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ルカ

愛の気づき(2014.5.11)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ 6章39~45節

親を、家族を大切にするということは、聖書が一貫して教えていることであり(箴言1章9節、15章20節、ヨハネ19章26~27節他)、互いに愛のきづ なで結ばれていることが大切です。そうした「愛の気づき」は、人と人とが関わるすべての領域において必要なことです。

1.愛のまなざしをもって  39~42節
とかく私たちは、主イエスの教えに対して(41~42節)、自分自身に無頓着であったり、他の人に無関心であったりします。しかし、「人を裁くな」 (37節)と語り出された主イエスは、真に人を裁くことができるのは主なる神のみであると言っておられるのです。つまり、主イエスの愛のまなざしが、自分 の目にある丸太のような罪を気づかせ、それを取り除く十字架の救いの道を開いてくださったことに気づかせてくださっているのです、
そして、この主イエスの愛に気づかせていただくならば、他の人の目にあるおが屑のような罪からの救いのために、私たちの愛の目を回復していただき、他の 人を生かす目を開いていただき、証しの目、伝道の目を持たせていただきたいと願うようになるのです(1テモテ1章15節参照)。

2.愛の心をもって  43~45節
ここで語られている「良い実を結ぶ」とか「良いもの」とは、人を生かし、家族を生かし、教会を生かす言葉を語ることです。他の人の目からおが屑を取り除 いてくださることを願って、意味があり、説得力があり、力がある言葉を溢れるように語ることです。そして、そのような言葉は、主イエスの愛の心が溢れてく るところから生まれてくるのです。そのためには、神の愛の現われである主イエスの十字架を信じ、受け入れることと、主イエスと愛のきずなで結ばれ続けてい ることが大切です。
私たちの家族の交わりと教会の交わりにおいて必要なことは、自らとお互いを包み込んでしまう主イエスの愛の心がいつも溢れていることです。この愛の気づきを抱き続けたいものです。

キリストは生きておられる(2014.4.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 24章13~35節

エルサレムからエマオへの道にあった「二人の弟子」は、当初は「目が遮られて」復活されたキリストが分からなかったのですが(16節)、後に「目が開け」 て復活されたキリストが分かるようになりました(31節)。信仰の目が開かれると、生きておられるキリストがどのように見えるのでしょうか。

1.共に歩んでくださるキリスト  13~27節
二人の弟子は、失意の中にあり、途方に暮れていました。というのも、信頼していたキリストを失ったことと、十字架の死のショックに打ちのめされて、キリ ストが見えなくなっていたからです。同様に、私たちは、キリストに対する信仰上のことだけでなく、私たちの日常の生活上のことなどで二人の弟子たちと同じ 経験をするときに、キリストが分からなくなることがあります。
しかし、復活されたキリストは、二人の弟子と一緒に歩き、話しかけ、聖書を説明しておられます。この時、彼らは、その「心は燃えていた」という経験をし ていました(32節)。今も変わらずに生きておられるキリストは、永久に私たちと共に歩んでくださり、御自身を示して、私たちの心が燃えるまで親しく臨ん でくださるのです。

2.共に留まってくださるキリスト  28~35節
その日の夕方、キリストはなおも先へ行こうとされたので、二人の弟子は「無理に引き止め」留まるように懇願しました。その時、キリストと彼らの間には、 賛美の祈りが伴なった聖餐と愛餐、また御言葉による語りかけを通しての親しい交わりが生み出されました。その結果、彼らの目が開かれ、共に留まってくだ さっているキリストが分かったのです。このような交わりは、復活されたキリストによって、今の私たちの間にもつくられています。
復活されたキリストは、今も生きておられます。そして、私たち一人一人にふさわしく、先立って共に歩んでくださり、留まってくださり、私たちの目を開いてくださいます。いかなる時にも、御言葉に立つ信仰をもたせていただきましょう。

憐れみに生きる(2014.3.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章27~38節

私たちは、父なる神の憐れみによって、人の痛みを自分の痛みとするという「憐れみ深い者」とされて生きていくように召されています(36節)。そのような私たちに、主イエスは、敵を愛して祝福を祈り、人を裁かないで赦しに生きるように求めておられます。

1.生きることは、愛すること  27~34節
先に、主イエスが幸いと不幸について語られたように(20~26節)、信仰を持って生きるとき、当然、信仰を持たないで生きることとは違った生き方にな ります。その際に、私たちは、信仰を持たないで生きている人たちを見返すかのような心になってしまいがちです。「しかし」主イエスは、それをお赦しになり ませんでした。主イエスは、信仰に生きることができない人々の不幸をはっきりと指摘しつつ、そうであるからこそ、人を愛し、親切にし、祝福を祈るように命 じられたのです(27~28節)。
主イエスは、日々の生活において、神のものとされた者の本来の生き方を生き抜くように問いかけておられます(29~34節)。私たちは、自分の力を過信 して、このように生きることはできません。主イエスに対する信仰に立ってこそ、愛する生き方をさせていただくのです。

2.愛することは、愛されていること  35~38節
愛することができないところには、裁きがあり、赦しがなく、与えたら取り戻そうとしたり、自分の量りでしか物事が量れなかったりします(37~38 節)。私たちは、このように主イエスが語られたことと自らの現実の前に、その罪の姿に立ちすくみます。そして、「あなたがたは敵を愛しなさい」(35節) と言われることに逆らっている自分自身を認めざるをえません。
「しかし」、主イエスは、そのような私たちを憐れみ、十字架の贖いの死を成しとげてくださり愛を現してくださったのです。私たちは、主イエスの愛に心か ら屈服し、降伏するしかありません。この主イエスと信仰によって一つにされるとき、「いと高き方の子」としていただき、憐れみ深い者とされるのです (35~36節)。

祝福の言葉に満ちて(2014.2.16)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ6章20~26節

聖書がいう「幸いである」とは、一瞬のつかの間の幸いではなくて、いつまでも続いている幸いであり、祝福されている状態を表しています。それは、主イエスの口から出た祝福の言葉によって明らかにされています。

1.新しい祝福の言葉を明示する
ここで語られていることは、弟子たちが望んでいたこととは大きく違っていました。それは、この世の価値観とかけ離れており、人間が思い描く在り方とは大 きな隔たりがあります。うずくまるように神だけに全信頼を置いている「貧しい人々は」、神の恵みの支配の中に生かされるのです。神を慕って、愛に「飢えて いる人々は」、神によってのみ満たしていただくのです。自らの真相に「泣いている人々は」、神の救いに与る喜びを知るのです(20~23節)。
このように主イエスが明らかにされた新しい祝福の言葉によって、私たちは、物質的・表面的な尺度による生き方から解放されて、不変的・永遠的な尺度によ る生き方に変えられていくのです。それは、主イエスに結ばれていることによって、死と終わりを直視しながら知る幸いです(ヨハネの黙示録14章13節)。

2.確かな祝福の言葉を告知する
主イエスの祝福の言葉は確かなものです。それは、もともと私たちの内にあるものではなく、語り主であるイエスにあるものです。私たちの内には、喜ぶもの、満足しうるものを持ち合わせていないのです。そして、私たちの口が祝福をもたらす力を持っていないのです。
ところで、私たちは、主イエスの祝福の言葉の取り次ぎ役です。従って、主イエスに仕え、教会に仕え、人に仕える者は、主の祝福の言葉を取り次ぐために仕えているのです。
そのように、確かな祝福の言葉が私たちに告げられているのですから、拒むことなく、受け入れる者となりましょう。また、確かな祝福の言葉が告げられ続けているのですから、いかなる時にあっても、その祝福の中を歩み続けましょう。

ちいさなちいさなクリスマス(2013.12.15)

宣教題  :「ちいさなちいさなクリスマス」    宣教:鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカ 2章10〜12節

「大山鳴動して鼠一匹」。日本のクリスマスはこのことわざに近いかも知れない。

1.クリスマスに起こった小さな出来事
クリスマスに関する出来事の中でも、主のみ使いの登場や博士たちの宝といったきらびやかなことばかりに目がとまる。けれども、クリスマスの中心は一人の男の子の誕生である。母親に授乳されなければ生きていけない一人の男の子の誕生である。大きな喜びだ、と言われた羊飼いたちが見出したのは、「布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子」(2:12)にすぎない。どこにでも起こりそうな、小さな事しか起こらなかった。大きな喜び、といわれても現実感がない。だから、それに見向きをしようともしない。

2.小さな事が大きくなる
イエスは「からし種のたとえ」(13:18−19)を語っている。小さな種が、植えられ、育てられた時、鳥が枝に巣を作ることができるくらいの木に成長した、という話である。クリスマスの出来事はからし種のように小さいけれども、やがて、驚くほど大きな何かを生み出す。「民全体のためのすばらしい喜び」(2:10)を生み出す。クリスマスにこの種は植えられ、礼拝に集っているあなたのうちにもこの種は植えられている。

3.期待して待つ
もちろん、小さな種が大きな木になるまでには時間がかかる。イエスの生涯もそうである。クリスマスから30年ほど過ぎたときに、十字架と復活によってイエスの生涯はクライマックスを迎えた。そこで生み出されたのは、弟子たちの小さな群に過ぎなかった。しかし、そんな小さな変化がやがてうねりのような大きな変化となった。そして、神のご支配が世界中へと広がっていった。
イエスは私たちのうちにわざを始めて下さっている。それはあまりにも当たり前で、どこにでもあるようで、気づかないほどの小さな変化かもしれない。すぐに実現する、派手な出来事ばかりを追い求めているならば、そんなイエスのわざを見過ごしてしまう。しかし、小さな変化に気づき、私たちのうちでそれが大きくなるのを待つことが、クリスマスのほんとうの意義を知る者の生き方である。小さな種が大きな木になるのを期待して待つような信仰に生きる者たちに対して、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」のみことばは、真実となる。

選ばれた人生を選ぶ(2013.11.17)

宣教題  : 「選ばれた人生を選ぶ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師

聖    書  : ルカ 6章12~19節
私たちは、主イエスの12弟子と同じように(13節)、主の弟子として選ばれ、生かされているのです(ヨハネ15章16節)。そのような選びの中に招かれているのですから、私たち自らが、それに応答して選び取っていく歩みをすることが必要です。

1.主イエスの祈りのうちに選ばれたのである 12~16節
主イエスは、ご自身の弟子たちを選ぶに際して、夜を徹して祈られました(12節)。主は、徹夜の祈りをすることを決心して祈られたのではなく、ひたすら祈りに打ち込んでおられたら夜が明けていたのでした。それほどに深い祈りをされたのです。ところで、主が、他に夜を徹して祈られた場面として、ゲツセマネの祈りがあります(ルカ22章39~46節)。この祈りが決定的で大切な祈りであったように、ご自身の弟子を選ばれる時も、祈らずにはおれない決定的で大切な時だったのです。
主イエスは、選ばれた弟子たちを「使徒と名付けられ」、主の十字架と復活の証人としての使命を委ねられました。同様に私たちは、主の十字架と復活の証人として選ばれているという歩みをするのです。たとえそれが試練の場であっても、そこに踏みとどまるならば祝福があるのです。

2.主イエスと一緒に歩むことを選ぶのである 17~19節
主イエスが山に登って行かれたのは、山から下りて来られるためでした。山の下は、主の教えを聞くことや主の救いの御業に与ることを願う大勢の人がいました。主は、弟子たちと一緒に山から下りてこられて、「平らな所にお立ちになった」のです。このように、主の弟子として選ばれるということは、主と一緒にこの世に遣わされるという歩みをすることを選ぶことなのです。
私たちの信仰の歩みは、悩み、苦悩、試練、戦いを避けてとおれません。その信仰の営みから逃げないで、主イエスと一緒に遣わされていくことを選ぶならば、人を生かし、教会を生かすという祝福をもたらすのです。

真の安息(2013.10.6)

宣教題  : 「真の安息」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ6章1節~11節
私たちは、旧約時代の土曜安息日ではなくて、主イエスが復活された「週の初めの日」(使徒言行録20章7節)とも呼ばれている「主の日(聖日)礼拝」を大切にしています。この日に、真の安息への道を開かれた主イエスの御心を知って、自らの信仰と生活を導いていただくのです。

1.神の恵みを喜ぶ
主なる神は、6日間で全てを創造され完成されたことに満足されて、7日目に安息され祝福されました(創世記2章1~3節)。従って、「安息日」は、造られた人間にとって神と共に安息することが当然の恵みなのです。私たちは、神が全てを良いものに造ってくださったことに、喜びと感謝をささげるのです。
さらに、出エジプトという神の救いの恵みに与かった神の民が、「安息日」の祝福に生きることを命じられています(出エジプト20章2節、8~11節)。私たちは、神の民がエジプトを脱出して約束の地へと導かれたように、主イエスの十字架と復活によって罪と汚れに満ちたこの世から脱出して、約束に御国へと導き入れられることを大いに喜ぶのです。

2.神の恵みを分かち合う
主イエスは、安息日に弟子たちの飢えを満たして生かし(1~5節)、また生活の糧を得るのに必要な右手が萎えている人をいやして生かされました(6~11節)。
安息日は、神とその恵みを忘れないことと、人々へのあわれみを忘れないことのためにあります。すなわち、安息日に神の救いの約束が変わらないことを思い起こし、永遠の救いの神を忘れないことです(出エジプト31章16節)。また、一人一人が神に分け隔てなく招かれていることを忘れないことです(申命記5章14節)。
私たちは、礼拝において深い安息を経験するのですが、それを自分だけのもので終わらせることなく、隣人のためにも与えられていることを覚えて、お互いの喜びとさせていただきましょう。

新しいライフスタイル(2013.8.18)

宣教題   : 「新しいライフスタイル」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ 5章33~39節
主イエスは、人自身とその生き方を新しくされ、また変革してくださるお方です。それは、レビをご自身の弟子とされたことにより、いつまでも以前の生き方ではなくて、新しいライフスタイルへと変えられたことにも表れています(5章27~30節)。

1.新しい喜びに生きる
主イエスの弟子になったレビの人生には、悲しみではなくて喜びが生まれました。それは、婚礼の客にとって、断食が表わす悲しみではなくて、結婚を祝う喜びが生まれるのと同じです(33~34節)。
続いて主イエスは。そのような新しい喜びに生きることを三つのたとえで話されました。主イエスは、人に部分的な生活改善を求めるのではなくて、根底から全く変えてしまわれます(36節)。そして、人が持っていた古い生き方を捨てて、主イエスが明らかにされた喜びの生き方へと導かれます(37~38節)。さらに、古い生き方にとどまり続けないように勧められます(39節)。
私たちは、古い生き方ではなくて、悔い改めて新しくされた生き方をすることによって、新しい喜びの歩みが造られていくのです。

2.キリストと共に生きる
新しい喜びに生きることは、どこから来るのでしょうか。「花婿が一緒にいる」ところからです(34節)。すなわち、花婿である主イエスが一緒にいてくださり、人と共に生きてくださることによってです。そのために、主イエスは、「奪い取られる」とあるように十字架にお架かりくださり(35節)、そして死から復活してくださったことによって、私たちと共に生きる道を開いてくださったのです。
ここから生まれる喜びは、主イエスが与えてくださるものです。主イエスは、それを首尾一貫した素朴な喜びとして保ち続けてくださいます。私たちは、新しい生き方を造ってくださる主イエスに全てを任せていくだけでよいのです。

あなたをたずねる客(2013.7.28)

宣教題  : 「あなたをたずねる客」   宣教:   池口 留都 伝道師
聖   書  : ルカ19章1~10節

1.ことのはじまり:イエス様を見ようとしたザアカイ
ザアカイは、徴税人の頭でした。当時の社会では、神様に逆らう「罪深い男」です。そんなザアカイが、イエス様がどんな方か見ようと求めて行動した。これがことのはじまりです。

2.転機:ザアカイをたずねられたイエス様
すると、驚くべきことが起こりました。イエス様は、人々には見捨てられたザアカイに顔を向け、目を留めて呼び、たずねられたのです。ザアカイは喜んでイエス様を迎えましたが、これを見た群衆はつぶやきました。
自分が正しい人間だとうぬぼれて、自分の正しさを主張する人と、自分は罪人だと自覚して、神の憐れみを求める人。神様が受け入れられるのは、憐れみを求めて近づく罪人です(ルカ18:9~14)。群衆は前者、ザアカイは後者でした。
ザアカイは、ありのままの自分をたずね、受け入れてくださったイエス様の愛に心溶かされ、悔い改めました。イエス様がたずねてくださった。これがザアカイの転機です。彼は新しいスタートを切りました。

3.さらに先立っていたはじまり:神様とアブラハムとの契約
ザアカイに対するイエス様の愛は、さらに先立っていました。神様がこの世界を造られた時から、ザアカイは選ばれ、愛されていました。神様は、罪と悩みと苦しみ、孤独の中にさまよう人類をあわれみ、救い出すため、ご自分を人類に結びつけられたのです(創世記12:1-3、15)。失われた人をご自分のもとに立ち返らせ、命と喜びと希望を与えるためです。その頂点が、イエス・キリストの十字架です。
『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』これは、ザアカイに起こった出来事であり、今日、私たちにも起こる出来事です。今日、イエス様をお迎えしましょう。そして、イエス様を見続けましょう。

キリストに従う祝福(2013.7.21)

宣教題  : 「キリストに従う祝福」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章27~32節
私たちの教団と諸教会は、主なる神がキリストに従う弟子たちと同行してくださった中を歩んできました(出エジプト33章14節)。これこそが、これからも変わらない私たちの立ち位置です。レビと同じように、キリストに従い続けることは、祝福された歩みが造られていきます。

1.キリストが招かれる  27節
主イエスは、慈しみの心をもって徴税人のレビをごらんになられました。当時、徴税人は、ユダヤ人からは神に呪われた罪人と同じように見なされていました。主イエスは、レビが収税所にいるその場で「わたしに従いなさい」と、そのままを受け入れて招かれたのです。
主イエスは、レビに対するのと同じように、私たちを招いていてくださいます。

2.キリストの招きに応える  28節~29節a
「わたしに従いなさい」と、説明も条件もついていません。レビには、少なくとも罪人を招くために来てくださった主イエスに対する強い信頼がありました。そこで、座り続けていた収税所の席から立ち上がって、「イエスに従った」のです。
また、何もかも捨てたレビが、大盤振る舞いをしています。これは、献げることについて示唆を与えています。何もかも捨てて主イエスに従うことは、自分が持っている財・才能・時間・賜物・生涯などを「イエスのために」用いさせていただくことなのです。

3.キリストを紹介する  29節b~32節
こうして、レビは、自分の持っているものを最大限に用いて、主イエスの紹介に努めました。彼は、主イエスと同じ心で、自分と共に生きる人々を見直し、主イエスに招いていただいたように、彼らを招いたのです。
福音は、一番身近な所から伝わっていきます。そのためには、私たちが「イエスのために」生きるように変えられていることが大切です。

罪の赦しの福音(2013.7.14)

宣教題  : 「罪の赦しの福音」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章17~26節
主イエスのご来臨の目的は、「神の国の福音を告げ知らせ」ることでした(4章43節)。ここでは、主イエスが中風の人をいやされたことを通して、福音とは何かを明らかにされています。福音とは、「人よ、あなたの罪は赦された」とあるように、罪の赦しであることを宣言されたのです。

1.福音は「求めるもの」に与えられる
中風の人と彼を運んできた男たちは、主イエスに切なる求めをしています。彼らは、様々な障害を乗り越える勇気と熱心さとを持ち合わせていました。さらに、彼らが、主イエスが与えてくださるものを受け入れ、主イエスのもとに飛び込んでいくほどの信頼を抱いています。「イエスはその信仰を見て」おられたのです。
そうした中にあって、群衆や家の主人は、この突然の予期しない出来事によって自分たちの願いが中断されても、また犠牲を強いられても、中風の人に協力しています。
私たちは、福音を求めるものであり、それに与かろうとする人たちのために協力するものでありたいと願います。

2.福音は「キリストによって」与えられる
神の祝福の根本は、人が罪を赦されることを通して神と和解し、神との交わりに入れられることです。
ところで、聖書が言う罪は、神を欺き、神を悲しませることです。この罪を自覚するならば、主イエスが「人よ、あなたの罪は赦された」との宣言を受け入れることができるのです。主イエスは、罪の赦しを十字架で完成するので、それを受け取ってほしいと願っておられるのです。
福音は、私たちを前向きにさせます。主イエスの十字架によって罪の赦しが完成されていると信ずるからです。身が震える思いで、過去に決別し、喜びをもって立ち上がらせていただきましょう。

キリストの願い(2013.6.30)

宣教題  : 「キリストの願い」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章12~16節
この聖書箇所には、二つの願いが明らかにされています。人の願いと(12節)キリストの願い(13節)です。「御心ならば」、「よろしい(わたしの心だ)」は、その意志や願いを表わしています。人の願いが、キリストの願いと一つになる時に、神の御業がなされます(2コリント5章20節)。

1.人の願い
「全身重い皮膚病にかかった人」は、主イエスの御前にひれ伏しています。この謙る姿勢は、真実かつ真に勇気ある姿です。しかも主イエスがなされることを期待しつつ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と、自分の願いを切実に祈り願っています。彼の願いは、主イエスに委ねつつも、筋の通った嘆願の祈りだったのです。
私たちは、祈り願っても現実が変わらない時、いつしか嘆願の祈りをしなくなるということがあります。そうした時にこそ、主の恵みのご支配があることを信じて、主の御心を伺いつつ、真実に祈り願う歩みであり続けたいものです。

2.キリストの願い
主イエスは、この人の願いをそのまま受け入れてくださいました。彼に触れることにより一体となられ、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。主イエスは、彼を憐れみ(マルコ1章41節)、彼の痛みを御自分の身に背負って、癒してくださったのです(イザヤ53章4節)。このようにして、彼は、神に受け入れられて神のものとされることにより神との関係が回復され、自立した生活を送ることによって社会での生きる道が開かれました。これがキリストの願いでした。
キリストが全ての人のために願っておられることは、主イエスの十字架と復活によって罪赦されて神との和解をいただき、神のために生きるとともに、他者のために生きる自立した者となることです。そこからは、人間相互の関係の回復も生まれてきます。

皆キリストの弟子(2013.6.2)

宣教題  : 「皆キリストの弟子」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ5章1~11節
キリストの弟子になることは、ペトロにとって大きな転機でした。私たちも、どのようにしてキリストの弟子になることができるのか、その道を探ってみます。

1.主イエスとの個人的な出会いによって  1~4節
群衆は、「神の言葉を聞こうとして」ゲネサレト湖畔まで押し寄せて来ました。主イエスは、群衆から離れて舟に乗りこんで教えておられます。それを一番近くで聞いていたのがペトロでした。彼がこのことを自ら選んだのではなくて、主イエスの方から彼を訪れてくださったのでした。
主イエスは、不漁のために途方にくれ、疲れ、空しい思い中にあるペトロと関わりをもたれました。このように主イエスは、私たちと個人的な出会いを求められるのです。

2.主イエスの前にひれ伏すことによって  5~8節
ペトロは、愚かで無駄と思われる主イエスの提案を受け入れ、「しかし、お言葉ですから」と、主イエスの御言葉に賭けています。それによって、ペトロは大漁を経験しましたが、主イエスの足もとにひれ伏さざるを得ない信仰の経験をしたのです。主イエスの聖さと力を知らされるとともに、自らの汚れと惨めさを知ったからです。
私たちは、主イエスの前にひれ伏し、主とその御業を受け入れなかったり、制限したりしている罪の赦しと聖別をいただくことが必要なのです。

3.主イエスと一緒に人を生かすことによって  9~11節
「わたしから離れてください」と語るペトロに対して、主イエスは「恐れることはない。今から後、人間をとる漁師になるのだ」と招かれました。これは、主イエスが私たちを、自分の幸福のためだけに生きるのではなくて、人を生かすために生きるように召しておられるということです。
私たちは皆キリストの弟子として招かれています。真摯に主イエスに従う一人一人となりましょう。

一人一人を愛される主(2013.5.5)

宣教題  : 「一人一人を愛される主」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ 4章38~44節
主イエスは、何よりも一人一人を愛して、懇ろに届いてくださるお方です。その主の愛の御業は、カファルナウムにおける安息日の礼拝において(31~37節)、その日が暮れで安息日が終わる場面において(38~41節)、そして翌朝の宣教へと続いています(42~44節)。

1.日常的な事柄に関わってくださるために  38~41節
先には、大勢が集まっていた会堂での礼拝において汚れた霊に取りつかれた一人の人のいやしがなされ、ここではシモン・ペトロの家で彼の姑のいやしがなされました。人々は、会堂では言えなかったのですが、主イエスが家に来てくださったので話すことができたのでした。続いて、主イエスのもとに連れて来られた「一人一人に手を置いていやされた」のでした。
主イエスは、今も変わらず、誰に対しても一人一人に、しかも日常的な様々な出来事の一つ一つに、愛をもって関わってくださいます。これは、私たちにとって大きな慰めです。

2.必ず神の国に招き入れるために  42~44節
翌朝、主イエスは人里離れた寂しい荒野へ出て行かれて、父なる神とお会いし、その御心を求められました。そうしておられる主イエスを群衆は捜し回り、続けて多くの人々の病をいやしていただくことを求めました。父なる神の御心は、病を癒すことが最終目的ではなく、人々を神の国に招き入れ、そこで生きる喜びを宣べ伝えることでした。これは、必ず成し遂げられなければならないことだったのです。
神の国に招き入れられるとは、聖霊による罪の赦しが与えられ、聖霊によって神との平和の関係が回復され、聖霊による喜びが与えられる恵みに生きることです(ローマ14章17節)。このために、主イエスは十字架と復活による救いを成し遂げてくださったのです。神の国の福音に生きる一人一人とさせていただきましょう。

仰天する喜び(2013.4.7)

宣教題  : 「仰天する喜び」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ルカ4章31~37節
ガリラヤ湖畔の西北の町「カファルナウム」は、主イエスがこよなく愛され、そこを宣教活動の根拠地とされた町でした。「ルカによる福音書4~5章」には、「権威」と「力」という二つの言葉が相重なるように出てきますが、本個所においても主イエスの権威ある御言葉が、人々を圧倒させ、仰天する喜びを与えています(32節、36節)。

1.キリストの権威
主イエスの権威ある御言葉は、恵みをもって人々を支配し、救い、生かすものでしたので、人は自発的に従っていきました。それに抵抗したのが、「汚れた霊」でした。主イエスは、権威ある御言葉をもって汚れた霊が働くことができないようにされたのです(33~35節)。
私たちは、神の恵みから遠ざかって、闇の力に束縛され、罪と汚れの虜になって、自分中心の強情で頑固な「汚れた霊」に取りつかれていた者でした。主イエスは、そのような私たちの罪を赦し(ルカ5章20~24節)、汚れをきよめ(1ヨハネ1章7節)、神の恵みのご支配に生きる者としてくださいました。主イエスは、権威ある御言葉と御業をもって、それを成し遂げられたのです。

2.人々の驚き
主イエスは、先のナザレでの宣教の後に(16~30節)、カファルナウムでの宣教をされました。ナザレでは、主イエスの口からでる恵み深い御言葉を耳にした人々が「驚いて」いますが、その後で主イエスに反発しています(22~29節)。カファルナウムでは、主イエスが語られた権威ある御言葉に「人々は皆驚き、互いに言った」と、主イエスの救いの御業と御言葉を驚きをもって受けとめています。その結果、豊かな結実がありました(35~37節)。
私たちは、主イエスの権威ある御言葉と救いの御業の前に、ひれ伏し、砕かれ、全き信頼を置くことが必要です。この信仰の経験は、救いの恵みに与かったときだけではなく、私たちの信仰生涯に繰り返される経験となり、仰天するほどの喜びとなるのです。