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Kobe Central Church

神に遣わされる民(2012.8.12)

宣教題  : 「神に遣わされる民」   宣教:   鎌野直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ書 6章1~13節  マルコ 3章14~15節

キリスト教会を「使徒的教会」と呼ぶことがあります。イエスが十二人の使徒を遣わされたように、教会もキリストによって遣わされているからです(マルコ3:14−15)。

1.謙遜な民
イザヤはその幻の中で、エルサレムの神殿をその足台としている主を見ました(イザヤ6:1)。この方は、「主の栄光は、すべての地を覆う」(6:3)とあるように、全世界をその活動の舞台としています。この聖なる方を見た時、自分がこれまで叱責してきた汚れた民と何ら変わらないことに気がつきます(6:5)。それは、彼が王である主を見たからです。神を見ることなしに遣わされることはありません。しかし、神を見るとは自分の本当の姿を見ます。だから、謙遜にそれを認めることこそ大切です。

2.罪赦された民
イザヤの罪を主は赦されます(6:6)。しかし、主が直接に赦しを宣告するのではなく、主が遣わしたセラフィムによってそのことが宣告されます。私たちが遣わされるために、他の人をまず私たちのために主が遣わして下さいます。そして、主が遣わされた者を通してなされる主のわざを経験させてくださるのです。神の恵みを受けずして、神の恵みの宣教者として遣わされることはできません。

3.神を中心とする民
イザヤは神の声を聞きます(6:8)。「わたしがここにおります」は「どうぞ用いてください」、招きに対するイザヤの自発的応答を表しています。主は強いてことをなさいません。しかし、遣わされる者にご自身のメッセージを語るように命じます(6:9-10)。遣わす方がなせと命じることに服従するのが遣わされた者の働きです。遣わされる者は、もはや自分が世界の中心ではありません。遣わす主こそがその人の中心なのです。
イザヤも使徒たちも、圧倒的な神のわざを体験し、神のわざのために遣わされていきました。私たちはもうすでに遣わされるべきところに遣わされています。しかし、「私をどうぞ用いてください」と主の前に出ているでしょうか。自発的に主の前に出てはじめて、主のわざに参加する神に遣わされた民としてその使命に生きることができます。

信仰の気づき(2012.8.5)

宣教題  : 「信仰の気づき」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  3章1節~14節

洗礼者ヨハネは、救い主イエスがおいでになる道備えをするために、人々が福音を受け入れるための「悔い改め」を迫った預言者でした。彼の役目は、そのことを人々に気づかせ、与えることにあったのです。「罪の赦しを得させるために悔い改め」るのが(3節)、なぜ私たちに必要なのでしょうか。

1.全ての人に神のさばきがあるため
イスラエルの民は、自分たちはアブラハムの子孫で神の選びの民であるという自負に安住していました。しかし、ヨハネはそれを再度評価し直さなければならないと指摘したのです(ルカ3章7~8節)。それは、旧約聖書の中で「かたくなな民」と語られている姿であり(出エジプト33章3節)、彼らが同じ状態にあることを気づかせようとしたのでした。ヨハネは、そのようなイスラエルの民に神のさばきが近づきつつあることを知って、悔い改めを迫ったのでした(ルカ3章9節)。
私たちは、同じように悔い改めることの迫りをいただいています。この時、私たちは自らの罪を認めてその自覚を持ち、罪とその結果を悲しみ、罪を捨てて、神に立ち帰ることが必要なのです(2コリント7章10節)。

2.全ての人の生きざまが変革されるため
ヨハネは、荒れ野で神の御言葉を聴き、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました(ルカ3章2~3節)。それは、荒れ野に主の道が整えられ、その道筋をまっすぐにし平らにする働きでした(同4~5節)。荒れ野と呼ぶ世界に含まれるのは、当時の皇帝・総督・領主たち・大祭司(同1~2節)、また群衆・徴税人・兵士(同10~14節)であり、今日の私たち一人ひとりのことであることに気づくことが必要です。
私たちは、イエス・キリストを通して現わされた神の救いを、自分の救いとして受け入れ、仰ぎ見る心の柔らかさが求められています(同6節)。そのような中から「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(同8節)者とされていくのです。それは自己中心的な生き方でなく、人を愛する生き方であり(同10~11節)、正しさを貫く生き方です(12~14節)。この私にさえ及んでいる救いの恵みに気づく者とされましょう。

福音を宣べ伝える民(2012.7.29)

宣教題  : 「福音を宣べ伝える民」   宣教:   鎌野 直人協力牧師
聖    書  : イザヤ 52章7節~10節  マルコ 1章15節

すべてが順調に行っている時に福音は必要ないかもしれません。しかし、最悪としか思えない現実の直面している時、良い知らせは必要です。

1.神は王になった
歴史の中でも最悪の状況に陥っていたイスラエルが聞いたのは、「シオンよ、あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)という知らせでした。すべてを分裂と争いへと仕向ける存在が支配していた世界に、主が王として即位されました。勝利をとられた主を中心に据えて、世界が再編成されるのです。そして主はシオンへと帰還されます(52:8)。
主によって救いと平和が、イスラエルを奴隷から解放し、ひずみ、破れ、とげとげしくなったあらゆる関係の修復がもたらされました(52:7)。ご自身が特別に選んだ民に対して果たすべき責任であったわざを主が実行されたからです(52:9)。そして、イスラエルに主がなされたわざとそのインパクトをすべての民は目の当たりにします(52:10)。

2.福音を宣べ伝える
「神は王となった」という福音を宣べ伝える召命を私たちはいただいています。福音とは、徹頭徹尾、神のわざについての良い知らせです。イスラエルの神である主が世界の王となったのも、目で見ず、耳で聞くことができなかった民が福音を知ることができようになったのも、すべて神がなされたからです。さらに、私たちだけが福音の宣教者ではありません。様々な方法を用いて、神ご自身がこの福音を宣べ伝えておられます。主の恵みのわざのゆえに新たに造り変えられた者として、どのような状況の中にあっても喜びの賛美の声を世界中にあげることこそわたしたちがもっと励むべきことではないでしょうか(52:9)。
イエスご自身、「神の国は近づいた」(マルコ1:15)とこの福音を宣べ伝えました。イエスのわざを通して、神は王となり、シオンに帰り、世界は再編成されたのです。ですから、わたしたちがおかれている現実が最悪であったとしても、「神は王」です。そのことを確信しつつ、どのような中でも、喜びの讃美の声をあげましょう。神のすばらしいわざの知らせを世界は心待ちにしているのですから。

キリスト者を生かす(2012.7.22)

宣教題  : 「キリスト者を生かす」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  19章1節~10節

私たちにとって大切なことは、聖書に証言されているイエス・キリストを信じ、このお方と結びつき、信頼して従っていくことです。これは、信仰告白に対する私たちの在り方も同じです。そのために、聖霊は今も、信じる私(たち)の内に働き、また私(たち)を通して働いておられます。

1.私(たち)の内に働かれる
パウロは、アポロからヨハネの洗礼について教えを受けていたエフェソの弟子たちに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と問いかけました。彼らは、聖霊のことが分からず、イエス・キリストを救い主また主と信じていませんでした。そこでパウロは、彼らに最善の道を明確に示しました。その結果、「人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた」という御業が瞬間的に起こったのです(2~6節)。
聖霊は、見ることも触れることもできない、まるで風のように働かれます(ヨハネ3章5~8節)。聖霊は、私たちの心の目を開いて、私たちの真相を認識させてくださり、イエス・キリストの永遠の救いを明らかにしてくださり、信仰へと導かれます(エフェソ1章17~19節)。また、聖霊は、私たちの全存在・全生活をキリスト御自身とその愛で支配されます(エフェソ3章14~19節)。そして、聖霊は、神の言葉を大胆に語らせ、しかも他国の言葉で話すことを自由にさせてくだるのです(使徒言行録19章6節)。

2.私(たち)を通して働かれる
聖霊は、ペンテコステの時の12人の使徒たちに対すると同じように、エフェソにおいても聖霊に満たされた12人を用いて、小アジアへの宣教を進められました(7節)。
パウロが会堂で熱心に神の国について論じ説得したときに、心を頑なにして不信仰を表わし非難をする者たちが起こりました。しかし、それをも転じて福となして、他の場所での働きを進めることになりました。そうした二年の働きの結果、小アジア全域に福音が伝えられていったのです(8~10節)。
聖霊が、私(たち)の内に働かれ、それによって私(たち)を通して働かれるには、私(たち)が心砕かれ、イエス・キリストの恵みの御支配に委ねていくことが大切なのです。

傾聴される神(2012.7.15)

宣教題  : 「傾聴される神」   宣教:   仁科 千永子 師
聖    書  : 創世記  21章1節~21節

1.登場人物
一家の中心的存在であり、物事を決する家長としてのアブラハム、その正妻サラ、約束の子イサク、女奴隷ハガル、彼女が産んだ子イシマエル、この5人のバトルが繰り広げられています。神はアブラハムに「大いなる国民の基」となる事を約束されました(創世記12章1節)。しかし、サラには子が生まれませんでした(同16章1節)。そこでサラはハガルによって子を得る事を夫に勧め、彼もこの提案を受け入れ、そこに生まれたのがイシマエル(主は聞かれるの意)です(同16章15節)。ハガルがイシマエルを産んだ時、アブラハムは86歳でした。しかし、「来年の春にサラに子が与えられる」と神は約束され(同17章)、サラにも直接語られました(同18章14節)。

2.約束の成就 イサクの誕生
神は約束通り、アブラハム100歳サラ90歳の時、イサクが誕生しました。この時イシマエルは14歳、イサクが乳離れした日、盛んな宴会が開かれました。世界中がバラの花束で埋まるほどの感謝と喜びの日に「あってはならない事」が起こりました。サラが「あなた!何とかこの親子を追い出して下さい」と怒り爆発したのです。

3.イシマエルとハガルの事
荒野をさまよう親子の旅、やがてパンも水も尽きてしまいました。「私はこの子の死ぬのを見るに忍びない」と、何の希望もない精も根も尽き果てた母親失格の姿があります。泣く子の声を聞かれた神は、ハガルの目を開かれました。ハガルは、あれ程さまよっても見つけられなかった井戸の水(湧きあがる恵みの水)を見つけ、それをわが子に飲ませたのでした。まさに人間の苦悩、絶望の中での神の恵みです。
結論:100%の人はいない。
全ての人には苦悩があり、私たちにも苦悩があります。しかし、その苦悩を「神は聞きたもう方」です。そこに、「祈り」が生まれるのです。私たちは、「祈りを傾聴される神」から恵みを頂き、信仰に立ち「明日の主」に全てを委ね従っていきましょう。ここに私の全てを知りつくされ、最善に導かれる神の祝福があるのです。

成長をめざして(2012.7.8)

宣教題  : 「成長をめざして」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章39節~52節

ユダヤの社会においては、過越祭に際して信仰の継承を家庭で行い(出エジプト12章26節以下)、エルサレム神殿に集まって礼拝をささげました(ルカ2章41~42節)。キリスト教会においても、幼子や少年たちの身体的・精神的・霊的成長を願っての取り組みが求められています。

1.全人格的に成長する
12歳になられた少年イエスは、身体的に、精神的に、霊的に成長されていきました(40節、52節)。また、神の愛と恵みに包まれ、対人関係において関わりをもてる社会的な成長もしていかれました。そして、「イエスは・・・両親に仕えてお暮しになった」のでした(51節)。
同様に私たちは、身体的・精神的・霊的存在として全人格的に成長していくことが必要です。とりわけ、聖書を通して、見えない神を信じ、死後の世界があることを信じ、自らの罪を知ってイエス・キリストの救いを信じることが大切なのです。
そして、幼い時から家庭で学び舎で、愛をもって周りの人々に仕えていくのです。そこで、愛と謙遜を学びつつ成長していくのです。

2.主の家で成長する
エルサレムに留まられたイエスは、学者たちとの問答をされていました。人々は、イエスの賢明な受け応えに驚いています。一方両親は血眼になって捜し、イエスを見つけてその姿に驚き、憤りにも似た言葉を語りました(43~48節)。それに対してイエスは、自分は神の独り子であり、父なる神から救い主としての仕事を委ねられているのですから「自分の父の家にいるのは」当然のことであると語られました(49節)。
同様に私たちは、父なる神の家である教会において、神の御言葉を聴き、それに応答することによって、神の仕事にいそしむ生活をつくっていくのです。今も変わらずに、イエスが私たちの「真ん中に座り」、その中心におられ、私たちと御言葉の問答をしてくださっています(46節)。私たちは、そのことに驚きを覚えつつ、繰り返し目を開いていただくなら、一人ひとりが新たにされ続け、成長していくのです。

キリストを知る(2012.7.1)

宣教題  : 「キリストを知る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章24節~28節

プリスキラとアキラとがアポロに対して成したことは、「神の御心」を実行する実例となりました(21節)。それを通して、アポロがキリストを知るという信仰の経験へと導かれて行ったのです。

1.キリストの素晴らしさを知る  24~26節
エフェソにやって来たアポロは、「主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが」、それはバプテスマのヨハネが語っていたガリラヤのイエスのことであり、エルサレムで十字架に架かられ、三日目に復活され、昇天されたイエスのことではなかったのです。従って、彼は、聖霊降臨やそれによってもたらされた教会誕生のことも知らなかったのでした。
アポロのメッセ-ジを聴いたプリスキラとアキラは、その内容がエフェソの教会を根底から崩壊させてしまう危険を感じて、個人的に彼を招き、キリストの素晴らしさとその救いを語り説明したのでした。それを謙虚な態度で聴いて受け入れたアポロは、アカイア州に渡った時、「メシアはイエスであると公然と立証し」(28節)たのでした。
私たちがキリストの素晴らしさを知る時、それが愛の連鎖反応となっていくのです。

2.キリストの体なる教会を知る  27~28節
プリスキラとアキラ及びエフェソの教会は、アカイア州に渡ることを望んだアポロを励まし、アカイア州の教会が彼を歓迎してくれるように手紙を書き、神の御業が進められるようにと「神の御心」を見極めつつ行動しました。そして、アポロもまた、「神の御心」に従って、熱心かつ徹底して福音を立証したのでした。
以後、アポロはコリント教会で活躍し、高い評価を受けましたが、それが分裂をもたらす危険もはらんでいました(1コリント1章12節、3章4~6節)。そのアポロをコリントの教会が招きたいと願った時に、彼がそれに答えることは「神の御心」でないと拒否しました(1コリント16章12節)。そうした背景もあって、パウロがアポロに対して愛の配慮をしています(テトス3章13節)。
私たちは、キリストの体なる教会に生きることを体験的に知ることが大切なのです。

真の絆・繋がりはどこに

近ごろ「絆」とか「繋がり」という言葉が、頻繁に伝わってきます。温かいイメ-ジの言葉です。しかし聞きようによっては、この時代の悲鳴のような感じもします。つまり、その対極にある孤独な世界が、色濃くなっているということでもあるからです。「孤族」という言葉も登場しているほどです。そう考えると、インタ-ネット、交流サイト、ツイッタ-、携帯メ-ルを通して繋がりを求める人たちの気持ちが理解できます。

ここでぜひ知っていただきたいことがあります。たとえ良い話し相手が与えられなかったとしても、『友よ』と呼びかけ、『わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない』(聖書)と言ってくださるイエス・キリストがおられるということです。このお方との関係こそが真の絆であり、繋がりなのです。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

持ち運ばれる人生(2012.6.24)

宣教題  : 「持ち運ばれる人生」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章12節~23節

神の御言葉が宣教されていくとき、ある者はそれを受け入れ、ある者はそれを拒みました。神の御言葉は、さえぎるものがある中を前進していったのです。そのために用いられたパウロは、聖霊に持ち運ばれていく経験をしたのでした。

1.神の御計画に目が開かれることによって  12~17節
ユダヤ教の指導者たちは、パウロが福音を宣証できないようにするために、その行為はロ-マ法に反するとコリントの地方総督に訴え出ました(12~13節)。しかし、彼らの陰謀は失敗しました。その理由として、復活の主イエスの御言葉の約束があったからであり(9~10節)、さらに、ロ-マ法を通して、神の見えない御支配が実現されていったからでした(14~16節)。これ以後約12年間は、福音がロ-マ帝国内に浸透していくという、神の見えない支配と導きを見ることになったのです。
その結果パウロは、復活の主イエスの約束は真実であることに感謝し、福音を語り続ける情熱と勇気が与えられ、見えない神の摂理と支配に感動したことでしょう。
私たちは、聖霊によって心の目を開いていただき、神の偉大な御計画を知るようにされたいものです(エフェソ1章17~19節)。

2.神の御心に従うことによって  18~23節
パウロの一年六か月にわたるコリント伝道は、並々ならない決意をもってなされたことでした。彼は、そこをシラスとテモテに託し、続いてエフェソに赴いて福音を宣証しますが、そこもプリスキラとアキラに託して、カイサリア、エルサレム、そしてアンティオキア教会を訪ねたのです(18~22節)。パウロは、それらの教会に第二回伝道旅行の報告をし、感謝を述べ、託された献金を届けたのでした(11章29節他)。続いて彼は、第三回伝道旅行に出かけ、先に生み出された諸教会を力づけたのでした(23節)。こうしてパウロは、「神の御心」に従うことによって、聖霊に持ち運ばれていくように先へ先へと前進して行ったのです。
私たちは、主イエスに対する信仰と従順と献身へと踏み込むことによって、神の御心を知り、主に持ち運ばれる歩みの素晴らしさを知らされるのです。

主の証人である民(2012.6.17)

宣教題  : 「主の証人である民」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : イザヤ  43章8節~13節

捕らえられていくイエスを置いて逃げ去っていく時ほど、イエスの弟子たちが自らの失敗者であることを味わった時はなかったでしょう。旧約聖書のイスラエルが自らの失敗者であることを痛感したのは、ユダ王国が滅び、エルサレムの神殿が崩壊し、王位に就くものがいなくなったバビロン捕囚の時代でした。自らが見えず、聞くことができなかったことに気がつき、主を知らず、偶像を神とする諸国の中に散らされたのですから。

1.主が選んだ主の僕
主はイスラエルを捨てたのでしょうか。そうではありません。「わたしが選んだわたしの僕だ」(43:10)と主はイスラエルを呼んでいます。主の声を聞くことができなかったために失敗者となったイスラエルさえも主は捨てず、むしろ彼らを捕囚から救い出そうとしておられます。そして、捕囚から救いのわざを通して、神は彼らの耳を開き、「聞こえぬ民」(43:8)にこの方こそが神であることを知らせます。彼らは主を知り、信じ、理解するようになります(43:10)。恵みによってイスラエルを選んだからこそ、主は彼らを造りかえ、再び用いようとしておられるのです。

2.諸国のための主の証人
主の救いのわざゆえに、イスラエルは主を知り、信じるようになり、この方以外に神は、救い主はないことを経験し、理解します(43:11)。そして、イスラエルは諸国に主を示す証人となります(43:10)。失敗者である自分たちをあえて選び、造りかえてくださった神を、その恵みの証拠である自らの姿をもって指し示すのです。その結果、諸国はイスラエルを通して主のような神は他にはいないことに気がつきます(43:9)。
失敗者であったイエスの弟子たちも、十字架と復活という神の偉大なわざによって、その目と耳が開かれ、イエスを通してなされた神のわざを示す証人となりました。立派な自分を指し示す証人ではありません。失敗者であった者をも造りかえてくださる神とそのわざを指し示すことこそ、主の証人として人々に仕える道なのです。

一心に(2012.6.10)

宣教題  : 「一心に」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章36節~38節
女預言者アンナは、幼子イエスに近寄り、シメオンの讃歌に自分の心を合わせるようにして、神に賛美をささげています。彼女は、その全人格・全生涯をかけて、神に向かって一心に生きたからです。

1.キリストに集中する
夫と死別したアンナは、その悲しみを通して心が砕かれ和らげられて、神との親密な交わりをし、また他者に対して思いやりの心にされました。彼女は、神に信頼し、いつも神に祈り続け、仕え続けたのです(37節、1テモテ5章5節)。それは、いつもイエス・キリストに集中している姿勢でした。
イエス・キリストの十字架の苦しみにおいて、神はご自身の力を振り絞ってくださいました。神が一所懸命になって、その救いを私たちに集中して注いでくださったのです。私たちは、その恵みに応答して、日ごとに神に感謝の祈りをささげ、感謝に満ちて神に仕えるのです。それは、十字架に死んで復活されたイエス・キリストを全ての中心に置くことなのです(2テモテ2章8節)。

2.キリストに生きる
アンナが神を賛美した言葉は、具体的には語られていませんが、その内容はシメオンの讃歌に通じるものだったでしょう(29~32節)。彼女は、イエス・キリストに出会ったことを喜び、神を賛美し、その出来事を周りの人々に語り伝えました(38節)。彼女は、若い時から信仰に生きてきたゆえに、老いて死を迎える時が近づいてもキリストに生きることができたのです。
同じように私たちも、老いる前にキリストに生きる喜びや慰めや力を体験し、それが日々の歩みを支える土台となることを祈り求めたいものです(コヘレト12章1節)。イエス・キリストへの信仰を言い表わした時が、「青春の日々」なのです。
イエス・キリストは生きておられます。このキリストに生きる者を神は用いて、人々の救いのために働かれるのです。

聖霊に導かれて(2012.6.3)

宣教題  : 「聖霊に導かれて」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : ルカによる福音書  2章22節~35節

シメオンが、神殿に連れられてきた幼子イエスを見て、この方が救い主であると認めることができたのは、聖霊によってでした(25~27節)。聖霊に導かれるとは、神秘的なことではなくて、ある状態に整えられた心において、初めてとらえられるものです。

1.待ち望む心
シメオンは長い間、救い主の来臨を待ち望んでいました(25節)。神の約束は、必ず果たされると信じて疑わなかったのです。そこには、神に対する信頼がありました。
彼が待ち望んでいたことは、主の慰めであり、根本的には「救い」でした。救いなしに、本当の慰めは与えられないのです。私たちは、罪と死の虜になっていることを悲しみ、そこからの唯一の救い主イエス・キリストとその救いの事実を受け入れることによって、真の慰めをいただくのです。

2.敬虔な信仰の心
シメオンは、他に多くの幼子が同じように神殿に連れてこられた中から、幼子イエスが救い主であると聖霊の導きによって確信させられたのでした。彼には、「この人は正しい人で信仰があつく」(25節)とあるように、神を敬い畏れる信仰の心があったからです。
聖霊の導きは、神を敬い、聖書を読み、祈りをささげるといった日常生活の積み重ね中から明らかにされていくのです。そのことを通して、救い主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、また安らかに去らせていただけるのです(29~32節)。

3.使命に生きる心
シメオンが救い主イエス・キリストを見て喜んだのは、決して個人的な満足のためではありませんでした。彼はそれを同胞のために待ち望み、マリアにはイエスの使命を告げています(34~35節)。彼には明確な使命があり、その使命が果たされるまでは死なないとまで告げられていたのでした。ここに聖霊の導きがあったのです。
私たちは、このような聖霊の導きを感じる整えられた心を持たせていただき、養わせていただくことが大切なのです。

原点に帰る(2012.5.27)

宣教題  : 「原点に帰る」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : 使徒言行録  18章5節~11節

主なる神は、私たちの信仰生活や教会の歩みが危機的な状況に遭遇する時、その信仰の原点に立ち帰る機会を与えてくださいます。教会の原点は、使徒言行録に証言されている「聖霊降臨」の出来事です。聖霊が臨まれる時になされる主の御業は、いつ如何なる時も変わりません。聖霊が臨まれる時、確かになるものがあります。

1.主の臨在が確かになる
ペンテコステの日に聖霊が臨まれると、ペトロは主イエスの十字架と復活を語り、主の臨在を証言しました(使徒言行録2章25節以下)。聖霊が臨まれると直ちに起こることは、主の臨在という現実です。
パウロが、コリントで伝道に専念した時に、救いに与かる人が加えられるに比例して、反抗や迫害が激しくなっていきました。そのことは、コリント教会の将来に対して彼の心に不安と恐れを抱かせることとなりました(5~8節)。そのような時、主は「わたしがあなたと共にいる」(10節)との決定的な励ましを語られたのです。
私たちが、恐れや行き詰まりや失望の中にあっても、主の臨在の現実のただ中にあるならば、その歩みは確かなのです。

2.主の宣教の使命が確かになる
聖霊降臨によってもたらされた宣教への導きは(使徒言行録1章8節)、福音が拒まれる中にあっても、今日まで前進してきました。主が「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(9~10節)と語られたことは、パウロにとって大きな励ましと約束となりました。
聖書には、主の証人たちの立派で勇敢な姿が描かれています。それは、彼らが様々な挫折を経験する中から、復活の主に出会い、ペンテコステの聖霊の満たしをいただいたからでした。挫折から始まることが、聖霊の満たしと導きをいただくことにより、力ある主の証人とされるのです。
聖霊が臨まれてなされる原点に繰り返し帰りつつ、聖霊の導きを誠実に積み重ねることが求められているのです。

イエスを待ち望む(2012.5.20)

宣教題  : 「イエスを待ち望む」   宣教:   鎌野 直人 協力牧師
聖    書  : テサロニケの信徒への手紙一  1章9節~10節

神がイエスを死人の中から復活させたという福音を受け入れたキリスト者は、この御子イエスが天から来られるのを待ち望む者となります(1:10)。「天から降って来る」(4:16)の天は、「空のずっと上」を指しているわけではありません。「いま、イエスが王として世界を治めておられる所」です。そして、神が定められた時に、イエスはそこから地に来られます(2:19) 。

1.死に対する勝利の希望
その時、「来るべき怒りから」キリスト者は救われます(1:10)。しかし、これは永遠の裁きと滅びから免れることだけを指しているのではありません。神がイエスになされたことが、私たちの上になされることをも意味します。つまり、イエス同様に復活のからだが与えられて、人類最大の敵である死に対する勝利が地において現実となるのです。だからこそ、「イエスを信じて眠りについた人たち」(4:14)の復活が主イエスの来臨の時に起こります。からだのよみがえりこそが、私たちの兜である「救いの希望」(5:8)です。

2.希望に立って待ち望む
この希望に立って、私たちは御子が天から来られるのを待ち望みます(1:10)。この希望のゆえに、「無事だ、安全だ」ということばに惑わされず(5:3)、ひたすら目をさまして、身を慎みます(5:6)。「目をさました歩み」とは、倫理的な生活だけでなく、弱い者を助け、善を行い、喜び、祈り、感謝する生活をも指しています(5:14~18)。つまり、より多くの者が目をさましていることができるように、励まし合い、互いの向上に心がけることへキリスト者は招かれています(5:10~11)。
救いの希望に立って歩む時、「非のうちどころのない者」(3:13、5:23)となる道をキリスト者は進んで行きます。この目標に人間の力だけで到達することはできません。しかし、平和の神、真実な方がこれを可能として下さいます(5:24)。恵みからはじまり、恵みによって完成へと導かれるキリスト者生涯を共に進みましょう。

母の心(2012.5.13)

宣教題  : 「母の心」   宣教:   川原﨑 晃  牧師
聖    書  : サムエル記上 1章3節~20節

旧約聖書最初の預言者と言われているサムエルの母ハンナは、苦しむことの持って行き場がないと思われた時に、神のもとで祈った人でした(ヤコブ5章13節)。ここでは、ハンナの心の軌跡を見ることができますが、それは私たちにも当てはまるものです。

1.痛む心  10節
シロで礼拝がささげられていた時に、ハンナは夫エルカナの愛情を覚えつつも、ベニナによって苦しめられて、悩み嘆き、痛み泣いていました(10節、11節、15節、16節)。
人が嘆く心(詩編13編3節)、悩む心(同25編17節)、騒ぐ心(ヨハネ14章1節)、気力を失い疲れ果てる心(ヘブライ12章3節)、乱れる心(1ペトロ4章7節:口語訳聖書)は、その心を不安にし、揺れ動かし、自分でもあつかいかねてしまうような状態にさせます。そのような心は、主に導いていただく必要があるのです(2テサロニケ3章5節)。

2.祈る心  15節
ハンナの幸いは、主に祈ることを知っていたことでした。それは、痛む心を主の御前にあるがまま申し上げ、さらけ出すように心を注ぎ出す祈りでした。決して、整った言葉や、堂々とした祈りではありませんでした。
私たちは、どのような時にも、ご自分の命を死に渡され、与え尽くしてくださった主イエス・キリストに対して、自分自身の心をそのまま注ぎ出すことです。そこが、私たちの避けどころなのです(詩編62編9節)。

3.安らぐ心  18節
祈り終えたハンナの姿は、以前のように暗く沈んだものではなく、明るく安らいだ表情になっていました。彼女は、主の御前に心を注ぎ出し、その祈りの結果を委ね、ささげています(11節、28節)。
私たちは、感謝を込めて祈りと願いをささげ、結果を主に委ねていくならば、人知を超える神の平安の中に生きる者とされるのです(フィリピ4章6~7節)。
痛む心→祈る心→安らぐ心の軌跡は、私たちの心の軌跡なのです。