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ヨハネ

キリストは何をなされたか(2013.9.22)

宣教題  : 「キリストは何をなされたか」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ11章25~27節
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との主イエスの御約束を信じて生きる人には、過去も現在も将来も開かれた人生となります。そのために、主イエスは、どのようなお方であり、何を語られ、何をなされたのでしょうか。

1.明るい将来を開かれた
マルタとマリアは、主イエスがいてくださりさえすれば、兄弟のラザロは死ななかったのにとの思いを抱いていました(21、32節)。死の厳しさ、虚しさ、悲しみを味わっていたのです。主イエスは、彼女たちの悲しみを受け止めて涙を流され(35節)、ラザロを墓からよみがえらされたのです(43~44節)。
マルタとマリアと兄弟ラザロは、私たちの代表です。同じように、私たちは、十字架に死んで復活された主イエスによって、肉体の死を越えて生きる者となるように招かれています。それだけではなく、主イエスは、死の不安におののき、本来の人間らしさを失った者に復活の命を与えて生かし、新しくされた人生を歩ませてくださいます。私たちには、主イエスと切り離されないで生きて死ぬという明るい将来が開かれているのです。

2.明るい過去に変えられた
私たちに明るい将来が開かれるためには、明るい過去に変えられる必要があります。私たちの数々の罪は、神の目から隠れてはいません。その神の前に素直な心になって、罪の赦しを求めるならば、主イエスの十字架の血によって罪のない者としてくださるのです。
このようにして、暗い過去が明るい過去に変えられ、明るい将来へと希望がつながるのです。私たちの希望の根拠は、十字架に死んで復活された主イエスにあるのです。
「信じる」とは、思い込むことでも、理性を殺すことでもありません。「わたしを信じる者」とあるように、私たちは、主イエスを自分の永遠の救い主として受け入れ、このお方によって尽きることのない復活の命を与えられているということを信じ、信じたとおりに生き、その結果を体験するように招かれているのです。

もう一つの命(2013.6.16)

宣教題  : 「もう一つの命」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖書  : ヨハネ10章10~11節
聖書が明らかにしている「命」には、二つの異なった言葉が用いられています。一つは、肉体上の自然的な命で、この地上の一時的な命を意味するものです。もう一つは、肉体を超えた本質的な命、永遠の命を表わすものです。後者こそが、私たちが与かる必要のある「もう一つの命」です。

1.溢れる命を 10節
主イエスが来臨されたのには、目的がありました。羊のように無力で弱い私たちが、もう一つの命を受け、しかも豊かに受けるためでした。
豊かな命は、溢れる命です。溢れる命からは、喜びが満ち溢れ(1ヨハネ1章4節)、主への感謝が満ち溢れ(2コリント4章15節)、主の慰めが満ち溢れ(2コリント1章5節)、主の愛から引き離すものからの勝利に満ち溢れ(ローマ8章37節)、主の業に満ち溢れるのです(1コリント15章58節)。
私たちが受ける溢れる命は、他者を生かしつつ、周囲を祝福します。そして、地上の終わりの向こう側に向けての備えをしつつ、人生の終わりを迎えるのです。

2.命はキリストに 11節
このような約束の御言葉を語られた主イエスが、本当に命なるお方なのでしょうか。
主イエスは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と自らを明らかにしておられます。主イエスは、何の罪も犯しておられないお方なのに、私たち一人一人の罪を背負い、十字架に架かられて死なれました。同じように十字架に架けられた犯罪人の一人は、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(ルカ23章41節)と言っていますが、その当然の座が、罪の赦しと永遠の命に与かる恵みの座となったのです。
十字架の死から復活された主イエスは、今も変わらずに永遠の命を与え続けていてくださいます。命のキリストに信頼して歩み出し、また歩み続けましょう。

わたしは門である(2013.5.26)

宣教題  : 「わたしは門である」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ10章7~9節
私たちの人生は、大小さまざまな決断の連続を繰り返しています。とりわけ、人生の大切なことがらに関しては、後で後悔しなくてもよいように、その決断を助けてくれるものを求めます。
主イエスは、そのような私たちに、重い問いかけをされました。

1.狭い門から入れ  マタイ7章13~14節
人生には、滅びに通じる門と命に通じる門があるというのです。多くの人が殺到する人生の広い門は、その先が行き詰まりで、滅びです。一方の狭い門は、罪赦されて天国に招き入れられるという永遠の命の保証がありますが、それを見い出そうとする人が少ないのです。
その狭さは、私たちの側に何かの資格、行状、品性などにおいて条件を満たしていることを要求されるものではありません。そのようなことが問われるのであれば、初めから諦めるしかないのです。ただ、ある一つの門をくぐるという点においてだけの狭さがあるというのです。

2.イエス・キリストこそが門である  ヨハネ10章7~9節
羊飼いである主イエスは、羊である私たちと出会うために来られたのであり、そのために羊飼いはただ一つの門を通られました(ヨハネ10章2節)。それは、私たちの罪の赦しのために十字架の死を遂げられたという門です。
私たちは、どんなに努力し信心しても、新たに生まれ変わって、天国の一員となることは到底不可能なことです。「わたしこそが門である」と言われる主イエスが、十字架と復活によって神の救いに与からせてくださる救いの門を開いてくださったのです。この救いの門は、誰にでも開かれています(ヨハネ3章3節、5節)。それが狭いというのは、ただ罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じるという点においてなのです。さらに、この救いの門は、一人一人が入らせていただくということで狭いのです。

触れる愛(2013.4.28)

宣教題  : 「触れる愛」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ 9章1~7節
ここに登場する「生まれつき目の見えない人」は、主イエスによって目が見えるようになりました。この男性は、主イエスの手の感触をどのような思いで味わったことでしょうか。触れることがないと愛は始まりません。主イエスが触れてくださる愛は、私たちに新しい人生を開いてくださるのです+。

1.人生の不幸と思えるただ中に
当時人々は、この男性が不幸なのは誰のせいなのかと問題にしたようです。また弟子たちは、この不幸は誰の罪によるのかと主イエスに問いただしています。この時、彼はその不幸、その惨めさを数えて、どのように生きていけばよいのかと自問したことでしょう。
因果応報という教えがありますが、それがどんなに人を苦しめ、人を不安に陥れていることでしょうか。そのような人に、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と言い切ることができるのは、主イエスのみです。私たちは、因果応報という考えが断固断ち切られたところで、生きることができるのです。

2.神の業が現れるため
この男性の目が見えないのは、誰のせいでもなく「神の業がこの人に現れるため」でした。主イエスは、彼に対する深い愛をもって、不思議な方法で目が見えるようにされました。
主イエスは、肉体の目が見えなくても見えても、一人一人の一番つらいところに愛をもって触れてくださるお方です。ですから、私たちはこの男性のように、主イエスが言われるとおりに信頼し切って踏み込んでいくことが大切なのです(7節)。そして、「主よ、信じます」と主イエスの前にひざまずくことです(35~39節)。
十字架に死んで復活され今も生きておられる主イエスは、神の業が私たちに現れる人生を開いていてくださるのです。

人生は空しいものではない(2013.3.31)

宣教題  : 「人生は空しいものではない」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ21章1~14節
復活された主イエスは、シモン・ペトロをはじめ七人の弟子たちに御自身を現わされました。それは、彼らがティベリアス湖で漁をしていた時のことでした。彼らはそこで、どのような新しい展開をいただいたのでしょうか。

1.主イエスが御自身を現わされる
ペトロをはじめとする弟子たちが漁に行ったとき、彼らは主イエスとお出会いする以前の自分たちの仕事に仕方なく戻って行ったのでした。それは、主イエスとの関わりを失った後戻りの生き方であったと言えます。この時の彼らの心の状態は、十字架を前にしての主イエスを否んで裏切った心苦しい心境であり、もはや主イエスから忘れられていると思う空しさと失意と虚脱感を抱いたものでした。
主イエスは、このような心の状態でいる弟子たちに「御自身を現わされた」(1節、14節)のです。夜の間、彼らを見守っておられる主イエスのお姿をほうふつとさせます(3~4節)。夜が明けると、主イエスは「子たちよ」と呼びかけられて彼らとの交わりを回復させ、愛に満ちた指示をされました(5~6節)。そして、愛の配慮ある新たな交わりを造られました(9~13節)。
今も復活の主イエスは、空しい状況に明け暮れし、失意の中にあり、目標を失いかけている者に、「子たちよ」と呼びかけ、御自身との新しい交わりの中に招いていてくださいます。

2.復活の主を告白し続ける
弟子たちは、主イエスが生きておられることを告白しています(7節、12節)。これは、「我らの主、イエス・キリストを信ず」(使徒信条)と告白し続ける教会のひな型です。私たちの礼拝と信仰生活の中心には、復活された主イエスが生きておられ、いつも共にいてくださるとの信仰があるのです。
ここから、私たちの空しい生活は終わりを告げ、意味ある生きがいある人生が始まるのです。
そして、主イエスとの命の交わりに生きる喜びが生まれるのです。死んで復活され、永遠に恵みをもって支配される主イエスを目当てとして生きることが、私たちの希望です。

新しい生き方を求めて(2013.3.24)

宣教題  : 「新しい生き方を求めて」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ12章20~26節
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)とは、主イエスが十字架に架かられる前に、受難週の中で語られた御言葉です。この御言葉が、私たちの生き方にどういう意味をもっているかに注目したいと思います。

1.一粒の麦となられたキリスト
主イエスは、受難週の最初の日に、エルサレムに入城されました。その時、過越の祭りの礼拝を献げるために集まっていた人々の中に、「何人かのギリシア人」がいました。彼らは、主イエスがなされていた御業の中に救いを見ていましたので(17~18節)、主イエスの弟子たちを仲立ちとして、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節)と、興味深い願い事をしました。
それに対して主イエスは、十字架に架かって死なれて「一粒の麦」となる時が、御自身が神として最も著しい栄光を現わす時であると証言されたのです(23~24節)。この救いの御業を通して、多くの人たちが神の救いに与かるという多くの実を結ばれたのです。私たち一人ひとりも、その実の一人に加えられているのです。

2.一粒の麦となる私たち
最初に掲げた御言葉は、主イエスの御生涯の在り方を示しているだけでなく、主イエスの救いを受け入れ、この方の弟子となったクリスチャンの生涯の在り方でもあるのです。
私たちが一粒の麦となるとは、自分だけを愛して自己中心的生き方をするのではなくて、主イエスを愛し、神中心の生き方をすることであり、そこに永遠の命に至る歩みがあるのです(25節)。それこそが、主イエスに仕え、主イエスに従うことであり、結果として主イエスのおられるところに共にいる者になるのです。主イエスは、そのような人を大切にされます(26節)。
私たちは、「一粒の麦」となることによって他者の救いのために生きる者とされて、主のために実を結ぶことを喜びとしたいものです。

自分が変われば(2012.10.28)

宣教題    :     「自分が変われば」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 8章1~12節
今、私たちが最も必要としているものは、心の光ではないでしょうか。しかし、現実は心の暗闇におおわれています。イエスはその暗闇に光を灯そうとされて、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)と招かれるのです。

1.暗闇の中を歩んでいた事実
ある朝早く、人々が一人の女性を連行してきた目的は、「イエスを試して、訴える口実を得るため」でした。そこには、人間の暗い闇が潜んでいます。姦通という人間の哀れな本性にまつわる罪があります。そして、自分も同じ可能性を持ちながらも、この女性が犯した行為、その現象だけを厳しく咎めて裁いている人間の底知れない罪があります(3~6節)。そして、救い主をすぐ目の前にしながらも、その御言葉に背を向け、折角の救いのチャンスを放棄し、その場を立ち去っていく人間の哀れな姿があります(7~9節)。そこにも私たちの罪の暗さを見ることができます。これこそが、時代を越えて存在する人間の共通の罪、その暗さです。
自分には罪がないと言える人は、一人もいません。自分で自分を救える人もいません。イエス・キリスト御自身とその救いの御業による以外にないのです。

2.光であるキリストに従う信仰
イエスは、この女性に優しく語りかけ、それに答える彼女に決定的な御言葉を告げられました。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』と(10~11節)。これは、罪の審きが貫かれ、その赦しが貫かれている十字架のイエスを仰ぐことにより可能となる宣告です。
私たちは、「世の光」であるイエスによって、罪を赦されて生かされる「命の光を持つ」のです。そして、私たちの内側から輝かしていただく「命の光」に立つのです。
各人がそのように変えられるためには、イエス・キリストへの信仰が必要です。それは、イエス・キリストの御人格と御性質を信じ受け入れ、その真実な御業にすべてを委ねていくことです。このお方に信頼し従っていくことです。

ほんとうに良くなりたいのか(2012.10.21)

宣教題  : 「ほんとうに良くなりたいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 5章1~9節a

エルサレムの町中が祭りで祝っていたときに、ベトザタの池の周囲は失望と悲しみの渦巻く中にありました。そこにイエスが来られて、38年間も病気で苦しむ一人の人を見られ、彼の実情を知られ、「良くなりたいか」との真剣な問いかけをもって対話をされ、彼の新たな出発のときとされたのです。

1.人生は悲哀なり
この人は、病気で苦しみ続けているゆえに、失望と空しさと不安といらだちの日々を過ごしていました。自分の力でどうにもならない人生の悲哀を体験していました。さらに、彼は、イエスの「良くなりたいか」との問いかけに、人々が助けてくれないと人のせいにして自己憐憫に陥り、一緒に苦しんでくれる人がいないと諦めて無力感を味わっている始末です(7節)。
こうしたことは、極めて今日的です。人は、様々な形でこのような経験をするものですが、人であれば誰しもが共通して味わう悲哀があります。それは、罪と死の恐れの奴隷となっている惨めさです。人は、こうした惨めさから解き放たれないかとあえぎつつ、あげくはそれを他者に責任転嫁し、人は誰でも同じだと諦めてしまっているといった状況です。

2.されど歓喜とならん
人生の悲哀が、すべての結果ではありません。イエスにあっては結果ではなく始まりであり、そこからイエスが御業を始めてくださるのです。そして新たな歩みを造り出してくださるのです(8~9節)。
聖書は、人が自力で解決できない罪と死の現実を容赦なく真正面から取り上げています。そして、イエスの前に謙虚に自分の罪を告白するように迫るのは、イエスが十字架でその罪の身代わりの死を遂げ、その死の壁を打ち破って復活されたことにより、罪と死に対する勝利をされたからです。
イエスは、今も「あなた」の前に立たれ、ほんとうに良くなりたいのか、との招きに決断することを求めておられます。ここに、悲哀から歓喜へと転換点があるのです。

想定外の愛(2012.10.7)

宣教題  : 「想定外の愛」   宣教:   鎌野 直人  協力牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 3章1~16節

世界がこうなればいいのに、と思うことがあるでしょう。「物事が正しく行われればいいのに」、「ものだけがすべてではないのに」、「他の人と親しくなれればいいのに」、「人は、世界はもっと美しいはずなのに」。いつの時代も、どこに住む人も、そう願っています。けれども、現実はそうではありません。

1.想定外の条件
ユダヤ人の指導者であったニコデモという教師もそう願っていました。「神の国を見れば、永遠のいのちを得ることができれば、そんな違った世界を見る事ができる」と求めていました。そこで、当時はやりの教師であるイエスの所に尋ねに行きました。ところが、イエスは「新たに生まれなければ」(3)とか「水と霊によって生まれなければ」(5)というニコデモにとっては想定外の条件を突きつけてきます。今まで考えたこともなければ、理解もできない条件でした。
「すばらしい世界が来るように」と願う私たちに聖書が突きつける条件は、私たちにとっては想定外のものばかりです。いや、条件の意味さえも理解できません。自分が今置かれている枠組みがそれをとどめているのです。

2.想定外の愛
しかし、天地を造られた神が私たちのためにこの想定外の条件を満たして下さいました。神がその独り子イエスを与えてくださることによって、それも十字架につけることによってです。私たちのために大切な独り子を与える神の愛は想定外です。神を知ろうともしないし、見ようともせず、むしろ嫌っている世界のために、神は最後まで約束を守ると語られているからです。むごたらしい十字架があなたを、そして世界を癒して、すばらしいものを回復すると約束されているからです。
こんな想定外の愛を受け入れることができるでしょうか。自分の枠にこだわり続ける限り、受け入れることはできません。そのようなは神のすばらしい世界を経験することなく人生の終わりを迎えるでしょう。しかし、イエスを信じる時、この神の賜物を喜んで受け取る時、新しい世界があなたから始まるのです。

渇くことのない水とは(2012.10.4)

宣教題  : 「渇くことのない水とは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 4章7~19節
肉体の渇きや心の渇きのいやしは、繰り返しなされます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」とは、繰り返すことがないものです。これは、イエス・キリストとの関わりを通して受け取らせていただくのです。

1.キリストに出会う
キリストは、サマリアの女が水を汲みに来た際に声をかけられ、一杯の水を所望されました。「水を飲ませてください」と、水を受け取ることから始まる出会いを求められています。そこでキリストは、水を飲む器を共有することを何の妨げとも思われないで、彼女との人格と人格の交わりを求められたのです。このことをきっかけとして、キリストは、渇くことのない「永遠の命」を与えることに全力を注がれました。
キリストは、私たちにもご自身の方から出会いを求められるお方です。

2.キリストの救いに招かれている
サマリアの女は、肉体は生きていても、その魂は罪と過ちのために死んでいる状態でした。彼女が、そのままの状態を続けるとしたら、永遠の死を味わうことになります。
しかし、キリストの目には、彼女はかけがえのない存在であり、「わたしが与える水」は永遠の滅びから永遠の栄光に招き入れる救いであることを明らかにされました。
それは、キリストが十字架の身代わりの死をもって罪を全く赦し、復活されて死に勝利された救いで、人が再び神の愛のふところに帰れる道をつけてくださったのです。
これこそ、神が私たちのために打つべき手を打ち尽くしてくださった愛の御業です。

3.キリストを信じ受け入れる
キリストを信じ受け入れるとは、ちょうど人が自分で水を飲むことが必要であるように、一人ひとりが極めて個人的にすることなのです。このように、愛の神のところに身を委ねる素直さが、私たちに真の幸いをもたらすのです。
キリストを信じ受け入れて歩み出す人生は、日々に望みに満ちた新しさがあり、困難にもめげず前進する力があり、死への勝利の保証を与えられた強さがあります。キリストは、私たちに永遠の命の泉となってくださり、わき出る豊さに導いてくださいます。

愛のぬくもり(2012.4.1)

宣教題  : 「愛のぬくもり」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 12章1節~8節

受難週の直前、主イエスのための晩餐会が開かれました。この席で、ベタニアのマリアが主イエスに香油を注いだことは(3節)、主イエスに愛され(ヨハネ11章5節)、その愛のぬくもりを受け止めた者の真実な愛の業でした。彼女をこのように突き動かした動機は、何だったのでしょうか。

1.主の時を知る
主イエスは、御自分の時をいつも心に留めておられました(ヨハネ2章4節、13章1節、17章1節)。そのように、主イエスが時に向かわれる場合の御心は、弟子たちに惜しみない愛を注がれるというものでした。それは、時を知って、御自身の救いの御業を成し遂げられることでした。
マリアは、その時を知って、主イエスの愛に応答して、純粋かつ一途に「高価なナルドの香油」を注いだのでした。主イエスは、イスカリオテのユダの批判を物ともせずに、マリアのその行為を高く評価されたのです(7節)。
私たちが主の時を知らないで、主イエスに対する愛を失っているならば、今こそ、やり直しのスタ-トをさせていただきたいものです(ヨハネの黙示録2章4~6節)。

2.主の御心を知る
マリアは、弟ラザロを生き返らせていただいたこともさることながら、自分自身が主イエスによって「死から命へと移っている」(ヨハネ5章24節)ことに感謝をしました。
それを身をもって表現したのが、香油を注ぐという純粋かつ謙遜な行為でした。マリアは、主イエスの十字架に現わされる主の御心を深く洞察していたのでした。この彼女の愛の行為は、その香りを周囲に満たし、愛のぬくもりとなって伝わって行ったのです。逆に、イスカリオテのユダは、自分の思いを貫き、主の御思いを軽んじたのでした。
主イエスは、マリアの行為に対して最大級の評価をされています(マルコ14章9節)。私たちは、主の御心を知り、主への愛の業に励むことによって、自分にではなく主に栄光を帰することです。私たちの進む道は、主の御心を知り、そこに身を置くことによって開かれてくるのです。

主の愛は訴えている(2012.3.18)

宣教題  : 「主の愛は訴えている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~20節

主イエスは、十字架の死という「御自分の時が来た」ことを自覚され、弟子たちを最後の極みまで「愛し抜かれ」ました。それは、十字架の死に至るまで愛を貫かれ、私たちの救いを完成してくださったことを意味しています。主イエスは、今もこの愛を訴え続けられておられ、私たちにそれに応えるように求めておられます。

1.謙って受け入れる   2~11節
主イエスは、貪欲になって悪魔に振り回されているイスカリオテのユダや後に主イエスを否認するペトロが悔い改めることを願われて、訴えるようにして彼らを愛いし抜かれました。そして、彼らに対して、当時の異邦人の奴隷が行った洗足をされたのです。それは、この後主イエスが十字架の身代わりの死によって彼らの罪を赦してきよめてくださることを象徴する行為でした。
その主イエスの御心を理解できないでいたペトロは、洗足を拒んだり、また的外れな応答をしています。彼は、謙って主イエスとその恵みの御業を受け入れることができなかったのです。
私たちは、主イエスによる救いの恵みと、救われた歩みを全うさせてくださる主の恵みを、謙って受け入れるものとさせていただきましょう。

2.謙って仕える   12~20節
このような主イエスの愛に生きる者は、謙って仕える愛に生きる者に変えられます(14~15節)。そうすることによって、真の幸いと祝福を経験する者となるのです(17節)。しかし、謙って仕える愛を経験しなかったイスカリオテのユダは、悪魔にねらわれる隙がありました。その結果、父なる神、そして御子イエス・キリストを受け入れることができなかったのです(20節)。
私たちが謙って仕える愛を経験するのは、主人や客人ではなく、食卓に仕え、客の足を洗う僕です。教会は、そのことを学び、また経験する神の愛の学校です。主イエスは、謙って私たちに仕えてくださっています。私たちは、この主イエスと結び合わされて、謙って仕える喜びを経験していきましょう。

主がしたとおりに(2012.3.18)

宣教題  : 「主がしたとおりに」   宣教:   水野 晶子 師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~15節

今年もレントを迎えています。このレントの期間、一日一日を主の十字架を思いつつ歩ませていただきたいと思います。主は十字架を前にして、弟子たちと食事する最後の日、特別な意味ある日に何をされたのでしょうか?

1.ご自分の愛を示された。(1節~11節)
時が切迫している中で、イエス様は何よりも弟子たちを愛されました。時を知ることも空気を読むこともできない弟子たちはこの大切な時に、「誰が1番偉いか?」ということに夢中で、言い争いになってその場の雰囲気を台無しにしていました。主は彼らのいやしい姿、自慢好きで、偉くなりたいという欲望も、ユダの裏切りや弱さもみんなご存知でした。彼らがどんな性格であろうと、イエス様は最後まで彼らを愛し抜かれたのです。1番偉いのは誰か?1番高い地位につくのは誰かと争っている弟子たちに、どのようにして主の御心を伝えたらいいのか?主は夕食の席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を汲まれ、奴隷となり、膝まずいて弟子たちの足を洗われました。主の御手は嵐を静め、盲人の目を開いた偉大な御手が、体の中で最も卑しく、最も軽んじられている足に触れ、洗われました。一番汚れていたのは彼らの心でした。主はその心に触れられ、清められたのです。主は私たちにも「足を出しなさい」ときよめようと待っていてくださいます。

2.主がなしたことの意味(12節~15節)
イエス様はこの洗足を通して弟子たちにカルバリで起こる事の洞察を与えられました(フィリピ2:5~8)。天の栄光を捨てて、衣を脱ぎ、人となられ、しかも奴隷となり、十字架にまで従われ、手足から血が流され、最後に槍でわき腹が突き刺され血と水が流れ出たのです。この血と水こそ私たちの足を洗う尊い水と血なのです。一人残らず洗ってもらう必要があります。イエス様は「わたしがしたとおりにするように命じられました」。それは下へ下へ降っていく姿勢、互いに足を洗い合う関係が求められているのです。主の愛と謙遜とを身に着けさせていただき、人が生かされ救われるために、人生をかけてキリストが歩まれたように生きるものとならせていただきましょう。

信じること(2011.10.30)

宣教題  : 「信じること」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 1章12節~13節、3章16~21節
聖書は、ひたすら神の恵みにより、ただそれを私たちが信じる信仰によってのみ、罪赦され、罪を全く犯したことのない義人と認められると主張しています。「信じる」という語を多く用いている「ヨハネによる福音書」は、それはどういうことで、何をもたらすのかを語っています。

1.受け入れて、未来の先取りを
私たちは、イエス・キリストを「信じる」に際して正しい事実を知ることから始める必要があります。まず、私たちは罪という事実を自分自身のこととして認め、死という事実から目をそむけないことです。そして、イエス・キリストの十字架と復活の事実は、罪と死の唯一の解決の道であることを認めることです。
イエス・キリストは、神の愛を伝える「言」として、愛そのものである神を明確に示されました(3章16節)。私たちは、この方の御人格と御業を「受け入れ」るのです。それは、単なる賛成や同感することではなく、ありのままの自分を任せて安んじてしまうことです(1章12~13節)。そうするなら神は、神に敵対する人生を歩んできた者を「神の子」として受け入れ、神と共に「永遠の命」に生きる者として天国の世嗣としくださるのです。このように、私たちは未来を先取りする者とされているのです。

2.信頼して、生活の改革を
イエス・キリストを信じる者は、罪を拒否する生活改革を行います。私たちは、「真理を行う者は光の方に来る」(3章21節)とあるように、真理の御言葉に照らされることにより、真面目な罪意識を持ってそれを告白するならば、イエス・キリストの十字架の血潮ゆえに、神の無限の赦しの愛を信じて立ちあがることができるのです。
このように、イエス・キリストを信じるとは、このお方の真実に身を委ねて、信頼していくことです。私たちは、罪人から徐々に義人になるのではなくて、きっぱりとした決断をすることにより、そこから神の祝福に生きる歩みが始まるのです。
私たちの生活改革がされる解決の糸口は、私たちの側にあるのではなくて、神の側すなわちイエス・キリストの十字架と復活にあるのです。

恵みは豊かに(2010.12.19)

宣教題  : 「恵みは豊かに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネ  1章14~18節
イエス・キリストは、人としては父なる神との親密な愛の交わりを持たれ、神であるということにおいては御父とまったく等しいお方です(14節、18節)。このお方には、「恵み」が豊かに満ちています(14節、16~17節)。そこで私たちは、この恵みに与かり続ける経験が大切です。

1.キリストの栄光を見る経験  14節
キリストは、「わたしたちの間に宿られた」のです。これは、キリストが私たちの間に住み着くようにして、私たちを神の仲間に入れてくださったことを意味しています。
その結果、「わたしたちはその栄光を見る」ことができたのです。そのことが最も鮮やかに現わされたのが、キリストが十字架において神の救いを成し遂げられたことによってであり(ヨハネ12章23~24節)、復活されて勝利されたことによってでした(同17章24節)。
私たちは、罪ゆえに神の栄光を受けられなくなっていたのですが、キリストの救いの恵みによって(ロ-マ3章23~24節)、神の仲間とされ、神を礼拝する者とされたのです。

2.恵みから恵みへと導かれる経験  16節
この恵みは、私たち皆が継続して受けていくものです。それは、「恵みの上に、更に恵みを受けた」とあるように、恵みを新たにし続けていただくことです。順境の時は順境の恵みが、逆境の時には逆境の恵みがあるように、キリストが与えてくださる恵みは、切れ目なく続き、尽きることがなく、常に生き生きと躍動していて、必要な時に大きな働きを生み出す力を持っています。
私たちはこの豊かな恵みに出会い、それを受け取り、そこに立ち続けるのです。そのためには、イエス・キリストの前に身を屈め、頭を垂れ続けていることが大切なのです。