11章24~25節)、主イエスの十字架と復活によって、罪と死のとりことなっていたところから解き放たれたことを、思い当たることとして、繰り返し思い出すのです。

2.お会いしなさい
マタイによる福音書における並行記事で、復活の主イエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28章7節、10節参照)と語られました。ガリラヤは、弟子たちが最初に主イエスに出会い、主イエスに従った場所です(ルカ5章1~11節)。弟子たちは、そのガリラヤで復活の主イエスにお会いし、再献身するように招かれたのです。
私たちを信仰の原点に立ち帰らせてくださり、信仰の歩みに変革をもたらしてくださるのは、今も生きておられる復活の主イエスです。

 

 

聖なる交わり(2020.10.4)

聖書

恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソ6章24節)

礼拝音源(28.9MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 1テモテ1章15節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 67編1~8節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ6章21~24節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 83 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聖なる交わり」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
聖餐式 新49
10月誕生者祝福 2コリント12章9節a
賛  美 390 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

エフェソの信徒への手紙の最後の部分です。本文を語り終え、終わりの挨拶と祝福で閉じられています。そこには、「聖なる交わり」が溢れています。

1.恵みを分かち合う交わり  21~22節
パウロは、獄中という試練の中で、礼拝と祈祷の時と伝道に勤しんでいたことをエフェソの信徒たちに伝えました(使徒言行録16章25節、28章30~31節)。パウロにとって、そこがどんなに神の恵みが働いていたかを伝えたかったのです。そうすることによって、エフェソの教会がパウロと同じ恵みに与って、励ましを受けてほしいと願ったのです。それを取り次いだのか、主のものとされ、忠実に仕えるティキコでした。
パウロとティキコとエフェソの信徒たちが、神の恵みを分かち合ったように、私たちもこの神の恵みを分かち合うところに、聖なる交わりが造られていくのです。

2.恵みを祈り合う交わり  23~24節
最後は、神に対する祈り、神の祝福と導きを求める祈りで結ばれています。その祈りは、「兄弟たちに」「すべての人と共にあるように」と誰にでも当てはまる内容です。そして、イエス・キリストの救いの恵みが、私たちのうちに信仰を起こさせ、平安と愛という実を結ばせることを祈り合う聖なる交わりが造られるようにとの、教会の祈りです。
ところで聖餐は、キリスト贖いの恵みに対する「感謝の祈り」の時、「記念として」キリストの救いを想起する時、「主が来られるときまで」主を讃える時です。そして、キリストとお互いの「聖なる交わり」が造られていくことを確認する時です。

 

 

 

 

使徒の選出(2020.9.27)

聖書

そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。(マルコ3章14~15節)

礼拝音源(25.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ハバクク2章20節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 66編1~20節
会衆祈祷 一  同
聖  書 詩編46編1~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 463 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「使徒の選出」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 510 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.選ばれた背景

イエスが行った奇跡のことを聞き、おびただしい群衆が集まった。しかし、その人々には、福音とイエスに対する偏った理解しかなかった。それに対し、福音の全体像を知り深く理解する者を育てるため、イエスは弟子の中から使徒とする者を選んだ。

2.選ばれた理由

選んだ理由は、『じぶんのそばくに置くため』『派遣して宣教させ』『悪霊を追い出す権能を持たせるため』(14,15)でした。使徒はイエスのそばで寝食を含めた生活を共にすることで、生ける福音であるイエスを目の当たりに見て深く知り、宣教に出て行く力と福音に対する信頼を得ました。そして、神から遣わされている印である、悪霊を追い出す権能を与えられるのにふさわしい者となって行きます。

3.選びの責任

イエスが十二人を任命したとき、彼らは未熟でした。筆頭のペトロをはじめ、使徒達は失敗を繰り返し、イエスの教えを理解できず、逃げ出すことさえします。しかし、イエスのそばで成長し、未熟ながらも使命を果たします。そして、使徒達が宣教した結果、私たちのところまで福音が伝えられました。

福音とイエスを信じる者は、すべて神から選ばれた者です。その信仰は未熟なところから始まります。イエスの復活があるまでは誰も完成することはありません。しかし、イエスのそばで歩み続ける事で、成長して派遣される者となります。選んだ方が責任を持ってして下さいます。その主のそばで、この秋も歩んで行きましょう。

 

 

 

 

大きな慰め(2020.9.13)

聖書

イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23章46節)

礼拝音源(26.7MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編68編20~21 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 62編1~13節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章44~56節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 464 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「大きな慰め」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
洗礼式 (第二礼拝) 67
長寿祝福・感謝の時
賛  美 528 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

この箇所は、主イエスの十字架の最後の場面です。その主イエスの十字架による救いは、歴史と世界に大きな変化をもたらしました。それは、イスラエルだけではなく、全ての人にもたらされた大きな慰めです(ルカ2章25節)。

1.新しい生きた道が開かれたから  44~46節

神の御子が失われるということは、全世界を暗黒に追い込むことでした(44節~45節a)。しかし、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」(45節b)ことに表されているように、主イエスは十字架の死をもって、神と人との間のあらゆる隔てを撤廃してくださり、その交わりを回復してくださったのです。

そして、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(46節)と、主イエスは父なる神に御自分の全てを委ね切られました。それゆえに、誰でも神に近づく新しい生きた道が開かれたのです。私たちは、この主イエスに揺るがない信頼をおくのです。

2.新しい神の御業が始まるから  47~56節

主イエスの十字架によって、神の救い、神の恵みの御業が始まりました。百人隊長は、神を信じなかった者でしたが、神を信じ始めるようになりました(47節)。群衆たちは、胸を打ちながら、自分たちの至らなかったこと、間違っていたことを認め、罪深さを知らされ、悔い改めへと導かれました(48節)。ヨセフという議員は、主イエスの御姿と御言葉に接し、心が変えられ、勇気ある人に変えられました(50~54節)。

主イエスの十字架によって、私たちの全ての闇が光へと移し変えられました。ここに、私たちの慰めがあります。この慰めを人に届ける者とさせていただきましょう。

 

 

 

神の偉大な力を身にまとい(2020年9月6日)

聖書

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。(エフェソ6章10節)

礼拝音源(30.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編29編2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 65編1~14節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ6章10~20節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 18 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「神の偉大な力を身にまとい」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
9月誕生者祝福 イザヤ書63章9節
賛  美 536 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

パウロは、この手紙で、キリストと共に恵みの座に着き(2章6節)、歩み(同4章17節以下)、この箇所では、悪魔に立ち向かうように語っています(10~11節)。そのためには、主の偉大な力によって強くされ、神の武具を身につけるように命じています。

1.世の現実に送り出される身である  11~12節
信仰者が送り出されていく世の現実は、罪の力に支配されている世界です。したがって、信仰者はその戦いの装備を身に着け、心を定めて送り出されていくのです。
それは、信仰者の戦う相手が、血肉すなわち人間ではなく悪魔であり、その策略に対抗するためです。悪魔は、敵が悪魔であることを見破られることを恐れます。また、悪魔の存在を信じさせないようにしてきます。
このように、信仰者は、不信仰との戦いであること知って、神に敵対するものの前にいることを忘れてはならないのです(詩編23編5節a)。

2.神の御前に自らを置く身である  13~20節
信仰者は、この戦いに挑むに際して、臨在される神に目を向け、その神の御前に立つのです。そして、真理の帯、正義の胸当、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、霊の剣という、神が信仰者に与えてくださる「神の武具を身に着け」させていただくのです。霊の剣こそ「神の言葉」であり、人に神の救いに与らせる御言葉です。

このように、信仰者は福音の戦いのために神に全面的に依存しているのですから、祈りをもって戦いをなし、すべての聖なる者たちのために祈り、福音を大胆に語り続けられるように祈り合うのです。ひざまずき、立ちあがらせていただきましょう。

 

 

バズる福音(2020年8月30日)

聖書

エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。(マルコ3章8節)

礼拝音源(47.9MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編100編1~2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 57編1~12節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章7~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 461 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「バズる福音」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.噂の拡散
最近使われるようになった、「バズる」とは、噂が急激に広まる事を意味しています。特にインターネットを通じて広まること、大部分の方から好ましい事として思われている状況のときに使用されます。例えば、サバの缶詰には、コレステロール価を良くする効果がある。という噂が「バズった」とき、サバ缶が爆発的に売れたという事がありました。しかし、このような噂は、表面的な現象や理解だけが広まり、深く理解されている事はほとんどありません。まさに噂なのです。

2.福音の拡散
イエスの宣べ伝えた福音は、「バズり」ました。そのため、『おびただしい群衆』がイエスの所に集まって来ました(7,8)。しかし、群衆が集まったのは『病人をいやされた』(10)奇跡という表面的な現象を求めていたからであって、本質である『悔い改めて信じる』(1章15節)ためではありませんでした。
そこに紛れていた悪霊は、『イエスは神の子』(11)である事実を、悪用して伝えるものでしたので、言いふらさないように戒められました(12)。

3.福音に向き合う
世の中には、幸せになるための噂が溢れています。私達は不安や欲望、野心のために、それらに耳を傾けます。また、親切心と自己満足のため、「バズる」ことに手を貸します。しかし、深い平安や確信は、人の噂や自分が作り出す噂に耳を傾けるのではなく、イエスに向き合ったときに得ることができます。

 

 

キリストは他人を救った(2020.8.23)

聖書

するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23章43節)

礼拝音源(28.6MB) 

礼拝順序

前  奏
招  詞 第1ヨハネ3章16節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 51編1~21節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章32~43節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 298 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストは他人を救った」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

人は誰でも死に向かい合って生きていますが、キリストの十字架の救いの恵みによって生きるならば、その死は勝利となります。キリストは、当時の人々に「他人を救った」と嘲られましたが、それは私たちの救いと深いかかわりがあるのです。

1.キリストは十字架で命を捨てられた

自分を救うことなく他人を救われたキリストは、私たちの罪を負って神に呪われてくださったのです(イザヤ書53章3~5節)。そのようにして、自発的にご自分の命を捨ててくださったのです(ヨハネ10章11節、18節)。

そうすることによって、私たち一人ひとりの罪を赦し、失われた神との交わりを回復してくださいました(34節)。人が求めてやまない愛と平安は、キリストによる罪の赦しを受け入れることから生まれるのです。

2.キリストは罪人を救われる

神を恐れたひとりの犯罪人は、自らは十字架刑を受けることは当然だと認めつつ、キリストは十字架に架かられる必要のないことに気づきました(40~41節)。それゆえに、彼はキリストの憐れみにすがり、信頼して「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」との願いを申し出ています(42節)。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とのキリストの呼びかけに応答した時が、彼の「今日」の救いとなりました(43節)。

私たち一人ひとりは様々な状況下に置かれています。それがいかなる時であっても、キリストの呼びかけに応答する「今日」が、あなたの救いの時となるのです。

 

 

 

 

神をほめたたえる(2020.8.16)

聖書

わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。(エフェソ1章3節a)

礼拝音源(30.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ローマ12章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 50編1~23節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ1章1~14節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 351 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「神をほめたたえる」 池口輝雄神学生
祈  祷
賛  美 475 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

パウロが本書を書いたのは、牢獄の中です。にも拘らず、挨拶の後すぐに神への賛美を献げています。彼は自分が賛美している神が、どのような方かを知っていたからです。パウロが知っていたのはどのような方なのでしょうか。

1. 天地創造の前に、あなたを選ばれた方
神様は、天地創造の前に、あなたを心に留めてあなたを選ばれました。さらに、イエス・キリストによって神の子にしようと前もってお定めになりました。神様はイエス様を子として、子であるが故に愛されています。そして、このイエス様によって、イエス様を信じるあなたをご自分の子どもとし、あなたにも同じ愛を注ごうと決められ、そのような交わりへとあなたを招き入れられました。

2.ゴールまであなたを導かれる方
4節の「御自分の前で聖なる者、汚れのない者」とは、私たちの最終的な姿です。これまでのあなたがどんな人であろうと、今のあなたがどうであろうと、これから先にあなたに何が起ころうと、天地創造の前からあなたを選ばれた神は、あなたを「聖なる者、汚れのない者」へと責任をもって完成させてくださいます。

3.未来の先取りとしての賛美
今神様を賛美することは、私たちがこの神様の計画の中にあるという証しであり、未来の先取りです。今朝の礼拝も、やがて完全なかたちで献げられる時が来ます。そのことを覚えつつ、心から神様に賛美していきたい。そのように願います。

 

 

 

十字架を担う者(2020.8.9)

聖書

人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。(ルカ23章26節)

礼拝音源(27.8MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ4章23節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 46編1~12節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章26~31節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 297 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「十字架を担う者」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 504 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

十字架を担うとは、苦難を担うことです。キレネ人シモンは、この時まさに十字架を担っている苦難です。エルサレムの娘たちは、近い将来に十字架を担って苦難に遭う日が来ることが語られています。

1.苦難は危機の時である  27~31節

これまで主イエスと一緒に旅をしてきたエルサレムの娘たちが、嘆き悲しんでいます。沈黙してこられた主イエスは、口を開いて大切なことを語られました。それは、これまでエルサレムに危機が迫った時には警告してこられた神が(30~31節)、この後神の審きが訪れることに対して、自分自身と自分の子供たちのために泣くようにと語られました(28~29節)。

同様に私たちは、自分が罪人であることを知って悲しみ泣き、そこから主イエスの十字架によって解き放たれた者であることを感謝して涙するのです。

2.苦難は祝福の時である  26節

この時、誰一人として十字架を背負おうとする者はいませんでした。そうした中、キレネ人シモンは、主イエスに代わって無理やりに十字架を背負わされたのです(マルコ15章21節)。ところで、この思いがけない苦難が、シモンの一家にとって救いの機会となり、祝福の源となる家族となって歩み出すようになりました(ローマ16章13節)。苦難がその信仰の成熟と人格形成に大きな役割を果たしたのです。

私たちは、絶えず主イエスの十字架と復活の救いに与り続け、強いられた恵みの十字架を担う祝福に生きるのです。

 

 

 

キリストが私たちの主(2020.8.2)

聖書

あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。(エフェソ6章9節c)

礼拝音源(30.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ガラテヤ3章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 42編1~12節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ6章5~9節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 13 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストが私たちの主」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
8月誕生者祝福 ヨハネ14章27節
賛  美 411 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

奴隷と主人については、これまでと同じように、互いに仕え合う関係として語られています(5章21節)。この世の仕組みの中で生きる奴隷と主人は、キリストにあって何を「知っている」かを問いかけています。

1.同じ主に従う僕である 9節
奴隷たちには、キリストに従うように主人に従い、主に仕えるように主人に仕えることを命じています。そうするのは、キリストの十字架の贖いによって自由にされているからであり、それも一貫して誠実に喜んで仕えることを求めています(5~7節)。
主人たちは、人を分け隔てなさらない、奴隷たちと同じ主に仕える僕です(9節)。彼らは、そのことを体験的に自分のこととして「知っている」のです。したがって、互いに足を洗い合うようにして、仕え合うのです(ヨハネ13章14節)。
同じように私たちは、主に従う僕として、この世の仕組みの中で生きるのです。

2.主から同じ報いを受ける  8節
主に従う僕は、奴隷であっても自由な者であっても、同じ報いを受けることを「知っている」のです。その報いは、すぐに与えられる主からの賜物だけでなく、主から御国を受け継ぐという報いです(コロサイ3章24節)。この報いを期待するのは、この地上の事だけを考えて生きるのではなく、天に目を注いで生きるからです。
年老いたパウロは、脱走奴隷オネシモを主人のフィレモンに返すに際して、和解の賜物を受けることを経験して知りました(フィレモン16~17節)。私たちは、生涯にわたって神の学生のようにして、キリストを私たちの主と告白しつつ歩むのです。

 

 

キリストを十字架につけたのは(2020.7.26)

聖書

そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。(ルカ23章25節)

礼拝音源(29.2MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 マタイ11章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 40編1~18節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章13~25節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 287 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストを十字架につけたのは」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 441 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

キリストは、十字架に架けられて死なれました。その醜悪さは、十字架に架けられたキリストの醜悪さではなく、人間の罪の醜悪さを表しています。

1.私(たち)の罪が

一言で「罪」と言いますが、様々な形で表れます。祭司長たちと議員たちと民衆には、ねたみと怒りと憎しみがあります。ピラトには、恐れと責任転嫁をする優柔不断さがあます。これらが、キリストを十字架に架けたのです。

キリストの十字架の場に、私(たち)は居合わせませんでした。しかし、生ける唯一の神がいては都合が悪い、罪をさばくような存在は自分には必要ない、自分の思うことは何でもしてみたいといった神への反逆と自己中心の罪が、キリストを十字架に架けたのです。十字架は、私(たち)のこの醜悪な罪が露骨に表されたものなのです。

2.私(たち)の罪の身代わりに

しかし、十字架には、悲惨な醜悪な面だけではなく、もっと本質的な意味があります。キリストは、本来十字架刑を受けるべきであったバラバに代わって十字架にお架かりくださったのです。不思議にもバラバは、キリストの十字架の意味を世界に告げ示す生き証人となったのです。

キリストは、すべての人の罪の身代わりとなって死なれました。キリストは、私(たち)の罪を誰よりも恐れ、悲しまれながら、ご自身が死に定められたことを喜んで身に引き受けられたのです。私(たち)の信仰は、このキリストの十字架の前に立って歩み出すことから始まります。そこから、新しい生活が造られていくのです。

 

 

捨てて得する(2020.7.19)

聖書

そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコ3章5節)

礼拝音源(28.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編124編8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 34編1~23節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章1~6節
教団信仰告白 一同起立
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 205 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「捨てて得する」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 511 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

前の章で、ファリサイ派と律法学者は、イエスと弟子に、「なぜ」「どうして」と4回質問しました。イエスはそれに答えるようにして、ご自身が何者であるか、罪を赦し、罪人を招き、花婿であり、安息日の主である事を示されました。

1.イエスの質問
3章に入って、遂にイエスの方からファイリサイ派と律法学者に、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と、質問されました。この答えは当然、善を行うこと、命を救うことです。ところが、彼らは黙っていました。命を救う医療行為は、律法に反する、安息日に行ってはいけない労働だと思っていたからです。この事から彼らは、イエスを殺すことを決心します。イエスが、彼らの期待する救世主の言動とは異なったからです。

2.なぜ殺すことにしたのか
誰でも、様々な事で期待と実際のギャップに失望し、苛立ち、悲しみ、怒る事があります。それがかたくなな心となって譲れなくなったとき、人を傷つけ、罪を犯してしまいます。彼らはイエスにその思いを向け、イエスを拒んでしまいました。

3.かたくなな心を捨てて神の恵みを得る
ファリサイ派と律法学者の姿は、他人事ではありません。私のうちにも、神の御心に対する思い込みや勘違い、期待とのギャップによる苛立ちや失望があります。さらにかたくなにさせるプライドがあります。イエスは悲しみつつ、かたくなな心を捨て、従ってくる事を待っておられます。イエスの質問に、あなたはどう応えますか。

 

キリストの前に立って(2020.7.12)

聖書

それで、いろいろと尋問したが37、イエスは何もお答えにならなかった。(ルカ23章9節)

礼拝音源(29.3MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ43章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 33編1~22節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ23章1~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 166 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストの前に立って」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 448 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、ユダヤ人による宗教的な罪に対する裁きと(22章66~71節、23章6~12節)、ローマによる政治的な意味を持つ裁判を受けられました(23章1~5節、13~25節)。この裁判において、主イエスは、語ることと沈黙すべきことを区分されました。

1.語られるキリストの前に立って
最高法院の祭司長たちや律法学者たちは、キリストが自らを「神の子」と語られたことに対して、怒りをあらわにしました(22章66~71節)。
続いて、ユダヤの全会衆が、主イエスはローマの反逆罪を犯しているとローマ総督のピラトに訴えました。それに対してピラトは、主イエスを彼らが訴えているような王ではないと判断して無罪を言い渡しましたが(23章1~4節、ヨハネ18章36~37節)、人を恐れて主イエスを裁くことになったのです(23章5節、マタイ27章24節、マルコ15章15節)。このような恐れは、人に疑惑と悪の思いを生じさせます。

2.沈黙されるキリストの前に立って
主イエスが何もお答えにならなかったことに戸惑い、不思議に思ったのはピラトです(マルコ15章5節)。これまで、主イエスは、意味のない議論の挑発やののしりに対して沈黙されました(22章63~65節)。そして、ヘロデの単なる好奇心や興味からくる求めに対して沈黙されました(23章8~9節)。彼には、主イエスが語られることを受け入れようとする気持ちはなかったからです(23章11節)。
これは、主イエスが無力であったからではなく、愛のあまりに黙されたのでした。その極みが、私たちの救いの完成となった十字架の沈黙です(1ペトロ2章22~24節)。

 

 

キリストを中心として(2020.7.5)

聖書

子どもたち、主にあって両親に従いなさい。それは正しいことだからです。(エフェソ6章1節)

礼拝音源(29.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編46編10節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 32編1~11節
会衆祈祷 一  同
聖  書 エフェソ6章1~4節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 396 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「キリストを中心として」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
7月誕生社祝福 詩編100編1~2節
賛  美 546 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

教会は、あらゆる違いを超えて兄弟姉妹とされた者たちが集められています。支配者と被支配者を作り出すところではありません。ですから、妻も夫も、子供も両親も互いに兄弟姉妹と呼び合い、愛の関係を築き合うのです。

1.主にあって  1~3節
子供と両親の関係は、世の中の親子関係ではありません。キリストを中心として、兄弟姉妹の関係に生きるように召されています。ですから、子供に「両親に従いなさい」と命じるのです。それは、両親を敬って、両親が語る言葉に聞き従う姿勢を表しています。「それは正しいこと」だからです。
このように両親に従うことは、有無をも言わさない服従を意味しているのではありません。主イエスが天の父を愛し敬う仕方で天の父に聞き従われたように、子供は「主に結ばれている者」すなわち「主にあって」両親に向き合い聞き従うのです。それが、幸いをもたらす生き方であり、神のご厚意から与えられるのです(3節)。

2.主がなさったように  4節
同様に両親も、主にあって子供に向き合うのです。そして、特に父親は、信仰に基づく信念をもって、教え導くのです。それが、威圧的で独善的であれば、子供に反発と怒りを抱かせるでしょう。「主にあって」とは「主がなさったように」との意味があり、父親は、主の仕方を意識し、主の愛に倣おうとする姿勢が求められます。

こうした親子の関係は、兄弟姉妹の関係においても同様です(5章21節)。そこには、共に十字架のもとにひざまずき、天の御国を目指して旅する神の民の姿があります。