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ルカ

福音を生きる(2016.10.2)

宣教題  「福音を生きる」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  1テサロニケ2章1~12節

「福音」は(2、4、8、9節)、主イエスの十字架と復活に対する信仰によって、永遠の滅びから永遠の救いへと導くものです。主イエスは、ご自身が信頼され、信任されて「福音をゆだねられている」(4節a)人を通して福音を語らせなさいます。そして、その福音を生きる人の証しを用いられます。どのように生きるのでしょう。
1.神に喜ばれることを  4節
パウロたちは、激しい苦難の中でも「神に勇気づけられ」福音を語りました(1~2節)。その動機は、「神に喜んでいただくため」ということにありました(4節b)。その結果、福音を語ることが、自分の喜びとなり、人にも喜びを与えることとなったのです。それが生活姿勢にも表れています(5節~7節、9節)。
福音を生きる者は、この動機の心をいただいているか神から吟味されるのです。
2.自分自身を分かち与えることを  8節
パウロは、福音を伝える人々をいとおしく思う母のような心をもって愛し抜きました(7節b~8節)。福音を分かち合うことは、「自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどに」というように、福音を生きることにつながるのです。
福音を語り証しする者は、主の愛をいただいて、人に対して自分自身を分かち合うことが必要なのです。
3.きよい生活によって裏打ちされていることを  10節
パウロは、父のような心をもって一人一人に権威ある指導をしました(11~12節)。しかし、それには、主イエスによってきよくされて生きるということに裏打ちされていることが大切です(10節)。それは、欠点がない者であるといっているのではなく、「非難されること」がないという点において、動機と心の願いにおいて純粋で、愛において誠実であるということです。
福音を語る者は、このように福音を生きることが必要なのです。

祈ることをまなぶ喜び(2016.9.11)

宣教題  「祈ることをまなぶ喜び」      宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ11章1~13節

神との交わりであり会話である祈りが、貧弱なものになってしまっていることがあります。そのような時、「主よ・・・わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)と、弟子たちが主イエスに願ったことに立ち止まることが必要です。祈りを教えられ、まなぶことに喜びを見いだすのです。

1.まねる祈り  2~4節
ここで主イエスは、主の祈りを教えておられます。「父よ」と親密な関係をもって、神の御名を賛美し、神の恵みの支配が実現していくように祈ります。そこから始まる実生活が、日々の糧が与えられ、罪を赦していただき、試みからの解放がなされるようにと祈ります。この祈りをまなぶ、まねることから、その祈りの言葉を味わい、祈りを重ねていくのです。
神は、たどたどしい祈りやうめくような祈りを聞き分けてくださいます。それとともに、主の祈りに代表されるように、教会の歴史の中で培われた祈りをまねることを通して、豊かな祈りへと導かれるのです。

2.愛しとりなす祈り  5~10節
ここでのたとえ話は(5~8節)、「しつように」臆面もなくしきりに求める祈りの姿勢を語っています。積極的に求め続け、探し続け、たたき続けて願い続けています(9~10節)。このように、遠慮することなく、積極的であることが必要ですが、それは神を強制して自分の要求を承服させる祈りではありません。その祈り求めることが、神との正しい関係をもって、たとえ話にあるように人と人との愛の関係が成り立つところの祈りであることです。
私たちが、まねる祈り、愛しとりなす祈りをまなぶ喜びへと導かれるために、聖霊を与えていただくことを求めるのです(13節)。聖霊は、どう祈ればよいか分からない弱い私たちを助け、執り成し続けていてくださるからです(ローマ8章26~27節)。

必要なことはただ一つ(2016.7.31)

宣教題  「必要なことはただ一つ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章36~42節

「必要なことはただ一つだけである」と語られた主イエスの御言葉は(41~42節)、今のこの社会を駆け巡る様々な情報の中で、行き先を見失いそうになっている私たちに向けられている御言葉である。

1.主イエスを見失わない
ここでは、「もてなし」という言葉に表されている奉仕を限定して、御言葉に聴従することを推奨しているのではありません。それは、先回の箇所での勧めにあったことからしても明らかです(25~37節)。主イエスは、マルタが「思い悩み、心を乱して」もてなし奉仕していることに対して(41節)、必要な一事を欠いていると言われたのです。それが、マリアを不満に思い、非難し、あげくは「何ともお思いになりませんか」と主イエスを非難することとなって表れています(40節)。
その原因は、マルタが、主イエスに心を配りながらも、イエスが「主」であることを見失って、自分が主人となっていたことにありました。私たちは、その信仰の歩みにおいて「主」イエスを見失わないようにすることが必要です(ローマ14章9節)。

2.御言葉に聴くことが乏しくならない
主イエスは、マルタとマリアからもてなされることを心からお受けになっておられます。先立って主イエスは、彼女たちが御言葉のもてなしに与るよう招いておられます。そこで、マリアが「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39節)ことを必要な一事と言われたのです。御言葉に聴き続けることによって、どう生きていくかが造り出されていくからです(ローマ10章17節)。
信仰の歩みは、日々のあらゆる礼拝の場において、ありとあらゆる機会において、御言葉に聴き続ける経験をしながら、主イエスへの「もてなし」にいそしむことができるのです。主イエスが恵みによって選んでくださったので「マリアは良い方を選んだ」のです(42節)。御言葉に聴き続ける信仰の歩みは、その行動を大胆にします。

憐れみに生きる(2016.7.3)

宣教題  「憐れみに生きる」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章25~37節

この譬え話に登場する祭司やレビ人は、旅の途中で傷ついた人を見つけながら避けて通りました。他方サマリア人は、傷ついた人の隣人になって、その重荷を負い愛のわざをしています。私たちが、憐れみに生きるとは、どういうことなのでしょうか。

1.憐みの心に生きる
律法の専門家は、主イエスと問答しています(25~29節)。彼は、永遠の命を継ぐのは、神への愛と隣人への愛に生きることであると知っていました。続いて主イエスがそれを実行するように言われたことに対して、彼は「では、わたしの隣人とはだれですか」と自分を正当化するように問い返しています。
それに答えるように主イエスが語られた譬え話は、誰が自分にとって隣人かではなくて、助けを必要としているその人にとって誰が隣人なのかを問われているのです(30~35節)。「その人を助けた人です」と答えた律法の専門家に、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました(36~37節)。今日まで、このような隣人を憐れむ心をもったグッド・サマリタン運動が展開されてきました。

2.主の憐れみによって生かされる
私たちには、祭司やレビ人を非難できない現実があります。人の痛みを察する想像力の貧しさ、愛の思いの貧しさを知っているからです。
しかし、私たちは、神を愛する前提として、神に無条件で愛されていることを知っています。主イエスの中に神の愛が明らかにされていることを見聞きしています(10章23~24節)。この譬え話に登場する憐れみに生きるサマリア人こそ、主イエスご自身を表していると言えます。
主イエスの十字架における無限の愛によって、私たちは救われたのです。ですから私たちは、主イエスの憐れみに生かされて、限りある仕方で憐れみに生きる者にされるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」と聴き続けるのが教会です。

喜びの転換(2016.6.5)

宣教題  「喜びの転換」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章17~24節

喜びは、人が生きていくうえでの原動力となります。また何を喜びとしているかによって、その生き方が決まってきます。ですから信仰者は、主イエスがお持ちであった「聖霊による喜び」が私たちの喜びとなるという喜びの転換が必要です。そうすることによって、神に喜ばれる者となるのです。

1.天に結ばれた喜び  17~20節
主イエスに遣わされた72人は、主の御業をなす権威を授けられ、主の御名によって使命を成し遂げることができたことを喜びました(17節)。そのとき主イエスは、背後で祈りつつ、彼らを思いやる御心を持って、彼らの労苦を見守っておられたのです(18~19節)。
しかし、主イエスは、そのように主の御業がなされたことの結果としての喜びだけで終わるのではなく、状況や条件や立場によって左右されることのない天に結ばれていることを喜ぶように勧められました(20節)。この天に結ばれた喜びは、逆境や失敗や試練の中にあってもなお失われることなく、望みをもって歩ませる力となります。この喜びに生きるとき、真に神の期待に応えることができるのです。

2.聖霊による喜び  21~24節
続いて主イエスは、「天地の主である父」に祈られました。その祈りには、父なる神が讃えられることを喜び、父なる神の御心が成ることを喜び、父なる神との深い信頼を喜んでおられることが表れています。それが、「聖霊によって喜びにあふれて」というご経験でした(21~22節)。その喜びは、主イエスとその恵みのすばらしさを見聞きしていた弟子たちの喜びの経験でもあったのです(23~24節)。
それは、私たちの喜びでもあります。私たちは、主を賛美できることを喜ぶ以上に、主が賛美されることを喜ぶのです。さらに、主を信頼して、主の御心がなることを喜ぶのです(ローマ14章17~18節)。

共に重荷を負い合いつつ(2016.5.1)

宣教題  「共に重荷を負い合いつつ」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ10章1~16節

私たちが負う重荷には、個々人別に負うものと、共通して負うものとがあります。キリスト者の全てが負うのは宣教の重荷であり、それを通して学び続け、内に安息を経験していくのです(マタイ11章28~30節)。神の民の共同体である教会は、この共通の重荷を負って遣わされていくのです(1~3節)。

1.委ねられた福音を共有する
キリストの平和に生きる者は、人々がその平和に与かれるように働きかけます(5~6節、ヨハネ14章27節)。それは、キリストによって神の恵みのご支配がすでに来ているのですから、そのチャレンジにお応えして、キリストの十字架と復活の御業を信じるように勧めます(9節)。ですから、心を頑なにし悔い改めないで、神の国の福音を拒み続けることのないように注意を促しています(10~16節)。
このように委ねられている共通の福音に対して、一人ひとりが応答していくならば、その福音のとおりの人生が始まり、福音を生き続けることになるのです。ここに、キリストによる最大の奇跡があるのです。

2.キリストに信頼する
キリスト者は、キリストに信頼しつつ生きることを証しする生活をするのですが、委ねられた福音を共有することにおいても同様です。すなわち、この福音を証しするに際しては、様々な試練によって不安や恐れを抱くことがあり、また生活事情や心遣いをすることによって振り回されやすいために、キリストに信頼して助けていただく必要があるのです(3へ4節、7~8節)。
キリストは、ご自身を信頼する者たちを「小羊」として遣わされます(3節)。小羊のようになられたキリストによる罪の贖いのゆえに、頑なな心を打ち砕いて、真の謙遜と愛に生きる小羊の心に変えて用いてくださるのです(1ペトロ1章18~19節、2章23~25節)。大いに、この宣教の重荷を負い合いつつ、語り伝えたいものです。

真実なキリストに向かって(2016.4.3)

宣教題  「真実なキリストに向かって」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章57~62節

ここで語られている三つの対話は、一貫した「従う」という主題を持っています。
それは、バプテスマの恵みに与った者が、終生変わらないでキリストに従う信仰に生きるようになるためです。ものを考える時にも、事を行う時にも、「これがキリストに従う生き方か」という問いを持ち続けるようになることです。

1.真実を貫かれたキリスト
キリストは、十字架と復活の時が近づくのを覚えられ、エルサレムへの道に向かわれました。そこには、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」(ルカ9章51節、口語訳)と、キリストは父なる神に全面的に明け渡してその御心に委ねられ、贖罪者としての使命を成し遂げようとされる決意が表れています。この平静さをもたれた輝きは、十字架上の最後の祈りに結集しています(同23章46節)。そして、「必ず」と言われたキリストの十字架と復活の御業に集中しています(同9章22節)。
ここに、キリストの真実な愛を見ます。キリストは、約束されたことは「必ず」成し遂げられることにおいて、御自身を否むことはなさらないという真実を貫かれました(2テモテ2章13節)。私たちは、この恵みをしっかり受け取るのです。

2.真実な心をもって従う
キリストを受け入れ、キリストに結ばれて歩む者は皆、キリストに学び、キリストに倣う、キリストの弟子です。そこで、キリストは、御自身に従うときに犠牲を払うことができるか、と問いかけておられます(57~58節)。また、従うのは今です、と命じておられます(59~60節)。そして、条件をつけないで福音に生きることを勧めておられます(61~62節)。これらは、真実の限りを尽くされたキリストに対して、真実な心で従うことの大切さを語られたのです。この福音書の著者ルカが、そのように生きた証人です(2テモテ4章11節)。
キリストは、「わたしに従いなさい」と私たちを召し出していてくださいます。キリストの真実な御心の分かるキリストの弟子としていただきましょう。

受け入れる力(2016.3.6)

宣教題  「受け入れる力」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章46~56節

主イエスは、どのような人でも受け入れてくださいます。人は、その主イエスを受け入れ、また他者をも受け入れ、互いに受け入れ合うことによって生きていくことができるのです。弟子たちの心と主イエスの心を比較することによって、受け入れることの大切なことを知るのです。

1.弟子たちの心
弟子たちは、だれがだれよりも偉いかとの議論をしています(46節)。そのような議論に至ったのは、弟子たちの間で比較し合ったり、その違いを意識し過ぎたりしたことによったと思われます。主イエスは、そのような彼らの心の内にある傲慢を見抜いておられます(47節)。
さらに、弟子たちは、自分たちの仲間になっていない者たちが主イエスのお名前を使って悪霊を追い出し、自分たちと関わりのない所で御業をしていることを非難しています(49~50節)。また、サマリア人が主イエスを歓迎しなかったことに怒っています(52~56節)。彼らの心には、自分たちのことを自慢する誤ったエリート意識があったのです。
弟子たちのこのような心は、主イエスに受け入れていただいていることを忘れた思いあがりから生じてくるものでした。

2.主イエスの心
主イエスは、当時の人々が何の役にも立たないと思っていた「子供」を受け入れておられます
(47節)。このことは、主イエスが、この子供に等しい存在であることを認める者を受け入れていてくださることを教えておられるのです。この主イエスを受け入れる者が、主イエスをお遣わしになった父なる神を受け入れる者なのです(48節)。主イエスは、価値や有用性によっておしはかられるのではなく、ただ罪によって失われていく命をいとおしんでいてくださるのです。そのために、十字架に向かって決然と歩み出されたのです(51節)。
主イエスを受け入れた者は、他者を受け入れるのです。ちょうど、主イエスが弟子たちの足を洗って彼らを受け入れられたように(ヨハネ13章1~20節)、私たちも互いに受け入れ合うことにより、新しい関係を造りだしていくのです。

まっすぐに生きる(2016.2.7)

宣教題  「まっすぐに生きる」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章37~45節

主イエスが、山の上で変貌されるという高く引き上げられた世界から下りてこられると、途方にくれている群衆及び悪霊に取りつかれた子とその父親の苦しみと悲しみの中に生きる世界が待ち受けていました。主イエスは、そのような状態を「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言われて、神の偉大な御業をなされました。主イエスは、どのような方なのでしょうか。

1.顧みられる主  37~40節
「よこしまな時代」とは、主イエスに対してまっすぐに生きていない曲がった時代です(41節)。罪や汚れそして弱さと言ったものを持っている人間は、神との関係が曲がって不信仰な状態にあるのです。そのような中から救われて、神との関係がまっすぐにされる必要があるのです(使徒言行録2章38~41節)。
主イエスは、「見てやってください」(38節)と懇願する父親に対して、「あなたの子供をここに連れて来なさい」(41節)と招かれました。このようになさる主イエスは、曲がった不信仰な状態にある者に目を留めてくださり(ルカ1章48節)、惜みなくそして限りなく顧みてくださる方です。

2.忍耐し担われる主  4Ⅰ~45節
さらに主イエスは、「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました(41節)。これは、付き合ってはいられないと、投げ捨てておられるのではありません。忍耐して、支え、持ち運ばれるという意味で言われたのです。そのようにして、主イエスは子供を癒して回復させられたのです。それを見て驚く人々に、主イエスは再びご自身の受難の予告をされました(44節)。
主イエスは、十字架の身代わりの死によって曲がった時代を変え、そして人を担い、持ち運び救われる方です(イザヤ46章3~4節)。ですから、神の前に曲がった歩みをしている私たちは、まず主イエスの前に膝をかがめて砕かれ悔いるとき、まっすぐに生きる者とされるのです。そのように生きる者の群れが、教会です。

栄光の主を見つめながら(2016.1.17)

宣教題  「栄光の主を見つめながら」        宣教 川原﨑 晃牧師
聖 書  ルカ9章28~36節

この「イエスの姿が変わる」との出来事は、そのご生涯の大きな転換点となりました。一路十字架を目指して進まれたからです(ルカ9章51節)。私たちの信仰の歩みは、自らの足元を見つつ、見つめるべき栄光の主イエスに目を留めていることが大切です(2ペトロ1章16~18節)。栄光の主イエスのどこに目を留めることが必要なのでしょうか。

1.変貌された主イエス
主イエスは、「祈るために」「祈っておられるうちに」とあるように、父なる神と交わっておられます(28~29節)。「ルカによる福音書」は、祈るイエスを重視して伝えています(3章21節、4章2節、4章42節、6章12節、9章18節、9章28~29節、22章41節、23章34節)。このように、主イエスの祈りに合わせて神の救いのご計画が進行したのです。主イエスの変貌は、継続された祈りの折になされた出来事だったのです。
主イエスの顔の様子が変わったのは、神である栄光のお姿に変貌されたことでした。これによって、主イエスが神であることを明らかにされました(35節)。私たちは、いかなる時にも、「栄光に輝くイエス」を仰ぎ見るものとさせていただきましょう。

2.使命を成し遂げる主イエス
主イエスは、ご自身が神であることを明らかにされるとともに、全ての人に救いをもたらされる僕としてご自身を現わされました。この時、ペトロたち三人の弟子たちは、その重荷を分かち合えないでいましたが、父なる神はモーセとエリヤとが「イエスと語り合」うことができるように遣わされたのです。彼らは、神の民が神の救いにあずかるための重荷を持って、執り成し祈り、苦闘した経験があったからです(30~33節)。
そこで語り合われたことは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」でした。最後についてとは、主イエスが十字架の血潮によって成し遂げられる救いです。
私たちは、主イエスに聞き続け、贖い主である主イエスを見失わないで拝するのみです(35~36節)。

赦しを求めて(2015.11.8)

宣教題  「赦しを求めて」           宣教 高木 実 師
聖 書  ルカ23章26~43節

十字架を取り巻く三種類の人々は、人の罪深さの三つのタイプを示しています。
一つ目は、人の苦しみや痛みに対する無感覚、無関心な冷淡さです。十字架で苦しむイエス・キリストを前に、兵士達はイエスの着物をゲームで取り合っているのです(34節)。
二つ目は、自分の罪を認めない愚かさです。自分の罪のゆえ、同じく十字架につけられた強盗は、自分のことは柵に上げてイエス・キリストを罵っています(39節)。神の前に、自分の罪を認めることができない…これこそ最も根本的な罪だと聖書は教えています。
三つ目は、人の心に潜む残忍さです。祭司長、律法学者という宗教的な指導者たちまでもが、苦しむイエス・キリストに追い打ちをかけるように「あざ笑って」います(35節)。人の不幸や苦しみが、もっとひどくなればいいという残忍さを見ることができます。
一方のイエス・キリストは「彼らをお赦しください」(34節)と祈っています。このように十字架は醜い人間の罪の暗黒の真っ只中にこそ与えられた、神の赦しと和解をもたらす希望のメッセージなのです。
強盗の一人は自分の罪を認めました(41節)。「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11~24節)の弟息子は放蕩三昧したのち、自分の罪に気付き父のもとに立ち返ります。その悔い改めた弟息子を待ち受けていたのは父親の熱烈歓迎でした。神は悔い改めて神のもとに立ち帰ってくるのを、いつも待っておられるお方なのです。この強盗の一人も、放蕩息子のように父なる神に受け入れられ、その胸に抱き締められていたと言えるでしょう。神が与えてくださる救いは、良い行いや正しく生きた人生の報いとして与えられるものではありません。救いとは、このように受けるに値しない者に与えられる、まさに恵みなのです。

日々、主とともに(2015.11.1)

宣教題  「日々、主とともに」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  詩編68編20~21節、ルカ9章18~27節

主が「日々、わたしたちを担」っていてくださるのですから(詩編68編20節)、私たちは「日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従っていくのです(ルカ9章23節)。
私たちの信仰は、特別なこと、特別な日のためだけにあるのではなく、普通の日々、平凡な生活にあってこそ意味があるのです。

1.日々私たちを担ってくださる主
恵みの主が救い、導き、顧みていてくださることに、神の民は深い信頼を寄せています(詩編68編20~21節)。人が持つ最も重いに荷は、罪と死の重荷ですが、そのような重荷を担っている私自身はもっと重い荷といえるでしょう。
主イエスは、人の罪と死そのものを担ってくださいました。ご受難を受けられ、十字架において捨てられ、殺され、その死から復活されました(ルカ9章21~22節)。私たちは、この救い主イエスに対して、自分の口でまた自分の存在をもって信仰を言い表わすのです(同9章18~20節)。
主イエスは、時々思い出したようにではなく、あるいは気まぐれにではなく、日々に私たちを担っていてくださるのです。

2.日々十字架を負う私たち
私たちが自分を捨てて日々自分の十字架を負うことは、主イエスに従う者に与えられている喜びの証しです(ルカ9章23節)。私たちは、それを避けることもできますが、主イエスのために、福音のために背負わせていただくことにより、主の栄光を拝することができるのです。
そのようにして、日々の日常生活がつくられていくならば、他者を生かし、教会を生かし、結果としてその人自身も生かすことになるのです(同24~25節)。私たちは、自分の十字架を自分だけの頑張りで背負うのではなく、日々に私たちを担ってくださる主イエスにすべてを委ねながら歩むのです。

あなたがた自身で(2015.10.4)

宣教題  「あなたがた自身で」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章10~17節

主イエスは、群衆を深い憐れみの御心をもって恵みの御業をなされました(11節、マルコ6章34節)。続いて主イエスは弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)と恵みの御業に加わるように招かれ、彼らを用いられました。それは、主イエスの憐れみと豊かな恵みに生かされている者が、共通して経験することです。

1.主イエスは仕える力を供給される
主イエスは、弟子たちが五千人の人たちに食べ物を与えることができないことを知っておられ、ご自身がなさろうとされることを腹の中にしまっておいて、弟子たちを試されました(ヨハネ6章5~9節)。このようにして主イエスは弟子たちに、自分たちでは何もできない者であることを、とことん教えようとされたのです。そして、主イエスが五千人に食べ物を供給しようとされていることを明らかにされたのです。
この出来事を通して、主イエスは、福音を伝え福音に仕える者をどのように用いられるかを教えておられます。それは、私たちの無力さを分からせていただき、主イエスの恵みによって砕かれ、恵みの器にさせていただくことなのです。恵みの供給と力は、主イエスからくるのです。

2.主イエスはささげるものを用いられる
何と主イエスは弟子に、「それをここに持って来なさい」と言われました(マタイ14章18節)。そして、五つのパンと二匹の魚は主イエスの手に渡され、祈りのうちに祝福されて、弟子たちを通して配られたのです。
私たちに託されているものが、どんなに小さなものであっても、それが主イエスに渡されると何倍にも祝福され、その結果私たちを通して用いられるのです。ですから、私たちは、主イエスが「あなたがた自身で」と言われるときに、その力は主イエスから来ることを知って、「わたしをささげます」と主イエスにお返しすることが求められているのです。

キリストと共に労する(2015.9.6)

宣教題  「キリストと共に労する」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ルカ9章1~6節

私たちは、信仰の伝統から信仰のいのちを受け継ぎ、受け取り直し、再発見していくことが大切です。クリスチャンは、主イエスの弟子であるということもその一つです。主イエスの弟子は、いつも主イエスと一緒にいて(8章1節)、福音のために主イエスと共に労する者です。

1. 福音を委託されているから
主イエスは、弟子たちを遣わして「神の国を宣べ伝え」(2節)、「福音を告げ知らせ」(6節)なさいました。神の国の福音は、人が造り出すものではなく、主イエスご自身が差し出され、無代価で提供されたものです。それを委託された主の弟子たちは、「福音に共にあずかる」(1コリント9章23節)ことを切に望んだのです。
神の国は、ちょうど家屋の大黒柱のようなもので、主イエスの恵みの支配の中にあるならば、そのもとで支えられ、守られ、強められるという大いなる救いの中に保たれるのです。そこにおいては、人間の霊的な、精神的な、肉体的な弱さを覚えるときにも、救いの恵みに与らせていただけるのです。
主イエスは、私たち一人一人に、教会に、神の国の福音を託していて下さるのです。

2. 福音を伝える力が備えられているから
続いて主イエスは、「旅には何も持って行ってはならない」(3節)と言われました。神の国の福音を伝えるために必要なものは、神が備えていてくださるので、神を信じる信仰を持って行くように勧められたのです。ないものに目を留めるのではなく、その時その時に必要なものを備えてくださる神に目を留めて信頼することです。そのために、主イエスは、ご自身がお持ちの力と権威をもって、主イエスの弟子たちを教え、訓練し、造り上げてくださるのです(1節)。
主イエスの愛に駆り立てられ(1ヨハネ4章10節、2コリント5章14節)、福音を恥としないで(ローマ1章16節)、神の国の福音を語る力を与えられ、用いていただきましょう。

主の愛の支え(2015.8.16)

宣教題  「主の愛の支え」              宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  マタイ26章69~75節 ルカ22章32節

主イエスとペトロの出会いは、後々までつながるものでした。主イエスの仲間とされていたペトロが、予告されたように(26章26~35節)、そこから離反してしまったのです。主イエスは、そんなペトロを愛をもって回復させ、支え続けられました。

1.人の弱さを知り尽くされる主イエス
ペトロが「そんな人は知らない」と主イエスを三度も否認したことは、彼にとっては消し去ってしまいたいと思うほどに恥ずかしいことでした。そのことを伝えているのは、主イエスの愛に対して、人は自らの力で誠実であることができない弱さをもっていることを語っているのです。
ペトロが、「わたしは決してつまずきません」(26章33節)と言ったのは、取りつくろってのことではありませんでした。しかし、主イエスが捕らえられたことに不安を覚えて、主イエスの仲間だと告発される度ごとに、その関係を誓ってまで否認したのです。
「そんな人は知らない」と言い切るような人の弱さ、身勝手さ、惨めさ、罪が、主イエスを十字架に架けたのです。

2.人への愛を貫かれる主イエス
主イエスは、ペトロによって否認されるという裏切りを知りながら、それを受けとめておられます(ヨハネ2章24~25節参照)。人は裏切られるという経験をすると、自分の愚かさを棚に上げて、相手を恨むことをします。しかし、主イエスは、どこまでも愛を貫かれました。裏切られてもなお愛する愛、それが神の愛です。その愛は、後々に至るまで貫かれました。
ペトロは、先に主イエスが語られた御言葉と(26章34節、75節)、慰めに満ちた励ましの祈りと御言葉を思い起こしたことでしょう(ルカ22章32節)。このように、主イエスは、愛をもって人を支え続けてくださるのです。この主イエス愛の前に立って、それを拒んだり、中間的な立場をとったりすることなく、主イエスの仲間であり続けましょう。