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Kobe Central Church

真に偉大な者(2009.8.23)

題   : 「真に偉大な者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章30節~37節
主イエスは、弟子たちを訓練しつつ、エルサレムに向かわれます。そこにおける弟子たちは、主イエスから受難と復活の予告を聞きますが、理解できないままで、「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」のです(34節)。
そこで、主イエスは、真に偉大な者はどういう心を持っているかを明らかにされました。

1.仕えていく心  35節
「だれがいちばん偉いか」と論ずることは、弟子たちにとって愚かなことであり、恥じることでもありました。この問いかけは、この後繰り返しなされています(マルコ10章35~45節、ルカ22章24~30節)。
それに対して、主イエスは、「仕える者」になるようにと明確に答えられました。それは、主イエスご自身が歩まれた道であり(マルコ10章45節)、それによって人が神に立ち返る道を開いていただき、神に生きるようにされたのです。
「だれがいちばん偉いか」と繰り返す狭い心は、今も私たちを支配しやすい罪の遺産です。キリストの救いの原点に立ち続けて、神の前に喜んで仕えていく者とさせていただきましょう。

2.受け入れていく心  37節
主イエスは、仕えていくことは、受け入れていくことだと強調されています。主イエスは、当時は無価値なものの代表のように思われていた「子供」をとりあげて、「ひとりの重さ」を教えられました(36~37節)。主イエスは、無価値とみなされている者をも招かれ、悔いし砕けた心でもってご自身に近づく者のために、徹底して自らを低くして受け入れられました。
私たちは、そのように神に受け入れられているのです。ですから、喜んで主イエスを受け入れ、かけがえのない一人一人を受け入れるのです。そうした中から、私たちは、何と多くの人から受け入れられ、生かされているかも気づかされるのです。
仕えていくとは、人を受け入れ、その心を主なる神に向け、その人が主イエスと出会い、主イエスを信じ、信頼し、従っていけるようにすることなのです。

受け継がれる祝福(2009.8.16)

題   : 「受け継がれる祝福」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 26章15節~25節
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3章6節)と表現されていることは、神と人との関わりは代々続いていくことを証言しています。神の祝福は一代限りではなく、引き継がれ、受け継がれていくものなのです。

1.神の祝福は受け継がれていく
イサクは、敵意に囲まれた危険な地で神の祝福を受けましたが、その地のぺリシテ人に妬まれ、迫害されました(12~16節)。柔和で謙遜なイサクは、彼らと争うことをしないで、父アブラハムの時代に掘られた井戸を掘り返しては手放すことを繰り返しました(17~21節)。そして、平安が支配する広い場所を得ることとなったのです(22節)。
このようにイサクは、与えつつ獲得し、退きつつ前進していったのです。柔和は報われ、謙遜は価値あることを教えています。
そのイサクが、最終的に行き着いた地は「ベエル・シェバ」でした。その地は、父アブラハムが神に守られたことを感謝して礼拝を献げた意義深い場所でした(21章25~34節)。イサクは、感謝を込めてその地に上り、臨在の主と出会いました。そして、父アブラハムのゆえに、神の祝福を受け継いだのです(23~24節)。

2.神の祝福は機械的に受け継ぐのではない
イサクは、礼拝を献げ、家庭と生活を整えて、受け継いだ神の祝福を自分のものにしていきます(25節)。
ところで、父アブラハムの死後塞がれていた井戸が、イサクによって再び掘られていきました。それらの井戸の地下水の水脈は、変わらずに流れていたからです。同じように、私たちが受け継ぐ神の祝福は、塞がれたままにしておいてはいけないのです。自らの信仰と祈りで掘り起こし、自分の手で開拓し、新しい意味づけをしていくことが必要です(33節)。
私たち一人ひとりは、アブラハムであり、またイサクでもあります。そのためには、自分の信仰に目覚め、自分の信仰の手を差し伸ばして、神の救いと祝福を受け継いでいくことが求められているのです。

この人による以外に救いはない(2009.8.9)

題   : 「この人による以外に救いはない」
宣教:  川原﨑 晃  牧師
聖  書   : 使徒言行録 4章5節~22節
生まれながら足の不自由な男は、有りのままの自分を主イエスに委ねて、いやされ、救いに導かれました。このことを通してペトロは、「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られない」ことを証言したのです(12節)。

1.主の激しい御愛が注がれている
この救いの出来事は、ペトロが民衆をキリストの救いと信仰への招きをする機会となりました(4章4節)。逆に、この事実を受け入れようとしない指導者たちは、ペトロたちを逮捕して留置し、議会で尋問しました(1~6節)。その尋問内容は、「何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」ということでした。ペトロは、「イエス・キリストの名による」救いの御業であると、単刀直入に答えています(7~11節)。
ここで強調されている「わたしたちが救われるべき」とは、救われるために主イエスの激しいまでの御愛が無制限に注がれているということです。主イエスのこの御愛が、十字架にまで行き着き、死を征服し、復活をもたらして下さったのです。
私たちは、「ほかのだれによっても、救いは得られません」と信じて、主イエスに身を委ねるだけなのです。

2.主の激しい御愛に押し出される
この主の御愛を体験した者たちは、その御愛に迫られ、押し出されています。主の御愛は、「無学な普通の人」を用いて「大胆」にします。それらの人は、いつも主と共にいて、主イエスに救いの全てがあることを確信しています(13節)。
ここに、大胆に福音を語るペトロがおり、彼の傍らに立って祈り支え協力するヨハネがいます。そして、彼らの「そばに立っている」無言の証人がいます(14節)。この人こそ、主イエスによっていやされ救われた人でした。周囲の人々は、「この出来事について神を賛美していた」のです(21節)。
教会は、「ほかのだれによっても、救いは得られません」との福音を語り、それを祈り支え、その福音に生きる人によってつくられていくのです。

信仰の生まれるところ(2009.8.2)

題   : 「信仰の生まれるところ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章14節~29節
ここには、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外の弟子たちの不信仰と、一人の父親の揺れ動く信仰が語られています。これらのことを通して、信仰が生まれるところには、必ず新たな信仰の気づきがあることを教えられます。

1.偉大な信仰の気づき
父親は、幼い時から「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊」に取り付かれた息子を癒していただきたい一心でいました。主イエスは、弟子たちの不信仰のゆえに成しえなかったことを忍耐して担い、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)と言われました。このように、人に求められることは、全能の主を信頼する素直さと、いかなることでも主イエスのもとに持って行くことです。
父親は、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と嘆願しました。それに対して、主イエスは、問題は父親自身にあることを指摘されたのです(23節)。この時父親は、「信仰のないわたしに」(24節)に気づいたのです。私たちも、様々な課題や問題に直面して、問題はこの自分にあると気づき、自分の信仰に思いを向けることです。これは偉大な気づきです。

2.時々刻々の信仰の気づき
この日、父親と息子は主イエスによって新しく立ち上がることが出来ました(25~27節)。
ところで、弟子たちは、悪質な霊を追い出せなかった理由が分かりませんでした(28節)。と言うのも、以前に主イエスから権威をいただいて遣わされた時には、悪霊を追い出すことが出来たからです(6章12~13節)。
信仰と祈りは(29節、マタイ17章20節)、時々刻々の継続と謙遜をもって主イエスの助けと導きを求めないと、無力になります。それは、祈りという敬虔な行為に力があるというのではなく、祈りは全能の神に信頼し、神の力に全く依存することなのです。この気づきがあるところに、信仰が生まれるのです。主イエスが、今日、どのように働いてくださるのか、期待したいものです。

人格から人格に(2009.7.26)

題   : 「人格から人格に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 3章1節~10節
主なる神は、ペトロのように弱い器を取り上げて、ご自身の栄光と福音の前進のために用いられます。ペトロは、キリストを「持っている」という明確な経験をしていましたので、聖霊によってキリストを「あげよう」と提供しました。これが、「人格から人格に」なされるキリストの救いの御業です。

1.自覚的なキリスト経験
施しを乞う男と二人の使徒との間には、関心を向けられることを必要とする男の視線と、その男の存在に関心を向け、その痛みに関わろうとする使徒たちの視線とが交差しています(3~5節)。それに続いてペトロは、キリストを信じる者は新たに自立する道を歩ませていただき、神を当てにする生き方に変えられることを語り導いています(6~8)。
キリストを「持っている」とは(ヘブライ4章14節)、キリストこそが私の救い主であり、私の主であることを自覚し、私の全てを支配しておられるのは内住のキリストであることを自覚していることを言います。そして、生きることがキリストであることを体験的に知っていることなのです。

2.自覚的な聖霊経験
使徒たちは、男にとって最も必要とされ、根本的な解決を与えるキリストの救いを「あげよう」と提供しました。彼らに、聖霊によって神の愛が注がれていたからです。キリストの救いとは、キリストに対する真実な悔い改めと主体的な信仰によって、男がキリストに結びつけられることでした(16節、19節)。この御業は、全て聖霊によることでした。
男は、このキリストの御業のゆえに歓喜し、神を賛美し、神に栄光を帰しています。そして、キリストの証人となったのです(8~9節)。
私たちは、主イエスからいただいて持っているものを他者に与えることができます。「わたしたちを見なさい」との聖霊の一致をもって、自覚的なキリスト経験、自覚的な聖霊経験をしていくのです。

仰ぎ見る日々(2009.7.19)

題   : 「仰ぎ見る日々」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章2節~13節
信仰とは、主なる神を仰ぎ見ることです。人は、罪を犯した時、また苦難の中に置かれた時など、目を伏せ、自分の周囲にしか目が向かなくなり、現実を見て失望したりします。また、他者を見てうらやみ、自分を見て一層惨めになったりします。
主イエスの変貌の出来事は、主を仰ぎ見る者にどういう意味があるのでしょうか。

1.永遠の救いの保証
主イエスが「高い山」に登られたのは、「祈るため」でした。そして、祈っておられるうちに、そのお姿が変えられたのでした(ルカ9章28~29節)。そこにおいて、主イエスがモ-セとエリヤと語っておられたことは、ご自身が「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」であり(同31節)、主の栄光が最も現された十字架と復活の出来事についてでした(9~13節)。
主イエスの十字架と復活なくして、私たちの救いとその完成はありません。主イエスの変貌の出来事は、十字架と復活による永遠の救いの保証を意味しており、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント3章18節)いく栄化の先駆けとなったのです。私たちは、栄光の主イエスを仰ぐのみです。

2.輝く生涯の動力
主イエスの変貌の出来事は、信仰者の地上の生涯を姿変わりさせる力を与え続けてきました(ロ-マ12章2節)。その恵みは、礼拝を中心とした信仰生活を輝きあるものにし続けてきました。
私たちのうちに、このような姿変わりさせられることを嫌っているところがないでしょうか。そうならないために、私たちは、主イエスが語られている御言葉に聴き従い続けることが大切です(7節)。また、いかなる時も、私たちと共におられる主イエスを仰ぎ見ることが大切です(8節)。そうするならば、主イエスといつも共にいる自分の姿が見えてきます。そして、人を見る目も変ってきますし、自分の周囲を見る目も変ってくるのです。
主を仰ぎ見る日々の連続が、主を仰ぎ見る生涯となるのです。

主を畏れる心(2009.7.12)

題   : 「主を畏れる心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 2章37節~47節
教会は、主を畏れつつ前進して来ました(9章31節)。
主を畏れる心が、恐れることを失った鈍感さから解き放ち、恐怖に対しては勝利させてくれます。そして、主を畏れる心は、生き生きとした信仰生活を生み出していきます(43節)。

1.真の回心へと導く  37~41節
神に対する恐怖の恐れは、神から離れようとしたり、神抜きで生きていこうと願ったりするようになります(創世記3章10節)。その結果、罪の責任転嫁が起こり、神への信頼、神の御心を知ろうとすることがなくなります。
しかし、神を畏れる心は、他に責任転嫁することなく、被害者意識を持つことなく、愛の神に近づかせます。ペトロを通して福音が語られたとき、人々は誠実に応答しました。「大いに心を打たれ」て罪の自覚が生まれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と切実な求道心が生まれました(37節)。そして、福音を受け入れて回心し、主イエスに対する悔い改めと信仰による洗礼の恵みに与かったのです(38~41節)。
このように、主なる神への畏れの心は、私たちを救いの喜びに変えるのです(ルカ23章40~43節)。

2.生きた信仰生活へと導く  42~47節
神に対する恐怖の恐れは、信仰生活を息苦しくし、愛、喜び、感謝、平安といった信仰生活の活力を奪います。
しかし、神を畏れる心は、主への賛美、感謝、喜びを本物にします。そして、私たちを主に引き寄せ、信仰生活の中心である礼拝生活と教会生活を生き生きとしたものにします(詩編111編)。それは、福音に聴き従うことによって(42節a)、福音を共有する交わりによって(42節b、44~45節、46節b)、神への全き信頼を通して(42c、46節a)培われます。
神は、このような信仰生活を歩む聖徒の群を信頼されて、神の宣教を進められます(47節)。私たちが主を畏れる心であり続けることによって、生きた信仰生活が展開されていくのです。

「アーメン」の生涯(2009.7.5)

題   : 「『アーメン』の生涯」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 8章27節~9章1節
主イエスは、ご自分が何者であるかを弟子たちに問いかけ、十字架と復活の事実を公然と語られています。私たちは、主イエスが弟子たちや群衆に求められたように、真実なキリストに対する信仰をもって、「ア-メン」の生涯を全うしたいものです。

1.「ア-メン」とキリストを告白する  27~32節a
主イエスが、「わたしを何者と言うか」と問いかけられたことに対して、人々は預言者の一人と言いました。それに対して、弟子を代表してペトロは、「あなたは、メシア」、油注がれた救い主と明確な告白をしました(29節)。そして、主イエスは、ご自身の十字架と復活による真剣な救いの御業に対して、弟子たちに真剣な信仰告白を求められたのです(31~32節a)。
主イエスは、私たちの家庭で、職場で、学び舎で、また病に伏せる中で、様々な人生の戦いの場で、「あなたは、わたしを何者だと言うか」と問いかけておられます。そのような中で、私たちがキリストを告白していくとき、福音は力を発揮し、罪と死から解放されている恵みを経験していくのです。

2.「ア-メン」とキリストに生きる  32節b~9章1節
主イエスは、ご自身をいさめたペトロを叱られました。「サタン、引き下がれ」とは、十字架を避けさせようと背後で働くサタンの誘惑を言われたのです(33節)。
さて、十字架の道を歩まれた主イエスは、弟子たちだけではなく全ての人に対して、「わたしに従いなさい」と語っておられます。そのためには、自分にしがみつかないで「自分を捨て」、「自分の十字架を背負って」自分に死に、キリストに生きていただくのです。そして、キリストのため、福音のために、自分の全てを主イエスに任せていくなら、神の命に与かり続けるのです(34~37節)。
私たちは、自分を中心に据えれば据えるほど、自分のことしか見えなくなり、隣人を愛するゆとりもなくなり、いよいよ不安になります。主イエスに従ってこそ、主イエスが見えてくるのです。今この時、主イエスと御言葉を恥じることなく、「ア-メン」とキリストを告白し、キリストに生きる者とさせていただきましょう。

終末に生きる(2009.6.28)

題   : 「終末に生きる」   宣教:   足立 幹夫  牧師
聖書  : ぺトロの手紙一 4章7節~11節
万物の終わりとは、主の再臨とその後に行われる審判のことです。ところが、紛争の続出、自然界に起きている異変、それに人心の退廃した今の世相を見ますと、その時は近づいていると思わされます。この終わりの時に生きるキリスト者は、どのような備えが必要なのでしょうか。

1.思慮深く、身を慎んで祈る  7節
主の再臨が近いと聞くと、宣教が第一と考えますが、祈りが先になっています。どんなことを祈るのでしょうか。思慮深く慎んで祈るとは、キリスト者が異端や悪霊の教えに惑わされたり、動揺されたりしないで、聖書信仰に固く立って、主の再臨。

2.愛し合い、もてなし合う  8~9節
心を込めてとは、気の合う人にだけでなく、偏らず隔てず、いつまでも関わり合って生きることです。そして、愛は多くの罪を覆うのです。だから、人の失敗や汚点は、吹聴したくなるものですが、お互いにカバ-し合うのです。ペトロは、7度を70倍するように言われた主の御言葉を心にとめていたのです。
主は、私たちの罪を十字架の血で覆い包んでくださいました。この主の愛によって救われた者が、罪を覆い合うのは当然のことなのです。もてなし合いも、この心でするのです。主はそれを喜ばれ、再臨のとき豊かに報いてくださいます。

3.神の恵みの善い管理者となる  10~11節
キリスト者が管理して活用する天与の賜物には、才能、時間、財宝があります。主は、折角の賜物を自分のためにだけ使おうとした金持ちを、愚かな者と言われました。しかし、私たちは、善い管理者となり、賜物を活用することによって、主から褒められる者になりましょう。その賜物を用いる動機と目的は、個々人か賞賛されるためではなく、それを授与された主が崇められるためです。
私たちは、目覚めて祈る教会、うるわしい交わりの教会、皆が積極的に奉仕している教会となって、主の再臨の日まで、祈り合い励まし合って前進していきましょう。

二人は一緒に(2009.6.21)

題   : 「二人は一緒に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記  22章1節~14節
アブラハムは、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と神から命じられました。これは、アブラハムにとって大きな信仰の危機でしたが、そこから逃げることなく、命じられた場所に向かって「二人は一緒に歩いて行った」(6節、8節)のです。

1.試みの中において
アブラハムにとっては、全てが順調にいっている時に与えられた試みでした。それは、「全能の神」であり(17章1節)、「永遠の神」(21章33節)がなされることとは思えなかったので、彼の信仰は揺さぶられました。また、アブラハムとイサクは、説明がつかない、納得できないことに逃げ出したいとの思いをもって、「その場所」(4節、9節)に立ったのです。二人のうちどちらが欠けても成り立たない神の計画の中で、二人は一緒に歩き続けたのです。
聖書は、神を信じていても試みに出会うことを否定していません。むしろ、そうした経験の必要と尊さを明らかにしています。試みは、「いろいろな試練」とあるように、その種類は一様ではありませんし、それを通して信仰が本物とされ、忍耐という品性が与えられ、成長させてくださる大きな喜びなのです(ヤコブ1章2~4節)。

2.神を信じる信仰をもって
アブラハムは全能の神を信じ信頼していました(5節、8節、9~10節)。神の呼びかけに「はい」と答えて、神の御手の中に留まり続けました(1節、11節)。
イサクは、この父と同じ信仰に立っていました。二人を結びつけていたものは、全てを備えてくださる神を信じる信仰であり、父の信仰に子が従い、この信仰に父が励まされています。そんな彼らを神は見守り、導き備えられたのです(14節)。
私たちは、互いが神を信頼しながら(イザヤ30章15節)、親子、夫婦、兄弟、そして教会員のお互い、また伝道者と信徒などの関わりの中で、「二人は一緒に歩いて行った」との歩みを続けることが求められています。そこにこそ、神の祝福の御業がなされていくのです(16~18節)。

霊的であるとは(2009.6.4)

題   : 「霊的であるとは」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章14節~36節
聖霊に満たされた人々によって、神の福音が伝えられていきました。中でもペトロは、他の11人の使徒たちと共に、大胆に語りだしています。そのメッセ-ジは、聖霊によって開かれたもので、真に霊的であるとはどういうことかを教えています。

1.御言葉が開かれる
ペトロは、聖霊が注がれた「すべて人に」よって、神の御言葉が語られ、また神のビジョンが明らかにされると語っています。それは、旧約聖書の預言の成就であったと指摘しています(17~21節、ヨエル3章1~5節)。さらに、詩編を引用することにより(25~28節、34~35節)、ペトロが語ることはすべて聖書に基づくものであることを明らかにしました。
聖霊は、主イエスが語られたことを思い起こさせ(ヨハネ14章26節)、真理に導かれるお方です(同16章13節)。霊的であるとは、聖霊的であるということであり、御言葉が開かれることです(詩編119編130節)。そして、御言葉にともなう聖霊の導きを喜び、従い、神と人の前に謙虚で正直に生きることです。

2.イエス・キリストが見えている
続いてペトロは、「このイエス」の十字架と復活と昇天のゆえに(23節、24節、32節、36節)、聖霊が注がれたことを明らかにしています(33節)。このように、聖霊の注ぎと満たしは、主イエスの救いの事実に拠っています。私たちは、聖霊によって、キリストご自身に目が開かれるのです(1コリント12章3節)。そして、キリストの臨在の恵みに与かりつつ、キリストの証人とならせていただくのです(25~28節)。
私たちは、キリストの十字架と復活に固く結ばれているなら、何ものによっても支配されることはありません。そして、キリストを愛し、信じ、喜びに満ち溢れるのです(1ペトロ1章8~9節)。私たちは、イエス・キリストを主と仰ぎ見ることのできる霊的な存在です。そうした者の集まりである教会は、キリストを主とする霊的な生きものなのです。

開かれよ、心の目(2009.6.7)

題   : 「開かれよ、心の目」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ  8章22節~26節
この聖書記事は、預言の成就として(イザヤ29章18節)、マルコのみが記しています。主イエスは、肉体上の目が開かれるという以上に、神が見えない、自分自身の本当の姿が見えないでいる私たちの霊的な目が開かれることを望んでおられます。

1.漸次的な開眼
主イエスは、連れて来られた盲人の手を取って、村の外に連れ出して癒しの業をされました。それは、主イエスと盲人が一対一となる、より深い人格と人格の出会いの経験でした。
主イエスは、盲人の両目に唾をつけて、二度に分けて両手をその上に置かれました。一度だけ触れることによって完全な業をされなかったのは、理由がありました。主イエスが、盲人の信仰の鈍さにご自身の力を表す速度を合わせられたからです。
その実例が、ペトロの告白と信仰に見うけられます(29~33節)。告白していても信仰が伴っていない時は、主イエスは漸次的に働かれるのです。
主イエスは、信仰の鈍さゆえに開眼していない私たちに、「何か見えるか」と問いかけつつ、導いておられるのです。

2.完全な開眼
盲人は、主イエスによって目が開かれていく過程で、「人が見えます」と、その喜びを表しています(24節)。その人とは、主イエスご自身であり、次第に周囲にいた人も見えてきたのでした(25節)。
主イエスは、ご自身の力を表すことによって肉体の目を開かれました。しかし、主イエスが私たちの霊的な目を開くためには、自らの十字架の死という自己犠牲以外の方法ではなさいませんでした。
今も主イエスが語りかけてくださることを聴きつつ、十字架と復活の救いの御業と、主イエスの臨在と導きを「はっきり見える」者とさせていただきましょう。そうするならば、課題や問題ばかりを見てしまう目ではなく、大いなる主イエスを仰ぎ見る目をもって歩み続ける者とされるのです。

教会の起源(2009.5.31)

題   : 「教会の起源」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  2章1節~13節
五旬節の日が来て」とは、イ-スタ-から50日目にあたるペンテコステの日を言います。この日は、キリスト教会の起源として祝いの時でした。また、キリストの救いがあまねく拡大していくという、豊かな霊の収穫の時の始まりでした。

1.神の霊によって  1~4節
「一同が一つになって集まっていると」、突然聖霊が降りました。聖霊は、風が激しく吹くように、神に背を向けて生きていた者に新しい神の命を与え、次から次へと新しい命を生み出していきます。聖霊は、炎のように、私たちの罪や汚れを焼き尽くし、キリストのお姿を私たちの内に焼き付け、私たちをキリストのものとして燃え続けさせてくださいます。そして、聖霊は、舌に象徴されるように、私たちが福音の言葉を語れるようにしてくださいます。
聖霊は、「突然・・・天から・・・一人一人の上にとどまった」のであり、その結果「一同は聖霊に満たされ」たのです。このようにして、教会は、聖霊によって始められたのであり、今も変わらず聖霊が働いておられるのです。

2.神の言葉によって  5~13節
ペンテコステの出来事は、宣教する教会が始まった時でした。聖霊に満たされた人々は、「゛霊゛が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のでした。人々が驚いたことは、各地から来ていた人々の生まれ故郷の国語で、「神の偉大な業」が語られていたことです。この時、「天下のあらゆる国から」の人々によって福音が語られています。しかも、文化・国語・地方性にマッチした形で「めいめいが生まれた故郷の言葉」によって語られています。このように、聖霊が一人一人に降る時、神は私たちをご自身の器として用いてくださるのです。
ところで、聖霊が降ったその時から、教会は宣教の群れとなりました。聖霊の満たしとその支配の中にあったからです。私たちは、失敗や挫折があっても、閉塞感を覚えることがあっても、時が良くても悪くても、宣教する教会を導かれる聖霊の働きに、心と思いを向けていく必要があるのです。

恵みを無にしない(2009.5.24)

題   : 「恵みを無にしない」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコによる福音書  8章1節~21節
主イエスは、「群衆がかわいそうだ」と言われ(2節)、いつも憐れみを注ぎ続けられました。そこから溢れ出た今回のパンの奇跡は、先回のパンの奇跡(6章30~44節)と同様に、主イエスの恵みの御業でした。私たちは、今日も変わらない主イエスの恵みを無にすることはできません。

1.満ち溢れる恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、多くの共通するものがあります。中でも、「残った」パン屑を籠に集めたことは(8節)、神の恵みを無駄しないことを教えています。 ところで、主イエスは、偽善と世俗主義の悪影響が及んで、神の恵みが変質させられることを嘆き悲しまれました。弟子たちが、信仰をもって神の恵みを受け止めることができなくなったからです(11~21節)。
さて、私たちは、神の満ち溢れる恵みを変質させ、信仰によって受け止めることができず、それを無にしていないかと問われます。キリストの救いの恵みは満ち溢れており(2コリント9章18節)、その喜び、慰め、栄光、感謝、希望も満ち溢れています。主イエスに心柔らかくしていただき、信仰の目、信仰の耳を開いていただきましょう。

2.拡大されていく恵みであるから
先回の奇跡と今回の奇跡には、相違点もあります。注目すべきことは、先回は弟子たち方が心配して主イエスに相談しましたが(6章35~36節)、今回は主イエスの方から話しかけておられます(8章1~2節)。
前者は、主イエスが弟子たちの信仰をテストされたことに重きをおき、後者は、弟子たちの異邦人に対する冷淡な態度に対して主イエスが憐れみの御業をされたことに重きをおいています。
私たちは、常に主イエスの御業に満ち溢れ、それが拡大されていくことが求められています。ですから私たちは、今ある全てを主イエスの御手に委ねて、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」(1コリント15章58節)と、神の恵みを拡大させていく使命を果たしていくのです。

受け継がれる祈り(2009.5.17)

題   : 「受け継がれる祈り」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録  1章12節~26節
復活された主イエスは、40日後に昇天されました(9節)。その時から使徒たちは、10日の間、神の約束に従ってエルサレムで過ごしました(4節)。その期間、「心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)のです。

1.信じ抜く祈り
使徒たちは、主イエスが昇天された後、どうすべきかと協議していたのではありませんし、今後の長期計画を練るために集まったのでもありません。ただ、彼らは、エルサレムの「泊まっていた家の上の部屋」で、約束の聖霊が与えられることを信じ(ヘブライ11章6節)、祈り待ち望みました。しかも、「熱心に祈っていた」と、祈りに打ち込んでいたのです。10日間祈りは、彼らにとって信仰の試される期間でした。
キリスト教会の歴史は、信仰による待望の祈りを体験した人たちによって進められてきました。それは、私たちの教会にとっても例外ではありません。祈る時間がないほど忙しいスケジュ-ルになって、優先順位を間違えないようにしたいものです。祈りに忙しい教会であらせていただきましょう。

2.一致して心注ぎだす祈り
ここには、使徒たちだけではなく、主イエスに従ってきた人たちが集まり、「心合わせて」同じ心で、祈りに打ち込んでいます。ここでの彼らは、主イエスの救いの御業が何を意味するのかを問い直し、自らを吟味し、悔い改め、罪を言い表し、互いに赦しあう時となりました。真の一致は、主イエスの十字架のもとで、真実な悔い砕かれた心を注ぎだすところから生まれてくるのです(ヤコブ5章16節)。
さて、12使徒の補充のために選ばれたのは、他の使徒と行動を共にした「主の復活の証人」でした(21~22節)。そのために人々は、祈って、「すべての心をご存じてある」主に判断を委ねています(23~24節)。
祈りは、教会が進んでいく上で、人ができる最善の備えです。こうした祈りこそが、いつの時代にも、いかなる状況下にあっても、受け継がれていくのです。