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ルカ

御言葉に生きる(2015.4.19)

宣教題  「御言葉に生きる」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章4~15節

 主イエスは、人がふさごうとする耳を押し開くかのように、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で叫ばれています。実を結ぶように聞くことを求めておられるからです。そのために、どのように御言葉に生きるかを語られています。

1.確信と忍耐をもって 
 ここに語られているたとえは、御言葉すなわち福音が語られたとき、聞く者の心の状態によって、実を結ぶかどうかが明らかになるということです。聞いた御言葉に対して無関心になったり、始めは喜んで御言葉を受け入れても試練に遭うとすぐに御言葉から離れてしまったり、思い煩いや富みや快楽といったものによって御言葉が塞がれてしまっては、いずれも実を結ぶことはできません。しかし、主なる神は、人の心がどのような状態であっても、御言葉を語り続けてくださる大きな憐れみをお持ちです。
 まず、実を結ぶには、聞いた御言葉を「よく守り」、御言葉をしっかりと握りしめることです。御言葉を離さないで、心にいつも蓄えておくことです。そのためには、「忍耐」することが大切です。御言葉が私たちの心の中でしっかりと保たれて実を結んでいくのに必要なことは、変わることのなく御言葉にとどまり続ける忍耐です。

2.善い心をもって 
 私たちは、御言葉に対して確信を持ち、忍耐を働かせて、歯をくいしばって保ち続けるのではありません。「立派な善い心で御言葉を聞」くことによってこそ、実が結ばれていくのです。神が私たちに対して善を行ってくださるという信仰が、「善い心」なのです(ローマ8章28節参照)。神は恵みによって、私たちの心に御言葉を素直に受け入れやすいように耕してくださるので、神ご自身と御言葉に対する信頼の心を持たせていただけるのです。
私たちは、神が最善になされることを信頼して、御言葉に生きることにより実を結ばせていただくのです。

美しい人生(2015.3.15)

宣教題  「美しい人生」             宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章1~3節 ローマ8章32節

人は故郷を失うと、自分の原点また心の居場所まで失うことがあります。さて、神を信じる者は、約束されている「天の故郷」を目指して生きています(ヘブライ11章13~16節)。そのためには、マグダラのマリアのように、主イエスとの出会いが必要です。美しい人生を送るために、人は必ずしも偉大でなくてもよいのです。

1.主イエスと一緒に生きる喜びを経験する  ルカ8章1~3節a
自分で自分をコントロールできずにいたマリアは、主イエスのもとに連れられてきて、病を癒していただきました。以来、主イエスの一行と行動を共にしています。後に主イエスが十字架にお架かりになられた時には、「イエスの十字架のそばに」立っていました(ヨハネ19章25節)。このように十字架のそばに身を置くことによって、そこから流れ出る慰めと恵みを受け取ったのです。しかも、復活された主イエスのお声を聞くことにより、主イエスと一緒に生きることを喜びとしたのです(同20章11~18節)。
ところで、神は私たちの側に立っていてくださり(ローマ8章31節)、罪と死の恐れの中にある私たちの身代わりとして「御子をさえ惜しまずに死に渡され」ました(同32節a)。ですから、私たち一人一人は、主イエスを十字架に架けた私の罪を覚えて、ただ十字架の主イエスを仰ぐのみです。

2.主イエスの後を歩み続ける  ルカ8章3節b
マリアは、主イエスへの感謝をもって、その後ろからついて行き、一行に奉仕しました。その歩みは、主イエスによって用いられました。
御子をさえ惜しまないで与え尽くしてくださった愛の神は、最後まで一緒に歩んでくださり、神が私たちに必要とされるものを備えて、「すべてのものをわたしたちに」与えてくださいます(ローマ8章32節b)。ですから、私たちは、主イエスを信頼して、天の故郷を目指して歩み続けるのです。そして、今日一日が最後の日であるかのように覚えつつ、主イエスと一緒に歩むのです。

涙の出会い(2015.2.15)

宣教題  「涙の出会い」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ7章36~50節

ここに登場する一人の女性は、主イエスの足を自分の涙でぬらしています(38節、44節)。主イエスは、彼女を泣くに任せられ、その涙を受け入れ、喜んでおられます。この女性が主イエスに出会ったような出会い方で、私たちも主イエスに出会っていくことが大切です。

1.主によって罪の赦しをいただいた出会い
ファリサイ派のシモンが、主イエスを自分の家に招いて食事を共にするという交わりをしています。そこに「罪深い女」が入って来て、最大限の愛の業をしたのです(38節)。その行為は、悔い改める心をもった主イエスへの心からの信頼と、繰り返し尊敬の念を表し続けるものでした(45節)。主イエスがこの女性をどう見ておられたかは、そのたとえ話を通して明らかにされています(40~43節)。
主イエスによって罪が赦されたことを自覚した者は、惜しみない愛を表すようになるのです(47~48節)。主イエスに対する信仰が、私たちの罪を赦し、神に近づき、神と共に歩む新しい人生をつくるのです(50節)。

2.主を愛することを知った出会い
主イエスを迎え入れたシモンには、罪深い女がいただいていた信仰と真実さが欠けていました。その心は冷めたものでした(39節)。それゆえに、主イエスは、彼に多く愛することを語られ、また問いかけられたのです(40~43節)。
主イエスは、誰かを多く赦し、誰かを少なく赦しておられるのではありません。どんなに多く赦していただいているかを身にしみて分かっているか、そのように自覚していないかだけなのです。この罪が赦された喜びと感謝の思いをもって、愛の業に励むのです(44~47節)。
実に愛の源泉は、イエス・キリストを主と信じ、その十字架の贖いによって罪の赦しをいただいたところにあるのです。

天地が共にほめたたえる(2014.12.28)

宣教題 「天地が共にほめたたえる」    宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書 詩編148編、ルカ2章20節

教会暦によると、クリスマスを祝う季節はクリスマスから公現節(1月6日)である。年越しでクリスマスを祝う方法のひとつに主を賛美することがある。事実、ルカによる降誕の記事は、天の賛美(2:13-14)からはじまり、地での羊飼いたちの賛美(2:20)で終わっている。これは決して偶然ではない。

1. 天地のあらゆるものが賛美する
詩編148編においては、まず、神の領域である天の被造物が主を賛美するように招かれている(2~4節)。続いて、人が住む領域である地に置かれている被造物が賛美へと招かれている(7~12節)。最後に招かれているのが人である(11~12節)。だから、この世界で賛美しているのは人だけではない。天地の被造物がすべて主を賛美している。そして、それに声を合わせないでいるのが、実は人である。
天地の被造物が賛美するのは、主がことばをもってすべてを創造し、秩序が崩れることなく堅く支え、そこを正しく治めているからであり(5~6節)、被造物が他でもなく主によって治められることを喜んで受け入れているからである(13節)。つまり、賛美するとは、単に「主は素晴らしい」と歌うことではない。イスラエルの神である創造者を主として受け入れ、それによって自分のいのちを再構成することである。この方以上に大切な存在はないと信じて、生かされつつ、生きていくことである。

2. 共に賛美することを可能とする方
天地の被造物が主を共に賛美することを乱しているのは人である。人がこの賛美に加わることができるように、主はイスラエルを選ばれた(14節)。そして、これを実現したのは、イエスである。だからこそ、天と地が、イエスの誕生の場面で共に賛美をし、詩編148編が現実となり始めたのだ。天地を結びつけ(エフェソ1章10節)、人にいのちをあたえ、共に賛美ができるようにしてくださった方への信頼から、本当の意味での賛美、いのちの再構成は始まる。
人を含めた天地が共に賛美できるようにされた方は、分断されているあらゆるもの(ユダヤ人と異邦人、夫婦、親子、奴隷と主人)が共に賛美できるように願っておられる。イエスを信頼する私たちには、イエスのわざをこの地上で行う使命が与えられている。家族の年を終えるに当たって、この一年の自らの歩みをふり返りつつ、ビジョンと勇気をいただこうではないか。

大いなる慰めの日(2014.12.21)

題   :「大いなる慰めの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ2章25~35節

私たちは、クリスマスを祝う人から、クリスマスの主イエス・キリストとその出来事に感謝する人になりたいものです。
ここに、大いなる慰めを経験したシメオンが登場します。彼の頭上には神がおられ、そのくちびるには賛美があり、その腕には幼子イエスがおられ、その目は天国を仰いでいます。

1.慰めを待ち望む
人の慰めの言葉は、寂しさや悲しみを抱いている人を励まし、勇気づけ、希望を与えます。そうすることによって、その人々と同じ位置にたって、一緒に悲しみを担うのです。しかし、その慰めの言葉には限界があります。
シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望」(25節)んでいました。この慰めは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に」(37節)とあるように、救いを意味しています。慰めの最も根源的なものは救いであり、救いなしに本当の慰めは与えられません(イザヤ40章1~2節参照)。そして、この本当の慰めは、救い主イエス・キリストを受け入れることでしか得られません。私たちは、イスラエルの真の慰めを待ち望んだシメオンのように、静かに真の慰めを待ち望む者となりましょう。

2.慰め主にお会いする
慰めを持っているということと、慰め主にお会いすることとは別のようです。イスラエルの人々は、救い主がダビデの子孫から現れるという期待をもって、その来臨を待望していました。ところが、イエスが降誕された時、多くの人々は受け入れませんでした(ヨハネ1章9~11節)。
そうした中にあって、シメオンがイエスにお会いできて、救い主がもたらされる慰めが分かったのには理由がありました。彼には、神を畏れ敬う信仰とその生き方や生活との間に食い違いがなかったからです(25節)。そして、聖霊によって神が語られることを受け取り、聖霊の導きを日常生活のただ中で受け取っていたからです(26~27節)。このようにして、救い主に出会い、この方の十字架の死によって救いが成し遂げられることを見い出したのです(30~35節)。
このように慰め主にお会いした者は、日々の生活の中で、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)と証しし続けていくのです。

大いなる喜びの日(2014.12.14)

題   :「大いなる喜びの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ2章8~20節

神が人となられた出来事がクリスマスです。それは、イエス・キリストが飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子として誕生されたことによって、神の方から人に近づいてくださったのです。このことを通して、人は神との出会いを経験できるようになったのです。

1.「恐れ」を伴なう出会い
クリスマスの出来事に登場する人々は、何らかの形で不安や恐れを持っていました(ルカ1章12節、1章30節、マタイ1章20節、2章3節)。ここに登場する羊飼いたちも「非常に恐れた」(9節)のでした。これらの不安や恐れは、個人的な事情というよりも、神ご自身が彼らに近づき、彼らの生そのものに介入されたことにより生じたものでした。それは、恐怖といった恐れであったり、畏敬の念の恐れであったりしました。こうした不安や恐れは、神が私たちに近づかれて語りかけられ、それに対して信仰の決断を促されるなど、何らかの形で神が私たちと関わりを持たれる時に覚えるものです。
イエス・キリストは、私たちの人生の生き方を中断させ、変更を求められます。そうすることによって、私たちの人生の主が私たち自身ではなくて、イエス・キリストであることを明らかにされるのです。

2.「喜び」に変えられる出会い
恐れを抱いた羊飼いに「大きな喜び」が告げられました(10~11節)。しかも、聞かされただけでなく、救い主を見せていただいた喜びでした(12節)。これは、不安や恐れを抱くすべての人に与えられる喜びです。このようにして、初めは恐れを引き起こす神の接近が、実はすべての人にとっての大きな喜びの接近であったことを明らかにされたのです。
羊飼いたちは、「今日」救い主がお生まれになった出来事を見るために、急いで出かけ、探し当て、他の人にも知らせています(15~17節)。こうして、彼らは救い主を受け入れる喜びを経験したのでした(20節)。「今日」との招きは、ザアカイも(ルカ19章9節)、十字架上の犯罪人も(同23章43節)経験しました。同じ喜びは、私たち一人一人が「今日」イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時に経験するのです。クリスマスこそ、この決断をする新しい出発の時なのです。

大いなる憐れみの日(2014.12.7)

題   :「大いなる憐れみの日」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ1章46~56節

受胎告知を受けたマリアは、神を賛美しています。神が自分の全存在、全生涯に大きなお方となり、人の思いでは測り知ることのできないことをされる神だからです(46~47節)。なお、マリアは一人でこの賛美をしたのではなくて、エリサベトと共にいて、共に歌ったのでした(39~45節)。ここに、教会の姿があるといえるでしょう。

1.憐れみを注がれる神
このマリアの賛歌は、内容が豊かです。その主題を表す御言葉が「憐れみ」です。神の憐れみは一時のことで終わりません(50節)。どこまでも「お忘れに」ならずに真実に心に留めてくださり(54節)、約束されたことは「とこしえ」までも真実に成し遂げられます(55節)。その憐れみは、多くの人が注目し、目を見張るような輝きや豊かさを持ち合わせない「身分の低い」貧しい者に注がれるのです(48節)。
神は、自分自身の中に自分を救いうるものは何一つないことを知らせ、人間的な誇りや力が砕かれて救われるように憐れみの眼差しを向けておられます(51~53節)。このように、神の憐れみは、私たちの弱さ、無力さ、惨めさ、醜さに対して向けられています。その憐れみの極致が、主イエスの十字架の救いの御業でした。神の憐れみは、本来それを受けるに値しない者に注がれるのです。

2.憐れみの器として用いてくださる神
神は、マリアを憐れみの器として用いられました。神が彼女に目を留めて救い主を宿す器としてくださったことを通して、全人類に神が目を留めてくださることとなったのです。このようにして、神は御自身の救いの計画を進めていかれたのです。同じように、神は私たちに目を留めてくださり、神の憐れみの器として人々の救いのために用いてくださるのです。
マリアの賛歌は、パウロを通して語られた御言葉に受け継がれています(2コリント12章9~10節)。弱いときにこそ私たちに目を留めて心をかけてくださる神の憐れみのしるしが、へりくだるマリアを通してのイエス・キリストの誕生の出来事として現されました。私たちがへりくだる前に、私たちのもとにまでへりくだって降りて来てくださったクリスマスの主に、心からの賛美をささげましょう。

福音のために生きる(2014.11.9)

宣教題   :「福音のために生きる」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ルカ7章24~35節
明確で永続する生きがいを持たない人が多い中にあって、私たちは、神の国のため、福音のために生きるという素晴らしい生きがいが与えられています。このような生き方をした良い見本が洗礼者ヨハネでした。なぜ、こうした生き方をすることが大切なのでしょうか。

1.心棒のない生き方から  30~35節
洗礼者ヨハネが生きた「今の時代」は、乱れ混乱した時代でした。ファリサイ派や律法の専門家たちは、主イエスやヨハネの言うことを聞かずに、無視して「自分に対する神の御心を拒んだ」のでした(30~32節)。彼らは、真剣に聞かずに、聞き流して、自分勝手な生き方をしていたのです(33~34節)。
これは、私たちが生きている「今の時代」も同じです。自分さえよければよいと、自分勝手に、自分の価値判断で生活する傾向は、世界中に、世代を問わずにあります。その結果、乱れ混乱した不道徳な結果が生まれています。それは、心棒のない、流されてしまっている歩みです。
このように、福音のために生きる生き方を逃したら、救われる道はなく、破滅に至る人生が待っているのです。

2.一本筋が通った生き方に  24~29節
洗礼者ヨハネのように、福音のために生きることは、一本筋の通った生き方であり、人生のいのちです。彼は、確信ある生き方をし(24節)、簡素な生活をしていました(25節)。しかし、彼をして偉大ならしめたのは、主イエスを直接人々に紹介したことでした(26~28節a)。
主イエスは、『しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である』(28節b)と言われました。これは、主イエスを信じ受け入れた者は、ヨハネよりも優れているということです。その人たちは、主イエスの救いを経験して神の恵みに生きる者とされているので、それを人々に語り伝えるようになったからです。
主イエスのみが、私たち一人一人を救い、新たに生かしてくださるお方です。この福音のために生きることが、真に価値あることなのです。

キリストを見続ける(2014.10.12)

宣教題  :「キリストを見続ける」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖   書  : ルカ 7章18~23節

人が日々見つめているものが、その人を表し、その人を決めると言えるでしょう。信仰とは、仰ぎ見ることです。私たちを愛し、私たちのために救いの御業を成し遂げられた主イエスを仰ぎ見るところに、私たちの幸いがあります。

1.主イエスが見えなくなる時
洗礼者ヨハネは、領主ヘロデによって捕らえられて牢に閉じ込められていました(ルカ3章20節)。主イエスに直接お会いすることができなくなっていたヨ ハネは、弟子の中から二人を選んで主イエスのもとに使いを出して、「来るべきお方は、あなたでしょうか」と問いかけました(19~20節)。この時死に直 面したヨハネは(ルカ9章7~9節)、イエスが自分を救出してくださる兆しがないことに、つまずいたのでしょうか。また、彼の弟子たちの中には、救い主イ エスのことが理解できないまま疑いを持っていたので、主イエスにつまずいたのでしょうか。そんな彼らに、「わたしにつまずかない人は幸いである」(23 節)と言われのです。
人は、主イエスの十字架と復活の出来事につまずきやすいものです(1コリント1章23節)。私たちの救い主であり、また教会の主であるイエスを信じ仰ぎ見ることができなくなってしまうからです。

2.主イエスご自身に聴き続ける
主イエスは信頼して尋ねるヨハネに、彼の弟子たちを通して的確な答えをなされ、それを伝えるように勧められました(21~22節)。このように、自分自 身で主イエスが語られる御言葉を聴き続けることほど確かなことはありません。このことを通して、自分で描く勝手なイエス像から解き放っていただけるので す。
私たちは、何かが起こってきたら、いったんそれを横に置き、祈り、御言葉を読み、全ての領域において主イエスを中心に置いて、このお方を仰ぎ見ることが大 切です。私たちは、日々に何を見ているのでしょうか。十字架に死んで復活され、共におられる主イエスを見続ける生涯でありたいものです。

なおも望みを抱いて(2014.9.15)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ルカ7章11~17節

主なる神は、私たちの人生のすべての日々を知っておられ(詩編139編16節)、死の世界にも踏み込んでこられるお方です(同8節)。本日の箇所は、無名の母親の一人息子の葬儀が執り行われている場面です。そこには、人の死という悲しみを乗り越えていく力と希望が、主イエスにはあることを明らかにしています。

1.憐れみ、顧みてくださる主
夫を亡くし、今また息子が死んだことによって、母親は失望と悲しみと寂しさに打ちひしがれていました。「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13節)、深い同情を寄せられて、その痛みをご自分のものとされています。それは、主イエスが彼女のところに訪れてくださり、「心にかけ」顧みていてくださることなのです(16節)。
主イエスは今も変わらず、罪と汚れにみち、死の不安と恐れの中にある一人一人を訪れてくださり、より近く一緒に歩んでくださり、顧み、深い同情を寄せてくださっています。この憐れみの主イエスの招きがあるゆえに、私たちはより神に近づき、神と共に歩むことができるようになるのです。

2.泣くな、起きよと宣言される主
主イエスは、母親に「もう泣かなくともよい」(13節)と言われ、息子に「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と言われました。このように、すでに失った希望、口に出したくないと思いながら押し殺してしまった感情、失ってしまった目標の中に生きる者に御言葉をかけてくださるのです。ここに、主イエスがとどけてくださる救いがあります。
キリスト信仰は、主イエスの復活から始まりました。と言うのも、主イエスの十字架の死に際して、主の弟子たちは悲しみと失望の中にありました。しかし、復活されたことを知るや、「それでは一体あの十字架は何であったのか」とその意味を探り始め、その結果十字架と復活の信仰に堅く立ったのでした。復活の主イエスの恵みのご支配は、死よりも強いのです。
復活の主イエスは、今も変わらずに「もう泣かなくともよい」「起きなさい」と語りかけておられます。棺の傍らに立つ者も、この望みの福音を語るのです。

生きた御言葉信仰(2014.8.10)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ 7章1~10節

ユダヤ人の長老たちは、「百人隊長」のよい行いを見て尊敬しました(4~5節)。しかし主イエスは、彼の信仰を見られて高く評価されました(9節)。このように主イエスを感心させ驚かせた信仰こそが、生きた御言葉信仰です。

1.御言葉に対する信頼を伴なう信仰
百人隊長は、病気で死にかかっている部下を助けに来てくださるように主イエスに懇願しておきながら、その後で来てくださることを遠慮する発言をしていま す(1~6節)。この矛盾するような発言をしたのは、憐れみ深い主イエスに対する彼の信頼から生じたものと思われます。
続いて、百人隊長が「ひと言おっしゃってください」と主イエスに語ったのは、主が語られる御言葉の権威に対する心からの畏れと尊敬を持っていたからであり、御言葉の力を信じ切った主への信頼があったからです(7~8節)。
御言葉信仰とは、どんな時にも、どんなことにも、どんな人にも、御言葉は必ず答えを持っているということを信じる信仰です。御言葉の重みを知ることが、御言葉に対する信頼につながるのです。

2.御言葉に対する服従を伴なう信仰
百人隊長は、御言葉をいただき、そして助けていただければそれでよいという以上の信仰を言い表わしています。すなわち、助けていただいた以上は、次に主 イエスが何を命じられても、その御言葉に従おうとしました。主イエスは、彼の信仰に感心し驚かれ、「これほどの信仰」と言われたのです(9節)。そして、 「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8章13節)と励まされたのです。このように、主イエスが喜ばれる信仰は、御言葉に対して服従 する信仰です。
御言葉信仰は、主イエスが評価してくださる信仰であるからこそ大切なものなのです。それを単なるお題目に終わらせてはなりません。実質の伴なった、生き た御言葉信仰を持たせていただきましょう。「ひと言おっしゃってください。そして」の後に、私たちは何と応答するのでしょうか。

何を土台に(2014.7.20)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章46~49節

私たちの歩みまた教会の歩みは、家を建て上げていくようなものです。そこには洪水のような思いがけない苦難や試練が押し寄せてきます。それに耐えられるのは土台しだいです。その土台に関心をもち、揺るがない確かな土台に立つことが大切です。

1.主の御言葉に立つ
私たちは、恒産なければ恒心なしと言われるような目に見えるものを土台とした人生を構築しようとします。しかし、揺るぐことのない確かな土台は、主イエ スが語られた御言葉が神の御言葉であると間違いなく聞きとって、それに生きることなのです。同じように主の御言葉を聞いても、それとは異なった生き方を し、時に間違った生き方をしてしまうことがあるからです(46~47節)。それが、岩の上に土台を置いて家を建てているか、土台なしで地面に家を建ててい るかの相異なのです。
私たちは、「御言葉が与えられた」との信仰に立って歩むという良い伝統をいただいています。しかし、それが神の名を利用し、実は自分の考えや意思を貫こうとするように土台が傾いていたり、土台が無いような状態となったりしていないか、と問いかけることは必要です。

2.主の御言葉を深める
私たちは、思いがけない洪水が押し寄せるような不幸と思える出来事に遭遇します。たとえ平穏無事であっても、罪と死の洪水は全ての人に訪れます。しか し、ここで主イエスが語っておられることは、私たちは、叫んでも泣いても崩れることのない土台である主の御言葉の上に立っているのです。
従って、家を建てるに際して、土台に労力や資材をつぎ込んで元手をかける必要があるように、「地面を深く掘り下げ」る必要があるのです(48節)。すなわち、主の御言葉に立ち続けるには、熱心さと真剣さ、時には犠牲をも必要とするのです。
主の御言葉を聞いて、その御言葉に立って深めていく時に、その御言葉の真実が分かるのです。その御言葉に生きてみて初めて、その強靭な力を味わい知るのです。

どうしても伝えられなければならない福音(2014.6.22)

宣教 :宇井英樹 宣教師
聖書 :ルカ4章43節

貧しさや弱さ、社会的不公平や抑圧の中にいる人々、またそのような状況により壊れた家族、愛を経験していない人々に間近に接するなか、福音宣教とは何かについて考えさせられる。
人は「神のかたち」に造られた(創世記1章27節、口語訳聖書)。しかし、それが壊れている。その回復こそが、福音宣教の本質である。福音が良い知らせであるのは、神の国の訪れ、つまり神の義と神の愛の支配が、生活の中に具現化されていくからである。

1.誘惑 (ルカ4章1~12節)
(1)パンをあげる:一時的に物質的な必要に応える。「与える側、受ける側が定着する時、人間としての尊厳が失われる」(本田哲郎)。
(2)政治的な権威:軍事力、経済、科学などの人間的な支配力、影響力で変えようとする。「富や権力によっては人も社会をも救済できない」(本田哲郎)
(3)神をコントロールしようとする:自分たちの思い描く理想を立てあげようとする。そして、神の愛、あわれみ、助けを疑う。

2.神の国の具現
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)。
悔い改めとは、神の視点で物事を見る。神の国のパースペクティブ(展望)で生きること。福音宣教は神によってなされる。神と心一つにする人々を通して進められる。
一般的な人々と強い立場の人々は、悔い改めの実として、公義を行うようになる、神の国と神の義を求めて生きるようになる(ルカ3章10~14節)。
神は、神の国を具体化するために、弱い立場にいる人々、貧しい人々を用いる(イザヤ26章6節)。彼らも悔い改めが必要。彼らに意識の転換が起ことなし に、彼らの「神のかたち」は回復されない。彼らが自分たちを神の視点で見ることなしに、彼らの社会のなかに神の国は具現化されない。(ルカ14章34節) 「世が腐ってきた、光が失われたと、クリスチャンが文句を言うときは、自分たちが世の光、地の塩としての責任があることに目覚めるべき時」(ジョン・ス トット)。

福音はどうしても伝えられなければならない。貧しい人々、弱い人々にも、一般の人々にも、強い立場の人々にも。福音のみが、神のかたちを回復し、そこに神の国をもたらすのである。

この喜びを地の果てまで(2014.6.18)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ24章44~53節

キリストは、十字架に死んで3日目に復活され、その後40日目に昇天されました。「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)とありま す。これは、キリストが弟子たちと一緒におられた地上の生活とは異なる在り方になられて、いつでも、どこでも私たちと共にいてくださるということです(マ タイ28章20節b)。

1.それで十分なのか  50~53節
「ルカによる福音書」を締めくくる記述は、この福音書の続編とも言うべき「使徒言行録」に受け継がれています。ここには、弟子たちがキリストから祝福を受け、「大喜び」で神殿の境内で神をほめたたえていた幸いが語られています。
キリストは、「祝福しながら」共にいてくださるお方です。弟子たちは、そのキリストのご支配にあることを覚えて伏し拝みました。そして、故郷のガリラヤ ではなく、いかなる困難が待ち受けていても「大喜びでエルサレムに帰り」、いかなる時にも「神をたたえていた」のです。
ここに、キリストの福音の喜びに与かっている人々の姿があります。では、これでもう十分であり、この上何も必要ないのでしょうか。

2.なお必要を  47~49節
キリストは、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節、使徒言行録1章3~5節)と命令されています。ペンテコステの日に、聖霊が降り、聖霊に満たされる必要があったのです(使徒言行録2章1~4節)。
確かに、弟子たちは、神をほめたたえていましたが、その信仰は個人的な領域にとどまっていたものでした。神の計画は、彼らが教会を形成し、地の果てまで 福音を宣べ伝えるキリストの証人となることでした。その意味で、信仰が個人の幸せにとどまっていてはならないのです。そのためには、困難をも乗り越えさせ る聖霊の力が必要だったのです(使徒言行録1章8節)。
私たちは、救いの喜びを与えられています。しかし、ルカによる福音書で終わらずに、今もなお、使徒言行録に生きる必要があるのです。

主のもとへ立ち返れ(2014.6.15)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: ホセア14章2~10節 ルカ15章22~24節

父親と子どもとの関係は、結構難しい。その関係が崩れてしまったとき、その回復には非常に時間がかかる。ルカによる福音書15章に登場する弟息子とその父 との関係もそうだった。父の財産を生前に受け取り、自分の村から都会へ出た息子は、父を裏切ったという思いを持ちながら生きていただろう。父は自分に対し て憤っていると考えたに違いない。息子は落ちぶれて、間違いに気付いたが、父のもとにすぐに帰ろうとはしなかった。父は自分など受け入れてくれない、と 思っていたからだ。この息子と同じような状況にあったのが、ホセアの預言のことばを聞いたイスラエルである。そして、彼らにとっての父とは、イスラエルの 神であった。

1.もう憤ってはいない(ホセア14章5~9節)
神はイスラエルになんと語るのだろうか。「わたしの怒りは彼らを離れさった」(5節)。神がもう憤ってはいない。裏切り、背いたイスラエルを神はいや す。憤りではなく、喜んで愛し、関わる。神の癒しは、「露のようにわたしはイスラエルに臨」(6節)む。真夏の夜に降りる露によって、雨など一滴も降らな い地にも命を保持されるように、主はイスラエルの命を回復し、その美を回復する。そこは麗しい楽園となる(6~8節)。命が回復されたイスラエルが神に求 める時、神は彼らに答え、彼らを見守る(9節)。イスラエルは確かに裏切ったが、彼らへの神の憤りは終わっている。

2. 生きるために帰る(14章2~4節)
息子が父のところに帰るように、イスラエルは自分の神である主のもとへ帰れ、と預言者は招いている(2節)。もうゆるされているから、他の神のもとでは なく、自分が帰るべき神のもとに帰るのだ。元気になったから帰るのではない。つまずき、倒れているそのままで帰るのだ(2節)。彼らが神のもとに帰ったな ら、神の癒しがそこで現実となる。ゆるされ、よいものが与えられ(3節)、新しい生活、神のあわれみに満ちた生活がそこで始まる(4節)。
放蕩息子は、勇気を出して父の家に帰った。父は憤ってはいなかった。むしろ、走り寄り、最大の祝いの場を準備した(ルカ15章22~24節)。イエスが 十字架に掛かられたゆえに、父である神はもう憤ってはいない。むしろ、最大の祝宴を準備して待っていて待って折られる。父である神のもとに帰る父親にも、 子どもにも、神は新しい生涯、新しい関係を備えておられる。