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マルコ

私の願い(2010.5.30)

宣教題  : 「私の願い」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖  書  :  マルコ10章46節~52節
エリコの町に、道端に座って物乞いをしていたバルティマイがいました。彼は、イエスが来られたと聞くと、心の願望をぶつけたのです。

1.わたしたちの願い事は何か?
バルティマイには目に障害がありました。当時の社会は、体に障害がある人たちが生きるには物乞いをする以外に道はありませんでした。彼は、心の中にあるその無くてはならないもの、目が心の目が見えるようになることをぶつけたのです。
私たちにはいつも願い事があります。しかし私たちにとって一番大切な願い事は、心の目が開かれていることなのです。

2.求めるべきお方は誰か?
バルティマイは、イエスが自分の目を開いて下さるお方であると知っていたため、大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい」と叫びました。
バルティマイが正しい人に叫び求めたように私たちもいつも求める相手を間違わないようにしないといけないのです。

3.どのように願い事は成就するか?
イエスがバルティマイを呼びかけられた時、彼は着ていた上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに行きました。彼にとって上着は唯一の持ち物でした。その上着を脱ぎ捨てたのです。今までの生活を惜しいと思わないほどの価値がイエスの呼びかけにはあったのです。
バルティマイを呼び寄せたイエスは「何をしてほしいのか?」と聞きました。彼は「先生、目が見えるようになりたいです」と正直に答えたのです。
イエス・キリストによって、バルティマイは直ぐ目が見えるようになり、今までとは全く違う新しい生活をイエス・キリストと共に、永遠に始めることが出来たのです。

私たちも、上着を脱ぎ捨てて、イエス・キリストに求める時、心の目が開かれて、イエス・キリストが私たちと共に永遠に歩んで下さるのです。
バルティマイは、すぐ見えるようになると、なお道を進まれるイエスに従いました。すぐに従ったバルティマイの姿は、イエス・キリストに対する信仰の現れでした。私たちも、心の目を開かれた時、バルティマイの様に、直ぐにイエス・キリストに従ってまいりましょう。

キリストの権威(2010.5.16)

宣教題  : 「キリストの権威」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 11章27節~12章12節
権威は、脅しなどによって無理やりに服従させるのではなく、自発的に従うことを促す力です。とりわけ、キリストの権威に服する信仰の歩みは、幸いな人生と変えられます。

1.キリストの権威の根拠
受難週の三日目、エルサレムにおける出来事です。ユダヤ最高議会の代表者たちは、前日に宮清めをされた主イエスに対して、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問いかけてきました(11章27~28節)。それに対して主イエスは、ヨハネのバプテスマの権威が神からのものか、それとも人からのものかと反問されました(同29~33節)。主イエスは、代表者たちが分かろうとしない頑なな心であることを見抜いておられたのです。
そこで主イエスは、譬えを用いてキリストの権威の根拠を明らかにされました(12章1~12節)。そこには、忍耐深い神の愛と、最終的には神の独り子イエスを死に追いやった人間の強情で貪欲な罪の姿があります。主イエスが十字架に架けられて「捨てた石」のようになられ、復活されて「隅の親石」となられることにより、人には「不思議に見える」救いの御業を成されたのです。これこそが、キリストの権威の根拠であり、私たちを喜び踊る礼拝へと駆り立てるのです(詩編118編)。

2.キリストの権威の支配
私たちは、父親の権威、母親の権威、教師の権威、牧師の権威といった様々な権威の下に生きています。これらは大事にしなければなりませんし、それには責任がともなってきます。大切なことは、それらの権威が、キリストの権威の支配の中に培われていくなら健全なものとなるのです。
ですから私たちは、心の領域だけでなく、生活と生涯の全ての領域に、キリストの愛の権威の支配をいただくことが大切です。主イエスに対して、「ここに入っていただいては困ります」という領域を作らないようにしたいものです。キリストの権威の支配の中に生きることが、私たちの歩みを確かなものとするのです。

祈りの力(2010.4.25)

宣教題  : 「祈りの力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 11章20節~25節
主イエスが呪われたいちじくの木は、翌日の朝には根元から枯れていました。その光景に驚嘆する弟子たちに、主イエスは信仰に裏打ちされた祈りの力について教えられたのです(20~21節)。

1.疑わないで信じる祈り  22~24節
主イエスが「少しも疑わず」にと語られたのは、弟子たちが風に吹かれて揺れ動く海の波のような状態であったからです。つまり、一方では神の御言葉に基づいて信じ祈っても、片方では神の言われるとおりにはいかないと疑う心があったのです。それは、「生き方全体に安定を欠く人」の姿を表しています(ヤコブ1章6~8節)。
主イエスは、そんな弟子たちに「神を信じなさい」、すなわち神への祈りを信じなさいと命じられました。それは、山をも動かすことのできる祈り、すなわち不可能を可能とされる神への信仰の祈りであり、それによって人が経験する困難・試練などが除き去られると言われたのです。私たちにとっての最大最高の山は、全ての人に共通する罪と死です。これらは、主イエスの十字架と復活による救いによって、すでに取り除かれているのです。今私たちには、「既に取り除かれたと信じる」信仰の祈りが求められるのです。
2.赦しの恵みに立ち続ける祈り  25節
主イエスは、祈る者が備えておくべき大切なこととして、正しい対人関係をつくり、また保つことを勧められました。それは、神との関係が正しくつくられていてこそ可能となります。これを妨げるのは、「あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」との神の赦しの恵みを疑わせる罪だけです。
私たちが神を疑い、主イエスの救いを疑い、祈りを疑う不信仰の罪を持ったままで祈っても、神は自動的にその祈りを聞いてくださるお方ではありません。主イエスの十字架の赦しの恵みに堅く立ち続けて祈ることが大切です。
信じて祈る祈りにこそ力があります。私たちは、祈りにおいて取り扱っていただくことにより、豊かな実を結ばせていただけるのです。

今も生きておられる主(2010.4.11)

宣教題   : 「今も生きておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : マルコ 16章19節~20節
主イエスが死から復活され、命あふれる恵みをもたらしてくださったことを心から祝い、讃えるのが聖日礼拝です。この時私たちは、全存在をもって、今も生きておられる主に向かうことが大切です。
今も生きておられる主は、どのように私たちと関わってくださるのでしょうか。

1.私たちと共にいてくださる
主イエスは復活された後、「天に上げられ、神の右の座につかれ」ました。これは、私たちが日常経験する悲しみの別離とは違って、主イエスはいつでも、どこでも私たちと共にいてくださることを意味しています(マタイ28章20節)。
このイエスを主と告白することは、罪と死に支配されて生きるのではなく、神の恵みの支配の中に生きることなのです。主イエスが「どういうお方か」を知ることは大切ですが、「今どこにおられるか」を知ることはさらに重要なことです。行き詰まりを覚えている真っただ中に、死を迎えるその場に共におられる主イエスは、私たちの苦痛や死と一つになってくださり、それに勝利してくださいます。そして、一時だけ共にいてくださるのではなくて、常時共にいてくださるお方です。

2.私たちと共に働いてくださる
続いて、「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教」しました。主イエスの救いの御業、そして「イエスは主
である」ことを宣ベ伝えたのです。そのとき、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」のです。それは、確かな地盤の上に「安定した錨」を下ろすように(ヘブライ6章19節)、主イエスが共に働いていてくださるという確かな信仰をもって神の御言葉を語ることなのです。
私たちは、神の御言葉を担って生きています。ところが、その御言葉を宣べ伝えることに自信を無くし、また臆しやすいものです。しかし、私たちは、いかなる時も信仰をもって聖書の御言葉を伝えていく時に、主イエスが一緒に働いてくださることを経験するのです。

復活からの道(2010.4.4)

宣教題   : 「復活からの道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 16章9節~18節
キリストの復活という喜びの知らせが(6節)、「ここにはおられない」という言葉だけが残った人々には恐れを生じさせました(8節)。そこで、キリストは弟子たちをはじめとする多くの人々に、ご自身を現わされました。それによって、キリストの復活が確かであることを明らかにされたのです。

1.信じなかった人たちによって証明された  9~14節
キリストは、マグダラのマリアを通して「イエスと一緒にいた人々」に、二人の弟子を通してエルサレムに留まっている「残りの人たちに」、「復活されたイエスを見た人々」を通して11弟子たちに復活の事実を知らせましたが、誰も「信じなかった」のです。このように、キリストの復活を容易に信じなかったことが、キリストの復活が彼らの思いこみでもなく、だまされたからでもなく、逆に確かな事実であることを証ししています。
こうした人々がキリストを信じなかったのは、信じようとしない心のかたくなさが原因でした。ですから、真実な証人の証言を通して、キリストの復活の事実を信じる信仰が求められるのです。
2.信じた人たちによって証言された  15~19節
キリストは、不信仰でかたくなな弟子たちに恵みを注がれ、「滅びの宣言」ではなく、キリストを信じることによって「救われる」ことを語られました。そして、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と招かれました。
キリストは、必死になって、ご自身の救いの中に人間を引き戻そうとされるお方です。そのために、信じた主の弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」と命じて、彼らを用いて神の救いを進めてこられました。その時、キリストの名によって種々の不思議な御業がなされるとともに、何よりも救いと祝福と慰めの「新しい言葉」を語ることによってなされてきたのです。
キリストを信じた者の人生は、恐れで終わることなく、キリストによって神を讃え、神の救いの言葉を語る者に変えられるのです。

十字架への道(2010.3.28)

宣教題  : 「十字架への道」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章32節~42節
エルサレムの町の東側にあたるオリ-ブ山の中腹にあった「ゲツセマネ」でのことです。そこで主イエスは、迫り来る受難を間近に控えて、その心の思いを父なる神に向かって訴えるように祈られました。さらに弟子たちに向かっても、その思いをはっきりと告げられました。

1.キリストの苦しみが現われている
ゲツセマネの祈りは、主イエスの壮絶な苦しみ、苦闘、苦悶の様を伝えています。主の苦しみは十字架上だけではなかったのです。そこに現わされた主の恐れと悲しみは、神を否む罪と死に対して抱かれたものでした(33~34節)。
それに対して主イエスは、神の御心に適う道を求められ、全ての人の罪に対して注がれる神の怒りを一身に引き受ける祈りをささげられたのです(35~36節)。
しかし弟子たちは、眠りこけてしまいました(37節)。肉体の疲れによって眠っただけではなく、魂も眠ってしまって神の御心に無頓着になっていたのです。主イエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38節)と語られたように、キリストの苦しみを覚えつつ、魂が目覚めていたいものです。

2.キリストの従順が現われている
ゲツセマネの祈りに見る主イエスのお姿は、徹底して人となられた神、どこまでも私たち人間の側に立ち続けておられる救い主を伝えています。主イエスは、「御心に適う」道を選ばれて、全てを明け渡されました。主は死に至るまで父なる神に従われたことを通して、従順を学ばれたのです(ヘブライ5章7~8節)。ですから私たちも、神への従順を学び続けていくことが大切なのです。
さて、ゲツセマネの祈りを終えられた主イエスは、「時が来た。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう」(41~42節)と言われました。人間の罪がどれほど絶望的であっても、死の闇がどんなに深く覆っていても、行き詰まりの中に八方塞がりでうめいていても、主イエスは立ちあがって歩み出してくださいます。今私たちは立ち上がって、信仰の従順の一歩を踏み出させていただきましょう。

真実であれ(2010.3.7)

宣教題   : 「真実であれ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 11章12節~19節
受難の道を歩まれるキリストは、エルサレム入城の翌日に理解しがたい行動をとられました。それは、実のないいちじくの木を呪い、荒々しく神殿をきよめられた出来事です。そこには、キリストご自身の失望と怒りが現わされているのですが、その根底にはキリストの真実が秘められていました。

1.真実を見抜かれるキリスト
キリストは、葉だけを茂らせて実のならないいちじくの木を枯らせてしまわれました。それは、神の民が過越祭という神への熱心な礼拝をささげているにもかかわらず、神の民としてふさわしい実を結んでいないことを教えようとされた行動であり、そこに潜む偽善を明らかにされたのです。続いてキリストは、神殿におけるささげ物の売買や両替がなされていることの中に、「それを強盗の巣にしてしまった」と偽善の罪が横行していることをあばかれました。キリストは、そのような偽善がご自身を十字架につけてしまうことを見抜いておられたのです。
さて、キリストが十字架において命を投げ出してくださった事実には、偽りのない愛が現わされています(ロ-マ12章9節、1ヨハネ3章16節)。このキリストの真実な愛が私たちを真実な者に変えるのです。
2.真実を求められるキリスト
真実を見抜かれるキリストは、私たちに真実を求められます。
まず「わたしの家」とは、今日の教会です。そこはキリストと交わり、神を礼拝する「祈りの家」です。このことを忘れてしまうと、私たちは自分の考えや感情を満足させるために神を引き合いに出して利用するようになってしまいます。このことに関しては、絶えず信仰の目覚めをいただいていることが大切です。
また私たちは、キリストの十字架の贖いによって「聖霊が宿ってくださる神殿」とされました(1コリント6章19~20節)。ですから私たちは、日々にキリストの愛と真実に支配されて、神のものとして生きることが求められているのです。そのようにして、真実な信仰の歩みが造られていくのです。

柔和を身に帯びて(2010.2.21)

宣教題  : 「柔和を身に帯びて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  11章1節~11節
主イエスは、十字架を目指してエルサレムに入城されました。人々は主イエスのそんな決意も知らないで、「ホサナ(どうかお救い下さい)」と、王を迎えるように歓呼しています。
この出来事について旧約聖書の預言者は、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリヤ9章9節)と、柔和を身に帯びた平和の王の入城であったと語っています。

1.卑しめられた受難のキリスト
主イエスは、人々が期待するような地上に新しい権力を打ち立てる戦いの王ではなく、わざわざ「子ろば」に乗って、柔和で平和をもたらす救い主としてのお姿を表わしておられます。
ところで「柔和」という言葉には、高ぶらないで謙った、卑しめられたという意味が含まれています。主イエスが最も卑しめられたのは、受難のしもべとして十字架にお架かりくださった時でした。そこには、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(1ペトロ2章22~24節)と、愛のゆえに黙しておられるお姿があります。この主イエスの柔和が、私たちを罪と死と滅びから救い、生かす力となったのです。

2.こころ砕かれた謙遜なキリスト者
人々は、主イエスを王として迎え入れたのですが、キリストについての理解が欠けていたために、数日後には主イエスを裏切り、「十字架に架けろ」と叫んで豹変してしまいました。彼らは、自分が持っていた先入観でキリストを理解し、自分が納得できる範囲でキリストを受け入れたのですが、そうでない場合は切り捨てようとしたのです。ここに人間の罪の姿があります。
私たちは、自分の主張やわがままにしがみつかないで、聖書が証言しているキリストご自身をそのまま受け入れ、心砕かれて従っていきたいものです。柔和なキリストが私たちの全てを支配してくださるとき、私たちは謙遜で柔和な者に造られていくのです。

何をしてほしいのか(2010.1.24)

宣教題  : 「何をしてほしいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章46節~52節
主イエスが、「エリコの町に着いた。・・・エリコを出て行こうとされたとき」でした(ルカ18章35節~19章1節を参照)。道端で物乞いをしていた盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と繰り返し叫んだのです。私たちは、このように叫び求める方を知っているでしょうか。

1.キリストの憐みを求める  46~51節
バルティマイが「ダビデの子イエス」と呼びかけているのは、イエスこそ主であることを知っていたからです。彼は、イエスの憐みにすがることを妨害するものがあってもめげないで、また疑い迷わないで執拗に叫び続けました(詩編50編15節)。
この叫びを無視なさらない主イエスは、「安心しなさい。立ちなさい」とバルティマイを呼びよせられました。憐みの主に信頼していたバルティマイは、踊り上がるほど喜び、安心してイエスのところに来たのです。
そこで主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられると、「見えるようになることです」と即座に答えるバルティマイでした。彼の目は見えるようになり、新しい歩みへと導かれて行きます。イエス・キリストは、人が抱えている悩みなどに答えてくださることを通して、最も大事な人の心と魂の目を開いてくださるお方です。

2.キリストの憐みを信じる  51~52節
主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねてくださったのは、愛以外の何の理由もありませんでした。この主の愛と憐みに対する信仰のあるところに、救いの御業がなされるのです。
バルティマイは、肉眼が見えるようになったことだけで終わらないで、「なお道を進まれるイエスに従」いました。それは、受難の道を進まれる後に従うことであり、十字架上のイエスを仰ぎ見ることだったのです。
私たちは十字架上での神の叫びを聴いて、それが自分のためであったと信じる時に(15章34節)、心と魂の目が開かれます。そしてイエス・キリストに従って行く時に、主の使命に生きる歩みがつくられていきます。

逆こそ真(2010.1.10)

宣教題  : 「逆こそ真」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章32節~45節
主イエスがご自身の受難と復活を予告された際に、ヤコブとヨハネは栄誉と報いを求めました。それに対して主イエスは、「仕える者になり・・・すべての人の僕」になることが、真に偉大な道であることを明らかにされました。仕えるとは、どういう在り方なのでしょうか。

1.キリストの愛に触れ続ける
私たちは、スキンシップや心の触れ合いによってお互いの感性が豊かにされます。聖書には、主イエスが人に触れられることによって御業をなされたり、人が主イエスに触れることによって癒されたりしている場面が多くあります。
ところで、主イエスが来臨された最大の目的は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」でした(45節)。それは、罪と死の虜になっている者を解き放つために、主イエス自らが十字架で血を流して身代金となってくださったのです。
私たちは、自分の決断によって、僕となって神と人に仕えることはできません。いつもキリストの十字架の愛に触れ続け、復活の命に触れ続けることによってのみ可能なことなのです。

2.キリストの謙遜に倣い続ける
主イエスは、「仕えられるためではなく仕えるために」来られました(45節)。私たちは、このキリストの謙遜に倣い続けることによって、僕となって神と人に仕えることができます。これこそが、「偉く」また大きくなることなのです。
この勧めは、ヤコブやヨハネなどの特別な人に対してだけなされたものではありません。「あなたがたの間で」(43節)と、今日の教会に対して勧められているのです。教会は、仕える人と仕えられる人と区分けしてしまう所ではありません。キリストが仕えていてくださることを知る者は、人からの些細なことにも仕えられる恵みに気づき、神と人とに仕える者とされるのです。
私たちは、互いに仕え合う喜びに生きてこそ、互いが大きくなり、真に偉くなるのです。

永遠の命に生きる(2009.11.22)

題   : 「永遠の命に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章17節~31節
私たちの地上の生涯は、永遠という観点から見れば、一時のことです。この時に、私たちは、「永遠の命を受け継ぐ」こと、すなわち永遠の命を受け取って、それに生きることが何よりも大切です。

1.キリストに愛されているから  17~27節
「ある人」とは、富も地位もある青年でしたが、自分の中に何か足りないものがあることを自覚していました。彼は、誠実に、熱心に、真剣に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねています。それに対して、主イエスは、彼が神の御言葉である戒めに完全に生きていないことを指摘され、人の努力や信心や善い行いで永遠の命を受け継ぐことができないことを教えようとされました。
私たちが「神の国に入る」との救いに与かるには、人の努力では不可能であり、全能の神による以外にありません(23~27節)。ですから、「何をすればよいのでしょうか」と問うのではなくて、何であればよいのでしょうか、と問いかけることが大切なのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで」と、鈍い私たちを愛し抜いておられます。この主イエスの愛の招きに応答して、その愛の懐に陥る者であることが大切なのです。

2.キリストを愛するから  28~31節
私たちが、キリストに愛されていることを体験的に知るなら、その愛に応えたいと自発的に願うようになり、永遠の命に生きる者の新しい生き方が生まれてきます。  主イエスは、「わたしのためまた福音のために・・・捨てた者はだれでも・・・百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られました。このように、永遠の命に生きる者には、今この時に神が備えてくださる祝福があり、さらに永遠につながる祝福があるのです。
私たちは、今も注がれているキリストのまなざしを覚えながら(21節、27節)、これほどまでにキリストに愛されていることを知って、キリストを愛する者にならせていただきましょう。

柔らかな心(2009.11.1)

題   : 「柔らかな心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章13節~16節
ここには、主イエスが、上から高圧的に力を及ぼすのではなく、同じレベルに立って、ご自分も同じ経験をしつつ引っ張っていかれているお姿があります。このように、主イエスは、柔和で、柔らかな心をお持ちでした。

1.広い心  13~14節
人々は、主イエスの祝福を子どもたちに受けさせたいと願って連れてきました。それに対して、偏狭な考えを持っていた弟子たちは、人々を叱りました。主イエスは、そのような弟子たちを見て憤られ、子どもたちを受け入れ、彼らを抱き上げて祝福されました。祝福しようとされる主イエスが、その祝福がさえぎられた時に、思わず憤られたのです。このように、主イエスの見方と、弟子たちの見方は違っていました。
「神の国はこのような者たちのものである」とは、小さな者、価値がないと見なされている者、また弱さ、無力、未熟さを持ち合わせている者が招かれ、受け入れられるということです。ここに、主イエスが柔らかな心、すなわち広い心を持っておられたお姿を見ます。私たちは、主イエスの祝福をさえぎって、子どもを含む多くの人を退けていないかと問いかけられています。広い心は、キリストからのものです。

2.貧しい心  15節
「子供のように」とは、子どもっぽいとか、子どものようにわがままでもよいという意味ではありません。「神の国を受け入れる人々」です。それは、「心の貧しい人々」であり(マタイ5章3節)、神のみに頼って生きる人です。すなわち、神抜きで生きていける、自分で自分の罪や死の問題を解決できると思いあがっているのではなくて、これらのことはイエス・キリストの十字架と復活の救いに頼るしかない、そこに身を置くしかないという貧しい心を持っていることです。
私たちは、子どもたちを絶えず主イエスのもとに連れてきて、祝福に与からせたいものです。そのためには、私たち自身が、主イエスの祝福の中に身を置き、謙って、ひざまずくことが大切です。この柔らかな心をもって、子どもたちのところに、家族のところに、共に生きる者のところに遣わされて行くのです。

最大の価値(2009.9.20)

題   : 「最大の価値」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章42節~50節
主イエスは、「神の国の福音」が拡げられるために(マルコ1章15節)、集中して力を注がれ、御言葉を語られ、弟子たちを訓育されました。ここでは、神の国に入り、神の国に生きることが最大の価値あることであり、それを失うことは最大の損失であることを明らかにされたのです。

1.神の国に入る  42~48節
神の国は、一人ひとりか重んじられるところです。そこで主イエスは、「小さな一人をつまずかせ」神の国に入れなくすることは、大きな罪であると指摘されたのです(42節)。また主イエスは、その人自身が「神の国に入る」こと、また永遠の「命にあずかる」ことをつまずかせるものを持っているならば、それを思い切って捨てるように戒められました(43~48節)。
主イエスは、私たちが滅びの支配にいたところから恵みの支配に入れられるために、十字架に架かることにより、私たちに代わって捨てられ、滅びを経験して下さいました(マルコ15章34節)。私たちは、主イエスの恵みを受け入れることをつまずかせているものを捨てて悔い改め、福音を信じるのみです。

2.神の国に生きる  49~50節
神の国に入れられ、神の国に生きる者は、「地の塩」としてこの世の防腐剤のように、この世に浸透して塩味つけるように感化を与えていきます。人は神によって備えられた「火」すなわち試練を通されることによって、地の塩として感化を発揮していきます(49節)。
また、「自分自身の内に塩を持」つとは、神の恵みとその御言葉に支配されて、「塩で味付けられた快い言葉で語り」(コロサイ4章6節)、その結果「互いに平和に過ごす」ようになるのです(50節)。主イエスが導かれる道は平安な道です。大切なことは、私たちの内にある自我がキリストと共に十字架につけられ、キリストと共によみがえって新しい人として生きることです。
神の国に生きる者は、この価値ある生き方を身につけているのです。

愛の広さ(2009.9.6)

題   : 「愛の広さ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章38節~41節
主イエスは、ガリラヤを通過してエルサレムへの道を歩み続けながら、弟子たちに必要な訓育をされました。この箇所では、キリストの愛に根ざした広い愛は、どうすれば培かわれていくかを語っています。

1.キリストの側に立っているなら  38~40節
ヨハネは、主イエスの名を使って業をしている者が「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、と報告しています。このヨハネの熱狂的な姿勢には、誤った仲間意識、偏狭で独善的な分派心があり、主の御業を妨げるものでした。
それに対して主イエスは、たとえ仲間でなくても、主イエスの名を慕い、その名を使って業をしているのであれば、「わたしたちの味方である」と穏やかに語られました。主イエスは、キリストによって、キリストのためになされているかどうかを問われるだけで、そのような広い愛の心が大切であることを教えられたのです。
私たちは、キリストに結び合わされた者としてキリストの側に立ち、キリストの愛をもって互いに受け入れ合う愛の広さと、互いに謙遜をもって仕え合うたくましさが必要なのです。

2.キリストの心をもっているなら  41節
主イエスは、無きに等しいと思われている小さな者に対しても、愛を注がれました。そのキリストの名のために成される愛の業は、たとえ小さなことであっても祝福されました。
主イエスが、最も大きな広い愛を注がれたのは十字架においてでした。この愛に生かされているにもかかわらず、私たちの愛は小さなものになりがちです。私たちが、キリストにある広い愛を培っていただくのは、「すべての聖なる者たちと共に」教会に生きることによってです(エフェソ3章17~19節)。愛は、教会の互いの間で培われ、それが教会の外にも拡がっていくのです。
私たちは、教会を愛し(詩編26編8節)、温かい愛の拡がりをつくり出していく聖徒の群とさせていただきましょう。

愛の絆(2009.10.4)

題   : 「愛の絆」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章1節~12節
結婚や離婚をどう考えまた対処するかは、私たちにとって絶えず試みられる課題です。結婚は、新しい愛の誕生であり、男女が互いに引きつけ合うということ以上に、互いが結び合わされる愛の絆を持つことです。

1.神の創造の秩序に立つ  6~9節
ファリサイ派の人々は、旧約聖書を用いながら離縁について主イエスを試みました(2~4節、申命記24章1節)。主イエスは、彼らの自分勝手で、聖書に従おうとしない心の頑なさを指摘されました(5節)。
続いて主イエスは、神の創造の秩序について語っておられます。まず、創造主である神が、人を男と女とに造られたので、そこに互いの尊厳があるということです(6節)。従って、一方的に離縁をすることを否定されました。さらに、神が男と女を結び合わされて、二人で一人として生きる新しい関係を造られました。それは、親子の関係よりも優先されるものです(7~9節)。
このように、神の御前における結婚に表される愛の絆は、神がつながれたものであり、決して離してはならないのです。

2.キリストの贖罪愛に立つ  5節
主イエスが、純粋かつ妥協をゆるさない断固とした口調で語られたのには、理由がありました。私たちは、結婚、離婚、再婚に際して、人間の罪の姿が表れやすく、利己的になりやすいからです。そして、神が祝福の基にしようとしておられる家庭に混乱をもたらしやすいからです。「あなたがたの心が頑固なので」とは、今日の私たちにも語られているのです。
私たちの頑なな心が砕かれるのは、キリストの十字架による贖罪の恵み以外にありません。ですから、キリストの十字架が、夫婦の間のみならず互いの間に、いつも立て続けられている必要があります。私たちは、そこで御言葉を聴き続けるのです。
結婚愛に代表される愛の絆は、キリストの十字架の血潮の恵みによって培われていくのです(ヨハネ13章1~30節)。