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Kobe Central Church

真実であれ(2010.3.7)

宣教題   : 「真実であれ」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 11章12節~19節
受難の道を歩まれるキリストは、エルサレム入城の翌日に理解しがたい行動をとられました。それは、実のないいちじくの木を呪い、荒々しく神殿をきよめられた出来事です。そこには、キリストご自身の失望と怒りが現わされているのですが、その根底にはキリストの真実が秘められていました。

1.真実を見抜かれるキリスト
キリストは、葉だけを茂らせて実のならないいちじくの木を枯らせてしまわれました。それは、神の民が過越祭という神への熱心な礼拝をささげているにもかかわらず、神の民としてふさわしい実を結んでいないことを教えようとされた行動であり、そこに潜む偽善を明らかにされたのです。続いてキリストは、神殿におけるささげ物の売買や両替がなされていることの中に、「それを強盗の巣にしてしまった」と偽善の罪が横行していることをあばかれました。キリストは、そのような偽善がご自身を十字架につけてしまうことを見抜いておられたのです。
さて、キリストが十字架において命を投げ出してくださった事実には、偽りのない愛が現わされています(ロ-マ12章9節、1ヨハネ3章16節)。このキリストの真実な愛が私たちを真実な者に変えるのです。
2.真実を求められるキリスト
真実を見抜かれるキリストは、私たちに真実を求められます。
まず「わたしの家」とは、今日の教会です。そこはキリストと交わり、神を礼拝する「祈りの家」です。このことを忘れてしまうと、私たちは自分の考えや感情を満足させるために神を引き合いに出して利用するようになってしまいます。このことに関しては、絶えず信仰の目覚めをいただいていることが大切です。
また私たちは、キリストの十字架の贖いによって「聖霊が宿ってくださる神殿」とされました(1コリント6章19~20節)。ですから私たちは、日々にキリストの愛と真実に支配されて、神のものとして生きることが求められているのです。そのようにして、真実な信仰の歩みが造られていくのです。

キリストを見る(2010.2.28)

宣教題  : 「キリストを見る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 7章54節~60節

キリストの福音に敵対する人々の罪を指摘したステファノに向かって、人々は激しい怒りを燃やし、憎悪をむき出しにしています。そのような時でもステファノは、死からよみがえって、いつも生きておられるキリストを仰ぎ見て生きていました(55~56節)。

1.キリストによって勝利者とされる
「天を見つめ」ているとは、いかなる時も主なる神を信じ仰いでいるということです。その結果、ステファノは父なる神の右に立っておられる復活のキリストを見たのでした。聖霊に満たされるならば、人の憎悪や問題の中にあっても、見なければならないキリストが見えてくるのです。
その時ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)と、キリストを信頼して祈っています。彼は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)と叫ばれ、十字架上で救いを成し遂げて勝利されたキリストを見ていたのです。十字架のキリストを見る時、私たちの罪は赦されて滅びることはありません。復活されたキリストを見る時、死が私たちの終わりとなることはありません。キリストによる罪と死に対する勝利者とならせていただけるのです。

2.キリストに似る証人とされる
さらにステファノは、自分が見たものについて人々にも呼びかけ、証しをしています(56節)。それに
対して、人々は聞く耳をもたず、それを否定しようとしました(57~58節)。
そんな中でステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)と執り成しの祈りをささげました。これは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と相通じる祈りです。赦すということには、実に大きな力がいります(コロサイ3章13節)。今も生きておられるキリストを見つづける者は、キリストの十字架によって赦していただいたゆえに、赦すことにおいてキリストのようにならせていただけるのです。

柔和を身に帯びて(2010.2.21)

宣教題  : 「柔和を身に帯びて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ  11章1節~11節
主イエスは、十字架を目指してエルサレムに入城されました。人々は主イエスのそんな決意も知らないで、「ホサナ(どうかお救い下さい)」と、王を迎えるように歓呼しています。
この出来事について旧約聖書の預言者は、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる」(ゼカリヤ9章9節)と、柔和を身に帯びた平和の王の入城であったと語っています。

1.卑しめられた受難のキリスト
主イエスは、人々が期待するような地上に新しい権力を打ち立てる戦いの王ではなく、わざわざ「子ろば」に乗って、柔和で平和をもたらす救い主としてのお姿を表わしておられます。
ところで「柔和」という言葉には、高ぶらないで謙った、卑しめられたという意味が含まれています。主イエスが最も卑しめられたのは、受難のしもべとして十字架にお架かりくださった時でした。そこには、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(1ペトロ2章22~24節)と、愛のゆえに黙しておられるお姿があります。この主イエスの柔和が、私たちを罪と死と滅びから救い、生かす力となったのです。

2.こころ砕かれた謙遜なキリスト者
人々は、主イエスを王として迎え入れたのですが、キリストについての理解が欠けていたために、数日後には主イエスを裏切り、「十字架に架けろ」と叫んで豹変してしまいました。彼らは、自分が持っていた先入観でキリストを理解し、自分が納得できる範囲でキリストを受け入れたのですが、そうでない場合は切り捨てようとしたのです。ここに人間の罪の姿があります。
私たちは、自分の主張やわがままにしがみつかないで、聖書が証言しているキリストご自身をそのまま受け入れ、心砕かれて従っていきたいものです。柔和なキリストが私たちの全てを支配してくださるとき、私たちは謙遜で柔和な者に造られていくのです。

信仰の目覚め(2010.2.14)

宣教題  : 「信仰の目覚め」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 創世記  28章10節~22節
ヤコブが、旅の途中の荒野で過ごした夜の出来事です。彼は父との死別の悲しみ、兄を裏切った心の痛み、いつも傍にいて守ってくれた母との別れの悲しみ、旅そのものの恐怖、見知らぬ土地への不安を秘めながら、石を枕にしての野宿をしました。
そのような中で、ヤコブは神と出会い、信仰に目覚めさせられるのです。

1.見上げよ!  10~15節
ヤコブは、この時まで神の話しは聞かされ、神の祝福に与かることに憧れていましたが、神ご自身を個人的に知ることはありませんでした。そんな彼が、神の御名を呼んで助けを求めて眠りについたのではないでしょうか。その夜彼は夢を見て、神を見上げる時を与えられたのです。
まず神ご自身が、ヤコブの暗い孤独な現実へ下ってこられたことを見ました(12節)。また、神ご自身がヤコブの傍らに立っておられるのを見ました(13節)。そして、神ご自身がヤコブと共にいてくださり、守り、見捨てることはないとの力強い約束を見聞きしました(15節)。
私たちは、いかなる時であっても、この神を見上げることを忘れてはなりません。

2.目覚めよ!  16~22節
ヤコブは、夜の眠りからの目覚めと同時に、信仰の目覚めを経験しました(16~17節)。そして、その場所を聖別し、信仰の記念としました(18節)。さらに、神のヤコブに対する約束に対して(20~21節)、ヤコブは神に誓願しています(22節)。その誓願は、神が約束されていることが実現すると堅く信じつつも、不安な気持ちの入れ混じったものでした。
ところでヤコブは、信仰を目覚めさせられた場所を「ベテル(神の家)」と名付けています(19節)。そこから信仰の歩みが始まったヤコブは、そこに戻ってきて礼拝をしました(35章3節)。このベテルこそ、今日の教会です。そしてイエス・キリストが、天に通じる唯一の階段となってくださいました(ヨハネ1章51節)。私たちは、神の臨在とその守りの中を御国を目指して歩んでいるのです。

教会に生きる(2010.2.7)

宣教題  : 「教会に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  20章17節~35節
キリストとの出会いがその人のキリスト観に、教会との出会いがその人の教会観に影響を与えます。さて、神が御自身の血をもって贖い「御自分のものとなさった神の教会」とは、どのような群れであり、また私たちはそこでどのように生きていくのでしょうか。

1.キリストを宣証する群れ  18~27節
パウロは、謙遜と愛と忍耐をもって、ひたすらキリストに仕えました。そのためには、どの人にも分け隔てなく、ありとあらゆる方法を用いて神の恵みの福音の全てを証しし宣べ伝えました。そして、その任務を果たすことで十分であると語っています。このように、パウロが謙遜かつ大胆になれたのは(19節、24節)、全ては神の憐みであり恵みであると自覚していたからです。(1テモテ1章12~17節)。
私たちが教会に生きるのは、このようにキリストを証しし宣べ伝えるためです。

2.聖霊によって牧される群れ  28~31節
教会は、キリストの血によって贖われ、神のものとされた人によって構成されています。ですから「神の教会」は、神のものなのです。聖霊は、教会を神のものとさせないようにする働きかけから守り、また牧する監督者を任命されます。そうするのは、群れの一人ひとりが神への礼拝と奉仕がささげられるようにするためなのです。
私たちが教会に生きるのは、聖霊によって牧される群れが建て上げられ、一人ひとりが整えられていくためです。

3.神の御言葉に立つ群れ  32~35節
神の御言葉は、信仰者を造り上げる力があり、教会の基礎を固めていきます(9章31節)。また、永遠の命の恵みを受け継ぐまで導く力があります。ですから信仰者は、神の御言葉を信頼して、自分も他者も御言葉に委ねるのです。パウロは、「受けるよりは与える方が幸いである」との神の御言葉に委ねる生き方を証ししています。 私たちが教会に生きるのは、神の御言葉に立って生きることの幸いを知り、学び、体得するためです。

御霊によって歩く人々(2010.1.31)

宣教題  : 「御霊によって歩く人々」   宣教:   横田 武幸  師
聖    書  : ガラテヤ 5章16節~26節

信仰生活においてしばしば「目から鱗」の体験をすることがあります。今朝のテキストもわたしにとって、心の目が開かれる御言葉です。「喜びの音信、福音」です。御霊によって歩く時、肉の欲の支配から解放されます。また御霊によって歩くものには、「御霊の実を結ぶ」ことができます。

御霊の実とは何でしょうか。信者の人格の中に起きる人格の変化です。それは一瞬に起きるものもありますが、徐々ではありますが確実な変化が起きるものであります。
それは人間の修養、努力、研鑽と言うものとは、全然別な出来事です。神の聖霊による人格の変化です。キリストの似姿への変化です。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

「御霊によって歩きなさい」とは何を意味するのでしょうか。
この言葉は、(1)継続、習慣、生活化を意味する現在命令形です。
(2)聖霊によってとは、聖霊に満たされ続けて、聖霊にコントロールされて、聖霊が心と体の「主、王」なのです。「恵みと愛で支配するお方様」に丸一日、丸々一週間主権を明け渡す生活です。
(3)まず初めの一歩が始まれば、次の一歩、もう次の一歩と歩みを続けます。確実に御霊の実を結びます。「初めには、芽が出ます。次に穂が出ます。そして穂の中に「実」が結ばれるのです。
逆の順序を考えていませんか。歩きかけた幼児は、躓きますし、倒れます。しかし立ち上がって歩きます。一回倒れたってあなたの生涯は終わったのではありません。いつの間にか走るものとなり、飛んだり、跳ねたりするようになります。

実を結ぶには、聖霊によって歩むことですが、もっと具体的な表現をすれば、
(1)「御言を聞いて悟る人」は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。
(2)祈りを通して、主に繋がり、主の生命の内住活動を体験します。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」のです。
(3)ペトロは御顔を仰ぎつつ波の上を歩き、一歩一歩確実に進んでいきました。それは、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

御霊の導きに従う者(2010.1.31)

宣教題  : 「御霊の導きに従う者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ガラテヤ 5章16節~26節
私たちが救われ、救いに与かり続け、救いの完成に至るまで、神は恵みをもって導いておられます。この神の恵みを信仰をもって受け取り続ける者は、「(御)霊の導きに従って歩み・・・生き・・・前進」(16節、25節)するのです。御霊の導きに従うとは、どのような状態をいうのでしょうか。

1.御霊の実を結んでいる  16~23節
キリスト者には、二通りの生き方があります。まず、自分中心に歩む者の「肉」の働きは、その結果が明らかとなります。すなわち、堕落した本能をむき出しにして、神にも、人にも、社会にも敵対する罪となって現れます(19~21節)。肉は、このような罪を私たちの内に取りこんでしまうのです。
しかし御霊は、行いとか働きではなく品性の実を結ばせてくださいます。御霊の賜物は、各々その人に相応しく与えられますが、御霊の実は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つ全てを一人の人に結ばせるのです。このように御霊は、常に内から外へと働いて、「御霊の導きに従って歩」む者を造り変え続けてくださるのです。

2.キリストのものである  24~25節
クリスチャンは、「キリスト・イエスのものとなった人たち」です。確かにキリストの十字架が、私たちをキリストのものとしてくださり、御霊の実を結ぶものとしてくださいました。しかし、自らがそうでない現実に気づく時、再び十字架を見上げるのです。その時十字架が、私たちの罪の身代りのためだけでなく、私たち自らがキリストと共に十字架につけられ(2章19~20節)、その「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけて」しまっていることを知るのです。
私たちは、この十字架の恵みを絶えず受け取り直して、御霊の導き従っていくなら、肉の働きは影をひそめていくのです。
キリストのものであり続けるためには、神第一の礼拝生活と信仰生活と教会生活を送ることが大切なのです。

何をしてほしいのか(2010.1.24)

宣教題  : 「何をしてほしいのか」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章46節~52節
主イエスが、「エリコの町に着いた。・・・エリコを出て行こうとされたとき」でした(ルカ18章35節~19章1節を参照)。道端で物乞いをしていた盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と繰り返し叫んだのです。私たちは、このように叫び求める方を知っているでしょうか。

1.キリストの憐みを求める  46~51節
バルティマイが「ダビデの子イエス」と呼びかけているのは、イエスこそ主であることを知っていたからです。彼は、イエスの憐みにすがることを妨害するものがあってもめげないで、また疑い迷わないで執拗に叫び続けました(詩編50編15節)。
この叫びを無視なさらない主イエスは、「安心しなさい。立ちなさい」とバルティマイを呼びよせられました。憐みの主に信頼していたバルティマイは、踊り上がるほど喜び、安心してイエスのところに来たのです。
そこで主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねられると、「見えるようになることです」と即座に答えるバルティマイでした。彼の目は見えるようになり、新しい歩みへと導かれて行きます。イエス・キリストは、人が抱えている悩みなどに答えてくださることを通して、最も大事な人の心と魂の目を開いてくださるお方です。

2.キリストの憐みを信じる  51~52節
主イエスが「何をしてほしいのか」と尋ねてくださったのは、愛以外の何の理由もありませんでした。この主の愛と憐みに対する信仰のあるところに、救いの御業がなされるのです。
バルティマイは、肉眼が見えるようになったことだけで終わらないで、「なお道を進まれるイエスに従」いました。それは、受難の道を進まれる後に従うことであり、十字架上のイエスを仰ぎ見ることだったのです。
私たちは十字架上での神の叫びを聴いて、それが自分のためであったと信じる時に(15章34節)、心と魂の目が開かれます。そしてイエス・キリストに従って行く時に、主の使命に生きる歩みがつくられていきます。

聖霊に満たされて(2010.1.17)

宣教題  : 「聖霊に満たされて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 6章8節~15節
主の弟子たちの中から選ばれた7人は、細やかな愛の奉仕を忠実に励む人たちでした。なかでもステファノは、キリストを証しすることと力ある業を行うことにも忠実でした。彼がそのように歩んだ秘訣は、「聖霊に満ちている」(3節、5節、10節)主の弟子だったからです。

1.健全な主の弟子である  8~10節
ステファノは、「恵みに満ち」ていました(8節)。彼は、救いの完成へと導く神の恵みを無駄にしたくないために、恵みによって主の業に励んだのです(1コリント15章10節)。また、「力に満ち」ていました(8節)。その力は、人をキリストとその救いに導くものでした(1章8節)。さらに、神を畏れ敬う「知恵に満ち」てキリストを証しし、弁明しました(3節、10節)。そして、主なる神に対する全き「信仰に満ちて」いました(5節)。聖霊に満たされるとき、主なる神を讃え、新しい言葉がつくられ、キリストの香りを放つ健全な主の弟子とされるのです(ヱフェソ5章18~20節)。
聖霊に満たされることは、信仰者が自由に選べる贅沢品ではありません。だれにとっても絶対に必要なものなのです。

2.輝いている主の弟子である  11~12節
素直に福音を受け入れられない人々は、ステファノに対して反対や妨害をしました。彼らの怒りは高まって、民衆がそれに加わるように動員され、偽証までさせています(11~14節)。ここに、自分の立場を守るためには手段をも選ばない人間の罪の姿が現れています。しかし、そのような中でもステファノの顔は、「さながら天使の顔のように見えた」のでした(15節)。これは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」との信仰に生きる者の輝きです(ガラテヤ2章19~20節)。
キリストの救いの恵みが届けられるために、神は人を用いられます。しかも、環境や状況や条件に支配されることなく、聖霊に満たされた輝く器を用いられるのです。

逆こそ真(2010.1.10)

宣教題  : 「逆こそ真」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : マルコ 10章32節~45節
主イエスがご自身の受難と復活を予告された際に、ヤコブとヨハネは栄誉と報いを求めました。それに対して主イエスは、「仕える者になり・・・すべての人の僕」になることが、真に偉大な道であることを明らかにされました。仕えるとは、どういう在り方なのでしょうか。

1.キリストの愛に触れ続ける
私たちは、スキンシップや心の触れ合いによってお互いの感性が豊かにされます。聖書には、主イエスが人に触れられることによって御業をなされたり、人が主イエスに触れることによって癒されたりしている場面が多くあります。
ところで、主イエスが来臨された最大の目的は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」でした(45節)。それは、罪と死の虜になっている者を解き放つために、主イエス自らが十字架で血を流して身代金となってくださったのです。
私たちは、自分の決断によって、僕となって神と人に仕えることはできません。いつもキリストの十字架の愛に触れ続け、復活の命に触れ続けることによってのみ可能なことなのです。

2.キリストの謙遜に倣い続ける
主イエスは、「仕えられるためではなく仕えるために」来られました(45節)。私たちは、このキリストの謙遜に倣い続けることによって、僕となって神と人に仕えることができます。これこそが、「偉く」また大きくなることなのです。
この勧めは、ヤコブやヨハネなどの特別な人に対してだけなされたものではありません。「あなたがたの間で」(43節)と、今日の教会に対して勧められているのです。教会は、仕える人と仕えられる人と区分けしてしまう所ではありません。キリストが仕えていてくださることを知る者は、人からの些細なことにも仕えられる恵みに気づき、神と人とに仕える者とされるのです。
私たちは、互いに仕え合う喜びに生きてこそ、互いが大きくなり、真に偉くなるのです。

恵みに応答して(2010.1.3)

宣教題  : 「恵みに応答して」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 第二コリント 5章11節~21節
私たちを生かす原動力は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(14節)というキリストの愛であり、神の恵みです。私たちは、それに対してどう応答するのでしょうか。

1.キリストにあって生きる  17節
私たちがキリストの愛の強い迫りを体験するのは、自らが罪人であるとの強い自覚を覚えた際に、贖い主イエス・キリストの十字架の救いを鮮やかに示された時です。
それは、神に義人と認められる恵みです(21節)。
この恵みは、だれでも、いつでも、キリストにあって、キリストに結ばれて新しく創造された者として生きることです。それは、キリストによらない自己中心の古い生き方ではなく、キリスト中心の新しい生き方をすることであり、この世のものの見方や価値観でキリストを見るのではなく、聖書が明らかにしている見方や価値観でキリストを見ることです(16~17節)。
私たちがキリストの十字架で新しく創造されるならば、「見よ、すべてが新しくなったのである」(口語訳聖書)との歓喜が溢れ出るのです。

2.キリストのために生きる  14節
駆り立てるキリストの愛は、私たちを縛って動けなくするのではなく、新たな方向へ向かわせ前進させます。すなわち、自分自身のために生きる生き方はキリストと共に十字架で死んだのですから、私たちは復活してくださったキリストのために生きるようになるのです(14~15節)。
さらに私たちは、キリストの十字架の贖いによって神との和解の恵みを体験したのですから、キリストの和解の務めに生きるのです。それは、「キリストに代わってお願いします」とのメッセ-ジを携えて遣わされる全権大使です(18~20節)。
私たちがキリストの愛に駆り立てられ、救いの恵みの喜びと感激に満たされ、困難な中でも使命に応えていくならば、それは徒労で終わることがありません。一人ひとり、神の召しに応答していきましょう。

御言葉に生きる(2010.1.1)

宣教題  : 「御言葉に生きる」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録20章32節
私たちにとって必要不可欠なものは、霊的洞察力です。これは、私たちが祈りと聖書の御言葉に聴くことに時間を費やし、それを自分のものにしていく中から備わっていきます。私たちは「聖霊に励まされ」つつ、「御言葉に生きる」ことを大切にしたいものです。

1.御言葉には力がある  32節b
神の御言葉は、神の御心・御計画・御業が証言されていて、生きており、力を発揮します。しかも御言葉は、永遠に不滅で不変の力があります(マタイ24章35節、1ペトロ1章25節)。この御言葉が発動されることによって、全てのものが造られ(創世記1章、ヨハネ1章3節)、保たれているのです(ヘブライ1章3節)。
さらに、イエス・キリスト御自身を証言する御言葉は(ヨハネ5章39節)、私たちを救う力があります。御言葉は、私たちの魂を救い(ヤコブ1章21節)、建て上げ、神の国と永遠の命を受け継がせる力があります(使徒言行録32節b)。
聖書の言葉は「神の言葉」であること、それはただの言葉ではなくて「御言葉」なのであることを覚えて、御言葉に対する敬意を持たせていただきましょう。

2.御言葉に委ねる  32節a
パウロは、御言葉の力に対する信仰があったので、自分自身と自らの信仰生活や奉仕を御言葉に委ねることを知っていました。「恵みの言葉」である御言葉が、彼に恵みをもたらし、恵みをもって導くことを経験していました(1コリント15章10節)。
ですから彼は、神の教会が内外からの危機的状況に置かれる中で(29~30節)、教会と聖徒たちとの別れに際しても、彼らを御言葉に委ねることができたのです。彼は、御言葉に対して絶対的な信頼を置いていたからです。
私たちは、絶えず静まって御言葉に聴き、キリストに出会い、キリストに触れ続けていくことが大切です。そうすることによって、神と御言葉に自らも他者も委ねていくことができるのです。

新たな旅立ち(2009.12.27)

題   : 「新たな旅立ち」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章12節~15節
聖書の中には、多くの旅立ちの記事が記されています。それには、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」学者たちの旅立ち、幼子イエスを抱いたマリアとそれを助けるヨセフの密かな旅立ちがあります。
キリストに出会った者は、神の導きによる新たな信仰の旅立ちを始めるのです。

1.神の導きの確かさ
最初のクリスマスは、喜びや明るさだけではなく、悲しみや暗さもありました。暗さは、キリストを拒絶する姿に現れています。とりわけ、猜疑心の強かったヘロデ王は、幼児虐殺という残忍なことを行いました(16節)。このヘロデに見る罪の性質は、私たちの内にもあります。それは、私たちが自分自身を王として、真の王であるイエス・キリストを拒絶する時に現われてきます。この罪が、イエス・キリストを十字架に追いやったのです。
そのような中にあって、神は御言葉をもってヨセフを導かれました(1章23節、2章15節、23節)。ここに、神の導きの確かさがあります。私たちは、信仰者としての人生の歩みと教会の歩みに、神の強い導きがあることを確認し、そのことを感謝をもって証ししていきたいものです。

2.神の導きへの従順
この神の導きに対して、ヨセフは神に全面的な信頼を置いています。それが、御言葉に対する信仰の従順となって現れています(1章24~25節、2章14~15節、21~23節)。とりわけ、「夜のうちに」とあるのは、ヨセフの敏速に従っている様子がうかがわれます。先が見えない中で、今示されている御言葉に愚直なまでに従うヨセフの姿は、今日の私たちが忘れかけているものではないでしょうか。
絶えず御言葉を尋ね求め、開かれた御言葉の導きに従順に生きることが、信仰者の旅路の在り方です。私たちは、キリストを拒絶して閉め出してしまうのではなく、今この時この所からキリストを自分の全存在と生涯の王座に迎え入れて、新たな信仰の旅立ちをさせていただきましょう。

ひれ伏し拝むクリスマス(2009.12.20)

題   : 「ひれ伏し拝むクリスマス」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 2章1節~11節
クリスマスは、全ての人が神に立ち帰る時であり、また決起の時です。東の方から来た占星術の学者たちは、「拝みに来たのです。・・・ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて・・・贈り物として献げた」(2節、11節)とあるように、この二つの問いかけに応答した人たちです。ここに、彼らの信仰姿勢が明らかになっています。

1.キリストこそ私の神です
クリスマスは、私たち一人ひとりに対して、神が最高の贈り物である救い主イエスを与えてくださった時です(ヨハネ3章16節)。それによって神は、わたしたちを永遠の滅びから、永遠の救いに与からせてくださったのです。
ところで、人はイエス・キリストに対して、次のような三つの態度をとってきました。一つは、ヘロデ王のように、キリストに反感を抱き、抹殺しようとする冷淡な態度です。また、祭司長や律法学者のように、知識は持っていても、キリストに無関心な態度です。これらは、恐れと不安しか残りません。そして、学者たちのように、長い道程を導かれて求道し、御言葉を聴いて信じ、大きな喜びにあふれるという態度があります。これは、キリストこそ神と信じる信仰姿勢です。

2.キリストこそ私の宝です
学者たちは、幼子イエスにひれ伏し拝んで礼拝を献げています。その具体的な礼拝行為が、「宝の箱を開けて」、イエスこそ自分たちの最高の宝であることを言い表したことです。「黄金」を献げたのは、イエスこそはこの世のすべての人を治める王であることを、「乳香」を献げたのは、イエスが神と人間を結ぶ祭司であることを、「没薬」を献げたのは、イエスが十字架の死によって贖いを成し遂げる救い主であることを意味しました。
聖書に見る最初のクリスマスは、誰一人としてプレゼントを受け取っていません。むしろ、イエスに仕え、イエスのために献げる生き方を決断しています。そうすることは、神からの本物のプレゼントであるイエス・キリストを心と生活のすべての領域にいただくことになるのです。何と素晴らしいことでしょうか。

キリストに倣って(2009.12.13)

題   : 「キリストに倣って」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖書  : マタイ 1章18節~25節
クリスマスのメッセ-ジは、神が人を信頼された出来事を語っています。その結果、人が神を信頼し、人と人が信頼する関係に変えられていきます。このような信頼は、神の御旨に従うことによって生まれるのです。

1.キリストの従順
神が人となられたクリスマスは、私たちに希望を与えています。神は、先の「イエス・キリストの系図」に見た人間の罪の現実にもかかわらず、罪からの救い主イエスをお遣わしになったからです(21節)。そのためにキリストは、父なる神の御旨に従って、自ら十字架に架かって血を流し、罪の赦しを成し遂げてくださったのです。それによって、「神は我々と共におられる」という恵みに生きる道が開かれたのです(23節)。
このキリストが私たちの内に来てくださるなら、私たちの生活は一変します。また、キリストが私たちの内に来てくださると、キリストのために何でもするようになります。そして、キリストと共にいるなら、私たちは神のことがよく分かり、それが喜びとなります。

2.ヨセフの従順
ヨセフは、婚約者マリアの妊娠を知って、不信と疑惑で悩み苦しみ、彼女に対する愛に傷ついていたことでしょう。しかし彼は、このことを公然と問題にして訴えることをせず、ひそかに縁を切ることによって、世の人の非難を自分が負う決心をしたのです。彼は、そうした犠牲をもいとわない愛を持つ「正しい人」でした(19節)。
こうした決心の背後には、ヨセフに神の働きかけがありました(20節)。彼は自分の正しい決心を越えて、また自分の不安や恐れに動かされないで、神が語られる御旨に従ったのです(24~25節)。それは、彼が不動の境地を極めたというのではなく、ただ聖霊に動かされて神を信頼したからです。
神を信頼して、神の御旨に従うことが、キリストに倣うことなのです。そうすることによって、キリストの御心に近づく者とされるのです。