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使徒言行録

すべてが益に(2011.7.17)

宣教題  : 「すべてが益に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  15章36節~41節
神に愛されてキリストの救いに与かった者は、神を愛する者となり、神の御計画に従って召されていることを自覚するようになります。神はそのような者と共に働いて一切を益としてくださいます(ロ-マ8章28節)。教会はそのような中を歩んできましたが、そこに何を見い出してきたでしょうか。

1.神を再発見する
パウロが第二回伝道旅行を提案したのは、生まれたばかりの異邦人教会を問安しようという愛からでした。それに際して、第一回伝道旅行の途中で働きを離脱していったマルコをこの伝道旅行に同伴させるかどうかで、パウロとバルナバとの間に激しい意見のやり取りと対立があり、分裂する結果となってしまいました。
そこで、パウロとバルナバは、互いに意見の違いを抱えたまま一緒に伝道するよりも、神の導きの中をそれぞれの確信に従って伝道することを選びました。彼らは、こうした出来事を通して、神が二つの伝道チ-ムによる伝道の拡大へと導かれることを見い出すこととなったのです。

2.主の恵みを体験する
パウロの厳しさとバルナバの温かさによって、マルコは造り変えられていったと思われます。一方パウロは、忠実な兄弟であったシラス、すなわちシルワノ(1ペトロ5章12節)を選び、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」のでした。人々が、主の恵みに委ねたというところに、伝道の力の秘密があります。
主に委ねるとは、何もしないでただ待っているということではありません。主の前に自分の無力さを認め、謙虚にひざまずき、御言葉の約束を信じて、前に向かっていくことです。私たちが、受け継いでいる臨在信仰に生きるのも同様です。私たちは、主の恵みに委ねることを繰り返し体験していく信仰の達人でありたいものです。

危機はチャンス(2011.7.3)

宣教題  : 「危機はチャンス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  15章22節~35節
初代教会が、大きな転換期を迎えていました。それは、だれであってもイエス・キリストの恵みにより信仰によって救われるという福音の真理が明らかにされることにより、教会の分裂の危機を免れたことです。そのために、聖霊が教会会議を用いて働かれました(28節)。

1.聖霊の導きに従う
「割礼を受けなければ救われない」という教えが、アンティオキア教会に持ち込まれた結果、意見の対立と論争が生じました。エルサレム教会は、この信仰の危機を打開するために、パウロとバルナバの異邦人伝道の報告に基づいて会議を開き、議論を重ねた後に、ペトロが異邦人に対する神の恵みの御業と自らの信仰経験を証ししました。それによって、キリストの福音は、世界的かつ普遍的な救いであることが証言されたのです。議長であったヤコブは、人はだれでもキリストの恵みにより、信仰によって救われることを明らかにし、ユダヤ人への愛の配慮を付加して、会議を収束させました(15章1~21節)。
このように福音の真理が貫かれ、分裂の危機が避けられたのは、聖霊の導きに教会全体が従ったからでした。

2.聖霊の御旨に同意する
エルサレム教会は、アンティオキア教会にパウロたちを派遣することを決定し、決議事項を手紙と口頭で伝えることを決定しました。さらに、最終的に「聖霊とわたしたちは・・・決めました」と、聖霊の御旨に教会全体が同意していることを明らかにしたのです(22~29節)。
聖霊の御旨に添うた決定の内容は、アンティオキア教会の一人ひとりを慰め、励ますものでした(30~34節)。このようにして聖霊は、クリスチャン一人ひとりの心の中に信仰の確信を与え、教会全体の一致と成長をもたらされたのです。
聖霊とわたしたちにとって、危機はチャンスとなるのです。

聖霊の助け(2011.6.12)

宣教題  : 「聖霊の助け」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 14章21節~28節  ローマ 8章26節
聖霊によって送り出されたパウロたちは(13章4節)、7教会を生み出すまでに伝道を展開してきました。しかし、そこには、困難や妨害といった苦難がともなっていました。聖霊は、「多くの苦しみ」と「神の国に入る」という二つの対照的な事柄を一つにしていくのです(14章22節)。

1.多くの苦しみを通して
パウロたちは、何もかも計画してその通りに伝道してきたというよりも、聖霊に満たされ、聖霊のくすしき導きに従って伝道を進めてきました。
その際パウロが経験した「多くの苦しみ」は、彼が気丈夫であったから乗り越えられたのではなく、いつも弱さを自覚しつつ苦闘していたのです(2コリント11章30節)。「弱いわたしたちを」と多くの点で弱さがあることを知っていたパウロは、とりわけ苦しみの中でどのように祈ってよいのか分からないという弱さを知っていました(ロ-マ8章26節)。
私たちが、苦悩や不安や不信といった苦難に揺さぶられたり、罪や誘惑や弱さによって失敗し挫折する経験をしたりするときに、その弱さを自らが受け入れることができるように、聖霊は助けてくださるのです。

2.神の国に入るのである
パウロたちが、アンティオキアの母教会で感謝の報告をした際に、それを自分たちが成し遂げたとは一言も言っていません。神の国に入れられるという御業は、全て神がなされるのです(27節)。ですから、全ての栄光は神にあるのです。
しかし、そのように告白させてくださるのは、聖霊の助けによるのです。聖霊が私たちと一緒に弱さを負ってくださり、聖霊が私たちと向かい合って弱さを運んでくださるからです。聖霊は、私たちに代わってとりなしてくださるからです(ロ-マ8章26節)。
このようなペンテコステの恵みの御業は、今もなし続けられているのです。

恵みの言葉を(2011.5.29)

宣教題  : 「恵みの言葉を」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 14章1節~7節
主イエスが宣教を開始されたとき、人々はその口から出る「恵み深い言葉」に感嘆しました(ルカ4章22節)。私たちが、この恵みの言葉を本気で受けとめるならば、驚くべき恵みの御業が展開されていくのです(3節)。

1.主が証しされる。
イコニオンにおけるパウロとバルナバの伝道によって、多くのユダヤ人及びギリシャ人たち異邦人が、イエス・キリストを信じる信仰に導き入れられました(1節)。それとは反対に、福音を聞いても信じないユダヤ人もいました(2節)。同じ福音を聞いても、心を柔らかくして聴くか、心を頑なにして聞くかで二分されるのです。
そのような状況のもとで、パウロたちは、聖徒たちが造り上げられていくために、長くとどまって恵みの言葉を語り続けました。それは、「主は彼らの手を通して・・・その恵みの言葉を証しされた」からです(3節)。
主イエスは、今も変わらずに、神の器を通して恵みの言葉を証ししておられます。この恵みの言葉は、人を赦して生かし、慰め、励まし、力を与え、望みに溢れさせてくださるのです。

2.信頼し委ねる。
ところが、不信者たちによって町は分裂状態になり、悪意が殺意に変っていきました(4~5節)。パウロ一行は難を避けますが、行く先々で福音を語って行きました(6節)。そのためにパウロは、教会を整えて(14章23節、16章2節)、それを恵みの言葉に委ねつつ、福音のために前進していったのです(20章32節)。
主に委ねることは、必要な信仰の在り方であり、試みられる信仰の学課でもあります。その試みは、自分の手に握っておきたいとの誘惑となって現れます。私たちが主とその恵みの言葉を信頼してこそ、真に主に委ねることができるのです。

ほんものの信仰(2011.5.1)

宣教題  : 「ほんものの信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   13章42節~52節
異教の地でのパウロの説教は、神の愛と恵みに満ち、罪の赦しの福音が提示され、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」ものでした(42~43節)。
その結果、ほんものの信仰とはどういうものかが明らかにされたのです。

1.神の御言葉に動かされる
パウロが、キリストの十字架と復活の福音を「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」(39節)と語りかけたことに対して、続けて福音を聴きたいと願って集まる者たちと、「ねたみ」のゆえに口汚くののしる者たちとに分かれました(44~45節)。
この時、パウロとバルナバは、神の伝道のご計画を深く理解し、神の御言葉に動かされて冷静かつ勇敢に語っています(46~47節)。そして、神の救いのご計画を聴いた異邦人たちは、神の選びに与かって永遠の命を得ることができたことを喜び、神の御言葉を讃えつつ、信仰に導き入れられました(48節)。
福音を語る者と聴く者が、共に神の御言葉に誠実であるなら、ほんものの信仰が培われていくのです。

2.聖霊に満たされている
「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」(49節)のですが、ユダヤ人たちは、人々を煽動してパウロたちを迫害し追い出しました(50~51節)。
パウロたちの伝道は失敗だったのでしょうか。いいえ、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」のです(52節)。彼らは、恐れや不安でなく、聖霊に満たされ、神と共にいることを証ししたのです。
また、弟子たちがパウロたちに依存していたのではなく、主イエスの弟子となり、聖霊に依り頼んで、聖霊による喜びをもって生活し、伝道していたのです(1ペトロ4章12~14節)。
このように聖霊に満たされ続けるならば、自立したほんものの信仰に立たせていただけるのです。

主の愛と忍耐(2011.3.6)

宣教題  : 「主の愛と忍耐」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録13章13節~14節、2テモテ4章11節bc

神は、バルナバとパウロ、パウロとマルコといった関わりの中で、ひとり一人を造り変え、神の栄光を現わす器として用いられます。キリストの愛と忍耐は、「マルコと呼ばれていたヨハネ」(使徒言行録12章12節)を狭い檻の中に閉じ込めないで、伸び伸びと生かしました。

1.人を造り変えられる
マルコは、ペトロが「わたしの子マルコ」(1ペトロ5章13節)と言っているように、ペトロによって信仰に導かれたと思われます。彼はバルナバのいとこであったこともあり、パウロたちと一緒に海外宣教に遣わされました(使徒言行録13章5節)。
ところが、マルコは伝道旅行の途中で離脱し、出身教会のエルサレムに帰ってしまいました(使徒言行録13章13節)。そのようになった理由は、彼の信仰的な弱さ、福音理解の狭さといったものがあったと思われます。しかし、後にパウロは、ロ-マの獄中に一緒にいるマルコを「協力者」と呼び、執り成すほどになりました(コロサイ4章10節、フィレモン24節)。愛と忍耐に富んでおられる主は、このように人を造り変えられます。

2.人を用いられる
殉教前にロ-マの獄中にいたパウロは、テモテと一緒にマルコが来るように要請しています。というのは、彼は役に立つ器であると信頼していたからです(2テモテ4章11節)。
その後のマルコの消息は明らかではありませんが、少なくともペトロが見聞きした証言の記録である「マルコによる福音書」が記されました。主の愛と忍耐が、マルコをこのように導くとともに、バルナバやパウロやペトロの愛の配慮も用いられて、マルコを有用な器としたのでした。
主は愛と忍耐をもって、私たちに最善をなされるお方です。この主を信じ、信頼し、従う恵みを大切にしたいものです。

御言葉がなくては(2011.2.13)

宣教題  : 「御言葉がなくては」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  13章4節~12節
「聖霊によって送り出された」とある力強い聖霊の働きは、神の御言葉が宣教の中心であったことを教えています(5節、7節、12節)。その結果、ひとりの人が「信仰に入った」のでした。

1.御言葉を伝える  5節
バルナバとサウロが、アンティオキア教会から遣わされた最初の地はキプロス島でした。彼らは、その島最大の都市サラミスに着くと、「ユダヤ人の諸会堂で神を告げ知らせた」のでした。
二人が語った神の御言葉とは、旧約聖書からでしたが、それを基にして、十字架に死んで復活されたイエス・キリストとその救いが伝えられたのです。宣教の業の基礎は、「御言葉をあなたがたに余すところなく伝える」(コロサイ1章25節)ことなのです。

2.御言葉を渇望する  7節
バルナバとサウロは、島の西端の都市パフォスにおいて、その地方総督セルギウス・パウルスに招かれました。彼には、魔術などでは満足できないものがあり、「神の言葉を聞こう」という強い渇望がありました。これは、人が持つ渇望の中でも、最も崇高なものと言えるでしょう。
宣教の働きは、ひとり一人にこの渇望を起こさせ、それに答えるものでなければならないのです。

3.御言葉に動かされる  12節
サウロは聖霊に満たされ、聖霊の助けをいただいて、魔術師の目が見えなくなるという不思議な業を行いました。総督は、その不思議な業を見たことがきっかけになったのですが、何よりも伝えられた神の御言葉に驚嘆して動かされ、イエス・キリストを主と信じたのでした。
御言葉こそが、人の魂を動かします(1テサロニケ1章13節)。この御言葉の宣教こそが、私たちに与えられている使命なのです。

祝福の基となる教会(2011.1.23)

宣教題  : 「祝福の基となる教会」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 13章1節~3節
神の新たな御業が展開される時には、アブラハム以来の神の祝福が世界大に拡がっていきます(創世記12章1~4節)。パウロ一行が世界宣教に出発した際に、アンティオキア教会が共有していた恵みがありました。それを通して、神の祝福が拡がっていったのです。

1.信仰を共有する  1節
ここに、教会を構成していた指導的な人物が五人紹介されています。彼らは、人種も異なり、社会的立場も異なり、性格も賜物も異なる人々でした。
そんな彼らに共通するものは、イエス・キリストを信じる信仰によって結び合わされていたということです(2コリント5章17節)。
教会の魅力は、さまざまな壁を越えて、信仰を共有し、福音の素晴らしさと力に生きるところにあるのです。

2.礼拝を共有する  2節
人々が神を礼拝し、御言葉のメッセ-ジに聴従していく中から、聖霊が宣教の業を発案・計画され、人を宣教の道へと召し出されます。この時、宣教の業は、聖霊の業であると同時に教会全体の業となります。このことは、宣教の業に召された者にとって、どんなに大きな力、また慰めとなることでしょうか。
私たちは、礼拝を共有することによって、宣教のための資金のサポ-トをはじめ、祈りのサポ-ト、霊的なサポ-トを進めていきたいものです。

3.宣教を共有する  3節
教会の会衆は、宣教に遣わされる者と一体となって、断食し祈っています。教会全体が一つとなって、宣教者を「出発させた」のでした。これは、送り出す会衆も、送り出される宣教者も聖霊に満たされ、一体となって宣教を共有している姿です。
私たちが、キリストの救いの福音をたずさえて出発させていただくなら、様々な危険に遭遇しつつも宣教は前進していきます。教会は、主なる神の臨在の支えと導きとをいただきつつ、宣教を共有するところだからです。

だから、恐れるな(2011.1.2)

宣教題  : 「だから、恐れるな」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章5節~11節

パウロは、コリント伝道において、御言葉の宣教に専念しました。ところが、復活されたキリストは、なぜ「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と言われたのでしょうか。パウロは、多くの人々が救われた時に何を恐れたのでしょうか。そして、キリストが語られたことに対して、彼はどう応答したのでしょうか。

1.主の御言葉に立つ
パウロは、福音に対して反抗するユダヤ人に無理やり語り続けることをしないで、福音に対して心を開いている異邦人に伝えていきました(5~6節)。その結果、神をあがめる異邦人の家が用いられ、ユダヤ教会堂長一家が信仰に導かれました。それだけでなく、コリントにいた異邦人の多くが救われて洗礼を受けたのです(7~8節)。パウロは、こうしたことがユダヤ人の迫害をますます強くすることを知っていたので恐れたのです。そして、コリント教会の将来を案じて恐れたのです。
その時、キリストはパウロに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と、励まし、命じられたのです(9~10節)。それに応えたパウロは、主の御言葉によって再び強くされて、コリント伝道をやり遂げたのでした(11節)。
要するに、私たちにとって、主の御言葉に立つかどうかが分かれ目となります。

2.主の臨在信仰に立つ
パウロと同じように、私たちは気弱になって恐れを経験すると、自分が持っているものや置かれている状況に心が奪われがちになります。しかし、そのような中から、あらゆる恵みに満ちておられるキリストを見上げるならば、このお方との深い交わりに引き戻していただけるのです。
その時私たちは、「わたしがあなたと共にいる」との主の臨在の約束を新鮮な思いで見い出させていただき、慰められ、励まされ、力づけられるのです(2テモテ4章16~18節)。
私たちは、主の臨在信仰に立ち続け、キリストが生きて働いておられることを体験的に知るものとならせていただきましょう。

いま、共にいます主(2011.1.1)

宣教題  : 「いま、共にいます主」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章9節~10節
神が聖書を通して私たちに語っておられることは、「あなたは恐れるな」、「あなたを愛している」、「あなたと共にいる」と要約できるでしょう。新年の朝に、「わたしがあなたと共にいる」と語る聖書のメッセ-ジを聴き、その恵みにあずかる年としていきましょう。

1.ここに救いがある
主イエス・キリストはいま、どこにおられるのでしょう。このお方は、私たちの救いのために、十字架に死んで復活され、その後昇天され神の右に座しておられます。神の右におられるということは、そのことによって常に私たちと共にいてくださるということです(マタイ28章20節)。
キリストが共におられるとの信仰は、それを自覚して生きることです。それは、聖書に登場する聖徒たちが、神に対して常に願い求めていたことでした。そのひとりダビデは、この世における最高の生き方を「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがない」(詩編16編8節)と言い表しています。私たちは、主の臨在が救いである(使徒言行録2章24~25節)ことを自覚した信仰の歩みをしたいものです。

2.ここに勝利がある
人は、ありもしない迷信からくる恐れ、人の顔や評価への恐れ、良心の呵責や罪からくる恐れ、死への恐れを持っています。また、教会の歩みにおいても、様々な恐れを経験します。主の臨在を自覚する歩みは、そうした恐れを乗り越えさせてくださる豊かなものです。
そのためには、常に臨在してくださる主イエス・キリストを、寝ても覚めても四六時中信頼し、いかなる時でも主を仰ぐことです。過去に対してはキリストの血潮を、現在に対しては主の不断の臨在を、将来に対しては主の約束の御言葉を信頼していくところに勝利があります。

祈りがあるから(2010.11.7)

題   : 「祈りがあるから」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録   12章1節~17節
ここに、死に直面した二人の使徒が登場します。その結果は、ヤコブは殉教の死を、ペトロは同じような扱いをうけながらも救出されました。この事態に対して、『教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた』と、教会は祈りをもって真正面から立ち向かいました。

1.神を制限しない「熱心」な祈り
ここで、真剣かつ熱心な祈りが神にささげられています。人が神に祈る姿は、万策尽きて、全知全能の神に助けを求める姿です。人が弱さに撤し抜いて、腹の底から創造主である神を信じ、死から復活されて共におられるキリストを信頼し、言葉に表わせないうめきをもって執り成してくださる聖霊に依りすがる時に(ロ-マ8章28節)、最も弱そうに見える人間が、最も強い者に変えられるのです。
祈っていた教会は、ペトロが奇跡的に救出されたことを知らされた時、半信半疑でした(12~17節)。そんな不完全な信仰の祈りであっても、神は教会の祈りに耳を傾けてくださり、祈り願った以上に豊かに答えてくださったのです。私たちは、神がなされることに制限をしてはならないのです。

2.教会の「一致」した祈り
ここで教会が祈っていたことは、『彼のために』とあるだけで、その具体的な祈りの内容は多様なものだったと思われます。というのも、ペトロが救出されたとの知らせを聞いた人々は、神のなさったことの素晴らしさと意外性に驚いているからです。
祈る者たちの思いや考え方は様々であっても、ひたすら「彼のために」祈ることにおいて一つであれば、神はその教会の祈りを聞いてくださるのです。どう答えられるかは、神のみこころ次第なのです。教会の一致の祈りがあるところに、主の栄光が現わされるのです(ヱフェソ3章20~21節)。

あなたも家族も(2010.10.24)

宣教題  : 「あなたも家族も」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   16章25節~34節
日本人の宗教意識には、信仰を持つということが、社会や家族から遊離された形で生きることと思っているところがあります。しかし、聖書が語る「救い」とか「信仰」は、聖書の約束にあるように「あなたも家族も」に及ぶものなのです(31節)。

1.救われます
ここには、迷信と商売と政治の混乱した世界の中で(使徒言行録16章16~24節)、家庭と誇りを背負いつつ自縄自縛の人生を生きる看守がいます(同27節)。要するに、救いを失った人間の姿があります。
そうした混乱の中にあって、パウロとシラスは、真夜中の牢獄で神に賛美をし、神に祈って礼拝をしていました(25節)。ここに、神の救いの力が現われています。救われるということは、いかなる時であっても、神が共におられることを知って、神を信頼し、神を讃え祈る者と変えられることです。
看守は、恐怖の中に置かれて「(私が)救われるためにはどうすべきでしょうか」と二人の伝道者に懇願しました。彼らは、明確に「あなたも家族も救われます」と、家族にまで及ぶ神の救いの福音を宣言したのです(30~32節)。神の救いは、神と人の回復のみか、人と人の回復にまで及ぶのです。

2.主イエスを信じなさい
「主イエスを信じなさい」とは、主イエスを信頼して、自分自身とその生涯を任せなさいということです。そのようにすれば、「あなた」という個人とともに、「家族も」救われて、家族全体が喜びと平安と愛に包まれる祝福にあずかるのです。
ひとり一人が信仰を言い表して「洗礼を受け」、キリストの愛と赦しと和解に生きるようになり、「神を信じる者となったことを家族ともども喜んだ」(33~34節)との恵みの輪が広がることを祈りましょう。

主のみ手があったので(2010.10.10)

宣教題  : 「主のみ手があったので」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  11章19節~26節
キリストの弟子たちが「キリスト者(キリストに属する者)」と呼ばれるようになったのは、アンティオキア教会においででした(26節)。この教会は、「主のみ手が彼らと共にあった」(21節、口語訳聖書)ことによって誕生しました。主のみ手があるところには、神の恵みが現われます。

1.神の恵みの力が現われる  19~21節
迫害という試練の中で伝道は前進して行きました。中でも、キプロス島やキレネ出身の無名の信徒たちが、異邦人に主イエスの福音を伝えました。その中には、キレネ人シモンとその家族が加えられていたか、彼らの信仰の感化を受けた人々がいたと思われます(マルコ15章21節、ロ-マ16章13節)。その結果、不道徳と偶像崇拝の空虚な生き方をしていた多くの人たちが、主イエスに立ち帰りました。こうして、アンティオキア教会が異邦人伝道の拠点となったのです。
忘れてならないことは、「主のみ手が彼らと共にあったため」、すなわち主イエスの十字架と復活に現わされた神の恵みの力に与かった人たちによって、伝道が展開され、教会が誕生したのです。

2.神の恵みの拡がりが現われる  22~26節
エルサレム教会は、このアンティオキア教会の信徒たちの信仰指導をするために、バルナバを遣わしました。それには理由がありました。バルナバは、異邦人伝道に理解と使命を持っていたからであり(使徒言行録4章36~37節)、主のみ手が働くところには神の恵みを見ることができるとの霊的洞察力が与えられていたからであり(同11章23~24節)、伝道の前進のためにサウロを用いる広い心が備えられていたからです(同25~26節)。
後にパウロとバルナバが伝道旅行から戻ったとき、伝道は神ご自身が伝道する者と共にいて、その恵みのみ手をもって拡大されると証言しています(14章27節)。キリストに属する者は、主の恵みのみ手を見て喜ぶのです。

あと一歩でキリスト者(2010.9.26)

宣教題  : 「あと一歩でキリスト者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  10章34節~48節
ロ-マの軍人であったコルネリウスは、どこかで真の神を知り、その敬虔さは全家族だけでなく配下の者にまで影響を及ぼし、祈りと施しに生きていました(10章2節、7節)。しかし彼は、自分の信仰には何か根本的に欠けているものがあることを薄々気づいていたようです。彼が真にキリスト者となるには、神による備えと導きが必要でした。

1.伝道者を備えられた
ユダヤ人ペトロが、異邦人に対して何の偏見ももたないでキリストの救いへと導くためには、乗り越えなければならないハ-ドルがありました。それは、異邦人に対する偏狭な民族感情や生活感情から生じたものでした。そのために、コルネリウスが福音を受け入れることができるように、神は幻をもってペトロ自身の心を備えられたのです(9~33節)。ペトロは、この経験を通して、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(34節)と告白しています。
信徒はみな伝道者です。そのために神は、救われた者が求道者をキリストに導ける備えをして下さるのです。

2.求道者を導かれた
ペトロは厳かに、「すべての人の主」であるイエス・キリストの福音を語っています。このお方の十字架と復活によって「罪の赦しが受けられる」救いの道を証言しました(34~43節)。
それを信じたコルネリウスとその仲間たちには聖霊が降り、ユダヤ人同様に多国語で福音を証しし、神を賛美するという「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれ」たのです。それゆえに、彼らがバプテスマを受けるのは何の支障もないことでした(44~48節)。
私たちは、誰一人もれることなく洗礼の恵みに与かり、イエス・キリストのものとなり、その交わりに生きる信仰の一歩を歩み出しましょう。

信仰の復興(2010.9.5)

宣教題  : 「信仰の復興」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  16章6節~15節
信仰の復興は、突然に起こるように思ったりしますが、決してそうではありません。フィリピ教会の誕生の発端となったリディアとパウロたちとの出会いの出来事は、そのことを証言しています。そこには、神の必然と人の備えがありました。

1.神の必然
この出来事は、神の側から言えば、聖霊の御働きの中に起きたことでした。使徒言行録全体が聖霊の働きの記録ですが、特にこの出来事の前に聖霊はパウロを導かれました。まず彼は、小アジアでの伝道を二度にわたって禁じられましたが、それを神の導きと信じ前進していきました。その後、彼がトロアスで祈る中から、対岸のマケドニアでの伝道の幻を見せられたのでした。
パウロ一行は、聖霊に禁じられ、目の前に開かれた宣教地に思いを馳せる中から、ひとつの結論を「確信するに至った」のです(6~10節)。
続いて聖霊は、フィリピのリディアに働きかけられ、「主が彼女の心を開かれた」のでした(14節)。

2.人の備え
そうした神の側の働きかけは、人の側に備えがあるところに成就していきます。特に、リディアに注目してみましょう。
リディアには、「神をあがめる」心がありました(14節)。それは、神を敬い、神を拝して讃え、神が共におられるとの臨在信仰に生きることです。
リディアには、規則的な祈りの生活がありました(13節)。目を見張るような業の背後には、祈りの積み重ねられた日々があったのです。
リディアには、御言葉に聴く心がありました(14節)。聖霊が彼女の心を開いてくださる前に、彼女はパウロの語ることを聴いていたのです。
私たちは、信仰の復興を必要とします。そのためには、多くの備えられた日々の、ある一日にもたらされる神の必然なのです。