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Kobe Central Church

恵みの確かさ(2009.12.6)

題   : 「恵みの確かさ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 1章1節~17節
私たちは、イエス・キリストに現わされた神の恵みに出会い、その恵みに生かされている者です。たとえ、私たちが打ちのめされそうな中を通されても、その恵みの確かさは変わりません。「イエス・キリストの系図」と言われるこの箇所に、その根拠を見い出すことができます。

1.真実な神ゆえに
イエス・キリストは、アブラハムに約束された祝福を成就させるために、またダビデに約束された真の王となるために来臨されました。そして、そこに明らかにされている系図には、時や場所を越えて、神の福音が秘められています。神の民が高められていく時代、また衰退していく時代、そして暗黒の中で救い主を待望する時代と特徴づけています。そのような様々な歴史を変遷しながら、神は約束を忘れることなく、ついにキリストにおいて全ての人々に救いがもたらされたことを明らかにしておられるのです。神の真実が、この系図を通して言い表されているのです。
神は、御自身を裏切ることのない真実な方です(2テモテ2章13節)。この神の真実が、私たちに慰めと希望を与えるのです。

2.愛の神ゆえに
この系図の中に、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻の4人の女性が記されています。彼女たちは、不義の罪を犯した人や神の祝福を受けられないと思われていた異邦人でした。また「ウリヤの妻」と語られたのは、ダビデの罪が明らかにされるためでした。男女間の節操だけではなく、神に対する節操はどうか、とも問われています。このようにして、一人ひとりが神の御前に罪人であることを明らかにされたのです。
そこで、全く罪も汚れもないイエス・キリストが、この罪人を救うために、罪人の一員として系図に入れられる必要があったのです。私たちは、神の御前に罪を悔い改め、その罪の大きさに勝る十字架の赦しの愛を受け入れるならば、神の家族の家系図に記された一員とされるのです(ヨハネ1章12~13節)。この神の恵みの確かさに支えられて導かれる者は幸いです。

恵みを待つ(2009.11.29)

題   : 「恵みを待つ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 11章2節~15節
バプテスマのヨハネが、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。・・・」(3節)と問いかけたことに対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)と答えられました。幸いとして下さる神の恵みは、すでに主イエスによって与えられていますが、さらにその恵みを日々に待ち望む者には新たにされていきます。

1.恵みの主を待つ
バプテスマのヨハネは、主イエスの道を備えることを生涯の使命とした人物でした。しかし彼は、ここでは牢獄に捕えられ、まもなく最後を迎えようとしています。バプテスマのヨハネの弟子たちは、この現実を受け入れることができず、主イエスに疑問を投げかけたのです。主イエスは、そんな彼らがつまずかないように勧められたと考えられます。
ところで、バプテスマのヨハネ自身は、悔い改めることを語り(3章2節)、主イエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ3章29~30節)と証ししてきました。そして主イエスは、神の恵みの世界に罪の支配が挑んでくることを明らかにしつつ、ご自身の十字架の勝利を見ておられます(12~13節)。私たちは、十字架と復活に現わされた主の恵みを仰ぎ見続けることが大切です。

2.恵みの力を待つ
つまずいたのは、与えられた使命が失敗に終わった
のではないかとの疑問を抱いていた、バプテスマのヨハネ自身ではなかったかと思われます。彼は、試練の中にあって、自分が信じてきたことと、経験していることとのギャップに悩んでいたのです。彼が、そのことを主イエスに問いかけたことが幸いでした。それに対して主イエスは、神の恵み、神の救いの力は、もうすでに働いているので、「飼い葉桶に降誕され、十字架に架かるわたしにつまずかない人は幸いである」と語られたのです。
私たちは、様々な試練の中において、主イエスの救いの恵みの力がいつも働いていることを知ることが大切です。そこでこそ、試練に耐える力、愛する力を体験し、その中を生きていくことができるのです(2コリント12章9節)。

永遠の命に生きる(2009.11.22)

題   : 「永遠の命に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章17節~31節
私たちの地上の生涯は、永遠という観点から見れば、一時のことです。この時に、私たちは、「永遠の命を受け継ぐ」こと、すなわち永遠の命を受け取って、それに生きることが何よりも大切です。

1.キリストに愛されているから  17~27節
「ある人」とは、富も地位もある青年でしたが、自分の中に何か足りないものがあることを自覚していました。彼は、誠実に、熱心に、真剣に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねています。それに対して、主イエスは、彼が神の御言葉である戒めに完全に生きていないことを指摘され、人の努力や信心や善い行いで永遠の命を受け継ぐことができないことを教えようとされました。
私たちが「神の国に入る」との救いに与かるには、人の努力では不可能であり、全能の神による以外にありません(23~27節)。ですから、「何をすればよいのでしょうか」と問うのではなくて、何であればよいのでしょうか、と問いかけることが大切なのです。「イエスは彼を見つめ、慈しんで」と、鈍い私たちを愛し抜いておられます。この主イエスの愛の招きに応答して、その愛の懐に陥る者であることが大切なのです。

2.キリストを愛するから  28~31節
私たちが、キリストに愛されていることを体験的に知るなら、その愛に応えたいと自発的に願うようになり、永遠の命に生きる者の新しい生き方が生まれてきます。  主イエスは、「わたしのためまた福音のために・・・捨てた者はだれでも・・・百倍を受け、後の世では永遠の命を受ける」と語られました。このように、永遠の命に生きる者には、今この時に神が備えてくださる祝福があり、さらに永遠につながる祝福があるのです。
私たちは、今も注がれているキリストのまなざしを覚えながら(21節、27節)、これほどまでにキリストに愛されていることを知って、キリストを愛する者にならせていただきましょう。

神は人を用いられる(2009.11.15)

題   : 「神は人を用いられる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 6章1節~7節
教会は、救われた主の弟子が多く加えられていく中で、内にトラブルが生じました。その時教会が、どのような解決の道を与えられ、その結果どう展開していったかが証言されています。そのために、神は教会に人を立てられ、用いなさったのです。

1.御言葉に仕えるために  1~6節
教会に生じたトラブルは、愛の交わりの中で救済の手が差し伸べられていたことに対して、意思の疎通の欠如から「苦情」の声が起こったことでした。これは、教会の存亡にかかわる重大な問題でした。もし、使徒たちが性急に苦情問題だけを解決しようとして、そのことに忙殺されていたら、教会の第一の使命である「神の言葉をないがしろ」にするという危険性があったのです。このようにサタンは、使徒たちを最も大切なことから逸脱させようと巧妙に働きかけてくるのです。
使徒たちは、サタンの計略を見破り、適切な解決策を講じました。彼らが「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ために、愛の業の奉仕をする者を選んだのです。以来神は、キリストが仕えるために来てくださったように(マルコ10章45節)、御言葉に仕える者を求めてこられました。神は、仕える者に信仰と聖霊を満たし、謙虚に神と人に仕える知恵を与え、どこにおいても良い証しを立てさせてくださいます。

2.御言葉が広がるために  7節
「こうして、神の言葉はますます広まり」、主の御業は進展していきました。主の弟子たちは弟子としての役割をもって主に仕え、使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に打ち込むという、教会の本来の在り方が確立されたからです。使徒たちにとって一番伝道しにくい「エルサレム」において、しかも反対勢力の旗頭とも言うべき「祭司も大勢」信仰に導かれたことは、驚くべきことでした。
キリスト教会の今日の課題は、経済問題ではありません。人材問題です。聖霊によって造り変えられ、キリストにのみ仕える人が求められ、用いられるのです。「罪のみを憎み、神のほか何も畏れない者が百人いるなら、世界を動かすことができる」のです。信仰の厚い者にさせていただきましょう。

神の祝福に与かる(2009.11.8)

題   : 「神の祝福に与かる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 27章18節~29節

イサクの生涯の最大の出来事は、モリヤの事件でもなければ結婚のことでもありません。彼が信仰によって二人の子を祝福したことです(ヘブライ11章20節)。今日の私たちは、イエス・キリストの救いの恵みを体験した者として、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の愛と、聖霊の交わりの確かな祝福に与かっています。

1.霊的な祝福である
イサク家の家族画を見ていくと、夫婦・親子・子どもたちは、神の御心に適わないことをしました(25~27章)。アブラハムが神から与えられた祝福は、その子イサクに受け継がれましたが(26章2~5節)、イサクは自分の身を守るために妻リベカを犠牲にしようとする失敗がありました(同6~11節)。彼らの間に与えられた双子のエサウとヤコブには、神の祝福を奪い合うということが起こりました。兄のエサウが長子の権利を弟ヤコブに譲り渡したことを皮切りに(25章27~34節)、ヤコブは母リベカの欺きの手段を用いた策略によって、イサクから神の祝福に与かりました(27章1~29節)。
ともかくヤコブは、神の祝福に与かりたいとの切なる願望がありました。それに対して、イサクは「どうか神が」(27章28~29節)と、神からの霊的な祝福をヤコブに受け継がせたのです。

2.永遠に至る祝福である
神の祝福は、単なる一時的なこの世にある間だけのものではなく、「将来のこと」も含む永遠に至る祝福でした。この祝福が本当に分かると、私たちの人生の用い方、価値判断の基準が変わってきます。
このことは、私たちにとって大いなる福音です。神は、どんなに陰険で罪深く、失敗の多い者であっても、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、それを赦し、きよめてくださり、神の祝福に与からせてくださるからです。
私たちが知ってほしいと願うものは、イエス・キリストの救いに現わされた神の愛であり、受け継いでほしいと願うものは、その神の祝福に与かる信仰です。

柔らかな心(2009.11.1)

題   : 「柔らかな心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章13節~16節
ここには、主イエスが、上から高圧的に力を及ぼすのではなく、同じレベルに立って、ご自分も同じ経験をしつつ引っ張っていかれているお姿があります。このように、主イエスは、柔和で、柔らかな心をお持ちでした。

1.広い心  13~14節
人々は、主イエスの祝福を子どもたちに受けさせたいと願って連れてきました。それに対して、偏狭な考えを持っていた弟子たちは、人々を叱りました。主イエスは、そのような弟子たちを見て憤られ、子どもたちを受け入れ、彼らを抱き上げて祝福されました。祝福しようとされる主イエスが、その祝福がさえぎられた時に、思わず憤られたのです。このように、主イエスの見方と、弟子たちの見方は違っていました。
「神の国はこのような者たちのものである」とは、小さな者、価値がないと見なされている者、また弱さ、無力、未熟さを持ち合わせている者が招かれ、受け入れられるということです。ここに、主イエスが柔らかな心、すなわち広い心を持っておられたお姿を見ます。私たちは、主イエスの祝福をさえぎって、子どもを含む多くの人を退けていないかと問いかけられています。広い心は、キリストからのものです。

2.貧しい心  15節
「子供のように」とは、子どもっぽいとか、子どものようにわがままでもよいという意味ではありません。「神の国を受け入れる人々」です。それは、「心の貧しい人々」であり(マタイ5章3節)、神のみに頼って生きる人です。すなわち、神抜きで生きていける、自分で自分の罪や死の問題を解決できると思いあがっているのではなくて、これらのことはイエス・キリストの十字架と復活の救いに頼るしかない、そこに身を置くしかないという貧しい心を持っていることです。
私たちは、子どもたちを絶えず主イエスのもとに連れてきて、祝福に与からせたいものです。そのためには、私たち自身が、主イエスの祝福の中に身を置き、謙って、ひざまずくことが大切です。この柔らかな心をもって、子どもたちのところに、家族のところに、共に生きる者のところに遣わされて行くのです。

ただキリストのみ(2009.10.25)

題   : 「ただキリストのみ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 5章 27節~42節
危機の時は、私たちを根源的なものに目を開かせ、そこに立ち返らせてくれます。使徒たちは、繰り返し福音を語ることを妨害され、迫害されました。彼らは、そうした状況下で、いかなる時にも「ただキリストのみ」という信仰の原点に立ち返ったのでした(29節、41節)。

1.キリストに従う
ペトロは、ここでもキリストの十字架と復活の救いを力強く証ししています。さらに、「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」と大胆に語りました(30~32節)。先にも福音を語ることを禁じられましたが、ペトロたちは神に従い続けました(4章18~20節)。今回も、その姿勢は変わっていません(29節)。それは、時の良し悪しや、命の安否を度外視してのものでした。
聖書は、時が良くても悪くても御言葉を語り続けることを命じています(エフェソ5章16節、2テモテ4章1~2節)。私たちは、神に従うことにより聖霊に満たしていただき、力強いキリストの証人として用いていただきたいものです。

2.キリストのために苦しむ
神は、使徒たちを危機から逃れさせるために、時に応じて様々の手段を用いられました。今回は、鞭打ちの刑と再度の伝道を禁止することを言い伝えられて釈放されましたが、それでも福音を語り伝えたのです(38~42節)。
キリストの復活の力を知っている者は、キリストの苦しみにあずかりつつ、絶えず御言葉を宣べ伝えるのです。そこでこそ、キリストと共に、キリストのために苦しみ、そして栄光をキリストと共にするのです(ロ-マ8章14~17節)。これが、キリストに信仰によって結び合わされた者の特権です。
キリストは命をかけて私たちを愛してくださり、救いに招き入れてくださいました。そして、キリストとの交わりに生きる者としてくださいました。このキリストのために苦しむことを喜びとしたいものです。

真理を求めて(2009.10.18)

題   : 「真理を求めて」   宣教:   二宮 一朗  牧師
聖書  : ヨハネ 8章 31節~32節
わたしは小学生の時に熊野教会学校に導かれ、中学生になって神戸中央教会に導かれました。すぐに教会に来なくなりましたが、2年生の秋に三宮で開かれた特別伝道集会で神の愛に感動し、主イエスを信じ救われました。
その時、中学生ながら感じたことは、「真理を知った!」という静かな確信でした。主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)「…真理はあなたたちを自由にする」(8:31)。

1.人は、真理を求めて
人は、確かに、真理を求めています。裁判で真実を追求するように、人は生きる意味を求め、人世と永遠について真理を求めてきました。真理とは、虚偽・錯誤の対語で、本当の事、隠されていない事、人間を自由にさせる実在、真実な方を表わします。しかし、残念ながら、オーム真理教が示すように、多くの偽物や不確かなものが、世に溢れています。何故このようになったのでしょうか。

2.神は、真理を啓示された
神は、世の初めに天地宇宙を創造され、人を創造されました。そして、大自然の中に御自身を表わされ、人には霊を与え、永遠を思う思いを与えられました。ですから、世界中の人が自然界に触れ、神の存在を感じ、宗教が生まれています。その心は尊いものです。しかし、神や人世についての真理は自然観察と人の知恵だけでは明白にはわからず、様々な観念や宗教が生まれました。
そういう中で、神が人類を愛して御自身を明確に表わされたのが、聖書であり、イエス・キリストです。聖書は語ります、「(聖書の)み言葉の全体は真理です」(詩篇119:160口語訳)。
主イエスは言われました、「わたしは…真理」(ヨハネ14:6)。

3.真理はあなたに語る
真理である聖書とイエス・キリストは、明白に語ります。神の愛と計画、人の罪、主イエス・キリストの十字架による罪の赦し、イエス・キリストを信じるなら永遠の命を得、神との交わりが始まり、永遠の御国に行けることを。
しかも、イエス・キリストは御自分を信じて従う者に約束しておられます、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

真理とは何か(2009.10.18)

題   : 「真理とは何か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : ヨハネ 18章 37節~38節
「真理とは何か」とは、人類始まって以来、あらゆる分野で問いかけられてきたことです。多くの人たちは、その答えを得られないでいますが、聖書は答えを明らかにしています。
『わたしは・・・真理であり・・・』と、キリストご自身が真理そのものなのです。真理には、以下の二つの要素が必要です。

1.普遍であること
真理は、絶対かつ普遍なるものです。真理であるならば、誰にでも、どこにおいても、いつの時代でも、適用され当てはまるものです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世にきた」と言われるキリストこそが、私たちの普遍的な問題である罪と死に対して、唯一解答をお持ちのお方なのです。
私たちの罪が償われるために、キリストは十字架で贖いを成し遂げてくださいました。この事実を「私のため」であったと信ずる時に、全ての罪は赦され、救われるのです。私たちが死の支配から解放されるために、キリストが復活されました。この事実を「私のため」と信ずる時に、死に勝利することができるのです。ここに、私たちの揺るがない望みがあります。

2.不変であること
真理であるとは、不変かつ永遠なるものです。それは、「わたしは・・・真理であり・・・」と言われるキリストに見い出すことができます。まず、キリストの御言葉は不変です(マタイ24章35節)。これまでキリストが語られたことは、一つもたがわず成就してきました。このキリストが私たちを救うと言われたことは、永遠に変わらないことなのです。さらに、キリストは永遠から永遠まで存在されるお方です(ヘブライ13章8節)。ですから、キリストは、誰でも、いつでも救うことができるのです。そして、キリストの愛は不変で、完全です(1ヨハネ4章10節、18節)。このキリストの愛は、私たちの態度や状態によって変わることはありません。
信仰とは、あてにならない自分に頼るのではなく、どんな時でも真理であられるキリストを信頼して生きることなのです。

私たちの交わりは本物か(2009.10.11)

題   : 「私たちの交わりは本物か」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 5章12節~16節
教会は、いかなる時にも「心を一つにして」集まり(12節)、聖徒の交わりを培ってきました。その交わりは、同じ三位一体の神を信じ、同じ救いに与かり、共通の礼拝・御言葉・使命・栄光・倫理を共有しています。この点において、わたしたちの交わりは本物となっているでしょうか。

1.主に贖われた者の交わり
教会が、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」(13節)と証言されているように、そこには、キリスト者でなければ決して入っていくことのできない明確な性質がありました。それは、キリストの十字架の血によって贖われた者たちの持つ(1ヨハネ4章10節)、とてもこのままでは仲間にはなれないという潔さ、輝き、一致があったというのです。
誰でもがそのままで加われるとしたら、それは真の教会の交わりではないのです。

2.周囲から尊敬される交わり
民衆は、その交わりが自分たちとは違うと思うほどであったので、その交わりに加われなかったのです。同時に、「民衆は彼らを称賛していた」のです(13節)。
たとい私たちが、内部では固い結束を保っており、大きな活動をしたとしても、周囲の人々から尊敬されない、称賛されないとしたら、その交わりを反省してみなければならないでしょう。神よりも人を見る日本において、この点は特に大きな意味を持っています。

3.救われる男女が加えられる交わり
続いて、「多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」(14節)とあります。一人もそのままでは交わりに加われなかったのですが、罪を悔い改め、キリストを信じた人々は、結果的にはその交わりに加わるようになったのです。ここに、教会の交わりが本物であった証しがあります。
私たちの交わりは、皆が同じ方向に向かっている交わりです。それは、同じ神に向かって献げる礼拝と、同じ使命に生きる福音伝道に生きる交わりです。

教会、聖なるもの(2009.9.27)

題   : 「教会、聖なるもの」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 使徒言行録 4章32節~5章11節
教会は、いかなる状況下に置かれても、福音宣教とそこに生み出される交わりに生きてきました(2章42節)。その教会の聖なる交わりは、どのようにつくられていくのでしょうか。

1.キリストを証しするための交わり  4章32~37節
「すべてを共有していた」(32節)とは、教会がこだわることの一つでした。具体的には、自発的に持ち物を共有するということでした(34~37節)。教会がそのように導かれたのには要因があります。一つには、「信じた人々の群れは心も思いも一つ」にされて、聖霊に導かれる一致があったからです。もう一つには、信じた者は、キリストの救いによって主なる神のものとされたので、一切のものを神の管理者として正しく用いるように任されていたからです。
こうした聖霊による信仰の一致と愛の配慮は、教会が聖なるものとされている姿を表わしています。しかし教会は、そうした交わりだけを目的とするのではなくて、必然的に宣教の原動力となる交わりなのです(33節)。キリストを証しする宣教に至らない「聖なるもの」はないのです。

2.聖なるものにする交わり  5章1~11節
教会は、こうした宣教の交わりが豊かになっていくと、サタンの挑戦を受けることがあり、手術するように痛みを乗り越えていく経験をするものです。
アナニヤとサフィア夫妻は、共謀して偽りと欺きの罪を犯しました(1~2節)。教会は、愛と赦しの恵みの中に生きつつ、その罪を排除するために断固とした処置をとりました(1ペトロ4章17節)。これほどの裁きを招いた重い罪とは何なのでしょうか。サタンに心を奪われて、聖霊を欺いた罪でした(3節)。また、神を欺いた罪でした(4節)。そして、キリストの体なる教会を欺いた罪でした。その結果、教会のこと、宣教のこと、他者のことが顧みられなくなったのです。
私たちは、どれだけ教会を「聖なるもの」と自覚して信仰生活をしているでしょうか。「聖なるもの」抜きの宣教はないのです(11節)。

最大の価値(2009.9.20)

題   : 「最大の価値」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章42節~50節
主イエスは、「神の国の福音」が拡げられるために(マルコ1章15節)、集中して力を注がれ、御言葉を語られ、弟子たちを訓育されました。ここでは、神の国に入り、神の国に生きることが最大の価値あることであり、それを失うことは最大の損失であることを明らかにされたのです。

1.神の国に入る  42~48節
神の国は、一人ひとりか重んじられるところです。そこで主イエスは、「小さな一人をつまずかせ」神の国に入れなくすることは、大きな罪であると指摘されたのです(42節)。また主イエスは、その人自身が「神の国に入る」こと、また永遠の「命にあずかる」ことをつまずかせるものを持っているならば、それを思い切って捨てるように戒められました(43~48節)。
主イエスは、私たちが滅びの支配にいたところから恵みの支配に入れられるために、十字架に架かることにより、私たちに代わって捨てられ、滅びを経験して下さいました(マルコ15章34節)。私たちは、主イエスの恵みを受け入れることをつまずかせているものを捨てて悔い改め、福音を信じるのみです。

2.神の国に生きる  49~50節
神の国に入れられ、神の国に生きる者は、「地の塩」としてこの世の防腐剤のように、この世に浸透して塩味つけるように感化を与えていきます。人は神によって備えられた「火」すなわち試練を通されることによって、地の塩として感化を発揮していきます(49節)。
また、「自分自身の内に塩を持」つとは、神の恵みとその御言葉に支配されて、「塩で味付けられた快い言葉で語り」(コロサイ4章6節)、その結果「互いに平和に過ごす」ようになるのです(50節)。主イエスが導かれる道は平安な道です。大切なことは、私たちの内にある自我がキリストと共に十字架につけられ、キリストと共によみがえって新しい人として生きることです。
神の国に生きる者は、この価値ある生き方を身につけているのです。

冒険する心(2009.9.13)

題   : 「冒険する心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : 創世記 25章7~10節  ヘブライ 11章8~16節
私たちは、その信仰の旅路において新しいものに触れ、新しくされることに踏み込んでいくことを神から期待されています。こうした冒険をしたのが、信仰の父と言われたアブラハムです。信仰の冒険は、どこから生まれてくるのでしょうか。

1.全能の神への信頼から
アブラハムは、神からの未見の呼び声と挑戦を受けました(ヘブライ11章8節)。彼は、その召しに「信仰によって」従っていきます。それは、次から次へと放棄していく生活、一つ一つの執念を断ち切っていく生活でした。
私たちは、こうした信仰の危機に直面すると、疲れたり、弱ったり、確信が揺らいだり、信仰の活力を失ったりします。そうした時こそ、私たちは、全能の神に信頼し、「信仰によって」冒険する心を回復していただく必要があるのです。
礼拝は、自らの損得勘定や人生設計をカッコに入れて、神の御前に立つときです。そして、神に信頼しているゆえに、神の御言葉に従うときです。そこから、神の招きに踏み出し、信仰の力に溢れさせていただき、信仰の冒険へと駆り立てていただくのです。

2.永遠の栄光への望みから
信仰の冒険は、病に倒れて再起は難しく、死を待つばかりというときでも、なお新しくされることに踏み込んでいくことです。それは、アブラハムたちのように、「喜びの声をあげ」、神が準備してくださっている「天の故郷を熱望」することです(ヘブライ11章13節、16節)。
アブラハムが死を迎えたときの記述には、明るい信仰的な響きと揺るぎない望みがあります(創世記25章8節)。それは、神が計画し定められた信仰の歩みを走り抜き、永遠の栄光への新しい出発があることを言い表しています。
神は、自ら人となって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。私たちは、この神の冒険に対して、信仰をもって応答し、神の都を目指して歩む信仰の冒険者なのです。

愛の広さ(2009.9.6)

題   : 「愛の広さ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 9章38節~41節
主イエスは、ガリラヤを通過してエルサレムへの道を歩み続けながら、弟子たちに必要な訓育をされました。この箇所では、キリストの愛に根ざした広い愛は、どうすれば培かわれていくかを語っています。

1.キリストの側に立っているなら  38~40節
ヨハネは、主イエスの名を使って業をしている者が「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」、と報告しています。このヨハネの熱狂的な姿勢には、誤った仲間意識、偏狭で独善的な分派心があり、主の御業を妨げるものでした。
それに対して主イエスは、たとえ仲間でなくても、主イエスの名を慕い、その名を使って業をしているのであれば、「わたしたちの味方である」と穏やかに語られました。主イエスは、キリストによって、キリストのためになされているかどうかを問われるだけで、そのような広い愛の心が大切であることを教えられたのです。
私たちは、キリストに結び合わされた者としてキリストの側に立ち、キリストの愛をもって互いに受け入れ合う愛の広さと、互いに謙遜をもって仕え合うたくましさが必要なのです。

2.キリストの心をもっているなら  41節
主イエスは、無きに等しいと思われている小さな者に対しても、愛を注がれました。そのキリストの名のために成される愛の業は、たとえ小さなことであっても祝福されました。
主イエスが、最も大きな広い愛を注がれたのは十字架においてでした。この愛に生かされているにもかかわらず、私たちの愛は小さなものになりがちです。私たちが、キリストにある広い愛を培っていただくのは、「すべての聖なる者たちと共に」教会に生きることによってです(エフェソ3章17~19節)。愛は、教会の互いの間で培われ、それが教会の外にも拡がっていくのです。
私たちは、教会を愛し(詩編26編8節)、温かい愛の拡がりをつくり出していく聖徒の群とさせていただきましょう。

愛の絆(2009.10.4)

題   : 「愛の絆」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マルコ 10章1節~12節
結婚や離婚をどう考えまた対処するかは、私たちにとって絶えず試みられる課題です。結婚は、新しい愛の誕生であり、男女が互いに引きつけ合うということ以上に、互いが結び合わされる愛の絆を持つことです。

1.神の創造の秩序に立つ  6~9節
ファリサイ派の人々は、旧約聖書を用いながら離縁について主イエスを試みました(2~4節、申命記24章1節)。主イエスは、彼らの自分勝手で、聖書に従おうとしない心の頑なさを指摘されました(5節)。
続いて主イエスは、神の創造の秩序について語っておられます。まず、創造主である神が、人を男と女とに造られたので、そこに互いの尊厳があるということです(6節)。従って、一方的に離縁をすることを否定されました。さらに、神が男と女を結び合わされて、二人で一人として生きる新しい関係を造られました。それは、親子の関係よりも優先されるものです(7~9節)。
このように、神の御前における結婚に表される愛の絆は、神がつながれたものであり、決して離してはならないのです。

2.キリストの贖罪愛に立つ  5節
主イエスが、純粋かつ妥協をゆるさない断固とした口調で語られたのには、理由がありました。私たちは、結婚、離婚、再婚に際して、人間の罪の姿が表れやすく、利己的になりやすいからです。そして、神が祝福の基にしようとしておられる家庭に混乱をもたらしやすいからです。「あなたがたの心が頑固なので」とは、今日の私たちにも語られているのです。
私たちの頑なな心が砕かれるのは、キリストの十字架による贖罪の恵み以外にありません。ですから、キリストの十字架が、夫婦の間のみならず互いの間に、いつも立て続けられている必要があります。私たちは、そこで御言葉を聴き続けるのです。
結婚愛に代表される愛の絆は、キリストの十字架の血潮の恵みによって培われていくのです(ヨハネ13章1~30節)。