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Kobe Central Church

喜びを見る(2012.5.6)

宣教題  : 「喜びを見る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 2章8節~20節

羊飼いたちが救い主との出会いの経験をすることができたのは、神の方から近づいてきてくださり、導いてくださったからでした。それに対して羊飼いたちは、「その出来事を見ようではないか」と応答し、それを聞いた人々やマリアも同じように導かれています。私たちは、今も同じ「喜びの出来事を見る」経験させていただけるのです。

1.熱心をもって  15~17節、20節
羊飼いたちをめぐり照らした光は、彼らを打ち倒すものではなく、彼らのありのままの貧しさにおいて包む光でした(9節)。それは救い主イエス・キリストの光でした。
それに対して羊飼いたちは、この喜びの知らせの出来事を見るために、即座に赴き、救い主を探し当てました。ここに彼らの熱心さがあります。彼らは、それだけで安堵することなく、周囲の人々に精一杯言い広めたのです。遂には、神を崇め、かつ讃えています。ここにも、彼らの素朴な喜びから生じた、誠実さ、熱心さが溢れています。
「さあ、ベツレヘムへ行こう」とは、私たちへの勧めでもあります。私たちのベツレヘムは、主イエス・キリストがおられる所、神がこのお方を通して世と接しておられる所である主の教会です。私たちはここで、主と出会い、主を礼拝し、主の御言葉を聴き、主に遣わされ、主を宣べ伝えるのです。このことに熱心でありたいものです。

2.感動をもって  18~19節
「主が知らせてくださったその出来事」とは、実際に出来事として起こったことであり、またその言葉です(15節、17節、19節)。そのことを聞かされた人々は皆、不思議に思うほどに驚き、感動して受け入れました。一方マリアは、語られたことと自分の内に起こっていることとを繋ぎ合せ、その出来事を黙して集中して考え、静かな感動をもって受け止めました。
この出来事は、主イエス・キリストの十字架と復活に現わされた救いの出来事に繋がります(使徒言行録10章36~37節)。私たちが、その出来事を信仰によって自分自身に当てはめていくならば、驚きと感動が溢れるのです。真の喜びは、神の語りかけを聴く中から、苦しみも喜びに変えられることによって生まれてくるのです。

居場所はどこに(2012.4.29)

宣教題  : 「居場所はどこに」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 2章1節~7節
私たちが神に背を向けて生きていた時、アダムに対してと同じように、「(あなたは)どこにいるのか」(創世記3章9節)との問いかけを神から受けました。そして、イエス・キリストを通して、神のもとに立ち帰ることにより、神と共に生きる居場所を見い出すようになったのです。

1.神の御手の導きによって
本個所のメッセ-ジは、クリスマスの季節だけでなく、私たちがいかなる状況下にあっても聴き続ける必要があります。
主イエスの御降誕は、旧約聖書が預言したように(イザヤ9章1節)、異教の王の支配を受けるという暗闇の状況下で起こった出来事でした。しかし、そのような人間の支配を超えて、歴史を導かれる神が、真の王を明らかにされた時でした。しかも「ベツレヘム」の地に降誕されるという旧約聖書の預言が成就したことによって(ミカ5章1節)、神は見える世界の出来事を見えない神の御手の中に収めて導いておられることを明らかにされたのです。
私たちは、あらゆる出来事が神の導きの御手の中にあることを知る時に、それが神によって備えられた居場所であることを信仰によって受け止めることができるのです。

2.キリストを王として受け入れることによって
主イエスの御降誕の場所が「飼い葉桶」の中でした(7節)。それは、主イエスが私たちのために惨めな貧しい御姿となられたことを表しており、その極みである十字架の身代わりの死につながるものでした。しかし、本当に惨めなのは、主イエスを迎え入れる「場所(余地)」を持たなかった人間の側の姿です。
私たち一人ひとりは、他の人には語りたくない、見せたくない、隠しておきたい醜い罪と恥じを持っています。そのように、飼い葉桶に等しい暗くて寒々としたものを抱えています。主イエスは、そんな私たちを受け入れて、そこをご自身の居場所とされます。ですから私たちは、何ら恥じることなく、大胆にキリストを救い主また王の王として受け入れ、永遠の居場所をキリストに見い出し続ける歩みをするのです。

福音の同労者(2012.4.22)

宣教題  : 「福音の同労者」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録18章1節~4節、ローマ16章3~4節

アテネからコリントに来た時のパウロは、恐れと不安の中にいました(1コリント2章3節)。彼は、アキラとその妻プリスキラと「一緒に」過ごすことを通して励まされ、伝道を共にする「協力者(同労者)」となったのです(ロ-マ16章3節)。「福音の同労者」とは、私たちが忘れてはならない信仰者の在り方です。

1.出会いを通して  使徒言行録16章1~2節
私たちの人生は、誰と出会い、誰と一緒に歩みまた働くかによって大きく変わってきます。ロ-マで復活の主に出会って信仰に導かれたアキラ夫妻は、ロ-マからの退去命令によってコリントに逃れて来ていました。他方、パウロは失意の中にコリントに来ていました。この両者の出会いは、不思議なまでの神の御配剤でした。
この後、交通の要路でもあり、国際色豊かな都市コリントを中心とした宣教は、パウロにとって新たな展開となって行ったのです。
福音は、背後の多くの祈りと普く福音を届けたいとの熱心な計画のもとに、丁度よい時に、丁度よい出会いのもとに展開されてきました。私たち一人ひとりが福音に与かるに際しても、様々な出会いの出来事あったことを忘れないようにしたいものです。

2.共有することを通して  使徒言行録16章3~4節
パウロとアキラ夫妻は、同業者として、親交を深く持ちました。そして、パウロは困難であればあるほど、伝道に対する熱情が沸き起こり、伝道することによって安息を得たのです。この後、アキラ夫妻はパウロの伝道に同行し、エフェソ教会のために福音の種蒔きに従事しました(18章18節以下)。ある時は、危機に遭ったパウロを身を挺して救おうとしました(ロ-マ16章4節)。このようにしてアキラ夫妻は、パウロと共に祈り、共に労し、共に励まし合う信仰の友となったのです(ロ-マ15章30~33節)。
私たちは、違いを持ちつつも、信仰によって与えられた共通の救い・礼拝・御言葉・倫理・使命・目標・所有・敵・戦い・栄光を共有しているのです。互いに、福音の同労者であることを忘れないようにしたいものです。

笑う門には福音が

年の初めに、「笑う門に福音が」というご挨拶をいただきました。
思わず笑ってしまいました。笑えそうにない厳しい年明けだったので、「あえて」という意味をこめてのことだったのかもしれません。
赤ちゃんは生まれてしばらくすると、誰に教えられたわけではないはずなのに、実にあどけない微笑みを浮かべます。これをエンジェル・スマイルというのだそうです。

聖書の中の詩編に、『そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう』と歌われています。この笑いは、束縛からの解放の喜びを表しています。自由とされた喜びの表現です。最近は多くの人の顔から笑顔が消えつつあると言われています。
今こそ、イエス・キリストによって罪やこの世のしがらみから解放されて、ぜひ、笑顔を取り戻したいものです。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

生けるまことの神に立ち帰る(2012.4.15)

宣教題  :「生けるまことの神に立ち帰る」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : テサロニケ信徒への手紙1 1章9節~10節

「神が(イエスを)死者の中から復活させた」(1:10)というメッセージこそ、パウロがテサロニケの人々に伝えた「神の福音」(2:9、1コリント15:3−5)です。旧約聖書の神、イスラエルの神とは全く無関係であった者たちがこの福音を聞き、聖霊の不思議なわざによって(1:5)彼らがその福音を神のことばとして受け入れた時(2:13)驚くべき回心が起こりました。偶像の神々に仕える者たちが、生けるまことの神に立ち帰ったのです。

1.偶像から離れる
偶像の神々と関わり、それらに仕える事なしに、日本同様にテサロニケの町で生きていくことはできませんでした。人々は偶像をおそれ、偶像から利益を得て生活してきたからです。しかし、「イエスを死者から復活させた神」の福音との出会いによって、この生けるまことの神と、偶像との間の雲泥の開きを聖霊は気づかせて下さいます。「私たちが大切にし賞賛しているもの」という偶像、「私たちが避け続けているもの」という偶像、それらと生けるまことの神の違いに、私たちは目が開かれているでしょうか。

2.生けるまことの神に仕える
回心は偶像から離れた者を「生けるまことの神に仕える」(1:9)者とします。この神への信仰(1:8)によって、テサロニケの人々がこの神の所有の民となり、この神に忠実に生きる者へと変えられるからです。ですから、福音に応える回心は、私たちの心のみならず、私たちの生き方を含めたすべてを変えます。もはや「神を知らない異邦人」(4:5)として生きるのではなく、神の所有の民、つまり「聖なる者」(4:3)として生きるからです。
生き方の変化に時間がかかることを私たちは経験から知っています。しかし、「イエスを死者から復活させた神」が私たちを「全く聖なる者」としてくださる、真実な方であると信頼し、祈り求め、歩き始めているでしょうか(5:23−24)。私たちの回心を始めて下さるのも、完成して下さるのもこの神です。

動じない信仰(2012.4.8)

宣教題  : 「動じない信仰」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖   書  : ヨハネによる福音書 20章24節~29節

トマスは、主イエスの復活の出来事を聞かされたとき、自分の主観に閉じこもってしまい、不信仰に陥りました。主イエスは、そんなトマスに向かって、救いの交わりの中に導かれました。ここには、私たちが、どのような交わりに身を置く必要があるかが語られています。

1.聖徒の交わりに身を置く  24~25節
トマスは、主イエスを慕って、主が行かれる所には一緒に行こうとする切なる願いを持っていました(11章16節、14章5節)。しかし、他の弟子たちが復活された主にお会いした喜びの体験を語ったときに(20章19~23節)、そこに居合わせなかったトマスは、自分で見て触れないかぎり「決して信じない」と不信仰になったばかりか、他の弟子たちに対する不信をも抱きました。
トマスの不信仰の原因は、「イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」とあるように、聖徒の交わりの中に自分の身を置いていなかったからでした。
私たちは、聖徒の交わりの中で神とその恵みを味わい、信仰が生み出され、養われ、育てられ、健全に保たれていくのです。

2.主イエスとの交わりに身を置く  26~29節
トマスの「わたしたちは」に動かされない主体的で実証的な特徴は、彼の動じない個人的信仰の下地となりました。復活された主イエスが、八日目に再び弟子たちの所に来られたとき、トマスを極めて個人的に扱われています。彼は主イエスから御言葉をかけられ(27節a)、主イエスに自分の問題点を扱われ(27節b)、主イエスによって明確な信仰告白に導かれ(28節)、主イエスに祝福されています(29節)。
信仰は、「わたしたちは」に動かされないという意味で個人的であることが大切です。復活の主イエスを「わたしの主、わたしの神」と信じる者は、いかなる時にも主との交わりに自分を置き、このお方を「主」とする幸いな勝利者の歩みとなるのです。
私たちが、復活の主イエスを肉眼では見えないのに信じられるということは、何と奇跡的な恵みでしょうか。

愛のぬくもり(2012.4.1)

宣教題  : 「愛のぬくもり」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 12章1節~8節

受難週の直前、主イエスのための晩餐会が開かれました。この席で、ベタニアのマリアが主イエスに香油を注いだことは(3節)、主イエスに愛され(ヨハネ11章5節)、その愛のぬくもりを受け止めた者の真実な愛の業でした。彼女をこのように突き動かした動機は、何だったのでしょうか。

1.主の時を知る
主イエスは、御自分の時をいつも心に留めておられました(ヨハネ2章4節、13章1節、17章1節)。そのように、主イエスが時に向かわれる場合の御心は、弟子たちに惜しみない愛を注がれるというものでした。それは、時を知って、御自身の救いの御業を成し遂げられることでした。
マリアは、その時を知って、主イエスの愛に応答して、純粋かつ一途に「高価なナルドの香油」を注いだのでした。主イエスは、イスカリオテのユダの批判を物ともせずに、マリアのその行為を高く評価されたのです(7節)。
私たちが主の時を知らないで、主イエスに対する愛を失っているならば、今こそ、やり直しのスタ-トをさせていただきたいものです(ヨハネの黙示録2章4~6節)。

2.主の御心を知る
マリアは、弟ラザロを生き返らせていただいたこともさることながら、自分自身が主イエスによって「死から命へと移っている」(ヨハネ5章24節)ことに感謝をしました。
それを身をもって表現したのが、香油を注ぐという純粋かつ謙遜な行為でした。マリアは、主イエスの十字架に現わされる主の御心を深く洞察していたのでした。この彼女の愛の行為は、その香りを周囲に満たし、愛のぬくもりとなって伝わって行ったのです。逆に、イスカリオテのユダは、自分の思いを貫き、主の御思いを軽んじたのでした。
主イエスは、マリアの行為に対して最大級の評価をされています(マルコ14章9節)。私たちは、主の御心を知り、主への愛の業に励むことによって、自分にではなく主に栄光を帰することです。私たちの進む道は、主の御心を知り、そこに身を置くことによって開かれてくるのです。

壮大な任務(2012.3.25)

宣教題  : 「壮大な任務」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 1章57節~80節

人は、「神の憐れみ」の大きさの前に、確かな愛を、確かな結びつきを、そして確かな使命(任務)を見い出すことができます。ザカリアとエリサベト夫妻に託された任務は、壮大なものでした。ただ、それは、信仰者であるならば誰にでも託されている任務なのです。

1.主をほめたたえる
約束どおりに男の子が与えられたことは、ザカリア夫妻だけでなく周囲の人々にとっても大きな喜びでした。彼らは、神から命じられたとおりに、その子の名を「ヨハネ」と名付けました。その時、ザカリアの口は開かれ、神を賛美したのでした(57~64節)。彼は、沈黙を強いられた期間、憐れみの神に委ねるという信仰に導かれ、その信仰をエリサベトと共に分かち合えるほどに強められ、「ザカリアの預言」となったのです。
ザカリアは、旧約聖書に証言されている神の救いの御計画が、イエス・キリストによって確実に進められ、その救いが完成されることをほめたたえています(68~73節a)。それは、イエス・キリストが「あけぼのの光」となって「訪れ」てくださり、罪と死の暗黒の中にいる人々を救い、「平和の道」に導かれることなのです(78~79節)。
私たちに託されている任務は、この救い主をほめたたえることなのです。

2.主に仕える
主をほめたたえるところに、「主に仕え」て礼拝し、神のものとされて聖別された歩みが造られていきます(73節b~75節)。そして、ヨハネのように、「罪の赦しによる救いを知らせる」器として神が用いてくださいます(76~77節)。
人が救い主と出会うために、私たちがいくらかの奉仕をさせていただく中で、主ご自身が働いてくださいます。人の救いを願う私たちの祈りの中で、主がその人に働きかけてくださいます。つたない私たちの信仰の証しの言葉の中で、主ご自身の力が働き、それを聞く人が新しく造り変えられ、信仰告白へと導かれるのです。
憐れみの神は、このような「主に仕える」という壮大な任務に、一人ひとりを招いておられるのです。

主の愛は訴えている(2012.3.18)

宣教題  : 「主の愛は訴えている」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~20節

主イエスは、十字架の死という「御自分の時が来た」ことを自覚され、弟子たちを最後の極みまで「愛し抜かれ」ました。それは、十字架の死に至るまで愛を貫かれ、私たちの救いを完成してくださったことを意味しています。主イエスは、今もこの愛を訴え続けられておられ、私たちにそれに応えるように求めておられます。

1.謙って受け入れる   2~11節
主イエスは、貪欲になって悪魔に振り回されているイスカリオテのユダや後に主イエスを否認するペトロが悔い改めることを願われて、訴えるようにして彼らを愛いし抜かれました。そして、彼らに対して、当時の異邦人の奴隷が行った洗足をされたのです。それは、この後主イエスが十字架の身代わりの死によって彼らの罪を赦してきよめてくださることを象徴する行為でした。
その主イエスの御心を理解できないでいたペトロは、洗足を拒んだり、また的外れな応答をしています。彼は、謙って主イエスとその恵みの御業を受け入れることができなかったのです。
私たちは、主イエスによる救いの恵みと、救われた歩みを全うさせてくださる主の恵みを、謙って受け入れるものとさせていただきましょう。

2.謙って仕える   12~20節
このような主イエスの愛に生きる者は、謙って仕える愛に生きる者に変えられます(14~15節)。そうすることによって、真の幸いと祝福を経験する者となるのです(17節)。しかし、謙って仕える愛を経験しなかったイスカリオテのユダは、悪魔にねらわれる隙がありました。その結果、父なる神、そして御子イエス・キリストを受け入れることができなかったのです(20節)。
私たちが謙って仕える愛を経験するのは、主人や客人ではなく、食卓に仕え、客の足を洗う僕です。教会は、そのことを学び、また経験する神の愛の学校です。主イエスは、謙って私たちに仕えてくださっています。私たちは、この主イエスと結び合わされて、謙って仕える喜びを経験していきましょう。

主がしたとおりに(2012.3.18)

宣教題  : 「主がしたとおりに」   宣教:   水野 晶子 師
聖    書  : ヨハネによる福音書 13章1節~15節

今年もレントを迎えています。このレントの期間、一日一日を主の十字架を思いつつ歩ませていただきたいと思います。主は十字架を前にして、弟子たちと食事する最後の日、特別な意味ある日に何をされたのでしょうか?

1.ご自分の愛を示された。(1節~11節)
時が切迫している中で、イエス様は何よりも弟子たちを愛されました。時を知ることも空気を読むこともできない弟子たちはこの大切な時に、「誰が1番偉いか?」ということに夢中で、言い争いになってその場の雰囲気を台無しにしていました。主は彼らのいやしい姿、自慢好きで、偉くなりたいという欲望も、ユダの裏切りや弱さもみんなご存知でした。彼らがどんな性格であろうと、イエス様は最後まで彼らを愛し抜かれたのです。1番偉いのは誰か?1番高い地位につくのは誰かと争っている弟子たちに、どのようにして主の御心を伝えたらいいのか?主は夕食の席を立ち、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を汲まれ、奴隷となり、膝まずいて弟子たちの足を洗われました。主の御手は嵐を静め、盲人の目を開いた偉大な御手が、体の中で最も卑しく、最も軽んじられている足に触れ、洗われました。一番汚れていたのは彼らの心でした。主はその心に触れられ、清められたのです。主は私たちにも「足を出しなさい」ときよめようと待っていてくださいます。

2.主がなしたことの意味(12節~15節)
イエス様はこの洗足を通して弟子たちにカルバリで起こる事の洞察を与えられました(フィリピ2:5~8)。天の栄光を捨てて、衣を脱ぎ、人となられ、しかも奴隷となり、十字架にまで従われ、手足から血が流され、最後に槍でわき腹が突き刺され血と水が流れ出たのです。この血と水こそ私たちの足を洗う尊い水と血なのです。一人残らず洗ってもらう必要があります。イエス様は「わたしがしたとおりにするように命じられました」。それは下へ下へ降っていく姿勢、互いに足を洗い合う関係が求められているのです。主の愛と謙遜とを身に着けさせていただき、人が生かされ救われるために、人生をかけてキリストが歩まれたように生きるものとならせていただきましょう。

今は悔い改める時(2012.3.11)

宣教題  : 「今は悔い改める時」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録   1章16節~34節

アテネに到着したパウロは、世界の文化人を相手取って福音を告げ知らせました。その伝道説教の結論は、「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じられています」というものでした。神の御心に適った悲しみがもたらす悔い改めは(2コリント7章10節)、どのような神の救いをもたらすのでしょうか。

1.新しく創造される  16~21節
アテネの町の至る所に偶像があるのを見て「憤慨した」パウロは、様々な立場の人々と「毎日」論じ合っていました。なかでも、哲学的・合理的考え方をする者たちは、主イエスと復活についての福音を聞いて、愚かな話しと受け取ったのでした。彼らは、パウロが語ることがどういう「新しい教え」なのかと興味本位な質問をしています。
ところで、パウロが福音を語る時には、時間の経過とともに古くなっていく時間的な新しさではなくて、時間が経過しても決して古くならない質的な新しさという理解をもっていました。私たちが、十字架に死んで復活されたキリストに信仰によって結び合わされるならば、全く質的に新しい者に造り変えられるのです(2コリント5章17節)。今こそ、悔い改めることによって、新しく創造された者とされましょう。

2.祝福された死が始まる  22~34節
パウロは、アテネの人々の宗教心に敬意を払いつつ、聖書が明らかにしている神について宣教しています。まことの神は、天地の主である創造の神であり、人間の命の神であり、歴史を支配される方で、私たちの身近な神であることを明らかにしています(22~29節)。そして、最後に、キリストによる審判の日に際して、キリストが復活されたことが死者の復活の確かな保証であると宣言しています。それゆえに、神に立ち帰ることを迫っているのです(30~31節)。悔い改めてキリストの福音を受け入れる時に、祝福された死の始まりの中に生きる者とされるのです。
今も変わらずに「イエスと復活について福音」が告げ知らされています。まず、悔い改めてそれを受け入れましょう。そして、それを大胆に、確信をもって知らせ続けましょう。

あわれむ神(2012.3.4)

宣教題  : 「あわれむ神」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  1章39節~56節

マリアの賛歌には、共通する神のご性質が語られています。それは、「憐れみ」という言葉に表されており(50節、54節、55節)、神は約束されたことは誠実に果たされるお方です。憐れむ神は、私たちに信仰による変革を経験させてくださいます。

1.神をあがめる信仰  46~50節
神から受胎告知を受けたマリアは、急いでザカリアの家に行きエリサベトに挨拶しました。彼女たちが喜びを共にした時に、マリアに歌が生まれたのでした(39~45節)。
マリアは、測り知ることのできない神の御思い・御計画・御約束・御業に対して、全存在をもって神をあがめ、讃え、自分の身を投げ出しています(46~47節)。そうすることが出来たのは、自分に目を見はるような高貴さや華やかさがないにもかかわらず、神が目を留めてくださり、大いなる救いの御業を進められることを知ったからです(48~49節)。彼女は、神を畏れ敬いつつ、その憐れみを讃えているのです(50節)。
憐れみの神は、罪に汚れ、自らの力で聖なる者になれないことを徹底して自覚する者を目に留めてくださり、神の救いを受け取らせてくださるお方です。私たちは、「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられる」信仰に生きる者とさせていただきましょう(フィリピ1章20節)。

2.生き方を変える信仰  51~55節
マリアは、憐れみの神が人間の価値観を変えてくださることを歌っています。それは、主なる神が現わしてくださった謙遜に生きること(51節)、その御支配に生きること(52節)、主なる神の恵みの豊さに生きること(53節)といった生き方です。神は憐れむことを決して忘れるお方ではなく、一人ひとりを通して、家族に、また周囲にそれを及ぼしていかれるのです(54~55節)。
ところで、マリアとエリサベトは、約三カ月に渡って神の憐れみを喜び合っていたのでした(56節)。そうした共にいる姿、喜ぶ姿、歌う姿は、今日の教会の姿でもあるのです。私たちは、「すべての聖なる者たちと共に」(エフェソ3章18節)、神の憐れみの交わりを共にし、そこに留まり続け、拡げていく生き方をさせていただきましょう。

神の民の魅力(2012.2.26)

宣教題  : 「神の民の魅力」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖   書  : 申命記 4章5節~8節 マタイ 5章16節

人の前ではなく、神の前を歩むことを私たちは重んじています。しかし、人々に見られ、比較されてはじめて、神の民の魅力は明らかになります。ですから、人々の前でどのように生きるかも神の民はいつも問われています。

1.見られる存在として生きる
イスラエルに律法が与えられたのは、約束の地の「真ん中で」(申命記4:5、新改訳)それを行うためでした。さらに、律法に従うイスラエルを通して「諸国の民・・・知恵と良識が示され」(4:6)ます。このように、イスラエルは諸国民に見られる存在として生きる使命が与えられていました。隠されたともしびではなく、光を輝かすランプです(マタイ5:16)。「見せる」のではありません。人々の行き来の激しい場所で、淡々と律法に従って歩む姿が自然と人々の「目にとまる」のです。そして、目にとまって初めて、人々は「すべての掟を聞く」(申命記4:6)ようになるのです。この順序が逆になってはいないでしょうか。

2.比較される存在として生きる
見られ、そしてイスラエルの生き方を示した掟が聞かれたならば、諸国の民は比較を始めます。その生き方が「知恵と良識」(4:6)に満ちているか、主への祈りに信頼した生活であるかが比べられます。最終的には、イスラエルと他の国々ではなく、イスラエルに掟を与えた主が他の神々と比較されます(4:7~8)。聖書に描かれている神の姿、聖書が求めている人、教会、社会の姿は、どこに出しても恥ずかしくないものです。けれども、この聖書に生きるよう招かれている神の民はどうでしょうか。
魅力ある民とは「大いなる国民」(4:7~8)です。しかし、神の民の偉大さは、御言葉を私たちに与えられた主の偉大さであることを覚え、この方を指し示す民としての歩みへと進ませていただきましょう。

御言葉の力(2012.2.19)

宣教題  : 「御言葉の力」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録 17章10節~15節

パウロたちの福音宣教は、テサロニケにおいても、ベレアにおいても迫害に遭いましたが、その度ごとに次の素晴らしい場所に導かれていきました。このように、苦しみに遭い、卑しめられ、貧しくなることは良いなのです(詩編119編71節)。そのとき、福音を語る者も聴く者もともに、御言葉の力を経験するのです。

1.日々の平時において   10~12節
パウロとシラスは、テサロニケにおけると同様に、ベレアでも福音を語りました。ここでのユダヤ人たちは、語られる御言葉に対して、素直に開かれた心で、熱心かつ真剣に聴きました。そして、「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」ほどに探究心がありました。このようにベレアでは、テサロニケ以上に福音に対して良い反応があったので、多くのユダヤ人と異邦人が信仰に導かれたのでした。
こうした姿勢は、御言葉に対して鋭敏な感覚を養い、御言葉に照らして何が正しいかが判断でき、聖書の真理に生きる信仰者が生み出していきます。そのために、説教者と聴衆に求められることは、日々に御言葉に聴き、黙想することです。また、御言葉を力を尽くして究めていくことです。

2.危機に際して   13~15節
しかし、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアにおいてもパウロたちの福音宣教活動を妨害しまた。これに対してベレアの信徒の対応は、実に素早くパウロをアテネに逃れさせました。ただ、シラスとテモテはベレアに残って、誕生したばかりの信徒の信仰の訓育をしたのでした。このようにベレアの信徒は、危機意識をもって臨んだシラスとテモテによる信仰の導きを、素直に、熱心に、聖書に問い続けたのでした。その結実として、後日ベレア教会から指導者が生まれています(20章4節)。
「素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ」るとは、主イエスとその御言葉の前にひれ伏す姿勢でもあります。それは、ベタニアのマリアに見られる信仰の姿勢でした(ルカ10章39節、ヨハネ11章32節、同12章3節)。
危機における御言葉に対する姿勢は、平時の御言葉に対する姿勢の応用なのです。

神の企て(2012.2.12)

宣教題  : 「神の企て」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書 1章26節~38節
「神にできないことは何一つない」(37節)と語られている御言葉は、私たちを捉えます。それは、神が語られた企て(ご計画)は必ず実現される「全能の神」であることを明らかにしています。私たちは、この問いかけにどう応答していくのでしょうか。

1.全能の神の前に立つ
神は、天使を通して、マリアにご自身の企てを打ち明けられています(30~33節)。それに対してマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょう・・・」(34節)と訴えています。これは、神は全能であられるが、人は限界あるものであると言い表している言葉です。
私たちは、神の全能の前に、自らが無力であること、乏しいこと、悩んでいること、罪深いことを認めなければならないところに追いやられることがあります。その時に初めて、私たちは、全能の神との生きた関わりを持たせていただくことができるのです。
つまり、「いと高き神の子」であられるイエス・キリストによって、死をも滅ぼされた全能の神の前に(32~33節)立たせていただく経験をするのです。

2.全能の神に委ね続ける
神は、マリアの恐れや不安を解消させる御言葉を(28節、30節、35節、37節)、次々と語られました。彼女は、この神の御言葉に促がされ、導かれて、神の恵みの企ての世界の中に足を踏み入れていったのです。そして、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)との決断をしたのです。この決断をもって、神は救いの企てを実行されていったのです。
私たちは、神の御言葉が成し遂げられるようにとの決断をし、それを全能の神の前に委ね続ける信仰に生きる者です。そのためには、いつも神の御言葉を聴き続けていることが大切です。それが、私たちの決断を支えるのです。
私たちが、全能の神の企てと御言葉に自らの人生を委ねて、信仰の翼を神の全能に向かって大きく広げるなら、神の力を捉えることができます。そして、信仰の高値へと引き上げられていくのです。