メニュー 閉じる

マルコ

癒された人々(2020.1.19)

宣教題 「癒された人々」         宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章29~39節

 イエスと弟子の一行は、カファルナウムに着くと安息日に会堂で教え、汚れた霊を追い出した。その目的は、宣教である。(38節)

1. シモンのしゅうとめの癒し(29節~31節)
 一行は会堂で教え終わると、すぐ近くのシモン(後にペトロ)とアンデレの家に行った。そこでは、シモンのしゅうとめが熱を出して寝込んでいた。イエスをもてなすという、神の子との喜ばしい関係を、この熱は阻害していた。しゅうとめはイエスに癒されると、よろこんで一同をもてなし、神との喜ばしい関係を回復した。

2.町中の人々の癒し(32節~34節)
 日が暮れて安息日が終わると、町中の病人や悪霊に取りつかれた人々がイエスのもとに連れて来られた。人々は癒され、悪霊は追い出された。人々の目を神からそらすものは、快楽による誘惑ばかりではない。目の前の病、無知、困難は、神への信頼から遠ざけ、罪に陥れようとする。イエスは人々からそれらを取り除き、神との関係を修復しようとされた。悪霊にいうことを許されなかったのは、悪霊はイエスのことを、人々と神との関係を修復するようには伝えないからである。

3.宣教の拡大(35節~39節)
 イエスはカファルナウムから出掛けて行き、宣教する範囲を拡大された。宣教の目的は、罪を取り除き、神との喜ばしい関係を修復し、神への信頼を確立することである。イエスは祈りをもって神との関係を確立されてから出掛けられた(35節)。私たちも、祈りをもって神の前に出て、「悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)というイエスの教えに従い、神との喜ばしい関係を回復させていただこう。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(15MB)

権威ある方の教え(2019.11.17)

宣教題 「権威ある方の教え」       宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章21~28節

イエスは、ガリラヤ湖の田舎で四人の漁師を弟子にし、都市であるカファルナウムに着いて、安息日に会堂で教え始められた。

1.権威ある者として教える
イエスと比較されている律法学者の教えは、揚げ足を取ること、否定・批判が中心で、自分ができない事を人にする様に求め、持っている知識を私欲のために利用する姿が、福音書には多く書かれている。彼らの理屈やその手法は、当時世界を支配していたローマ帝国も手を焼くものであった。
イエスは律法学者とは違った。その教えには、尊厳があり、威信があった。

2.実行する力
イエスには、尊厳があっただけではない。実際に権限があり、能力があった。そのことを、悪霊を追い出す事で現わした。その力には、神にたてつく、汚れた霊も逆らう事はできなかった。
神は天地を創造するとき、被造物に命じて行った。世界は神の権威によってでき、今もその権威によって支えられている。イエスには、その権威があった。

3.新しい教え
イエスの権威ある新しい教えは、信じた私達にも言われている。「あなたの神である主を愛しなさい。」(12:30)「隣人を自分のように愛しなさい」(12:31)「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16:15) イエスの教えは、聞くものの人生を豊かにする。そして、行うことが困難なようであっても、行えるようにする力がある。神に逆らう世に遣わされている私達を、イエスはその権威と力で、世に勝利させてくださる。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(11MB)

ついて来なさい(2019.10.13)

宣教題 「ついて来なさい」      宣 教  石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章16~20節

イエスは福音を宣べ伝えている地で、漁師たちに声を掛けられた。

1.主は御覧になっている 16,19節
 神である主は、弟子にする前、信仰を持つ前の漁師たちを御覧になっていた。神は全ての人を御覧になっている。そこから漏れる人は一人もいない。

2.主は招いておられる  17,20a節
 主は宣教されている地で、人を招かれた。ガリラヤからはじまった宣教は、日本の私達のところにまで来た。今や私達のいる所も宣教の地となっている。主は宣教の地で人を呼ばれ、「わたしについて来なさい。」と言って招いておられる。それに従う者には、「人間をとる漁師にしよう」と約束されている。

3.主の後について行った 18,20b節
 呼ばれた四人の漁師は、仕事を残してイエスに従った。私達もまた、主に、ついて来なさいと呼ばれている。あなたはそれを聞いて、どうされるだろうか。
 主は従うものを、人間をとる漁師にされる。人間をとる漁師となり、主の弟子となるのに必要なことは、主に従う事だけである。従う人を、主は責任をもって弟子とされる。私達は主と出会ったとき、漁がうまく行くように、天候が守られ、たくさん収穫があるようにして下さいと願う。しかしそれは、主に従うのではなく、主を従わせる事になっている。主に従うとは、私の目的を主に達成させることではなく、主の目的を私が達成することに他ならない。

 主に従った4人の漁師は、段階を経て成長し、使徒となり、イエスの目的である宣教を受け継ぎ、私達のところまで福音を届けた。今主は、あなたにどのように従うように、呼びかけられているでしょうか。

聖書朗読(0.3MG)

メッセージ(10MB)

神の国は近づいた(2019.7.28)

宣教題 「神の国は近づいた」       宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 マルコ1章1~15節

 マルコによる福音書は、主にペテロから聞いた事を書き記しています。その中心は、神の子イエス・キリストの福音です(1節)。そのため、イエスの生い立ちに関する記載は一切なく、福音が伝えられ始めるところからはじまります。

1.イザヤの預言
 福音は、救い主であるイエス・キリストより先に、洗礼者ヨハネが活動を開始したときから始まります。しかし、それより700年も前に、旧約聖書に預言として書かれています。神は福音の備えを、私達が命を与えられるはるか前から計画されていました。神ははるか昔から、私達を愛し、福音を計画されました。

2.ヨハネの預言
 ヨハネは罪の赦しを得させるため、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(4節)。福音は、神からの赦しをもたらします。私達は神に罪を悔い改めるとき、赦されます。そのためには、自らが罪人である事が判り、認める必要があります。
 ヨハネは、水で洗礼を授けましたが、聖霊で洗礼を授ける方が来ることを預言しました。

3.イエスの預言
 イエスが現れて、ヨハネから洗礼を受けたとき、聖霊が天から降って来ました。聖霊は神ご自身であり、天から降って来られます。地上にあるものではなく、神からしか与えられません。聖霊は神の力を与えます。イエスは荒れ野で誘惑を受けますが、聖霊の導きによって勝利し、神の福音を伝え始めました(14節)。神が王である王国が近づいたとイエスは預言します。王国の民は王に守られ、豊かになります。神の国に入るには、罪の赦しとともに、悔い改めて与えられます。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(11.9MB)

信仰による救い(2019.3.10)

宣教題 「信仰による救い」         宣 教  今田好一牧師
聖 書 マルコ5章24b~34節

わたしたちは、この出来事から、イエス様とはどういうお方なのか、そのことをきちんと受け止め、わたしたちがどう歩むべきかを見て行きたいと思います。

1.不幸な歩みの中にいた彼女の信仰
肉体的、心理的、社会的な苦痛の中にいた女性が、イエス様の話を聞いて、藁をも掴む思いでイエス様のもとに来ました。しかし彼女は、『癒してください』と正面から言うことができなかったが、イエス様の服に触れさえすれば、いやされると信じていたのです。

2.わたしの前に出て来なさい
イエス様の服に触れ癒された女性は人知れず帰ろうとしますが、それでは本当に救われたことにはならないのです。イエス様は、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われて彼女を前に出させ、自らの口ですべてを語らせたのです。恐れをもって神に出会い、自らの口で告白することこそ、人が新しくされるただ一つの道なのです。

3.あるかないかの信仰をも
イエス様は彼女の中にある信仰を見て「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」(34節)と言われました。彼女にどれ程の信仰があったのかは分かりません。しかし、その人に信仰があるかないかを決めるのはイエス様であり、神様です。イエス様は、わたしたちのあるかないかのような頼りない信仰をも、きちんと受け取ってくださるのです。だからこそ、わたしたちは救われたのです。

イエス様は、この女性に言われたように、わたしたちにも、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言ってくださっておられるのです。このお方を信じて、このお方と共に歩ませていただきましょう。

聖書朗読(0.9MB)

メッセージ(23.4MB)

ただ信じなさい(2019.2.10)

宣教題 「ただ信じなさい」          宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ5章21~24節、35~43節

イエス様の救いに与るためには、わたしたちには何が必要なのでしょうか。

1.イエス様の歩みは止まらない
イエス様が、12年間出血の止まらない女を癒された時、ヤイロの娘が亡くなったという知らせが来ます。しかしイエス様は、それを聞き流し、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われました。つまり「恐れることをやめ、ただ信じ続けなさい。」と、何故なら、「死」をもイエス様の歩を止めることはできないからです。

2.少女よ、さあ、起きなさい
イエス様は泣き叫ぶ人々に、「・・・子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われました。すると人々はイエス様をあざ笑います。しかしイエス様は子供の部屋に入り、手を取って「タリタ、クム」と言われました。この言葉で少女が立ち上がらせていただいたように、イエス様は今日もわたしたちに、「タリタ、クム」『さあ、起きなさい。さあ、立ち上がりなさい。』と言われているのです。

3.イエス様の復活の先取り
イエス様は、少女を生き返らせることによって、自らが「死」をも打ち破ることのできる者であることを示されました。このことは、イエス様の復活の先取りでもあり、イエス様を信じる信仰によって、永遠の命が与えられたわたしたちは、死を迎えたとき、天の御国に移され、主イエス・キリストと共に生きる者とされるのです。
わたしたちは、聖餐に与ることによって主イエス・キリストの肉と血に与り、まさに一つとされるのです。ここに希望があります。今朝イエス様は、わたしたちの手を取って言われます「タリタ、クム」と。このお方をただ信じて歩みましょう。

聖書朗読(8.6MB)

メッセージ(0.9MB)

主イエスの証人として(2019.1.27)

宣教題 「主イエスの証人として」       宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ5章1~20節
わたしたちは、汚れた霊の働いている世界の中で生きているのですから、その働きを良くわきまえなければならないのです。

1.汚れた霊の働き
汚れた霊は命ではなく、死に親和性をもっています。ですから、わたしたちの内にある罪に働きかけ、自分の思い、欲望を絶対化させ、それに反する者を許さず、命を奪うことさえ正義であると言わせるのです。

2.一人の人を救うために
イエス様が、嵐の湖を越えて異邦人の地に来られたのは、家族や社会から棄てられ、墓場で苦しむ一人の人を救うためでした。汚れた霊は、二千匹の豚の中に入り、湖になだれ込んで溺れ死にます。しかし、それを見た人々は、その出来事を喜ぶことはせず、イエス様を恐れて、ここから出て行くように願ったのです。

3.主イエスの証人として
「・・・人が服を着」(15節)とは、人間として、社会生活が出来るようになったことを示しています。そして、「正気になって座っている」(15節)と、イエス様の足もとに座るということは、わたしたちの姿を示しています。何故なら、わたしたちも、様々な汚れた霊、偶像の中で生きて来て、イエス様と出会い、救いに与かった者だからです。

イエス様は、「身内の人に・・・ことごとく知らせなさい」(19節)と言われました。この御言葉をわたしたちもしっかりと受け止め、自分になされた主イエスの救いの御業を伝える、主イエスの証人とならせていただきましょう。

聖書朗読(1.4MB)

メッセージ(9.4MB)

向こう岸へ渡ろう(2019.1.13)

宣教題 「向こう岸へ渡ろう」        宣教 今田好一牧師
聖 書 マルコ4章35~41節

わたしたちはイエス様が共におられることを信じて信仰の歩みをします。それがキリスト者です。

1.危機を前にしてのつぶやき
 イエス様に言われて弟子たちは舟を出します。しかし、嵐が起きて舟が沈みそうになり、弟子たちは恐れますが、イエス様は寝ておられた。すると弟子たちはイエス様に非難めいた口調でつぶやき出したのです。同様にわたしたちも困難な状況に陥ると、主が共にいてくださることをいとも簡単に忘れてしまうのです。

2.沈むことのない舟
 この時イエス様は、嵐の中でも平安であられたので眠っておられました。しかし、弟子たちは恐れと不安に支配されていました。イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのです。それは、主が共におられるなら決して舟が沈むことはないということと、嵐を静めて、ご自身が神の子であることを示されるためでした。

3.向こう岸に向かって舟が出る
 弟子たちは舟を出さなければ嵐に遭うこともなかったのです。しかし、そうしていたら嵐を静められるイエス様を見ることはできなかった訳です。そして、そのことによって、益々イエス・キリストというお方を知ることになるのです。

 「向こう岸に渡ろう」とのイエス様の促しに従い、一歩踏み出すのが教会であり、キリスト者です。イエス様はいつもわたしたちと共におられます。だから大丈夫。イエス様はわたしたちと共に向こう岸へと渡ってくださるお方なのです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(8.9MB)

豊かな収穫を待ち望む(2018.11.11)

宣教題  「豊かな収穫を待ち望む」        宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ4章26~34節

神の国がどのように発展するのかを、弟子たちに、そしてわたしたちに教えるために、イエス様はこの二つのたとえ話を語られたのです。

1.神の恵みと導きの中で
 蒔かれた種が成長するのは、蒔いた人の力ではなく、神の力によって芽を出し成長して実を結びます。神の国もそれと同じように、わたしたちは神の御言葉を宣べ伝えます。それは、神の国の種を蒔くようなものです。しかし、わたしたちが蒔いた神の国の種は、神の恵みと導きの中で成長するのです。

2.神の国は前進し続ける
からし種は、ごく小さな種ですが、その葉の陰に鳥が宿るほどに成長します。神の国は、このからし種のようなものであり、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所となります。言い換えれば、イエス様ご自身を指していると言えます。
わたしたちがイエス様と結び合わされて、イエス様をわたしたちの拠り所として、共に生きることによって、神の国の前進を体験していくのです。

3.豊かな収穫を持ち望む
「聞く力」(33節)とは、イエス様に聞き従おうという姿勢で御言葉を聞く耳のことです。自分の小さな秤が御言葉によって打ち砕かれ、変えられて行くことを受け入れ、御言葉の恵みを大きな秤で汲み取ることができるのです。
わたしたちの日々の生活、人生が、神の国の成長の中に置かれているのです。神の国の豊かな収穫を待ち望みつつ共に歩まさせていただきましょう。

聖書朗読(0.4MB)

礼拝メッセージ(9.5MB)

聞く耳のある者は聞きなさい(2018.10.14)

宣教題  「聞く耳のある者は聞きなさい」     宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ4章21~25節

 イエス様の語られた二つの譬え話にはどのような意味があり、「聞く耳のある者は聞きなさい」とは、一体どういうことなのでしょうか。

1.ともし火とは何か
「ともし火」とは、イエス様の語られた御言葉であり、わたしたちに与えられた神への信仰と愛です。イエス様はここで『わたしが与えたともし火は、圧倒的な力と輝きをもって、あなたがたと全世界を照らし続ける。』と、イエス様が来られることによって今まで隠されていた神の国の奥義が明らかにされました。事実イエス様は、力ある業によって神の国を現わされたのです。

2.自分の秤が変えられる
 わたしたちには自分の経験や世の常識等によって作られた秤があります。しかし、この秤がイエス様の求めておられる秤に変わると語られた譬えの意味が分かるようになるのです。この秤が変えられるためには、『わたしは罪人だ』と知ることです。それによってイエス様の十字架の死が、わたしの罪のためであったと分かるようになります。その時に、自分の秤が変えられるのです。

3.聞く耳のある者は聞きなさい
 語る者が伝えようとしていることと、聞く者が聞こうとしていることがずれていたら話は通じません。イエス様はそのことを指して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。わたしたちがイエス・キリストの福音を、本気で聞こうとしないならば、自分の耳が変わらなければ、決して分からないのです。
主の救いの御業に仕え、聞く耳のある者とならさせていただきましょう。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8.7MB)

すべての人が良い地に(2018.9.30)

宣教題  「すべての人が良い地に」      宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ4章1~20節

主イエスの語られた種蒔きのたとえは何を意味しているのか、その目的とは、そして、どのような約束があるのかを御言葉を通して見ていきましょう。

1.たとえ話の意味
 このたとえ話は、種にたとえられた御言葉とそれを聞いた、それぞれ四つの土地にたとえられた人たちを通して、そこに隠されているものについて目が開かれるように、イエス様が教え始められています。そして、それを知るためには、語られた御言葉がわたしたちの中に留まり続ける必要があるのです。

2.たとえ話の目的
 このたとえ話の中には、道端、石だらけで土の少ない所、茨の中、良い土地とありますが、わたしたちは元々道端でした。しかし、すべての人が良い土地になれるのです。何故なら、種を蒔いている農夫がイエス様だから、蒔いた種が芽を出し、成長して多くの実をつける良い土地にしてくださるからです。だから、私は、道端だ、茨の中だ、良い土地にはなれないと諦めてはいけないのです。

3.たとえ話の約束
 良い土地に蒔かれた種が、30倍、60倍、100倍の実を結ぶとはどういうことでしょうか。(1)わたしたちが聖霊による喜びをもって、御言葉を受け入れる者とされる。(2)イエス様が御言葉と共にわたしたちの内に宿られ完全な救いの実を結んでくださる。(3)わたしたちが周囲の人々に御言葉を与えていく者へと変えられる。
すべての人が良い土地とされますように御言葉の種を蒔き続けましょう。そして、主イエスの約束された豊かな実りが与えられることを信じて歩みましょう。

聖書朗読(1.2MB)

礼拝メッセージ(8.2MB)

新しい家族への道(2018.9.16)

宣教題  「新しい家族への道」       宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章31~35節
家族は、神がわたしたちに与えてくださった目に見える恵みの一つです。

1.神の恵みの家族
 家族を考える時、親子と夫婦があります。親子は血縁の関係であり、『家族である』という関係です。しかし、夫婦は神の御前における契約の関係であり、『家族になる』という関係です。聖書は『家族である』ことより、『家族になる』ことを重要なこととして、契約が血縁に優先することを示しています。

2.神との契約の家族
 イエス様の身内が人々の評判を聞き、彼を取り押さえに来たのは、ただイエスの身の安全を心配する肉親の愛からであり、そこに『イエスは家族である』という血縁の関係があるのです。しかしイエス様は、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(35節)と言われました。ここでイエス様は『家族になる』という契約の関係が重要であることを言っておられるのです。

3.新しい家族への道
 イエス様の言われた言葉は、わたしたちがどこに自分の身を置いて聞いているのかということです。イエス様の家族は外にいました。しかしイエス様が御許に集まっている人々に言われた「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」(34節)との言葉には、家族関係、血縁関係よりも、霊的関係の方が親密であることが言い表されているのです。
 新しい家族を結び合わせるのは、血縁を越えた霊的な関係であり、主との永遠的な関係なのです。ここに新しい家族への道があります。

礼拝メッセージ(8.9MB)

聖霊の導きの中で(2018.8.19)

宣教題  「聖霊の導きの中で」        宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章20~30節  1コリント12章3節

イエス様は、食事ができなくても救いの御業をされました。これがイエス様の愛の姿であり、この愛の究極に主イエスの十字架があるのです。

1.聖霊なる神の導きの中で  20~23節前半
聖霊なる神の促しは、神に仕え、献身の思いを明確にしますが、自分の考えだけで事を起せば、イエス様の御業に反対する二グループのように結果や人の評価ばかりが気になります。わたしたちはその違いをよくわきまえ、わたしたちも聖霊なる神の導きの中で、熱心な福音のための奉仕をさせていただきましょう。

2.愛に生きる方の力ある言葉  23節後半~27節
主イエスは、ご自身において働かれる聖霊の御業を非難した律法学者たちに、二つの譬えをもって反論されました。ここに全く愛のない律法的な理屈と愛に満ち溢れた力ある言葉の違いを見ることができます。私たちは、この愛に生きる方の力ある言葉をしっかりと握って歩んで行くことが求められているのです。

3.聖霊を冒涜することの罪  28~30節
 主イエスの十字架の贖いを信じる信仰により、すべての罪は赦されます。その信仰を聖霊なる神が与えてくださるのです。しかし律法学者たちは、イエスの力ある御業の原動力を悪霊のせいにし、聖霊を冒涜します。ですから「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(29節)と言われたのです。
 わたしたちは聖霊の導きの中で信仰が与えられ、罪赦され救われました。それは、神に愛を注がれた者として神と人に仕えるためです。聖霊こそが、私たちを神に向かわせる働きをしておられる方なのです。

聖書朗読(1MB)

礼拝メッセージ(6.9MB)

恐れないでただ信じなさい(2018.7.29)

宣教題  「恐れないでただ信じなさい」      宣 教  正木牧人師
聖 書  マルコ5章21~43節

「恐れることはない。ただ信じなさい。」とイエス・キリストはこの会堂長に言われました。「ただ信じなさい」とはどんなことでしょうか。
会堂長ヤイロは多くの人々の集う礼拝センターのお世話をする仕事で、人々の尊敬と信頼を得ていた方でした。 12歳の娘が死にそうになっていて、イエス様のもとに来て、「来て、娘に手を置いてください!」と助けを求めたのでした。
人生には私たちの手に負えない苦難や悩みがあります。ヤイロはイエス様のもとに来ました。詩編50:15で神様は「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」と私たちに語ります。苦しい時こそ信じて神様に祈るときです。
その願いを聞き入れて押し迫る群衆と共にヤイロの家へと向かったイエス様が突然立ち止まり、「わたしの服に触れたのは誰か」と見まわし、遂にある女性が進み出て「私です」と言いひれ伏しました。12年間の病苦から解放されたいと、すがる思いで後ろからイエス様の衣に触れ、病が癒されたというのです。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った、元気に暮らしなさい」と言われました。安心を与える権威あるイエス様の言葉です。
そこに、ヤイロの娘は死にました、と通報が入ります。絶望です、恐怖です。そのときイエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。
何を信じるのでしょうか。イエス様を信じるのです。諦めず、希望を失わず、「イエス様は私を助けてくださる」と信じるのです。イエス様は少数の人を連れて娘の前に立ち「起きなさい!」と言われると娘はよみがえりました。人にはできないことをイエス様はなされます。あなたはイエス様を信じますか?

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(17MB)

主に選ばれた者(2018.7.15)

宣教題  「主に選ばれた者」          宣 教  今田好一牧師
聖 書  マルコ3章13~19節

 主イエスが12使徒を選ばれた時の出来事の中に、キリスト者とはどのような者なのか、教会とはどういうものなのかが表されています。

1.救いの確かさの根拠
 主イエスは、祈るために山に登られ、その中で12使徒を選ばれました。彼らの以前の職業や経歴は様々であり、単なる寄せ集め集団のように思えます。しかしこれが神の選びです。このことは、わたしたちが選ばれたのも同じであり、その選びの理由はわたしたちの側にはありません。神が選ばれたのだから、神の選びには間違いが無いのです。これが、私たちの救いの確かさの根拠なのです。

2.新しく造り変えられた者
 主イエスが多くの弟子たちの中から12使徒を選ばれたのには、旧約以来の神の救いの計画であり、ヤコブの息子から12部族が生まれたように12人を選ぶことによって、新しい神の民、新しいイスラエルを造ろうとされたのです。主イエスから新しい使命と目的を与えられた者として造り変えられたのです。

3.主イエスの選びの目的
 主イエスが12使徒を選ばれた目的は、全てのキリスト者が選ばれた目的を示しています。それは、主イエスの救いの御業に仕え、その御業を受け継ぎ、継続するためです。つまり、神の国の福音を伝え、神の国の到来を告げることです。そのことを教えるために主イエスは、12人の使徒を側に置かれたのです。
 わたしたちのすべてをご存じである主イエスと共に歩み、このお方ご自身を宣べ伝えましょう。わたしたちも主に選ばれた者なのだから。

聖書朗読(0.4MB)

礼拝メッセージ(9.5MB)