メニュー 閉じる

ルカ

喜びの転換(2016.6.5)

宣教題  「喜びの転換」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章17~24節

喜びは、人が生きていくうえでの原動力となります。また何を喜びとしているかによって、その生き方が決まってきます。ですから信仰者は、主イエスがお持ちであった「聖霊による喜び」が私たちの喜びとなるという喜びの転換が必要です。そうすることによって、神に喜ばれる者となるのです。

1.天に結ばれた喜び  17~20節
主イエスに遣わされた72人は、主の御業をなす権威を授けられ、主の御名によって使命を成し遂げることができたことを喜びました(17節)。そのとき主イエスは、背後で祈りつつ、彼らを思いやる御心を持って、彼らの労苦を見守っておられたのです(18~19節)。
しかし、主イエスは、そのように主の御業がなされたことの結果としての喜びだけで終わるのではなく、状況や条件や立場によって左右されることのない天に結ばれていることを喜ぶように勧められました(20節)。この天に結ばれた喜びは、逆境や失敗や試練の中にあってもなお失われることなく、望みをもって歩ませる力となります。この喜びに生きるとき、真に神の期待に応えることができるのです。

2.聖霊による喜び  21~24節
続いて主イエスは、「天地の主である父」に祈られました。その祈りには、父なる神が讃えられることを喜び、父なる神の御心が成ることを喜び、父なる神との深い信頼を喜んでおられることが表れています。それが、「聖霊によって喜びにあふれて」というご経験でした(21~22節)。その喜びは、主イエスとその恵みのすばらしさを見聞きしていた弟子たちの喜びの経験でもあったのです(23~24節)。
それは、私たちの喜びでもあります。私たちは、主を賛美できることを喜ぶ以上に、主が賛美されることを喜ぶのです。さらに、主を信頼して、主の御心がなることを喜ぶのです(ローマ14章17~18節)。

共に重荷を負い合いつつ(2016.5.1)

宣教題  「共に重荷を負い合いつつ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章1~16節

私たちが負う重荷には、個々人別に負うものと、共通して負うものとがあります。キリスト者の全てが負うのは宣教の重荷であり、それを通して学び続け、内に安息を経験していくのです(マタイ11章28~30節)。神の民の共同体である教会は、この共通の重荷を負って遣わされていくのです(1~3節)。

1.委ねられた福音を共有する
キリストの平和に生きる者は、人々がその平和に与かれるように働きかけます(5~6節、ヨハネ14章27節)。それは、キリストによって神の恵みのご支配がすでに来ているのですから、そのチャレンジにお応えして、キリストの十字架と復活の御業を信じるように勧めます(9節)。ですから、心を頑なにし悔い改めないで、神の国の福音を拒み続けることのないように注意を促しています(10~16節)。
このように委ねられている共通の福音に対して、一人ひとりが応答していくならば、その福音のとおりの人生が始まり、福音を生き続けることになるのです。ここに、キリストによる最大の奇跡があるのです。

2.キリストに信頼する
キリスト者は、キリストに信頼しつつ生きることを証しする生活をするのですが、委ねられた福音を共有することにおいても同様です。すなわち、この福音を証しするに際しては、様々な試練によって不安や恐れを抱くことがあり、また生活事情や心遣いをすることによって振り回されやすいために、キリストに信頼して助けていただく必要があるのです(3へ4節、7~8節)。
キリストは、ご自身を信頼する者たちを「小羊」として遣わされます(3節)。小羊のようになられたキリストによる罪の贖いのゆえに、頑なな心を打ち砕いて、真の謙遜と愛に生きる小羊の心に変えて用いてくださるのです(1ペトロ1章18~19節、2章23~25節)。大いに、この宣教の重荷を負い合いつつ、語り伝えたいものです。

真実なキリストに向かって(2016.4.3)

宣教題  「真実なキリストに向かって」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章57~62節

ここで語られている三つの対話は、一貫した「従う」という主題を持っています。
それは、バプテスマの恵みに与った者が、終生変わらないでキリストに従う信仰に生きるようになるためです。ものを考える時にも、事を行う時にも、「これがキリストに従う生き方か」という問いを持ち続けるようになることです。

1.真実を貫かれたキリスト
キリストは、十字架と復活の時が近づくのを覚えられ、エルサレムへの道に向かわれました。そこには、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」(ルカ9章51節、口語訳)と、キリストは父なる神に全面的に明け渡してその御心に委ねられ、贖罪者としての使命を成し遂げようとされる決意が表れています。この平静さをもたれた輝きは、十字架上の最後の祈りに結集しています(同23章46節)。そして、「必ず」と言われたキリストの十字架と復活の御業に集中しています(同9章22節)。
ここに、キリストの真実な愛を見ます。キリストは、約束されたことは「必ず」成し遂げられることにおいて、御自身を否むことはなさらないという真実を貫かれました(2テモテ2章13節)。私たちは、この恵みをしっかり受け取るのです。

2.真実な心をもって従う
キリストを受け入れ、キリストに結ばれて歩む者は皆、キリストに学び、キリストに倣う、キリストの弟子です。そこで、キリストは、御自身に従うときに犠牲を払うことができるか、と問いかけておられます(57~58節)。また、従うのは今です、と命じておられます(59~60節)。そして、条件をつけないで福音に生きることを勧めておられます(61~62節)。これらは、真実の限りを尽くされたキリストに対して、真実な心で従うことの大切さを語られたのです。この福音書の著者ルカが、そのように生きた証人です(2テモテ4章11節)。
キリストは、「わたしに従いなさい」と私たちを召し出していてくださいます。キリストの真実な御心の分かるキリストの弟子としていただきましょう。

受け入れる力(2016.3.6)

宣教題  「受け入れる力」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章46~56節

主イエスは、どのような人でも受け入れてくださいます。人は、その主イエスを受け入れ、また他者をも受け入れ、互いに受け入れ合うことによって生きていくことができるのです。弟子たちの心と主イエスの心を比較することによって、受け入れることの大切なことを知るのです。

1.弟子たちの心
弟子たちは、だれがだれよりも偉いかとの議論をしています(46節)。そのような議論に至ったのは、弟子たちの間で比較し合ったり、その違いを意識し過ぎたりしたことによったと思われます。主イエスは、そのような彼らの心の内にある傲慢を見抜いておられます(47節)。
さらに、弟子たちは、自分たちの仲間になっていない者たちが主イエスのお名前を使って悪霊を追い出し、自分たちと関わりのない所で御業をしていることを非難しています(49~50節)。また、サマリア人が主イエスを歓迎しなかったことに怒っています(52~56節)。彼らの心には、自分たちのことを自慢する誤ったエリート意識があったのです。
弟子たちのこのような心は、主イエスに受け入れていただいていることを忘れた思いあがりから生じてくるものでした。

2.主イエスの心
主イエスは、当時の人々が何の役にも立たないと思っていた「子供」を受け入れておられます
(47節)。このことは、主イエスが、この子供に等しい存在であることを認める者を受け入れていてくださることを教えておられるのです。この主イエスを受け入れる者が、主イエスをお遣わしになった父なる神を受け入れる者なのです(48節)。主イエスは、価値や有用性によっておしはかられるのではなく、ただ罪によって失われていく命をいとおしんでいてくださるのです。そのために、十字架に向かって決然と歩み出されたのです(51節)。
主イエスを受け入れた者は、他者を受け入れるのです。ちょうど、主イエスが弟子たちの足を洗って彼らを受け入れられたように(ヨハネ13章1~20節)、私たちも互いに受け入れ合うことにより、新しい関係を造りだしていくのです。

まっすぐに生きる(2016.2.7)

宣教題  「まっすぐに生きる」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章37~45節

主イエスが、山の上で変貌されるという高く引き上げられた世界から下りてこられると、途方にくれている群衆及び悪霊に取りつかれた子とその父親の苦しみと悲しみの中に生きる世界が待ち受けていました。主イエスは、そのような状態を「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われて、神の偉大な御業をなされました。主イエスは、どのような方なのでしょうか。

1.顧みられる主  37~40節
「よこしまな時代」とは、主イエスに対してまっすぐに生きていない曲がった時代です(41節)。罪や汚れそして弱さと言ったものを持っている人間は、神との関係が曲がって不信仰な状態にあるのです。そのような中から救われて、神との関係がまっすぐにされる必要があるのです(使徒言行録2章38~41節)。
主イエスは、「見てやってください」(38節)と懇願する父親に対して、「あなたの子供をここに連れて来なさい」(41節)と招かれました。このようになさる主イエスは、曲がった不信仰な状態にある者に目を留めてくださり(ルカ1章48節)、惜みなくそして限りなく顧みてくださる方です。

2.忍耐し担われる主  4Ⅰ~45節
さらに主イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました(41節)。これは、付き合ってはいられないと、投げ捨てておられるのではありません。忍耐して、支え、持ち運ばれるという意味で言われたのです。そのようにして、主イエスは子供を癒して回復させられたのです。それを見て驚く人々に、主イエスは再びご自身の受難の予告をされました(44節)。
主イエスは、十字架の身代わりの死によって曲がった時代を変え、そして人を担い、持ち運び救われる方です(イザヤ46章3~4節)。ですから、神の前に曲がった歩みをしている私たちは、まず主イエスの前に膝をかがめて砕かれ悔いるとき、まっすぐに生きる者とされるのです。そのように生きる者の群れが、教会です。

栄光の主を見つめながら(2016.1.17)

宣教題  「栄光の主を見つめながら」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章28~36節

この「イエスの姿が変わる」との出来事は、そのご生涯の大きな転換点となりました。一路十字架を目指して進まれたからです(ルカ9章51節)。私たちの信仰の歩みは、自らの足元を見つつ、見つめるべき栄光の主イエスに目を留めていることが大切です(2ペトロ1章16~18節)。栄光の主イエスのどこに目を留めることが必要なのでしょうか。

1.変貌された主イエス
主イエスは、「祈るために」「祈っておられるうちに」とあるように、父なる神と交わっておられます(28~29節)。「ルカによる福音書」は、祈るイエスを重視して伝えています(3章21節、4章2節、4章42節、6章12節、9章18節、9章28~29節、22章41節、23章34節)。このように、主イエスの祈りに合わせて神の救いのご計画が進行したのです。主イエスの変貌は、継続された祈りの折になされた出来事だったのです。
主イエスの顔の様子が変わったのは、神である栄光のお姿に変貌されたことでした。これによって、主イエスが神であることを明らかにされました(35節)。私たちは、いかなる時にも、「栄光に輝くイエス」を仰ぎ見るものとさせていただきましょう。

2.使命を成し遂げる主イエス
主イエスは、ご自身が神であることを明らかにされるとともに、全ての人に救いをもたらされる僕としてご自身を現わされました。この時、ペトロたち三人の弟子たちは、その重荷を分かち合えないでいましたが、父なる神はモーセとエリヤとが「イエスと語り合」うことができるように遣わされたのです。彼らは、神の民が神の救いにあずかるための重荷を持って、執り成し祈り、苦闘した経験があったからです(30~33節)。
そこで語り合われたことは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」でした。最後についてとは、主イエスが十字架の血潮によって成し遂げられる救いです。
私たちは、主イエスに聞き続け、贖い主である主イエスを見失わないで拝するのみです(35~36節)。

赦しを求めて(2015.11.8)

宣教題  「赦しを求めて」           宣教 高木 実 師
聖 書  ルカ23章26~43節

十字架を取り巻く三種類の人々は、人の罪深さの三つのタイプを示しています。
一つ目は、人の苦しみや痛みに対する無感覚、無関心な冷淡さです。十字架で苦しむイエス・キリストを前に、兵士達はイエスの着物をゲームで取り合っているのです(34節)。
二つ目は、自分の罪を認めない愚かさです。自分の罪のゆえ、同じく十字架につけられた強盗は、自分のことは柵に上げてイエス・キリストを罵っています(39節)。神の前に、自分の罪を認めることができない…これこそ最も根本的な罪だと聖書は教えています。
三つ目は、人の心に潜む残忍さです。祭司長、律法学者という宗教的な指導者たちまでもが、苦しむイエス・キリストに追い打ちをかけるように「あざ笑って」います(35節)。人の不幸や苦しみが、もっとひどくなればいいという残忍さを見ることができます。
一方のイエス・キリストは「彼らをお赦しください」(34節)と祈っています。このように十字架は醜い人間の罪の暗黒の真っ只中にこそ与えられた、神の赦しと和解をもたらす希望のメッセージなのです。
強盗の一人は自分の罪を認めました(41節)。「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11~24節)の弟息子は放蕩三昧したのち、自分の罪に気付き父のもとに立ち返ります。その悔い改めた弟息子を待ち受けていたのは父親の熱烈歓迎でした。神は悔い改めて神のもとに立ち帰ってくるのを、いつも待っておられるお方なのです。この強盗の一人も、放蕩息子のように父なる神に受け入れられ、その胸に抱き締められていたと言えるでしょう。神が与えてくださる救いは、良い行いや正しく生きた人生の報いとして与えられるものではありません。救いとは、このように受けるに値しない者に与えられる、まさに恵みなのです。

日々、主とともに(2015.11.1)

宣教題  「日々、主とともに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  詩編68編20~21節、ルカ9章18~27節

主が「日々、わたしたちを担」っていてくださるのですから(詩編68編20節)、私たちは「日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従っていくのです(ルカ9章23節)。
私たちの信仰は、特別なこと、特別な日のためだけにあるのではなく、普通の日々、平凡な生活にあってこそ意味があるのです。

1.日々私たちを担ってくださる主
恵みの主が救い、導き、顧みていてくださることに、神の民は深い信頼を寄せています(詩編68編20~21節)。人が持つ最も重いに荷は、罪と死の重荷ですが、そのような重荷を担っている私自身はもっと重い荷といえるでしょう。
主イエスは、人の罪と死そのものを担ってくださいました。ご受難を受けられ、十字架において捨てられ、殺され、その死から復活されました(ルカ9章21~22節)。私たちは、この救い主イエスに対して、自分の口でまた自分の存在をもって信仰を言い表わすのです(同9章18~20節)。
主イエスは、時々思い出したようにではなく、あるいは気まぐれにではなく、日々に私たちを担っていてくださるのです。

2.日々十字架を負う私たち
私たちが自分を捨てて日々自分の十字架を負うことは、主イエスに従う者に与えられている喜びの証しです(ルカ9章23節)。私たちは、それを避けることもできますが、主イエスのために、福音のために背負わせていただくことにより、主の栄光を拝することができるのです。
そのようにして、日々の日常生活がつくられていくならば、他者を生かし、教会を生かし、結果としてその人自身も生かすことになるのです(同24~25節)。私たちは、自分の十字架を自分だけの頑張りで背負うのではなく、日々に私たちを担ってくださる主イエスにすべてを委ねながら歩むのです。

あなたがた自身で(2015.10.4)

宣教題  「あなたがた自身で」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章10~17節

主イエスは、群衆を深い憐れみの御心をもって恵みの御業をなされました(11節、マルコ6章34節)。続いて主イエスは弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)と恵みの御業に加わるように招かれ、彼らを用いられました。それは、主イエスの憐れみと豊かな恵みに生かされている者が、共通して経験することです。

1.主イエスは仕える力を供給される
主イエスは、弟子たちが五千人の人たちに食べ物を与えることができないことを知っておられ、ご自身がなさろうとされることを腹の中にしまっておいて、弟子たちを試されました(ヨハネ6章5~9節)。このようにして主イエスは弟子たちに、自分たちでは何もできない者であることを、とことん教えようとされたのです。そして、主イエスが五千人に食べ物を供給しようとされていることを明らかにされたのです。
この出来事を通して、主イエスは、福音を伝え福音に仕える者をどのように用いられるかを教えておられます。それは、私たちの無力さを分からせていただき、主イエスの恵みによって砕かれ、恵みの器にさせていただくことなのです。恵みの供給と力は、主イエスからくるのです。

2.主イエスはささげるものを用いられる
何と主イエスは弟子に、「それをここに持って来なさい」と言われました(マタイ14章18節)。そして、五つのパンと二匹の魚は主イエスの手に渡され、祈りのうちに祝福されて、弟子たちを通して配られたのです。
私たちに託されているものが、どんなに小さなものであっても、それが主イエスに渡されると何倍にも祝福され、その結果私たちを通して用いられるのです。ですから、私たちは、主イエスが「あなたがた自身で」と言われるときに、その力は主イエスから来ることを知って、「わたしをささげます」と主イエスにお返しすることが求められているのです。

キリストと共に労する(2015.9.6)

宣教題  「キリストと共に労する」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章1~6節

私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぎ、受け取り直し、再発見していくことが大切です。クリスチャンは、主イエスの弟子であるということもその一つです。主イエスの弟子は、いつも主イエスと一緒にいて(8章1節)、福音のために主イエスと共に労する者です。

1. 福音を委託されているから
主イエスは、弟子たちを遣わして「神の国を宣べ伝え」(2節)、「福音を告げ知らせ」(6節)なさいました。神の国の福音は、人が造り出すものではなく、主イエスご自身が差し出され、無代価で提供されたものです。それを委託された主の弟子たちは、「福音に共にあずかる」(1コリント9章23節)ことを切に望んだのです。
神の国は、ちょうど家屋の大黒柱のようなもので、主イエスの恵みの支配の中にあるならば、そのもとで支えられ、守られ、強められるという大いなる救いの中に保たれるのです。そこにおいては、人間の霊的な、精神的な、肉体的な弱さを覚えるときにも、救いの恵みに与らせていただけるのです。
主イエスは、私たち一人一人に、教会に、神の国の福音を託していて下さるのです。

2. 福音を伝える力が備えられているから
続いて主イエスは、「旅には何も持って行ってはならない」(3節)と言われました。神の国の福音を伝えるために必要なものは、神が備えていてくださるので、神を信じる信仰を持って行くように勧められたのです。ないものに目を留めるのではなく、その時その時に必要なものを備えてくださる神に目を留めて信頼することです。そのために、主イエスは、ご自身がお持ちの力と権威をもって、主イエスの弟子たちを教え、訓練し、造り上げてくださるのです(1節)。
主イエスの愛に駆り立てられ(1ヨハネ4章10節、2コリント5章14節)、福音を恥としないで(ローマ1章16節)、神の国の福音を語る力を与えられ、用いていただきましょう。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。

力尽きる時に(2015.8.9)

宣教題  「力尽きる時に」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章40~56節

ここでは、二つの話しが一つの物語として、引き離すことのできない共通の事柄が語られています。すなわち、自分たちの力は尽きたと思える病と死との戦いの連続の中にあって、なお、主イエスの御言葉を聴き、主イエスを信じ仰いでいます。信じるとは、どういうことなのでしょうか。

1.主イエスに任せる  40~42節、49~56節
人々にとって、主イエスの魅力は、このお方は必ず自分たちの願いを聴き届けてくださるお方であるということでした。会堂長ヤイロは、死にかけている一人娘を救いたいとの切実かつ緊急の必要から、「イエスの足もとにひれ伏した」のでした。その行為は、主イエスの権威にすべてを任せるとの信仰の表れでした。
ところが、主イエスが向かわれる途中で娘は死んだとの知らせが届きます。その報告を受けられた主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は救われる」と語られました。そして、生死の権威を手中に治めておられる主イエスは、娘を死の状態から解き放たれたのです。
わたしに任せなさい、と招かれる主イエスこそ、私たちの望みです。

2.主イエスを告白する  42~48節
12年間も出血が止まらなかった女性は、家庭や社会から隔離され、ユダヤ人の礼拝にも出席できませんでした。彼女の苦痛と悩みは、望みを失わせるものでした。
ところが、彼女が主イエスに近づき、「後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」のです。「わたしに触れたのはだれか」との主イエスの問いに、彼女は「震えながらひれ伏し」、事の次第を皆の前で言い表わしました。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」との救いに与かる新たな信仰の歩みを始めました。
主イエスをひそかに信じているだけでなく、そのことを公に言い表すことが求められているのです。

解き放たれて(2015.7.12)

宣教題  「解き放たれて」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章26~39節

ここに登場する「悪霊に取りつかれている男」の姿は、特別な状況に置かれた人のことを語りつつ、罪と死と滅びにつながれた人の生き方を表しています。そして、主イエスは、そのような人たちをトータルにいやされることを証言しておられるのです。

1.人と人の関係をいやされる
この男は、衣服を身に着けないで墓場を住まいとし、昼夜わめき叫んで自らをコントロールできないでいました。悪魔は、こうしたことを通して、当人だけでなく、周りを傷つけ、破壊しようとしてくるのです。その結果、人間関係がうまくいかない状態にしてしまうのです。しかし、主イエスは、そのような所からこの男をいやされました。
私たちは、主イエスの十字架のもとで、人と人の関係をいやしていただき回復していただけることを信ずるのです。

2.私自身をいやされる
この男は、自分で自分の体に傷をつけていたとあります(マルコ5章5節)。主イエスは、その男の悲惨さに身を置いていやされました。その時彼は、静かにいやし主イエスと向き合って座っています(35節)。
私たちは、善をする力のない惨めな罪人ですが、主イエスの十字架の救いによって解き放っていただけると信ずるのです(ローマ7章24節~8章1節参照)。

3.正しい神理解に変えられる
いやされる前のこの男は、主イエスを高く聖なる神と言い表わしつつも、自分に関わらないでほしと願っていました(28節)。ところが、いやされた後は、イエスの足もとに座っています(35節)。彼は、苦しめる神ではなく、救いの神を知るという正しい神理解に変えられたのです。
私たちは、いかなる時も、救いの神である主イエスにより頼む生き方をするのです。
私たちは、こんなに大きなことをしてくださった主イエスを言い広めていくのです。

起き上がるキリスト(2015.6.7)

宣教題  「起き上がるキリスト」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章22~25節

眠ることと目覚めることとは、私たちの人生の重要なことがらです。それを主なる神が支えていてくださるとの自覚は大切なことです(詩編3編6節参照)。主イエスと弟子たちが一緒に舟に乗っておられたとき、途中突風が起こり、今にも舟は沈みそうになりましたが、主イエスは熟睡しておられました。弟子たちは、どうだったでしょうか。

1.主イエスに向かって叫ぶ
弟子たちは、突然の突風に不安を抱きました。それだけではなく、主イエスが眠ってしまわれて何もしてくださらないことに、より一層の不安がつのりました。弟子たちは、「私たちはおぼれて死にそうです」(新改訳聖書)と信仰のない叫びをしました。その叫びに答えられた主イエスが、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になったのです。このように信仰を失った者の叫びに、主イエスは耳を傾けてくださるのです。
天地の創造主であり、自然界を治められる主なる神は、苦難に際して助けを求めて叫ぶとお答えくださいます(詩編107編28~31節参照)。この主イエスを体験的に知る者は幸いです。そして、このお方に叫び求めることができる人は幸いです。

2.主イエスを深く信頼する
起き上がってくださった主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と弟子たちの信仰を目覚めさせようとされました。それに対して弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろうか。命じれば風も波も従うではないか」と語り合うほどに、主イエスを深く信頼するよう導かれました。
主イエスと共に舟に乗る姿は、聖徒たちの人生と彼らが集められた教会が歩んでいく象徴的な姿と受けとめられています。その歩みの途上において、多くの荒波や問題の中を通されますが、絶えず共におられる主イエスから目を離さないで信頼する歩みを形づくっていくことが大切です。主イエスに対する深い信頼は、主イエスが持たれている静けさの支配をいただく歩みとなるのです。

御言葉によるつながり(2015.5.10)

宣教題  「御言葉によるつながり」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ8章16~21節

私たちは、御言葉によって足元を照らしていただいて歩む生活をしています(詩編119編105節)。ですから、日々に祈りつつ、一歩一歩御言葉の光の中を踏み出すのです。
私たちは、主なる神に信頼して、忍耐しつつ実を結ぶ生活に招かれています(8章15節)。そのためには、受けた御言葉をどうしていけばよいでしょうか。

1.受けた御言葉を語る 16~18節
「ともし火」のたとえをもって語られていることは、御言葉をどう聞くかということを表しています。これは、聞き洩らさないで一所懸命に聞くというよりむしろ、御言葉を聞いたなら、それを他の人が分かるように語り聞かせるようにと勧めているのです。
すなわち、聞かされて御言葉が、一人一人の個人の中で照り輝くだけではなく、語る人と同じ渇き・求め・救い・必要・望みを持つ他の人に光となり命となるのです。主イエスは、それこそが、御言葉を聞いたということであると語られたのです。「主よ。私はともし火がついているのですが、心と生活の隅っこに追いやっています。どうか、部屋の真ん中に置けますように」と祈ろうではありませんか。
2.受けた御言葉に生きる 19~21節
群衆が主イエスの話される種を蒔く人のたとえやともし火のたとえに夢中になって聞いていたときに、母マリアと兄弟たちがイエスに会いたいとやって来ました。そのとき、主イエスは、彼らが肉親であることには違いないが、「神の言葉を聞いて行なう人」こそが真の母であり兄弟であることを明らかにされました。母マリアは、すでにそのような人として備えられていました(ルカ1章26~38節)。
血筋によるつながりは、この世における最高のつながりですが、御言葉による霊的つながりは、永遠のつながりと言えましょう。御言葉による霊的つながりこそが、親子や夫婦の家族関係の基本であり、家族のなかにある様々な課題や問題の解決は、贖い主イエスとの交わりを通してなされるのです。