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コロサイ

キリストにあって歩む(2024.6.2)

聖 書

あなたがたは、このように、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。(コロサイ 2章6節)

礼拝音源(30.5Mb)

礼拝順序

 

前  奏
招  詞 ローマ 12章1節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
賛  美 7 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩詩編101編
会衆祈祷 一  同
聖  書 コロサイ 2章6~10節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 仁科共子牧師
宣  教 「キリストにあって歩む」 仁科共子牧師
祈  祷
6月誕生者祝福 「ローマ 15章13節」
賛  美 461 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 仁科共子牧師
後  奏

宣教要旨

1. もうひとりの弁護者
1.キリストを受け入れた人の生活
キリストを受け入れた人は、キリストにあって歩み、キリストの内に根を下ろし、キリストの上に建てられなさい、と教えています。「歩み」は生活していくことです。その生活はキリストにしっかり根を下ろした生き方であり、キリストにあって人生を建てあげていくことです。

2.キリストに基づくものによって
伝えられた福音とは違った教えがコロサイの教会に入ってきて信徒たちを惑わしていました。パウロは、「人間の言い伝えに基づくもの」や「この世のもろもろの霊力に基づくもの」にとらわれないように気をつけなさいと教えました。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されている」(コロサイ2:3)ので、「キリストに基づくもの」によって歩むのです。

3.キリストにあって満たされて歩む
キリストの内には神の性質が満ち溢れており、キリストを受け入れた人は、キリストに満たされていると教えます。それで、キリストにあって生活していくことができるのです。
いつもキリストを心に置いて、キリストのことを考えながら生活していきましょう。キリストは、頭として私たちを教え、命を豊かに与えて成長させてくださり、感謝に溢れる生活を導いてくださいます。

平和な生活を送るために召された(2023.11.19)

聖 書

その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストが現れるのを待ち望んでいます。(1コリント 1章7節)

礼拝音源(37.4MB)

礼拝順序

前  奏
招  詞 コロサイ 3章15節 司 会 者
頌  栄 29 一同起立
賛  美 2 一同起立
祈  祷 司 会 者
主  祷 93-5 A 一  同
交  読 詩編65編
会衆祈祷 一  同
聖  書 1コリント 7章1〜16節
使徒信条 93-4 1A 一  同
牧会祈祷 仁科共子牧師
宣  教 「平和な生活を送るために召された」 仁科共子牧師
祈  祷
献児式'(第一礼拝)
転入会式(第二礼拝)
賛  美 516 一同起立
感謝献金
奏  楽
頌  栄 27 一同起立
祝  祷 仁科共子牧師
後  奏

宣教要旨

1. 不品行を避けるために
コリントの社会にある不道徳な生活が、教会にも影響を与えていました。パウロは、そのような不道徳、不品行に負けないために、結婚するようにと勧めています。それは、消極的な意味ではなく、結婚は神によって定められている正しい生き方であるからです。また、夫婦が祈りに専心することの大切さを教えています。こうして、誘惑に陥らずに、祝福された結婚生活を送ることができるようになります。

2. 結婚したなら離婚しないように
コリントの社会では離婚が日常的にあったようですが、教会のクリスチャンたちには離婚しないようにと教えています。また、伴侶が信者でない場合、その人が一緒にいることを望んでいるなら別れてはいけないと教えています。伴侶の信仰による生き方を受け入れて神の祝福を受けているからです。

3. 平和な生活を送るようにと召された
神は結婚生活も平和に暮らすようにしてくださっています。この「平和」は、神が与えてくださるものです。この手紙の最初のところでパウロは、「あなたがたはキリストにあって、・・・すべての点で豊かにされ・・・どんな賜物にも欠けるところがなく・・・。」と、あなたがたはキリスト・イエスによって与えられている神の恵みに生かされていると語ることから始めました。問題を解決する知恵と力はキリストにあり、平和な生活を送ることができるようにしてくださるのです。

歓喜する力(2018.5.6)

宣教題  「歓喜する力」          宣 教  川原﨑晃主管牧師
聖 書  ヤコブ3章1~12節、コロサイ3章16節

 神の創造の業に忠実に存在している自然界の草木は、世界に歓喜をもたらします。同じように、神を賛美し、人々に祝福を語るために造られた人の舌は、周囲に歓喜をもたらします。それに対して、信仰上の問いかけがなされています。

1.言葉が制御されているか 
 ここには、言葉を使うことの責任の大きさを述べており、その言葉を発する「舌は小さな器官」であるにもかかわらず、次のような問題を生じさせ、時に悲劇をもたらします。小さな舌の大きな失敗(1~4)、小さな舌の大きな表現(5節)、小さな舌の大きな影響(5~6節)、小さな舌の大きな悪(7~8節)、小さな舌の大きな欺き(9~12節)と指摘されています。お互いの舌はコントロールされているでしょうか。
 とりわけ、神の御言葉の証人として立てられた教師に対しては、その責任の重いことを教えています(1~5節)。ですから、教師はいつも御言葉に従って生きることを通して、主の御業がなされる働きに加わっていくのです(イザヤ書50章4節参照)。

2.キリストの御言葉が宿っているか
 信仰者が言葉で失敗しないために、どのような備えをしたらよいのでしょうか。ヤコブは、俄然、内側の「内心」に光を当てています(13節以降)。言葉は、結局心の表れであり、心に「毒」があると、それが言葉に表れてきます(8節)。ですから、主イエスによって心から毒を取り除き、心を造り変えていただく必要があるのです。
 主イエスが信仰によって私たちの心に生きていてくださり、主の御言葉がいつも心に宿っているならば、互いに祝福を語り合い、主への賛美に溢れる信仰の歩みとなります(コロサイ3章16節)。ここに、小さな舌がもたらす大きな祝福があります。

聖書朗読(1.2MB)

メッセージ(11.5MB)

神にあがなわれた民(2012.1.29)

宣教題  : 「神にあがなわれた民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : 出エジプト 6章2節~9節、コロサイ1章13~14節

エジプトで奴隷として重労働の下に置かれていたイスラエルの民がどれほど努力しても、自分たちを王パロの支配の下から救い出すことはできませんでした。しかし、主が彼らを救い出したことによって(6章6節)、彼らは主の民となりました(6章7節)。この主の働きを「贖(あがな)い」と呼んでいます。

1.イスラエルをあがなわれた主
旧約聖書においては、大家族のひとりが、他のメンバーの利益のために犠牲を払ってする行動を「贖い」と呼びます。家族の借金を支払いきったり(レビ25章)、兄弟の名前を残したりする行為です(ルツ記)。つまり、主は、イスラエルの父祖との契約によって彼らの「父・神」となられたからこそ、犠牲を払ってまでもエジプトの手からイスラエルを救われたのです(出エジプト6章4~5節)。
さらに、強制労働を課し、子どもを殺し、主を礼拝することをゆるさないエジプトに勝たれた主は、罪の力からイスラエルを解放しました(6章6節)。主の勝利は、イスラエル自身の罪に対してではなく、エジプトの罪に対するものです。そして、「あながわれた」イスラエルは、王である主の支配下に置かれました。

2.御子によるあがない
御子キリストの十字架によって神はあがないをなして下さいました(コロサイ1章14節)。ですから、十字架は、父である神がわたしたちのために払われた大きな犠牲です。さらに、闇の力である罪に勝利されることによって、その奴隷であったわたしたちをあらゆる点において解放し、御子の支配下へと移して下さいました(1章13節)。このようにして出エジプトをモデルとする、十字架による勝利のわざ、あがないを喜んで受け入れた私たちは、今度は主にならうべきです。闇の力の支配下にある人を解放する主のわざの一翼を担わせていただきましょう。