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ヨハネ

平安を生み出すもの(2014.10.19)

宣教題  :「平安を生み出すもの」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ20章19~23節

復活された主イエスは、ユダヤ人を恐れ、また先行き不透明な状況に不安を覚えて戸を閉ざしていた弟子たちを訪れられ、真ん中に立たれて「あなたがたに平和(平安)があるように」と二度語りかけられました。その「平安」は何を生み出すのでしょうか。

1.恐れから確信を  19~20節
弟子たちは、主イエスと同じように捕らえられてしまうのではとのユダヤ人に対する恐れ、また十字架の主イエスを捨てて逃げてしまったことに対する主イエ スへの恐れがあったために、戸を閉じて鍵をかけていました。それは、恐れと不安のゆえに心を閉ざしている人の姿を表しています。また、神がそうされたと思 い込んでしまって、主イエスにも心を閉ざしてしまう人の姿でもあります。このように主イエスに心を閉ざすと、恐れが支配し、愛は冷え、喜びは消えうせてし まいます。
主イエスは、弟子たちに「手とわき腹をお見せになった」ように、今も変わらずにご自身の十字架と復活を明らかにしておられます。ここに、不信からくる恐 れはなく、信じ確信することからくる大いなる喜びがあるのです。復活の主イエスと共に歩む者には、この確信を欠かすことができないのです。

2.不安から継承する使命を  21~23節
続いて主イエスは、自信喪失して無力になり、これからの歩みに不安を覚えていた弟子たちに、ご自身の使命を継承させるために遣わすことを明らかにされま した。その使命が遂行されるためには、人間の知恵や努力や工夫の一切を用いて可能にしてくださる聖霊が注がれる必要がありました。その使命とは、先に罪の 赦しに与った者が、主イエスの名によって、主イエスに代わって罪の赦しを告げることです。これは、主の弟子である私たちにのみ託されている驚くべき使命で す。
私たちは、主イエスに対して心を開き、互いに心を開き、共に生きる人々にも心を開いて、聖霊による確信をいただき、聖霊の導きのうちに継承してきた使命を果たしていくのです。

闇から光に(2014.9.28)

宣教 川原﨑晃牧師
聖 書 ヨハネ20章1~10節 エフェソ5章8節

人間は、生活や社会を明るくしようとして、様々な努力をしてきました。しかし、そのことが人の心の闇まで追いはらうことはできませんでした。人々の心は、暗さがますます深まっています。こうした闇を抱える私たちに、キリストは光となって照らし続けていてくださいます。

1.神ぬきの人生の闇から光に ヨハネ6章16~21節
ガリラヤ湖を舟で渡ろうとしていた弟子たちは、途中で強い風に見舞われ、舟が沈みそうになりました。舟にキリストをお乗せしないで漕ぎ出したことと、周りが「既に暗くなっていた」(17節)という様子が分かります。
このことは、私たちが経験する神抜きの暗闇の人生を歩む姿を表しています。しかし、そのようなとき、キリストに心と人生に乗り込んでいただいて光の中を歩むことが大切なのです。

2.罪ある人生の闇から光に ヨハネ13章21~30節
イスカリオテのユダの裏切りの場面です。彼が最後の晩餐の席から外へ出たとき、それは「夜であった」(30節)とあります。人が裏切る心は、夜のような闇の状態であって、決して晴れやか心ではありません。
私たちは、神を裏切るという罪の暗闇の中を歩むことから、光の中を歩み出す必要があります。そのために、神が独り子イエス・キリストを十字架にお架けくださって救いの道を開いてくださったのです。

3.未来なき人生の闇から光に ヨハネ20章1~10節
マグダラのマリアがキリストが死んで葬られた墓にやって来たのは、「まだ暗いうちに」(1節)でした。これは、彼女の心が「死んだらおしまいだ」との絶望感におおわれ、その心が暗かったことを象徴しています。
キリストの復活がなかったら、私たちの未来に対する保証も、手がかりもないことになります。しかし、感謝すべきことは、キリストは事実復活されたのです。十字架に死んで復活されたキリストを信じて結び合わされ、「光の子として」歩み出しましょう(エフェソ5章8節)。

信仰の一歩を(2014.8.24)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ19章38~42節 、ローマ10章9節

ここに登場する「アリマタヤ出身のヨセフ」と「ニコデモ」は、ユダヤの社会において指導的な立場の人たちでした。二人に共通することは、これまで「イエス の弟子」であることを公然明白にしてこなかったことでした。そんな彼らが、主イエスが十字架に死なれて葬られることに立ちあった際に、大きく変えられたの でした。

1.人を恐れないで
「ユダヤ人を恐れて」とあるように、人は他人の顔や評判に恐れやすいものです(箴言29章25節)。こうした恐れは、単に弱いからという以上に、その心 の向きがゆがんでいるところから生じるものです(ヨハネ12章42~43節)。そこには、神からの誉れをいただこうと追い求めるよりは、人からの誉れを愛し追い求める心があるのです。それは、神を信頼していないことでもあるのです。
こうした人が恐れる姿は、神の御言葉に背いて、神からその身を隠した人類の最初の人アダムとエバにも見られるものでした(創世記3章10節)。慈しみ深 い神は、そのような人に対して、「あなたは何をしたのか」と問われないで、「あなたはどこにいるのか」と御自身との交わりの回復へと招いておられます(同 9節)。

2.大胆にキリストを信じよう
主イエスは、何と慈しみと慰めに満ちておられるお方でしょうか。弟子たちを最後まで愛し抜いて(ヨハネ13章1節)、彼らを守られました(同18章19節以下)。
ひそかな主の弟子であったヨセフとニコデモは、主イエスが十字架に死んで葬られるに際して公然と主の弟子であることを言い表わしました。彼らは、主イエ スの教えや数々の奇跡によってではなく、十字架の死を通して主イエスに引き寄せられ、用いられることになったのです。
宗教心は信じる態度を大事にしますが、信仰心は信じる対象を大事にします。聖書は、主イエスを信じ、信頼する信仰心をはっきりと持ち、それを公に言い表 すように促がしています(ローマ10章9節)。そうすることによって、人々に影響力を持ち、神の祝福を及ぼすことができるようになるのです。

主のことばに従う勇気(2014.8.17)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書: ヨシュア1章1~18節   ヨハネ16章33節

偉大なリーダーの死を迎えた時、どのような組織も危機を迎える。出エジプトを導いてきたモーセの死を迎えたイスラエルもそうであった(1~2)。モーセが 民とともにいたからこそ、主は民とともにおられ、荒野放浪の40年は導かれてきたからだ。しかし、モーセが死んだ今、約束の地を征服するという主の約束は 継続されるのだろうか。モーセの後継者として指名されたヨシュアはその働きを全うできるのだろうか。

1.イスラエルは前に進む
主はヨシュアに、モーセが死んだ今だからこそ、ヨルダン川を渡り、約束の地へ進むように命じた(2)。その際に、ヨシュアには、約束の地は、神が与えて くださるものなのか、それともイスラエルが自分たちで占領するものなのか、という問いが投げ掛けられた。まず、その地は、主がイスラエルに与えようとして いる土地であり(2)、もう与えた、と主が約束されている土地である(3)。しかし、何もしなくても与えられるものではない。「あなたたちの足の裏が踏む 所を・・・与える」(3)とあるように、その土地を自分たちの足で踏む、つまり戦うことが求められている。与えられているという確信に立ちつつ、準備し、 行動するとき、主の約束は継続され、実現していく(10-11)。

2.主のことばに従う勇気
ヨシュアは明らかにモーセとは違う。しかし、主は、モーセに約束されたように(出エジプト33:14)ヨシュアにも「あなたと共にいる」(ヨシュア 1:5)と語る。主がヨシュアとともにいるからこそ、主は民とともにいる。モーセの時と何一つ変わらない。ヨシュアはその使命を果たすことができる。この ときに、ヨシュアに求められていることは、モーセを通して主が命じられ律法を日々味わい、それを実行する勇気である(7?9)。モーセのような偉大な指導 者にならなくても、主のことばを味わい、それに生きるヨシュアとイスラエルの民を通して、神は世界に働き続けられる。モーセの時代になされたことと同じこ とを、ヨシュアの時代にも主はなさろうとしている(12~18)。

 教会はキリストのからだである。イスラエルの民と同じように、主が約束し、与えてくださっていることが、私たちのわざを通してこの世界で実現していく。 それは、すでに十字架と復活において勝利を取られたキリストが、私たちと共におられるからである。だからこそ、みことばを口ずさみ、整えられ、それに生き る勇気をもって、困難が多くあるこの時代に主に従っていこう。

傷つくまで愛する愛(2014.7.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ19章17~30節

全ての人に「傷つくまで愛する愛」を注ぎ与え尽くしてくださったのが、イエス・キリストです。それを具体的に現してくださったのが、主イエスがお架かりくださった十字架においてでした。このことを信じることによって、私たちに神の救いがもたらされたのです。

1.愛のあまりに黙された  17~24節
主イエスは、人々の裏切り、離反、嘲笑、ののしりの中にあっても、それらの人々に対して愛を貫かれました(ヨハネ13章1節)。そのために、口を開くことなく黙し続けられました(イザヤ53章7節)。
主イエスがそのようにされたのは、彼らの無知蒙昧さ、愚かさの罪からの救いのためだったのです。そのことが分かると、主イエスが十字架にお架かりくださったのが「私の罪のため」であったことが、はっきりするのです。

2.愛のあまりにとりなされた  25~27節
一方、十字架上の主イエスは、その周りにいる人々に対して、とりなしのわざをなさいました。母マリアと弟子を引き合わせることによって新しい神の家族の 交わりを作られました。そのように忠実に主イエスに従う人たちだけにではなく、悔い改める人のため、悔い改めずにいる人のためにもとりなさいました(ルカ 23章32~43節)。
私たちも、今も変わらずに、主イエスが愛の限りを尽くしてとりなしていてくださる「十字架のそばに」身を置こうではありませんか。

3.愛のあまりに身代わりの死を遂げられた  28~30節
主イエスが十字架の上で「成し遂げられた」ことは、私たちの罪と死の責めを身代わりに受けとめ、救いを完成してくださったことでした。
この時、主イエスは身代わりとなって、罪の審きを体で味わい「渇く」と言われました。それは、神からも人からも捨てられるという苦痛の叫びです。このよ うに主イエスが代わって十字架に死んでくださったからこそ、私たちの魂の渇きが癒されるのです。私たちはこの招きに応答して、ただ信じるのみです(ヨハネ 6章35節)。

愛の秘密(2014.6.29)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ18章15~18節、25~27節 1ペトロ3章18節abc

聖書は、多くの人の神との出会いが記されている書といえるでしょう。ここでは、ペトロと主イエスとの出会い、その出会いが閉ざされずにどのように続いていったのかが語られています。それは、神の愛の秘密とも言えるような出来事でした。

1.私ではない  18章17節、25節、27節
ここでは、主イエスが十字架にお架かりなる前日に、その主イエスを裏切るペトロが語られています。ペトロは、主イエスの弟子だと指摘されたことに対し て、「違う(私ではない)」と言って、三度も主イエスを拒んだのでした。ここには、強い決意を持っていたペトロの無力さ、自分の決意や努力で神の前に正し く歩むことのできない彼の姿があらわにされています。この時、ペトロと主イエスとの距離は門の内外のわずか数メートルに過ぎなかったことでしょう。そんな に近くにおられる主イエスに「私ではない」「知らない」と言ったのでした。
「私ではない」と言い張って主イエスと関わりを持とうとしないで、神に背を向けて生きていこうとすることが罪なのです。その意味では、ペトロと私たちとは同じであることを認めざるを得ないのです。

2.わたしである  18章5節、6節、8節
この時同時に、主イエスは人々に捕らえられて、大祭司のもとに連行され尋問を受けておられました(1~14節、19~24節)。「ナザレのイエスだ」と 答える人々に対して、主イエスは「わたしである」と言われたと三回記されています。ここで主イエスは、ご自分を公然と明らかにされたのでした。このように して、裏切る者たちのために、主イエスは裏切ることなく十字架の道を歩まれたのでした。
このように主イエスは、私たちの弱さや罪ある者であることをよくよく知ったうえで、それらを包みこみ、見捨てることなく、身代わりとなって十字架に架 かって救いを全うしてくださったのです。それは、主イエスの愛を受けるに値する者として「神のもとへと導くため」だったのです(1ペトロ3章18節)。こ の主イエスの愛に包まれて歩み続けていきましょう。

最高の愛の犠牲(2014.5.15)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ヨハネ17章15~19節

主イエスのこの時の祈りの中には(ヨハネ17章)、父なる神が主イエスを通して、弟子たちに、そして今も変わらずに私たちに与えてくださったものが語られ ています。それには、「永遠の命」(2節)があり、「(御)言葉」(8節)があり、「栄光」(22節)があります。さらに、次のようなものを与えていてく ださっています。

1.特別な身分を  15節、19節
私たちは、イエスを救い主として信じて行こうと願いつつも、不安や疑いが生じることがあります。そこで、主イエスは、神の愛から離れることのないように 私たちを守ってくださいます(11節、15節)。さらに、主イエスは、私たちが神のものとされ、「真理によってささげられた者となる」という特別な身分を 与えてくださるのです(19節b)。
実は、このことのために、主イエスは、「わたしは自分自身をささげます」(19節a)と言われました。すなわち、罪のないお方が十字架に架かられるとい う、全く理屈に合わないことを一身に負ってくださった、最高の愛、最高の決意、最高の犠牲を表してくださったのです。このようにして、神のものとされると いう特別な身分に与ると、自分の心の現実とはっきりと向き合うことができるようになります。

2.新たにされた使命を 16~18節
そして私たちは、この世から逃避して生きるのではなく、この世の現実の中で生活しながら、神のものとされた者として生きていくのです。それを主イエス は、「彼らも世に属していないのです」(16節)、そして「わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)と言わたのです。
ここで礼拝を共にした私たちは、聖書の御言葉によって整えていただき(17節)、新たにされた使命をもって、職場に、学校に、家庭にと赴いて行きます。私 たちは、御自身を献げ尽くしてくださった主イエスの最高の愛の犠牲に立って、日々新たにされた歩みをさせていただきましょう。

心を激しく動かす方(2014.5.18)

宣教: 鎌野直人 協力牧師
聖書: ホセア11章1~11節  ヨハネ11章35節

ラザロの死に直面した時、イエスはどのように泣かれたのだろうか(ヨハネ11:35)。単に涙が流れたのではなかっただろう。イエスがそうであるように、 聖書が証ししている神は、遠くにいて、冷静に物事を見つめているだけの方ではない。心を激しく動かす情熱的な方である。

1.神が心を激しく動かされる理由(11:1~7)
神が心を激しく動かされる理由がホセア書に書かれている。神は父、イスラエル(エフライム)はその子であった(1)。出エジプトというその誕生から神は 関わりを初め、与えられた地に住み、そこで神の栄光を示す使命を与えられた。愛することで自らのすべてを与え、呼び出すことで世界のすべての民のなかから 選び出された。ところが、エフライムは神を裏切り、他の神々を慕う(2)。それでも神は、彼らに歩くことを教え、癒し、救った(3)。選びと愛のゆえに、 絆は切れない(4)。しかし、エフライムは諸国を王とし、自己破壊の道を歩み続ける。そのかたくなな心のゆえに。この長い歴史があるからこそ、神は、わが 子エフライムに心を激しく動かされる。

2.ほとばしる情熱的なことば(11:8~11)
神はその心を情熱的なことばをもって表される(8)。「見捨てることなどできない、引き渡すことなどできない」。憐れみに胸を焼かれる神はそう叫ぶ。人 はあきらめる。しかし神は、あきらめはしない。人は罰を与える。しかし、神は裏切るエフライムに罰を与えず、それを滅ぼさない(9)。人はどこかに捨て置 くだろう。しかし、神はエフライムを集め、帰るべき地に連れ帰る(10−11)。情熱的なことばは、自らが呼び出し、愛しているエフライムにすべてを神が 献げられている証拠である。
エフライムがそのままでいていいはずがない。自らの感情をあらわにされる神の情熱に押し出される。このことばを語ったホセアも、ラザロの死を見て泣いた イエスも、神の情熱の現れであった。人がその使命を果たすことができるようにと、すべてのすべてをかける情熱の神の現れである。そして、私たちに与えられ た使命は、神と同じ情熱で世界に対する神の愛を表すことではないだろうか。

敗者復活の福音(2014.4.27)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ16章33節 1ヨハネ5章5節

福音という言葉には、味のある響きがあります。福音は、誰もが聞かなければならないものです。そして、福音を聞いたなら、心を開いて受け入れ、福音に生きることが大切です。この福音の本体は、イエス・キリストご自身です。

1.「負けの味」を知り尽くしていてくださる
私たちが「世に勝つ」ことを願うのは、「世で苦難がある」中に、負ける経験を踏むからです。失敗する、負けるということは、挫折感や敗北感がつきまと い、恥をかいたり、面子もなくなったりします。誰も敗北者になることを好みません。さらに、強くなったら負けない、一生懸命やれば失敗しない、この信心を していたら不幸にならない、信仰をもったら苦しみはなくなるなどと考えがちです。
さて、キリストご自身が、地上の生活のスタートから十字架の死に至るまで、苦しみの連続でした。これを神の大失敗と言う人がいますが、キリストは、人が 経験する苦難や罪や死といったことを知り尽くしてくださったのです。そのような経験をする私たちのところに、キリストがおられるのです。

2.「勝ちの味」を経験してくださった
キリストの救いは、敗者復活の福音です。キリストが捕らえられて十字架に架けられて殺されてくださったお姿は、人の目には敗者としか映らなかったでしょ う。しかし、神の前に立つ私たちは、罪と不信仰の結果、当然神の怒りに触れて滅びへと向かう者でしかなかったのです(ルカ23章41節)。そんな私たちを 救うために、キリストは、苦しみと痛みと辱めのどん底から復活されて勝利者となられたのでした。このようにして、キリストは、勝ちの味を経験されたので す。
それは、私たちが苦難に勝ち、罪に勝ち、死に打ち勝つ勝利者とされるためでした。これは、「イエスが神の子であると信じる者」が与ることのできる勝利で す。それは、私たちがキリストに結ばれて生きるときに、キリストが勝利されたことを共に経験するのです。ここから、「勇気を出しなさい」との人生が始まる のです。

栄光の王の入城(2014.4.13)

宣教: 鎌野 直人 協力牧師
聖書: 詩編24編1~10節 ヨハネによる福音書1章11~12節

パームサンデーはイエスがエルサレムに入城されたことを記念する主日である。あえてエルサレムに上っていかれたのは、そこに神殿があったからだ。

1.エルサレムの神殿
「主の家」(詩編23:6)とはエルサレムに建てられた神殿のことである。この神殿を主が特別に選ばれた(聖別)(24:3)。だから、イスラエルの民 は、神に会い、ささげものをし、礼拝するために神殿に上っていった。そして、この神殿を、世界の所有者であり(1)、世界の創造者であり(2)、それを確 かに支えておられる神、天と海と地の王である方が自らの住まいとされた。

2.エルサレムに住むべき人
世界の王である主が住んでおられるエルサレムの神殿に上り、この方に会うことができるのは、どのような人だろうか。人の血を流すことのない「潔白な手と 清い心」をもつ人であり、人を欺く、むなしい偶像を慕わない人である(4)。むしろ、この神殿を住まいとされる主にだけあらゆる求めを祈り求め(6)、力 に満ちた、雄々しい主を自分の王として喜んで迎え入れる人(7−10)こそ、エルサレムの神殿に上るにふさわしい。栄光の王のそばにいて、その祝福と恵み を一杯に受けることができる(5)。

3.イエスが向かわれたエルサレム
イエスはエルサレムに入城され、人々はイエスを王として歓迎した。ところが、エルサレムはいまや流血の町であり、ローマ兵、さらにはユダヤ人によっても 偶像崇拝が行われている町であり、イエスを喜んで迎え入れず、いつ殺そうかと企てていた町であった。そして、イエスを王として迎え入れず、彼を十字架に架 けた。自分の民の所に来たのに、民はこの方を拒絶した(ヨハネ1:11)。王であるイエスはそのような場所に進んでいかれた。
しかし、王であり、主である方を拒絶したエルサレムが栄光に輝く場所となった。拒絶の象徴である十字架が、栄光の王の王座となったからである。だからこ そ、この受難週、私たちが拒絶しても、そこでイエスが神の栄光を表されることを覚え、十字架を通して、神の祝福が神を拒絶する私たちの真ん中に差し込んで いることを覚えたい。この神の恵みがあるからこそ、イエスを王として受け入れるという応答が生まれてくるのだから(1:12)。

心の友(2014.3.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ 15章11~17節

あなたは、何でも打明けることができ、本気で怒ってくれ、それでいていつでも一緒にいたくなるような友がおられますか(箴言27章9節b)。主イエスは、私たちに対して「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節C)と語りかけておられます。

1.愛の心をお持ちの友イエス  13節
「わたしがあなたがたを愛した」(12節a)と言われる主イエスの愛は、「友のために自分の命を捨てること」によって明らかになりました。主イエスは、 創造主である神を無視し、愛の限りを尽くしていてくださる神に背を向け、主イエスを信じようとしないで神を悲しませている罪人の友となってくださったので す。
主イエスは、神であられたにもかかわらず、自ら進んで十字架に死んでくださいました。そうすることによって、私たち罪人の身代わりとなって、神に捨てら れるという死を受け取ってくださったのです。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節c)と十字架上で叫 ばれた御言葉に表れています。

2.真実な心をお持ちの友イエス  15節
主イエスは、十字架の死から三日目に復活され、私たちのために御自身の御心を知らせ、愛と恵みの御性質のみか全てをお与えくださることによって、真実な 友となってくださいます。その真実は、主イエスを裏切ろうとしたイスカリオテのユダを見捨てないで、「友よ」と呼びかけられたことに表れています(マタイ 26章50節a)。
主イエスは、いかなる時にも、いかなる状況下にあっても、私たちを捨てなさらない真実な友なのです(ヨハネ14章18節a)。
友となってくださる主イエスに対して、私たちも友となるように信仰の応答をさせていただきましょう(14節、16節c、12節、17節)。

確かな絆(2014.2.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ15章1~10節

人は、生活や社会の矛盾と苦しみに耐えながら、自分の居場所、心の絆、活躍の機会を探し求めています。それは、確かな愛、確かな繋がり、確かなことをやり 遂げたいと求める人の姿です。主イエスは、「人がわたしにつながって」いるならば、それによって主イエスの豊かな命に生きる者となると語られました(5 節)。

1.主イエスの御言葉にとどまることによって  7節
二人の弟子が、悲しみと失望の中をエルサレムからエマオに向かって歩いていました。復活された主イエスは、彼らに近づいてこられて、聖書全体から福音を 語りつつ一緒に歩かれたのです。夕方になって、二人は主イエスに「一緒にお泊まりください」と呼びとめます。そこでの食事の最中、彼らは目が開けて、とど まってくださった方が主イエスであると初めて気づいたのでした(ルカ24章13~31節)。
ところで、私たちが、弟子たちのように主イエスにとどまってくださいと願う以上に、主イエスが私たちにとどまり、御言葉にとどまり続けるように招いてお られます(5節、7節)。主イエスは、私たちとの命の繋がりを永遠まで持ち続けてくださるお方です。ですから、私たちは、主イエスの御言葉に信頼すること です。

2.主イエスの愛にとどまることによって 9節
主イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちに向き合ってくださいます。この愛の出会いが最も明らかにされたのは、主イエスの十字架と復活においてでした。この出来事によって、私たちは、抱えている罪と死とから解き放っていただくことができるのです。
そして、私たちは、主イエスとその愛にとどまり続けるときに、神を愛する、人を愛する、教会を愛する愛の実を結ばせていただけるのです。私たちの内にそうする力はないのです。
また、私たちは、主イエスとその御言葉と愛にとどまり続けることによって、互いの間にも確かな絆を築くことができるようになります。天の御国を目指して、主イエスに繋がる信仰の一歩を踏み出させていただきましょう。

わたしの平安(2014.1.26)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ14章27~31節

キリストは、十字架にお架かりになられる直前に、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と語られました。それは、今の私たちとってどういう意味があるのでしょうか。

1.キリストの遺産、それは平安
人の内側に平安があるとき、外側に平和となって表れてきます。しかし、人の内に恐れや怒りや妬み憎しみといったものがあると、争いや破壊といったものが 生まれてきます。平和であるように、平安があるようにとあいさつを交わし合う間柄においてすら、対立や抗争が続いている有り様です。個人的な関係も国家間 などの関係も根っこにおいては同じなのです。
キリストは、そんな私たちに、この世が与えるものとは違う、いやこの世は与えることができ得ない、キリストのみが与え得ることのできる遺産として「平 安」を残していくと言われたのです。十字架にお架かりくださり、三日目に復活されたキリストが、今も生きておられて、私たちに平安を与えられるのです。

2.平安、それはキリストの平安
キリストは、平安についての説明や希望を述べられたのではありません。十字架の死を目前にした極限状態の中にあって、なお持ち続けることができたキリス トの平安です。それは、ご自分の生き方が父なる神の御心にかなっているとの確信があられたゆえに(31節)、世の力である悪魔の力の支配下にはおられな かったゆえに(30節)、いかなる時にも信頼できる父なる神を知っておられたゆえに(28節c)、十字架の死はキリストにとって「父のもとに行く」ことに ほかならないことを知っておられたゆえに(28節b)、持っておられた平安です。
私たちは、キリストがお持ちであった平安を持っていません。キリストが「わたしの平和」と言われるものをいただく以外にないのです。十字架に死んで復活 されたキリストをまるごと信じ受け入れることによって、キリストの平安をそっくりそのまま「わたしの平安」とすることができるのです。

豊かに実を結ぶ(2014.1.19)

宣教:仁科 共子姉
聖書:ヨハネ15章1~12節

イエスさまは、ご自分をぶどうの木に、父なる神さまを農夫にたとえて、父なる神さまやイエスさまと私たちの関係、私たちの使命について教えておられます。

1.枝としてつながっていること
私たちは、木であるイエスさまに枝としてつながっている存在です。
つながっている関係は、本当に近い関係です。新改訳聖書は、「とどまりなさい」と訳しています。それは、一体となっている本当に親密な関係です。枝とし てしっかりイエスさまにつながり、その命によって生かされているとき、実が結ばれていくのです。それは、枝の努力によるものではありません。

2.実を結ぶ
実はその木によって生るものですが、実を結ぶことは、枝の果たすべき役割です。実を結ぶためには、木につながっていればよいのです。そうすれば、豊かに実を結ぶことができます。
枝だけでは実を結ぶことができないように、イエスさまから離れていては、私たちは何もできません(5節)。枝のようにイエスさまという木につながって生きていくとき、実を豊かに結ぶ生活を送ることができるのです。

3.父なる神さまが栄光をお受けになる
農夫が手入れし、世話をしたぶどうの木が豊かに実を結ぶとき、農夫の功績が讃えられます。そのように、イエスさまの枝である私たちに豊かな実が結ばれるとき、父なる神さまが栄光をお受けになるのです。
私たちが、枝として実を結ぶことが最終目標ではありません。豊かに結ばれた実によって、それを世話した農夫である父なる神さまの素晴らしさが現され、あがめられることです。
イエスさまにしっかりとつながり、豊かに実を結ばせていただいて、神さまが栄光をお受けになるような枝として日々歩ませていただきましょう。

確かな道しるべ(2013.11.24)

宣教題  : 「確かな道しるべ」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : ヨハネ 14章1~6節

私たちは、喜びや楽しみ、また憂いや悲しみや不安を経験します。しかし、主イエスは、如何なる時であっても、私たちの人生の「確かな道しるべ」となってくださる神であり、自らが「道」となってくださいました。

1.見失っている確かな道 
主イエスが、「心を騒がせるな」と弟子たちに語られたのは、死に直面しておられた時のことでした。それを予感していた弟子たちは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(13章36節、14章5節)と不安な気持ちを述べています。
このように、心が騒ぎ不安になるのは、主の弟子たちだけではなく、私たちも同様です。その一番の原因は、揺るがない、確かな道を見失っているからです。この確かな道は、最初から私たちが持っているものではなく、人の知恵や努力で知ることができるものでもありません。ただ、神から知らされ、主イエスご自身が「道」となってくださったことによって得ることができるのです(6節)。

2.備えられている確かな道
私たちが最も不安を抱くのは、死に対してではないでしょうか。それは、私たちを八方塞がりにさせます。その行き詰まりを打ち破って、永遠に「住む所」を備えてくださっているのが、主イエスです。主イエスは、その所を「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)と言われているように、主の弟子たちだけではなく、私たちのためにも、すでに備えられているのです。
そして、主イエスは、そこに導かれるための道を備え、ご自身がその道そのものとなられたのです(3節、6節)。それは、主イエスが十字架に踏みつけられて死んでくださり、その死から復活されたことによって開かれた永遠の救いの道です。私たちがしなければならないことは、このイエスを信じ受け入れ(1節)、主イエスとその愛にとどまり続けることです(15章5節、9節)。