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マルコ

人を引きつける魅力(2018.5.27)

宣教題  「人を引きつける魅力」        宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章7~12節

 イエス様は、わたしたちが経験するすべての苦しみや悲しみを知っておられ、御自分のこととしてその人に寄り添い、内側から癒してくださるお方なのです。

1.神の与えられる恵みとは
神は、私たちの求めとは違う方法で解決される時がありますが、そこには必ず神の最善がなされます。神の恵みは、日常生活の中に溢れています。わたしたちがそのことに気づき目が開かれると、神の愛の中に置かれている自分を知ることができます。

2.群衆が引きつけられた魅力とは
 神の御心を伝え、病を癒し、神の愛を示されたイエス様に、おびただしい群衆が集まります。しかし群衆は病の癒しという魅力にのみ引きつけられたのです。彼らが求めたのは自分や家族の病の癒しだけでした。確かにそれもイエス様の魅力の一つですが、そこには、イエス様がこの地上に来られた本当の理由とのズレがありました。

3.人を引きつける真の魅力とは
 汚れた霊がイエスを見て、「あなたは神の子だ」と叫びます。もしその叫びを許せば、イエス様の魅力が病の癒し、ローマの支配から解放する英雄に留まり、イエス様の十字架と復活の必要もなく、語られる福音が人々に届かなくなります。だからイエス様は厳しく戒め、誘惑を退けられたのです。イエス様の人を引きつける真の魅力とは、わたしたちの心の奥底にある自分ではどうすることもできない悩みや苦しみからの解放、そして何よりも罪からの救いと永遠の命を与えてくださることなのです。
 イエス様はあなたのために十字架にかかり、血潮を流されたのです。この方の魅力に引き寄せられ、この方こそがわたしの神、わたしの救い主と信じて歩みましょう。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.8MB)

主の御心はどこにあるのか(2018.4.8)

宣教題  「主の御心はどこにあるのか」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章1~6節  レビ19章18節b

イエス様が会堂に入って礼拝を守られました。しかし、この日、会堂に集まった人々のまなざしは天に向けられていませんでした。

1.神を愛し、人を愛する
 安息日の礼拝に片手の萎えた人が来た時、イエス様はこの人を癒されました。それは人々に律法を守ることで、神の御前にその正しさを主張する信仰が根本的に間違っていることを示すためでした。そして、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を全うするために律法は機能しているのだということを示されたのです。

2.沈黙という拒否の末に
 人々はイエス様の問いに「黙っていた」のです。彼らは、イエス様が言われるようには変わりたくなかったのです。しかし、イエス様が求めておられるのは「変わる」ことです。それは、今のわたしたちにも『あなたは変わらなければならない。』と言われているのです。この時、人々はイエス様の招きを拒否し、黙ってしまいました。その結果、彼らは、イエス様を殺すというところに至ったのです。

3.イエス様の招きに応える
 イエス様が、神を愛し、人を愛し、人に仕えることを明確に示されたのが十字架です。イエス様は今も「わたしに従って来なさい」とわたしたちを招いておられます。この招きにわたしたちが応えた時、神に向かって、隣人に向かって踏み出して行くことができるのです。そこに神の国への道が開かれるのです。
 自分のことしか愛せないようなわたしたちですが、イエス様の招きに応えて、神と隣人とを愛する者へと踏み出させていただきましょう。そこに主の御心があるのです。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(7.7MB)

人の子は安息日の主(2018.3.11)

宣教題  「人の子は安息日の主」        宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章23~28節
イエス様とファリサイ派の人々との間で起きた安息日を巡っての論争から、わたしたちがどのように歩めば良いのかを見ていきましょう。

1.安息日
 当時、安息日には234項目のしてはならないことがありました。それによって、二度とバビロン捕囚のような目に遭わないようにしっかり律法を守り、神の民として歩むことを心に刻んだのです。彼らは、まさに命がけで律法を守ろうとしました。しかし、ここには、『真面目な罪人』というものがあります。

2.安息日の主
 安息日に麦の穂を摘んで食べたイエスの弟子たちの行動をファリサイ派の人々は咎めました。それに対してイエス様は3つのことを語られました。

(1)「ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(26節b)。
(2)「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)。
(3)「人の子は安息日の主でもある」(28節)。主イエス・キリストの到来と十字架と復活の出来事こそが、新しくされた安息日の意味なのです。
 そして、わたしたちが神との平安の中に生きること、それがわたしたちに与えられた真の安息であり、この安息を与える為にイエス様は来られたのです。
 わたしたちは今、イエス様によって与えられている安息を心に刻み、イエス様の十字架の贖いによって与えられた新しい命を受け、真の安息を与えられた者として、ここから新しい歩み、天の御国への歩みへと踏み出して行きましょう。

新しい革袋として(2018.2.11)

宣教題  「新しい革袋として」        宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章18~22節

ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は断食していましたが、イエス様と弟子たちが断食していないことで、彼らの間に断食問題を巡る論争が生じたのです。

1.古いぶどう酒と古い革袋
古いぶどう酒とは、ファリサイ派の人々が厳格に律法を守って救われようとする信仰の在り方で、古い革袋とは、その考えに基づく信仰生活です。イエス様は婚礼の客と花婿のたとえをもって、そうではないと言われました。それはイエス様ご自身を花婿にたとえることで、わたしが真の救い主だと言われたのです。

2.新しいぶどう酒と新しい革袋
 新しいぶどう酒とは、救い主が来られた祝いの酒であり、主の十字架による罪の赦しを示します。それを入れる新しい革袋とは、救われた者の喜びと感謝を示しています。わたしたちには、新しいぶどう酒を注がれた、新しい革袋としての新しい信仰の歩を整えていくことが求められているのです。

3.新しい革袋として
 キリスト者とされた者の生活とは、第一に、礼拝が喜びの日となり、第二に、毎日祈るようになり、第三に、神と人に仕える者とされることです。この礼拝と祈りと奉仕という点においてわたしたちは新しい革袋へとされ続けるのです。
 わたしたちも、新しいぶどう酒を注がれた者として、主に向かって喜びと感謝と賛美をもって主をほめたたえ、新しい革袋としての信仰の歩みをしていきましょう。

罪人を招くために(2018.1.21)

宣教題  「罪人を招くために」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章13~17節

イエスは、再び湖のほとり出て行き群衆を教えられ、通りがかりの道でレビが収税所に座っているのを見かけて声をかけました。それは何のためだったのでしょうか。

1.わたしに従いなさい
レビは、イエス様からの召しを受けた時、すぐに従います。ここで重要なのは、レビがすぐに従ったということです。彼は徴税人であり、当時は罪人の代表者的存在として、決して救われることはないと思われていました。しかし、そのレビをイエス様が弟子として召されたのです。彼には、何も誇りとするものがなかったのです。

2.罪人の最たる者から主の弟子に
罪人から主の弟子になった人物の代表的存在にパウロがいます。彼はテモテに、「わたしは、その罪人の中で最たる者」と言っています。そんな彼が復活のキリストと出会い回心し、主の弟子となります。 パウロも神の御前に誇るべきものなど何一つ無く、ただ主の十字架によって救われた。その恵みと神の愛に生きた人物でした。

3.罪人を招くために来られた主イエス
主の弟子とされたレビはイエス様を食事に招きます。それを見たファリサイ派の律法学者は、イエス様を非難しました。そこでイエス様は、「わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである」と言われました。彼らは、自分の正しさに固執するあまり、罪人をも赦して招く大きな神の憐みを認めることができなかったのです。
わたしたちも、ただイエス様に招かれた罪人に過ぎません。レビやパウロのように、わたしのような者さえ招かれたことを心から感謝し、イエス様の愛と憐みと恵みを受けた者として歩ませていただきましょう。

あなたの罪は赦される(2018.1.14)

宣教題  「あなたの罪は赦される」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ2章1~12節

イエス様が中風の人を癒された出来事から、わたしたちには何が最も大切なのかを見ていきましょう。

1.子よ、あなたの罪は赦される
 イエス様が町に入られると、そこに中風の人が運ばれてきました。するとイエス様は、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。罪を赦すことのできるのは神だけです。イエス様は神としての罪の赦しを宣言されたのです。それは、神の国は既に来ているのだから、神の子として、新しい命に生きなさい、ということを人々に告げようとされたのです。

2.イエスとは誰か
 イエス様の言葉に律法学者たちは心の中で神を汚す言葉だと論じます。しかしイエス様は続いて、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。それによってイエス様は、自分には罪を赦す権威があり、自分が誰であるかを示されたのです。そして神の国が既に来ており、神に近くあることの幸いに生きる者となるように告げようとされたのです。

3.その人たちの信仰を見て
 イエス様は、中風の人の信仰ではなく、彼を運んできた人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。確かに癒される人の信仰は大切ですが、その人の良き業によって罪が赦されるのではなく、イエス様の憐れみ、イエス様の執り成しによるのです。
 わたしたちにとって最も大切なのは、隣人への愛とイエス様への信頼です。そこに神の御業が現わされていくのです。そのことを求めて共に祈りましょう。

主の十字架と共に歩む(2017.10.29)

宣教題 「主の十字架と共に歩む」      宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ1章40~45節

 イエス様の愛の御業によって、重い皮膚病を患っている人がいやされたという記事から、わたしたちがどうあるべきかを見ていきたいと思います。

1.イエス様の御心ならば
 当時、重い皮膚病を患った人が置かれていた状況は悲惨で、自ら「汚れている者」と叫び、町の外でしか住めませんでした。その人イエス様の所に来て、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願い出ます。それは彼が、この方なら自分の病をいやしてくださると確信したからです。ただ彼は、自分のような者をイエス様が憐れんでくださるかどうかが不安でした。

2.だれにも、何も話さないように
 そんな心配をよそに、イエス様は彼をいやされました。そして「だれにも、何も話さないように」と命じられました。しかし彼は、町に入り多くの人々に告げ、広めます。人々は、イエス様の告げられた悔い改めの福音ではなく、いやしの力を求めたのです。その結果、イエス様は町に入ることができなくなりました。

3.イエス様の犠牲によって
 彼は、自分の身に起きたいやしと清めの出来事を言い広めましたが、それはイエス様の十字架による犠牲抜きの証しだったのです。しかしわたしたちは、十字架抜きの救いも、十字架抜きのいやしも知りません。私たちが救われるのも、いやされるのも、ただイエス様の十字架による犠牲のみです。
 私たちも、この思い皮膚病よりも恐ろしい罪から救われたことを感謝し、多くの人々に証しし、主の十字架と主に歩む者とならせて戴きましょう。

主イエスの癒しと救い(2017.9.24)

宣教題 「主イエスの癒しと救い」        宣教  今田好一牧師
聖 書 マルコ1章29~34節

わたしたちは、神の守りの中で歩んでいます。しかし、わたしたちは弱く小さな者です。ですから、イエス様に助けを求めなければならないのです。

1.主イエスのいやしと救い
イエス様はシモンの家に行きしゅうとめの病気をいやされます。このことは、今日教会に集ったわたしたちとわたしたちの家族にもイエス様の救いがなされるということを意味しています。『家族伝道は難しい』と言われていますが、それは、神の愛を言葉で伝えようとするからです。愛は、その人を愛することによってしか伝わらないのです。愛は、一緒に生活する中で伝えていくものです。今日わたしたちがイエス様の愛をしっかりと受け止めて、わたしたちも家族を愛し、家族に仕え、心を交わすことのできる者とならせていただきましょう。

2.主イエスの愛に応えて
安息日にはいやすことが禁じられていたため人々は日が沈み、安息日が終ってからイエス様の所に来ました。イエス様のいやしは今もわたしたちのうちに続けられています。イエス様はわたしたちに聖霊を与えてくださり、わたしたちの中にある神の御心に適わないあらゆる熱を冷まし、何が神の御心に適うことなのか、何のためにわたしたちが生かされているのかということをきちんと受け止めることができる者にしてくださるのです。
わたしたち一人ひとりが、主に愛され、罪赦された者として、その愛に応える者とならせていただき、ただ主を崇め、主に仕え、主に頼り、いやし主なるお方、救い主イエス・キリストと共に歩ませていただきましょう。

わたしについて来なさい(2017.7.30)

宣教題  「わたしについて来なさい」    宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章16~20節
 
 イエス様が、湖畔で網を打っていたシモンとアンデレを御覧になられたが、これは、ふと見かけた、というのではなく、じっと見つめておられたという意味です。

1.イエス様の招きによって
  神は、シモンやアンデレと同様に、神のご計画に基づいて私たちにも御言葉を与え、招いてくださいました。この神の招きによって私たちはキリスト者とされ、イエス・キリストを信じる者として主と共に歩んでいます。 そして、イエス様の「わたしについて来なさい。」という召しによって、最初の弟子が誕生したのです。

2.イエス様の召しに対する3つの疑問
 ここに三つの問いが生じます。なぜイエス様はこの四人に声をかけられたのか?なぜ弟子を求められたのか?なぜ彼ら四人は全てを捨てて、即座にイエス様に従うことができたのか? それは、彼らに弟子としての資質があったからではなく、神が愛し、選ばれ、すべての人がイエス様の弟子になるためです。そして、彼らが神の召しをしっかりと受け止めることができたからです。

3.召しによる信仰から献身へ
 神の招きを受け、信仰が与えられ、キリスト者となります。この招きが信仰の原点です。そして召しは献身者を生みます。この献身する者の群れが神の民です。
献身とは、神の召しによって生まれる者であり、他者と比べることはできません。ただ、私たちに求められているのは、神の召しに忠実であるということです。

シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、主の召しに対して即座に従いました。これは、すべての人が主の召しに対して応答する時の模範です。私たちもイエス様の救いの御業に仕え、神の栄光のために仕える者として、神の召しに即座に応える献身者とならせていただきましょう。

神の国は近づいた(2017.7.9)

宣教題  「神の国は近づいた」       宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章14~15節

サタンの誘惑に勝利されたイエス様は、良い知らせをわたしたちに教えることを始められましたが、その教えの中心点とは何であったかを見ていきましょう。

1. 時は満ちた
第一は、「時は満ち」という知らせです。旧約聖書において預言者たちが、救い主が来て神の支配される国が実現すると預言して来たのですが、イエス様がこの地上に来られたことによって、今やその時は満ち、神の救いの計画が成就されたということなのです。つまり、神の国の支配はイエスというお方の上に実現したのです。

2. 神の国は近づいた
第二は、「神の国は近づいた」という知らせです。神の国と聞いて、皆様はどのような所を想像されますか。きれいな花が咲き、悩みや悲しみもない所だと思われますか。確かにそれも真理かもしれませんが、神の国とは、さらに神の恵みに満ちあふれた、「神の支配される所」という意味です。宣教は、世に対して福音を宣言するものです。そしてその主題は、「神の国」でした。イエス・キリストというお方によって、福音が宣べ伝えられ、神の国、神の恵みの支配が始まったのです。

3. 悔い改めて福音を信じなさい
最後に、「悔い改めて福音を信じなさい」という知らせです。この御言葉を実行すること、つまり、方向転換して、イエス様の十字架の死がわたしの罪のためであったと信じ受け入れる時、神の国に生きる者とされるのです。
イエス様は、今もわたしたち一人ひとりに聖書を通して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と言っておられるのです。そして、わたしに従いなさい。と招いておられるのです。

誘惑を受けられたイエス(2017.6.11)

宣教題  「誘惑を受けられたイエス」     宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章12~13節
イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、何故サタンの誘惑を受けられたのでしょうか。

1.誘惑を受けられたイエス
私たちが神から離れて生きているなら、サタンの存在を意識させられることは、ないかもしれないが、ひとたび神に従おうとする時、サタンはそれを阻止してきます。神に従うほどにサタンの力も強くなります。だから、人となられたイエス様が、人としての極限状況を潜り抜ける必要があったということなのです。

2.誘惑を退けられたイエス
マルコにとって誘惑の内容よりも重要だったのは、イエス様がサタンの誘惑に勝利されたということでした。イエス様の十字架への歩みはサタンの誘惑との戦いでした。その誘惑の最高潮が、主が十字架につけられたとき、「神の子なら、自分を救ってみろ。」(マタイ27章40節b)との誘惑でした。しかし、イエス様は、その誘惑をも退けられ、父なる神の意志と霊の導きに忠実に従われた僕としての姿が示されています。

3.誘惑を受けられたのは私のため
イエス様が荒れ野におられた40日間、「野獣と一緒におられが、天使たちが仕えていた」とあるが、野獣はこの世の力の象徴であり、サタンは人がこの世で最も欲するものをもって誘惑してきます。しかしイエス様には天使たちが仕え守っていました。
このようにイエス様ご自身が誘惑を受けて苦しまれ、勝利されたからこそ、誘惑に弱く負けやすい私たちを助け、私たちに勝利を得させてくださることができるのです。
今日、私たちに代わってサタンの誘惑を受けられ、勝利されたイエス様を、もう一度、私たちの主として魂の中にお迎えさせていただきましょう。

あなたはわたしの愛する子(2017.5.21)

宣教題  「あなたはわたしの愛する子」   宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章7~11節

もし、皆様が「あなたは何者ですか」と質問されたら何と答えられますか?

1.洗礼を受けた者
どんな時でも私たちの信仰を支え、キリスト者であることの確信を失わせない根拠は、『洗礼を受けた者』だという事実です。洗礼は、復活の主イエスのご命令です。この洗礼によって私たちはキリストと共に死に、共に生き、復活の命に与かる者とされたのです。イエス様の十字架への道は、神の御子が洗礼を受けるという大きな矛盾から始まったのです。ここに神の救いの御業があるのです。

2.三位一体の神の御業
イエス様が洗礼を受けられた時、「天が裂けて」(10節)とあります。これは、天と地とを完全に隔てていた罪という幕が裂けたということで、イエス様の救いの御業が、まさに三位一体の神の御業であることを、イエス様の洗礼の時に起きた出来事は示しています。イエス様がこの洗礼から歩み出す営みは、まさにこの罪という幕を裂き、神の国を来たらす業であることが示されたのです。

3.わたしの愛する子
父なる神が、「あなたはわたしの愛する子」と言われたのは、イエス様の十字架への道を良しとされたことを表しています。もちろんこの言葉は、イエス様に向けて告げられた言葉です。しかし、洗礼を受け、聖霊によって神に「父よ」と呼ぶことを許された私たちに対して、神が「あなたはわたしの愛する子」と呼んでくださっているのです。
無きに等しい私たちが、洗礼によってイエス様と一つにされ、神の子とされ、救われたのです。この恵みに感謝しつつ、神をほめたたえましょう。

主の道を整える者(2017.5.7)

宣教題  「主の道を整える者」         宣教 今田好一牧師
聖 書  マルコ1章2~8節

神によって遣わされた「主の道を整える者」の姿がここに現されています。

1.旧約の預言の成就として
神の救いの御業がなされる時、その前に主の使い、使者が送られてくる、そう旧約に預言されており、その預言の成就として、洗礼者ヨハネが現れたのだとマルコは告げています。そして洗礼者ヨハネの姿は、預言者エリヤの再来という位置づけの中で、エリヤの姿(列王記下1:8)と同じ格好でここに登場しています。

2.悔い改めの洗礼
洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え、その印としての洗礼を施したのです。悔い改めとは、方向を変えるという意味で、神から離れ、的外れの生き方をしていた人間が、神の方に顔を向けて方向を変えて生きるようになることです。私たちが本当に悔い改めた時、神の愛を知り、その愛に生かされて、隣人を愛する者に変えられるのです。

3.主の道を整える者として
ヨハネの洗礼は水の洗礼です。それは彼自身が悔い改めの教えを宣べ伝え人々を神に方向転換させる役目であることを自覚し、それが完成ではなく、彼はあくまでもその方の道を整える者であることをわきまえていたのです。
聖霊で洗礼をお授けになるお方、真の救い主が来られた時に神の救いの御業は完成されたのです。ヨハネのように、私たちも主をほめたたえる姿を示し、私たちの教会も主の道を整える者の群れとして用いさせて戴きましょう。

主はシオンに来られる(2017.2.12)

宣教題  「主はシオンに来られる」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  イザヤ59章15b~21節 マルコ1章14~15節
神はこの世界を見られたら、どのように判断されるのだろうか。
主は捕囚から帰還した民の姿を見、そこで正しいさばきが行われていないのを見た(15節)。流血、虚偽、不正が満ち、平和などない。社会の問題の原因は、神の民自身にある(1~8節)。民も、自分たちが暗やみの中を歩んでおり、正義も、救いも、まこともない世界を作りあげてしまったことを自覚している(9~15節)。そんな神の民が神のわざをなすことなど、不可能である。

1. 正しいさばきのために介入される主
世界の現実を見られた神は、それを放置なさることはされない。主は、戦いに長けた勇士として、その世界に介入されて、そこに正しいさばきをもたらす。正義も救いもないところに、それをもたらす勇士として介入され、それぞれにそれぞれのわざにふさわしい報いをもたらすのである(16~18節)。世界を破壊するためではなく、修復するためにそれを行われる。そして、主の霊の働きのゆえに、世界中の者たちは、主の介入を認めるに至る(19節)。

2. 主はシオンに来られる
そして、主はシオンに来られる。問題だらけのシオンに、エジプトからイスラエルを救い出した「贖う者」(20節)として来られる。背く者には、それにふさわしい報復が与えられる。しかし、かたくなな心を解き、罪を悔いる者、つまり、主に立ち帰る者には、救いと再生を与えられる(20節)。シオンは造り変えられ、契約は更新され、神のなさる正しいさばきという介入を証しする者として世界へ遣わされる。神の聖霊とみことばが共に働いて、世界は彼らを通して修復されていくのである。
この世界を見られた主は、イエスを通してこの世界に介入され、世界を修復し、修復のわざを行う民を生み出された。イエスはイスラエルに来られ、シオンに来られ、私たちのところに来られた。罪を悔い、主に立ち帰るところから私たちのこの世界における働きは始まる。

支配から解き放たれる(2017.1.22)

宣教題  「支配から解き放たれる」       宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  マルコ10章35~45節
1.だれかを支配し、なにかに支配されている人間
私たちはさまざまなものの影響を受け、それに支配されている。それは、イエスの弟子たちも同じであった。政治を司る多くの人たちは、他の人を支配する立場に立とうと懸命な努力をしてきた。イエスの弟子であったヤコブとヨハネも、イエスが王となった時に他の人たちを支配したいと願い、それを実現しようと一生懸命であった。他の弟子たちは、彼らの抜け駆けに腹を立てたが、それは彼らと同じことを願っていたからだ。皮肉なことであるが、イエスの弟子たちはみな、「だれかを支配する者になりたいという願いに支配されていた」。そして、当時の多くの政治家たちがそうであったように、そのような彼らに待っているのは、権力闘争という、地獄のような歩みであった。
このようにして、だれかを支配している人、そしてだれかを支配したいという欲求に支配されている人は、最終的には罪という借金に支配され、やがて自分から壊れて行くのだ。他人事ではない。

2.人を自由にする、自由なイエス
イエスは全く自由な方であった。だから、「仕えられるためではなく仕えるため」(45節)に来られ、仕えることによって、だれかに従属することを選ぶことができた。自由だからこそ、自ら進んで、十字架にかけられたのだ。すべての人間の罪という借金を帳消しにするため(「贖いの代価」)にそのことを選ばれた。その結果、私たちの罪の借金はイエスの十字架によって帳消しにされたのだ。
借金の棒引き宣言、つまり罪からの解放宣言がイエスから出されている。これを受け入れるならば、私たちはだれかを支配しようとする罪からも、だれかに支配されている奴隷状態からも自由となる。罪がゆるされるのだ。そのために必要なのは、このことばを語られたイエスを信頼すれことだけ。この信仰によって「すべてのものの上に立つ自由な主人」となることができる。だからこそ、「すべてのものに仕えることのできる僕」となって、自由に生きることができる。地上で天国を味わう人生へと変わるのである。