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ルカ

壮大な任務(2012.3.25)

宣教題  : 「壮大な任務」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 1章57節~80節

人は、「神の憐れみ」の大きさの前に、確かな愛を、確かな結びつきを、そして確かな使命(任務)を見い出すことができます。ザカリアとエリサベト夫妻に託された任務は、壮大なものでした。ただ、それは、信仰者であるならば誰にでも託されている任務なのです。

1.主をほめたたえる
約束どおりに男の子が与えられたことは、ザカリア夫妻だけでなく周囲の人々にとっても大きな喜びでした。彼らは、神から命じられたとおりに、その子の名を「ヨハネ」と名付けました。その時、ザカリアの口は開かれ、神を賛美したのでした(57~64節)。彼は、沈黙を強いられた期間、憐れみの神に委ねるという信仰に導かれ、その信仰をエリサベトと共に分かち合えるほどに強められ、「ザカリアの預言」となったのです。
ザカリアは、旧約聖書に証言されている神の救いの御計画が、イエス・キリストによって確実に進められ、その救いが完成されることをほめたたえています(68~73節a)。それは、イエス・キリストが「あけぼのの光」となって「訪れ」てくださり、罪と死の暗黒の中にいる人々を救い、「平和の道」に導かれることなのです(78~79節)。
私たちに託されている任務は、この救い主をほめたたえることなのです。

2.主に仕える
主をほめたたえるところに、「主に仕え」て礼拝し、神のものとされて聖別された歩みが造られていきます(73節b~75節)。そして、ヨハネのように、「罪の赦しによる救いを知らせる」器として神が用いてくださいます(76~77節)。
人が救い主と出会うために、私たちがいくらかの奉仕をさせていただく中で、主ご自身が働いてくださいます。人の救いを願う私たちの祈りの中で、主がその人に働きかけてくださいます。つたない私たちの信仰の証しの言葉の中で、主ご自身の力が働き、それを聞く人が新しく造り変えられ、信仰告白へと導かれるのです。
憐れみの神は、このような「主に仕える」という壮大な任務に、一人ひとりを招いておられるのです。

あわれむ神(2012.3.4)

宣教題  : 「あわれむ神」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章39節~56節

マリアの賛歌には、共通する神のご性質が語られています。それは、「憐れみ」という言葉に表されており(50節、54節、55節)、神は約束されたことは誠実に果たされるお方です。憐れむ神は、私たちに信仰による変革を経験させてくださいます。

1.神をあがめる信仰  46~50節
神から受胎告知を受けたマリアは、急いでザカリアの家に行きエリサベトに挨拶しました。彼女たちが喜びを共にした時に、マリアに歌が生まれたのでした(39~45節)。
マリアは、測り知ることのできない神の御思い・御計画・御約束・御業に対して、全存在をもって神をあがめ、讃え、自分の身を投げ出しています(46~47節)。そうすることが出来たのは、自分に目を見はるような高貴さや華やかさがないにもかかわらず、神が目を留めてくださり、大いなる救いの御業を進められることを知ったからです(48~49節)。彼女は、神を畏れ敬いつつ、その憐れみを讃えているのです(50節)。
憐れみの神は、罪に汚れ、自らの力で聖なる者になれないことを徹底して自覚する者を目に留めてくださり、神の救いを受け取らせてくださるお方です。私たちは、「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられる」信仰に生きる者とさせていただきましょう(フィリピ1章20節)。

2.生き方を変える信仰  51~55節
マリアは、憐れみの神が人間の価値観を変えてくださることを歌っています。それは、主なる神が現わしてくださった謙遜に生きること(51節)、その御支配に生きること(52節)、主なる神の恵みの豊さに生きること(53節)といった生き方です。神は憐れむことを決して忘れるお方ではなく、一人ひとりを通して、家族に、また周囲にそれを及ぼしていかれるのです(54~55節)。
ところで、マリアとエリサベトは、約三カ月に渡って神の憐れみを喜び合っていたのでした(56節)。そうした共にいる姿、喜ぶ姿、歌う姿は、今日の教会の姿でもあるのです。私たちは、「すべての聖なる者たちと共に」(エフェソ3章18節)、神の憐れみの交わりを共にし、そこに留まり続け、拡げていく生き方をさせていただきましょう。

神の企て(2012.2.12)

宣教題  : 「神の企て」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 1章26節~38節
「神にできないことは何一つない」(37節)と語られている御言葉は、私たちを捉えます。それは、神が語られた企て(ご計画)は必ず実現される「全能の神」であることを明らかにしています。私たちは、この問いかけにどう応答していくのでしょうか。

1.全能の神の前に立つ
神は、天使を通して、マリアにご自身の企てを打ち明けられています(30~33節)。それに対してマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょう・・・」(34節)と訴えています。これは、神は全能であられるが、人は限界あるものであると言い表している言葉です。
私たちは、神の全能の前に、自らが無力であること、乏しいこと、悩んでいること、罪深いことを認めなければならないところに追いやられることがあります。その時に初めて、私たちは、全能の神との生きた関わりを持たせていただくことができるのです。
つまり、「いと高き神の子」であられるイエス・キリストによって、死をも滅ぼされた全能の神の前に(32~33節)立たせていただく経験をするのです。

2.全能の神に委ね続ける
神は、マリアの恐れや不安を解消させる御言葉を(28節、30節、35節、37節)、次々と語られました。彼女は、この神の御言葉に促がされ、導かれて、神の恵みの企ての世界の中に足を踏み入れていったのです。そして、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)との決断をしたのです。この決断をもって、神は救いの企てを実行されていったのです。
私たちは、神の御言葉が成し遂げられるようにとの決断をし、それを全能の神の前に委ね続ける信仰に生きる者です。そのためには、いつも神の御言葉を聴き続けていることが大切です。それが、私たちの決断を支えるのです。
私たちが、全能の神の企てと御言葉に自らの人生を委ねて、信仰の翼を神の全能に向かって大きく広げるなら、神の力を捉えることができます。そして、信仰の高値へと引き上げられていくのです。

祝福としての沈黙(2012.1.22)

宣教題  : 「祝福としての沈黙」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章5節~25節

バプテスマのヨハネの誕生は、喜びの知らせでした(14節、19節)。後に彼が、主イエスに先立って罪の悔い改めを迫り、人々を主の救いに巻き込んでいったからです(15~17節)。神は、ザカリアがこのことを受け入れられるようになるために、口が利けなくさせられました(20節)。この沈黙は祝福となりました。

1.神の御言葉を聴く祝福
ザカリアは、老夫婦に子どもが与えられるという思いがけない知らせを受けましたが、その事実を受け入れることができない不信仰に陥りました(18節)。すると、ザカリアは、ものが言えなくなり、ヨハネが生まれるまで約10カ月の間、何が起こったかを誰にも語ることができなくなったのです(19~22節)。ところが、口が開かれるや神を讃えています(64節、68節)。彼にとっては、その一生にまたとない、沈黙の時だったのです(詩編62編1節)。
主イエスは、いかなる時も静かに父なる神の御心を聴き、それを成し遂げようとされました。とりわけ、十字架のご受難に際しては沈黙されています(1ペトロ2章22~25節)。私たちは、神の御言葉を聴くために沈黙し、神の御言葉を聴きつつ祈ることが大切なのです。

2.神の再創造にあずかる祝福
神は、ザカリアの不信仰を審こうとされたのではありません。この沈黙の間は、神の力が彼ら夫婦に働いています。彼らが事の次第を語ったのではなく、エリサベトが身ごもった事実が事の次第を明らかにしました(23~25節)。このようにして、彼ら夫婦は、神のご計画を受け入れることのできる者に変えられていったのです。
私たちは、信仰を持ちつつ、個々の問題や課題に対して疑いを抱き、信じ抜くことにおいて揺れ動きやすいものです。そうした時、主イエスが私たちの生活と人生の中に入り込んできてくださり、心を神に向けさせ、信仰による再創造の御業を成してくださいます(詩編62編8~9節)。
神は、決して沈黙の時を無駄に用いられるお方ではないのです。

喜びを物語る(2012.1.8)

宣教題  : 「喜びを物語る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書   1章1節~4節

ルカによる福音書は、喜びの福音書と言われるほどに、主を讃え、喜んでいる内容で満ちています。そして、主イエス・キリストがどういう方であったか、何をなさった方であったかを物語り、主の恵みを伝えています。その結果として、人々が喜び物語る中に巻き込まれていくことを語っているのです。

1.「私が」巻き込まれる  1~3節
著者ルカは、異邦人の医者であり(コロサイ4章14節)、パウロと伝道を共にした協力者であり(フィレモン24節)、その殉教の死の時まで共にいました(2テモテ4章11節)。彼は、使徒言行録も書き記すほどにキリストに捉えられていました(使徒言行録1章1~2節)。
そんなルカが、実際主イエスを見聞きした人々の言葉を聴き、語り伝えるために仕える人々の言葉に耳を傾け、書き連ねられた言葉を熟読し、自らも「マルコによる福音書」などを基に詳しく調べて、順序正しく書いて伝えようとしたのです。
ところで、「わたしたちの間に実現した事柄について」と語っていますが、ルカ自らもそこに含まれ、巻き込まれているとの信仰に立っているのです。同じように私たちも、そこに含まれ、巻き込まれているのです。

2.「一人ひとりを」巻き込む  3~4節
ルカは喜びの物語を「テオフィロ」一人に語りかけています。彼が求道者であったか、信仰をもってまもない人であったかは不明ですが、彼に確かな信仰の決心が与えられ、信仰が強くされるようにと願って訴えかけているのです。そこには、主イエスの福音の喜びを味わい知った者の篤い思いがあります。
福音は、本来一人ひとりの魂に向かって注ぎ込むように語られるものですが、結果として、それが全ての人に向かって語り伝えられるのです。ですから、「私に語られているメッセ-ジである」との姿勢が一人ひとりに求められるのです。
私たちは、喜びの物語に巻き込まれる時を大切にして、そこから始まる喜びの出来事を生活の中で語り続け、書き表し続けていきたいものです。

神の物語を知る民(2011.6.19)

宣教題  : 「神の物語を知る民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : ルカによる福音書  24章44節~49節
教会の沿革を読む時、その教会がどのような教会であるかを知ることができる。それでは、キリスト教会を表す沿革、その物語はなんだろうか。

1.神の物語
復活されたイエスは弟子たちに「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」(24:44)を説明され、旧約聖書にはメシアの苦難と復活だけではなく、悔い改めがあらゆる国民に宣教されることが書かれていると語られた(24:46−47)。ここに神の物語の一端が記されている。
では聖書に証しされている神の物語とはどのようなものだろうか。この物語は、神による天地創造からはじまり、物質的にも知的にも社会的にもすべてのものをゆがめた堕落へと続く。しかし、神は自らが造られた世界を見捨てず、祝福するためにアブラハムの子孫を選び、彼らが世界に輝く光となるように、贖い、導かれた。残念ながらイスラエルはその任に間に合わなかった。
しかし、イエスの宣教を通して神の支配の到来が告げられ、その死と復活を通して堕落がもたらしたあらゆる問題に決定的打撃が加えられた。そして、イスラエルの祝福は異邦人へと広げられた。神の物語を知る神の民は宣教のわざを続け、イエスの再臨とそれに伴う世界の新創造を待ち望む。この物語こそ、教会が何であるかを表している。

2.神の物語を知る民
神の物語を知る民は、今の時代はすべての国民にイエスの十字架と復活と罪のゆるしを宣証する時、「恵みの時、救いの日」(第二コリント6:2)であることを知っている。遅々として歩みであったとしても、教会は新創造というゴールに向かって進んでいる。
さらに、神の物語は神が聖霊によって導かれるものである。われらが実現するものではない。だから、神が導かれる神の物語のゴールへ向けて、聖霊の風に帆を張って、その一端を担わせていただこう。

神様の愛・真実な愛(2010.6.20)

宣教題  : 「神様の愛・真実な愛」   宣教:   水谷 潔  師
聖    書  : ルカ 19章1節~10節
この聖書箇所において私たちは神様の真実な愛を三つの面で見ることができます。

1.価値創造的な愛(6節)
イエス様は最も愛するに値しない人物を最優先で愛されました。人間の愛の多くは「価値発見的愛」です。相手の中に価値を見出し、それを根拠にその価値の持ち主である相手を愛します。
しかし、神様の愛は相手の価値に無関係で愛し、愛された側に価値を造り出す「価値創造的愛」なのです。価値があるから愛されているのではなく、この愛で愛されているから、私たちは価値があるのです。

2.すすんで犠牲を払う愛(7節)
愛は犠牲を惜しみません。イエス様はザアカイと交わりを持つことによって、本来ザアカイが受けるべき非難を身代わりとなって受けています。しかも「あなたの家に泊まることにしてあるから」(新改訳)とすすんで自分から非難を受ける愛の配慮をしておられます。
このすすんで犠牲を払う愛は、ローマ5章8節が示すように今日、十字架の愛として私たちに注がれているのです。

3.人を造り変える愛(8節)
そのようなイエス様の真実の愛はザアカイを内側から劇的に変えました。あるままで愛された者はあるがままではいられません。そのような愛に応える生き方、愛してくださった方に喜ばれる生き方へと内側から変えられるのです。

結論「木の上から木の下に」(10節)
「失われた」とは「定位置から外れている」という意味です。この愛を知らず、受け止めず、応答しないならそれは「失われている」のです。
私たちの定位置は、木の下です。ザアカイのように木の下でイエスをお迎えするのが定位置です。まだ、木の上でイエス様を眺めている方は、呼びかけに応えて木の下に降りましょう。また、クリスチャンは木から降りた者らしい生きかたをと願います。

夜明けを望みつつ(2008.12.28)

題   : 「夜明けを望みつつ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章36節~38節
クリスマスの出来事は、シメオンやアンナに代表されるように、老いる者や死を間近に迎えている者に対しても届けられた喜びの知らせでした。特にアンナは、恐れと失望といったものに支配されて生きるのではなく、人生の夜明けを望みつつ積極的に神に生きる者でした。

1.神との交わりが深められる 36~37節
アンナは、若くして夫を失うという悲しみを経験し、楽しかった夫婦生活も突然断ち切られて、寄りかかって打ち明ける相手がいなくなるという淋しさと孤独の中を歩んでいたと思われます。そうした中で彼女は、過去にではなくて将来に目を向けて、神の約束の実現を待ち望んでいました。
その信仰の生き方は、時折、神の御前に立つというのではなく、「夜も昼も神に仕えていた」のでした。それは、礼拝する者の姿を表しています。絶えず神の御こころを聴きつつ、神に語りかけ、神からの答えや導きを受け取るという神との交わりを第一としていました。
神に生きる者は、神と交わりつつ老いていくのであり、その交わりは衰えることはありません。

2.神への感謝が拡大される 38節
幼子イエスを見たアンナは、「神を賛美し」、神に感謝をささげています。主イエスによって神の救いが現され、その救い主がここにおられるということを告白し続けるところに、神への賛美と感謝が溢れるのです。
神に向かって感謝をささげるなら、私たちの心は拡大していきます。その感謝は、私たちの心を謙らせるからです。その感謝は、私たちの心を高めるからです。その感謝は、私たちの心を周囲に拡げるからです。そして、このような感謝の専門家は、救い主を語り伝える者とされるのです。
神に生きる者は、夕日をあびる晩年であっても、日の出の勢いのような若い時であっても、その前に開かれた望みを抱きながら、神との深い交わり、神に感謝をささげる生活を全うさせていただきたいものです。

神の冒険(2008.12.21)

題   : 「神の冒険」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章8節~20節
クリスマス前の四週間をアドベントと言いますが、この言葉は、到来とか到着を意味する言葉から生まれました。そして、ここから冒険を意味するアドベンチャ-という言葉も生まれました。
神の冒険は、神の御子がご自分の在り方を捨ててこの世に来てくださったことです。私たちは、この救い主に正面から向かい合い、共に歩むことが求められています。

1.神の冒険のクリスマス  8~14節
神の救いの出来事である喜びの知らせは、権力者のアウグストゥスにではなく、小さな弱い命でしかない「乳飲み子」に託されました。これは、危険を冒してまでの神の冒険であり、十字架に向かって歩まれる冒険の道へとつながっています。ここに、神が御子を手放された愛と勇気が現れています。
さて、この出来事を最初に知らされた「羊飼いたち」は、社会的にも、宗教的にも除け者扱いにされていた「失われたもの」(ルカ19章10節)でした。羊飼いたちは、喜びに包まれ、天使たちは、神の救いが成し遂げられることを讃えています(14節)。羊飼いこそ、神の前の自分の貧しさ、また罪深さを知っている謙った者たちであり、「御心に適う人」でした。このように、クリスマスの出来事は、神の御心に適う人々に届けられてきたのです。

2.冒険へと駆り立てるクリスマス  15~20節
羊飼いたちは、告げ知らされると直ちに応答しました(15節)。
そして、御子イエス・キリストに出会って後(16節)、その出来事を伝えています(17節)。こうして彼らは、神を礼拝する者として、新しい人生を歩み出したのです(20節)。
神の冒険であるクリスマスの出来事は、私たちの人生もまた冒険へと駆り立てます。そして、神に変えていただき、神に用いていただく人生がつくられていきます。さらに、自分と他者との在り方や関わり方が変わります。慰められるよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、赦されることよりも赦すことを求めるようになります。
クリスマスの出来事は、私たちを冒険の人生に駆り立て、押し出すのです。

大いなる恵み(2008.12.7)

題   : 「大いなる恵み」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 1章26節~38節
クリスマスの出来事は、キリスト降誕に仕えた人々の日常生活を中断させることによって起こっています。この中断の体験は、ここに登場するマリアにとって、大いなる恵みとなったのです。

1.恵みとの出会い  26~34節
マリアに対しての受胎告知は、処女降誕の事実を伝えるものでした。それは、神からの恵みによることでした(28、30節)。彼女の懐妊は、神の御子を宿すほど高い所に登り詰めたからではなく、聖霊によることでした(35節)。この戸惑いを覚えるような経験は、神の恵みとの出会いによって生れています。今日の私たちにとっても大切なことは、神の恵みと出会うことです。
この恵みとの出会いのために、神ご自身が身を屈めるように、人となってくださいました。その生涯は、僕として仕える歩みをしてくださいました。そして、終に十字架で私たちの救いのために身代わりとなってくださいました。このように、神は一所懸命になって私たちを愛し、神の恵みを届けてくださったのです。私たちは、この「恵みにより、信仰によって」救われたのです(エフェソ2章8~9節)。

2.恵みによる立て直し  35~38節
神の恵みに出会うと、その恵みにとらえられ、恵みによる立て直しが起こります。「神にできないことは何一つない」と、神の恵みのわざは必ず実現すると告げられたのです。この信仰の試みに対してマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、周りの人々が気づかない中で受けとめました。ただ、この決断に、人類の救いがかかっていたのです。
私たちの信仰生活とその生涯は、大小さまざまなことにおいて、個々の場面において、こうしたマリアのような決断の連続です。その決断を支えるのが、お言葉です。そのお言葉を聴き続ける必要があります。その時に、主が共におられることを分からせていただくのです。
キリストご自身とその恵みを覚えて、お言葉が私たちの内に成ることを第一の願いとしつつ、新しい歩みをつくらせていただきましょう。

待つ力(2008.11.30)

題   : 「待つ力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカ 1章5節~25節
人は、待つことにおいて試されます。待つことは、一つの偉大な力です。主イエスの降誕の記録は、神の御ことばの約束を信じ、待ち続け、忍耐し続けた人々の証し集です。
ルカは、そのような待つことにおいて試され、待つ力を経験した人として、最初に「ザカリア」を登場させています。

1.主の前に黙して待つ 5~18節
ザカリア夫婦は、子どもに恵まれませんでしたが、その晩年は神によって恵みに変えられました。ザカリアは、これまで通りの手順で聖所で仕えていたのですが、神の不意打ちとも言える干渉を受けました。そのとき主が語られたことは、予想外の、考えも及ばない内容でしたので、それを受け入れることは出来ませんでした(18節)。
「あなたの願いは聞き入れられた」(13節)とは、子どもがさずかるというよりも、神の民イスラエルが救われることを言っています。祈りは答えられました。子どもが与えられるのみか、その子こそが救いに結びつく道備えをする使命を託されたのです(16~17節)。
神は、私たちが忘れてしまっているような祈りをも覚えていてくださり、それのみか祈った以上のことを成し遂げてくださいます。そのことを私たちは、主の前に黙して待つのです。

2.主の支配に服して待つ 19~23節
さて、ザカリアは神の前に歩む者でしたが、神の御こころを信じ受け入れることができなかったために、神は彼を沈黙させました(20~22節)。神がザカリアを見捨てられたのではありません。この時、神がザカリアに著しく働きかけられ、彼が神に真正面から向かうことになったのです。そして、ザカリアが不信仰を正直に悔い改め、神への信頼を回復する時となったのです。
私たちは、日常の具体的な事柄において、主なる神とその御ことばの支配に服することが大切です。
私たちは、信じて待つことを通して、自分の弱さ、貧しさ、小ささを覚えつつ、主の御力、豊かさ、大きさに信頼することが大切です。

キリストがあがめられますように(2007.1.14)

題  :「キリストがあがめられますように」  
宣教 :仁科 共子師
聖書 :ルカによる福音書 5章1節~11節
  MSIの中国での働きのため、私のMSIでの働きのためお祈りいただきご支援いただいておりますことを感謝いたします。どのような働きも聖徒たちの祈りと献げものによって支えられ,また神様がその全てを用いておられることを覚え感謝いたします。

1.全てのことはキリストのため
パウロは彼の身におこる全てのことは神様の御手の中にあり,福音が前進するためであるという理解をしていました。ここに神様に対する信仰の目で全ての出来事をうけとめる姿勢があります。監禁されていることすらもキリストのためであり,このことが用いられているのを体験していました。
私も日々の生活と働きのなかで“ 神様がいつも共に働いておられる ”ということをたびたび教えられました。

2.キリストを告げ知らせている
福音を伝えるとはキリストを告げ知らせることです。それは言葉を通してだけではなく,クリスチャンを通して伝えられて行きます。

3.わたしの身によってキリストがあがめられるように
キリストのものとされたクリスチャンによってキリストが証しされ、あがめられていきます。わたしと共におられ,わたしのうちに生きておられるキリストがわたしの身によってあがめられますように。福音にふさわしい生活を送らせていただけますように。

沖に漕ぎ出せ(2007.1.7)

題 : 「沖に漕ぎ出せ」  宣教: 福田 勝敏 牧師
聖書: ルカによる福音書 5章1節~11節
  元旦礼拝にお会いできなかった方もおられますので、改めて「明けましておめでとうございます。本年も神様がみなさまを祝福くださいますようにお祈りします」
 ルカによる福音書5章4節には、今年の神戸中央教会の目標と重なり合う部分が多くあります。この記事によれば、後に驚くほどの大漁を見たのです。しかしここで、わたしはイエスの奇跡の中にわたしたちに与えられる大きな教訓を見ます。

1.教え始められた
 この時イエスはシモン・ペトロの船に乗り込まれました。わたしたちの領域にイエスはおられますか?あなたの家庭に、あなたの職場に、あなたの心の中にイエスは乗り込んでおられますか?わたしたちは主のお働きに与るためには、主のみ教えを聞く必要があります。主のみ言葉を聞かないで事を始めても何も得ることはできません。

2.沖へ漕ぎ出せ
 イエスのみ教えを聞いたら次にイエスのご命令に耳を傾けましょう。イエスは「沖へ漕ぎ出せ」と言われます、今年、あなたは今の浅瀬で満足していてはいけません。沖へ漕ぎ出すのです。もっと信仰生活に本気になるのです。
 今まで自分勝手に網を降ろしていませんでしたか?沖へ出て、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスが言われる通りに従って行動をすると、主の不思議な奇跡を見せていただくことができます。

3.人間をとる漁師
 思いがけない大量を見せられた時、シモン・ペトロは自分の弱さに気付くと共に、罪深さにも気付きました。それでイエスの前にひれ伏したのです。
 あなたは、何かに成功した時、思い通りになった時自分の力を誇りますか、それともイエスのみ業のすばらしさを認め自分のちっぽけさを認めますか?
 自分の弱さと足りなさ、汚れを認める時、イエスは十字架の血潮でゆるし、永遠の命を与え、さらに神に喜ばれる清い心を与えてくださるのです。
 そしてわたしたちは、滅びに向かっている人々に福音を述べ伝え、イエスのもとに人々をお連れする者にしていただくのです。