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ヨハネ

あなたを待っておられる主(2010.12.12)

宣教題  : 「あなたを待っておられる主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章9~13節
待降節は、救い主を待つ、再臨の主を待ち望むという時です。しかし、ここでは「待つ」ということを百八十度転換させて、イエス・キリストが私たち一人ひとりを待っておられるということに想いを馳せ、それに応えていくときとしたいものです。

1.「まことの光」に立ち返る  9節
イエス・キリストこそが、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす」お方でした。この世界は、今なお神の恵みに完全に服していませんし、多くの人が罪と死の支配にとらわれたままの暗闇の中を歩んでいます。
ですから私たちは、「まことの光」に出会い、立ち返ることが必要なのです。それは、自分が作り出した光の中を歩むことではなく、イエス・キリストが十字架の死と復活によって照らし続けてくださる「まことの光」の中を歩み続けることなのです。
私たちは、「まことの光」であるイエス・キリストを目の前に見ているか、それとも背を向けて暗闇の影を見ているかを問いかけられているのです。

2.神の子とされる  12節
イエス・キリストは、「神の子となる資格を与え」ようと私たちを招いておられます。神の子とされるのは、人間の血筋によってでもなく、人間の努力によってでもなく、また人間の願望によってでもなく、ただ「神によって生まれた」との神の一方的な恵みによるのですから、神が最後まで責任をもって導いてくださいます(13節)。
私たちがそれに与るには、イエス・キリストご自身と、このお方が語られた御言葉と御業を信じ、それを自らにあてはめて受け入れることが必要です。そして、私たちが安んじてイエス・キリストに身を任せていくなら、神の子としての歩みを確かなものにしてくださるのです。

光はここに(2010.12.5)

宣教題  : 「光はここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章1~8節
クリスマスの出来事が羊飼いたちに告げ知らされたのは、「夜」の出来事でした(ルカ2章8節)。今日の世界に「夜」があり、私たち自身に「夜」があります。しかしその夜の真っただ中に神の恵みの「光」が訪れました。それがクリスマスです。

1.光は暗闇の中で輝いている  1~5節
永遠の命の光であるキリストは、この世界の「暗闇」のただ中に訪れられました。暗闇は、神抜きの人生が生み出す人間の憎悪・恐れ・無関心などの姿であり、神から離れた人間の罪ある姿であり、死の恐れに支配されている姿を現しています。
こうした暗闇は、光であるキリストを理解できず、受け入れることができませんでした。この暗闇がキリストを十字架に追いやったのですが、その死からの復活によってキリストは勝利されたのです。
光であるキリストは、暗闇がどんなに深くても、輝き照らすことを止められません。「光は暗闇の中に輝いている」のです。

2.光は証しされる  6~8節
ここに、光であるキリストを証しするバプテスマのヨハネが登場します。彼は、歴史の舞台に神の目的のもとに、神から遣わされた人でした。彼は、光であるキリストによって自分の身の上に起こった出来事を証しするために、光の中を生かしてくださるキリストを証しするために遣わされたのでした。
ところで、バプテスマのヨハネは、自分が「声」であることを知っていました。声は、ある内容を伝えた瞬間消えていきます(1章15節、23節)。彼は、そのようなキリストの証人として用いられることを喜んでいるのです(3章29~30節)。私たちは、自らの存在や言動を通して、光なるキリストとその救いの恵みが見えてくる証人とならせていただきましょう。

希望に生きる(2010.10.17)

宣教題  : 「希望に生きる」   宣教:   和田 治  師
聖    書  : ヨハネ3章1~21節
真の神様は、私たちの将来を明るくしようとしておられ、私たちを希望で満たし、確かに幸せにすることのできるお方だと、聖書は言っています 。

1.新しくされることは必要?
自他共に認める「正しい人」で裕福でもあったニコデモ。しかし、何かが足りないと感じていました。確信を持って「私の将来は明るい」と希望を告白することはできなかったのです。ゆえにイエス様を訪ねました。イエス様は、「新しく生まれる以外に、真の希望に生きる方法はない」と教えなさいました。では、どうすれば新しく生まれることができるのでしょうか。

2.新しくされる方法は?
5節にあるように「霊から生まれる」、つまり神からの命に生まれることによって新しくされる、とイエス様はおっしゃいました。それは、15節にあるように、イエス様を信じるときに起こるというのです。
罪という猛毒、死に至らしめる、滅びへとおとしめる罪の力から、イエス・キリストを救い主として仰ぎ信じるだけで、解放され、きよくしていただけるのです。イエス様は私たちの罪を負って、十字架でその罰を受けてくださいました。このお方を信じるだけで、罪を一度も犯したことのない、新しい者とみなされるというのです。

3.新しくされた結果は?
「永遠の命を得る」とあります。本当でしょうか?
キリストの復活は誰も否定することができない「事実」です。ということは、キリストを信じれば、少なくとも二つのことが確実になります。人間の最大の敵である「死」に勝利なさったお方と一つになるのですから、どんな問題があっても大丈夫、と言えるのですね。これこそ真の希望でしょう。
そしてもうひとつ。キリストは復活したのですから、このお方を信じる私たちもまた、やがて復活する、ということです。永遠の命につながる真の希望に、あなたはすでに生かされていますか?

イエスを訪ね続けたニコデモ(2010.8.8)

宣教題  : 「イエスを訪ね続けたニコデモ」   宣教:   西原 孝至 師
聖    書  : ヨハネ 19章38節~42節
人がキリストを訪ね続けていると造り変えられ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できる人になります。

1.以前、ニコデモは主イエスの教えを聞くために、夜、人目をはばかって、イエスを訪問したことがありました(ヨハネ3:1-11)。しかし、その頃のニコデモは、自分の努力で律法を守って正しい生活をし、そのことを神に喜んでもらおうとする世界に生きていたので、主イエスを信じて罪赦され、聖霊によって造り変えられるという世界を理解することは、どうしてもできませんでした。

2.その後、7章では「律法を知らない群衆は呪われている」と言うファリサイ派の人々に対して、ニコデモは「イエスがまちがっていると頭ごなしに言ってはならない。その言葉に耳を傾け、御業をよく見てから判断すべきだ」と勇気をもって語りました(50~51)。

3.やがて19章では、十字架で死なれたイエス・キリストが私たちの身代りであることを知ったニコデモは、キリストの愛に押し出されて、主イエスの死体を墓に収めるという愛のわざを、昼間堂々と人目を恐れないで行ったのでした。

誰でも始めは、キリストの言葉の意味がわかりません。しかし、ニコデモのようにイエスを訪ね続けるなら、必ず天からの助けが与えられ、造り変えられるのです。礼拝に出席し、聖書を読み、祈りを通してイエスを訪ね続けましょう。

ひとり子をたもう神の愛(2010.3.14)

宣教題  : 「ひとり子をたもう神の愛」   宣教:   勝田 幸恵 伝道師
聖    書  : ヨハネ 3章16節~21節
私たちはこの世に生まれてから、いつも愛を求めて生きています。赤ちゃんの時はお父さんお母さんの愛、大人になると家族や仕事などです。このように私たちはいつも誰かに愛を求めて生きているのです。

1.神はこの世を愛して下さった。
神様はこの世を愛して下さいました。しかし、この世は神様を無視し、罪によって失われた世界と言えます。神様に背いて、罪に満ちた私たちを、神様は限りなく愛して下さっているのです。その愛は、無私で無償の愛、人種的偏見や人間的差別もありません。神様は、私たちが罪人であろうとも愛して下さっているのです。神様の愛は、どのように表されたのでしょうか?

2.神はそのひとり子を賜ったほどに愛して下さった。
キリストの十字架によって、神様の愛が具体的に表されました。人間は罪を持ったままでは絶対に御国に行くことは出来ません。でも神様は、全ての人が救われて御国に行くことが出来るように、キリストをこの世に送られたのです。
神様はどうして、これほどまでにキリストの十字架と言う大きな愛の犠牲を払って下さったのでしょうか?

3.神は滅びから永遠の命に移すほどに愛して下さった。
キリストは、私たちが永遠の滅びから救われて永遠の命を得る為に、私たちの罪の罰の代わりに十字架で受けて死んで下さったのです。
永遠の命とは、肉体の死だけではありません。誘惑に打ち勝つ命であり、試練や困難の中にいても私たちが生き続けることが出来る命なのです。
献身する前、私は試練に遭いました。私を支えてくれたのは、私の祈りを聞かれていた神様だけでした。それまでの私は、人に言えない罪もありました。それにも関わらず私を愛し続けて下さっている神様は、信じ求める者に勝利を与えて導いて下さるお方なのです。日々、神様の愛を求めて、キリストによる救いの勝利を得ましょう。

真理を求めて(2009.10.18)

題   : 「真理を求めて」   宣教:   二宮 一朗  牧師
聖書  : ヨハネ 8章 31節~32節
わたしは小学生の時に熊野教会学校に導かれ、中学生になって神戸中央教会に導かれました。すぐに教会に来なくなりましたが、2年生の秋に三宮で開かれた特別伝道集会で神の愛に感動し、主イエスを信じ救われました。
その時、中学生ながら感じたことは、「真理を知った!」という静かな確信でした。主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)「…真理はあなたたちを自由にする」(8:31)。

1.人は、真理を求めて
人は、確かに、真理を求めています。裁判で真実を追求するように、人は生きる意味を求め、人世と永遠について真理を求めてきました。真理とは、虚偽・錯誤の対語で、本当の事、隠されていない事、人間を自由にさせる実在、真実な方を表わします。しかし、残念ながら、オーム真理教が示すように、多くの偽物や不確かなものが、世に溢れています。何故このようになったのでしょうか。

2.神は、真理を啓示された
神は、世の初めに天地宇宙を創造され、人を創造されました。そして、大自然の中に御自身を表わされ、人には霊を与え、永遠を思う思いを与えられました。ですから、世界中の人が自然界に触れ、神の存在を感じ、宗教が生まれています。その心は尊いものです。しかし、神や人世についての真理は自然観察と人の知恵だけでは明白にはわからず、様々な観念や宗教が生まれました。
そういう中で、神が人類を愛して御自身を明確に表わされたのが、聖書であり、イエス・キリストです。聖書は語ります、「(聖書の)み言葉の全体は真理です」(詩篇119:160口語訳)。
主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)。

3.真理はあなたに語る
真理である聖書とイエス・キリストは、明白に語ります。神の愛と計画、人の罪、主イエス・キリストの十字架による罪の赦し、イエス・キリストを信じるなら永遠の命を得、神との交わりが始まり、永遠の御国に行けることを。
しかも、イエス・キリストは御自分を信じて従う者に約束しておられます、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

真理とは何か(2009.10.18)

題   : 「真理とは何か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 18章 37節~38節
「真理とは何か」とは、人類始まって以来、あらゆる分野で問いかけられてきたことです。多くの人たちは、その答えを得られないでいますが、聖書は答えを明らかにしています。
『わたしは・・・真理であり・・・』と、キリストご自身が真理そのものなのです。真理には、以下の二つの要素が必要です。

1.普遍であること
真理は、絶対かつ普遍なるものです。真理であるならば、誰にでも、どこにおいても、いつの時代でも、適用され当てはまるものです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世にきた」と言われるキリストこそが、私たちの普遍的な問題である罪と死に対して、唯一解答をお持ちのお方なのです。
私たちの罪が償われるために、キリストは十字架で贖いを成し遂げてくださいました。この事実を「私のため」であったと信ずる時に、全ての罪は赦され、救われるのです。私たちが死の支配から解放されるために、キリストが復活されました。この事実を「私のため」と信ずる時に、死に勝利することができるのです。ここに、私たちの揺るがない望みがあります。

2.不変であること
真理であるとは、不変かつ永遠なるものです。それは、「わたしは・・・真理であり・・・」と言われるキリストに見い出すことができます。まず、キリストの御言葉は不変です(マタイ24章35節)。これまでキリストが語られたことは、一つもたがわず成就してきました。このキリストが私たちを救うと言われたことは、永遠に変わらないことなのです。さらに、キリストは永遠から永遠まで存在されるお方です(ヘブライ13章8節)。ですから、キリストは、誰でも、いつでも救うことができるのです。そして、キリストの愛は不変で、完全です(1ヨハネ4章10節、18節)。このキリストの愛は、私たちの態度や状態によって変わることはありません。
信仰とは、あてにならない自分に頼るのではなく、どんな時でも真理であられるキリストを信頼して生きることなのです。

しあわせはここに(2008.10.19)

題   : 「しあわせはここに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 5章1節~9節
聖書は全体を通して、人が神の前に真っ直ぐに歩むならば、その人生がどんな局面に遭遇したとしても、一切が神への感謝となり、神を讃えるさいわいな人生となることを明らかにしています。

1.自分のみじめさに気づかされる
「ベトザタ」と呼ばれた池の周囲にいた人々は、一様に人生の挫折を味わい、失望と空しさ、不安といらだちの中に置かれていました。38年間病気に苦しむ人も例外ではありませんでした。
彼には、自分の力ではどうすることもできないために、何とかならないか、とのあえぐ姿があります。「良くなりたいか」との主イエスの語りかけにも、助けてくれる人がいない、また一緒に苦しんでくれる人もいないと諦め、無力感を感じています(6~7節)。
今日のわたしたちも、心身の弱さだけでなく、自分の愚かさを悔いたり、取り返しのつかない失敗をしたりといったみじめさを経験します。それらは、誰しもが経験するのではありません。しかし、全ての人が共通して味わうのが、罪と死に対して神の救いにあずかっていない、というみじめさです。
何とかならないかとあえぎつつも、それを他の人に責任転嫁したり、誰もが同じだと諦めてしまう無力感を抱いたりする自分の姿に気づいていますか。

2.キリストの救いの力を経験する
「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『良くなりたいか』と言われた」(6節)と、自分のみじめさを味わう人に愛のまなざし、愛の理解、愛の語りかけをしておられます。
その究極の現われが、私たちが罪と死の虜となっているところから解き放たれるために、主イエス・キリストが十字架で身代わりの死を遂げてくださり、死の壁を打ち破って復活された救いにあります。
今や私たちは、「起き上がりなさい・・・歩きなさい」(8節)との主イエスの招きに信頼して、このお方の救いの力によって立ち上がらせていただき、新たな歩みを始める必要があります。本気になって、「良くなりたいのか」との愛の招きに応ずる決断をしたいものです。

主を見て喜んだ(2008.3.23)

題   : 「主を見て喜んだ」   宣教:  福田 勝敏 牧師
聖書  : ヨハネによる福音書 20章19節~23節
イエス様が墓に葬られて三日目の朝、マグダラのマリアはイエス様がよみがえられて空っぽになったお墓を見て、ペトロともう一人の弟子に伝えました。彼らもお墓を見て、不思議に思いながら家に帰って行きました。しかし、マグダラのマリアは墓に留まっていました。このようなマリアにイエスはご自身を現して下さったのです。

1.心にかかる鍵
マリアは「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えました。しかし弟子たちは人を恐れて、家の鍵をかけて中に隠れていました。しかし、そんな家の中に復活のイエス様が入ってこられたのです。そして「あなた方に平和があるように(シャローム)」と言われました。
ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様を見捨てて逃げ出した弟子たちに、なんと優しく語りかけられたことでしょう。わたしたちがどんな困難や問題の中にあっても、心を固く閉ざしていても、心に来てくださるお方です。

2.主を見て喜んだ
イエス様は、弟子たちに手とわき腹を見せられました。そこには釘穴があり、わき腹には槍で突き刺された大きな傷がありました。紛れも無くイエス様です。
弟子たちは、この時初めて喜んだのです。この「喜んだ」には歓喜した、大喜びをしたという意味があります。わたしたちもどのような状態にあっても、死に勝利された復活のイエス様が共に居てくださるなら、神からの平和が与えられるのです。

3.使命に生かされる
主を見て喜んだ弟子たちに、もう一度「平和があるように」と語られました。そして続いて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
イエス様は弟子たちに最高に崇高な使命を与えられたのです。弟子たちにはこの使命を果たす力はありません。ましてわたしたちにはそのような力はありません。
しかし、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。弟子たちがその使命を達成するために必要なことをしてくださったのです。

不信仰で無力なわたしたちを用いるために、聖霊が今日も与えられています。復活のイエス様を喜び、愛し、愛する人々に福音を伝えさせて頂きましょう。