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マルコ

信仰の手(2009.1.11)

題   : 「信仰の手」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章21節~34節
ここに登場する「女」は、救い主イエスに触れることにより癒され、健やかな生活を送るようになりました。彼女は、イエスの救いの力に信仰によって与ったのです。
主イエスが、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、何に根ざしているのでしょうか。

1.主の恵みに捉えられる信仰  25~30節
この女は、苦悩、ためらい、迷いの中にいました。それは、12年間の病との闘いという肉体的・精神的な苦痛であり、治療のために財産を使い果たした経済的な苦労であり、当時の社会においては汚れた者として受け入れられなかった偏見による苦悩でした。このように、どこにも持って行き場のなかった時に、彼女は一筋にイエスに期待して触れたのでした。それは、イエスが「自分の内から力が出て行ったことに気づ」くほどの触り方でした。
女は、受ける資格も価値もないにもかかわらず、主の恵みに捉えられていたのです。イエスは、それを「あなたの信仰が」と言われたのです。人は、どうしても他の人に知らせることのできない心の一隅を持っています。信仰とは、そこで主の恵みに捉えられることなのです。

2.主の恵みの力に生かされる信仰  30~34節
女が触れることによってイエスの内から出ていった「力」は、彼女を救う力でした。それは、イエスの十字架による罪の赦しの力であり、イエスの復活によって与えられる死に打ち勝つ力です。さらに、様々な苦悩や苦難からも勝利させる力です。
女は、このような恵みの主に対して、畏れおののきつつ、あるがままの自分をさらけ出しています(33節)。ここに、神の前にも、人の前にも過去にとらわれない救われた者の姿があります。
主の恵みの力に対する信仰は、単純かつ純粋であることが大切です。理屈や余計な飾りはいりません。そして、その信仰は深められていくことが大切です。単純さを保ちながら、愛において、物事の考え方において深められていくことが求められます。そのために、私たちは信仰の手を差し伸べ続けていることが必要です。

重んじる(2008.11.16)

題   : 「重んじる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章1節~20節
激しい突風の後の静かなガリラヤ湖風景、そしてゲラサ人の地方での激しい響きの後の突然の静けさは、今日の私たちが経験する日々の喧騒と聖日の静けさを思わせます。私たちは、この静けさに身を置くことによって、何を重んじるのかを気づかせていただきましょう。

1.ひとりの魂を重んじる 1~17節
汚れた霊にとりつかれた人は、正常な人間社会を好まないで墓場を住まいとし、足枷や鎖でも制することのできないほど狂暴で、石で自分を打ちたたくほど自虐的で、主イエスに反抗する霊に振り回されていました。そして、彼は「・・・かまわないでくれ・・・苦しめないでほしい」と、主イエスを救い主と認めていませんでした。これは、神との交わりを失い、その結果自らをコントロ-ルできない悲惨な状態です。
ところで、この人の姿は、救い主イエス・キリスト抜きで生きていけると思い込み、自分を愛することができず、他者との健全な交わりを持つことのできない罪人を表しています。
しかし、主イエスは、多数の豚を犠牲にするほどに、ひとりの人の生涯を悪魔の支配からキリストの愛のご支配に生きるように招かれるのです。私たちは、一人ひとりを愛し重んじておられるキリストのご支配を、拒むことのないようにしたいものです。

2.家族を重んじる 18~20節
悪霊にとりつかれた人が、主イエスと一緒に行きたいと願ったのは、ごく自然なことでした。しかし、主イエスは、この人が自分の家に帰り、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられました。彼の家族が、これまで心を痛め、また苦しんだことに対して報いる責任があったからです。また、彼が、神の恵みと主イエスの救いを家族に伝えることが大切だったからです。
その結果、彼の遣わされた地で「イエスが自分にしてくださったことを」伝えたので、家族のみか、置かれた地域に多大な感化を与えることになったのです(6章53節以下)。
私たちは、身近な家族に対して、「主が・・・あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」との証しをすることを大切にしたいものです。

人生の嵐の中で(2008.11.2)

題   : 「人生の嵐の中で」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章35節~41節
主イエスが突風を静められた出来事は、世々の教会や信仰者がしばしば経験してきたことを現しています。舟は教会であり、主イエスがその水先案内人です。主イエスがいつも父なる神を信頼しておられたように、舟に乗り込む信仰者が主イエスを信頼しているならば、いかなる突風の中にあっても大丈夫なのです。

1.御子の御父への全き信頼
主イエスは、押し寄せてきていた群衆と距離を保つため、舟に乗って向こう岸に行こうとされました。宣教の働きの疲れを覚えられたこともあって、主イエスは突風の最中でも眠っておられました。
しかし、主イエスは単に休養をとられたというのではなく、神のみこころである宣教の働きが進められるために、ガリラヤ湖の東にある異邦人の住む地域に向かわれたのでした(5章1節)。ここでの主イエスの姿は、御子が御父の懐で憩うようにして、全てを委ねて信頼しておられることを現しています。
この全き信頼は、主イエスが十字架で苦しまれた時でさえも揺らぐことはありませんでした。聖霊が主イエスと交わりをもちつつ、支えておられたからです(ヘブライ9章14節)。

2.私たちの主イエスへの揺ぎない信頼
一方、弟子たちは激しい突風と戦っていました。自然の猛威を恐れている彼らに対して、主イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。
主イエスから「向こう岸に渡ろう」とみことばを聞きつつ、しかも主イエスが同舟して共におられたにもかかわらず恐れていたからです。そして、主イエスに対して非難する思いを持っていたからです(38節)。
このように弟子たちは不信仰でしたが、主イエスはあわれみをもって突風を静められました。その結果、主イエスに対する畏れの心を抱くようになった弟子たちは、もはや恐れる必要のないものを恐れないようになったのです(40~41節)。
信じて生きるとは、平凡な日々であろうと、荒れ狂う苦難の時であろうと、主イエスに対する揺ぎない信頼をしていくことです。そのためには、共におられる主イエス・キリストの真実に触れることが大切です。

幻に生きる(2008.10.26)

題   : 「幻に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章26節~34節
「神の国」に入るという救いの道を開いてくださったのは、イエス・キリストご自身です。私たちは、その神の国に生きる者とされたのであり、さらに神の幻をいただいて生きる喜びと望みをいただいているのです。

1.先立つ神の恵みによる支配がある 26~32節
神の国は成長し、時間を超えて発展していきます(26~29節)。福音の種が蒔かれると、人間の思いや知恵を超えて、神が働かれて「ひとりでに」成長し、着実に神の救いのみわざがなされていきます。そして、その完成は、永遠から永遠まで全てを支配される神によって成し遂げられるのです。
また、神の国は拡大し、世界大に発展していきます。ペンテコステの日に誕生した教会は、からし種ほどの小さな存在であり、世の人々にも受け入れてもらえない苦難の日々を送りました。しかし、教会は、今日まで想像もつかない生命力を内蔵させて拡大してきました。
このように、神のみことばの約束に立って抱く幻は拡がっていきます。従って、この世の現象に惑わされることなく、主イエスへの信頼をもって神の国の働きに加わっていきましょう。

2.続く聴従の信仰による  33~34節
主イエスは、これまで神の国について語ってこられました。神の国に入るように招かれる時には、「聞く力に応じて」多くのたとえをもって語られ、その決断を避けたり、また先延ばししないように勧めておられます。また、弟子たちに対しても「聞く力に応じて」、十字架と復活にまで及ぶことを全て語られ、神の国の福音に生きて、それを宣べ伝えるように勧められました。
今日の私たちは、聞く情報や主張のあまりの多さに、聴き分ける力を失っていないでしょうか。また、聴こうとする力を失っていないでしょうか。
主イエスの十字架のもとで、よみがえって今も生きておられる主イエス・キリストのみことばを聴き分け、聴こうとする力をいただきながら、神の国の幻が拡げられ、その幻に生きる者とされましょう。

豊かになる秘訣(2008.9.28)

題   : 「豊かになる秘訣」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章21節~25節
私たちが出会う人々は良い魂であり、また伝道する地域は良い地であると受け止めていくなら、そこに蒔かれる神の言葉は豊かに実を結んでいきます。そのような信仰と期待に支えられて、まず私たち自らが神の言葉を聞くことに深められていく必要があります。

1.聞く耳をもって聞く  21~23節
本来「ともし火」は、升の下や寝台の下に置かれるのではなくて、燭台の上に置かれることによって輝きます。
「ともし火を持って来る」とは、「わたしは光として世に来た」(ヨハネ12章46節)と言われたイエス・キリストご自身のことです。その主イエスが私たちの所に来てくださり、なされた御わざを御ことばによって解き明かしてくださったことによって、神とはどのようなお方か、救いとは何かを教えられ、私たちが神の恵みによって生かされ、また永遠のいのちに生きることが明らかになったのです。
ですから、私たちは、語られた御ことばを聞く耳をもって聞き続け、信仰によって理解することが大切です。そうすることにより、暗い世の中に光り輝く者として用いていただくのです。

2.注意深く聞く  24~25節
どういう聞き方をしているかとともに、「何を聞いているか」に注意する必要があります。そこで、主イエスは「秤」のたとえをもって語られたのです。
秤は、語られたことを注意深く聞く程度に応じて、与えられる恵みも異なるという意味で語られています。信仰をもって注意深く聞く者は、いただいている神の恵みを「更に与えられ」ます。逆に、不信仰な姿勢で、不注意に聞いたり、偏見や批判をもって聞いたりするなら、与えられている神の恵みを失うばかりか、神の御ことばを正しく聞く機会まで失うことになります。
神の御ことばを注意深く聞くことによって、神が与えてくださる恵みは豊かに溢れます。ですから、新鮮な思いで聞こうとする意欲を、教えていただこうとする謙虚さを、大切なことをとらえる注意力を失わないようにしたいものです。

真実な結実(2008.9.21)

題   : 「真実な結実」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章1節~20節
私たちは、農耕の世界だけではなく、様々な分野において「種を蒔く」ということをします。その中でも、「神の言葉」の種を蒔くことが、私たちに託されている大切なことです。そして、豊かな結実を期待しますが、そのために必要なことは何でしょうか。

1.開かれた耳をもつ
たとえ話で語られていることは、種の良し悪し、蒔き方の良し悪しは問題とされていません。問題は、土壌にあると語っています。神の言葉の種を蒔く人は、主イエスご自身であり、主の弟子たちであり、私たちです。問われていることは、神の言葉を聞く人の姿勢です(3節、9節)。
神の言葉を聞くことに集中しないで、聞く心を閉ざしてしまうと、御言葉はサタンに奪われてしまいます(15節)。
神の言葉を喜んで受け入れても、それが気まぐれであった場合、困難や迫害に遭うとつまずきます(16~17節)。
神の言葉を受け入れても、この世の思い煩いや富の誘惑や様々な欲望に支配されると、知らないうちに御言葉が塞がれてしまいます(18~19節)。
神の言葉を聞いて受け入れ、絶えず御言葉を優先させていくなら、その人の内に豊かな結実を見ることができます(20節)。
神の言葉を聞こうとする開かれた耳をもつときに、神は御言葉どおりの御わざをなされるのです。

2.結実の切なる願いをもつ
神の言葉を聞いて受け入れる人は、全面的に受け身というのではありません。試練にも耐えて、実を結ぶ人であることが求められます。すなわち、始めから自分は良い地だと思って漫然としているのではなく、神の恵みによって励まされつつ、結実のために労することです。そして、良い地になっても、三十倍、六十倍、百倍とあるように、百倍の実りとなることを目指すのです。
いかなる時も、コツコツと御言葉の種蒔きがなされ、その御言葉を受け入れるに際しては誠実な努力がなされることが必要です。そうするなら、豊かな実を結ばせてくださる神の働きが見えてくるのです。

引きつける魅力(2008.8.17)

題   : 「引きつける魅力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 3章7節~19節
主イエスの魅力は、いかなる時にも毅然としておられ、定められた時と自らの進退をわきまえておられたところから溢れる品性にあり、それが人を引きつけました。
主イエスは、しばしば寂しい所に退いて、弟子たちとの親密な交わりを持ち、ご自身のお心を明らかにされました。

1.人を生かす御わざをなされた  7~12節
ガリラヤ人だけでなく、彼らを軽蔑していた人々や異邦人たちを含むおびただしい群衆が主イエスに従ってきました。それによって、主イエスは押しつぶされるほどの迫りを受けられました。これは、主イエスご自身の愛と恵みと力に満ちた引きつける魅力があったからです(ヨハネ12章32節参照)。
病気に悩む人とは、罪という病と死の力に悩み続ける人間の姿を表しています。また、真の神を失って汚れた霊のとりこになっている人とは、イエスが神の子であるという事実は知っていても、イエスを信じ、愛し、従うことをしない人間の姿が表されています。主イエスは、こうした一人ひとりを大切にし、愛し抜き、生かそうとしておられます。そこに、主イエスの引きつける魅力があるのです。
ここに、主イエス・キリストをかしらとする教会の本来の姿があります。

2.人を生かす器を備えられた  13~19節
主イエスは、一人ひとりの必要に応じつつ導くことが、どれだけ骨の折れるわざであるかを知っておられました。そのためには、どうしても主イエスの御わざにたずさわる器が必要でした。そこで、12人を選び、使徒として任命し、遣わしなさったのです。
そのために、主イエスは器造りをされます。引き寄せられる主イエスのそばに集まってきた12人は、主イエスのご意志による選択でした。それは、人間の合理的説明を超えた不思議な選択です。まず、ご自身のみそばに置いて交わりをされ、それから福音宣教のために遣わされました。
私たちの任命書は、主イエスの十字架の血潮で記されています(ヨハネ15章16節)。主に選ばれ、信仰に生きることは、遣わされて生きることなのです。

憩いの日(2008.8.10)

題   : 「憩いの日」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章23節~3章6節
主イエスの復活を覚えて礼拝をささげる「主の日」こそ(ヨハネの黙示録1章10節)、私たちの安息の日であり、また憩いの日です。
主イエスは、「安息日の主」となられたお方です(2章28節)。

1.主と共に憩う日  2章23~28節
人間の本来の安息は、神が創造のわざを終えられた時の安息の中に身を置いて(創世記2章2節)、神を神として仰ぎ、神と共に憩うところにあります。そこでこそ、神を賛美し、神のみことばに聴従することを喜ぶことができるのです。
そのために、安息日をどのように過ごすかとの掟が定められました。ファリサイ派の人々は、主イエスがその掟に抵触すると非難したのです。それに対して、主イエスは、「安息日は、人のために定められた」のであり、ご自分こそ「安息日の主でもある」と宣言されました。
人間が人間らしく生きるために定められた安息日こそ、神の懐で憩うために備えられたものです。その真の回復は、救い主イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられたのです。

2.隣人と共に憩う日  3章1~6節
ファリサイ派の人々は、安息日に会堂で礼拝を守られた主イエスに対しても訴える罠をしかけてきました。彼らの心を鋭く見抜かれた主イエスは、その卑劣さとかたくなな心に対して怒りを表されました。そして、主イエスは、手の萎えた人を癒すことにより、善を行われ、命を救うことをされたのです。
安息日は、「命を救う」という神の祝福を受ける日です。その祝福が自分だけのものではなく、その祝福に与っていない人が同じ祝福に共に与れることを願い求める日です。今、私たちの礼拝を神がご覧になられたら、どう判断されるでしょうか。隣人の魂の救いに動かされているか、それともその魂を殺そうとしているか、どちらでしょう。
聖日は、「主の日」として聖別され、祝福され、安息をもたらす憩いの日です。この日を支配しておられるのは、主イエス・キリストです。

新しい喜び(2008.7.20)

題   : 「新しい喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章18節~22節
日本イエス・キリスト教団の信仰告白文の特徴は、私たちが新しく造り変えられることについて詳しく語られていることです。それは、イエス・キリストによって成し遂げられた大いなる救いであり、そこには新しい喜びで満ちています。

1.全存在の中に
誰でも「新しく造り変えられたい」と思っても、古い自分との葛藤があって、願い通りにはいきません。そこで、新しく造り変えられることをあきらめたりします。しかし、このままの生き方でよいのかという問いかけが絶えずつきまといます。
また、ファリサイ派の人々のように、断食をするという掟を守ったり、善行したりすることによって、古い自分を繕おうとします。しかし、それでは、新しい布切れを古い服に継ぎ当てて裂けさせたり、新しいぶどう酒を古い革袋に入れて張り裂けさせたりしてしまうようなものです。
新しい布切れと新しいぶどう酒は、イエス・キリストご自身です。このお方と結び合わされ、そのご支配の中に生きるためには、このお方を私たちの全存在に受け入れることが大切です。その時、新しく造り変えられた喜びが溢れてくるのです。

2.日々の生活の中に
聖書の時代は、悲しみの経験をしたり、罪を悲しんだりする時に断食をしました。ところが、花婿であるキリストが共におられたので、断食をする悲しみの時はありませんでした。この後主の弟子たちは、主イエスが十字架で死を遂げられるという悲しみを経験しましたが、その死からよみがえられた時に喜びは回復されました。以来、主イエスがいつも私たちと共にいてくださる日々は、喜びの連続です。
新しいぶどう酒にふさわしい、弾力ある新しい革袋であるキリスト者生活が求められます。そのためにはまず、私たちと共にいてくださる主イエスとの交わりを大切にすることです。不断の意識的な交わりを通して、私たちの人格と生活が変貌され続けていくからです。
「主のかたちに変えられていきます」との信仰告白を受け継ぎ、それに生きる一人ひとりであり、教会であらせていだたきましょう。

あなたが召されている(2008.7.13)

題   : 「あなたが召されている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章13節~17節
主イエスが、最も大切にされ、情熱を傾けられたことは、「わたしが来たのは、正しい人を招くのではなく、罪人を招くためである」(17節)と呼びよせ召しておられることに尽きます。

1.召された罪人とは誰なのか
当時の徴税人は罪人と同じように数えられていました(15節)。彼らは、神に選ばれたユダヤ人でありながら、神のことばに背いて生きているという理由で、社会から疎外され、交わりを持つことを敬遠されていたのです。律法学者たちは、そういう罪人を退けて、自らは正しい者とした人々でした(16節)。
ところが主イエスは、全く違った視線で徴税人を見ておられます。そして、「わたしに従いなさい」と召しておられます(14節)。主イエスは、自分を正しい者として他者と区別して自己満足している偽善者ではなく、神の前に出ることもできないこころ貧しい者と自覚している罪人を大切にし、情熱を傾けて招いておられるのです。この召しは、主イエスの十字架に直結しています。
自分らしさを求め、自分らしく生きたいと願っても、自分の視点で見ていては解決はありません。主イエスの召しに応えて、主イエスが見られる視点で自らが罪人であることを分からせていただき、十字架による救いにあずかることが大切です。

2.召された罪人はどのように生きるのか
すでに主イエスの召しに応じた人々のように(1章16~20節)、徴税人レビも「立ち上がってイエスに従った」と、召しに応答しています(14節)。彼は、これまでの取り立てる生き方から、分かち合う生き方に変えられ、主イエスに招き入れられたことの喜びを経験しました。そして、レビ自身そのことを忘れることなく、自らも罪人を招く者と変えられ、「イエスのために」生きる者とされたのです(ルカ5章27~29節)。
私たちが神のものとされ、聖別され続けるという恵みは、それを受けたときと同じ「イエスに従った」という信仰と服従を持ち続けることによって持続されます。キリストに召されているという恵みを失わないようにしたいものです。

突き進む愛(2008.6.29)

題   : 「突き進む愛」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 2章1節~12節
主イエスは、いつものように御言葉を語り伝えておられました(2節)。そうした中で主イエスがなされた御わざは、人々が普段の自分を忘れるほどに神を崇め賛美せずにはおれない驚くべきものでした(12節)。
さて、そこには、突進するというにふさわしい人の愛と神の愛がありました。

1.キリストのもとに突進する人の愛  1節~5節前
主イエスが帰ってこられたことを聞きつけた人々は、みことばを熱心に、熱中して、集中して聴いていました。その中に、我を忘れた愛の行動をとった四人の男がいました。中風の人を主イエスのもとに連れてくるために、屋根を破って吊り下ろしたのです。そこには、吊り下ろされる者と吊り下ろす人たちとが一体となって、主イエスのもとに飛び込んで行ったのです。
それに対して、主イエスは、愛によって働く信仰を見られました。吊り下ろされる人の願いを知られ、この人の願いを自分の重荷として背負っている四人の男の信仰を見ておられたのです。
今日の私たちにも、一人を四人でといった、何とかしてキリストのもとにお連れするという一体感と一致が必要です。

2.十字架に突進された神の愛  5節後~12節
さて、主イエスは、「よく来た」とか「立派な信仰だ」と言っておられません。病のいやしよりも、誰もが背負い込んでいる罪の赦しを宣言されました。私たちは、罪が指摘されてうなだれるしかない時に、一緒に反論してくれる人ではない、言い訳をしてくれる人でもない、援護射撃をしてくれる人でもない、罪人と一つになってくださるお方、罪を担い切って赦してくださるお方が必要なのです。
イエス・キリストは、そのことのために全てを注がれたのでした。十字架へ突進するように飛び込んでくださったのです。ここに、神の愛が現れています。だからこそ私たちは、罪の赦しという救いに突き進む以外に、神の前に生きる道はないのです。
今、私たちも、横になっていた罪の床を払い、立って歩みだし、また歩み続ける「驚き」を経験し続けたいものです。

主のあわれみ(2008.6.15)

題   : 「主のあわれみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章40節~45節
聖書が語る「憐れみ」は、主なる神の言動の根幹をなしているご性質で、はらわたが痛むほどに心動く同情であり、激しい愛そのものです。「イエスが深く憐れんで」くださったことにより、何がもたらされたでしょうか。

1.主イエスの謙(へりくだ)りのみわざがもたらされた
「重い皮膚病」は、潜伏している病で、それを覆い隠そうとするものでした。肉体をむしばむだけでなく、社会から隔離され、いやしめられていました(レビ13章45~46節)。その病を宣言するのも、また清められたと宣言するのも祭司でした。
この病を患う人が、主イエスの憐れみにすがって、近づきました。それに対して主イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」、ご自身の心として清めるみわざをなされ、回復させ、本来おるべきところにお返しになられたのです。
人間は自分自身の真相を覆い隠そうとする罪深さがあります。そんな罪人に触れて罪そのものになってくださった主イエスこそ、十字架の血潮によって、その罪を赦し、きよめてくださるお方です。このようにして、憐れみの主が謙ってくださったのです。

2.私たちに謙(へりくだ)る祈りがもたらされる
重い皮膚病を患っていた人には、最初から明確な信仰の姿勢がありました。謙ってひざまずき、「御心ならば」と祈り願うのでした。それに対して、主イエスは「よろしい」と、彼の真実な信仰の姿勢を見られて、きよめるわざをなされました。
このような謙る信仰の姿勢は、世々の信仰者たちが貫いてきたことです(1テモテ1章12~17節参照)。
果たして私たちは、自分自身が神の憐れみを受けるべき者であるということを、どれ位真剣に受け止めているでしょうか。また、自分がどれほど罪と汚れに満ち、どれだけ神を侮り、神を畏れず、神をないがしろにしてきた者であると自覚しているでしょうか。信仰とは、ひたすら神の憐れみを求めて生きることです。主イエスの十字架でこそ、神の憐れみに触れさせていただくことができるのです。私たちは、どこまでも憐れみの主の後に従って行くことが大切です。

喜びの連続(2008.6.8)

題   : 「喜びの連続」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章29節~39節

主イエスは、シモンの姑をいやされ、人々に対しても数々のみわざをなされ、さらに宣教を展開していかれました。シモン・ペトロは、そうした一連の出来事を喜びをもって語り、人々も喜びをもって聴いてきました。
私たちは、自らが体験する様々の出来事を主イエスとの生きた関わりの中で捉え直すとき、喜びが連続して溢れてきます。

1.家族と共に主に仕える喜び  29~31節
シモンの姑は、彼らの家に来られた主イエスによってその病がいやされました。彼女は、それ以来喜びに溢れて、主イエスに仕えるようになりました。この出来事は、シモン・ペトロにとっても終生忘れることのできないこととなり、彼の妻も喜びをもって主に仕えるようになりました(第1コリント9章5節参照)。
何もかも捨てて主イエスに従うことは、後には勝れる祝福と永遠の命を受ける恵みとなるのです(マルコ10章28~31節)。
主イエスは、ご自身に従う人のみか、その家族の一人ひとりにも心をかけ、思いを向け、一緒に主に仕える喜びへと導いてくださいます。

2.主からの使命に忠実である喜び  32~39節
主イエスは、病める人々を深くあわれんでいやし、神の恵みを現されて、愛のゆえに人々の必要に応えられました。ところが、主イエスは祈られる中で、父なる神のみこころは、福音の宣教によってもたらされる神の救いであることを確認されました。そこで、病をいやすこと以上に、時にはそれを捨て去るようにして、福音の宣教を最優先しておられます。
ペトロは、主イエスがカファルナウムで祈られたこの祈りを覚えつつ、その同じ祈りに自らも置くようにして従う喜びを経験しました。そして、ペトロはこの後、ガリラヤからロ-マにまで至る福音宣教の使命を主イエスと共に進めていきました。
今日の私たちが最も優先すべきことは、神の恵みが生き生きとなされる魂のいやしと救いのみわざが起こされることを祈ることです。そして、その恵みにあずかった私たちが、福音宣教の使命に忠実に生きることを喜びとすることです。

驚きの波紋(2008.5.25)

題   : 「驚きの波紋」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章21節~28節
主の弟子たちは、生涯忘れることのできない主イエスとの出会いをして後すぐに、会堂における礼拝を体験しました。
そこにおいて人々は、ひっくり返るほどに心を動かされる驚きと(22節)、聖なるものに触れたときに経験する畏れが伴う驚きをしています(27節) 。

1.キリストの権威あるみことばへの驚き  21~22節
礼拝に集った人々は、主イエスの教えに非常に驚きました。それはまた、将来の教会の指導者となった弟子たちにとって、忘れることのできない礼拝となりました。キリストと共にある礼拝は、心動かす礼拝となるからです。
また、その驚きは、主イエスが語られたみことばに権威があったことによります。それは、語り方に権威があったからというより、神の恵みの支配が及んでいるという語られた内容そのものに権威がありました(1章15節)。
今日の私たちの礼拝が、主と共にある礼拝として、みことばに権威がある礼拝であり、心動かされる驚きを伴った礼拝であるかを問い続けたいものです。

2.キリストの権威あるみわざへの驚き  23~28節
この礼拝の中に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。この汚れた霊は、神の恵みの支配に逆らい続ける力であり、人の魂と心と体を不健全で不自由なものにしようと、主イエスの権威あるみわざがなされること拒みます。しかし、主イエスは、この男から汚れた霊を追い出して、彼を解き放たれました。
今日私たちは、恐れる力、悪習慣の力、怒りの力、赦せない力、嫉妬する力、不安の力といった私たちを不自由にしているものに支配されています。主イエスは、そんな私たちに、権威あるみことばとみわざをもって、神の惠みのみわざを成し続けておられます。その畏れ驚くべきキリストのみわざの極致は、汚れた霊の力を打ち破られた十字架であり、復活の力にあります(16章15~17節)。
マルコによる福音書は、宣教文書です。この後、迫害の中を通された教会は、この驚きの波紋の拡がりの中に前進していきました。そして、今日の私たちにまで至っているのです。

心が躍る経験(2008.5.4)

題   : 「心が躍る経験」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 1章14節~20節
情報時代に生きる私たちは、実に多くのことを知っています。しかし大切なことは、どれだけのことを知っているかよりも、何を知っているかです。
私たちは、キリストのすばらしさを知るという、心が躍る経験をしたいものです。

1.心が躍るキリストの福音  14~15節
旧約聖書の預言者たちを通して神が約束されていた「神の福音」が、イエス・キリストの到来によってもたらされました。それは「神の国」と言われる神の恵みのご支配が近づいたことを意味しています。今や私たちは、その神の国に入り込むだけなのです。そのためには、これまでの生き方を変えて、イエス・キリストの方に向きを変えて信じることが大切です。
このように、私たちが悔い改めて福音を信じるなら、新しい人生が始まります。しかし、この福音への招きは、キリスト者の全生涯が絶えず十字架と復活の主の方を向いているかを吟味させてくれるものです。私たちには、日ごとの悔い改めを通して、心躍る福音経験であるよう求められています。

2.心が躍るキリストの召し  16~20節
イエス・キリストは、神の福音を人々に届けるのに、祭司や学者たちでなく、ガリラヤ湖畔の漁師たちを弟子として用いられました。主イエスは、漁師たちを見極めるかのように深い愛のまなざしを注がれ、ご自身の方から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と召しておられます。彼らは、このキリストの召しを最優先して、神の国に導かれていない人々を見いだし、そこに導くための働き人になりました。
主の弟子たちは、欠点もあり、失敗もあり、失言もあったりしましたが、主イエスの後について行く中で、整えられ、造られていきました。キリストの召しには、このような力があるのです。
教会は、弟子たちと同じように、キリストの召しを聴く場所です。そして、キリストの後について従っていく新しい出発をする場所です。この心躍るキリストの召しを、心ふるえる思いで受けとめていきましょう。