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Kobe Central Church

恐れと信仰(2009.1.25)

題   : 「恐れと信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章35節~43節
会堂長ヤイロは、娘の病気をいやしていただきたいとの切実かつ緊急を要する求めがあったので、主イエスを信頼して「足もとにひれ伏し」ました(22節)。主イエスこそが、いかなる時にもひれ伏すお方です。

1.信仰を励ますイエス  36節
ヤイロが、自分の娘が死んだとの悲しい知らせを聞いた時、主イエスはそばにいて聞いておられました。それは、ヤイロにとって大きな慰めとなったことでしょう。すかさず主イエスは、絶望的とも思える報告に恐れることなく、神は最善以下のことをなさらないという信仰に立ち続けるようにと、ヤイロを励まされました。
私たちは、神に見捨てられたのではないかという思いに捕らわれることがあります。そこでこそ、私たちは試され、信仰を問われます。その時こそ、十字架を仰ぎたいものです。十字架は、神は私たちを見捨てないという証しだからです。

2.死者をも生かすイエス  41節
主イエスは、死は終わりではなく、主に在っては眠りに過ぎないことを明らかにされました(39節)。主が死を支配されるからです(1テサロニケ4章13~18節)。
そして主は、娘の両親と三人の弟子たちと共に娘がいる所に入られて、「タリタ、クム・・・少女よ・・・起きなさい」と言われて、娘を死から命に呼び戻されたのです。
主イエスを信じるとは、死に直面するその所で、復活の主の命に生かされていることを確認して(ヨハネ11章25節)、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っておられる主に全てを委ねることです。

3.愛の配慮をされるイエス  43節
主イエスは、奇跡による命の回復をなさいましたが、その後は「食べ物を少女に与えるように」と言われたように、私たちが用いる通常の手段で支えてくださいます。ちょうど、十字架を前にしての愛餐と聖餐、また復活された後に愛餐の時を持たれたのと同じです。
ですから私たちは、主イエスの命に養われ、また愛の配慮をもって育ててくださる礼拝と教会生活を大切にするのです。

人生の損得勘定(2009.1.18)

題   : 「人生の損得勘定」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ  3章1節~12節
パウロは、人生の計算に強い人でした。「見なすようになった」「みています」とは(7~8節)、計算しているという意味です。彼は、この世のどんな楽しみ、喜び、宝よりも、はるかに優れた一切のことがキリストのうちにあることを知っていたのです。なぜ、このように告白できたのでしょうか 。

1.価値観が変革されたから  1~8節
フィリピ教会は、喜びに溢れる教会でしたが、キリストの福音に反する教えに惑わされる危険もあったので、パウロから注意を受けています(1~2節)。大切なことは、聖霊による礼拝をささげ、キリストのみを誇りとし、人間的なものに頼ることがないように勧めています(3節)。
パウロ自身は、復活のキリストに出会うことにより、それまで価値を置いていたものが一切意味のないものとなりました(4~7節)。そして、キリストを知り、キリストを得ることが、最も素晴らしい価値あるものとなったのです。この価値変革の経験は、彼の回心の時に始まり、その生涯に変わることなく続いたのです(8節)。
私たちは、このような価値観の変革のために、キリストを体験的に知る必要があります。

2.生き方が変革されたから  9~12節
キリストを知ることは、私たちの生き方をどのように変えるのでしょうか。
まず、神の恵みのゆえに、信仰によって神の義が与えられます(9節b)。その時から、キリストとの生きた交わりを深めていく自分のうちにキリストを見いだします。それは、自分がキリストの内にいる者と認められていることなのです(9節a)。そして、キリストご自身と復活の力を知ることにより、キリストのために受ける苦難に与り、キリストの栄光に与っていくのです(10節)。
私たちは、このようにキリストに捕らえられているからこそ、復活の恵みに「何とかして」与りたいと願うのです(11~12節)。
私たちは、キリストを知ることのあまりの素晴らしさのゆえに、キリストによって生き方を変えていただくのです。

信仰の手(2009.1.11)

題   : 「信仰の手」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章21節~34節
ここに登場する「女」は、救い主イエスに触れることにより癒され、健やかな生活を送るようになりました。彼女は、イエスの救いの力に信仰によって与ったのです。
主イエスが、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのは、何に根ざしているのでしょうか。

1.主の恵みに捉えられる信仰  25~30節
この女は、苦悩、ためらい、迷いの中にいました。それは、12年間の病との闘いという肉体的・精神的な苦痛であり、治療のために財産を使い果たした経済的な苦労であり、当時の社会においては汚れた者として受け入れられなかった偏見による苦悩でした。このように、どこにも持って行き場のなかった時に、彼女は一筋にイエスに期待して触れたのでした。それは、イエスが「自分の内から力が出て行ったことに気づ」くほどの触り方でした。
女は、受ける資格も価値もないにもかかわらず、主の恵みに捉えられていたのです。イエスは、それを「あなたの信仰が」と言われたのです。人は、どうしても他の人に知らせることのできない心の一隅を持っています。信仰とは、そこで主の恵みに捉えられることなのです。

2.主の恵みの力に生かされる信仰  30~34節
女が触れることによってイエスの内から出ていった「力」は、彼女を救う力でした。それは、イエスの十字架による罪の赦しの力であり、イエスの復活によって与えられる死に打ち勝つ力です。さらに、様々な苦悩や苦難からも勝利させる力です。
女は、このような恵みの主に対して、畏れおののきつつ、あるがままの自分をさらけ出しています(33節)。ここに、神の前にも、人の前にも過去にとらわれない救われた者の姿があります。
主の恵みの力に対する信仰は、単純かつ純粋であることが大切です。理屈や余計な飾りはいりません。そして、その信仰は深められていくことが大切です。単純さを保ちながら、愛において、物事の考え方において深められていくことが求められます。そのために、私たちは信仰の手を差し伸べ続けていることが必要です。

聖霊に励まされる教会(2009.1.4)

題   : 「聖霊に励まされる教会」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 9章19節b~31節
生きておられるキリストの体である教会は、当然いのちと感情を持った人格ある存在です。喜んだり、望みに溢れたり、また悲しんだり、痛みを感じたり、失望したりすることもあります。そのために、教会は、慰められ、励まされて前進していく必要があるのです。聖霊によって励まされる教会とは、どういう教会なのでしょうか。

1.キリストが崇められている
教会は、その誕生から今日に至るまで、聖霊による御業が進められてきました(使徒言行録1章8節)。
エルサレムから始まった福音宣教は、「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方」まで進展していきました。そこに至るまでは、エルサレム教会への迫害から始まって、サウロの回心と福音宣教への召し(9章1~18節)、そして大胆な宣教が進められました(9章19~30節)。
そのために、主はダマスコの教会メンバ―であったアナニアを用いて、サウロを導かれました。また、主はエルサレム教会のバルナバを用いて、サウロの仲介人また保証人とされました。
「こうして、教会は」前進していたったのでした。その中心となって主役となったのは、サウロでも、アナニアでも、バルナバでもなく、復活の主キリストご自身でした。主イエス・キリストの御業は、それに喜んで従った人々によって進められるのです。崇められるのは、キリストご自身のみです。

2.聖霊が生き生きと働いておられる
教会に必要なのは、以下の七つです。「全地方」を視野においた宣教です。「平和を保」つ一致です。「主を畏れ」る姿勢をもった礼拝です。「聖霊の慰めを受け」ていることです。「基礎が固まって」成長していることです。活動と働きの「発展」があることです。そして、「信者の数が増えて」いくことです。
その中で、とりわけ聖霊に慰めと励ましをいただいていることが、教会の本来の姿です。
教会は、励まされる必要があります。それは、聖霊によって与えられるのです。聖霊こそ、慰め主として私たちの内に働いて力を与えてくださいます。
聖霊に慰められ、励まされ、力づけられることを知っている教会でありたいものです。それこそが、真の教会です。

リバイバルへの期待(2009.1.1)

題   : 「リバイバルへの期待」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ハバクク  3章1節~2節
この年、主なる神がご自身の御業を活き働かせてくださり、私たちの信仰が覚醒されるように祈りたいものです。このようなリバイバル(信仰復興)は、どのようにして起こるのでしょうか。

1.神の必然として起こる
預言者ハバククは、国家的危機を嘆きつつ神に訴え、それに対する神からの答えを告げられています(1~2章)。そこには、神が何を語られ、何と答えられるかを聴こうとするハバククの姿勢が伺えます。結論として彼は、「神に従う人は信仰によって生きる」と神から告げられました(2章4節)。その信仰をいただいて祈ったのです(3章2節)。
私たちが危機に直面した時は、神の前に根源的なものを取り上げさせていただく絶好の時です。それは、個人のことだけでなく、家庭においても、教会においても、時に国家的なことにおいても言えることです。その時、「あなた(主なる神)の御業」によって再びいのちと活力を与えていただくのです。これは、ある日の偶然の出来事として起こるのではなく、神の必然として起こります。人間の失望は、神の希望の時なのです。

2.私たちの日々の備えを通して起こる
ハバククは、信仰に生き希望に生きる者に変えられ、もはや見える所によって歩みませんでした。環境を見て失望したり、人生の暗黒面を見て疑問を抱いたりすることはなくなりました。主なる神への信仰が転機となったのです。神に聴こうとする信仰のない所に、神の大きな御業は起こりません。
ハバククは、「数年のうちにも、それを生き返らせ・・・それを示してください」と祈り続けています。これこそが、リバイバルの祈りです。今日までの目を見張るような神の御業の背後にある、積み重ねられた、見えない黙々と祈り続けられた日々のあることを忘れてはなりません。「リバイバルは、私から」と祈りたいものです。
私たちは、リバイバルを必要とし、またそれを期待します。それは、多くの備えられた日々の、ある時にもたらされる神の必然なのです。

夜明けを望みつつ(2008.12.28)

題   : 「夜明けを望みつつ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章36節~38節
クリスマスの出来事は、シメオンやアンナに代表されるように、老いる者や死を間近に迎えている者に対しても届けられた喜びの知らせでした。特にアンナは、恐れと失望といったものに支配されて生きるのではなく、人生の夜明けを望みつつ積極的に神に生きる者でした。

1.神との交わりが深められる 36~37節
アンナは、若くして夫を失うという悲しみを経験し、楽しかった夫婦生活も突然断ち切られて、寄りかかって打ち明ける相手がいなくなるという淋しさと孤独の中を歩んでいたと思われます。そうした中で彼女は、過去にではなくて将来に目を向けて、神の約束の実現を待ち望んでいました。
その信仰の生き方は、時折、神の御前に立つというのではなく、「夜も昼も神に仕えていた」のでした。それは、礼拝する者の姿を表しています。絶えず神の御こころを聴きつつ、神に語りかけ、神からの答えや導きを受け取るという神との交わりを第一としていました。
神に生きる者は、神と交わりつつ老いていくのであり、その交わりは衰えることはありません。

2.神への感謝が拡大される 38節
幼子イエスを見たアンナは、「神を賛美し」、神に感謝をささげています。主イエスによって神の救いが現され、その救い主がここにおられるということを告白し続けるところに、神への賛美と感謝が溢れるのです。
神に向かって感謝をささげるなら、私たちの心は拡大していきます。その感謝は、私たちの心を謙らせるからです。その感謝は、私たちの心を高めるからです。その感謝は、私たちの心を周囲に拡げるからです。そして、このような感謝の専門家は、救い主を語り伝える者とされるのです。
神に生きる者は、夕日をあびる晩年であっても、日の出の勢いのような若い時であっても、その前に開かれた望みを抱きながら、神との深い交わり、神に感謝をささげる生活を全うさせていただきたいものです。

神の冒険(2008.12.21)

題   : 「神の冒険」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 2章8節~20節
クリスマス前の四週間をアドベントと言いますが、この言葉は、到来とか到着を意味する言葉から生まれました。そして、ここから冒険を意味するアドベンチャ-という言葉も生まれました。
神の冒険は、神の御子がご自分の在り方を捨ててこの世に来てくださったことです。私たちは、この救い主に正面から向かい合い、共に歩むことが求められています。

1.神の冒険のクリスマス  8~14節
神の救いの出来事である喜びの知らせは、権力者のアウグストゥスにではなく、小さな弱い命でしかない「乳飲み子」に託されました。これは、危険を冒してまでの神の冒険であり、十字架に向かって歩まれる冒険の道へとつながっています。ここに、神が御子を手放された愛と勇気が現れています。
さて、この出来事を最初に知らされた「羊飼いたち」は、社会的にも、宗教的にも除け者扱いにされていた「失われたもの」(ルカ19章10節)でした。羊飼いたちは、喜びに包まれ、天使たちは、神の救いが成し遂げられることを讃えています(14節)。羊飼いこそ、神の前の自分の貧しさ、また罪深さを知っている謙った者たちであり、「御心に適う人」でした。このように、クリスマスの出来事は、神の御心に適う人々に届けられてきたのです。

2.冒険へと駆り立てるクリスマス  15~20節
羊飼いたちは、告げ知らされると直ちに応答しました(15節)。
そして、御子イエス・キリストに出会って後(16節)、その出来事を伝えています(17節)。こうして彼らは、神を礼拝する者として、新しい人生を歩み出したのです(20節)。
神の冒険であるクリスマスの出来事は、私たちの人生もまた冒険へと駆り立てます。そして、神に変えていただき、神に用いていただく人生がつくられていきます。さらに、自分と他者との在り方や関わり方が変わります。慰められるよりも慰めることを、理解されることよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、赦されることよりも赦すことを求めるようになります。
クリスマスの出来事は、私たちを冒険の人生に駆り立て、押し出すのです。

喜びは尽きず(2008.12.14)

題   : 「喜びは尽きず」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイによる福音書 1章18節~25節

クリスマスの出来事は、「聖霊によって」(18、20節)とあります。それは、人間が作り出したものではなく、神がなされた御わざであるということです。
この事実は、今日に至るまで人々に聖霊による喜びをもたらし、今も尽きることのない喜びとなっています。

1.神が私たちと共にいて下さるゆえに
主の天使が、「その名をイエスと名付けなさい」と告げられたのは、「この子は自分の民を罪から救う」お方であったからです(21節)。
主イエスは、私たちを神から引き離し、その結果価値観を狂わせ、人格を曲げ、良心を萎縮させて行動を麻痺させ、あげくは人と人の関係を歪めてしまう罪からの救い主であられたのです。そのために、十字架において血を流してくださいました(マタイ26章28節)。
さて、「その名はインマヌエルと呼ばれる」お方でもあり、その意味は「神は我々と共におられる」ということです(23節)。
神が共にいてくださることができないのは、私たちの罪だけです(イザヤ59章1~2節)。その罪を取り除くために、神の方から救いの手を差し伸べてくださったのです。
十字架の死から復活された救い主イエスは、時とか場所に制約されることなく、いつでも、どこにでも共にいてくださるお方です(マタイ28章20節)。この喜びは尽きることがありません。

2.私たちも神と共にいるゆえに
ヨセフは、神の御ことばを重んじる「正しい人」でしたので、マリアが懐妊したことを悩み苦しみました。しかし、それが聖霊による神の御わざであることを信仰によって受け入れ、御ことばに従いました(24~25節)。それは、ヨセフが「私も神と共にいる」との信仰の自覚をもっていたからです。
自分の願いに、また自分の不安や恐れに動かされないで、さらに自分の正しさに立つのでもなく、神の御ことばに動かされ、聖霊に動かされていくとき、主が私たちと共におられ、私たちも神と共にいるとの尽きない喜びに満たされるのです。
待降節、そしてクリスマスを祝う時に、私たちは自らの喜びが何によるものかを問う必要があるのではないでしょうか。

大いなる恵み(2008.12.7)

題   : 「大いなる恵み」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカによる福音書 1章26節~38節
クリスマスの出来事は、キリスト降誕に仕えた人々の日常生活を中断させることによって起こっています。この中断の体験は、ここに登場するマリアにとって、大いなる恵みとなったのです。

1.恵みとの出会い  26~34節
マリアに対しての受胎告知は、処女降誕の事実を伝えるものでした。それは、神からの恵みによることでした(28、30節)。彼女の懐妊は、神の御子を宿すほど高い所に登り詰めたからではなく、聖霊によることでした(35節)。この戸惑いを覚えるような経験は、神の恵みとの出会いによって生れています。今日の私たちにとっても大切なことは、神の恵みと出会うことです。
この恵みとの出会いのために、神ご自身が身を屈めるように、人となってくださいました。その生涯は、僕として仕える歩みをしてくださいました。そして、終に十字架で私たちの救いのために身代わりとなってくださいました。このように、神は一所懸命になって私たちを愛し、神の恵みを届けてくださったのです。私たちは、この「恵みにより、信仰によって」救われたのです(エフェソ2章8~9節)。

2.恵みによる立て直し  35~38節
神の恵みに出会うと、その恵みにとらえられ、恵みによる立て直しが起こります。「神にできないことは何一つない」と、神の恵みのわざは必ず実現すると告げられたのです。この信仰の試みに対してマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、周りの人々が気づかない中で受けとめました。ただ、この決断に、人類の救いがかかっていたのです。
私たちの信仰生活とその生涯は、大小さまざまなことにおいて、個々の場面において、こうしたマリアのような決断の連続です。その決断を支えるのが、お言葉です。そのお言葉を聴き続ける必要があります。その時に、主が共におられることを分からせていただくのです。
キリストご自身とその恵みを覚えて、お言葉が私たちの内に成ることを第一の願いとしつつ、新しい歩みをつくらせていただきましょう。

待つ力(2008.11.30)

題   : 「待つ力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ルカ 1章5節~25節
人は、待つことにおいて試されます。待つことは、一つの偉大な力です。主イエスの降誕の記録は、神の御ことばの約束を信じ、待ち続け、忍耐し続けた人々の証し集です。
ルカは、そのような待つことにおいて試され、待つ力を経験した人として、最初に「ザカリア」を登場させています。

1.主の前に黙して待つ 5~18節
ザカリア夫婦は、子どもに恵まれませんでしたが、その晩年は神によって恵みに変えられました。ザカリアは、これまで通りの手順で聖所で仕えていたのですが、神の不意打ちとも言える干渉を受けました。そのとき主が語られたことは、予想外の、考えも及ばない内容でしたので、それを受け入れることは出来ませんでした(18節)。
「あなたの願いは聞き入れられた」(13節)とは、子どもがさずかるというよりも、神の民イスラエルが救われることを言っています。祈りは答えられました。子どもが与えられるのみか、その子こそが救いに結びつく道備えをする使命を託されたのです(16~17節)。
神は、私たちが忘れてしまっているような祈りをも覚えていてくださり、それのみか祈った以上のことを成し遂げてくださいます。そのことを私たちは、主の前に黙して待つのです。

2.主の支配に服して待つ 19~23節
さて、ザカリアは神の前に歩む者でしたが、神の御こころを信じ受け入れることができなかったために、神は彼を沈黙させました(20~22節)。神がザカリアを見捨てられたのではありません。この時、神がザカリアに著しく働きかけられ、彼が神に真正面から向かうことになったのです。そして、ザカリアが不信仰を正直に悔い改め、神への信頼を回復する時となったのです。
私たちは、日常の具体的な事柄において、主なる神とその御ことばの支配に服することが大切です。
私たちは、信じて待つことを通して、自分の弱さ、貧しさ、小ささを覚えつつ、主の御力、豊かさ、大きさに信頼することが大切です。

同じ心をもって(2008.11.23)

題   : 「同じ心をもって」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : フィリピ 2章19節~30節
パウロの各手紙の最後は、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」といった挨拶で締め括られています。そこには、神の恵みに対する感謝が溢れ出ています。それはパウロだけではありません。テモテもエパフロディトも「同じ心」でした。

1.同労者の心で生きる
テモテは、パウロと同じ思いを抱いて、自分をフィリピの教会員の立場に置いて愛の配慮をしました(20節)。また、彼はパウロと共に福音に仕えることにより、人々がキリストの救いに与かることができるように祈り労しました(22節)。
また、エパフロディトは、福音のためにパウロと共に祈り労する同労者であり、福音のために戦う戦友でもありました。具体的には、フィリピ教会からの献金を携えて獄中のパウロのところを訪れて励まし、慰めています(25節)。しかも、フィリピの教会を代表してパウロに仕え、キリストのために犠牲を惜しまず、命を懸けるほどでした(30節)。
このようにパウロは、イエス・キリストの恵みに共に与かっている同労者に対して、感謝の思いをもって証しています。共に祈り合い、共に慰め合い、共に仕え合うのに最も必要なことは、主イエスが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことです(ヨハネ13章34~35節)。

2.キリストの心を生きる
キリストの心を知らされたパウロにとって、彼の周りにいる同労者たちこそキリストの心を生きる人たちでした(5節)。そのことは、テモテがイエス・キリストのことを追い求め(21節)、エパフロディトがキリストのために生きることを第一としたことに見られます(30節)。
さて、主の恵みに対する感謝は、具体的に感謝をささげることによって表されます。主なる神に礼拝をささげることによって、賛美をささげ、奉仕をささげ、献金をささげるというようにです。ここに、キリストの心を生きる者の姿があります。
感謝をもって、キリストの心を生きる者とさせていただきましょう。

重んじる(2008.11.16)

題   : 「重んじる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 5章1節~20節
激しい突風の後の静かなガリラヤ湖風景、そしてゲラサ人の地方での激しい響きの後の突然の静けさは、今日の私たちが経験する日々の喧騒と聖日の静けさを思わせます。私たちは、この静けさに身を置くことによって、何を重んじるのかを気づかせていただきましょう。

1.ひとりの魂を重んじる 1~17節
汚れた霊にとりつかれた人は、正常な人間社会を好まないで墓場を住まいとし、足枷や鎖でも制することのできないほど狂暴で、石で自分を打ちたたくほど自虐的で、主イエスに反抗する霊に振り回されていました。そして、彼は「・・・かまわないでくれ・・・苦しめないでほしい」と、主イエスを救い主と認めていませんでした。これは、神との交わりを失い、その結果自らをコントロ-ルできない悲惨な状態です。
ところで、この人の姿は、救い主イエス・キリスト抜きで生きていけると思い込み、自分を愛することができず、他者との健全な交わりを持つことのできない罪人を表しています。
しかし、主イエスは、多数の豚を犠牲にするほどに、ひとりの人の生涯を悪魔の支配からキリストの愛のご支配に生きるように招かれるのです。私たちは、一人ひとりを愛し重んじておられるキリストのご支配を、拒むことのないようにしたいものです。

2.家族を重んじる 18~20節
悪霊にとりつかれた人が、主イエスと一緒に行きたいと願ったのは、ごく自然なことでした。しかし、主イエスは、この人が自分の家に帰り、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じられました。彼の家族が、これまで心を痛め、また苦しんだことに対して報いる責任があったからです。また、彼が、神の恵みと主イエスの救いを家族に伝えることが大切だったからです。
その結果、彼の遣わされた地で「イエスが自分にしてくださったことを」伝えたので、家族のみか、置かれた地域に多大な感化を与えることになったのです(6章53節以下)。
私たちは、身近な家族に対して、「主が・・・あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」との証しをすることを大切にしたいものです。

慰めの源(2008.11.9)

題   : 「慰めの源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  5章28節~32節
私たちは、神に愛されて、かけがえのない価値ある一人ひとりとして造られました。それゆえに、私たちは神からの慰めをいただき続けています。
さて、神と共に歩み続けたエノクから三代目のノアは、慰めの子でした。彼の生涯から語られる神のメッセ-ジを、私たちは開かれた心をもって聴きたいものです。

1.慰めの源となってこそ
人間の苦しい労苦に対して、ノアは慰めを与える者となっています。時代が堕落し、不法に満ちていましたが(6章11~12節)、ノアは神に従う正しい人であって、神と共に歩んでいました(同9節)。
そして、すべて神に命じられることに、信仰によって従いました。その結果、彼とその家族が洪水の中から救われたのです(6~8章)。こうした神のみわざとノア自身の信仰は、人々の大きな慰めとなったのです。
苦労の多い中で、神に祝福され、救われ、それが受け継がれていくこと、そしてこの救いの祝福が広がり、世界の果てまで広がっていくことほど、私たちにとって慰めはありません。
確信に満ちたパウロのことばに、「・・・あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(2コリント1章4節)とありますが、素直に苦しみを分かち合うときに、真に慰め合うことができるのです(同6~7節)。互いに、慰めの源とならせていただきましょう。

2.主なる神に慰められてこそ
旧約聖書全体を通して用いられる「慰める」ということばは、様々の意味に用いられています。単に、悲しみが慰められたという意味ではなく、「悲しむ」「悔いる」という内容をもっています。すなわち、自分の罪深さに悲しみ、その罪を悔い改めたときに、その人の内に神が与えてくださるのが慰めです。
主イエスご自身は、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)と語られました。一人ひとりが主イエスの十字架に直面することによって、真の慰めに与ることができるのです。それによって、キリストの復活の力が内に湧いてくるのです。こうして、今日の私たちも、「この子は慰めてくれるであろう」との祝福を受け継いでいるのです。

人生の嵐の中で(2008.11.2)

題   : 「人生の嵐の中で」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章35節~41節
主イエスが突風を静められた出来事は、世々の教会や信仰者がしばしば経験してきたことを現しています。舟は教会であり、主イエスがその水先案内人です。主イエスがいつも父なる神を信頼しておられたように、舟に乗り込む信仰者が主イエスを信頼しているならば、いかなる突風の中にあっても大丈夫なのです。

1.御子の御父への全き信頼
主イエスは、押し寄せてきていた群衆と距離を保つため、舟に乗って向こう岸に行こうとされました。宣教の働きの疲れを覚えられたこともあって、主イエスは突風の最中でも眠っておられました。
しかし、主イエスは単に休養をとられたというのではなく、神のみこころである宣教の働きが進められるために、ガリラヤ湖の東にある異邦人の住む地域に向かわれたのでした(5章1節)。ここでの主イエスの姿は、御子が御父の懐で憩うようにして、全てを委ねて信頼しておられることを現しています。
この全き信頼は、主イエスが十字架で苦しまれた時でさえも揺らぐことはありませんでした。聖霊が主イエスと交わりをもちつつ、支えておられたからです(ヘブライ9章14節)。

2.私たちの主イエスへの揺ぎない信頼
一方、弟子たちは激しい突風と戦っていました。自然の猛威を恐れている彼らに対して、主イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われました。
主イエスから「向こう岸に渡ろう」とみことばを聞きつつ、しかも主イエスが同舟して共におられたにもかかわらず恐れていたからです。そして、主イエスに対して非難する思いを持っていたからです(38節)。
このように弟子たちは不信仰でしたが、主イエスはあわれみをもって突風を静められました。その結果、主イエスに対する畏れの心を抱くようになった弟子たちは、もはや恐れる必要のないものを恐れないようになったのです(40~41節)。
信じて生きるとは、平凡な日々であろうと、荒れ狂う苦難の時であろうと、主イエスに対する揺ぎない信頼をしていくことです。そのためには、共におられる主イエス・キリストの真実に触れることが大切です。

幻に生きる(2008.10.26)

題   : 「幻に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 4章26節~34節
「神の国」に入るという救いの道を開いてくださったのは、イエス・キリストご自身です。私たちは、その神の国に生きる者とされたのであり、さらに神の幻をいただいて生きる喜びと望みをいただいているのです。

1.先立つ神の恵みによる支配がある 26~32節
神の国は成長し、時間を超えて発展していきます(26~29節)。福音の種が蒔かれると、人間の思いや知恵を超えて、神が働かれて「ひとりでに」成長し、着実に神の救いのみわざがなされていきます。そして、その完成は、永遠から永遠まで全てを支配される神によって成し遂げられるのです。
また、神の国は拡大し、世界大に発展していきます。ペンテコステの日に誕生した教会は、からし種ほどの小さな存在であり、世の人々にも受け入れてもらえない苦難の日々を送りました。しかし、教会は、今日まで想像もつかない生命力を内蔵させて拡大してきました。
このように、神のみことばの約束に立って抱く幻は拡がっていきます。従って、この世の現象に惑わされることなく、主イエスへの信頼をもって神の国の働きに加わっていきましょう。

2.続く聴従の信仰による  33~34節
主イエスは、これまで神の国について語ってこられました。神の国に入るように招かれる時には、「聞く力に応じて」多くのたとえをもって語られ、その決断を避けたり、また先延ばししないように勧めておられます。また、弟子たちに対しても「聞く力に応じて」、十字架と復活にまで及ぶことを全て語られ、神の国の福音に生きて、それを宣べ伝えるように勧められました。
今日の私たちは、聞く情報や主張のあまりの多さに、聴き分ける力を失っていないでしょうか。また、聴こうとする力を失っていないでしょうか。
主イエスの十字架のもとで、よみがえって今も生きておられる主イエス・キリストのみことばを聴き分け、聴こうとする力をいただきながら、神の国の幻が拡げられ、その幻に生きる者とされましょう。