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Kobe Central Church

私たちにあるものを知っているか(2014.3.16)

宣教: 小平 牧生 牧師
聖書: 使徒言行録3章1~10節

東日本の大震災以来、私たちの国全体を覆っている言いようのない不安と恐れがさらに増しています。政治家の語る「日本をとりもどす」とか「日本の力を信じている」という言葉もなんだかカラ元気のように聞こえます。
しかし、このような中にあってこそ、私たちは神様が私たちに与えておられるものをはっきりと知ることができます。あなたにあるもの、それは何でしょうか?

私たちに与えられているものは何か。

1.人々を見つめる
「使徒言行録3章3~5節」。
「マタイによる福音書9章35~38節」。

2.イエス・キリストの御名に対する
「使徒言行録3章6節」。
「使徒言行録3章16節」。

3.立ち上がろうとする人々を助ける
「使徒言行録3章7~8節」。
「ヨハネの手紙一 3章16~18節」。

憐れみに生きる(2014.3.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: ルカ6章27~38節

私たちは、父なる神の憐れみによって、人の痛みを自分の痛みとするという「憐れみ深い者」とされて生きていくように召されています(36節)。そのような私たちに、主イエスは、敵を愛して祝福を祈り、人を裁かないで赦しに生きるように求めておられます。

1.生きることは、愛すること  27~34節
先に、主イエスが幸いと不幸について語られたように(20~26節)、信仰を持って生きるとき、当然、信仰を持たないで生きることとは違った生き方にな ります。その際に、私たちは、信仰を持たないで生きている人たちを見返すかのような心になってしまいがちです。「しかし」主イエスは、それをお赦しになり ませんでした。主イエスは、信仰に生きることができない人々の不幸をはっきりと指摘しつつ、そうであるからこそ、人を愛し、親切にし、祝福を祈るように命 じられたのです(27~28節)。
主イエスは、日々の生活において、神のものとされた者の本来の生き方を生き抜くように問いかけておられます(29~34節)。私たちは、自分の力を過信 して、このように生きることはできません。主イエスに対する信仰に立ってこそ、愛する生き方をさせていただくのです。

2.愛することは、愛されていること  35~38節
愛することができないところには、裁きがあり、赦しがなく、与えたら取り戻そうとしたり、自分の量りでしか物事が量れなかったりします(37~38 節)。私たちは、このように主イエスが語られたことと自らの現実の前に、その罪の姿に立ちすくみます。そして、「あなたがたは敵を愛しなさい」(35節) と言われることに逆らっている自分自身を認めざるをえません。
「しかし」、主イエスは、そのような私たちを憐れみ、十字架の贖いの死を成しとげてくださり愛を現してくださったのです。私たちは、主イエスの愛に心か ら屈服し、降伏するしかありません。この主イエスと信仰によって一つにされるとき、「いと高き方の子」としていただき、憐れみ深い者とされるのです (35~36節)。

人知を越えた神の導き(2014.3.2)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録23章12~35節 イザヤ書55章11節

私たちは、主イエスとその御言葉に信頼し続けることにより、神の導きの中を歩ませていただくのです。ここでは、パウロ殺害の陰謀と露見とカイサリアへの護送という出来事の中に、人知を越えたとしか言いようのない神の導きを証言しています。

1.神の導きの不思議さ
ユダヤ人によるパウロの暗殺計画が実行されようとしました(12~15節)。これがそのまま放っておかれたなら、パウロによるローマでの伝道ができなく なるという危機を迎えたのです。「しかし」、そのことを聞きこんだパウロの甥によって、その情報がパウロに伝えられ、そのことがローマの千人隊長にも知ら されることとなったのです。千人隊長には、ローマの市民権を有するパウロの権利を守り保護する義務がありました(17~22節)。すかさず、千人隊長は、 万全の策を講じてパウロをローマ総督のもとに護送するようにしたのでした(23~35節)。こうした中にも、パウロは切迫した情況の中で、冷静な信仰的総 合判断をしたのでした。
神の救いの歴史を導いておられる神が、ご自身の計画を実現するために、パウロの甥や千人隊長を用いられたことに、不思議さを覚えます。神の時に、神の方法で、神の人を用いられるのです。私たち一人一人も、そうした神の人なのです。

2.神の導きの確かさ
こうした神の導きの背後には、先にパウロに語られた復活の主イエスの御言葉が゜働いていました(11節)。その導きは、復活された主イエスが共におられるという確かさであり、導きの時は確かであり、導きそのものに誤りはないという確かさです。
このことは、イザヤ書に語られている神の約束の御言葉にあるように(55章11節)、神は、苦難の中にあっては特別の支えをもって、試練の中にあっては希望を与えて導き、その使命を果たさせてくださるのです。
私たちの中に、神の導きを必要としない人は、一人もありません。また、教会も世界の全体も、神の導きを必要としています。神は、人知を越えた不思議な導きを、御言葉に立った確かな導きを与えてくださいます。皆が、それに従えますように。

確かな絆(2014.2.23)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ15章1~10節

人は、生活や社会の矛盾と苦しみに耐えながら、自分の居場所、心の絆、活躍の機会を探し求めています。それは、確かな愛、確かな繋がり、確かなことをやり 遂げたいと求める人の姿です。主イエスは、「人がわたしにつながって」いるならば、それによって主イエスの豊かな命に生きる者となると語られました(5 節)。

1.主イエスの御言葉にとどまることによって  7節
二人の弟子が、悲しみと失望の中をエルサレムからエマオに向かって歩いていました。復活された主イエスは、彼らに近づいてこられて、聖書全体から福音を 語りつつ一緒に歩かれたのです。夕方になって、二人は主イエスに「一緒にお泊まりください」と呼びとめます。そこでの食事の最中、彼らは目が開けて、とど まってくださった方が主イエスであると初めて気づいたのでした(ルカ24章13~31節)。
ところで、私たちが、弟子たちのように主イエスにとどまってくださいと願う以上に、主イエスが私たちにとどまり、御言葉にとどまり続けるように招いてお られます(5節、7節)。主イエスは、私たちとの命の繋がりを永遠まで持ち続けてくださるお方です。ですから、私たちは、主イエスの御言葉に信頼すること です。

2.主イエスの愛にとどまることによって 9節
主イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちに向き合ってくださいます。この愛の出会いが最も明らかにされたのは、主イエスの十字架と復活においてでした。この出来事によって、私たちは、抱えている罪と死とから解き放っていただくことができるのです。
そして、私たちは、主イエスとその愛にとどまり続けるときに、神を愛する、人を愛する、教会を愛する愛の実を結ばせていただけるのです。私たちの内にそうする力はないのです。
また、私たちは、主イエスとその御言葉と愛にとどまり続けることによって、互いの間にも確かな絆を築くことができるようになります。天の御国を目指して、主イエスに繋がる信仰の一歩を踏み出させていただきましょう。

祝福の言葉に満ちて(2014.2.16)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ルカ6章20~26節

聖書がいう「幸いである」とは、一瞬のつかの間の幸いではなくて、いつまでも続いている幸いであり、祝福されている状態を表しています。それは、主イエスの口から出た祝福の言葉によって明らかにされています。

1.新しい祝福の言葉を明示する
ここで語られていることは、弟子たちが望んでいたこととは大きく違っていました。それは、この世の価値観とかけ離れており、人間が思い描く在り方とは大 きな隔たりがあります。うずくまるように神だけに全信頼を置いている「貧しい人々は」、神の恵みの支配の中に生かされるのです。神を慕って、愛に「飢えて いる人々は」、神によってのみ満たしていただくのです。自らの真相に「泣いている人々は」、神の救いに与る喜びを知るのです(20~23節)。
このように主イエスが明らかにされた新しい祝福の言葉によって、私たちは、物質的・表面的な尺度による生き方から解放されて、不変的・永遠的な尺度によ る生き方に変えられていくのです。それは、主イエスに結ばれていることによって、死と終わりを直視しながら知る幸いです(ヨハネの黙示録14章13節)。

2.確かな祝福の言葉を告知する
主イエスの祝福の言葉は確かなものです。それは、もともと私たちの内にあるものではなく、語り主であるイエスにあるものです。私たちの内には、喜ぶもの、満足しうるものを持ち合わせていないのです。そして、私たちの口が祝福をもたらす力を持っていないのです。
ところで、私たちは、主イエスの祝福の言葉の取り次ぎ役です。従って、主イエスに仕え、教会に仕え、人に仕える者は、主の祝福の言葉を取り次ぐために仕えているのです。
そのように、確かな祝福の言葉が私たちに告げられているのですから、拒むことなく、受け入れる者となりましょう。また、確かな祝福の言葉が告げられ続けているのですから、いかなる時にあっても、その祝福の中を歩み続けましょう。

畏れを抱いて(2014.2.9)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書: 詩編111編1~10節

主イエスは、迷信からくる恐れに対して励ましを(マタイ14章27節)、良心の呵責からくる罪の畏れに対して赦しを(マタイ9章2節)、死への恐れに対して勝利を(ヨハネ20章19節)与えられました。しかし、こうした恐怖の恐れではなくて、私たちが畏敬の畏れを抱くならば、活きた信仰の歩み、活きた教会の歩みとなります。

1.活きた信仰の歩み
詩編111編は、主への賛美で始まり、主に感謝をささげ、主の御業を喜ぶ中から、「主を畏れる」ことを歌っています(5節、10節)。恵み深く憐れみに 富んでおられる主であるからこそ、人は主に深い畏敬の念を抱くのです(4節)。主を畏れるとは、主なる神の救いに対して、自分の心と思いと生活を傾けるこ とであって、信仰者の財産です。
主を畏れることは、私たちの信仰生活を息苦しくしたり、力を失わせたりするものではありません。逆に、私たちがますます主なる神に引き寄せられて、私た ちに豊かな心と力と真剣さとを与えるのです(ローマ8章15節、11章20節)。主を畏れる心に生きることは、主への信仰を活き活きと生きることなので す。

2.活きた教会の歩み
さらに、神を畏れ敬う聖徒の群れこそが教会です(使徒言行録2章41~47節)。そこには、福音の教えに聴従し、聖徒の交わりをなし、聖餐に与り、祈る ことに「熱心であった」教会の姿があります(42節)。これは、時代や場所や状況が変わっても、変わらない教会の活きた歩みであり、主を畏れることを知る 教会であることを証ししています(43節)。
主を畏れる教会の礼拝、祈祷会、奉仕、交わりは、必然的に伝道する教会となるのです(44~47節)。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一 つにされたのである」と、伝道の主体は、いつも主イエス・キリストであることを証言しています。主を畏れつつ歩む日々が、活き活きと生きる信仰者の歩み、 教会の歩みとなっていくのです。

勇気ある日々(2014.2.2)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書 : 使徒言行録23章6~11節

キリストは、十字架の受難を前にして、弟子たちに「しかし、勇気を出しなさい」(ヨハネ16章33節)と語られ、また宣教の前進を命じられるなかから、パ ウロに「勇気を出せ」と語っておられます(使徒言行録23章11節)。キリストは、今日の私たちにもキリストを信頼し続けて生きる勇気を必要としておられ ます。

1.苦難の中にあって
キリストは、私たちに「世で苦難」を経験することを避けるようにとは言われませんでした(ヨハネ16章33節)。その苦難には、試練があり、嘆きもあり、闘いもあるでしょう。それによって、キリストのものとされた信仰者が、整えられ、造り上げられるのです。
同様に、教会も苦難を経験することによって前進してきました。パウロは、キリストを証しすることが最も難しいと思われたユダヤの最高法院の議員たちに対 して、キリストが救い主であることを証しするチャンスを与えられました。しかも、彼は不思議な方法で、危機一髪のところで助け出されました(使徒言行録 23章6~10節)。伝道の画期的な展開は、迫害などの危機の中で推進されていくのです。

2.主の勝利に与る
私たちは、世にある苦難にあっても、キリストの十字架と復活によって明らかにされた究極的な勝利に与っています(ヨハネ16章33節)。それは、私たち の罪と死という最大の敵に対する勝利です。従って、勇気を出すとは、このキリストの勝利に信仰によって与ることなのです。
さて、パウロは、願っていた通りに最高法院においてキリストを証しできたことにより元気づけられました。にもかかわらず、その夜、勝利の主がパウロのそ ばに立たれて、エルサレムでと同じように、ローマでもキリストを力強く証しすることが必ずできると語られたのです。伝道の画期的な展開は、キリストの臨在 の確かさの中で推進されていくのです。私たちは、ただキリストに信頼し(マタイ14章27節)、勇気ある日々を歩ませていただくのです。

 

わたしの平安(2014.1.26)

宣教:川原﨑 晃 牧師
聖書:ヨハネ14章27~31節

キリストは、十字架にお架かりになられる直前に、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と語られました。それは、今の私たちとってどういう意味があるのでしょうか。

1.キリストの遺産、それは平安
人の内側に平安があるとき、外側に平和となって表れてきます。しかし、人の内に恐れや怒りや妬み憎しみといったものがあると、争いや破壊といったものが 生まれてきます。平和であるように、平安があるようにとあいさつを交わし合う間柄においてすら、対立や抗争が続いている有り様です。個人的な関係も国家間 などの関係も根っこにおいては同じなのです。
キリストは、そんな私たちに、この世が与えるものとは違う、いやこの世は与えることができ得ない、キリストのみが与え得ることのできる遺産として「平 安」を残していくと言われたのです。十字架にお架かりくださり、三日目に復活されたキリストが、今も生きておられて、私たちに平安を与えられるのです。

2.平安、それはキリストの平安
キリストは、平安についての説明や希望を述べられたのではありません。十字架の死を目前にした極限状態の中にあって、なお持ち続けることができたキリス トの平安です。それは、ご自分の生き方が父なる神の御心にかなっているとの確信があられたゆえに(31節)、世の力である悪魔の力の支配下にはおられな かったゆえに(30節)、いかなる時にも信頼できる父なる神を知っておられたゆえに(28節c)、十字架の死はキリストにとって「父のもとに行く」ことに ほかならないことを知っておられたゆえに(28節b)、持っておられた平安です。
私たちは、キリストがお持ちであった平安を持っていません。キリストが「わたしの平和」と言われるものをいただく以外にないのです。十字架に死んで復活 されたキリストをまるごと信じ受け入れることによって、キリストの平安をそっくりそのまま「わたしの平安」とすることができるのです。

豊かに実を結ぶ(2014.1.19)

宣教:仁科 共子姉
聖書:ヨハネ15章1~12節

イエスさまは、ご自分をぶどうの木に、父なる神さまを農夫にたとえて、父なる神さまやイエスさまと私たちの関係、私たちの使命について教えておられます。

1.枝としてつながっていること
私たちは、木であるイエスさまに枝としてつながっている存在です。
つながっている関係は、本当に近い関係です。新改訳聖書は、「とどまりなさい」と訳しています。それは、一体となっている本当に親密な関係です。枝とし てしっかりイエスさまにつながり、その命によって生かされているとき、実が結ばれていくのです。それは、枝の努力によるものではありません。

2.実を結ぶ
実はその木によって生るものですが、実を結ぶことは、枝の果たすべき役割です。実を結ぶためには、木につながっていればよいのです。そうすれば、豊かに実を結ぶことができます。
枝だけでは実を結ぶことができないように、イエスさまから離れていては、私たちは何もできません(5節)。枝のようにイエスさまという木につながって生きていくとき、実を豊かに結ぶ生活を送ることができるのです。

3.父なる神さまが栄光をお受けになる
農夫が手入れし、世話をしたぶどうの木が豊かに実を結ぶとき、農夫の功績が讃えられます。そのように、イエスさまの枝である私たちに豊かな実が結ばれるとき、父なる神さまが栄光をお受けになるのです。
私たちが、枝として実を結ぶことが最終目標ではありません。豊かに結ばれた実によって、それを世話した農夫である父なる神さまの素晴らしさが現され、あがめられることです。
イエスさまにしっかりとつながり、豊かに実を結ばせていただいて、神さまが栄光をお受けになるような枝として日々歩ませていただきましょう。

神を知る者の歩み(2014.1.12)

宣教:鎌野直人 協力牧師
聖書:ホセア4章1~3節 申命記5章7節

新しい年を迎えるにあたり、幸運が来るように、と願う心情を私たちは持っている。

1.蒔いた種を刈り取る(4:3)
しかし、幸運ではなく、問題が襲いかかることがある。その時、「運が悪かった」とか「他の人が悪い」と考えがちである。預言者ホセアの時代、飢饉が訪れ た時、人々は同じように考え、神を責め、他の人を裁いた。しかし、ホセアは、イスラエルの人々の行動(4:1−2)に続いて、「それゆえ」(4:3)と述 べることによって、イスラエルが直面している問題の原因はその民自身にあると指摘した。自分の蒔いた種を刈り取るべき世界に私たちは生きている。そのこと に気づかせようとしている。

2.十戒:賜物としてのガイドライン(4:2)
それでは、問題が襲いかかった時、すべてが自分の責任なのだろうか。ホセアは、「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫・・・流血」が原因だと訴えた。これら は、十戒(申命記5:16−21)で禁じられている歩みである。ただし、十戒は人々に負わせられた戒律ではない。この世界で、うるわしく、調和をもって生 きていくためのガイドラインである。問題を自分から生み出さすことなく、この世界の歩むために、神は十戒をプレゼントとして与えられた。

3.神の土地に住む(4:1)
なぜ、十戒にはそんな力があるのだろうか。十戒を与えてくださった神がこの世界の主人、所有者であるからだ。その神の土地(世界)を借りて生きているの が人間である。所有者が与えてくれたガイドラインに従って生きるなら、当然、その土地でうるわしく、調和をもって生きることができる。「誠実、慈しみ、神 を知ること」が私たちをよい借地人にする。主だけを自分の主人とする歩みが幸福の秘訣である(申命記5:7)。
だからこそ、問題が降りかかってきたとき、ほんとうの主人を主人としているだろうか、と問いかける必要がある。そして、世界の所有者が与えてくれったガ イドラインに則って生きようと歩みを変えることである。その時、問題を生み出してきた「それゆえ」が、幸福を生み出す「それゆえ」に変わる。

目標をめざして

新しい年には、それぞれが何らかの目標をたててスタートすることでしょう。ゴールのないレースなど考えられないように、一年を目標なしに歩むというのもまた考えられことです。
ましてや、人生というレースに目標がはっきりしないとしたらどうでしょうか。そして、何を目標とし、その目標をどのへんに置いているかということは、さらに大事なことだと思うのです。

聖書に登場するパウロという人物が、『神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走るのです』と語っています。
私たちも、空しい生き方ではなく、永遠の目標を明確に持った人生を歩んでいきたいものです。イエス・キリストは、その道を開いてくださったのです。

神戸中央教会 牧師 川原﨑晃

家族を越えて(2014.1.5)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:マルコ3章31~35節 創世記26章23~25節

祝福の源である家族となるためには、イエス・キリストを家族の主としてお迎えすることが大切です。ここでは、主イエスとその家族との間に溝が生まれていることが語られていますが、何が真に祝福された家族であるかを問いかけているのです。

1.家族には限界がある
主イエスの母と兄弟たち家族は、「外に立」っています(31節、32節)。それに対して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(34節)とある 「ここに」とは、「イエスの周りに座っている」人々です(32節、34節)。「座っている」とは、そうすることで主イエスの御言葉に耳を傾けていたのです (ルカ10章42節参照)。ここに、主イエスは、深くて高い新しい家族の交わりがつくられているのを見ておられました(34~35節)。
このようにして、主イエスは、人がつくりだしている家族は究極的なものではないことを明らかにされたのでした。そうすることによって、家族には限界があることを教えておられるのです。

2.神の家族となる
それでは、私たちは、限界ある家族を越えてどこに向かっていけばよいのでしょうか。そこで主イエスは、神の御心を行う家族となることを勧めておられます (34~35節)。神の御心とは、家族の限界を知りつつ、神のあわれみ、神の赦しをいただいて、神のものとされていくことです。具体的には、親の立場、子 の立場、祖父母の立場、嫁や姑の立場で、家族を絶対化しないことです。また、家族に破れがあったとしても、主イエスとの絆で結ばれることの大切さを示し続 けることです。
そのことを証しした聖書人物の一人が、アブラハムの子イサクでした(創世記26章23~25節)。イサクは、アブラハムに示された神の祝福の約束を再確 認して、まず祭壇を築いて礼拝し、次に天幕を張って家族の生活を整え、そして井戸を掘って生活の糧を得たのです。この順序は、神の祝福を受け継いでいくた めに大切な信仰の応答です。神の御心を行う神の家族は、今も変わらずに私たちに求められています。

2015.1 行事予定

1日 元旦礼拝
4日 (第1聖日)礼拝 聖餐式 1月誕生者祝福
11日(第2聖日) 成人祝福礼拝 成人祝福式  役員会
18日(第3聖日) 礼拝 ダイヤモンド婚式・金婚式  教師研修4
25日(第4聖日)伝道礼拝  質問受付会  臨時役員会

(2月予定)
1日  (第1聖日)教会総会礼拝 聖餐式 2月誕生者祝福 教会総会(予算)
8日 (第2聖日) 礼拝 教会員の御言葉の学び5  役員会
15日(第3聖日)   礼拝 各会総会
25日(第4聖日)伝道礼拝

家族に祝福を(2014.1.1)

宣教: 川原﨑 晃 牧師
聖書:使徒言行録16章31節

今年、私たちの教会は、「祝福の源である家族」を標語に進んでいくように導かれています。私たちは、世界の礎である家族に祝福がもたらされるために、何を大切にしなければならないのでしょうか。

1.家族の大切さ
天地創造、世界の起源、創造の冠として人間を造られたことなど、壮大なスケールから始まる創世記が、その本論に入るとアブラハム家の物語に絞られ、その後の家族が全世界に祝福を及ぼす源となっていったことを語っています(創世記18章19節)。
また、主イエスは、家族を重く見ておられました。その十字架上で、母であるマリアのために配慮された事実にも(ヨハネ19章26~27節)、それを知るこ とができます。そして、パウロは、家族を顧みることの大切さを語っています(1テモテ5章8節)。聖書は意外なまでに家族を大切にしています。
私たちは、家族を大切にして、具体的にどのように家庭を作っているか、また作ろうとしているかが問われています。

2.家族が主の救いに与る大切さ
神の祝福の源である家族であるためには、主の救いに与り、天の喜びに息づく家族に変えられることが大切です。
人類は、その祖であるアダムとエバが神に背いたことによって、神の祝福を失いました。今もなお家族や家庭に見られる混乱や乱れのルーツは、ここにありま す。神の救いの御計画は、神と人との関係の回復だけではなく、それを起点とした人と人との回復、家族の救いを意図しておられます。
フィリピにあった牢の看守一家が、主イエスを信じ、全員洗礼を受けて、喜び溢れる家族になりました(使徒言行録16章16~34節)。彼らは、主イエスに人生の土台を置いて、主に信頼する歩みを始めたのです。
一人の人の救いの祝福は、その家族に及んでいく始まりとなります。私たちの一人一人と家族の「主」が、イエス・キリストなるように祈り願いましょう。

祝福の時と場(2013.12.29)

宣教題  : 「祝福の時と場」   宣教:   川原﨑 晃 牧師
聖    書  : 1テモテ 1章12〜17節

パウロは、自らの信仰の歩みを振り返りつつ、主イエスの恵みに対して深い感謝をしています(12節a)。それは、主の憐れみによって、自分が造り変えられ、造り変えられ続けている祝福の時と場を感謝しているのです。祝福の時と場とは、私たちにとってどのようなことなのでしょうか。

1.憐れみに与った時と場
主イエスは、罪人を救うために、世にまで来てくださいました(15節a)。パウロは、キリスト教撲滅運動の中心人物で、キリスト教会を潰し回った罪人でした(13節a)。しかし、主はそんなパウロを「憐れみ」、ご自身の救いに与らせてくださいました。
神は、パウロが「信じていないときに知らずに行った」ということも、罪は罪として死によって罰せられます。しかし、そうした知らないで行ったことも、主イエスの十字架による贖いによって赦しを与えていてくださるのです(ルカ23章34節)。それこそが、確かな十字架経験です。何という主の憐れみでしょう。
私たちは、この主の憐れみに与った時と場を忘れないようにすることが大切です。

2.憐れみを深く知る時と場
パウロに対する主イエスの恵みは変わることなく、それに信仰と愛が加わって強い確信に至っています(14節)。しかも、彼は、忠実な主の仕え人として主の働きに加わるものとされました(12節b)。そうした中にあっても、彼は、「わたしは、罪人の中で最たる者」との深まりゆく罪意識がありました。彼は、そんな自分を主が「憐れみ」続けていてくださることを深く知る経験をしていったのです。そして、彼は、主の憐れみと忍耐のゆえに、永遠の命に与る者とされる見本であることを告白し続けています(16節)。
私たちは、その信仰の歩みや姿勢また奉仕において、徹底して主の憐れみの見本であることを知って、いつも感謝したいものです。私たちは、主の憐れみなくして生きられないゆえに、主を讃えるのです(17節)。