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ルカ

生ける信仰(2018.10.21)

宣教題  「生ける信仰」           宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ17章1~10節

 信仰とは、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われた主イエスの真実に対して信頼することです(5~6節、2テモテ2章13節)。その生きた信仰は、信仰者の歩みの力となり、生き方や考え方と物事の受けとめ方が変わってきます。
1.健全な人間関係を建て上げる  1~4節
 主イエスの救いの恵みに対する生きた信仰は、人々を「つまずかせる」ことのないようにとの配慮と導きを与えてくれます。ところが、誰も「つまずき」を与えないほどに完全な人はいません(1~2節)。そこで、それに気づいた時には、自分自身が主イエスの赦しの恵みに与っているという信仰に徹底することにより、赦す力を持たせていただくのです(3~4節)。
 ここに、人と人の間に働く生きた信仰があります。これこそ、受け継いでいる教会の財産です。

2.神への奉仕を生み出す  7~10節
 仕える僕の心を持つことができるように、主イエスご自身が模範を遺されました(7~8節、マルコ10章45節)。ですから、主イエスのものであるということは、主が命じられたように仕える僕となることです。
 このように、真実な主イエスを信頼する生きた信仰は、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と告白できる人生へと導きます。「からし種一粒ほどの」生きた信仰を持つ聖徒一人ひとりと教会は、さまざまな出来事に対応していくなかで、本当の強さと豊かさを経験していきます。これもまた、教会が受け継いでいる財産です。

聖書朗読(0.6MB)

メッセージ(9.4MB)

今という時の間に(2018.9.23)

宣教題  「今という時の間に」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ16章19~31節

 主イエスが死後のことでリアルに話しておられるたとえ話は、この箇所以外にはありません。ただし、主イエスがここで問いかけておられることは、今と言う時に一人ひとりが神の前にどうあればよいか、ということです。

1.主の憐れみに支えられていることです  19~26節
 ここに、二人の人が登場します。一人は「金持ち」で、お祭り騒ぎの日々を陶酔するように過ごしていました。これは、自分の豊かさを喜び楽しみ、神の言葉を聞き過ごし忘れてしまっている人の姿です。彼は、死後に陰府に行って、もだえ苦しんでいます。一方「ラザロ」という「貧しい人」は、「アブラハムのすぐそばに」すなわち一番安心できるその膝に連れて行かれました。
 この二人の違いは、ラザロはその名の通り、神の憐れみよって生きていましたが、金持ちはそのことを忘れていたのです。私たち一人ひとりは、神の憐れみに支えられている「ラザロ」であることを心底知る必要があります。

2.主の御言葉に支えられていることです  27~31節
 陰府で苦しむ金持ちは、自分の兄弟が同じ苦しみに遭うことがないようにしてほしいと、アブラハムに嘆願しています。それに対してアブラハムは、神がモーセや預言者を通して語られた御言葉を信じることが大切であると言います。納得できない金持ちは、死んだ者の中から生き返った証人が兄弟たちの所に訪れてくれなければ難しいと語っています。
大切なことは、本気で御言葉を信じているかということです。御言葉に支えられ続けてこそ、私たちの人生の生き方と永遠をどこで過ごすかが決まるのです。

聖書朗読(1.3MB)

メッセージ(9.6MB)

信仰の知恵をもって生きる(2018.8.12)

宣教題  「信仰の知恵をもって生きる」   宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ16章1~13節

神が人に与えてくださる知恵は、窮地に立たされた時に働きます。ここに登場する管理人のやり方は、とても褒められたものではありませんが、懸命に知恵を働かせた人のたとえ話です。信仰の知恵を働かせることの必要を教えています。

1.危機に対応していますか 
 主人は、不正な管理人を抜け目のない知恵ある人だと褒めています。管理人は、生きるか死ぬかの土壇場であると危機感を持っていたために、この世の知恵を最大限に用いて対応しようとしたのです。
 主イエスはこのたとえ話を通して、「光の子」である信仰者が苦難や誘惑といった危機に直面した時に、信仰の知恵をもって対応するように語られたのです(8節)。共にいてくださる主イエスによって支えられ、信仰の知恵をもって乗り越えていくのです。

2.信仰が首尾一貫していますか 
 このたとえ話は、この世の子らと光の子らとを対比しつつ、信仰者が生活の場で、徹底して光の子として生きているかと問いかけています。光の子として歩んでいると言いつつ、どこか妥協したり、曖昧にしたり、中途半端な歩みとなっていないかと語るのです(8節)。
 信仰者は、神によって「永遠の住まいに迎え入れて」くださるのですから(9節)、任されている富を生かし、首尾一貫して光の子として生きるのです(13節)。この世で起こってくる「小さな事」に忠実な者は、神が任される「本当に価値ある」すなわち「大きな事」にも忠実な者とされるのです(10~11節)。

あなたはどこにいるのか(2018.7.22)

宣教題  「あなたはどこにいるのか」    宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ15章11~32節

 人類の祖アダムとエバは、神の御言葉に背いて罪を犯して後、神を避けて生きるようになりました。その彼らに「どこにいるのか」と尋ねられたのです(創世記3章8~9節)。憐れみの神によるこの問いかけは、今も続いています。

1.主のもとで生きているか  11~24節
 父親と弟息子の関係を表す譬え話は、父なる神とその神のもとを離れて生きる人間の様子を描いています。神を無視する者は、自分のことについては何も問いかけない生き方をします。そうした中にあって、「我に返って」生きようとする者は、自分で自分に語りかけることによって自分の間違いに気づかされ(17節)、その罪の悔い改めへと導かれるのです(18~19節)>
そのように立ち帰る者を、憐れみの神は喜んでご自身の子として迎え入れてくださいます(20~23節)。そこには、新しい生き方への出発が待っています(24節)。絶えることのない主の臨在と、豊かな主の供給があります。

2.主との交わりに生きているか  25~32節
 父親と兄息子の関係を表す譬え話は、父なる神と信仰者の交わりが生きたものであるかを問いかけています。神と人に対して冷淡で傲慢になっていないかということです(28~30節)。
神は、その命のない信仰を気づかせ、神の憐れみの心を知ることができるように招かれます(31節)。そして、死から命に移された者が加えられる「喜び」を共にすることの幸いを経験するように勧められます(32節)。憐れみの神による主イエスの救いの恵みは、安価なものではありません。

聖書朗読(約1.4MB)

メッセージ(約11MB)

主イエスの喜び(2018.7.8)

宣教題  「主イエスの喜び」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ15章1~10節

 譬え話を用いて語られる主イエスは、人々と一緒に喜びを分かち合おうとしておられます(6節、9節)。そこには、失われたひとりの魂を一所懸命に捜し回り、見いだされた主イエスの愛と喜びが溢れています。

1.深く悲しまれる主イエスの愛 
 主イエスは、「徴税人や罪人」たちに、熱い関心をお持ちでした。それは、見失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し回る羊飼い、また銀貨一枚を無くした女性が全身で捜している姿に譬えられています。
 さて、ひとりの人が失われることは、主イエスの深い悲しみでした。それは、利用価値があるからとか将来価値があるからではなく、かけがえのない大切な存在価値があるからです。ひとりの人が失われることに対する主イエスの深い悲しみの理由は、主イエスの愛から出ています。

2.喜びに溢れる主イエスの愛 
 羊を見つけた羊飼いと銀貨を見つけた女性の譬えに、主イエスの救いを見ます。それは、悔い改めたひとりの人が、十字架の主イエスのもとで赦され、見いだされ、神のものとされることで明らかにされました。この回復の喜びの理由もまた、主イエスの愛にほかなりません。
 さて、この福音の喜びは、主イエスの喜びです(7節、10節)。主イエスによって見いだされ、主のものとされたひとり一人は、主イエスの喜びを生むほどに大切な存在なのです。一喜一憂する心に振り回されないで、主イエスの喜びを知ることによって、ひとり一人の喜びが確かなものになるのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(9MB)

主の弟子になる(2018.6.24)

宣教題  「主の弟子になる」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章25~35節

主イエスの大いなる救いの祝宴に招かれた者は、主の弟子として生きるようになります。それは、信仰者一人ひとりに対する主の恵みの招きです。

1.主の弟子になる道  25~27節、33節
信仰者は、「わたしの弟子ではありません」との主からの挑戦に応答する必要があります。それによって、家族よりも主を優先し聖別させていただくことにより、真に家族の絆は祝福を受けるのです(26節)。永遠の救いに招き入れてくださった主と一緒に十字架を負わせていただくことにより、他者の痛みを理解し、それを一緒に負わせていただくのです(27節)。神以外のものが心の王座を占領しているならば、それに別れを告げて神第一に生きるのです(33節)。
このような主の弟子の道を歩んでいるでしょうか。

2.主の弟子とされる祈り  28~32節
主の弟子の道を歩むには、「腰をすえて」主の前に静かに考えて祈ることが大切です(28節、31節)。主が「わたしの弟子ではありません」と言われるものがないかどうかを、神との祈りの交わりの中で明らかにしていただくためです。
腰を据えて静かに考えて祈る中に、主の恵みと祝福が及んでいくのです。

3.主の弟子の使命  34~35節
主の弟子として生かされ、主に従って、主の御心を実現させていただくために、主は私たちを使ってくださいます。すなわち、人々や社会の腐れを止め、味つけしていく塩のような存在としてくださるのです。
私たちの関心が、塩気のある主の弟子また群れでありますように!

メッセージ(11.9MB)

祝福への招き(2018.6.10)

宣教題  「祝福への招き」         宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章12~24節

 「あなたは幸いだ」(14節)「なんと幸いなことでしょう」(15節)とは、幸いがいつまでも続いている状態を言っています。ここで譬えられている「宴会」は、その幸いな祝福への神の招きです。

1.祝福への招きの原点を忘れるな  12~14節
 ここでの「宴会」の譬えは、神は「お返しをする」人ではなく、「お返しのできない」人を招くようにと言っています。つまり、その招きは、神の恵みによる一方的なものであり、何ら人の功績などを求められないということです。ですから、主イエスによる救いの恵みは、お返しもできない罪深い者に、無代価で与えられるのです。そして、主なる神の報いを期待する生き方をするのです。
私たち一人ひとりは、この神の祝福への招きの原点を忘れることなく、神の恵みに立ち続けているようにしたいものです。

2.祝福への招きを拒むな  15~24節
 神は、「盛大な宴会」と言われる救いの祝福に人を招き入れるために、様々な形で呼びかけて来られましたが、遂に神の僕である主イエスをお送りくださいました(16~17節)。ところが、その招きに対して様々な理由をつけて拒む人たちが次々に起こったのです(18~20節)。そこで、主イエスは、罪と汚れのゆえにどんなに卑しくて貧しい者をも招き入れてくださることを明らかにされたのです(21~24節)。
 私たち一人ひとりは、神の救いの招きを拒むことなく、それを後回しにすることなく、拒んだままの生活を送ることなく、「神の国で食事をする」すなわち、主イエスの十字架と復活に表された愛の中に留まり続ける生き方をするのです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(8.7MB)

大いなる委託(2018.5.20)

宣教題  「大いなる委託」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ24章44~49節

 復活された主イエスが人々と食事を共にしながら語られることに、人々は耳を傾けています(36~43節)。それは、新しい夜明けへの備えの時でした。主イエスは、ご自身の証人として人々を遣わすに際して大切なことをされました。

1.心を開かれる  44~48節
 主イエスは、すでに旧約聖書で預言されていた十字架と復活による罪の赦しを得させる救いの真理を分からせるために、人々の心を開かれました。そのように、主イエスに心を開いていただいた者は、人々に福音を宣べ伝える主の証人となるのです。
 主の証人は、福音を「エルサレムから始めて」地の果てに至るまで、そして今日の私たち一人ひとりにまで届ける働きをしてきました。主の証人とされている一人ひとりは、その恵みと特権に与っていることを忘れないようにしたいものです。

2.聖霊を注がれる  49節
 主イエスは、かつて地上で始められた働きを、今なお継続しておられます。しかし、その働きを委託された弟子たちは、それにふさわしくなかった者たちでした。そこで、主の働きは、聖霊を注いでいただいた弟子たちを主の証人として遣わすことによって進められ、教会は前進していきました(使徒言行録2章32~33節)。
そのためには、弟子たちが「都にとどまって」、聖霊が注がれるのを待ち望むことが必要でした(使徒言行録1章3~5節)。そこでは、一人ひとりの弟子たちが、祈り合う中で心探られ、砕かれた心をいただいて不純なものが除かれ、謙虚な心にされた時に聖霊が注がれたのでした(使徒言行録1章14節)。私たちは、このようにして聖霊を注いでいただくことによって、主の証人としてふさわしい者とされるのです。

聖書朗読(10.9MB)

お祈りとメッセージ(0.4MB)

恵みによる飾りを(2018.5.13)

宣教題  「恵みによる飾りを」       宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章7~11節

 主イエスは、「へりくだる者」を祝福され、その信仰の歩みに恵みによる飾りを装させてくださいます(11節)。

1.主イエスの前に低くされる 
 ここにある婚宴の席での席順のたとえ話は、礼儀作法の美徳や利口な処世術を教えているのではありません。ここで主イエスが求められていることは、人が自分のうちに高められるものは持ち合わせていないことを知って、真に低くされていることです。そこで見えてくるものは、十字架に死んで復活された主イエスの救い恵みの豊かさです。この主イエスの謙遜が私たちを救いに導き、主イエスの救いが私たちを謙遜へと導くのです。
 このように主イエスの前に低くされることにより、主イエスの心をもって他者を尊敬し、信頼する関係が生まれてくるのです(フィリピ2章3節)。

2.主イエスによって高められる 
 「へりくだる者は高められる」ようにされるのは、人がとても及びもつかないほど高く、そして聖なるお方である主イエスご自身です。この主イエスが、心砕かれて、へりくだる者と共にいて、命を得させて、生かし続けてくださるのです(イザヤ書57章15節)。
 この主イエスの恵みの中に生かさている時に、その恵みの高さ、大きさを見させてくださり、「低くされ、へりくだる者が高められる」ことを経験させてくださいます。ここに、主イエスにある特等席があります。一人ひとりは、この恵みの特等席に招かれているのです。

聖書朗読(0.4MB)

お祈りとメッセージ(11.5MB)

安息の中に憩う(2018.4.22)

宣教題  「安息の中に憩う」        宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ14章1~6節

 主イエスが、安息日の食事の席に行かれたときでした(1節)。そこには、水腫を患っている人、イエスの様子をうかがっている人々がおり、緊張した食事であったと思われます。そのような中で、主イエスは、安息の中に憩えるように導かれました。

1.安息に招かれる主イエス 
 ルカによる福音書には、主イエスが安息日にいやす御業をなされ、それが人々の反感をかうという出来事が語られています(6章6~11節、13章10~17節、14章1~6節)。それらは、時間の経過とともに、着実に主イエスが勝利されていくお姿が分かります。この場面では、人々が一言も語ることができなかったという状態でした。
安息日の主であるイエスは、安息日が「元気を回復するため」にあることを明らかにされたのでした(出エジプト23章12節)。安息に招かれる主イエスが、私たちを新たに立ち上がらせてくださるのです(マタイ11章28節)。

2.いやし安息を与える主イエス 
 主イエスは、ご自分の前に水腫を患ったまま放置されていることに心を痛められ、いやされました(4節)。人が病んでいる姿は、今も変らず、神との関係が正しくない状態であったり、男女の関係や社会における人間関係の倫理が失われていたりする状態となって表れます。その状態をそのまま放置しておけない主イエスは、ご自身の救いの恵みをもっていやし、安息を与えられます。
 一人ひとりがそのいやしに与るためには、自らの無力を認めて、主イエスに対する信仰を持つことです。そして、主イエスが心に手を置いていやされる恵みの御業に委ね、与えてくださる安息にあずかることです。

聖書朗読(0.4MB)

メッセージ(10MB)

進み行かれる主(2018.4.1)

宣教題  「進み行かれる主」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章31~35節

私たちは、主イエスが死の闇から復活され、命の輝きをもたらしてくださったことを感謝するとともに、全存在をもって主イエスに向かって生きることが大切です。

1.神の時を進まれる主イエス  31~33節
主イエスご自身の歩みを決定したのは、ヘロデに代表されるこの世の悪の力によるのではなく、父なる神のご計画によるものでした。この時、エルサレムへの旅路を十字架に向かって進んで行かれました。その先には、主イエスが「三日目にすべてを終え」て復活されることにより、「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」と決意しておられます。
主イエスは、十字架を前にして父なる神の御心だけを求めて歩み進まれ(ルカ22章42節)、復活されてご自身の御働きを進められました(マタイ28章16~20節)。

2.愛の完成へと進まれる主イエス  34~35節
主イエスは、神の御言葉を受け入れようとしない者たちを、何度もご自身の救いの中に招き入れようとされてきました。ご自身の愛を冷ややかに拒む者に対して、苦悶し、嘆いておられます(34節)。しかし主イエスは、そうした中にあっても父なる神のご計画の中を進んで行かれました。ひたすら十字架と復活に向かうことにより、愛の完成を目指して進んで行かれたのです。
このことを知る教会は、今や「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と賛美しつつ、主の再臨の時に向かって進んでいます(35節)。ですから私たちは、一人でも多くの人々が心の底から同じように賛美できる時が来るよう、伝道に励みたいものです。

聖書朗読(0.6MB)

 

メッセージ(6.9MB)

救いの門は開かれている(2018.3.25)

宣教題  「救いの門は開かれている」     宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章22~30節 2コリント6章2節c

 聖書は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と明言しています。その救いの門は今も開かれています。そのために、主イエスは、十字架にお架かりくださり、復活された場所であるエルサレムに向かって進んていかれたのです(22節)。

1.今や、恵みの時だから 
 主イエスは、「不義を行う者」が悔い改めないままでいるならば、救いの恵みの戸が閉じられる時がくることを語られました(23~28節)。そこで、神が与えてくださる救いを拒み続けないで、「狭い戸口から入るように努めなさい」と、この救いを自分自身のこととして取り組むようにと招かれているのです(24節)。
 忘れないでいたいものです。主イエスは、今も私たち一人ひとりの心の戸をたたき、声をかけていてくださいます。ですから、一人ひとりが自らの心の戸を開いて、主イエスを受け入れることが必要なのです(ヨハネの黙示録3章20節)。

2.今こそ、救いの日だから 
 ところで、救いの入口そのものが狭いのではありません(29~30節)。それを狭くしているのは、主イエスの救いを拒み続ける頑固な心、自分は間違っていないとする傲慢な心のままでいる人の側にあります。人は誰もそのような罪の荷を自分で背負いきれないために、主イエスがその荷を十字架上で身代わりとなって担い切ってくださったのです。その主イエスに対する信仰をいだいて歩みだす者には、救いの入口は狭くなく、堂々と大手を振って入っていくことができるのです(ルカ23章39~43節)。
 私たち一人ひとりが、主イエスにすがる素直さをもって応答していくなら、主イエスの救いの御業は恵みとして現実に起こることなのです。

成長させる神(2018.2.4)

宣教題  「成長させる神」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書  ルカ13章18~21節
 主イエスは、人々からの拒絶に遭いながらも「神の国」のことを宣ベ伝えられ、その御業を進められました。その結果、神の恵みのご支配は、人々の不信仰を越えて発展していきました。

1.拡大していく  18~19節
 小さなからし種を庭に「蒔く」ことにより、芽を出し、やがては大きな木となり、その枝には空の鳥が宿るほどになります。そういう命をからし種は持っています。
 このからし種のように、神の恵みの支配が及ぶ「神の国」は、福音の種が蒔かれることにより、それが拡げられ、全世界を覆うようになりました。最初は「小さな群れ」でしたが(ルカ12章32節)、神は人を造り変え、社会をも変革させて、著しい成長を与えられました。この「神の国」が拡がっていく御業に、私たちも参画させていただいているのです。

2.造り変えていく  20~21節
 わずかなパン種を粉に「混ぜると」、パン種が活発に働いて膨らんでいきます。そのように膨らませていく実態は目に見えません。
 「神の国」においては、主イエスの救いに与った者たちを神の恵みのご支配のうちに生かし、豊かに成熟させていかれます。愛を動機として生きる人格が形成され、信仰による価値観を確立させ、試練をも踏み越えさせ、死の世界をも打ち破って進ませまるほどに造り変えられます。この「神の国」の最もよく目に見える実として「教会」が生み出され、建て上げられました。私たちの教会は、「神の国のために共に働く」僕とさせていただいているのです(コロサイ4章11節)。

解放される道(2017.11.19)

宣教題 「解放される道」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ13章10~17節

 ここに、ただ主イエスの憐れみにすがっている女性がいます。彼女は、十八年の間体がかがんだまま伸ばすことができない病気でしたが、主イエスによってそこから解放されたのでした(10~13節)。

1.主イエスは安息日の意味を回復された 
 会堂長は、主イエスが安息日に癒しの業をなされたことを非難しました(14節)。本来安息日は、神が世界の王であることを覚え、すべてのものが休み、すべての人
が神の前に公平とされ、神の約束を覚える日でした。ところが当時、そのことが歪曲
されていたため、主イエスは元に戻して神の愛を知る日とされたのです。主イエス
は、この時解放のメッセージを語られていたと思われます(ルカ4章16~20節)。
主イエスは「捕らわれている人に解放を」告げ知らせ(ルカ4章18節)、解放の御
業をなされるお方です。

2.主イエスは解放の御業をなされた 
 主イエスは、病気から解放された女性が大事な「アブラハムの娘」であるので、「サタンに縛られていた」ところから本来の姿に解放されたのでした(16節)。パウロも同様のことを証ししています(2コリント12章7~10節)。
 主イエスは、「罪と死との法則から」解放されることから始まって(ローマ8章1~2節)、人がもっている深い劣等感などの弱さから解放される道を開いてくださるお方です。ですから、私たちは主イエスを信頼し、主イエスに支えられて、真っ直ぐに立ち続けるのです。この主イエスに出会い、その憐れみに与るのが、私たちの安息日であるこの礼拝の時なのです。

真の平和の確立を(2017.10.1)

宣教題 「真の平和の確立を」        宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ルカ12章49~59節

 これまで主イエスは、目を覚ましていなさいと語ってこられました。続けて、真の平和が確立されていくために、漫然として今の時を過ごすことがないように勧められています。

1.主の十字架のもとで  49~53節
 主イエスがご来臨された目的の一つが、「地上に火を投ずるため」でした。その火は、聖霊の火です(49節)。聖霊なる神は、主イエスの苦難のバプテスマである十字架による救いを明らかにされ、主イエスを信じさせてくださるお方です(50節)。
 この主イエスの前に頭を垂れて謙虚になるときに、真の平和が私たちの魂と心と体の全存在に臨むのです(マタイ9章2節、ヨハネ14章27節、20章19~21節)。
 ところが、主イエスが来られたのは「分裂」をもたらすためでもありました(51 ~53節)。しかしその分裂は、イエスを主と受け入れるか、拒絶するかによってもたらされるものです。私たちは、分裂に対しても心の備えをし、そうした状況にあっても真の平和が確立されていくことを祈り求めていくのです。

2.主が再び来られるまでに  54~59節
 主イエスは、二つの譬えをもって語られました。一つは、今の時を見分けることができないために、主イエスを信じる信仰の応答をしない人々に呼びかけています(54~56節)。二つは、その時が分かっていながら、ずるずると判断も決断もしないで最後まで主イエスを拒むことへの警告です(57~59節)。
 私たちは、聖餐の制定をされた主イエスを想起しつつ(1コリント11章23~26節)、確かな永遠の弁護者イエスとその贖いの十字架をいつも拠り所とし、主が再び来られる終わりの時を覚えて、聖霊の促しによる決断と導きをいただいて歩み続けるのです。そこに、真の平和がもたらす交わりが生まれるのです。