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マルコ

キリストの忍耐(2011.6.5)

宣教題  : 「キリストの忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ15章1節~15節  2テサロニケ3章5節
主イエスが十字架につけられてくださったのは、裁判において裁かれてくださったことによりました。それを受けとめてくださったところに、「キリストの忍耐」が表れています。

1.限りなく寛容であられた
主イエスは、神を冒涜したとの理由で死刑の判決をくだした最高法院のユダヤ人によって(14章53~65節)、主イエスには罪がないと知りつつも「十字架につけろ」との群衆の叫びに負けてしまったピラトによって(15章1~15節)、そして呪いの言葉をもって主イエスを裁いたペトロによって(14章71節)、十字架の死に定められたのでした。
この一連の出来事を、ペトロは「わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」(2ペトロ3章15節)と語り、パウロは「キリスト・イエスがまずわたしたちに限りない忍耐をお示しになり」(1テモテ1章16節)と証ししています。キリストの寛容と忍耐には、ただ驚くばかりです。
バラバではなくキリストが、「わたし」ではなくキリストが代わって十字架にお架かりくださったことを受け入れることのできる人は幸いです。

2.いかなる時も動揺されなかった
主イエスが、群衆の侮辱の声だけが聞こえる中を動揺することなく、十字架の道を耐え忍び通されたのは、父なる神の救いのご計画に堅く立っておられたからです(10章32~34節)。そのことを明らかにされた出来事が、「主の晩餐」においてでした(14章22~26節)。
私たちは、このようなキリストの忍耐が内に造られていくことを願います。そのためには、私たちが、様々に揺れ動く出来事に出合う時に、弱い私たちの心を導いてくださる主イエスを仰ぎ、心を主に明け渡すことです。そして、聖霊によって神の愛を注いでいただき、キリストの忍耐に与からせていただくのです(2テサロニケ3章5節)。

真に柔和であるために(2011.5.15)

宣教題  : 「真に柔和であるために」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 14章53節~65節、1ペトロ2章23節
主イエスが捕えられて裁判を受けられた場面は、主の十字架のクライマックスに至る途中の出来事です。実はこのところに、キリストの柔和さが表れています(マタイ11章28~30節参照)。

1.キリストの沈黙の御姿に   53節~61節前
最高法院での裁判は、最初から主イエスの死刑ありきのもので、多くの者たちがした偽証はことごとく崩壊していきました(55節)。この時主イエスは、終始沈黙しておられました(60節~61節前)。
主イエスは、その地上の歩みの中で沈黙された時が幾つかあります。意味のない議論に挑発された時(ヨハネ8章4~6節)、相手の信仰を試し励ます時(マタイ15章22~23節)、単なる好奇心や興味からくる求めの時(ルカ23章8~9節)、この箇所で見るように、ののしられ苦しめられた時でした。究極には、十字架上で徹底して沈黙されました(マルコ15章29~32節)。
主イエスは、相手がどのような態度であっても、愛のゆえに沈黙されました。ここに、キリストの柔和さがあります。

2.キリストの忍従の御姿に   61節後~63節
主イエスは、大祭司の問いかけに対して、ご自身が救い主であり神であることを大胆に語られました(61節後~62節)。偽証においては弁明されずに沈黙された主イエスは、ご自分の使命と身分に関しては言明されたのです。それに対する最高法院の決定を受けた人々は、主イエスに三重の侮辱を加えています(65節)。主イエスは、それに黙々と耐えられたのです。そうされたのは、
父なる神に対する信頼と、その救いの御計画に忠実であられたからです(1ペトロ2章22~24節)。ここにもキリストの柔和さがあります。
キリストの沈黙と忍従に表わされた柔和さを思う時に、私たちは自らの何であるかを知らされるとともに、あわせてキリストの柔和さをもって生きているかが問われるのです。

死はもはや支配せず(2011.4.24)

宣教題  : 「死はもはや支配せず」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ16章6節~7節、ロ-マ6章8~11節
「生」と「死」は、聖書が私たちに投げかけている一大テ-マです。それは、死に支配されたままでいるか、それとも死にもはや支配されていないか、との問いかけでもあります。
聖書は、「死はもはや支配しない」と宣言しています。

1.キリストが「復活」されたから
人は例外なく死に支配されています。それには肉体の死だけではなく、生きながらにして希望や喜びや愛に生きることを失った状態でいる死もあります。
それは、神から離れて生きている罪の結果による死です。「罪の支払う報酬は死です」(ロ-マ6章23節)と語られているとおりです。
十字架の死から復活されたキリストは、死に支配されることのないお方です
(マルコ16章6節、ロ-マ6章9~10節)。私たちは、このキリストに捉えられ(マルコ16章7節)、キリストに結び合わされて身を任せていくならば、もはや死の支配に生きることはないのです(ロ-マ6章8節、11節)。

2.キリストが「主」であるから
「死は・・・支配しません」とは、「死はもはや主でありません」という意味です。復活のキリストに結び合わされた者は、「キリストが主です」と告白するのです。私たちに死は存在しますが、それがもはや主ではなく、復活されたキリストを主とする信仰の歩みを続けることです。
この信仰は、教会の中心をなすものです。その根拠は、それを証言する聖書が残されていますし、キリストの復活の証人が絶えることがありませんでしたし、教会が存続していることに見い出すことができます。しかし、歴然たる証拠は、私たち自身が、復活されたキリストを「私の主です」と告白して生かされていることです。
復活された主イエス・キリストの恵みに捉えられ、生かされ、支えられているならば、死はもはや支配しないのです。

大いなる肯定(2011.4.10)

宣教題  : 「大いなる肯定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  14章43節~52節

私たちは、主イエスの救いに招き入れられ、このお方に導かれて歩む者ですが、いったいどこまで主に従っていけるのでしょうか。主の弟子たちは、主の十字架の死に至る最後まで従い切ることができず、ついには主を否んで逃げ、また捨ててしまいました。

1.恐れを抱く主の弟子
イスカリオテのユダはイエスを裏切り、人々を用いて捕えさせ、十字架に追いやってしまうという罪を犯しました。そこには、主を裏切ることに対する恐れがありました(43~45節)。その裏切りは、主の選びを拒否したことから生まれたのです(ヨハネ6章70~71節)。
そして、ペトロを含む「弟子たちは皆、イエスを捨てて逃げてしまった」(50節)のでした。彼らは人を恐れたのです。
さらに、「一人の若者が・・・裸で逃げてしまった」(51~52節)とあるのも、人に対する恐れからです。この若者は、マルコではなかったでしょうか。
主イエスを見捨てて死に追いやったのは、主の弟子たちだけのことではありません。私たちもまた同じではないでしょうか。

2.愛で包み込まれる主イエス
主イエスは、神の御子を裏切り、見捨て、否定してやまない人々の罪を引き受けて、それを赦し、新しく造り変えるという大いなる肯定へと逆転され、愛で包み込まれました(ヨハネ18章9節)。
主の弟子たちがそうであったように、私たちは主イエスに対して当てがはずれた、との思いを持つことがあります。そのような時、私たちの信仰は試され、ふるわれ、純粋なものにされます。そうなるためには、私たちは主に召されて、その愛に捕えられている者であることを知って、主の御足の跡を踏み従っていくことが大切です(1ペトロ2章21節)。それは、卒業のない、生涯のテ-マです。

心燃える祈り(2011.4.3)

宣教題  : 「心燃える祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章32節~42節
この箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれおり、主イエスが十字架を前にして苦闘の祈りをささげられた所です。そこに居合わせた弟子たちが、主イエスの警告の言葉に不感症となり、醜態を演じた所でもあります。

1.主イエスの祈り
主イエスはこの時、ただならぬ激情に襲われておられます。人が理解できないほどの途方もない力の前に、父なる神から捨てられる者が経験するほどの恐れを持たれ(33節)、普段では見られない姿で祈っておられます(34~35節)。
これは、私たちが持つ弱さや恐れや罪を変わって受け取ってくださっている祈りでした。
それは、全能の神にひたすら信頼しつつ、全知の神への従順を表明された祈りでした(35~36節)。ここに、神の怒りを一身に受けようとしておられるお姿があります。
このようにして、主イエスは、ゲツセマネの激しい祈りから続く十字架の苦しみを経験してくださったので、私たちの「永遠の救いの源」となってくださることができたのです(ヘブライ5章8~9節)。

2.主の弟子の祈り
この主イエスの祈りを見聞きしていた弟子たちは、主イエスから「目を覚まして祈っていなさい」(34、38節)と命じられなければならないほど、事実「弟子たちは、眠っていた」(37、40、41節)のでした。主イエスはそんな彼らに同情しつつ、誘惑に陥らないために、試練に打ち勝つために祈ることを命じられたのです(38節、マタイ6章13節)。
私たちは、ゲツセマネの弟子たちのようでない、と誰がいえるでしょうか。十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされ、呼吸するようにキリストと交わり続けることによって、常に目をさまして心燃える祈りを続けることが大切なのです。

キリストの仲間(2011.3.13)

宣教題  : 「キリストの仲間」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書 14章27節~31節 66節~72節
私たちは主イエスと出会って後、続けて主イエスとつながり続け、交わり続けていくとき、キリスト者としての生涯が造られていきます。
ペトロがキリストの仲間であり続けた背後には、変わることのない主イエスの招きがありました。

1.キリストに知られている  27~31節
主の晩餐が終わるや、主イエスは弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」ことを明言されました(27節)。あわせて主イエスは、先立つご自身の歩みを示しつつ、弟子たちを見捨てることなく導かれるとの約束をされています(28節)。
それに対してペトロは、主イエスの予告を聞き流して自己過信し、「死ななければならないとしても」と、必要以上に大げさに受け取り、主の約束をあなどっています(29~31節)。
主イエスは、そのようなペトロを知り尽くし(ヨハネ2章24~25節)、その愛と真実は変わることがありませんでした。私たちは、信仰生活のすべての面において主イエスに知られていることに安心を覚えるのです。

2.キリストに受け入れられている  66~72節
主イエスが最高法院で裁判を受けておられたときに、ペトロは三度も主イエスを否認しました。それは、主イエスを裏切るという、人間の惨めな姿を現わしています。これこそが、主イエスを十字架に追いやった罪であり、ペトロだけでなく、私たちのことでもあるのです。
そんなペトロを立ち直せるきっかけとなったのは、あらかじめ警告しておられた主イエスの御言葉と主イエスのまなざしでした(ルカ22章61節)。それに耐えきれなくなったペトロは、「いきなり泣きだし」悔いています。
私たちは、ペトロ同様に、復活の主イエスに立ち帰り(1ペトロ2章25節)、主イエスと正面から向き合う生き方をしていくことが必要なのです。

忘れるな(2011.2.20)

宣教題  : 「忘れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章22節~26節
主イエスは、過越の祝いの席において、聖餐の制定をされました。これを通して、主イエスは、私たちが主ご自身とその恵みの深さを忘れずに日々を過ごすことを教えられたのです。

1.主ご自身を忘れるな
過越の食事のテ-ブルマスタ-は、家長でした。ここでは、途中から主イエスがそれをされています。「イエスはパンを取り・・・杯を取り」とあるように、明らかに「主」が備えてくださった「晩餐」でした。ですから、主イエスが「取りなさい。これはわたしの体である。・・・わたしの血である」と言われたとき、弟子たちは主イエスから受け取ったのです。
さて、パウロが「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(1コリント11章23節)と語っているように、主イエスは、聖餐の場に特別に臨在しておられるのです。ですから、今日も聖餐のパンとぶどう汁を司式者を通して受け取ることは、主イエスから受け取るとの信仰が必要なのです。そうするならば、主イエスを忘れることはないのです。

2.主の恵みを忘れるな
「これはわたしの体である」とパンを裂かれたことは、私たちのためになされたことでした(1コリント11章24節)。また、手渡された「杯から飲んだ」ぶどう汁は、私たちを罪から解き放つ完全な救いを成し遂げてくださった十字架の血潮を意味します(ヘブライ9章12節)。主イエスが、賛美と感謝の祈りを唱えて執り行われたことは、そこに救いの恵みがあるからです。
パウロが「わたしの記念として行いなさい」と二度繰り返したのは(1コリント11章24~25節)、主の救いの恵みを、主のご再臨まで忘れずに語り続けるためでした(同26節)。
このようにして私たちは、聖餐の恵みに与かる度ごとに、罪を赦し、それを祝福の転機としてくださる主イエスの恵みを受け取り続けていくのです。

御前を去らじ(2011.2.6)

宣教題  : 「御前を去らじ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章10節~21節
この箇所は、主イエスと12人の弟子が、横になって過越の祝いの食事をしている場面です。ここには、主の弟子たちが誰一人として主の御前から去っていくことがないようにとの、主の御心が明らかにされています。

1.主イエスと一緒にいるゆえに   10~17節
主イエスの一行が過越の祝いの食事をするために準備された場所は、「ニ階の広間」でした。「イエスは12人と一緒にそこへ行かれた」のでした。
この場所こそ、復活された主を信じられないでいた弟子たちが集まっていた所であり(ヨハネ20章19~23節)、主の昇天後に弟子たちが集まって祈っていた所であり(使徒言行録1章13~14節)、エルサレム教会危機の時に弟子たちが祈っていた所でした(同12章12節)。そうした度ごとに、主の弟子たちは、主の最後の晩餐の出来事を何度も繰り返し思い起こしたことでしょう。
同じように、私たちは、主イエスと一緒の教会の交わりに加えられています。どうして、一緒におられる主の御前を去ることができるでしょうか。

2.主イエスの愛にとどまり続けるゆえに  18~21節
そこは、ただ楽しい思い出だけでなく、主イエスの弟子の一人が裏切るという深い痛みを思い起こす場所でした。彼らは、そのことを主から聞かされて心を痛め、「まさかわたしのことでは」と次々に尋ねています。
しかし、彼ら以上に深い痛みを覚えられたのは主イエスであり、最後の最後までイスカリオテのユダを愛し抜かれ、その愛にとどまり続けるように招かれています(マタイ26章50節)。それに対してユダは、主の愛の外に出て行ったのでした(ヨハネ13章30節)。
私たちは、主の御心を受けとめて担おうとするよりも、自分の思いを優先させて押し通そうとすることがあります。そんな時こそ、私たちが主の愛にとどまり続け、主の御前に堅く立つことが大切なのです。

美しい人生(2011.1.16)

宣教題  : 「美しい人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  14章1節~9節
主イエスは、一人の女がナルドの香油を自分の頭に注ぎかけたことを称賛して、「わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました(6節)。後にペトロは、この出来事を思い起こして、人々の心を引きつける美しい「立派な行い」と語っています(1ペトロ2章12節)。何が、美しい良いことだったのでしょうか 。

1.キリストの愛に捕えられている
この出来事の背景には、出エジプトという神の救いの御業を祝っている最中に、神の御子を殺害する人間の罪が現れています(1~2節、10~11節)。
この時になされた一人の女の行為は、主イエスの十字架と復活の「福音」と結びついています(9節)。これは、彼女が主イエスの十字架に現わされる愛に捕えられていることを証しするものでした。
今日の私たちは、主イエスの十字架によって現わされた神の憐れみによって、すべて赦され、受け入れられ、神のものとされ、礼拝者とされています(ロ-マ12章1節)。この神の愛に捕えられ、神にすべてを任せて、神に身を投げかける人生は、素晴らしいのです。

2.キリストの愛に応えている
ナルドの香油は、死体の葬りや礼拝における任職の油として用いられました。一人の女は、その高価な香油を一気に「イエスの頭に注ぎかけた」のでした。主イエスは、その行為に憤慨した人々に、彼女がこの時にしかできない、しかも彼女のできる限りのことをしたと弁護されました(4~8節)。
彼女のした良いことを無駄と言うのであれば、主イエスが十字架上で最後の一滴までも流された贖いの血は、世界最大の偉大な無駄と言わざるをえません。私たちは、主イエスに対してへりくだる時に、キリストの御姿と御業が見えてくるのです。
私たちは、いかなるものを、ナルドの香油として主イエスに注ぐことができるのでしょうか。一筋に、キリストの愛に捕えられ、その愛に応える者の心と存在は美しいのです。

その時、あなたは(2010.10.31)

宣教題  : 「その時、あなたは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  13章14節~27節
聖書は、神の約束どおりにキリストの初臨が成就したように、キリストの再臨があることを約束しています。時は、この約束の成就に向かって確実に縮まっています。私たちは、そのことを自覚して、それにふさわしく生きることを忘れてはなりません。

1.苦難の時に  14~23節
「それらの日には・・・今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」(19節)とは、紀元後70年にロ-マ軍によるエルサレムの町と神殿の破壊や民への虐殺また飢餓が起こること、偽キリストや偽預言者がクリスチャンを惑わしたりすることの預言です。
こうしたことは、世の終末にも起こることであり、とりわけクリスチャンの信仰を脱線させようと試みる者がいるので、毅然としているようにと警告されたのです。そして、主イエスは、こうした苦難の中にあるクリスチャンたちを「主はご自分のものとして選んだ人たち」と呼ばれて、彼らを忘れることなく、最後まで責任をもって守られることを約束されました。
私たちは、主なる神に選ばれているとの揺るぎない根拠があるので、苦難に耐えることができるのです。

2.主の再臨の時に  24~27節
このような苦難の後の終末には、天体の大異変とキリストの再臨があります。この時、キリストによって選ばれたクリスチャンたちは、呼び集められてキリストのもとへと引き上げられるのです。この再臨のキリストこそが、真の審判者であり、私たちの真の望みです。
再臨の主を待望する私たちは、神の恵みだけを頼りにして、凛としてキリストを仰ぎ続けて生きるのです(ルカ21章28節)。そのように生きるならば、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」との使徒信条が、生きた告白となるのです。

主のみ手に支えられて(2010.10.3)

宣教題  : 「主のみ手に支えられて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  13章1節~13節
主イエスは、神殿が崩される時がくることを語りつつ、「世の終わり」の時について予告しておられます。そして、それが起こる時の前兆について語られ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と励まされました。私たちが耐え忍ぶことができるのは、主イエスのみ手に支えられているからです。

1.しっかりと立つ  5~9節、12~13節
終わりの時には、偽キリストの出現、戦争や民族間・国家間の対立、自然災害の徴が現われ、誤解や無理解ゆえにキリスト者への迫害が増します。そうした時、私たちは「人に惑わされないように気をつけ」、また「自分のことに気をつけ」ていなければなりません。
ところで、このような事態に際して、誰が耐え忍ぶことができるでしょうか。主の弟子たちは、十字架を前にして主イエスを捨ててしまい、最後まで耐え忍ぶことができませんでした。忘れてならないことは、主イエスのみ手に支えられて、聖霊の助けをいただくことによって(1ペトロ4章12~14節)、しっかりと立つことができるのです。

2.福音を宣べ伝える  9~11節
主イエスは、試練や迫害の中にあって、「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と語られました。主イエスの十字架と復活は、成し遂げられねばならないことでした(マルコ8章31節)。そして、その福音は伝えられなければならないし、人はその救いに与からなければならないのです(ヨハネ3章3節、5節)。世界聖餐日は、世界中の教会が一致のしるしである聖餐を共にすることによって、世界に対する宣教の責任を果たしていくことを覚える日でもあるのです。
この福音宣教が推進されていく力の源泉は「聖霊」です。私たちは、主のみ手に支えられて、聖霊によって与えられる喜びをもって福音を証しし、宣べ伝えていくのです。

心を見ておられる主(2010.9.19)

宣教題  : 「心を見ておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  12章35節~44節

イエス・キリストは、ご自身が「主」であることを証言しつつ(35~37節)、そこに居合わせた人々の心を見ておられました。主イエスは、律法学者たちに見る暗い面に、それと対比するように一人の貧しいやもめの明るい面にまなざしを注いでおられます。

1.動機を見られる主  38~40節 主イエスは、律法学者たちの「見せかけの」行為に気をつけるように言われました。それは、見えを飾った虚栄の演出であり、自尊心を満足させる態度であり、あげくは弱い立場の人を横柄に扱う貪欲な態度でした。彼らの心が、こうしたことを好み、それに執着し、自分の利益のことしか考えていなかったのです。 私たちは、自らを十字架に献げ尽くしてくださった主イエスの愛の支配に、死からよみがえられて今も生きておられる主イエスの恵みの支配に生きることが大切です。主イエスは、私たちの言動の全てにおいて、この愛と恵みが動機となっているかを見ておられるのです。

2.真実を見られる主  41~44節 主イエスは、人々が献金をするのを「見ておられ」ました。それは、集中して観察する人のように、深く関わってじっと見られたということです。何と厳粛なことでしょうか。 主イエスは、表面に現われている事実を見ておられます(41~42節)。 しかし、主イエスはその事実だけで判断されないで、目に見えない真実な心を見て、それを大切にしておられるのです(43~44節)。一人の貧しいやもめは、神の愛なしには生きることができないことを知っており、その愛に応答して精一杯の信仰の献げ物をしたのでした。 私たちが主イエスを信じる信仰に生きるということは、主イエスのまなざしの中に生きることを体験し続けることなのです。

愛の完成(2010.8.22)

宣教題  : 「愛の完成」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章28節~34節
主イエスは、唯一の主である神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することを、二つで一つであるかのように同列のものとして語っておられます。私たちは、本気になって神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しているかということを問いかけられています。

1.愛の優位性
ここでの律法学者の問いかけは、「イエスを試そうとして」という不純なものでした(マタイ22章35節)。主イエスは、そのような問答を用いて、何を優先すべきかを明らかにされたのです。
まず、私たちが、自分の全存在・全人格をもって、本気になって主なる神を愛することです(マルコ12章30節)。その理由は、神は唯一のお方であって、私たち一人ひとりの全てにわたって神であられるからです(同29節)。そして、神に愛されている自分を愛するように、神に愛されている隣人を愛するのです(同31節)。
私たちは、絶えず聖霊によって神の愛を注いでいただき、神を愛し、自分のように隣人を愛することに勝利させていただきましょう。

2.愛の具体性
神が私たちを愛していてくださるゆえに、私たちは愛の交わりの中を生きるようにされました(1ヨハネ4章10~11節)。ところが、私たちは自らが愛し抜けない不真実な姿に気づくことがあります。そのような時こそ、私たちは主イエスの十字架の贖いの恵みに立ち続けるのです(同1章7節)。私たち一人ひとりが、主イエスの十字架を仰ぐ時、そこにある愛の力を経験するようになるのです。
私たちは、律法学者のように「神の国から遠くない」者ではなくて(マルコ12章32~34節)、主イエス十字架の愛を受け入れて、その愛に生かされ、生きる者とされましょう。

聖書と神の力(2010.7.11)

宣教題  : 「聖書と神の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコによる福音書  12章18節~27節
主イエスは、復活はないと理解していたサドカイ派の人々に対して、「あなたたちは大変な思い違いをしている」(24節、27節)と言われました。それは、単なる思い違い以上に、大いに誤っている、とんでもない所に迷い出ているという意味です。その理由は、「聖書も神の力も知らないから」でした。

1.神の力を知らない  25節
サドカイ派の人々は、モ-セ五書に明記されている御言葉だけに立つという立場でした。彼らは、家系と財産を保存するための規定を用いて(申命記25章5~10節)、復活はないと議論をしかけてきたのです(マルコ12章19~23節)。それに対し主イエスは、あらゆる領域において生きて働いておられる神の力を知らないから、聖書が語る教えに疑いが生じるのだと指摘されました(同24節)。
イエス・キリストの十字架と復活を信じる者は、「もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」との約束をいただいています(ルカ20章36節)。その復活のときには、結婚も死もない世界に生きるのです。

2.聖書を知らない  26~27節
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、サドカイ派の人々が重んじていた御言葉の一つでした(出エジプト3章6節)。その神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であって、今の私たち一人ひとりに「わたしはあなたの神である」と語りかけていてくださるのです。私たちは、この語りかけを聴き取ることが大切です。
十字架上の二人の犯罪人は、最も主イエスの近くにいました。しかし、真に近くいたのは、悔い改めた者であり、そこに永遠の救いがあったのです(ルカ23章32~43節)。私たちも信仰によってイエス・キリストと結び合わされるならば、十字架と復活に現わされた神の力が「私の救い」となるのです。
御言葉と神の力に対する信仰があるならば、誤り、迷い出ることはありません。

仕えることの喜び(2010.6.27)

宣教題  : 「仕えることの喜び」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 12章13節~17節
人が、主なる神に仕えることと、人に仕えることは大きな祝福です。それは、ちょうど、キリストと教会、夫と妻の間においても言えることです(ヱフェソ5章21~33節)。そして、主イエスが「神のものは神に返しなさい」と語られた根底には、神と人に仕えることの喜びが証しされています。

1.神に仕えることの喜び
ユダヤ人指導者たちは、税金問題を持ち出して主イエスを捕え、十字架に追いやろうと巧妙な罠をしかけています(13~14節、ルカ23章2節)。その偽証を見抜いておられた主イエスは、皇帝の肖像と銘が記された銀貨を見せながら、それが「皇帝のものです」と指導者たちの口を通して答えさせられました(15~16節)。そして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と命じられたのでした(17節)。
主イエスが、このように答えられたのには根拠があります。神にかたどって造られた人間は(創世記1章27節)、与えられている全てのものは神のものであり、神にお返しするのが当然のことだからです。このことが明確になるなら、私たちは神に仕えることが喜びとなります。

2.人に仕えることの喜び
神に仕える喜びがあるところには、人に対しても健やかに仕える喜びが生まれてきます。「皇帝のものは皇帝に・・・返しなさい」との生き方ができるのです。
はからずも主イエスを陥れようとした指導者たちは、「人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と語りました(14節)。主イエスにとって「神の道」とは、十字架と復活の道でした。十字架に死んで復活されたキリストと結び合わされて新創造された者は、神のものとされ、神に仕え、人に仕える喜びの中を歩むことができるのです(2コリント5章17節)。
神のものとされた私たちは、健やかな時も病める時も、順境の時も逆境の時も、生きている時も死を迎える時も、神と人に仕えることを喜びとして生きるのです。