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マルコ

子どものように神の国を受け入れる(2024.4.28)

聖 書

よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。 (マルコ 10章15節)

礼拝音源(13.4Mb)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 マタイによる福音書7章7節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
賛  美 205 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編96編
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコによる福音書10章13~16節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 仁科共子牧師
宣  教 「子どものように神の国を受け入れる」 仁科共子牧師
祈  祷
賛  美 69 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 仁科共子牧師
後  奏

宣教要旨

1.イエス様に子どもたちへの祝福を願う
イエス様のところに、たくさんの人が来ていました。その中に子どもを連れて来た人たちがいました。イエス様に子どもを祝福していただこうと願っていたようです。イエス様の弟子たちは、この人たちを見て、彼らを叱りました。それは、イエス様のためにと考えたのかもしれませんが、子どものことも、子どもを祝福していただきたいという親たちの願いも思いやることをしない態度でした。

2.神の国は子どものような人たちのもの
イエス様は、その弟子たちに憤られました。そして、神の国は子どものような人たちのものだと教えます。子どもは、親によって守られ養われなければ生きていくことができません。神の国は神様に守られなければ生きていくことのできない人たちのものだと教えられました。

3. 子どものように神の国を受け入れる
子どもは親に信頼して、親から必要な養育を受けて生活します。子どもが親に信頼するように、イエス様を信じて神の国を受け入れる人が、神の国に入ることができます。イエス様は、イエス様のところに連れてこられた子どもたちを抱き寄せ、祝福されました。
同じように、イエス様は、子どものように信頼してイエス様のところに行く私たちを抱き寄せ、祝福してくださいます。

逆風が来ても安心(2023.7.23)

聖 書

イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。弟子たちは心の中で非常に驚いた。(マルコ 6章51節)

礼拝音源(31.4MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 詩編55編23節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編46編
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ 6章45〜52節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 仁科共子牧師
宣  教 「逆風が来ても安心」 仁科共子牧師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 仁科共子牧師
後  奏

宣教要旨

I 働くことと休むこと
イエス様が弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ行かせたのは彼らを休ませるためでした。それは、群衆がイエス様を探してやってきたので、休むことを後回しにして彼らのために働いたからです。イエス様も弟子たちも休むことが必要でした。

II 逆風に悩まされている弟子たちを助けに行かれる
イエス様より先に向こう岸へ渡ろうとしていた弟子たちは、湖の真ん中で漕ぎ悩んでいました。逆風が強くて進むことが難しかったのです。イエス様はそれを見て、湖の上を歩いて近づいて行かれました。弟子たちは、イエス様が水の上を歩いて来るなどということは考えてもいなかったので、イエス様だとわかりませんでした。それで、恐れたのです。イエス様にそんなことができるとは思っていなかったのです。でも、それはイエス様でした。助けは思いがけないところから来ました。
III 舟に迎え入れる
イエス様は恐れている弟子たちに「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と声をかけられました。それで、弟子たちはイエス様を舟に迎え入れました。その時、逆風は静まりました。神であるイエス様の力が現されたのです。
私たちも、自分の中にイエス様を迎え入れましょう。そして、イエス様によって逆風の中にも安心できる生活を与えていただきましょう。

あなたの罪はゆるされた(2023.6.18)

聖 書

イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(マルコ2:5)

礼拝音源(29.8MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 イザヤ書30章18節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編39編
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコによる福音書 2章1~11節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 鎌野直人副牧師
宣  教 「あなたの罪はゆるされた」 鎌野直人副牧師
祈  祷
賛  美 442 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 鎌野直人副牧師
後  奏

宣教要旨

1. 人々の期待
イエスがカフェルナウムの家にいるという知らせが広がった。いやしや悪霊追い出しを期待して、人々はイエスのところに集まった。体の麻痺した男もイエスのところに連れて来られた。人々は屋根を剥ぎ、穴を開け、その人を釣り下ろして、この男をイエスの前に連れ出した。「神の国」の到来を語り、見せたイエスの姿は彼らのうちに信仰を生み出し、その信仰のゆえに彼らはこのような行動をした。

2. 罪のゆるしから生み出された論争
いやしを期待している男にイエスは「子よ、あなたの罪は赦された」(2:5)と言った。いやしを望んでいた人々の期待は裏切られたように思った。律法学者たちは、イエスが律法を破ったと考えた。罪の赦しは神殿で祭司によって与えられるものであったからだ。しかし、イエスはこれらを省略して罪の赦しを宣言した。

3. 罪を赦す権威
イエスが罪の赦しを宣言されたのは、からだのいやしが罪の赦しの現れであるからだ。それには全人格的な広がりがある。ちょっとした悪いことの積み重ねが、本人も親しい人も苦しめていくからだ。地上で罪を赦す権威を持つイエスは罪を赦し、人をその苦しみから解放する。実に力あるわざをなされたのだ。イエスがおられるところに、神の国があり、罪のゆるしが実現し、神の祝福が溢れ流れる。

聞く力に応じて(2022.9.18)

聖 書

イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。(マルコ4章33節)

礼拝音源(31.7MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ガラテヤ3章28節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編91編
会衆祈祷 一  同
聖  書 ヨハネ7章40~52節
マルコ4章33節
使徒信条 93-4  1A 一  同
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聞く力に応じて」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 57 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

私たちには、主に聞くための恵みの時が与えられています(サムエル上3章9節、イザヤ50章4節)。ここでは、主イエスの招きの御言葉に対して(ヨハネ7章37~38節)、人々に「聞く力」が備えられていたかを問いかけています(マルコ4章33節)。

1.聞き分ける力をもって 40~46節 主イエスの招きの御言葉を聞いた群衆や下役たちの間には、さまざまな反応が起こり、対立をもたらしています。それは、聞き分ける力を失っていた彼らが、どのような心で主イエスを十字架に架けたかを物語っています。 このように、人は、主イエスが語られることに対して受け入れて信じるか、それを拒むかに分かれます。私たちは、主の声と自分の声、主の声とサタンの声、主の声とこの世の声とが区別できる聞き分ける力を失わないようにしたいものです。私たち主の「羊はその声を聞き分ける」(ヨハネ10章3節)のです。

2.聞こうとする力をもって 47~52節 祭司長やファリサイ派の指導者たちは、主イエスに対する偏見と固定観念に支配されて聞こうとせず、群衆を非難し、断罪しています(47~49節)。それに対して、ニコデモは主イエスの御言葉を想起し(ヨハネ3章3~8節)、主に聞こうとしています。 私たちは、聞きすぎているために、新鮮な思いで聞こうとする意欲を、教えられようとする謙虚さを、大切なことをとらえる注意力を失わないで、「わたしにも聞かせてください」(讃美歌21 57)と自らへの語りかけを聞きたいものです。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4章9節)とは、聞こうとする耳です。

灯の照らすところ(2021.2.14)

聖書

「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。(マルコ4章21節bc)

礼拝音源(24.9MB)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ヨハネ4章23節ab 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編19編
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ4章21~32節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 403 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「灯の照らすところ」 石﨑善土伝道師
祈  祷
2月誕生者祝福 詩編37編5節 一同起立
賛  美 18 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.隠されている言葉
イエスは、「聞く耳のある者は(信仰のある者は)聞きなさい」(23)と、たとえを用いて話した。たとえには、イエスの弟子ではない人が聞いても悟らないよう、意味が隠されている言葉が使われた。『種を蒔く人』のたとえでは、蒔かれた種は御言葉であり、成長するのは信仰である事が隠されていた。今回の聖書箇所のたとえでも、隠されている言葉は同様に『御言葉』と『信仰』である。

2.たとえの意味
灯のたとえ-御言葉と信仰は、世を照らす。秤のたとえ-信仰によって聞いて「量る」(判断する)人は、さらに与えられる。これは個人の信仰の成長を表している。
成長する種のたとえ-神の国(教会)の成長は、個人の成長とよく似ている。神がそうして下さる。そして、29節には、「実が熟す」(時が来る)と「鎌を入れる」「収穫の時」(裁き)が来る事を示している(ヨエル4:13、黙示録14:15)。
からし種のたとえ-イエスの宣教からはじまった神の国は、最初は信じるものが少なかったが、多くの者が信じるようになることを教えている。32節の成長の表現は、豊かに成長することを表現する昔からの言い方(エゼキエル17:23、ダニエル4:9,18)である。

3.宣教題の意味
今日の宣教題に、隠された言葉を当てはめると、『あなたの信仰の照らすところ』となる。世界も人生も、悲観的に見えるかもしれない。しかし、信仰を通して見るとき、希望がある事が見えて来ないでしょうか。あなたの灯は、あなたの周りを照らします。

 

タネのネタあかし(2020.1.17)

聖書

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 (マルコ4章20節)

礼拝音源(25.99MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ43章18~19節b 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 イザヤ35章1~10節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ4章1~20節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 53 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「タネのネタあかし」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 481 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.ネタあかし
マルコは4章に、たとえ話を集めている。その中で最初に出て来るタネを蒔く人のたとえ話は、13節から20節で、イエスによる説明(ネタあかし)がされている。たとえ話には隠語が使われていて、その意味が分からなければ、話の内容が理解できないようになっている。ネタという言葉は、寿司ネタや話のネタなど普通に使用され意味に迷う事はないが、元はタネの隠語であり、分かる人には分かるように使われた。

2.メンバー限定の教え
イエスのもとへ、集まって来たおびただしい群衆には、幾つかのタイプがあった。奇跡のために集まった人は、表面的な理解に留まった。ファリサイ派は、イエスの働きは悪霊によるものとして、否定した。イエスの家族は、世の評判を聞いて惑わされた。使徒と弟子はイエスのそばで学び続けた。この様な人のタイプを、種が蒔かれた地として表現し、御言葉が蒔かれた人の事であることを、イエスは使徒と弟子達のメンバー限定で教えられた。隠語を使用したたとえで話すのは、10節から12節でイザヤ書6章9節を引用し、他の人は聞いても理解できない用にするためと説明されている。

3.現代では
現代の日本では、誰でもこのたとえの説明を読み、聞くことができる。理解すれば誰でも、実を結ぶ者となりたいと思うだろう。しかし、実を結ぶのは、イエスの言葉に耳を傾け深く理解しようとする者だけである。そして、どのくらい実を結ぶかは神の業である。イエスは今も、「聞く耳のある者は聞きなさい」と語り掛けている。

家族がアタオカと言われて(2020.12.27)

聖書

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3章35節)

礼拝音源(24.6MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 イザヤ60章1~2節 司 会 者
頌  栄 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 103編1~22節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章31~35節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 208 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「家族がアタオカといわれて」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 411 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.はじめに
アタオカとは、“頭がおかしい”を短縮した言葉です。意味はそのまま、考えがおかしい、気が変になっているという事です。「あの男は気が変になっている(アタオカ)」(21)と言われたのは、救い主である、イエスでした。それも群衆からではなく、ユダヤ教の中央エルサレムから派遣された、指導的立場にいる律法学者から言われました。イエスの家族はそのように言われ、心配になりイエスの所に来ました。(31)

2.集まった人々のタイプ
イエスのまわりに集まって来た人には、2つのタイプへと別れて行きます。1つは前回取り上げた律法学者のように、イエスの働きを非難する人達です。彼らは、イエスのもたらす救いを否定し、イエスを十字架へ架けることになって行きます。そして、救いの十字架を信じないため、罪赦される事はありません。(29)
もう1つはイエスの働きの表面を見るのではなく、その教えに真剣に耳を傾け、神の御心を行う人達です。彼らは、血の繋がりは無くても、イエスから兄弟、姉妹、母と呼ばれました。(35) クリスマスに、彼らはイエスを受け入れ、神の子とされました。(ヨハネ1:12)と言われたとおりです。

3.イエスの周りに座り耳を傾ける人々
イエスのそばに集まる人は、遊女や取税人など、当時の社会に受け入れられていない人が中心となって行きます。イエス様はどのような人にも、誰であっても、耳を傾ける人に私の家族だと言い、今も招いて下さっています。

普通におかしい非難(2020.11.22)

聖書

「しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3章29節)

礼拝音源(26.1MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ヨハネ12章24節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 126編1~6節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章20~30節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 17 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「普通におかしい非難」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 54 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.普通に考えておかしい非難
イエスは山で十二人の使徒を選び、弟子達と共に家に帰って来ました。すると、再び群衆が集まって来ました。その中には、エルサレムから来たファリサイ派の律法学者たちがいました。彼らはユダヤ教の指導者でしたが、イエスが悪霊を追い出しているのを見て、「ベルゼブル(悪霊の頭)の力で悪霊を追い出している」(22)と非難しました。
イエスはその非難に対し、「サタンがサタンを追い出しているなら、悪霊は内輪で争っている事になり、立ち行かなくなる。」(23,24)と、普通に考えればその非難はおかしいと、応答しました。彼らの非難には根拠がなく、以前にイエスに非難された事(3:1~6)に腹を立て、思い込みや憎しみから出たものでした。

2.聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない
イエスは聖霊により悪霊を追い出していました。また、人は聖霊により救われます。神を信頼し、自分の罪を悔い改め、イエスの十字架が自分の身代わりであったと信じる事は聖霊の働きによります。(1コリント12:3) そして救われる時、人が犯した罪や神に対して言ったどんな冒涜の言葉も、すべて赦され(28)ます。
悪霊の追い出しが聖霊の働きではないとすることは、聖霊を否定して冒涜する事です。それは、聖霊の働きによる救いを拒否することになります。その結果、「永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(29)ことになります。
律法学者たちは、自分の考えにとらわれ保身に走り、イエスが全ての人に与えようとしている永遠の救いを受取る事ができませんでした。あなたはどう応えるでしょうか。

 

使徒の選出(2020.9.27)

聖書

そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。(マルコ3章14~15節)

礼拝音源(25.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ハバクク2章20節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 66編1~20節
会衆祈祷 一  同
聖  書 詩編46編1~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 463 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「使徒の選出」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 510 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.選ばれた背景

イエスが行った奇跡のことを聞き、おびただしい群衆が集まった。しかし、その人々には、福音とイエスに対する偏った理解しかなかった。それに対し、福音の全体像を知り深く理解する者を育てるため、イエスは弟子の中から使徒とする者を選んだ。

2.選ばれた理由

選んだ理由は、『じぶんのそばくに置くため』『派遣して宣教させ』『悪霊を追い出す権能を持たせるため』(14,15)でした。使徒はイエスのそばで寝食を含めた生活を共にすることで、生ける福音であるイエスを目の当たりに見て深く知り、宣教に出て行く力と福音に対する信頼を得ました。そして、神から遣わされている印である、悪霊を追い出す権能を与えられるのにふさわしい者となって行きます。

3.選びの責任

イエスが十二人を任命したとき、彼らは未熟でした。筆頭のペトロをはじめ、使徒達は失敗を繰り返し、イエスの教えを理解できず、逃げ出すことさえします。しかし、イエスのそばで成長し、未熟ながらも使命を果たします。そして、使徒達が宣教した結果、私たちのところまで福音が伝えられました。

福音とイエスを信じる者は、すべて神から選ばれた者です。その信仰は未熟なところから始まります。イエスの復活があるまでは誰も完成することはありません。しかし、イエスのそばで歩み続ける事で、成長して派遣される者となります。選んだ方が責任を持ってして下さいます。その主のそばで、この秋も歩んで行きましょう。

 

 

 

 

バズる福音(2020年8月30日)

聖書

エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。(マルコ3章8節)

礼拝音源(47.9MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編100編1~2節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 57編1~12節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章7~12節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 461 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「バズる福音」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 433 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.噂の拡散
最近使われるようになった、「バズる」とは、噂が急激に広まる事を意味しています。特にインターネットを通じて広まること、大部分の方から好ましい事として思われている状況のときに使用されます。例えば、サバの缶詰には、コレステロール価を良くする効果がある。という噂が「バズった」とき、サバ缶が爆発的に売れたという事がありました。しかし、このような噂は、表面的な現象や理解だけが広まり、深く理解されている事はほとんどありません。まさに噂なのです。

2.福音の拡散
イエスの宣べ伝えた福音は、「バズり」ました。そのため、『おびただしい群衆』がイエスの所に集まって来ました(7,8)。しかし、群衆が集まったのは『病人をいやされた』(10)奇跡という表面的な現象を求めていたからであって、本質である『悔い改めて信じる』(1章15節)ためではありませんでした。
そこに紛れていた悪霊は、『イエスは神の子』(11)である事実を、悪用して伝えるものでしたので、言いふらさないように戒められました(12)。

3.福音に向き合う
世の中には、幸せになるための噂が溢れています。私達は不安や欲望、野心のために、それらに耳を傾けます。また、親切心と自己満足のため、「バズる」ことに手を貸します。しかし、深い平安や確信は、人の噂や自分が作り出す噂に耳を傾けるのではなく、イエスに向き合ったときに得ることができます。

 

 

捨てて得する(2020.7.19)

聖書

そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコ3章5節)

礼拝音源(28.5MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 詩編124編8節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 34編1~23節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ3章1~6節
教団信仰告白 一同起立
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 205 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「捨てて得する」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 511 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

前の章で、ファリサイ派と律法学者は、イエスと弟子に、「なぜ」「どうして」と4回質問しました。イエスはそれに答えるようにして、ご自身が何者であるか、罪を赦し、罪人を招き、花婿であり、安息日の主である事を示されました。

1.イエスの質問
3章に入って、遂にイエスの方からファイリサイ派と律法学者に、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」と、質問されました。この答えは当然、善を行うこと、命を救うことです。ところが、彼らは黙っていました。命を救う医療行為は、律法に反する、安息日に行ってはいけない労働だと思っていたからです。この事から彼らは、イエスを殺すことを決心します。イエスが、彼らの期待する救世主の言動とは異なったからです。

2.なぜ殺すことにしたのか
誰でも、様々な事で期待と実際のギャップに失望し、苛立ち、悲しみ、怒る事があります。それがかたくなな心となって譲れなくなったとき、人を傷つけ、罪を犯してしまいます。彼らはイエスにその思いを向け、イエスを拒んでしまいました。

3.かたくなな心を捨てて神の恵みを得る
ファリサイ派と律法学者の姿は、他人事ではありません。私のうちにも、神の御心に対する思い込みや勘違い、期待とのギャップによる苛立ちや失望があります。さらにかたくなにさせるプライドがあります。イエスは悲しみつつ、かたくなな心を捨て、従ってくる事を待っておられます。イエスの質問に、あなたはどう応えますか。

 

聞く力(2020.6.28)

聖書

イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。(マルコ4章33節)

礼拝音源(29.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 ハバクク2章20節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 27編1~14節
会衆祈祷 一  同
聖  書 ルカ22章63~71節 マルコ4章33節
使徒信条 93-4  1A 一同起立
賛  美 57 一同起立
牧会祈祷 川原﨑晃主管牧師
宣  教 「聞く力」 川原﨑晃主管牧師
祈  祷
賛  美 497 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

主イエスは、最高法院の代表者たちから審問を受けておられます。それを通して、主イエスが語られたことを彼らが聞こうとしているか否かを問いかけておられます。
私たちが、主イエスが語られる御言葉を聞くとはどういうことなのでしょうか。

1.主イエスは何度も語りかけられる
主イエスが、ご自分を「メシア」だと言われても、代表者たちは信じませんでした(67節)。また、ご自身が「神の子」だと言われても、代表者たちは聞く耳をもちませんでした(70節)。しかし、こうした不当な裁判であっても、主イエスは語るべきことを語られたのです。この主イエスを知ることは、私たちの慰めであり、救いです。
主イエスは、私たちがどんな場面に置かれても、今も変わらずに何度も語り続けておられます。神の御言葉が開かれることによって、神の恵みの世界を知らせてくださり、御言葉の経験を与えてくださるのです(詩編119編130節)。

2.主イエスの語りかけを聞き損じてはならない
代表者たちが主イエスを裁判にかけたのは、処刑するためでした。彼らは、自分たちの考えが正しいと思い込む固定観念によって、心の自由を失っていたからです。そのために、主イエスが語りかけられることを聞き損じてしまったのでした。
主イエスは、この代表者たちだけでなく、私たち一人ひとりに「聞く力に応じて」語っていてくださいます(マルコ4章33節)。ところが、人は、聞き分ける力、聞こうとする力を失いがちです。私たちは、聖書に親しみ、熱心かつ謙遜に主イエスの語りかけを聞く力をいただき、御言葉信仰に生きる聖徒の群れとしていただきましょう。

 

 

招かれる罪人 (2020.4.19)

聖書

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)

礼拝音源(17.6MB)
※奏楽の音が小さくなっています。申し訳ございません。

礼拝順序

前  奏
招  詞 1コリント15章54b~55節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交読詩編 6編1~11節
会衆祈祷 一  同
聖  書 マルコ2章13~17節
使徒信条 93-4 1 A 一同起立
賛  美 4 一同起立
牧会祈祷 石﨑善土伝道師
宣  教 「招かれる罪人」 石﨑善土伝道師
祈  祷
賛  美 507 一同起立
感謝献金
奏  楽 305
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 川原﨑晃主管牧師
後  奏

宣教要旨

1.罪人を招くイエス

前回までに、イエスは福音を宣べ伝え、弟子を造り、病を癒し、罪を赦す権威を持つ救い主であることを証明された。その対象は信仰を持つユダヤ人であった。

イエスの宣教は次の段階へと進み、その対象に罪人が含まれるようになった。それが徴税人や罪人である。徴税人は、イスラエルを属国としていたローマのために税を集めていた。そして、余分に集めた分を自分の収入としていた。敵国の手先となり、不当に私腹を肥やしていたため、ユダヤ人の間では罪人と同様に見なされていた。

ユダヤ人は罪人や異邦人と同じ食卓に着く事はなかった。共に食事をすることは仲間であることを表すからだ。律法学者は、イエスが彼らと一緒に食事しているのを見て、神から遣わされた救い主だと言っているイエスが、なぜ罪人の仲間になっているのかと非難し、仲間に加わる事はなかった。律法学者は、律法と照らし合わせて正しいか正しくないかを判断していた。ファリサイ派とはユダヤ教の中の一派で、特に律法違反を厳しく取り締まり、罪から分離して決別しようとしていた。そのような背景で出て来たのが、彼らの質問とも避難とも言えるものであった。

律法学者は罪人に注目し、イエスが罪人の仲間(=罪人)になっていると言ったが、イエスには罪を赦す権威があったので、それは当てはまらない。むしろ、罪人たちは神の子と共に食卓に着き、神の子の仲間になっている。イエスは罪人を招いて罪を赦し、神の子とするために来られた。

2.身代わりとなったイエス

イエスは、同席していた大勢の人が、罪を犯していないとは言っていない。彼らが罪を犯した事実は消えないし、罪のための裁きも無くなる事はない。しかし、イエス身代わりとなり、十字架で裁きを受けることで、罪を犯した本人は裁きからまぬかれる。イエスの罪の赦しの権威は、それが前提となっている。

3.招かれる人

聖書は、すべての人は罪を犯した(ローマ3:23)と言っている。誰一人として、律法学者のように、人の罪を探して裁いている場合ではない。罪人を招くイエスは、今もすべての人を招いている。そこには、私もあなたも含まれている。

律法学者の罪は、徴税人や罪人に比べれば小さいものであったのかもしれない。しかし、その為に自らの罪に気付く事なく、イエスのしている事を理解できず、救い主の仲間になることを拒んでしまった。その様になる事は避けたい。

この地上で生きている限り、困難な事は必ず起こる。そのとき、不平や不満、憎しみや裁く思いが沸いて来ることを避けられる人はいない。その結果、してはいけない事を、してしまう事もある。そのような“私”だからこそ、イエスは招いて下さる。辛い事、不満な事を神に向って言うとき、それは祈りとなる。神の食卓にありのままで着き、癒しと赦しのめぐみを受け取り、主に従って行こうではありませんか。

罪を赦される方(2020.3.15)

宣教題 「罪を赦される方」        宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ2章1~12節

イエスは再び、カファルナウムのペトロとアンデレの家に帰って来られた。イエスは救いを求める人がいるところに来て下さる。

1.イエスの元に集まる人々
 イエスのところへは、群衆、中風(麻痺)の人一行、律法学者たちが集まって来た。群衆は言い広まったイエスの評判を聞き、見に来た。中風の人一行は癒しを求めて。律法学者たちは偵察のため。それぞれの目的があった。

2.中風(麻痺)の人の罪の赦し
 当時は、体が麻痺して動かない人は、汚れた者として神の前に出ることができなかった。そうなった原因は、罪を犯したためと言われていた。(イエスは、それを否定していた[ヨハネ9:2,3])。イエスは病を癒すより、中風の人の罪を赦した。その人の本当の必要に応えられた。そこには、大きな喜びと平安があったであろう。
 罪が赦されたことは、外から見ていても分からない。律法学者たちはイエスが罪を赦す権威を持っている事が分からず、神を冒涜していると考えた。イエスは罪を赦す権威がある証明として、中風を癒した。難しい事を行うことが出来れば、より易しいことは当然行う事が出来るという証明方法であった。見ていた群衆は神を賛美した。

3.当事者になっているか
イエスは、日々私たちのところへも来てくださる。私たちは、群衆ではなく、律法学者でもなく、イエスの元に癒しを求めて来た中風の人のように、救い主イエスの前に出て、血潮による約束の赦しと、立ち上がる力を日々受け取ろう。そして、イエスの使者として喜びをもって遣わされる者とならせていただこう。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(14MB)

汚れの清め(2020.2.16)

宣教題 「汚れの清め」          宣教 石﨑善土伝道師
聖 書 マルコ1章40~45節

イエスの宣教には、奇跡(しるし)が伴った。霊を追い出し、病人をいやした。そのみわざは発展し、汚れを清め、罪を赦す(2章)ようになって行く。今日の汚れの清めと、次回の罪の赦しは、神の子ならではの奇跡である。

1.汚れ
汚れているものは、聖なる神に用いられる事ができない。
重い皮膚病は、単なる病気の一つではない。その病を患っている人は、汚れていると見なされた(レビ13章)。汚れているものに触れたものは、汚れていると見なされ、汚れは伝染する。汚れを清めるには、定められた手続きを行う。しかし、思い皮膚病による汚れは自然に治癒することを待つしかない。他の人へ感染させないように接触を禁じられ、隔離されたところに住むように命じられていた(レビ13:45-46)。

2.イエスの思い
 イエスは、感染と汚れを恐れることなく、重い皮膚病を患っている人に触れ、病をいやされた。そして同時に、汚れを清めた(41,42)。この病がいやされたことが、イエスに清める力があることのしるしである。イエスが触れると、汚れが伝わるのと逆の事が起こり、汚れたものが清められる。神の子であるイエスは決して汚れない。
 いやされた人は、定められた手続き(44)をして、誰にも話さないように言われたが、イエスの声に耳を傾けず、宣教の妨げとなった。人の心を知っておられるイエスは、そうなる事が分かっていても、憐れんでその人を清めずにはいられなかった。そして、放蕩息子の父のように、その人が戻って来るのを待っておられた。イエスは今日も、そのような私たちを憐れみ、弱いところに触れて下さる。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10MB)