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ヨハネ

安らぎをあなたに(2019.9.29)

宣教題 「安らぎをあなたに」      宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ14章27~31節

 主イエスは「わたしの平和(平安)を与える」(27節)と言われました。主イエスがお持ちであった平安とは、どのようなものだったのでしょうか。それを私たちひとり一人は、どのように受け取るのでしょうか。

1.生き方に確信がありますか  31節
 主イエスは、父なる神のみ心にかなった生き方をしているとの強い確信をもっておられました。それゆえにもっておられた平安だったのです。
 私たちは、この主イエスを知ることによって、生きることの意味や将来について知ることのできる確信ある生き方をするのです。そこに、主イエスから与えられる平安があります。

2.暗い陰が心によぎりませんか  30節
 主イエスは、神の真実な愛をもって生きられました。そこには、罪と悪の支配の及ばない平安があったのです。
 その主イエスが、私たちの罪と悪の支配から解き放つために、十字架の身代わりの死を遂げてくださいました。罪を赦し、新たに生まれ変わらせてくださる主イエスの愛の招きに応えるときに、主イエスから与えられる平安があります。

3.いつでも信頼できる主イエスを知っていますか  28節
 主イエスは、「父のもとに行く」と言われたように、十字架に死んで復活されました。この父なる神に信頼し切っておられたゆえにお持ちの平安でした。
 私たちは、苦難や問題に直面したときの不安、死に際して抱く恐れを経験します。そのような時にも、復活され今も生きておられる主イエスに信頼して永遠の今を生きるところに、主イエスから与えられる平安があるのです。

聖書朗読(0.5MB)

メッセージ(10.0MB)

イエスは知っておられる(2019.4.28)

宣教題 「イエスは知っておられる」  宣 教  石﨑善土伝道師 
聖 書 ヨハネ6章1~15節

私たちは、生きている限り試練や艱難が来ます。そのとき、どうすれば良いのでしょうか。弟子達は今回の試練を通して学びました。

1.弟子はできないと思った
 男五千人を食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか(5節)。とイエスは言われました。フィリポとアンデレはそれぞれ、お金が足りない事、子供が持っていた食べ物では到底足りないことを理由に、できないと答えました。

2.主イエスにはできる
 弟子達が無理難題だと思っていたことも、それを言ったイエスは、御自分では何をしようとしているか知っておられました(6節)そして、アンデレが何の役にも立たないと言った、少年が持っていた大麦のパン五つと魚二匹を神に感謝して、人々に欲しい分だけ分け与えられました(11節)

3.イエスのところに持って行く
 私たちは、試練や艱難が来たとき、その問題の大きさに目を奪われ、自分の能力や今持っているものでは、出来ないと諦めてしまいます。しかし、私達には出来ないと思え、足りないと思えるときでも、イエスはどうしたら良いかを知っておられます。そして、私たちがそれをイエスのところに持って行くのを待っておられます。イエスは捧げられたものを幾倍にも増やして、分け与えた結果、パンはあり余りました(12~13節)。弟子達はこの試練を通して、イエスに持っていく事、イエスの言われた事に従うとどうなるかを学び、成長しました。

 イエスは今日も、私たちがイエスのところに持って行くことを待っておられます。今、イエスのところに持って行く事はなんでしょうか。

(聖書朗読 1MB)

(メッセージ 9.7MB)

主が私の愛を完成してくださる(2019.4.21)

宣教題 「主が私の愛を完成してくださる」 宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ21章15~19節 1ペトロ1章8節

 私たちは、復活されたキリストにお出会いしたペトロ同様に、本気でキリストの愛の中に生きているか、本気でキリストを愛しているかと問われています(15~17節)。ペトロは、この出会いを通して、新しい歩みを始めました。

1.愛を呼び起こされるキリスト 
 ペトロは、キリストとの一番最初の出合いから(ヨハネ1章41~42節)、事あるごとにキリストの愛の招きに応答することを求められました(同13章36~38節)。ところが、キリストの十字架を前にして三度否んだのです(同18章25~27節)。その敗北感に悲しむペトロは、やり直すすべを知りませんでした。
 復活されたキリストは、そんなペトロに「わたしを愛しているか」と三度も呼びかけ、愛を呼び起されました。そして、ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じてす」と応答して信仰の一歩を踏み出しました。彼は、この愛の根拠を自分におくのではなく、全くキリストにおいています。

2.愛の証人として招かれるキリスト 
 あわせてキリストは、「わたしの小羊を飼いなさい」と、愛する人々に心を砕いて労し、その愛の証しを立てるように三度招かれました。それは、ペトロが自分の思いのままにではなく、キリストを愛するゆえに、その御心に生きることを喜び従うことでした(18~19節)。こうして、彼の生き方は変革したのです。

 このキリストの愛の関わりは、ペトロだけが独占するものではありません。復活されたキリストに愛され、キリストを愛する私たちに対しても同じように関わられます(1ペトロ1章8~9節)。キリストが、愛を完成させてくださるのです。

聖書朗読(1MB)

メッセージ(11.3MB)

成し遂げられた(2019.4.14)

宣教題 「成し遂げられた」        宣 教  川原﨑晃主管牧師 
聖 書 ヨハネ19章28~30節

 主イエスは、十字架上で祈り、とりなし、叫ばれました。このお方の十字架の死を取り囲む周囲の出来事に目をやるのではなく、このお方の死そのものに現された救いの恵みを見ましょう。主イエスは、何を「成し遂げられた」のでしょうか。

1.人の罪の一切を受け取られた 
 主イエスは、肉体的な痛みに苦悶する叫びとしてでなく、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」、「渇く」と言われたのです。それによって、「聖書の言葉が実現し」(詩編69編22節)、人が神に捨てられるという魂の渇きを味わうことがないように、主イエスが身代わりとなって受け取ってくださったのです。それは、主イエスが酸いぶどう酒を受けられたことに表されているように、人の罪を飲み干そうとされる救い主の死だったのです
 このようにして、主イエスは、罪人の魂の渇きを受け取られたのです。

2.ご自身の命を自ら捨てられた 
 主イエスは、父なる神の御心である十字架の死を成し遂げてくださったのであり、それによって神の栄光を現されました(ヨハネ17章4節)。このようにして、十字架の死にいたるまで愛を貫き通されたのです(同13章1節)。
 そこで主イエスは、「頭を垂れる」ことにより、十字架において枕する所を得られました(マタイ8章20節)。そして、「息を引き取られた」と、主イエスご自身が命を捨てて、ささげ尽くしてくださったのです(ヨハネ10章18節)。

 主イエスの十字架において、神の救いは「成し遂げられた」のです。もはやそれを覆すものは何もありません。主イエスに結ばれた者として歩み続けるのみです。

聖書朗読(0.3MB)

メッセージ(13MB)

イエス様はわたしの羊飼い(2018.4.29)

宣教題  「イエス様はわたしの羊飼い」  宣 教  今田好一牧師
聖 書  ヨハネ10章1~15節

 イエス様はここで、羊飼いと羊との関係をたとえて、ご自身が人々を導くまことの羊飼いであり、羊を守る囲いの門であることを示そうとされたのです。

1.イエス様は良い羊飼い
 イエス様は、ご自身が「良い羊飼いである」と羊飼いと羊のたとえを用いて語られました(1~5節)。しかしその話が分からないファリサイ派の人々に、ご自身が「羊の門」であると、更にたとえを用いて話されました(7~10節)。このたとえはどういう意味なのでしょうか。第一に、イエス様こそが正しい救いの門であることを、第二に、永遠の命を与えるお方であることを示しています。そして更に「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)と、イエス様が羊であるわたしたちのために命を捨てられることを預言されました。このたとえ通り、イエス様はわたしたちの罪の身代わりに十字架にかかり死なれたのです。

2.わたしたちは羊
 人間は、羊のように一人では生きていけない、目標も分からず、迷いやすい弱い存在です。だから、そんなわたしたちを養い、守ってくれる羊飼いが必要なのです。 聖書は、わたしたちに「良い羊飼い」が誰であるかを教えています。それがイエス・キリストです。イエス様は、神について、永遠について完全に教えてくださるお方、わたしたちを罪から救い、死に勝利させてくださるお方、わたしたちを正しく導くことのできるお方です。何故ならイエス様は、わたしたちを愛し、わたしたちの罪を赦すために十字架にかかってご自身の命を献げられた「良い羊飼い」だからです。そして、三日目によみがえり、わたしたちに永遠の命を与えてくださるお方なのです。

聖書朗読(0.8MB)

メッセージ(11MB)

永遠に渇かない水(2018.2.25)

宣教題  「永遠に渇かない水」        宣教 今田好一牧師
聖 書  ヨハネ4章7~15節
今日の御言葉から、神の救いが、すべての人に分け隔てなく及んでいることを見ていきたいと思います。

1.イエス様との出会い
 サマリアのシカルという町の井戸のそばで休まれたイエス様は、人目を避けて昼に水をくみに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と語りかけます。彼女は、この言葉に驚きます。何故なら、当時ユダヤ人はサマリア人を見下していたからです。しかし彼女は、それによって、この男性に少しずつ関心を持ち始めたのです。

2.永遠に渇かない水
 イエス様は彼女に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。すると女は「その水をください」と求めます。そして、イエス様に五人の夫について言い当てられた時、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と言って、イエス様に心を開いたのです。

3.出会いは人生を変える
 自分の過去を言い当てられた女は、宗教的な話をイエス様にします。しかしイエス様は、「婦人よ、わたしを信じなさい」と言われました。それは、キリスト教ではなく、キリストご自身を信じるように言われたのです。彼女は、今話しているこの人が、キリストと呼ばれるメシアだと知ったのです。そして、この方こそが「永遠に渇かない水」の与え主だと信じ受け入れた時、彼女の人生は大きく変えられたのです。
 わたしたちも、イエス様が与えてくださる永遠に渇かない水を、直接イエス様ご自身に祈りを通して求めていきたいと思います。

神の愛の冒険(2017.12.24)

宣教題 「神の愛の冒険」       宣教 川原﨑晃主管牧師
聖 書 ヨハネ3章16~21節

 クリスマス、それは神が愛ゆえに冒険をされて、私たち一人ひとりの所に来てくださった出来事です(16節)。

1.キリストが十字架に向かう冒険の道  16節a
 神の愛の対象は、まぎれもなく「世」です。それは、愛の神を受け入れない浮き世の世界であり、そこに生きる人の心と生活の罪ある有りさまです。神は、その「世」を無条件の絶対的な愛を持って愛していてくださるのです。
 さらに驚くべきことに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と神の愛の深さが現されました。愛するに価しない者に対して、キリストを十字架に架けるという、最高の価値ある御業を成してくださったのです。神の愛が集中したのは、キリストが十字架に向かうという冒険の道においてでした。

2.一人ひとりが信仰に生きる冒険の人生  16節b
 神の愛の冒険に対して、私たち一人ひとりもまた人生の冒険へと招かれています。その冒険とは、自分の殻に閉じこもって生きることから、神の愛を受け入れ、神に対する信仰に生きることです。それは、愛の神から失われた滅びのなかを生きるのではなく、キリストの復活にあずかって、神との永遠の交わりに生きることです。それゆえに、キリストが救いを成し遂げてくださった十字架を仰ぎ見るのです。神は私たち一人ひとりに、光を選ぶのか、闇を選ぶのかを問いかけておられます(17~21節)。
 「ヨハネによる福音書3章16節」は、私たち一人ひとりが生涯を通じて、日々に心の中に呼び起こして自らに語りかける御言葉です。それは、ただ信仰によってのみキリストに寄りすがり、健やかな愛の心に立ち直り続けることです。

クリスマスの驚き(2016.12.25)

宣教題  「クリスマスの驚き」        宣教 鎌野直人協力牧師
聖 書  ヨハネ1章14節
クリスマスのストーリーには驚きが満ちている。マリヤに神の使いガブリエルが受胎を告知すること、ベツレヘムでの誕生、羊飼いたちに表れた神の使いたち、占星術の学者たちの登場。普通では起こらないようなことが連続して起こる。

1.言が肉になることの驚き
クリスマスの最大の驚きはなんだろうか。それは、言が肉となること(14節)、神である方が人となられた事実である。限界だらけで、何かに頼らなければ生きていけず、死が訪れる人に、限界などなく、弱ることもなく、完全な方、死ぬ事などない方がなられたのだ。神が極限まで、自ら進んで低くなられた姿に驚きを覚える。そして、この方はわたしたちの間に宿られたのだ(14節)。人には近づくことなどできないはずの方を、実際に見て、その方に触ることができるようになった。そして、私たちは神がどのような方であるか知ることができるのだ。

2.神のわざを知る驚き
神が人となって私たちの間に宿られたのは、なぜだろうか。それは、「神が人となられた」ことが生み出す大きな衝撃波がこの地上のあらゆる場所、あらゆる時代に行き渡らせるためである。事実、イエスは社会的弱者、貧者、病人のところに行き、自己欺瞞の人々に徹底的に反対し、自分を殺そうとしている人をゆるし、全世界のすべての悪をご自身の身に負い、死に、三日目に死人のなかから復活された。その生涯を通して大きな衝撃を与えた。そして、世界を変えられた。
「世界はなにも変わっていない」と思われるかもしれない。それは、あなたがイエスの生涯に表された驚きに気がつかず、そのあと、二千年間でこの世界に起こった驚きに気がつかないからだろう。この驚きに気がつかないから、あなたの人生は変わっていない。だからこそ、このクリスマスに、もう一度、その驚きに目を向けようではないか。神が人となられた驚きに気がついたあなたの人生は特別なものとなる。

恵みの風を受けて(2016.9.25)

宣教題  「恵みの風を受けて」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ3章1~16節

信仰の人生を帆船にたとえるならば、風は神の恵みであり、信仰はそれを受け止める帆ということになります。
ここに、夜の訪問者ニコデモと主イエスとの対話があります。主イエスはこの対話の中で、信仰の帆を張るために二つの「ねばならない」ことを語られました。

1.人は、新たに生まれなければならない  3節
ニコデモは、道徳的に正しく、指導力があり、旧約聖書に通じ、人生経験に富んでいた人物です(1節、4節、10節)。主イエスは、そのニコデモも「新たに生まれなければ」神の恵みの世界を見ることはできないことを明らかにされたのです。彼は、新たに生まれることを肉体面からしか理解できない限界がありました(4節)。
さて、人はだれでも例外なく、新たに生まれることが必要なのです。これこそが、人が神の恵みの世界に生きるための唯一絶対条件です。肉体の誕生は尊く神秘的です。それ以上に、神の恵みの世界に入れられる霊の命の誕生も尊く神秘的です。私たちは、本来の人間になるために、この二つの誕生が必要なのです。

2.イエス・キリストは上げられねばならない  14節
新たに生まれることができるのは、人の力を超えた聖霊の働きによります(5~8節)。それは、人の目には見えなくても、はっきりと体験できることです。
そのために主イエスは、イスラエルの民が不信仰に陥った際に猛毒の蛇にかまれた者は死に、上げられた青銅で作られた蛇を仰ぎ見た者は生きる者となったように(民数記21章4~9節)、罪の猛毒におかされて死ぬべき罪人に代わって、十字架に上げられた主イエスを仰ぎ見る者は救われることを明らかにされました(14~15節)。
人はだれでも、ただ十字架の主イエスを信じ仰ぐことによって新たに生まれ、神の子とされ、永遠の命を得て生きるのです(16節)。ですから私たちは、主イエスの救いの恵みを受け入れる信仰の一歩を踏み出すのみです。

平安であるように(2016.8.7)

宣教題  「平安であるように」            宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ14章27節、20章19~20節

教会で広く用いられている言葉の一つに「シャローム」があります。「平和」とか「平安」と訳されており、語感からすると、前者はより外面的な他との関わりを示しており、後者はより内面的な心の状態を表しています。両方の意味を含んでいるのですが、今こそ私たちの心と生活に必要とされるものです。

1.平和をつくるために
主イエスは、何が幸いといって、「平和を実現する人々」すなわち平和をつくる者こそが幸いであると言われました(マタイ5章9節)。私たちの個人の生活、家庭の生活、社会での生活、また国家に関することなど全てにおいて、他者との関わりの中にある平和を積極的に求めて平和をつくり出すことが求められています。
ところが、そうした平和を乱す争いの芽は、私たち自身の中にある争い合う欲望にあります(ヤコブ4章1~2節)。ですから、その自己中心の罪を解決していただき、私たちの内に揺るがない平安をいただくことによって、真に平和をつくり出す道が開かれるのです。

2.キリストの平安を与えられて
主イエスは、十字架にお架かりになる前夜、弟子たちにぜひとも受け取って欲しい、持っていて欲しいと願われたのが「平安」でした(14章1節、16章33節)。それは、キリストの平安であり(14章27節)、復活された主イエスがお与えになる「平安」でもあります(20章19~20節)。
この平安は、「世が与えるように与えるのではない」とあるように、富や、教養や、善行や、運に関係なく、主イエスに対する信仰によってのみ与えられるのです(14章1節)。そこには、主イエスの十字架の身代わりによって罪が全く赦され、復活の主イエスが与えてくださる永遠の命に生きる喜びをともなった平安があります。キリスト信仰者の失うことのない財産は、キリストの平和(平安)です。

自分が変われば(2016.6.26)

宣教題  「自分が変われば」          宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ2章1~11節、2コリント5章17節

私たちが生活していく上でいちばん難しいことは、人と人との関係と言われます。それを難しくしている原因が、自分を取りまく人や状況にあると思ってしまっていることにあります。私たちは、自分自身を変えることが至難のわざであることを知って、主イエスによって変えられることから始めてみてはどうでしょうか。

1.人生の喜びをもたらされる主
婚礼の席において水がぶどう酒に変えられた奇跡は、主イエスの「最初のしるし」でした。これは、万物を創造されて支配される神にとって、たやすいことでした。それは、泥水から美味しいフルーツの実を結ぶように、神が日常茶飯事に絶え間なく続けておられる奇跡です。
主イエスは、苦しみや失望の時の救い主であるとともに、婚礼のような幸福に満ちた時の救い主でもあられます。私たちは、そのようないかなる時であっても、主イエスを救い主としてお迎えすることにより、人生に喜びをもたらしてくださるように招かれているのです。

2.人の心と生涯を新しくされる主
婚礼の席における主イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われましたが、後に「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(12章27節)と言われました。この「わたしの時」とは、主イエスが十字架で身代わりの死を遂げくださる時のことでした。それによって主イエスは、人の心と生涯を変えて「新しく創造」してくださったのです。そのためには、一人ひとりが「キリストと結ばれ」、主イエスの中に植え替えられ、根付くことです(2コリント5章17節)。
奇跡と言えば、人の心と生涯が新しくされて変えられることほどに大きな奇跡はありません。そのために、主イエスが十字架にかかられて後に復活されたのです。主イエスに新しく創造され、その奇跡にあずからせていただきましょう。

仰ぎ見て生きよ(2015.10.25)

宣教題  「仰ぎ見て生きよ」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章20~25節

私たちの本当の生き方は、この一日を生きるということから始まって、大きいことばかりでなく、小さいことにも、ありとあらゆることを主なる神に信頼し、信じ仰ぎ見て生きることです。それを忘れて生きるとしたら、それが罪なのです。信仰とは、仰ぎ見て生きることなのです。

1.わき見しないで、キリストを!
ペトロは、主イエスと対面して、前向きに向き合う人生を始めました(15~20節)。
ところが、「ペトロが振り向くと」、主イエスが愛しておられた弟子がついて来ていました。そして、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いかけています。 ここに、自分自身と他者にこだわり続けているペトロの姿があります。それは、罪を犯した途端に、主なる神の顔を避けて隠れた人の姿でもあります(創世記3章参照)。
私たちは、この罪を赦してくださるために十字架にお架かりくださった主イエスを仰ぎ見て生きるのです。そして、主イエスがペトロだけでなく主が愛しておられた弟子に「生きている」ことを望まれたように、主イエスとその御言葉と愛にとどまって生きる者とならせていただきましょう(15章5節、7節、9節)。

2.達成感よりも使命感を!
ペトロにとっては、主が愛しておられた弟子が気になる存在でした。それをご存知であった主イエスは、ペトロに対して「あなたは、わたしに従いなさい」との使命に生きるように招かれたのです。人は、この使命感がはっきりすると、それを成し遂げていく達成感や生きがいをもって生きていくことができます。
このように、私たちには、主の弟子として、主の証人として歩む共通の使命が与えられています(22節、24節)。私たちは、主イエスを仰ぎ見つつ、各々の持ち場に遣わされて生きる者となるのです。「わたしに従いなさい」との主イエスの招きに応答させていただきましょう。

新しく始める人生(2015.9.27)

宣教題  「新しく始める人生」         宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ21章15~19節

復活された主イエスがペトロに三度、「わたしを愛しているか」と尋ねられたことに対して、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。ペトロが主イエスとの変わらない愛の出会いを繰り返すなかから、新しく始める人生を歩み出しています。

1.愛を呼び起こされる人生
主イエスとペトロの出会いは、神の愛の出会いでした。神の愛は、行動を伴なうもので、主イエスの十字架と復活に集約されています(ヨハネ3章16節)。ところでペトロは、主イエスのためならば命を捨てるとまで豪語したにもかかわらず、主イエスの十字架のご受難を前に、三度主イエスを否認しました。そのペトロが、復活された主イエスに自分の罪をお詫びしたとか、改めて主イエスに従っていくとの決意を表明したとは証言されていません。それどころか、主イエスに出会った以前の生活に戻っています。
しかし、復活された主イエスは、ご自身の方からペトロと出会ってくださり、彼の人生のやり直しをさせなさいました。救われるとは、主イエスがもう一度やり直させてくださり、限りない愛を呼び起こしてくださることなのです。

2.愛の証しに招かれる人生
愛を呼びこされた主イエスは、いきなり「わたしに従いなさい」と言われたのではありません。三度も愛の応答を求められています。しかも、その愛の確かさは、ペトロ自身のなかに確信があるというのではなく、「あなたがご存じです」と、どこまでも主イエスに対する信頼に満ちた愛の告白をしています。そして、彼の心を支え、愛する者とされたのです。
信仰とは、主イエスを愛することであり、愛する他者に対して心を砕き、労することです。しかも主イエスのお心に生きることを喜びとすることです(18~19節)。このような愛の生き方に招かれていることに、真剣に応答したいものです。

恵みの仕組み(2015.4.26)

宣教題  「恵みの仕組み」           宣教 川原﨑晃牧師
聖 書  ヨハネ1章41~42節

 ここでは、シモンという人物が主イエスと出会ったときに、どう変えられたかということが語られています。主イエスが言われた御言葉は、神の恵みを彷彿とさせ、私たちにも同じことがなされることを知るのです。

1.あなたはシモンである 
 主イエスの鋭くも恵みに満ちた視線がシモンに注がれています。その視線は、弱い者の中に強い者を、不義なる者の中に義を、死んだ者の中に命を見るものでした。同じ主イエスの視線が、今この瞬間においても、私たちの上に注がれています。
 そして、主イエスは開口一番、「あなたはヨハネの子シモンである」と言われました。このように主イエスは、シモンのみか私たちが持っている罪深さや弱さや醜さという人間の正体を診断されるのです。ここから、恵みの御業がなされていくのです。

2.あなたをペトロと呼ぶことにする 
 続く主イエスの御言葉は、「ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」でした。シモンにとっては全く思いもよらない言葉でした。しかし、主イエスが大きな憐れみをもって、「岩と呼ぶことにする」すなわち「ペトロにする」と言われたからには、
そうしていただくために、彼が主イエスを信じ、信頼し、自分の何もかも主イエスにかけてみようと受け入れたのです。
 同じように私たちは、主イエスの十字架の身代わりの死と復活のゆえに、それを信じる信仰によって新しく造り変えられる恵みに生きることができるのです。

3.あなたはシモン・ペトロである 
 この後、「シモン・ペトロ」と呼ばれ続けたのは、シモンでありながら、主イエスによってペトロとされ続けていることへの感謝があったからです。ここに主の恵みの仕組みがあります。主イエスは、このことを忘れないで歩む者を、恵みの器として用いてくださるのです。

あなたがたのなかにおられる方(2015.3.22)

宣教題  「あなたがたのなかにおられる方」         宣教 小菅 剛師
聖 書  ヨハネ1章19~34節

荒れ野で叫ぶ声としてのヨハネは、人々の中に立っておられるイエスを指し示している。人々は、知らない、気づかないでいた。ヨハネは、人々に「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と語っている。ヨハネは自分も消え、人々も消えて、一人立っておられた方だけに人々の目を向けさせた預言者である。では、このイエスを、ヨハネはどのように証しをしたのか。

1.イエスを世の罪を取り除く神の小羊と証しした  29節
ヨハネは、人々の罪を鋭く指摘した。人々は、彼のもとに来て罪を悔い改めて洗礼を受けていた。それが救いではない。ヨハネは祭司の子として儀式宗教、小羊が献げられて罪が赦され、神を礼拝するレビ記教育を受けた人であった。しかし、ヨハネは旧約の生けにえ宗教で人の罪は取り除かれないことを知っていた。
神の子であられるイエスは、神の小羊として十字架で献げられたことにより、人は神に赦されることを明らかにされた。御子イエスの血がすべての罪からきよめるのである(1ヨハネ1章9節)。イエスは、罪を告白するそこに立っておられる。

2.イエスは聖霊のバプテスマを授ける方である 33節
イエスは、罪の力をきよめる聖霊の満たしを与えてくださる方であると証言されている。生まれ変わったクリスチャンは犯した罪で苦しむが、それ以上に内側から起こってくる罪の傾向性に苦しむ。自我であり、古き肉の性質と呼ばれるものである。パウロは、欲する善は行なわないで憎む悪を行なうと言って、自分の内に宿る罪の力に嘆いた。その厄介な内なる自我をキリストは共に十字架につけてくださり、聖霊が支配して罪の力から解放してくださる。
聖霊のバプテスマは、明け渡しに続く聖霊の支配であり、イエスの賜物である。イエスは、弟子たちを世に遣わすに「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と言われた。罪からの解放と宣教の力は、聖霊のバプテスマによるのである。